グリンラッド〜幽霊船〜オリビアの岬――1
「でぇいっ!」
 レウが振り下ろした草薙の剣が、ヘルコンドルの首を叩き斬る。ヘルコンドルの頭が驚いたように目を見開いたまま体と分かたれて甲板の上に落ち、どばっ、と大量の血を噴き出させるも、すぐに身体ごと空に溶け消えた。
 血が噴き出すよりも早く魔物の命を奪った、鮮やかなどという言葉では表せないほどの見事、かつ苛烈な一撃に、ガルファンは思わず目を見開く。が、レウは大したことをしたという意識もないらしく、周囲を見回してからにかっと子供らしい笑みを浮かべた。
「よっし、これで終わりだよなっ。やっと稽古再会できるぜ!」
「馬鹿野郎。どーせまたすぐにぞろぞろ出てくるに決まってんだ、気ぃ抜くんじゃねぇぞ。ただでさえ今は足手まといが一人いるんだしよ」
 そう言ってじろりとこちらを見る盗賊フォルデの視線に、ガルファンは思わず身をすくめたが、レウは笑顔のまま盗賊フォルデの背を叩いてみせる。
「まー、細かいことは気にすんなって! それにガルファンってそこまで足手まといじゃないだろ? もうレベル25になってるし、この辺に出てくる魔物なら一人で倒せるじゃん」
「ま、そりゃ確かにそうだがな。単に俺らの戦いじゃあんま役に立たないってだけで」
「? なら、なんでそんな意地悪な言い方すんの?」
「……うっせ。知りたきゃ」
「フォルデの性格を読み切ってしまった方が早いぞ、レウ。フォルデはこういう万年思春期男だからな、なかなか自分の思うところを素直に口にするのは難しいのさ」
「ぶわっ! ……てめぇ、いきなり横から口出してくんじゃねーよっ!」
 突然うさんくさい笑顔で話に入ってきた賢者ロンに、盗賊フォルデが噛みつく。賢者ロンは盗賊フォルデをからかうのを趣味にしているのではないかと思うほどしょっちゅうあの手この手で盗賊フォルデをつつくので、こういう光景はもはや見慣れてしまっていた。
 傍から見ていて微笑ましいとも言えるが、ガルファンにしてみれば笑って見ていられる眺めではない。フォルデにしろロンにしろ、そして最年少のレウにしろ、相対すれば一瞬で自分を十回も殺せるような力の持ち主だ。ガルファンも確かに一般航路上の海に出てくるような魔物なら一対一で後れを取るようなことはないだろうが、彼らはほとんど数分ごと、疲れを癒す間もなく、たいていが十匹近く、場合によっては数十、数百にまで至るほどの数で襲ってくる群れを、文字通り鎧袖一触に薙ぎ払う、などという人間外の真似を平然とやってのけるような連中なのだから。
 だが、それも当然と言えば当然なのだろう。彼らは、史上最大数である、自身を含めて四人もの人間を勇者の力で強化できる勇者、セオ・レイリンバートルの仲間たちなのだから。
 正確に言えばレウは自身、自分(のみ)を勇者の力で強化できる勇者であるため、セオの仲間とは言えないのかもしれないが、その年に似合わぬ圧倒的な戦闘経験はセオと心を通わせて勇者の力を強化されたからこそもたらされたものだそうなので、ガルファンとしてはやはりセオの仲間の一人のように思えてしまう。レウ自身、自身の未熟さを自覚して、セオに従う――というより、心底懐いて一緒にいたがっているので、そう思うのかもしれないが。
 それでも、これほど幼くとも、世界に数人しかいない勇者の力を持つ者の一人には違いない。実際一度相対したことのあるガルファンは、いつ負けたのかも気づかせぬほど圧倒的な差で打ち負かされた。
 そして、セオは、それすらはるかに及ばない、それこそ人類史上最強の力を持つ勇者であるだろう。そんなセオとレウが力を合わせた結果、彼らはまさに至上最強の勇者たちに成長していると思う。
 自分がどれだけ努力しようとも決して届かない、そんな高みに位置する彼ら。それなのに彼らは、人として笑い、喋り、ものを食べる。のみならず子供のように騒ぎ、喚き、喧嘩する。
 そんな彼らに自分がどう相対すべきなのか。もう船出から二週間が経つというのに、ガルファンはいまだにきちんと定めることができていないのだが――
「あ、あのっ、ガルファン、さん。お怪我とか、ありませんか? もし傷を、負われたら、すぐに癒し、ますから、言っていただけると……あっ、あの、俺なんかに話しかけるの、嫌でしたら、ロンさんかレウに言ってくだされば……!」
 舵を取っていたせいだろう、戦闘が終わってから甲板に飛び出してきたセオは、仲間たちと会話したのち、緊張した面持ちでこんなことを言ってきた。自分の仲間たちが、この辺りに出てくる魔物など一瞬で葬り去れるほどの強者だというのはよくわかっているだろうに。
「いや、大丈夫だ。俺のことはそこまで気にしなくていい。俺はこの船ではただの雑務係のようなものなんだからな」
 そう苦笑すると、セオは眉を寄せ目尻を下げ、まるで自分が死ぬほどの悪事を働いた世界一の無能だとでも思っているような面持ちで、「はい……」と答えてうつむくのだ。サマンオサで見せた雄姿など、まるでなかったことのように。
 ――こういう状況で、どう振る舞うかをきちんと理解するというのは、サマンオサの無骨な戦士の一人でしかないガルファンには困難なことだと、たいていの人は理解してくれると思う。

 サマンオサを勇者セオが救ってから、一ヶ月。救われた直後は歓喜に沸き立っていたサマンオサにも、当然ながら対処すべき現実というものが立ちはだかっている頃だ。
 自分がサマンオサにいた間にも、その萌芽はいろいろな形で見え始めていた。軍部強硬派の最先鋒であるヴィトール将軍に対し諮問機関が事情聴取を行ったり、ダーマからの使節(兼調査員)が何十人も続々と訪れたり。
 だが、英雄サイモンの息子、ダ・シウヴァの名を継ぐ者であるガルファンは、そういった現実と関わり合いになることもなく、勇者セオと共に旅に出ることとなった。セオの次の目的地である、オリビアの祠の牢獄。そこに捕われている父サイモンの消息を確かめるためだ。
 死んでいる可能性の方がはるかに高い状況ではあるが、それならそれでなにか遺されていないか確かめた方がいい、というセオの言葉にガルファンはうなずいた。病みついてこそいないものの、老いを重ね床に就くことの多くなっている母を一人残して旅に出るのは心配ではあったが、母は弱弱しくはあったものの微笑んで、『行ってきなさい』と言ってくれた。サイモンに対し屈託を抱えている自分の心を解放することができるなら、それ以外のことはいったん脇に置いておいていい、と。
 いつも自分のことを慈しんでくれた母に、申し訳なさと同時に心からの感謝を込めて頭を下げた。ダ・シウヴァの血に関わる郎党たちにもくれぐれも母のことを頼み込んできたので、母の身の回りのことについてはとりあえず心配はしていない。郎党たちの中には今このような時にサマンオサを離れることに眉をひそめる者もいたが、大半はサイモンの消息を確かめることはなにより優先すべき、と自分を送り出してくれた。
 サマンオサ国王グスタヴォ・カリージョ・トゥピナムバーには、父のことを聞かされた会見以来、一度も会っていない。ガルファンの中には、いまだに彼に対する強い怒りと恨みにも似た感情が渦巻いている。父サイモンを慕わしいと思ったことなど一度もないというのに――いや、それだからこそ他人に処断されたことが腹立たしいのか。
 だが、今はその感情を、セオが諭してくれたように一時的に棚上げすることにしていた。自分の中の憤懣を解放し、国王グスタヴォの行為を吹聴すれば、おそらくは彼の権威は地に堕ちるだろうし、場合によっては退位させられることになるかもしれない。今のサマンオサの状況でそんなことをしていられる余裕はないし、自らの犯した罪の重さに耐えかね震えている老人に鞭打つことをためらう気持ちもあった。
