恋人たち
 恋人というのはどういうものをいうのか?
 その単純な問いに、ユィーナは昔こう答えていた。
「恋愛という幻想を共有できる関係」
 だが、今はこう答える。
「互いの存在を受け容れ、共有することに耐えられる関係」
 と。

「ユ・ィ・ー・ナv」
 後ろから目隠しをされ、ユィーナは深々とため息をついた。この男は――ゲットは、どうしてこうも恋愛に対しアグレッシブなのだろう。
「何度も言ったはずですが? 私にはあなたのちょっかいにつきあっている暇は」
「俺の愛に応える暇は、あるだろう?」
 自信に満ちた口調で言われ、ユィーナのこめかみに青筋が立った。こいつ、調子に乗っている。
「……これがあなたの愛だ、というわけですか?」
「もちろんこれだけじゃないともっ! これはあくまで軽いジャブだ、俺としてはこうして後ろから密着に成功したのだから口と口の接触さらには一気に寝室まで運んで体と体股間と股間の接触にまで持ち込みたいと」
 ばぎがずどご。ユィーナはもはや古びてきている愛用の鋼の剣でゲットを殴った。ゲットに対する突っ込みはもはや条件反射になってきてしまっていて、今のように喋りながら胸を揉まれたりすると考えるより先に体が動いてしまう。
「あなたに学習能力が存在しないのはいまさらですが私は仕事中なんです、明日までにこの書類を上げなければならないんです、そういう時にちょっかいをかけてくるということはすなわち私に喧嘩を売っているも同然だということは理解していただけますか」
 そう、ユィーナは忙しいのだ。それも死ぬほど。
 ゆるみきったラダトームの国政に入り込むのは簡単だった。まずは王の特別政治顧問という立場から始まって、古臭い貴族制に凝り固まっているラダトームの政治を王の威光と勇者のパーティの名声で強引に改革し、議会を作った。ユィーナはその初代議長に選ばれ、政治機構を変革し、民生やインフラを整え、愚かな貴族連中の権力を削ぎ、とそれこそ寝る暇もないような生活を送っているのだ。
 そしてそんな忙しい日々の中、毎日ルーラで帰ってくるゲットの相手もせねばならないとなると、苛立ちも倍増する。
 だがゲットは頭から血を流しながらも笑顔でユィーナを抱きしめてくる。
「離しなさいっ!」
「なにを言うユィーナ、俺たちは二人でひとつの夫婦じゃないか! ただでさえ離れている時間が長いというのに一日に一度のユィーナ分補充期間、全力で堪能せずにどうしろというんだ!」
「っ、いかに夫婦であろうとそれぞれの生活というものがあるでしょうっ、それを尊重しあわずに夫婦生活というのは成立しな」
「ユィーナ。嫌なのか、俺と一緒にいるの」
「…………っ」
 じっと悲痛な表情でこちらを見てくるゲットに、ユィーナは唇を噛み締めた。この男は見上げるほどに背が高いくせにどうしてこうも自分の言葉で一喜一憂するのだろう。
 そしてそんなゲットを、ちょっと可愛いとか、変わらなくて嬉しいとか思ってしまう自分も、どうかしていると思う。
「ユィーナ……俺は、お前のそばにいたい。混ざって、ひとつになりたい。そういう風に思うのは駄目なのか。いけないのか」
「………………」
「ユィーナ。好きだ。大好きなんだ」
 そう言って顔を近づけ、唇に触れてくるゲットの唇を、ユィーナは受け止めた。一度、二度、三度。優しく柔らかく唇が触れ、そっと自分の中に舌が入ってくる。
 上手下手でいえばまだ下手な部類に入るのだろうけれど。最初の時より、ずっと上達している。
 ちゅ、ちゅぷ、ちゅぱ、としばし舌を絡めあわせてから、ゲットはすっと唇を離し嬉しげに笑った。
「ユィーナ、好きだ」
「……そのようなことは言われずとも知っています」
