隷属姉妹
MIN:作

■ 第4章 突き付けられる選択9-1

 食堂を出ると、恭子はスタッフ通路を横切って、一番近い扉から病棟に移動し、病棟内のトイレに入る。
 本来病院関係者は、この病棟内のトイレは使用禁止とされており、恭子のこの行動に恵美は目を剥き、後を追った。
 恵美がトイレに入ると、恭子は恵美の手を握り、介護用の個室ブースに入る。
 そのまま内鍵を掛けた恭子は、恵美を便座に座らせ、恵美の前に仁王立ちと成った。
 恵美が呆然としながら、目の前の恭子を見上げ、何故病棟内のトイレを選んだか分かった。
 スタッフ用の個室ブースは狭く、2人で入る事など絶対にできないからだ。

 そんな理由に気付く恵美の前で、恭子は財布を取り出し開く。
 恵美はその財布の中身を見て、目を剥いた。
 恭子の財布の中には、1万円札がビッシリと入っていたのだ。
 その迫力に圧倒され、恵美が身体を後ろに逃がすと、恭子はその財布から5万円を抜き取り、逃げた恵美の顔の前に突き出し
「これで後10日乗り切りなさい」
 言い放つ。
 恵美は、恭子の言葉に更に目を剥き、目の前の金と恭子の顔を交互に見比べ
「こ、こ、こんなお金…、私返せません…。それに、就業規定で、金銭の貸し借りは…」
 恵美がボソボソと呟くと
「そう、禁止されてる。だから、このお金は、返さなくて良い。頑張ってる恵美ちゃんに、お姉さんからのお小遣いよ」
 恭子はニッコリ笑って、恵美の手に押し付ける。

 恵美は、その恭子の手を押し返す事ができず、ギュッと両手で握りしめ、ボロボロと涙を零しながら
「有り難う御座います…。恭子さん…、本当に感謝します…」
 何度も感謝を告げた。
 恭子は、差し出した手をスッと抜き、恵美の前にしゃがみ込むと、少し考えた後、小さな吐息を吐き
「恵美ちゃん…。私のお給料、幾らか教えて上げようか…」
 顔を逸らせて小声で告げると、泣きじゃくる恵美が驚いて顔を上げ、恭子の横顔を見詰める。

 少し悲しげな表情を浮かべた恭子の横顔に、恵美が困惑すると、恵美の顔の前に恭子の五指を拡げた手が翳され
「50万よ」
 ボソリと恭子が呟く。
 その呟きに、恵美が目を丸くして
「50万!」
 潜めた声で驚くと
「そう、手取りでね…。多い時には、三桁に乗った事も有るわ…」
 恭子は、ボソボソと告げた。
 恭子の言葉に、恵美が更に驚くと、恭子は静かにスッと立ち上がり
「私が話せるのはここまで」
 一切の質問を拒絶するように、踵を返して背を向け
「お金の事は、総師長様にご相談なさい。それと、この話しを私から聞いた事は、誰にも言わないでね。絶対によ!」
 恵美に告げて、最後に強い念押しをして、内鍵を開けて出て行く。

 恭子の出て行く姿を呆然と見ていた恵美は、直ぐに我に返って便座から立ち上がり、ナース服のポケットに5万円を捻り込みながら、出て行った恭子の後を追い、トイレを出る。
 人気の無い病棟の廊下を、首を振って、左右に目を向けるが、恭子の姿はどこにも無く、恵美は入って来た職員用扉を押し開け、関係者通路に戻る。
 しかし、そこにも恭子の姿は無く、恵美は首を傾げて自分の病棟に駆け出した。
 その恵美の姿を柱の影に隠れ見送りながら、院内PHSを耳に当て
「はい…、そうです。どうやら、あの男は上手くやってる様です。本人は、昼ご飯代にも困ってる様子でした。いえ。詳しい事は何も…。話したのは、私の手取りと、総師長様にご相談する事を勧めただけです。後は、ほんの少しの口止め程度で御座います」
 小声で告げ、2・3度小さく頷き、通話を切ってPHSをナース服のポケットに落とし込み、スッと柱の影から出た。

