楽園の底
なすの子:作

■ プロローグ1

 生まれた瞬間から視界に入ったのは、煤けた巌(いわお)とそれに打ち続く辰砂(しんしゃ)の猛火(みょうか)。そして天井を仰ぐと、温かそうな皓々と注がれる光があった。
 何層にも積み重なったリソスフェアが一筋に穿たれた空洞が、見たこともない楽園に繋がっているようだった。
 焦熱の世界では、ついに汗腺も窄み、あるのは飢渇の辛苦だけだった。悪魔は親や仲間ともわからぬ動物から、呼びならされることなく今の時まで過ごしている。
 岩場の窪みに溜まった炎が、一定のリズムで悪魔の足場まで猛り押し寄せては、また引く。まるで更なる苦痛で悪魔を虐げたそうに、名残惜しそうにゆっくりと火焔を下げる。
 悪魔は恐かった。数はどのくらいか知らないが、微光で辛うじて視認できる、どぎつい黄色の大きな目をした動物が。そして今にも自分を飲み込む勢いで、押し寄せる火炎が。そして頭上に降り注ぐ楽園の光に対する羨望と僻みが、何もかもが自分を崩壊させてしまいそうだった。
 一日というものがあるのか、ここでは一生と表現するのが正しいのだろう。
 時折、動物の断末魔の叫びが、引っ切り無しに空間を振動する。悪魔も同じような咆哮を何度かした。それが自分は奴らの仲間だと、少なくとも同種の動物であると示唆する確たる証憑であるのを悪魔は否定したかった。悪魔は天井の光が見せる、美しい空想に自分が生きることを願っていた。そして、ついに痺れを切らした悪魔は、自力で途轍(とてつ)もなく長い岩壁を登り始めた。汚れのない光に初めて悪魔の指先が染まった。自分のいる世界のように、薄汚れ血管の浮き上がったグロテスクな手の甲が目に入った。悪魔の力と小岩の硬さが反発して、指先の爪は肉に食い込み、深紅の血を手先に流す。重力に引き摺られ、何度も岩壁を滑り落ちた。それでも天井から差し込む光が一段と強くなっていくと、悪魔は力が漲るのを感じた。もう少しで、楽園に手が届く。途方もない、そんな挑戦をまるで実現できるような自信が悪魔にはあった。

 あれからどれほどの月日が流れたのだろう。最早自分が生まれてから、その半生を岩間に張り付いて過ごしている気さえする。指先を引っ掛け、足場に出来る凹凸があれば、悪魔はそれを支えに休養をとった。岩を登り続けて、長い時間が流れ、ふと天井を見上げると天井の空洞に終りが、直ぐ目の前まで来ていた。悪魔は渇いた咽喉で嚥下した。流し込む唾ですら、もう乾上っていた。渾身の力を込めて、悪魔は両腕を動かす。あたかも手繰り寄せるように岩場を登り、ついに天井の地面に指の腹をつけた。両手を地面に引っ掛けると、ぐいと上半身を持ち上げて、天井の世界に顔を出す。輝かしい光明が悪魔を包んだ。白や桃、藍など色取り取りの見たこともない植物が、満遍なく咲き誇り、遠方には瑞々しい泉が広がっていた。悪魔の目に映ったのは、空想を超越した美しい景観だった。その一部分をとっても、彼が地獄のような労苦を克服して、辿り着いた努力に値する価値があるように思えた。悪魔は見惚れながら、穴にぶら下がった下半身も引っ張り出す。胸を地面に押し付けて、這い蹲る姿勢で天井の世界に全身を出した。ぐらついた動作で立ち上がると、更に遠方を眺めることが出来た。泉の向こうに、白い建物が何軒も見て取れる。何もかもが今までの世界とは違った。悪魔はしばらく愕然として立ち尽くした。その悪魔の目の前を白い物体が過ぎった。茂り合った草叢に、それはすぐ異色のものとわかる鮮やかさと振る舞いを帯びていた。悪魔はそれを目で追った。白く見えたのは、どうやら白衣である。艶やかな茶色い長髪を風に靡かせる、白い素肌の目鼻立ちの美しい少女。悪魔はこれまで見てきたどの風景にも増して、少女を美しいと思った。そして、すぐさま少女を直で見つめたい欲求を感じた。悪魔は知らぬ間に駆け出していた。少女は解れ毛を丁寧に鬢に寄せ、足下の花を見ているようだった。悪魔の足付きは軽く、風のような音にしか少女には聞こえないらしい。悪魔の姿が目前に迫る頃に、少女は悪魔に気付いた。しかし、その黒く澄んだ瞳が悪魔をとらえたのは、既に少女の身体が草叢を背に押し倒された後であったのだろう。少女は蒼白した顔で、悪魔と向き合った。危険な呼吸が二人の間を交錯した。悪魔は血走った目で少女を凝視した。黒目勝ちな少女の瞳が、怯えで小刻みに揺れる。水分をふんだんに含んだ目は、今にも泣く準備を整えているようだった。しかし悪魔には、わからない。悪魔は、少女の瞳を覗き込んだ。そして瞳に映った自分の姿を見た。黒焦げた長髪に、赤い肌。大きな目はまさに、彼の嫌う下界の動物と同じそれだった。赤い悪魔は少女を見つめたまま言おうとした。
 俺は…誰なんだ

