「脱ぎなさい」「はい……」
ドロップアウター:作

■ お母さん……1

「お母さん……」
 教室を出る時、自然とつぶやいていた。ふと、母のことが頭に浮かんだ。
 入院して、もう一ヶ月になる。明後日、二回目の手術を控えていた。体力を消耗させるといけないから、ここ一週間くらい連絡も絶っている。でも、会いたい……
 四月の終わり、二人でお風呂に入った。母が入院する前日のことだった。
 お互いの背中を流して、湯船に一緒につかった。しばらく何も言わなかったけれど……数分経って、「お母さん、明日から入院するの」と告げられた。
 湯船から出てシャワーを浴びながら、わたしは母の前で泣いた。やせた腕や背中が痛々しくて、涙をこらえることができなかった。もう二度と会えなくなる気がして、背筋が寒くなった。
 転校する直前、わたしは習い事を全部やめた。日舞と書道、両方とも……五歳の頃から続けてきたけれど、もうできないと思った。入院費とかお金のこともあるけれど、親が病気の時にとてもそんな気分にはなれなかった。
 窓の外で雨音がして、現実に引き戻された。
床がひんやりと冷たかった。靴下も履いていないから、体が足先から冷えていく気がした。寒くて、剥き出しの肩や二の腕を何度もさすった。
 瞬きをすると、もう涙は乾いていた。泣き顔で人前に出たくないから、少しほっとする。両腕を胸の前交差して、廊下の奥の階段に向かって歩いた。
 教室で腕時計も外したから、何時か分からなかった。壁掛けの時計を見ると、授業が始まって十分が過ぎていた。急がないと、約束の時間に遅れてしまう。階段を降りる時、少し小走りになった。
 わたしは、一階の裁断室に呼び出されていた。てっきり保健室だと思っていたから、養護の佐藤先生に言われた時は驚いた。
「保健室じゃないんですか?」
「うん。この頃体調を崩して休みに来る子が増えているから、ちょっと都合が悪いの。測定の時、そういう子達に見られたら、嫌でしょう?」
「あっ、そうですよね」
 納得したけれど、裁断室には身体測定の器具なんて置いてないから、どうするんだろうって思った。それに、少なくともクラスの子達には見られるから、あまり結果は変わらなかった気がする。
 裁断室は、家庭科室の隣にある狭い座敷で、ミシンや裁縫の道具が置かれていた。わたしが所属する舞踊部の練習場所にもなっていて、家庭科の柚木先生が部の顧問だった。
 階段を降りて、また廊下を歩いて……やっと辿り着いた。二分にも満たない時間だったけれど、随分長く感じた。部屋のドアに手をかけた時、それだけで少し安堵した。
 色んな人に見られた。途中、一年生の教室と職員室の前を通った。若い男の先生、一年生の女子二人ともすれ違った。大抵、後ろの方でひそひそ話す声が聞こえた。
 胸は何とか隠せたけれど、パンツは丸見えだった。視線を感じて、泣きたいくらい恥ずかしかった。

「森川真由子です。身体測定を受けに来ました」
 ドアをノックして、先生を呼んだ。すぐ足音がして、白衣姿の佐藤先生が出てきた。急に緊張が増して、胸の前で組んでいる両腕にぐっと力を込めた。
「あっ、先生」
 部屋の中をのぞいて、とてもびっくりした。座敷の奥に、舞踊部の柚木先生が座っていた。
「待ってたわよ、森川さん。あなたにしては遅かったわね」
「……ごめんなさい」
「ううん、別に咎めてるわけじゃないの。女の子だもんね。教室で着替えて、移動して……ここまで来るだけでも、大変だったでしょう?」
「はい、ちょっと……」
 男子にも見られたことを思い出して、顔が熱くなった。
 柚木先生は、四十歳前後の女性で、日本の伝統舞踊を専門に教えている人だった。舞踊部は結構厳しくて、踊りだけじゃなく、礼儀作法まで細かく指導された。やめていく子も多かったらしく、今の部員数は全学年合わせて八名だけだった。
 ふと疑問に思った。柚木先生は、何のためにここにいるんだろう……
 手前の壁際に、教室のものと同じ学習机があった。座敷に上がって、シャーペンと記録カードを机の上に置いた。いつもなら上履きを脱ぐけれど、今は素足だから必要なかった。畳の感触で、足の裏が少しくすぐったかった。
 いつの間にか、身体測定の器具が運び込まれて、壁際に並んで置かれていた。といっても、保健室にあるものと違って、少し錆びていた。たぶん、倉庫から古い備品を持ってきたんだと思う。
「わざわざ用意してくださったんですか?」
「そうよ。といっても、真由子さんのためだけじゃないけどね。昨日も、一年生の女子で受けてない子が三人いたから、この部屋で測ったのよ」
 佐藤先生が、丁寧に説明してくれた。

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