 それになにより、父サイモンが国王グスタヴォに受けた仕打ちをどう受け止めているかもわからないうちに、自分が自身の勝手な感情のままにグスタヴォを断罪するというのは、どうにも筋が違うように思えたのだ。
 そんなわけで、ガルファンはセオとその仲間たちに付き従い、サマンオサを旅立った。サマンオサ北東の旅人の教会から、旅の扉でグリンラッドの南の島に転移し、そこに隠してあったセオたちの有する魔船でグリンラッドに向かった。そこで一週間ほど(冬が近づいているせいだろう)吹雪が吹き荒れ始めている雪原を彷徨い、ようやく(その筋では有名な賢者だという)老人が一人で暮らす庵に辿り着き、交渉をすることになったのだ。
「俺たちは、ネクトラレ中海で猛威を振るっている、オリビアの呪いを解きたいと思っています。どうか、そのために必要な魔道具をお貸し願えないでしょうか」
 セオはそう真剣な顔で頼み込んだ。……ガルファンとしては、一応理由は聞かされていたものの、こんな北の果ての老人が(しかも頭の方にだいぶうろがきていそうな涎やら鼻水やらを垂れ流している爺さんだった)、オリビアの呪いを解く鍵を有しているなどとは思えなかったので、だいぶ疑わしげな目つきでねめつけてしまったが。
 オリビアの呪い。それは数百年前、アリアハン帝国の支配の終焉より少し前、一人の娘がネクトラレ中海に身を投げたことに端を発している。オリビアという名の歌姫だったその娘は、その美しさから住んでいた都市国家の君主に望まれたが、エリックという相愛の恋人がいた彼女はそれを謝絶した。それに憤った君主はエリックを無実の罪で奴隷身分に落とし、もっとも損耗率の高いガレー船の漕ぎ手に押し込んで街から追い出すも、それに絶望したオリビアはネクトラレ中海に身を投げ、君主は結局望んだ娘を得られずに終わる。
 それで終わればその頃には、特に慢性的な貧しさのゆえに倫理観が醸成されにくいベーラシア地方ではよくある話でしかなかっただろう。だが、身を投げたオリビアは、いかなる節理のゆえか、身を投げてそのまま天界へ召されたわけではなかった。自らの運命を嘆く悪霊と化し、街の人々に喝采を受けたその歌声で嵐を呼び潮の流れを歪め、ネクトラレ中海を行き交う船をことごとく沈めるようになったのだ。
 ネクトラレ中海を利用した貿易で財を成していたオリビアたちの住んでいた街は領主の血筋ごとあっさりと滅び、その周辺の国々もあおりを喰らって消滅した。それでもオリビアの嘆きは治まらずに、ネクトラレ中海を何百年もずっと嵐で満たしているのだという。
 そんな世界でも有名な強力な呪いを、あっさり解こうと言い放ったセオにはガルファンも驚いたが、説明を聞いてみると、それなりに筋の通った話に思えた。要するに、オリビアは恋人のエリックを奪われたことを嘆き悲しんでいるのだから、エリックを連れてくれば恨みから解放されるのではないか、ということなのだ。
「もちろん、エリックさんが、もう昇天なさっている場合も、考えられますけど……その場合でも、死霊系呪文で、残留思念を呼び出すことは、できると思うんです。術者を媒介に、オリビアさんと会話してもらうのは、難しいことではない、と……」
「まぁもちろん悪霊相手なんだから、安全対策は何重にも取るつもりだがな。こういう負の想念によって現世に影響を及ぼす思念というのは、なんらかの事物に対する強烈な想念が鍵になっているのが普通だ。もちろん恋人を奪った領主に対する恨みが鍵になっている可能性もなくはないが、それなら領主が暴動で殺されて国が亡びた時に昇天しそうなものだしな」
 知識の専門家である賢者ロンもうまくいく可能性は高い、と太鼓判を押してくれたので、仲間たちはもちろんガルファンも納得しての旅路であったわけだが。
「賢者さまの所有しておられる、船乗りの骨≠、俺たちに譲っていただけないでしょうか。できる限りの対価は払わせていただきますので、どうか」
 ……船乗りの骨≠ニいうのは、その筋では有名な古代帝国時代の魔道具らしい。海で死んだ船乗りたちの遺骨と霊を凝集して創り上げたというその骨は、海で死んだ者たちの遺骸や霊魂の存在する場所を突き止めることができるのだという。伝わっている話によるとエリックの乗った船は嵐に遭って沈んでしまったそうなので、それがあれば霊のいる場所を探し出せるのだそうだ(海に沈んだ遺骸をどうやって引き上げるのかという質問については、『やろうと思えば海を割る神器を借りてくることができる』と答えられた)。
 そこの賢者はすでにダーマの仕事からは引退し、個人的な研究に励んでいる中で船乗りの骨を手に入れたらしいのだが、セオの言葉にふがふがと加齢に濁っただらしのない声で答えた。
「はぁー……そうさなぁ……お前さんらの持ってる、それなりの価値のある魔道具と引き換えになら、譲ってやってもいいぞ……」
「え……それは、すごく助かります、けど。いいん、ですか? 船乗りの骨は、それなりどころじゃない価値が、あると思うんですけど……」
「わしもなぁ……それを手に入れた時は、海で死した者たちの魂魄を昇天させることができると、喜んだんじゃがなぁ……足りん足りん、わし程度では力量も気力も志もまるで足りんのよ。海で死し、寄り集まって、場合によっては幽霊船を創ってしまうような魂はな、みな浮世の苦痛にずっぷりと浸かって抜け出し方がわからなくなっておる。それを昇天させるには、それこそ神か聖母のような広大無辺の力強い優しさが必要じゃ。わしのような小才子風情ではどうにもなぁ」
「そう、でしょうか……?」
「んむ。じゃからなぁ、わしとしてはあんたに賭けてみるのはそう悪い選択肢でもねぇのよ。勇者セオよ、どうかわしの夢を、少しでも代わりに果たしてくれると嬉しいぞい」
 そんな風に真摯な表情で言っておきながら、代価として変化の杖を渡された賢者は、「おおぅこれなら好きなだけぴちぴちの色気のあるおなごに化けられるのぅ!」と助平たらしい笑みで心底嬉しげに笑っていたのだから、賢者という職業の持つ徳の高さというのも案外当てにならないもんだと呆れたのだが。
 ともあれ、無事船乗りの骨を手に入れたセオたちは、ルーラでアッサラームまで飛び(その際戦士ラグは実家に顔を出してくると一時姿を消したが、自分たちはその間も商人ギルドと盗賊ギルドに対する義理を果たすためとかで会談やらなにやらに引きずり回されることになった)、一緒に飛んできた魔船を使って海へと出た。なんでも目標の反応が絶えず移動しているとかで、これはおそらく幽霊船の一部と化していると考えてまず間違いないのだそうで、自分たちは警戒と共に、船上でそういった状況を想定した稽古をくり返している。
 ――まぁ、自分がやっているのはセオたちにしてみればおままごとのようなものだろうし、この旅の中でやっているのはほとんどが、旅の間の雑務を一行に代わって片付けることなわけだが。
「……ふーん、じゃあサマンオサにあったレッドオーブってのは、その海賊ってのに奪われちまったわけか」
 ガルファンの作った海藻のスープをすすりながら(ちなみにほとんど料理の経験がなかったガルファンはレウと同じで他の面子と一緒に料理当番をすることになっている。それでも料理ができる面々の作ったものと比べれば格段に味が落ちてしまうのだが)フォルデが言うと、セオはこっくりとうなずいた。
「はい。公的な記録に、残って、ますから、まず間違いないと思い、ます。スリッカー大陸の南方に居を構える、冒険商人にして大海賊。サライジャ海の事実上の支配者。バルボーザ一家という海賊に、輸送中のオーブを奪われた、と」
「えっとー、地図でいうと……このへん? サマンオサの南? そこってサマンオサじゃないの?」
