狂牙
MIN:作

■ 第3章 転換の兆し16

 玄関の扉を開けると、由梨の耳にジムの狂ったような吼え声が聞こえ、内心で舌打ちする。
 門扉に目を向けると、こわばった顔でジムを見詰める、川原が居た。
「ジム、待て!」
 由梨が短くジムに命令すると、ジムは敵意むき出しのまま、地面に伏せて喉奥で[グルルルッ]と唸る。
「ジム、ハウス!」
 由梨が命令すると、ジムはそのまま立ち上がり、川原を睨みつつ中庭に向かって行った。
 中庭に向かうジムの姿を由梨は、ジッと見ていた。
 その瞳に浮かぶ色を本人は、抑えていたつもりだったが、直前にリビングで浮かべて居た物と比較してのものだ。
 実際川原の目に映った、由梨の表情は、その背筋を凍らせるのに十分なほど、冷酷だった。

 由梨は川原に向き直り、ニッコリ微笑むと
「どういったご用件でしょうか?」
 家政婦としての声で、川原に問いかける。
「あ、あっ、これ、回覧板です…」
 川原は、由梨の顔を見詰めながら、引きつった声で回覧板を差し出す。
(な、何だ…、さっきの目…。こんな女の子が、なんて目をするんだ…。殺されるかと思った…)
 川原は心底震えながら、由梨に挨拶して踵を返す。
(ん〜っ? 何びびってんだろ…、ジムに怯えたのかな…。それにしても、あの馬鹿犬…。もう良いかな〜…)
 由梨は受け取った回覧板を片手に、玄関を潜った。

◆◆◆◆◆

 その日の夜葛西孝司は、上機嫌でテーブルに座っていた。
 啓一と晶子が揃ってテーブルに着いていた事も有るが、最近ダイエットを理由に同じ食卓に着かなかった、毬恵までも夕食を共にしたからだ。
 孝司を中心に、毬恵、啓一、晶子、そして由梨の5人が、楽しげに話す中、孝司は晩酌を煽る。
「はははっ、そうか、晶子はもう合格圏内に入ったか。啓一の時は、今時分はまだ、70%をウロチョロしてたぞ」
 晶子が楽しげに、偽の模試結果を孝司に見せて、学校の勉強が順調だとアピールしていた。
「もう、あなた、そんな言い方したら、啓一が可愛そうじゃないですか…。啓一も頑張ってるんですから」
 毬恵が眉根に皺を寄せて、啓一を擁護し、孝司の言い方を指摘する。
「母さん、僕は大丈夫だよ。ようは、ラストスパートで、合格して。入学した後に何を為すかだからさ」
 啓一が、笑い飛ばしながら、余裕の発言をすると
「うん、そうだな。そう言う、結果を出して、前向きに次のステップに進むところが、啓一のいい所だ」
 孝司は大きく頷いて、啓一の言葉を褒めた。

 孝司は楽しげに、グラスを煽り杯を重ねてゆく。
 5杯目を由梨に差し出した時、毬恵が孝司を制止して
「もう、あなた。飲みすぎですわ…。今夜は、もうおよしになって下さい…」
 心配そうな顔を孝司に向けた。
 孝司は毬恵の潤んだ目を見て、一瞬息を呑み
「お、おお…。そうだな…明日も仕事だし、今日はここら辺で、止めて置くかな」
 あたふたと、グラスを置いて椅子から立ち上がる。
「父さんは、先に風呂に入る。お前達も早く入って、今日は早めに寝なさい」
 啓一たちに告げて、浴室に向かった。

 孝司が立ち去ると、スッと3人が立ち上がり、毬恵はテーブルの上を片付け、啓一と晶子が床に平伏する。
 由梨が椅子に腰掛けると
「いい感じだったわよお前達。あの馬鹿、全く気付いてないわ」
 毬恵達の演技を褒めた。
「有難う御座います」
 3人は声を揃えて感謝を示すと
「毬恵、お前は今晩抱かせて上げなさい。そして、寝入りばなに催眠ガスを使うのよ…」
 由梨は毬恵に指示を飛ばす。
 毬恵は、一瞬ピクリと反応したが、由梨の命令に
「畏まりました」
 洗い物をしながら、深々と頭を下げる。
 毬恵はこの時、みなと同じ人の食べ物を採った事と今の指示で、今夜起きる事を予想したのかもしれない。
 だが、由梨に染め上げられた毬恵には、その事に異を唱えるなど、出来る筈も無かった。

