雨宿り
横尾茂明:作

■ 雨宿り2

「あっ! いや…いやです、坊ちゃん…帰らないで!」

振り向くと淑子が今にも泣きそうな顔で立っていた…。

「………………」
「ご両親の留守に上がり込んで…これ以上のお邪魔は…」

「坊ちゃんはなにも知らない…」
「お母さんに逢ってはいけないお人と言われ…どんなに苦しんだか…」
「毎日毎日泣いていました…坊ちゃんに死ぬほど逢いたかったのに…」

「日曜のたび…一高の寮の垣根越しから坊ちゃんの部屋を見ていました…」
「朝から灯がともるまで…」
「姿の見えなかった日は…泣いて帰りました…」

「あの日から…坊ちゃんだけをお慕いして生きてきました…それなのに坊ちゃんは私のことは何も知らない…」

「今日は神様が坊ちゃんと私を巡り合わせてくれたと…先ほどまで神様に感謝していました…でも坊ちゃんは何事もなかったように帰ろうとしてます…」
「残酷です…坊ちゃんは残酷な人です…私の想いを知ってるくせに…知ってるくせに…」

「なぜ私をあの時のように…抱いてくれないんですか!」

(…………)

「淑ちゃん…ゴメン…君がそれほど一途に俺のことを想ってくれていたなんて…しらなかった…しかし俺だって淑ちゃんのことを忘れたことなんかない…」

「でも俺は…召集を受けた身…」
「来年早々には旅順の海軍予備学生教育部に行かなければならないんだ…」

「今の情勢…俺…生きて帰れるとは思えないんだ…」
「そんな俺が今…君を抱いてしまったら…」

「どうかもう俺のことは今日を限りに忘れて下さい…」

「…………………」

「坊ちゃんが旅順に…知りませんでした…」

「坊ちゃんが死ぬ…」
「いやです…坊ちゃんが死ぬなんて絶対イヤ」
「坊ちゃんがこの世にいなくなったら…私も生きてはいられない…」
「………………」

「淑ちゃん…」
「ごめん…ごめんよ淑ちゃん…こんなに君を苦しめてたなんて…知らなかったんだ」

「絶対生きて帰ってくるよ! こんな俺でも待っててくれるのかい?」

「はい…坊ちゃん! あぁ嬉しい」

一郎は淑子を抱きしめた…涙が次から次に湧いてくる…。
想えばきょうまでいつも淑子のことを想ってた…時折何気なく「淑子…」と口につぶやくことも暫しだった…。

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