「ああ、俺も知ってる。ユィーナが俺のことを愛してくれてるってこともな」
「っ!」
「愛してる、ユィーナ」
 ちゅ、と再び軽く口付けを落とし、ゲットはユィーナの体をひょいと担ぎ上げる。
「ちょ、ゲット!」
「大丈夫だ、優しくするからな」
 そういうことを言うならせめてそのおそろしく荒い鼻息をなんとかしなさい、と言うべきか迷って、ユィーナは結局ゲットの腕に身を預けた。自分の顔が赤くなっているのは、自分でもわかったからだ。

「う……う、うぇっ、お……うぇっ」
 便器に胃液を嫌になるほど吐き出して、ユィーナは口を拭った。体が震えているのが自分でわかる。
 生理不順。食欲の偏向。そして強烈な吐き気。
 まさか、自分は。
 考えたくなくて首を振る。まさか、避妊はしっかりしている。自分はまだ二十四だ、旅が終わってから六年しか経っていない。仕事もまだまだここからが本番だというのに、上の世界に戻る方法もまだ見つかっていないのに、こんな時に妊娠だなんて。
 ならば、堕ろすのか?
 そう考えた瞬間、じわりと瞳に涙が浮かんで、ユィーナは顔を覆った。なんだというのだ、なんで泣くことがあるのだ。自分はそんな感傷的な人間ではないだろう。
 けれど体は勝手に震えだす。全身が自分の理性的な決定に否を唱えている。こんな状況で産んだところで、満足に子育てができるかどうかなどわからないのに。自分のような冷たい人間を作ってしまうかもしれない、いやその可能性の方がはるかに高いのに。
 なんで、産みたいなどと思ってしまうのだろう。無責任な親に振り回される子供を作るなど死んでもごめんだというのに。
 今の自分では、仕事しか頭にない今の自分では、きっと子供を泣かせてしまうだろうに。
 ユィーナはうつむいて、体をひたすらに震わせた。ぎゅっと唇を噛んで涙を堪え。こんなことで泣く必要なんて微塵もない、そう何度も自分に言い聞かせながら。
 どうすればいいのか、わからない。
 途方に暮れたというのはこういう気持ちをいうのだろう。どの道を選んでも、きっと後悔する。八方ふさがり、道がない。方法が少しも思いつかない。
 自分は今まで過酷な現実を、知恵と理性で打ち負かしてきたというのに。
「ユィィナァァァァァッ!!!」
 ばーん、と扉が開かれ、ゲットが中に飛び込んでくる。ユィーナは即座に常に持ち歩いている鋼の剣で六度ゲットの顔を殴打した。
「人が入っているご不浄の中に入ってくる人がありますか。あなたが礼儀も常識も知らない人間であるのは理解していますがこれは常識以前の問題です」
「すまんユィーナ俺のお前に対するあふれる愛に堪えかねてな。愛の情熱がお前と一刻も早く会いたいと叫んだんだ、それにちゃんと入る前に最中かどうかは確認したぞ」
「そういう問題ではないでしょうあなたの脳には……!」
 そこまで叫ぶとうっ、と喉の奥から吐き気がこみ上げてきた。便器の上にかがみこみ、さんざん吐いたはずの胃液を再び吐き出す。胃と喉が焼けるように痛み、何度も咳き込んだ。
「ユィーナっ、大丈夫か!? どうしたんだいったいなにがあったんだ、病気か怪我かどこか痛いのかっ!? 待ってろ、すぐに医者と僧侶を呼んでく――」
「待ってください!」
 ユィーナは必死に叫んだ。
「大丈夫……です、怪我でも病気でもありません、から、医者も、僧侶も、呼ばないでください……」
「なにをいうんだそんなに具合が悪そうなのに!」
「だから……!」
 ユィーナは目が熱くなるのを感じた。ゲットが驚愕の表情を浮かべる。ユィーナはじんわりと歪む視界の中で、必死にゲットを見て訴えた。こんなこと、言いたくなかったのに。自分の中で処理できない問題なんて、他人に言いたくはなかったのに。
