夢魔
MIN:作

■ 第20章 恋慕2

 トイレ前の廊下に踞る、絵美の肩を男の手が、ポンと叩く。
 絵美は驚きながら振り返ると、柏木が不思議そうな顔で、絵美を覗き込んでいる。
 絵美は状況が解らず、辺りを見渡し純の姿を探すが、何処にも見あたらない。
「お嬢さん、こんな所で踞って泣かれると、病院としても困るんですがね」
 柏木は嫌味ったらしく絵美に告げ、ニヤニヤと絵美の身体を見下ろし、睨め上げるように見詰める。
 その舐めるような視線に、絵美は嫌悪感を感じながら、身体を起こし柏木を睨み付けた。
 柏木は絵美の視線を軽くかわして、右手に持った紙をヒラヒラとさせ、絵美の前に突き出す。
「取り敢えず、会計で今までの分の医療費を計算して貰いました。これさえ払って頂いたら、妹さんは直ぐに帰って貰っても結構ですよ」
 そう言って、両手で請求書を拡げ、絵美の眼前に晒す。
 絵美はその金額を見て、驚愕した。
(一晩の入院と検査で、37万円! 何この金額!)
 勿論、有り得ない金額ではないが、金田の経営する病院では、それこそ有り得なかった。
 柏木の嫌がらせと思惑が、かなり含まれている。
(はははっ! 俺を脅した罰だ! 精々悩んで、金を捻出しろ。この貧乏人が!)
 柏木が心の中で、大笑いしていると絵美がその手を伸ばし、請求書を引ったくろうとした。

 柏木はその瞬間、請求書を持った手を引き上げ、絵美の手の届かない位置まで移動させる。
 絵美はこの時の、柏木の心の色の移り変わりを見逃さない。
(淀んだ悪意の黒茶と猜疑の暗紫色…それに、焦りの青緑色…。この人嘘を吐いてる…)
 絵美は柏木からパッと離れ、大きく息を吐いてジッと見詰める。
 柏木は絵美の目線を受けながら、その心の中で焦り始めた。
(何だ? このガキ…妙な目で人を見てやがる…。まさか、この請求書が偽物だって気付いたのか…)
 柏木が絵美を見下ろしていると、絵美はスッと手を伸ばし
「それを貰わないと、私はお金を払えません…。請求書ってそう言う物でしょ?」
 落ち着いた声で、柏木に言った。

 その声に、柏木がだじろぎ始める。
(このガキ…急に冷静に成りやがった…。騙して、一発やれるかと思ったが、このままじゃヤバイ…)
 柏木は急に態度を変え
「う、うん…ちょっと待ってなさい…。この金額はおかしい…もう一度会計に問い合わせてみよう…」
 ブツブツと言いながら、絵美に背を向け足早にその場を離れ始める。
 絵美は柏木の邪な欲望の変化も、見逃していない。
(この男も身体が目当てなの…、みんなそう…。私に近付く男は…。みんなそうよ)
 絵美がキッと睨み付けて声を掛けた時には、柏木は脱兎の如く逃げ出していた。

 柏木の消えた通路を見詰め、現実問題が絵美の頭の中に起こる。
(純君! お金を貸してくれるって言ってたけど、どうしよう…。今のまんまじゃ会い辛いし…)
 絵美はチラリと電話ボックスに目をやり、大きく溜息を吐く。
 絵美はそのまま仕方なく、1階の受付に行き、希美の入院費を尋ねる。
 受付が待つように指示を出すと、絵美は項垂れたまま、待合室で待機した。
 名前を呼ばれ立ち上がり、会計で金額を聞くと、先程柏木に知らされた金額より、遙かに低い金額が請求される。
 だが、今の絵美には、その金額すら払えなかった。
 ガックリと肩を落とし、会計に[お金を下ろしてきます]と告げ、ATMに足を向ける。
 しかし、その銀行にも、お金が入っている筈はなかった。