「うん……サマンオサの領土は、基本的にこの、アンジェルマ山脈に囲まれた、範囲だけ、だから。スリッカー大陸の南に広がる、ウーワゾフ大密林の辺りは、深い密林と、そこに密生、している魔物の影響で、国家ができなかった、んだ。小さな集落が、点在しているぐらい、だそうだよ。その中でバルボーザ一家は、かなりの範囲を実効支配、しているそうだから、この一帯の事実上、の支配者って考えている、人もいるくらいで。もちろん、基本的には海に、支配権を求める人たち、であることは疑いようがないと思うけど」
「ふーん……じゃあ、この一件が終わったらそっち行くのか」
「えと、はい。バルボーザ一家、との交渉が終わったら、ランシール、テドン、って巡っていくのがいいんじゃないかな、って。その間に、イエローオーブの一件についての、対策も考えつく、かもしれませんし」
「あー、あのクソ女のな……」
「早くなんとかあのねーちゃん言い負かす方法考えないとだよなー」
「まぁ、舌戦の本職である商人相手に口で勝つのは難しいだろうがな……」
 にぎやかに話す一行を尻目に、ガルファンは小さく一礼して席を立った。
「? どしたのガルファン、もう食わねーの?」
「ああ。洗い物を片付けてくる」
「えー、そんなん食い終わったあとでよくねー?」
「いや、俺はこの類の仕事の手が遅いからな。早めに始めておく」
 そう言って皿を持って厨房へと向かう。一行からは(もう何度も同じことをしているからだろう)呆れたような視線が向けられるが、ガルファンとしては自身の振る舞いを変えるつもりはなかった。
 旅の中で、自分が本業にしている戦いの技術では足手まといで、家事や雑事でも手が遅く、ろくに役立てていない自分は、一行とある程度一線を画しておく必要があると思ったのだ。旅の仲間などとは口が裂けても言えない以上、自分はある意味一行の下僕のような立場になる。それが一行と馴れ合っていてはけじめというものがなくなる。空気を壊さないようにさりげなく振る舞うつもりではあるが、ガルファンはできるだけ一行と個人的なつきあいをする状況に置かれないようにしていた。
 ――が。
「あ、あのっ……ガルファン、さん。その、お邪魔かとは思うんですが、できれば俺も、お手伝いさせてはいただけない、でしょうか………?」
 おどおどと、まるで自分の方が目下の立場でいるかのような表情で、足早にこちらを追ってきたセオがそう訊ねてくる。ガルファンは内心ため息をつきながら、首を振った。
「いや、これは俺の仕事だからな。すまないが、俺に任せてほしい」
「は、はい……でも、あの、ガルファンさんも、いろいろやらなくちゃいけないこととか、あるでしょうし、二人の方が早く済みますし………」
「いや、だからな……」
 ガルファンはまた心の中で深々とため息をつく。どうしたもんだろうか、この勇者。
 正直、セオのこういう自分を全力で気遣い、手伝おうとする振る舞いには困惑していた。どう考えても自分の方が立場が下なのに、彼はどうしても自分の方が圧倒的に立場が下であるかのような言動を止めない。実際に直接やめてくれるようにも言ったのだが、泣きそうな顔で「ごめんなさい……ガルファンさんを不快にさせちゃって、本当に、ごめんなさい……でも、俺、まだまだ未熟者の、全然力の足りない勇者ですし……家族の方を支えて、ずっと頑張ってこられたガルファンさんの方が、ずっと、ずっと、偉いって……」などと言ってくるのだからガルファンとしてはどう答えればいいのかわからなくなってしまう。
 一行の他の面々にも相談、というかセオを制してくれるよう頼んでみたりもしたのだが、反応ははかばかしくなかった。フォルデはきっぱり「知るかそんなん。ほっとけ」と鬱陶しげに言い捨てるし、ロンは「セオがそうしたいなら好きにさせればいいだろう。向こうが目上だと思うのなら、その意思に従うのが筋じゃないか?」と肩をすくめるし、ラグも「まぁ、セオはああいう子だからね……君が大人になって、あんまり冷たく接しないよう心がけてもらえないかな?」と逆に諭してくる。
 レウに至っては、ガルファンの言うことをさっぱり理解せずに、「セオにーちゃんがそう言うのもとーぜんじゃんっ、ガルファンなんか水くさいもんっ!」とガルファンを責めてくる。ガルファンとしては単に自分の立場を自覚してそれにふさわしいよう振る舞っているだけだと思うのだが。
 結局今回も押し負けて、セオと一緒に洗い物を始める。自分の仕事、などと言っておきながらガルファンよりもセオの方が圧倒的に仕事が速いので、ガルファンが空になった鍋を一つ洗っている間に他の洗い物をすべて済ませられてしまった。別に洗い物の達人になりたいわけではないが、自分のあまりの役立たずさにどうしても忸怩たる想いが湧いてきてしまう。
 そのくせ向こうは全力でこっちより下の立場になろうとしてるんだから、なんというかどうにもやるかたない。サマンオサではああも明敏な勇者っぷりを見せつけてくれたのに、なんでこんな振る舞いをするのやら、とため息をつきながらも、セオに声をかけた。
「これは俺がやっておくから、もう他のことをしてきたらどうだ」
「あの、でも、みなさんが食べ終わった、お皿とかもありますし……」
「それも俺がやっておく。お前には他にやることが山ほどあるだろう」
 と言いつつも、セオが他のやるべきことを全部完璧にこなしてしまっているだろうことは、ガルファンとしてもよくわかっていたのだが。稽古も航海中の仕事もすべて完璧にこなした上で、こちらの目下にもぐって全力でこちらを手伝おうとしてくる。なんというかすさまじく始末に悪い相手かもしれない、と恩人相手に思うことではないと思いつつもこっそり思ってしまっていた。
 が、セオは少し考えるようなそぶりをしてから、ガルファンに向き直って問うてきた。
「じゃあ、あの、作業をしながらでいいので、少し話を、聞いていただけますか。サマンオサの、国府の方々から、俺が制した混沌についての、報告があったので」
「……あの奇妙な闇についてか。わかった、聞こう」
 洗い物をしながら、耳に神経を集中する。ガルファンとしても、確かに気になる話ではあったのだ。
 ラーの鏡を一時的に回収した際に現れ出でた、エリサリというエルフの言っていた混沌という代物。あの万色の闇は、ガルファンの常識を超えたこの世界に在らざるべき代物だ、ということをセオと共に相対してガルファンははっきり理解していた。
 あの時、いくつもの詩を詠い上げながら振るった剣の一撃で、混沌はセオたちの前から消えた。ガルファンとしてはそう認識していたのだが、セオとしてはあくまで強大な相手の機嫌を取って一時的に鎮めた程度だ、という認識らしい。
 鎮めたといっても少なくともしばらくはそうそう暴れ出すようなことはないだろうから、と結界が解除されたことを感知したサマンオサの王都に飛んできて、仲間たちと合流し偽王を討つに至ったわけだが。その後あのエリサリというエルフとその仲間たちが詳しく調査をした結果、少なくともセオが生きている限り混沌が浸み出すことはまず考えられないほどしっかり封じられている、という結論に至ったのだという。
 ただ、あくまでセオの力によって完璧に封印されてしまっているので、この場にラーの鏡を戻すことはむしろ逆効果になる可能性が高い、とも言っていた。国宝であるラーの鏡をそのまま祠に戻せば、また混沌が浸み出してくると考えられる、と。
 それはエルフたちにとっても望ましくないことのようで、早急にきちんとした封印をする、と言っていた。のだが、エルフたちにとって人間というのはあまり関わりたくない相手のようで、ラーの鏡を祠に戻さないことに対する国府への説明はすべてセオ(と、そのことをセオに説明する役を押しつけられたエリサリ)に押しつけられてしまったのだ。
 ガルファンも呆れたが、エリサリに平身低頭ですいません申し訳ありませんでも本当に私以外の先輩たちには人間の方と普通に話すことができそうにないんです、と言われてしまっては怒りようもない。フォルデなどは相当立腹していたようだが、セオはエリサリの謝罪にむしろ恐縮しながら、あっさりサマンオサ国府についての説明と交渉を一手に引き受けることを受け容れてしまったのだ。