「私は……きっと、妊娠、しているんです……」
「…………」
 ゲットは大きく目をみはった。ユィーナは顔を見ていられなくなり、うつむいて一息に言う。
「避妊はしているはずでした、失敗はないはずでした。ですがどこかで唱えそこなっていたのかもしれません。私の体調体温月のもの、その他すべての情報が私が妊娠したことを示しているんです。専門医の診断を受けなければ確かなことはいえませんが、ほぼ間違いなく私は妊娠しています」
「…………」
 ゲットは黙っている。ユィーナは目が潤むのを感じた。ゲットの計画では子供はもっと年をとってからだったはずだ。自分のこの妊娠は予定外の、面白くない出来事に違いない。少しでも嫌な顔をされでもしたら――
 自分はきっと、生きていかれない。
 なんでこんなに自分は弱くなってしまっているんだろう。たかが妊娠だ。たかが結婚だ。たかが男と女の関係だ。
 今この瞬間も世界のどこかで同じようなことが起こっている、飽きるほど繰り返されてきたくだらない営みだ。そのはずなのに。
 どうして、好きだというただその思いだけで、こうも心が動くのだろう。
「―――ユィーナ」
 ゲットが口を開く。嫌だ聞きたくない、聞くのが怖い。
 顔を覆ってしゃがみこみかけたユィーナを、ゲットはぐいっと引き寄せ――
 抱きしめた。強く、けれど無骨な逞しい腕なりに優しく。
「………ゲット………?」
「ユィーナ。好きだ」
「…………」
「愛してる。世界で一番愛してる。世界で誰よりもなによりも。それは未来永劫変わらない。お前のためならなんだってする、全力で」
「…………」
 なにが言いたいのだろう。
「だから。子供が生まれても、俺のことを捨てないでくれ」
「………は?」
「子供が生まれても、子供をどんなに可愛く思っても、一番の席は俺で不動にしてくれ。不動だよな? 俺のこと一番好きで固定よな? そうだと言ってくれユィィナァァァァァ!!!」
「……………………」
 ユィーナはしばし呆然として、それからぷっと吹き出した。
「ユィーナ、なにがおかしいんだ。真面目な話だぞ。世の恋人たちは子供が生まれると愛が醒めるみたいなこと言ってたが、俺はそんなの嫌なんだ、永遠に死が二人を別つまで、いや死んだとしても天国でまた世界の誰より愛し合う二人でいたいんだ! ユィーナ、君はそうじゃないのかっ!?」
「……っ……あなたという、人は……ぷふっ」
 ユィーナはしばらくくすくすと笑い続け、それから顔を上げて、ぎゅっとゲットを抱きしめた。
「ユ……ユィーナ?」
 戸惑ったような声。でもかまわない。
 この愚か者が愛しくてしょうがなかった。この愚かで、一途で、ひたむきに自分を思う恋人が。
 自分とはまるで違う存在。どこまでいっても他人でしかない存在。
 でも、だからこそ愛しい。受け容れたいと思う。この先彼と自分との違いに耐えきれなくて別れる時が来るのかもしれない、でも今はその違いを受け容れたいと思う。自分のことも受け容れてほしいと思う。まるで違う二人の心で、体で、混ざり合って新しい存在を創っていきたいと、心から思えるようになった。仕事だって知恵と気合でいくらだって続けられる、この赤ん坊だって産める、そう自分の行動を決められた。
 それはこの男を愛しいと思うからだ、と心底自覚して微笑んで、ユィーナは背伸びしてゲットに口付けした。ロケーションとしては最低の部類だっただろうけれども。
「……っユィィナァァァァァ!!!」
 ゲットはひょいと自分を担ぎ上げて寝室へと走り出す。それをユィーナは「妊娠中はセックス禁止です!」と鋼の剣で十度殴打して止めた。

