母はアイドル
木暮香瑠:作

■ 秘密の代償1

「昨日のことは……忘れて……。ねっ、忘れよっ」
 今朝、耕平と顔を合わしての、まさみの第一声だった。耕平は、まさみに合わす顔が無い。視線を落とし顔を背ける。
「先生に知られたくないから……。知られたら……」
 耕平の背中に、まさみの声が重く圧し掛かる。まさみの口調に、知られることへの不安が滲んでいる。知られたらこの家にいられなくなる、そのことだけは避けたい、まさみはそう言いたかったのだろう。耕平は、途中で言い止めた言葉に、まさみの切なる願いを察した。

 重い空気が漂う中、口を開いたのはまたもまさみだった。
「耕平君……。昨日、ママって言ったよね。わたしのこと……」
 昨夜の出来事は、まさみに大きな傷を残したが、「ママ」と言った耕平の言葉にまさみは僅かな明かりを見つけていた。この家に残れる希望があるような気がしていた。
「おれ、何か言った?」
 記憶に無いことを言われ、耕平は思いを巡らせた。無意識に出た言葉は、耕平の記憶の中には残っていなかった。
「ママって言った! 確かにママって言ったよ、わたしのこと……」
 まさみは、耕平が呆けていると思いむきになって言った。しかし、耕平から返事は戻ってこなかった。

 まさみは、耕平が覚えていなかったことに寂しくなり、ポツリポツリと喋る。
「ママって言ってくれた……。わたしのこと、ママって呼んでくれた。わたし、耕平君のママになっていいのよね? この家にいていいのね? わたし……」
 耕平も、まさみの背中に母親の面影を見たことははっきりと覚えている。今度は守らなくちゃ……、そんな気持ちが耕平の心の奥深くに湧いてくる。十二年前、泣いている母に何も言えなかった、何も手助けができなかった、当時六歳の子供にも後悔の念が芽生えていたのかも知れない。
「言ったかもナ」
 耕平は照れを隠すように、まさみの顔を見ないまま答えた。

「ねえ、もう一度呼んで……」
 まさみは、ここにいて良い確証を求めて耕平に求めた。まさみの気持ちを察した耕平は、口を開いた。
「……」
 しかし言葉が出てこない。母親は、十二年前に死んだ母親しか認めたくない気持ちが残っている。それに、今、まさみを母親だと認めたら……。何だか判らないが、母親と認めちゃいけない気がする。
「名前じゃあ、だめか? 名前でなら……呼べ……そう……だ」
「じゃあ、名前で呼んでみて!」
 まさみは、少し不満げに口を尖らせる。
「ま、ま……さみ」
 耕平の口から、初めて名前で呼ばれた。今まで、『おまえ』とか『こいつ』しか呼ばれていなかったまさみは、それだけで嬉しかった。
「ありがとう」
 まさみの大きな瞳が、涙で潤む。

 まさみの涙は、耕平の心も打つ。昨日、自分の犯した罪が罪悪感を募らせる。
「まさみは忘れられるのか? 昨日の……こと……」
「忘れるわ。この家にいられるのなら……」
 耕平の問いに、まさみはあっさりと言う。しかしその言葉には、まさみの強い決意が感じられる。
「そうか……。おれ……」
 耕平には忘れられそうにない深い罪だった。言葉が詰まる。
「忘れよう。わたしはもう忘れた……」
 忘れられるはずは無いことを、忘れようと自分に言い聞かすように言った。

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