 当然ながらセオに頭を下げられてはサマンオサ国府も首を横には振れない――ものの、当然ながらその説明を一から十まで素直に受け容れはしなかった。エルフたちが本当のことを言っているかどうか、せめて調査をさせてもらいたいと要求したのだ。
 エリサリは人間の持つ魔法技術で混沌についての情報を得るのはほぼ不可能なのでは、と難色を示したものの、セオはその要求を当然なものと受け容れて、エリサリにできれば調査に同行してもらえないか、と頼んだのだ。自分も調査に同行するつもりだが、専門家の方がいた方が調査も円滑に進むだろう、と。
 その要求をエリサリは(見るからに恥じらいながら)受け容れて、少し前に調査団が派遣されたそうなのだが。こういった交渉やら調査やらはすべて旅を続けながらルーラで行ったり来たりしつつのことだったので、セオにとっても相当忙しない話だったはずだ。交渉には(サマンオサ国府にはガルファンの顔見知りもそれなりにいるので)ガルファンも同行したのでよくわかるのだが。
 だというのに旅の間の自分に課された当番やらなにやらも完璧にこなし、稽古も怠らず、それでいて全力でこちらの目下にいるような態度を取ってくるものだからもう本当にどうしていいやら――いやそれはともかく、自国の問題なのだからガルファンとしても知らぬ顔をしてはいられない。サマンオサの調査団が結論を出したというならぜひ聞いておきたかった。
「えっと、サマンオサの、調査団の方々は、やっぱり異常を検知することができなかったみたい、です。そもそも封印の存在を確かめることもできなかった、みたいで。調査団には、俺も同行したので、ある程度はわかっていた、ことではあります、けど」
「……やっぱり、そうなるだろうな」
 サマンオサは戦士の国だ。当然魔法技術に関しては、他国に一歩も二歩も遅れを取っている。人間の持つ魔法技術では難しい、とされることをサマンオサが行って成果を得られる道理もないだろう。
 調査に際してはダーマから賢者を派遣してもらう案も検討されたのだが、ダーマの方はエリサリの言い分を全面的に受け容れるつもりらしく、エルフの言に勇者の言が加わっているというのに疑いを差し挟む余地があるのか、とむしろサマンオサの対応を疑問視するような反応で、これ以上ダーマに借りを作りたくないという意識も働いて(役人に代わって国政の調査をしてもらっているのみならず、半ば国家崩壊状態の王都で難民と化してしまった国民に対する喫緊の炊き出しや、圧倒的人手不足の国府に対する人員の貸し出し等もしてもらっているのだ)、その案は取り下げられたらしい。ロンが言うには、混沌に対しては、たとえ賢者でも相当レベルが高くなければ情報を得ることすら難しいらしいが。
「で、向こうはラーの鏡を祠に戻せって主張してきたのか?」
「いえ。ただ、向こうの方々も、混沌を実際に見た、わけでもないので、どうしても実感が沸かない、みたいで。世界に危機を及ぼすと言われてもそれだけではこちらはどうにもしようがない、そうで。……俺としても、こういう、ことは専門家の方に、任せて、他の方々はもっと差し迫った、ことに対処してもらえれば、と思うんですけど」
「まぁ、最初からあのエリサリというエルフも、こちらになにかさせようとしてたわけじゃなく、単に邪魔されなければそれでいい、みたいな感じだったしな。……確認しておくが、あんたもあのエルフたちに任せておけばあの闇については片がつく、と思ってるんだな?」
「はい。あの人たちには、それこそ神が生まれた頃からの知識と技術の集積、があります。俺よりも的確に、混沌に対処できる、はずです」
「……正直俺にはその混沌というものがよくわかっているとはいえない。だが、あの時あんたが振るった一撃は、あっさりと闇をすべて消し飛ばしたじゃないか? それまでずっと戦い続けていたのが嘘みたいに」
「正直、俺も混沌と向き合う、のはあの時が初めて、だったので。どうすればいい、のかわからなくて……手探りでなんとか、封じる方法を探って、いってようやく効果がある、と確信が持てたやり方を試してみた、だけですから。専門家の方から見れば、乱暴この上ない方法、だったと思います」
「エリサリというエルフも見事に封印されていたと言っていたがな。……戦いながら封じる方法を探る、っていうのが俺にはもうよくわからんが」
「ええと……釣りをする時の、やり方と同じ、というか。目で見える、わけじゃない、ですけど向こうの反応、を読んでなんとか、動けなくなるように動く、だけで。魔力、や法則、や世界という存在、を感得した経験があれば、ある程度感覚はつかめる、と思います」
「少なくとも普通の人間にできることじゃないというのはわかるがな」
「いえ……それは、なんというか。単にそういうことに向いた力を持っていた、だけなので。偉いことでは、まったくないです」
「…………」
 どう答えればいいかわからず、ガルファンは沈黙した。あれだけの力を持ちながら、驚くほどの聡明さを持ちながら、加えて誰より深い慈愛を持ちながら――こうも自分の価値を認めたがらないこの勇者を、どう扱えばいいのやら半ば途方に暮れてしまっていたからだ。

「なんかさー、セオにーちゃん、ガルファンの前だと、前みたいな感じだよな。なんていうか……おくゆかしい? や、普段からセオにーちゃんってじゅーぶんおくゆかしいけどさ」
「気色悪い言い方すんな。ああいうのは普通に卑屈って言やあいいんだよ」
「まぁ、セオが真に心を許しているのはまだ俺たちだけだということだろう。俺としてはそう悪くない気分だが」
 ガルファンが席を立ち、セオがその後を追い、食堂に残された形になった面々は、さして動揺もせず食事と談笑を続けていた。実際この一月近くずっとくり返されていることなので気にする気も失せる。
 ラグとしても、セオが以前を思わせる自己の軽んじっぷりを見せても、それがなにかの悪い兆候なのではと勘繰る気は起きなかった。本当に単に、真に自分が受け容れたわけでもない相手と一緒に旅をすることになって、少しばかりうろたえてしまっているだけだと思えたのだ。ガルファンのいない場では、セオの自分たちに対する愛着と想われている自信(と言ってしまえるほど強いものではないだろうが)が感じられる、優しい表情をちゃんと見せてくれていたので。
 だから、というわけではないが。ラグはこの一ヶ月、セオとはあまり関係のないことをこっそりくよくよ思い悩んでしまっていた。
「あ、ラグ兄またなんか悩んでるー。サドンデスさんの言ったこととか考えてんの?」
「いや……まぁオリビアが片付けば本格的にその件について話し合うわけだから、それなりに思い悩んではいるけどな」
 呼称をあれこれ考えたあげく、結局名前にさん付けでサドンデスを呼ぶことに決めたレウ(なんか強そうだしと敬意を表すことにしたらしい)の言葉に、小さく苦笑する。まぁ実際、それも悩ましい話ではあるのだ。
 これまで自分たちから逃げ隠れしてきた神≠ゥらの直接的な依頼。そしてその対抗馬であるサドンデス、神殺しの神にして堕ちた勇者神竜≠ゥらの依頼。自分たちと世界を影に隠れて操りつつほくそ笑む神≠ノ対する反感と、自分たちを殺したサドンデスに対する反感。神を殺せば世界が滅び、神竜を殺せば(正直まだ殺せる気はしないのだが)世界が神の思うがままに牛耳られる。どちらも選ぶにしても気の進まないことおびただしい選択肢を、自分たちは今押しつけられている。
 一応二ヶ月の猶予をもらっているので、自分たちは一ヶ月それぞれ一人で考えてみて、残りの一ヶ月でみんなで話し合って結論を出す、ということに決めていた。実際問題として、サドンデスが神を殺そうとしている以上、放置しておけば自分たちの知らない場所で世界の行く末が決せられてしまうことは確実だ。セオによって世界と戦えるだけの力を受け渡された自分たちが、それをただ座して待つのはあまりに怠惰に過ぎるというものだろう。