 その看護師は、外ならぬ恭子だった。
 恭子は足早に移動する恵美の後ろ姿を見詰め、[ウフフ…]と妖艶に笑い
「早くこっちの世界においで…。世間知らずの子猫ちゃん…。周りの景色が、全部変わるわよ…」
 ボソボソと囁くように呟き、ユックリと廊下を歩き出す。
 小さな溜息を吐いた恭子は、腰をトントンと叩き、両手を上に突き上げ大きな伸びをして
「さぁ、明日の夕方までオフだし、帰ってお風呂入って寝るか。明日の夜勤は、忙しく成りそうだし、体力温存…」
 ボソボソと呟いて、足を更衣室に向ける。

◇◇◇◇◇

 恵美は、ナースセンターに戻ると、急いでシフト表を確認し、恭子が[深夜勤]だった事を知る。
 それを見て、恵美は首を捻った。
 この病院のシフトは、朝8時から夕方の5時まで働く[日勤]と、夕方の4時から朝の6時まで働く[夜勤]と、朝の5時から昼の12時まで働く[朝勤]に、夜中の12時から朝7時まで働く[深夜勤]が有り、1週間に48時間の勤務日が割り振られ、その他の時間が[休養日]とされていた。
 どの勤務も基本的に9時間拘束で、1時間の休憩を与えられ、厚生労働省の定めた、8時間勤務と成って居る。
 だが、その者が持ち場を離れる事が不可能な場合、残って勤務する事が認められていた。
 いわゆる[残業]である。
 これは、[日勤]を1として、各勤務毎に対して決められた、給与の割り増し係数に、更に1.5倍の[残業代]が加算される。
 人件費の額が上がる為、この[残業代]は、ナースが体調を崩して休んだ等の、ハッキリとした理由が無い限り、事務局が認めない。

 そう言った理由から、何故朝7時で仕事が終わる筈の恭子が、午前中一緒に居たのか分からなかった。
 シフト表に載っている者は、全員ちゃんと出勤しているし、シフトに穴は開いていない。
 整形外科の為、容態が急変して、居残らなければ成らない訳も無く、全く理由が分からない。
(まさか、自発的なサービス残業…?)
 思った瞬間、頭を強く振り、その考えを打ち消した。
 居るだけで息が詰まりそうなこの病院に、誰が好き好んで残るのだ。
 その証拠に、申し送りが終わり、就労時間を満たした瞬間、全員上位者に頭を下げて挨拶し、逃げ出すように更衣室に向かう。
 そんな病院で、自発的なサービス残業など、有り得なかった。
 残っていた理由が全く分からない上、自分の悩みを聞き、憤慨して、お金までくれた恭子に
(まさか…。私の為…?)
 恵美は思い浮かべるも、その考えもブンブン頭を振って追い出す。
 まだ、この病院に勤務して1ヶ月も経たない恵美を心配して、自発的なサービス残業などする者が居る筈も無い。

 恵美は、恭子の行動の意味が分からず、もやもやした気持ちで、午後の勤務に就く。
 だが、恵美の考えは、当たらずとも遠からずで有った。
 恭子は正式な[残業]として居残っていたのだ。
 [深夜勤]の1.5倍に、勤務終了1時間前まで行っていた[特別手当]が発生する2倍の勤務係数を含んだ係数に、更に1.5倍の残業代が加算され、基本時給の1,300円に加えられ、5時間の残業で29,550と言う報酬を得ていた。
 その上、恵美に渡したお金と食事代も経費として補填され、恭子は何一つ損失などしていない。
 それが恭子が恵美から得た情報と、恵美を誘導した恭子に対する報酬だった。
 そう、恵美が感謝し信じた恭子は、妙子が送り込んだスパイだったのだ。
 妙子からのお達しの為、他の看護師達も、一切恭子が残っていた事に触れず、黙殺していた。
 知らないのは、恵美だけだったのだ。

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