「頭出てきましたよ! はいいきんで、息吐いて! ヒッヒッフー!」
「ユィーナ、頑張れ、頑張れ大丈夫だ、俺がついてるからな!」
 手を握られながらそう言われても疲労困憊しているユィーナは返事のしようがない。子宮口を広げるために痛みを堪えながら必死に深呼吸すること数時間、呼吸法で必死にいきみたいのを堪えること数時間。ようやくいきめる状況になってきたが、それでもやはり痛いし苦しい。人がどれだけ苦しんでるかも知らずにこの男は、と怒りがこみ上げてきたがその怒りは渾身の力で手を握ることでしか伝えようがなかった。
「ほら、頭が出てきましたよ、あともうちょっとです、頑張って!」
「ユィーナっ、頑張れ、俺がいる、ずっとここにいるからな、ユィーナっ!」
 助産師の人の声が聞こえなくなるではないか、と普段なら苛ついていただろうがそんな余裕はない。あともうちょっと、という声に力を得て必死にいきむ。
「ん………っ!」
 ずるずるずるぅ、という不思議な感触。体から痛みがすっと抜け、ひどく体がすっきりとする。
「生まれましたよ! お母さん! 赤ちゃん元気ですよ!」
「うおおおぉぉぉっ、ユィーナっ、ユィーナやった、よくやった! 頑張ったな、偉いぞユィーナっ」
 ゲットが泣き顔で自分の顔をのぞきこんでくる。珍しいその顔に、ユィーナは苦笑した。この人も、私と混ざり合って変わってきているのだ。
「はい、お母さん、赤ちゃんですよ。抱き上げてあげてくださいな」
「ユィーナ……」
 そっと体を起こさされて、ユィーナは赤ん坊を抱き上げた。猿のようなくしゃくしゃの顔。でも、自分とゲットが二人で創った、ひとつの命だ。
 たまらなくなってユィーナはきゅっと赤ん坊を抱きしめる。こんなに愛しい気持ちを持てるなんて、思っていなかった。
 自分は、幸せだ。
 そう感じることができてユィーナは涙をこぼした。
「ユィーナっ、どうした大丈夫か、まだどこか痛いのか!? ええい我が子よちょっとこっち来い、ユィーナを抱きしめられんだろうが!」
「一緒に、抱きしめてください」
「え」
 目を見開くゲットに、ユィーナは顔を上げて優しく笑んだ。
「この子と私を、一緒に抱きしめてください」
 ゲットはなぜか真っ赤になって、それから大きくうなずいた。
「お安い御用だともっ!」
 そしてゲットはその逞しい腕を大きく広げ、自分と子供を抱きしめた。ゲットに似合わないほど、優しく、そっと、けれど感情のこもった腕で。

 時を、年を重ねるごとに人は変わる。
 それは体が変わるからで、そしてそれ以上に人と関わるからだ。人と人の関わりの中で、人にさまざまな影響を受けて、人の心は変わっていく。ゲットも、自分も。
 そして、ゲットに影響を与える一番の存在は、ゲットに影響を受ける一番の存在は、自分でありたいと思う。相手の存在を受け容れ、共に在りたいと思う。
 永遠とまではいかずとも、死が二人を別つまでぐらいの間は、それに耐えられなくなることはないだろうから。
 子供をあやしながら、仕事をてきぱき進めていたユィーナは、こちらに向けて駆けてくるゲットを見つめ微笑んだ。
「ユィーナ、ユィーナーっ! アリアハンへ戻る方法が見つかったぞーっ!」
 その全開の叫び声に、ディラたちから連絡を受けてもう知っているユィーナはにっこり笑って言ってやるのだ。
「そんなに怒鳴らなくても聞こえています」
 あなたの――最愛の恋人の声はいつだって、私に新しい世界を見せてくれるのだから。

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