 自分たちは魔王征伐のために旅だったはずなんだが、と苦笑する気持ちもなくはないが、これまでの旅の中で魔王によって害された人々というものにほとんど出会わなかったので、世界に危機が迫っているという実感がないのも事実だ。もちろん魔物が狂暴化しているのは承知しているが、それも普通に旅をしている人々にとってはきちんと護衛を(以前よりも大量に)雇うことで自衛できる程度のもののようだし。
 だからもちろん、サドンデスたちに押しつけられた選択肢に対しては、ラグとしても(理詰めの思考は苦手だが)、きちんと考えて答えを出したい、とは思っているのだが。
「個人的なことで、少しな。もう答えの出てることを、ついくよくよ考えちまってるだけだから、別に気にしなくていいぞ」
「ふぅん……」
 レウは少し首を傾げたが、すぐに笑顔になって「うん、わかった!」とうなずいた。フォルデは肩をすくめ、ロンはやれやれという顔になったが、どちらも口を出してはこない。
 おそらく、ラグの言っていることが事実だろうことを感じ取り、口出ししないようにしているのだろう。ラグとしてもその心遣いはありがたかった。聞きほじられても困るというか、わざわざいちいち細かく取り上げて考えるのが馬鹿馬鹿しいような話であるように思えるのだ。
 サマンオサで出会った家族の一人である、エヴァとムーサの一件については。

「大丈夫か? 人狩りに巻き込まれたって聞いたけど」
 意識してあっさりした口調を作り問いかけたが、エヴァは答えようとしなかった。包帯の巻かれた頭をうつむかせて、こちらに顔を見せようともしない。
 相当応えているらしいな、とラグは内心肩をすくめる。サマンオサの偽王は、元より王都中からしばしば人を狩り集め、自身の楽しみのためにいたぶり殺すという非道を行っていたらしいが、エヴァが巻き込まれたのは偽王としてもその山場だったであろう、王都の全人口をいたぶり殺すための人狩りだ。王城前広場に集められたのか、儀式の生贄として使われるところだったのかまでは知らないが、エヴァにしてみれば間違いなく命の危険を感じることだっただろう。
「怪我がひどいようなら言っておいてくれ。家族のよしみで、仲間に傷を癒してくれるよう頼むくらいのことはする」
「…………」
「怪我が治ったなら、他の人の迷惑にならないよう早めに寝台を明け渡しておけよ。心細いなら早めにアッサラームに帰ることだ。それじゃあな」
 言うべきことを言って背中を向けると、低く、「……それだけ?」と問う声がした。
 心に巣食う恨みつらみを凝縮したような、憎悪と怨嗟に満ちた声。――ラグにしてみれば、ごく聞き慣れた声だ。
「それだけ、って?」
「それだけしか、言うことはないの? あたしが……あたしが、こんな目に遭ってるのに。こんなに、ひどい……殴られて、頭に傷ができて……心もすごく傷ついてるのに、人に殺されそうになって、怖くて怖くてしょうがなくて、夜も眠れないっていうのに……それだけしか、言うことがないの?」
「ああ。それだけだ」
「…………っ!」
 ばぅ、とエヴァが寝台から飛びかかってくる。隠し持っていただろう短剣を抜き、ラグを押し倒しそうとする。
 ラグはそれに逆らわず、床に押し倒された格好でエヴァを見上げた。短剣を振り上げ、今にもラグの喉を掻っ捌こうとしているエヴァの表情は、憎悪と狂想に歪み、さながら悪鬼のごとき表情だ。
 だが、それでも、ラグにしてみれば見慣れた表情にすぎない。ごくごく落ち着いた心持ちのまま、淡々とした面持ちでその顔を見上げることができた。
「ひどい――なんて、ひどい。そんなのひどい、絶対ありえない――そんなんで、本当にいいと思ってるの? そんなことが、許されるとか思ってるわけ? 絶対、許さない――許せるわけないじゃない。許しちゃいけないでしょう!? あたしに、こんな、こんな惨めな思いをさせて、一人で放っておいて、傷つけ放題に傷つけて! 苦しめたあげくに、あんな、あんなあたしの心をえぐるようなこと………!!」
「…………」
「殺してやる」
 エヴァは目を爛々と輝かせ、憎悪と怨嗟に加え、殺意を解放する喜びに満ちた顔で呟いた。
「絶対に殺してやる。思い知らせてやる……あたしを傷つけた罪が、どれだけ重いか………!」
「なら、やってみるといい」
 穏やかにそう告げると、エヴァはカッ、と目を剥いた。
「なんですって……?」
「なら、やってみるといい。嫌な思いをさせられたから、という理由で、一人の男を殺そうとしてみるといい。一人で勝手に熱を上げて、つきまとったあげくに、冷たくされたからという理由で相手の男を殺そうとしてみればいい。そうしてみれば、お前にも世界というものがどういうものか、少しはわかるだろう」
「…………っッッッッ!!!」
 がっ、とエヴァは悪鬼の形相で腕を振り上げ、渾身の力を込めて振り下ろす。今のラグは鎧を着けていないので、どこでも好きな場所を狙うことができた。その中で、エヴァは曲がりなりにも戦士として訓練されているからだろう、喉をめがけて短剣を突き下ろした。
 ――そしてラグは、それを身じろぎもせずに受けた。
「…………!!?」
 喉が斬り裂かれ、血が噴き出す。エヴァの顔に、血しぶきが激突する。呆然とするエヴァに、ラグは喉を斬り裂かれてくぐもる声で告げた。
「エヴァ。これが、加害者になるってことだ」
「……え……」
「今、お前は、加害者になった。可哀想な被害者から、自分の勝手な都合で人を傷つけ、時には殺しもする……げほっ、人間に、なったんだ。そのことを、よく、覚えて……げっ、がっ、げほっ……おけ。お前はもう、きれいな場所にいられる人間じゃ……がっ、ぐっ……ほっ、なくなった、ってことを。お前をひどい目に遭わせた、他の人間たちと同じように……お前に冷たくした俺と、同じように……自分の都合で、人を傷つける、救われる資格のなくなった、人間、なんだってことを……がっ、げっ、はっ、げっ……ご、ほっ!」
 まだ呆然としているエヴァを押しのけて立ち上がり、喉を満たす血を思いきり吐いて素早く懐から薬草を取出し喉に張りつける。見る間に傷が癒えるのを確認して、ほっと息をつく。万一の時には生き返らせてくれるようロンに後援を頼んではおいたが、当然ながら殺されずに済むのならそれに越したことはない。傷跡は残ったが、まぁ傭兵稼業をしていた関係上体中に傷跡のある身だ、いまさら気づかれはしまい(と思ってはいたがセオにはしっかり気づかれて心配されることになるのだが)。
 そこに、エヴァからかすかな声が上がった。まだ自失の状態から立ち直ってはいないことがありありとわかる声だ。
「なに、それ………? 意味、わかんない……そんなの。あたしが悪い、ってこと……? だって、しょうがないじゃない……ラグが、あんなこと言うから。あたしに、あんな、ひどいことを……」
「そうだな。お前を一人残してご両親が借金を残したまま自殺したことや、借金の債権者が少しでも元を取るためにお前を娼館に売り飛ばしたのと同様、仕方のないことだな」
「…………」
 エヴァはぺたん、と床に尻もちをついて、振り返ったラグを呆然と見上げる。向けられる視線から目を逸らすことも、あえて目を合わせることもせず、懐から取り出した手拭いで血をふき取りながら、ラグは淡々と告げた。
「お前が今俺を殺そうとしたのと同じように、他の人がお前にひどいことをしたのもそれぞれ理由がある。その理由の重みはそれぞれ違うだろうけどな。そして、今お前が手を下した時と同じように、たいていの人間は切羽詰まれば他の人を思いやる余裕なんてない。余裕がある時のついで、ぐらいに親切にすることはあってもな」
「…………」
