古豪野球部、エースは女子?
でるた:作

■ 5

 卓の足取りは重かった。まるで真鍮の足枷を引き摺っているかのようだ。もちろんそれは実景ではなく、空疎な比喩に過ぎないが、卓が李子の才質に衝撃を受けてしょ気返っているのは事実のようだ。それもそのはず。かつて卓は、ベースボールマニア雑誌「野球こわっぱ」の特集「中学のシニア、ボーイズ、軟式の厳選逸材60」の欄で同学年60人の逸材と肩を並べる好投手として紹介されていたからである。富士宮中学時代は、古豪豊水高校きっての逸材になると蠣崎に太鼓判を捺されたが、今ではそれがリップサービスに思える。
「どうした? 倉持」
 蠣崎に声を掛けられて、卓ははっと気が付いた。いつの間にか、蠣崎の手前まで歩いてきたようだ。
「何か手伝えることはありませんか?」
 それは、蠣崎を前にして咄嗟に卓の口を突いて出てきた言葉だった。卓の行為は、瑣末な点取りに過ぎなかった。それをもし蔑視されるようなことがあれば、少なくとも自他共に逸材と認める卓のプライドが許容できるはずがない。しかし、卓はそれを厭う毫末の逡巡さえ見せなかった。思えば実力者の卓は、高校野球において監督や部長に対する阿諛とは無縁のはずだった。現段階で李子に劣るとはいえ、彼が豊水高校指折りの逸材であることに変わりはないからだ。いや、むしろ彼の行動は逆にプライドの高さのあらわれなのかもしれない。卓は単にレギュラーをとりたいのではない、豊水高校野球部不動の絶対的エースでありたいという願望を抱いているのだ。能力に勝る李子を押し退けてまで。
「お前は休んでいていいんだぞ」
 蠣崎は弛緩したシラフで、卓を見た。しかし卓の強い眼差しから、ことに対す拘泥を悟るとみだりに入用ではないと言葉を発すことは憚られた。
 蠣崎は眉間に皺を寄せ、ザラザラしていそうな肌触りの顎を右手の掌で撫でるように何やら考える仕種を見せた。そんな時、スピードガンを手からぶら下げた長身の部員が声をあげた。
「監督。そろそろ、堂島さん達を呼んできた方がよくないですか?」
 蠣崎は気付いたように素早く部員に視線を奔らせた。
「堂島と波多か。いいだろう」
 蠣崎は卓に振り向いた。
「倉持。奴らを連れてこい。
案内は田淵でいいだろう」
 すると先程蠣崎に呼び掛けた部員が、卓に駆け寄ってきた。部員は、息一つ乱さずに肩を竦ませた。
「さっきの投球、すごかったぜ。一年の田淵謙作だ」
 田淵は自己紹介すると、グランドの西側に顎を振り向けてシグナルを送った。
「部室に案内するよ」
 田淵に先導されて、卓は校舎をグランドから遮蔽したバックネットのつなぎ目を潜り抜けた。すると校舎とグランドに挟まれた通路に入り、バックネットに沿って右に進む。左手に続いている校舎の壁が途切れると、その先は開けた道なっており、そこにプレハブの木造二階建てアパートのような建物がある。
「ここが部室棟だ」
 田淵が呟いて、建物に向って歩いていく。建物には東側と西側にそれぞれ一つずつ階段が設けられており、田淵はそばにある東側の階段をのぼっていった。階段をのぼりきると田淵は西側に向って通路を進んだ。卓はその背中に導かれる。二階の直線通路には錆び付いた鉄の欄干がつけられており、向かい合うようにして数室の部屋が設置されている。紺碧のペンキが塗られた玄関の扉には、赤茶色の錆がこびり付いている。扉の脇には、文字の刻まれた表札がある。そこには部活名が彫りこまれている。階段口から二、三枚の扉を通り越した際、進行方向すぐ手前の扉の脇にある表札には、「硬式野球部」と書かれていた。しかし田淵はそれをも通り過ぎていく。不思議に思いながらも、卓は田淵の後についていった。そして、もう二枚扉を過ぎた地点に差し掛かって、田淵は歩みを止めた。卓は田淵が立ち止まったすぐ横の扉が部室の入口かもしれないと思った。案の定、田淵は扉の前に身体を捻って向けた。しかし扉の表札には文字らしきものは見当たらない。
「ついたぞ」
 田淵は独り言のように呟くと、ドアノブを回した。扉は引き摺るような軋んだ音をたて、その先っちょが開いた。

「入れよ」
 田淵に促され、扉の前に卓は進んだ。扉の前までいくと、開きかけた扉のドアノブに手を掛けてゆるゆると右側に押しやる。ぎぎめく扉の間隙から部屋の淀んだ空気がゆるりと外に向けて動き出した。その時、急に不快な臭気が漂ってきた。きつい香水のような臭気だ。ただ単一の臭いではなく、いくつかの臭いが混ざり合ったように感じられた。
 卓は思わず顔をしかめ、力んで扉を全開までおいやった。すると次の瞬間、卓は眼前にした光景に喫驚した。
 カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、複数の人影が蠢いていた。脱色して蒲色なったライオンの鬣のような髪型をした男が、身を低く屈めた体勢で、筋肉質の裸体を晒して齷齪と動いている。鬣のような長髪がばさばさ揺れた。汗が鈍い光をこぼしながら、胸筋の輪郭に沿って、すうっと滴った。注視するまでもなく、その男の下には男の動作に付随するように床に寝そべった女の裸体が波打っていた。戸惑う卓を、ライオンの髪をした男がさっと振り向いた。男の目は釣り上がっており、それはかつえる野獣のような鋭い眼光を発していた。
「誰だ? てめえは」
 男はおもむろにそう言って、女から身体を引き剥がすように立ち上がった。その反動に女が「あん」と唸って、表情を歪ませる。女は全身をうねらせて荒々しい息を整えていた。
直立した男の背丈は190cmに届こうかというところ。男はまさに一糸纏わずの姿で、足許の女から抜き取ったであろう勃起した逸物を隠す素振りさえ見せなかった。陰茎の付け根にはふさふさと陰毛が茂っている。
「おい」
 男が発したドスの利いた声に、浮遊していた卓の視線は否応なく男の顔に釘付けとなる。瞳を小刻みに揺らしながら卓が硬直していると、田淵が卓の背後に歩いていった。田淵が卓の肩越しから堂島に向けて顔を覗かせた。
「堂島さん。監督が呼んでいます」
 田淵の掛けた言葉に、堂島昭良(どうじま あきよし)の表情は何一つ刺激を受けていないように無反応だった。すると、くっくっと堂島の背後、部屋の奥まったところで押し殺したように含み笑う声が聞こえてきた。

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