 白いワンピースの少女に何とか言葉を伝えようと、悪魔は呼気を荒らげた。しかしまともな音声は出ることなく、それは下界の動物と同じ虚しい咆哮に終始した。口は意味なく開閉するだけだった。悪魔に組み敷かれた少女は戦々恐々として、見張った目で悪魔を見つめていた。少女の美しい亜麻色の長髪は草叢を背に、火炎のように八方に伸びた。鼠を髣髴させる黒目勝ちの瞳に、細作りの茶色の眉、一直線のスリムな鼻梁、小振りの薄紅の唇、眩い白の木目細かい肌、卵形の輪郭。少女を美しいと思った要素のほぼ全てを、悪魔は今にも噛み付きそうな獣の目で見ていた。どうしても少女と言葉を交わすことが出来ない悪魔は、馬の鬣のように垂れ下がった黒焦げた長髪を振り乱して煩悶した。歯を食い縛り、黄色い目の中央にある朱の瞳を閃かせた。そんな悪魔に少女は眉を顰めた。草叢に横たえていた左の白い腕を持ち上げて、手先を悪魔の頬に伸ばした。途端に悪魔は凝然となった。少女の口が僅かに開き、白い歯が覗いた。少女の口からは確かに音声が発せられたが、悪魔は聞き知ることが出来なかった。しかし獣のたけりとは異域の、美しい声だった。悪魔は差し伸べられた左手に縋るように、少女の襟元に顔を押し付けた。薄汚れた舌先で粘液を、少女の首に塗りたくる。少女は不快を呈した顔をしているかもしれながいが、盲(めくら)な悪魔は己の感情が起こす衝動を抑えることが出来ない。ただ何かを求めるように舌を少女の首に通わせた。悪魔の耳元に心なしか少女の切ない吐息が聞こえてきそうだった。悪魔は夢中で首を嘗めた後で、上体を起こしてもう一度少女を見つめた。少女は頬を桃色に染め、嗚咽しているようだった。そこで初めて悪魔は罪悪という感覚を味わった。涙ぐんだ少女の視線が痛かった。少女の澄徹(ちょうてつ)な瞳から逃れるように、悪魔は身体を翻した。少女は仰向けの状態から上体を起こし、悪魔に再び両手を伸ばす。悪魔は畏れ、少女が座る場所からそそくさと立ち退いた。しかし、長い間辛酸を耐えた肉体と精神はぼろぼろだった。悪魔は少女から数歩離れた地点で躓き、そのまま立つことがかなわなかった。少女はそんな悪魔を見つめ、すっと立ち上がると悪魔の倒れている向きとは逆の方角に駆け出していた。そして悪魔の意識は徐々に遠退いていった。
 しばらくして悪魔は指先に温もりを感じた。薄ら目を開けると、白いワンピースの少女が両膝を折って座っていた。少女の横には金属性の光沢を帯びた筒型の容器が置かれ、中身はどうやら微温湯のようだった。そこに少女は白い手拭いのようなものを入れ、悪魔の手を丹念に拭いている。悪魔が気付くと、少女は嬉しそうに微笑んだ。先ほどまでの涙はなんだったのだろうと、悪魔は思ったがこの際どうでも良かった。草叢のそばで感じる青臭いにおいと、草を掻き分ける風の音が妙に心地よかった。少女は特に淡い馥郁の香りがして、悪魔をまどろませた。悪魔の頭部が少女によって、少女の膝の上に置かれた時、悪魔は見上げた。少女は口腔に何かを含んでいるように、頬をぼこぼこ膨らませていた。そして、悪魔の唇を華奢な指先で菱形に開くと、少女はすうっと顔を悪魔に近付け、やがて悪魔の唇に自分のそれを重ねた。直後に生温い粘液が少女の口から悪魔の口腔に垂れていき、悪魔は苦しそうに眉を縮めた。全部の液体を流し終えると、少女は悪魔から顔を離して、満足そうに微笑んだ。今流し込まれたのは薬か何かの類いだったのだろう。悪魔は急に眠くなり、少女の膝の上で再び意識を失った。

■つづき

■目次

■メニュー

■作者別


おすすめの100冊