「そして、お前もアッサラームにいたならわかってるだろう。借金を残して親に死なれた奴も、借金の方に娼館に売り飛ばされた奴もお前だけじゃない。お前は幸福な人生を送ってきたわけじゃないだろうが、全人類に哀れまれるほど不幸な人生を送ってきたわけでもない。それに、たとえ不幸な人生を送ってきたところで、本人が偉くなるわけでもなんでもない」
「…………」
「それでも、お前はまだましな方だ。少なくとも、ぼろぼろになって誰かに助けてほしい時に、帰っていけばお帰りなさいと迎え入れてくれる場所がある。金がなくても、腹が空いてしょうがない時には飯を出してくれる、苦しくてしょうがない時にどうしたのかと気遣ってくれる、寂しくてしょうがない時に優しく抱きしめてくれる、そういう人がいるんだ。……そういう人に感謝して、大事にしなさい。その人は、得がなくても、縁もゆかりもなくても、『しょうがない』で済ませられる理由が山ほどあっても、お前を労わってくれているんだから」
「…………」
「それだけだ。……ここにいたいっていうならあとしばらくは放っておくが、一ヶ月経っても家に戻ってなかったら強制的に連れ戻すからな。黙って姿を消しでもしたら探し出して尻叩きと説教の上家に戻して無理やり指定した場所で働かせるから覚悟しろ。それじゃな」
 そう言ってラグは、血を拭いた布を懐に入れ、部屋を出た。呆然とこちらを見上げるエヴァを、一人残したままで。

「……よう。探したぞ」
 牢獄の外側から、ラグは酒瓶を掲げた。ムーサは苦しみとも、怒りとも、憎悪とも、怨嗟とも、戸惑いともつかない――というかおそらくはそのすべてが入り混じった視線をこちらに向けてくる。
「まさか犯罪者として捕われてるとは思わなかった。ここに行きつくまで、けっこう手間だったぞ」
「…………」
「まぁ、あんたの考えはだいたいわかるつもりでいるけどな。――とりあえず、飲まないか。お前の分のカップは持ってきた」
 そう言って二人分のカップを掲げるも、ムーサはふいと視線を逸らして答えない。小さく肩をすくめ、牢の扉の前に座り込んで酒瓶から双方のカップに酒を注ぎ、片方を牢の中に差し入れた。
「あんたが飲まなくても俺は俺で勝手にやるぞ。そっちは俺は飲まないから好きにしてくれ。ただし無駄にするようなことがあったら十倍にして仕返しするけどな」
「…………」
 答えないムーサを気にせず、ラグはくい、とカップを傾けた。それなりに値の張る酒をアッサラームまで行って買ってきたので、値段相応に芳醇な、そしてそれなりに慣れ親しんだ味が舌の上に広がる。
「……ふぅ」
「…………」
「まず聞いておきたい。あんたが俺に抱いてる感情が急に変わったのは、どうしてだ」
「………なに?」
「あんたは俺が憎かったはずだ。目の上のたんこぶという意味合いで。俺よりも優れた存在でいたいのに、現実がそうじゃないからそのわだかまりを俺にぶつけてきていたはずだ。なのに、ここではあんたは最初っから俺に殺されるつもりだったように思える。俺の人生に死ぬことで深く刻みつけられたいと。それは、自分と圧倒的に隔絶した存在に抱く感情だ。――だけど、俺はあんたの前でも、あんたに会った後も人前では、そこまで隔意を抱かれるような力量を見せつけてはいないはずだ。俺たちがそこまでの力を得たのは、せいぜいがここ半年くらいの話なんだから」
「…………」
「俺の勘違いならいいが、教えてほしい。俺の力量についての情報を、あんたはどこで得たんだ」
「…………」
 ムーサはしばし黙り込んでいたが、やがて重い口を開いた。
「……女に見せられたんだ」
「女……?」
「奇妙な女だった。旅の魔法使い、とか言ってたが。たまたま酒場で行き合って一緒に呑んだそいつが、お前らの勇者と会ったことがあるとか言い出してきたんだ」
「…………」
「やけに自慢げだったから、あんな奴らに会ったくらいでなにを自慢することがあるのかって馬鹿にしたら、ムキになってお前らの凄さを語って、自分の見たものを呪文で映し出したんだよ。その時に、お前が巨大な八つ首の大蛇の頭を、斧の一撃で割り砕くところを見せられたんだ」
「……その女性はどんな姿をしてた?」
「別に、普通の……赤毛にいかにも魔法使いってローブ姿の女だった。やたらよく喋る……そいつが、お前らが次に行くところはサマンオサだ、なんだったら一緒に連れて行ってもいい、とか言い出して。それで俺はそれに乗って、そいつに紹介されてヴィトール将軍に雇われたんだ」
「……そう、か。その女性とまた会ったことは?」
「いや。その女は外との連絡や情報収集の役割を勤めてたらしいから、それからは一度も会ってねぇ」
「なるほど……」
 いかにも怪しげな話だ。八つ首の大蛇の頭を割り砕く、なんてジパングのヤマタノオロチ以外に覚えはないが、あの時に自分を見ていた奴など、仲間を除けば神に遣わされて自分たちの邪魔をしていた奴らしか心当たりはない。そいつがムーサをけしかけて、ヴィトール将軍を紹介までするとは。神関係の奴らは、ヴィトール将軍に対してまで手を伸ばしていたということになるわけだが。
 いったい何のために? 向こうがまだ隠し事をしている可能性ももちろん考えてはいたが、なぜわざわざそんなことをしたのか。向こうにしてみれば、それこそどうでもいいだろうサマンオサの将軍と自分の家族である傭兵に、なぜわざわざちょっかいをかけたのだ? ラグの邪魔をするため、と言い切ってしまうと少し違和感があるのだが……。
 ふらふらとさまよう思考を、ラグは首を振って打ち切った。自分は頭が悪いのだから、自分一人であれこれ考えたところで始まらない。
 それよりも――今本当に言うべきだろうことは、これから口にすることなのだ。
「で、ムーサ兄さん。なんであんたが俺に殺されよう、なんぞという素っ頓狂で思いつめた子供みたいな結論に至ったのか、聞かせてくれないか」
「…………」
 ムーサはぐ、と忌々しげに唇をかみしめ、ふいと視線を逸らす。ラグは肩をすくめながらも、できるだけ淡々とした口調で続けた。
「目の上のたんこぶのような、現実的な嫉妬の対象だった俺が、勇者の仲間なんぞという次元の違う存在になって、桁の違う強さを得たことが、そこまで許せなかったのか」
「…………」
「そういう考え方は、俺にも理解できなくはない。良くも悪くも身近だった存在が、世界を動かす力を得てしまったら、普通は激しく嫉妬するだろうし、許せない、俺にもそれが与えられるべきだ、みたいに考えるのもまぁ普通だ。ただ、わからないのは、『殺される』なんぞという形で俺に傷をつけようとした理由だ。エヴァみたいに視野の狭い、人生経験の浅い子供ならともかく、あんたみたいにそれなりに年を経て自負と自信を育ててきた人間が、そんなやり方を選ぶ理由が、俺にはどうにもわからない」
「…………っ」
「これじゃ座りが悪いし――なにより、あんたの憎む相手としては不足すぎるだろう。悪いが、教えてくれないか。……俺にも心底気合を入れて考えなくちゃならないことができたんでね、なんとしてもあんたの考えを知っておかなきゃならないんだ」
「……なんとしても、だと? 笑わせるな……お前に、俺の考えなんぞは必要ないだろう……お前はお偉い、勇者様のお仲間なんだからな」
 低い声でぼそぼそと、こちらを見ないままに声が返ってくる。ラグは内心息をつきつつ、淡々とした口調のまま続けた。
「少なくとも俺にとっては勇者は同じ世界の人間だし、その仲間の俺たちも人間でしかない。人間の世界に在らざるべき力って奴を手に入れちまったのにはいろいろ思うところはあるが、少なくとも今はその力が必要なんだろうと思ってる。とにかく少なくとも、神さまってわけじゃないからわからないことはわからない。あんたの考えも、俺の今抱えてる問題もな。そして、俺の抱えてる問題に向き合うためには、お前の考えを知ることが必要なんだ」
「なんだってんだ……その、問題ってのは」