◆◆◆◆◆

 時刻は、深夜の2時を少し回っていた。
 辺りは寝静まり、どの家にからも明かりが消えて久しい。
 由梨、毬恵、啓一、晶子の4人は中庭に佇んでいる。
 4人の真ん中には、飼い犬のジムが異様な雰囲気に、怯えきっていた。
 無表情でジムを見下ろしていた4人だが、由梨がボソボソと呟き始める。
「この子は、もう十分役に立ったわ。だけど、今はもう要らなくなった。廃棄処分決定よ」
 由梨の言葉に、3人はコクリと頷きスッとしゃがみ込む。
「ジム、お別れね…。あなたは、由梨様の役に立って、その役目を全うしたの…」
 ジムの顔を優しく両手で挟み込み、毬恵が鼻先に口吻して優しく告げる。
「ジム、お前は良くやった。最後のお役目だ」
 啓一がジムの腰を抱き、背中を優しく撫でた。
「ジム、最後まで、お姉さまの役に立てるなんて、羨ましいわ…」
 晶子がジムの背中に被さり頬ずりして、撫で擦る。

 ジムは[ク〜ン、ク〜ン]と悲しそうな目で、4人を交互に見詰め、ブルブルと震えていた。
「さあ、引導はお前が渡してあげなさい。お前が一番可愛がってたんでしょ」
 由梨は毬恵にそう告げながら、ニッコリ微笑んでスレッジハンマーを手渡す。
「はい、由梨様。生まれたばかりの幼犬から、子供のように可愛がって参りました。今では、息子と変わりません…」
 毬恵は由梨からハンマーを受け取り、頷いてジムに視線を向ける。
 ジムはその時既に、啓一と晶子の手によって、地面に四肢を拡げ身動きすら出来無く成っていた。
「さあ、ママ。これで、ママも私と同じになれるのよ。お兄ちゃんの管理者。お姉さまの奴隷に…」
 晶子はジムの肩口を押さえ込み、前足を両足で押さえて、毬恵に微笑みかける。
「母さん。僕をどんな風にでも使って。僕は、身体の全てで、母さんの希望を叶えるから」
 啓一が潤んだ視線で、毬恵を見詰めながら告げる。

 悪魔の囁きだった。
 毬恵に取って、実の子供のように可愛がって来たジムを、毬恵の手で廃棄処分にする。
 だが、毬恵の逡巡は一瞬だった。
 重い5kgのスレッジハンマーを頭の上に高々と振り上げると、一息で真下に叩きつける。
[パギャン]と言う、水分の詰まった陶器が割れるような音と、[キャヒィーーーン]と言う、高い犬の鳴き声が響く。
 毬恵の一撃は、真上からジムの頭蓋骨に命中し、辺りに血と脳漿を撒き散らした。
 晶子と啓一の股の下で、ジムの身体がビクビクと痙攣し、断末魔を知らせる。
 振り下ろした姿勢のままの毬恵の、右目からポロリと一滴の涙が落ちた。
 それは、唯一残った毬恵の人間性の証かもしれない。

 だが、悪魔はそんな僅かな人間性すら許さないのか、晶子と啓一に目配せすると、2人は音も無く立ち上がる。
「毬恵…、一撃でこの子が死ぬなんて、変な話じゃない? この子だったら、20発は殴られて、止めを刺されなきゃ、こんな風には成らないわ…」
 由梨は毬恵の身体に抱きつき、そっと耳元に囁いた。
 無言でコクリと頷く毬恵は、両手に力を込めハンマーを持ち上げる。
 そして、そのまま機械的にハンマーを振り下ろす。
[グチュ]柔らかな肉を、硬く重いものが叩く音とゾワリと背筋の産毛が逆立つような感触が、柄から伝わってくる。
 しかし、毬恵は無表情のまま、ハンマーを持ち上げては振り下ろし、振り下ろしては持ち上げる。
 10回以上繰り返される毬恵の動きに、ジムの屍の骨は砕け、皮膚は裂けて、ただの肉塊に変わって行った。

 虚ろな表情でハンマーを持ち上げようとする、毬恵の手を由梨がソッと手で押さえ。
「もう良いわ、啓一、晶子…、指示通りよ…」
 由梨が2人に指示を出すと、晶子はハンマーを受け取って水道に、啓一はそのまま家の中に消えて行った。
 晶子は綺麗に洗い終わった、ハンマーを納屋に戻し、元ジムだった肉塊に縋り付く。
「お前も、抱きしめて泣きなさい。[誰が、こんな事したの]ってね…」
 毬恵の耳元に静かに囁いた。
 由梨の囁きで、毬恵の膝がカクリと折れ、ジムの死骸に覆いかぶさると、毬恵はグズグズに崩れたジムの頭部を胸に掻き抱き、大声で泣き始めた。
 その泣き声は、心の叫びなのか、由梨の命令なのか、それは、毬恵にすら解らなかった。

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