 かろうじて、望みを繋げられるのは、コンビニの給料が入っている事だけだったが、それも辞めたのは昨日の今日で望み薄だった。
(はぁ…一般病棟に移っても…お金がかかるのは、同じ…日を追う毎に、料金がかさんで行く…)
 絵美は暗い気持ちで、ATMを操作する。
 絵美がATMの残高照会をし、表示された金額を見て固まった。
(ま、待って…何? これ…一、十、百、千、万、十万、百万…ちょ、ちょっと待って…桁が1、2、3、4、5、6…7…? どうして?)
 絵美の給料の口座には、百万円を超える金額が入っていたのだ。

 絵美の口座の中には1,034,327と数字が並んでいた。
 絵美の頭の中には、端数の34,327しか無かったのだが、百万円増えている。
 その時、絵美の頭の中に純の声が響く。
 [僕の大切な友達の為に使えるんなら、お願いだから使わせて!]純の言葉は何度も絵美の頭の中でこだまする。
(ばか…ばか…馬鹿、馬鹿、馬鹿! 純君の馬鹿! こんな事されたら、離れられないじゃない…。お金…返せるわけ無いじゃない…。それまで、ずっと…こんな気持ちで居なきゃ…いけ無いの…? 貴男の側で…)
 絵美はATMのガラスブースの中で泣き崩れる。

 自分の犯した過ちで、距離を作ってしまった、初めて意識した男性。
 限りない優しさと、自分に差し伸べる手を握れない歯がゆさが、絵美の心を締め付ける。
 しかも、その距離は絵美にとって、決して離れる事を許さない契約を伴っていた。
 絵美にとって、金銭的な契約は決して破ってはいけない物だった。
 それを破る事は、今まで自分が行っていた生活、守ってきたルール、それを全て否定するからだ。
 絵美は純の顔を思い浮かべながら、ATMのボタンを操作する。

 絵美はボタンを一つ押す毎に、心の中で[馬鹿]と呟く。
(純君の馬鹿…純君の馬鹿…純君の馬鹿…純君の馬鹿…純君の…馬鹿…絵美の…大馬鹿…)
 絵美は泣きながら、会計に示された金額を押し、お金を受け取る。
 ATMで号泣する女子高生を、待合室の患者達が奇異の目で見詰めるが、絵美には関係なかった。
 絵美は項垂れながら、会計に行き精算を始める。
 その絵美の頭の中に、有る一つの言葉が浮かぶ。

 それは、絵美自身が嫌悪していた事だが、絵美にとっては最も短絡的な考えだった。
(いっそ純君が、あいつらみたいに、私を抱いてくれた方が…私の身体を求めてくれた方が、どれだけ楽か解らない…。純君もあいつらと同じ、身体が目当てだったら…)
 その考えを思い浮かべた時、絵美の中にゾクリと走る物があった。
(どうして、純君は違うって言えるの…。私の身体が目当てじゃないって…どうして言えるの…)
 柏木の行った行為は、交渉まで行かなかった物の、金銭と身体の関係を意識させるには充分だった。
(そうよ…男はみんなそう…。だって、こんな何も無い私にお金を出すなんて…、絶対に有り得ない物…。純君もきっとそうなのよ…)
 絵美はフラフラと人気の無い階段室に進み、自分の肩を抱きしめ声を殺して泣き始める。
 絵美の心はそう思い込まなければ、潰れそうに成っていた。

 純の優しさや思いやりに、強く惹かれる絵美。
 だが絵美は、自分がした行為を忘れられない。
 生活のために処女を金に換え、家族のために人間を捨て、その場しのぎに身体を売った。
 絵美はそんな自分が、忘れられなかった。
 純の言う信頼や思いやりの感情は、今の絵美には辛すぎた。
 純の優しさや思いやりの側にいれば、自分は必ず純に寄り添ってしまう。
 そうなれば、自分のした事を激しく後悔する日が必ずやって来て、その後悔は絶対に消えないのだ。

 絵美はそれが、永遠に続くことが、堪らなく恐かったのだ。
 純が絵美の身体だけを求めてくれれば、絵美は少なくとも純の側に居られると思った。
 愛情を注がれ、自分が後悔に苛まれるより、ただ身体を求められ、側に居続けられる方が絵美には望ましかったのだ。
 だが、絵美の経験がそれを許さない事を、絵美は気付いていない。
 絵美がされた事は、普通の女子高生には自殺レベルの陵辱だった。
 ねじ曲げられた、絵美のSEX観は、絵美をドンドン追いつめる。

■つづき

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