 問われてラグは少し考えると、端的に答えた。
「世界の存続と自分の感情、どっちを優先するのが俺にとって$ウしいのか、ってことさ」
「なんだそりゃ……なんでそんなもんを考える必要がある」
「悪いが、その話を広めると聞いた奴らが消されそうな気がするんでね、聞かないでおいてくれ。……で、繰り返しになるが、その問題としっかり向き合うために、お前の考えを聞かせちゃくれないか」
「…………」
 ムーサはまたしばし黙り込んだが、ラグの言葉に一定の真実を感じ取ったのだろう、ぼそぼそとした声で語り始めた。
「お前は、俺の考えをしっかり見抜いたくせに、わざわざそんなもんを聞きたがるのか。本当に、鬱陶しい……面倒くさい奴だぜ」
「見抜ききれなかったんだから仕方ないだろうが」
「ふん……なんでこんなこともわからねぇんだかな。単純な、話だろ……まるで自分たちとは桁の違う、人外の圧倒的な力ってのを見せつけられて、しかもそれが自分の義弟で……嫉妬するのは当たり前だ、けどな……憧れ、ってのも湧いてくるだろうがよ」
「……………は?」
 ラグはぽかん、と口を開けて問い返す。正直、本気で予想外な台詞だった。
 ムーサはこちらを見ようとしないまま、ぼそぼそぶつぶつと小声で話す。その耳がわずかに赤くなっているのを見て取り、ラグは思わず愕然とした。
「お前の、あの、とんでもない力を。まさに人を超えた奴の力ってのを見せつけられて、お前がもう俺の絶対に手の届かない場所にいるのを見せつけられて。そりゃ、確かに嫉妬はしたさ。なんでお前ばっかり、と思わないでもなかったしな。だけど、それより……これまでずっと、上に立ちたいと、俺の力を認めさせたいと思っていたお前が、本気で世界を動かすほどの力を得ちまったってのが……アッサラームの隅っこの小さな家で身を寄せ合っていたお前が、それこそ世界を敵に回しても戦い抜けるほどの力を得たってのが、俺にはたまらなく、胸のすくことだったんだ」
「…………」
「お前は腹の立つ競争相手で、目の上のたんこぶだった。だけど、そいつがそれこそ神さまでもなきゃどうにもできないだろう力を手に入れちまったら、もうどこにでもいる戦士でしかない俺としちゃ、見上げて、憧れるしかできねぇだろうが。その天まで駆け上がっていきやがった弟分の人生に、少しでも跡を残したいなんて思ったら……俺にはあれしか手が思いつかなかった。それだけだ」
「…………………」
 ラグはいまだにぽかん、と口を開けながらムーサを見つめる。まさかこんな台詞が出てこようとは夢にも思っていなかった。
 だって相手は曲がりなりにも家族の一員だ。子供の頃から一緒にヒュダ母さんに育てられてきた、何度も喧嘩し何度も諌められてきた相手だ。それがよもや自分に対して、憧れだの見上げるだのそんな台詞を言い放つとは。
 ムーサがこちらと視線を合わせず、なおかつ耳が微妙に赤いのも当然と言えるだろう。正直ラグとしても気恥ずかしい、というより言っちゃ悪いがぶっちゃけ気持ち悪い。どこの誰が遠慮なしに何度もやり合った、のみならずお互いの下の事情まで知ってるような兄弟(しかもいい年したおっさん)相手にきらきらした瞳で見つめられたいなぞと思うだろう。
 正直ムーサが自分を騙しにかかってると言われた方がよほど納得できるものがあったのだが、こちらから視線を逸らすムーサの表情にもこちらに向ける感情の気配にも、嘘をついている感じが見受けられない。兄弟として長年付き合ってきた以上嫌でもわかることだが、今のムーサはたぶんありったけの誠意でもって心情を語ったのだ。
 それがまたなんというか気色悪く感じられてしまうのだが、さすがにそれを正直に言う気にはなれず、かといってその気持ちを素直に受け容れるのもなんとも面映ゆいというかこそばゆいというか気持ち悪いというかだったため、しばし必死に言うべき言葉を考えて、淡々とした口調を意識して作りながら告げた。
「まぁ、言いたいことは分かった。やっぱり思春期の子供みたいだと思わないでもないが……あんたの気持ちには、納得がいったよ」
「…………」
「だけど、俺としてはあんたがエヴァを危険な目に遭わせたのはやっぱり看過できることじゃないし、ヒュダ母さんを殺すだのなんだのって台詞は許せることじゃないし。自分を殺させるためにそんなことを言い出すなんぞ子供だろうがぶちのめすべきやり方だし。それに元傭兵として契約を……あのヴィトール将軍との契約っていうのが一考の余地はあるけど、それでも自分の気持ちで無視して行動したっていうのには問題があると思う。まぁ……いきなり王宮の衛兵に、ヴィトール将軍の企み全部ぶちまけて、自分はそのために雇われていた傭兵だってことまで自白したって行動からすると、元からあんたは生き延びたらそうするつもりがあったのか、という気もするけどな」
「…………」
 ムーサが微妙にさらに視線を逸らす。やはり本人としても、自身の行動の子供っぽさに自覚はあるらしい。
「だから、あんたは、しばらくそこで罪を償っていろ。国府の上の方に口利きすれば、司法取引やらなんやらで出してやれなくもないだろうが、俺は今のあんたにはそういうことはしない」
「…………」
「その代わり、俺はあんたがここにいる間に、魔王を倒して世界を救ってくる。そうなれば恩赦ってことで、自白した雇われ人の罪くらいなら許されなくもないだろう。――お互い、それで手打ちってことにしないか。俺としても分不相応な力を得た以上、それに値するくらいのことはやるつもりだけど、家族に下からの目線でものを言われるのは、正直嬉しい話じゃないんだ」
「………よく、言うぜ。魔王を倒したとしても、その時はお前は世界を救った英雄様だ。世界中がお前らを伏し拝むことになるんだろうがよ」
「かもしれないが、少なくともそれは純粋に俺の手柄ってわけじゃない。勇者の――セオの想いが世界を救ったってだけだ。だから俺のこの人でなしの力は、セオが世界を救うためだけに使うことに決めてるんだよ」
「――じゃあ、お前は世界を救ったあとどうするってんだ。世界を敵に回して戦える力を、どう使う」
 すくい上げるように、けれどはっきりとした意思を込めてムーサがこちらを見やる。どう答えるべきか一瞬迷ったが、結局すでに考えて出してあった結論をそのまま言うことにした。
「俺自身は傭兵を引退してアッサラームの家に戻るさ。こんな過ぎた力は金で雇えるようにすべきじゃない。ヒュダ母さんと一緒に、せいぜい幸せな余生を過ごすさ。――ただ、セオが俺の力を必要とすることがあったら、いつでも馳せ参じるつもりじゃあるがね。たぶん、あの子のことだから、そういう機会は頻繁にあるだろう。あの子の目指す世界は、人でなしの力でもなけりゃとうてい目指しようもない世界だからな」
「………ふん」
 すい、と視線を逸らし、ムーサが鼻を鳴らす。その声が、微妙に涙に濁っているのを感じ取り、ラグは内心目をみはる。
「結局、お前もなんだかんだで、勇者の仲間ってことか。――勇者と、仲間と、その栄光に」
 震える声でそう言って、ムーサは牢の中に差し入れた杯を乾した。

 ムーサについては、ラグはそれなりに真っ当な落としどころに持って行けたと思っている。そもそもラグとしては、基本ムーサの愚痴を聞いてムーサに真っ当な道に戻る気概を起こさせるつもりでいたのだ。ムーサが曲りなりのも自分の落とし前を自分でつけた以上、(その行動を起こさせた感情にはいろいろ思うところはあるにせよ)そこに文句をつける気はない。
 ただ、エヴァについては。これまで自分の優柔不断さゆえに向き合うのを遅らせて、傷つけるのを恐れたが故に傷つけ放題に傷つけて、最終的に自分では立ち上がれないのじゃないかと思うほど打ちのめしてしまった義妹については、正直どうにもいたたまれない気持ちを抑えられずにいた。
