夢魔
MIN:作

■ 第20章 恋慕12

 絵美はその言葉を聞きながら、何か無性に腹が立って来た。
 勿論それは理不尽な怒りである。
 ましてや、恩を返そうと呼び出した相手に、絶対に向けるべき物ではない。
 だが、一度生まれた感情は、驚くべき速度で絵美の心を満たした。
「んもう! 何よ! 人がスッゴク悩んで、悩んで、悩み抜いた事なのに! 話しが終わっちゃったじゃない!」
 ダーンと机を叩き、真っ赤な顔で絵美は純に噛みついた。
 そのままの勢いで、テーブルを回り込み
「私にとって100万円は、見た事もない大金なの! そんな大金を何も言わずに貸してくれた、純君に私はスッゴク感謝してるの! 私は私の出来る事で、それを純君に示したいと思ってるの!」
 純に躙り寄りながら捲し立てる。
 純は何故自分が怒られているのか解らず、ジリジリと逃げ始める。

 絵美はそんな純に、更に詰め寄りながら
「逃げない!」
 と純の動きを止めさせ、腰に手を当て胸を反らし、その身体を正面から純に晒し
「それが、これなの! 私に出来て感謝を示せる物って、私にはこれしかないの! だから、私を見て欲しいの…見て欲しいのに…純君…ふえぇ〜〜〜ん」
 捲し立てながら、どんどんトーンダウンし最後には泣き出した。
 絵美の緊張の糸が、プッツリと切れてしまったのだ。
 絵美は床にペタンと座り込み、子供のように泣き続ける。

 純は絵美の変化に驚きながら、その心中を察した。
(絵美ちゃん…そんなに悩んでたんだね…僕は馬鹿だな…良かれと思ってやったのに、こんなにも悩ませちゃってたんだ…ゴメンね…)
 純はソッと絵美に近づき、静かに絵美に話し掛ける。
「絵美ちゃん…ゴメンね…。僕全然絵美ちゃんの事考えてなかった…。絵美ちゃんの気持ちは嬉しいけど、お金を貸した変わりに、絵美ちゃんの身体をどうにかするなんて、僕には出来ないよ…。それじゃ売春みたいだよ…」
 純が不用意に言った言葉が、絵美を急速に醒めさせる。
(売春…違う…これは、違うの…お礼よ…。いや、いや…違う…違うの…)
 必死にその事実から目を背けようとしていた絵美を、もう1人の絵美が追いつめる。
(嘘…解ってた筈よ…お金の対価に身体を投げ出すのが、売春だって…私の身体は知っているでしょ…)
 頭の奥から、残酷な言葉を投げ掛けた。

 絵美は泣くのを止め、いつの間にか身体が、ブルブルと震え始める。
 純は震え始めた絵美を優しく抱きしめ。
「僕は絵美ちゃんに、そんな事をさせて、汚させたくないんだ…。穢したくないんだ…」
 優しく囁く。
 その優しい囁きに、絵美の顔は、見る見る引きつり始める
(いや…純君…止めて…それ以上言わないで…私は、もう穢れてる…汚れてるの…だから、優しくしないで…)
 絵美の身体の震えが、どんどん強くなって行く。
「僕は側に居るだけで、嬉しいよ…僕は絵美ちゃんが、明るく笑っているのを見ると、取っても気持ち良くなる…」
 純の言葉は優しく絵美の心に降り注ぎ、絵美の心を責め苛んでゆく。
(いや…いや…止めて…止めて! もう許して…)
 絵美の心は悲鳴を上げるが、身体は金縛りのように動かない。

 そして、純は絵美が一番言って欲しくない、一番聞きたい言葉を言った。
「僕は、絵美ちゃんが大好きなんだ…。大好きな女の子の笑顔を見たいのは、誰でもそうでしょ?」
 純が優しく問い掛ける。
(いや〜〜〜〜〜〜〜っ! 言わないで! 聞きたくなかった! 知りたくなかった! 私どうすれば良いの? 私応えられない…純君の心に、応えられない! もう遅いの…もう無理なのよ…)
 絵美は純の腕の中で、低く嗚咽を漏らし始めた。
(私は…淫乱で変態の露出狂…卑しい穢れた売春婦…何をされてもお金で全て片が付く、変態マゾの奴隷売春婦なの…純君みたいな人の優しい心に、応える事なんて出来ないの…)
 絵美の心は、今日一番の大打撃を受けた。

 クラクラと目眩さえ覚える、純の優しい言葉に絵美の心は粉々に砕かれた。
 そんな中、絵美の頭の奥から、言葉が沸き上がる。
(それがどうしたの…純君は知らないわ…私が売春してたなんて…。それとも、私は捨てられるの…この幸せを…この幸運を…今まで、散々酷い目に合いながら生きてきて、初めて手にした幸せよ…それを捨てるの…)
 ドキリとする程、甘い誘惑の言葉。
 だが、それに対して、直ぐに打ち消す言葉が沸き上がる。
(駄目よ! こんなに優しくしてくれている人を騙すの…それに、今日気付いたでしょ…私の本性…。それを純君に隠し通せるの…? 純君に理解して貰えると思ってるの…?)
 絵美はその言葉にギクリとする。

 絵美は2人の自分の声の間で、ユラユラ揺れ動いていた。
 自分が売春して、見も知らぬ他人の小便まで飲んだ事を隠し通せるのか。
 自分が主婦達に言われたとおりの人間である事を、大好きになった純に晒せるのか。
 揺れ動く2つの答えの中で、絵美は決断する。
(ご免なさい…でも、純君の側に居たいの…)
 絵美は良心に詫びながら、前者を選んでしまう。
 良心を箱に閉じこめ、固く蓋をして、甘美な欲望に従った。
 純の存在は、今の絵美には無くては成らない物になっていたのだ。

 しかし、絵美に優しい言葉を掛ける純にも、実は思惑があった。
 純は絵美が身体を投げ出すといった時、肌を合わせる関係になる事を畏れていた。
 それは、自分の病気が他人にバレてしまう、一番の原因だからであった。
 精神分裂系多重人格症。
 いわゆる精神病の一種で有り、それを知った時に向けられる視線の変化は、純を畏れさせるには、充分すぎる冷たさを持っている。
(絵美ちゃんには、絶対に知られたくない…。絵美ちゃんの目が冷たく蔑むように変わるなんて、僕には耐えられない…)
 純は絵美と距離を取らず、踏み込んで来る事も拒絶し、一定の距離を保つ。
 それが、どれ程身勝手な考えでも、純にはそうするほか無かった。
 自分の心の弱さを直視できない、純に出来る精一杯の方法だったのである。
 純もまた良心に詫びながら、安寧の道を選んでいた。
 こうして、欺瞞に満ちた2人の恋愛が始まる。

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