 ラグは、サマンオサでエヴァと出会い、そして彼女がどっぷりと悪い大人の企みに巻き込まれていること、さらにはそれが自分のせいだということを知り、それでようやく覚悟を――エヴァを傷つけてでも目を覚まさせる覚悟を決めたのだ。悪者になって、彼女を一人では立っていられないほど打ちのめしても、ヒュダ母さんのところに帰さなくてはならないと。
 これまで、自分はエヴァを否定することができなかった。たとえエヴァが自分のことしか考えておらず、周りが見えておらず、さらにはそれに自分で気づいてもいなかったとしても、それはかつて自分が通ってきた道でもあるのだ。周りに心配をかけ放題にかけながら、十四で傭兵ギルドの門を叩き、年を隠して金を稼いでヒュダに送り続けた。それで一人前になったつもりでいた。本当に一人前ならば後ろ暗い部分を抱きながら胸を張ろうなどとは考えないだろうに。
 けれど、たいていの人間にとって大人としての理性というのは、そうやって馬鹿な真似や身の程知らずな振る舞いをくり返して、周りの大人に面倒を見られながらなんとかかんとか習得していくものなのだ。むしろ子供の頃から理性を働かせていると、大人になってからやましい形で愚かさを発露させることも多い。だからラグも、エヴァが――若い娘が、自分などに対する恋心のために戦士などになり、傭兵ギルドに入って世界を回っていることを、苦々しく思いながらも否定できなかった。
 だが、今回の件ではっきりわかった。自分の存在は、庇護者がいればまだしも、まだ頼りない子供である兄弟姉妹たちには毒になる。
 自分を利用するために、下衆な大人たちが手を変え品を変え兄弟姉妹にちょっかいをかけることだろう。この前アッサラームに戻った時には、ヒュダに加え、盗賊ギルドの長ザーイドや商人ギルドの長ファイサルと話し合い、できる限りそれを防いでくれるよう頼んではおいたが(もちろん代わりに自分なりのやり方でお返しをすることを約束した)、それでもアッサラームの外に出る奴らはいるだろうし、そいつらにまで三人の目を行き届かせるのは難しいはずだ。
 それでも、こうして出会った以上。加えて、これまで子供っぽい恋心、というより恋に恋する類の錯覚を自分に抱き続けてきた、けれど一途に一心に自分を想っていることは間違いない、それがゆえにどうしてもまともに向き合うことを避けてきてしまった、かつて助けた苦手な妹である以上。自分の責任をきっちり果たし、心を折ってでも、エヴァを傷つけるひどいやり方だったとしても、彼女が幸せになれるように力を尽くさねばならないと思ったのだ。
 そうして目論見は成功し、エヴァの心は見事に折れたようで、しょぼくれた様子のままサマンオサの施療院に留まりながらも、アッサラームに帰ることを決めたようで一ヶ月後に間に合うようにぼつぼつ準備を始めているらしいのだが(セオがサマンオサに戻った時にこっそり話を聞いてきてくれるよう頼んでいたのだ)。それを目指していたのは間違いないとしても、自分がエヴァの心を思いきり傷つけたことは間違いない事実だ。けれどそれをこれまで避けていたからこそ、彼女があの将軍の企みに利用されることにもなったわけで。
 そんなこんなのあれこれを、思い悩む必要はないのに(もうやってしまったことである上それに後悔もしていないし間違っていたとも思わない)、ついついくよくよと引きずって考え込んでしまう。自分がわりと思い悩みやすい質であるのはわかっていたが、それにしても我ながらあまりに女々しい話だ。
 それはわかっているのにどうしてもついくよくよと考え込んでしまうことに、ラグは我がことながら、正直かなりうんざりしていた。
「ま、その気持ちはわからんでもない。俺としても、もうやってしまったことをくよくよ思い悩む、という経験はないではないしな」
 食事が終わって、少し二人で飲まないかと誘ってきたロンは、いつものように紹興酒を傾けながらそう肩をすくめる。ラグも透明なアラックを満たした杯を乾しつつ、同じように肩をすくめてみせた。
「お前がそんなことを言うのは珍しいな」
「まぁ、俺は基本的に自分が好きだからな、自分を損なうような真似はしたくないのさ。ただ、ここのところは何度か、したいわけでは決してないのに、もうやってしまった取り返しのつかないことをくよくよ思い悩んでしまっていた。自分のやったことが間違っていると思っているわけでもないのにな」
「……本当に珍しい話だな。なにがあった?」
 思わず真剣な面持ちになってそう問うと、ロンはまた肩をすくめ、杯を乾し、小さく息をついてから告げた。
「サマンオサで、俺は、子供を殺した」
「――――」
 目を見開いたラグに苦笑して、ロンは杯に視線を落としつつ言葉を重ねる。その面持ちは、贖罪というには後ろめたさがなく、回想と呼ぶにはあまりに真摯で、ラグはセオと向き合う時のロンを連想した。自分より幼く、けれど懸命に生きようとする魂を、愛しげに見つめる時のような――あるいは、その幸せを一心に祈る時のような。
「サマンオサで、俺が王都に張られた結界を解除した時のことだ。あの結界は、魔族が何十人という術者を生贄に捧げた上で、一人の人間の命を核にして創り上げた代物だった。そしてその人間というのは、まだ十歳にもならないような少年だった。貧民窟で、母親を護りながら生きてきた、力強くも稚い少年のな」
「……………」
「魔族はその少年に契約を持ちかけた。母親の命と安全を守る代わりに、お前の魂と身体を自分に売り渡せと。その少年はその誘惑に乗った。ただ、母親を護る、そのために」
「……………」
「俺は結界を解除しようと試みた際に、その少年と行き会った。最初はその少年にかけられている術を解除しようとした。だが少年は、自分はもう人じゃない、と言って自分と同化している魔族の姿に変じたんだ」
「……………」
「だが、そこで魔族はこう告げた。この少年はまだ人だ、と。契約を結びはしたものの、まだ引き返せる段階にあると。それを聞いて、その少年は一瞬心を揺らめかせた。助かるのか、と。偉い勇者の仲間ならば、自分を助けてくれるのか、と。たった一人で、母親を護って戦ってきた少年が、そのために魔族にすらすがった少年が、まともに大人に頼ったんだ」
「……………」
「だが、その問いに、俺は否、と答えた。契約を解除しようとしても、魔族はいつでもあっという間に君の体を本当に自分のものにできる。君はもう、絶対に助からない、と」
「……………」
「そうして、俺は、彼を殺した。自分の都合で、大人が子供を、な。――そんなことを、考えても仕方がないというのに、俺はこの一ヶ月くよくよ考えてしまっていたわけさ」
「……そう、か………」
 ラグは思わず嘆息する。それは確かに――大人として、どうしても引きずらざるを得ない話だろう。
 ラグが考えても、ロンの行動に誤謬があったとは思わない。結界を解除するのが遅れればサマンオサ中の人間が殺されかねない状況の中、一人で魔族と相対したのだ。たとえ相手が幼い少年だったとしても、全力で殺す以外の方法を取れたとは思えない。
 だが、それでも、そんなまだ自分の選択に責任を持つことすらできない子供を殺した事実は、どうしたところで心に絡みついてなまなかなことでは振り払えまい。他にどうしようもなかったとしても、それしか取れる方法がなかったとしても、殺した子供の顔と声が、繰り返し夢に出て精神を削るだろう。――ラグ自身、傭兵の仕事の中で子供を殺す経験は皆無ではなかったのだ、嫌でもわかる。
 ロンはさして子供好きというわけではないだろう――だが、それでも子供を護り健やかに育てようという気概はある男だ。レウとの関わり方を見ていればそれはよくわかる(たまに教育に悪い発言もするが、あれはたぶん基本的には止められるとわかっているからあえてふざけているのだ、と思う)。
 正直、慰める言葉も浮かばず、ラグは杯に酒を注いで再び乾した。仕方ない、で済ませるしかない残酷な現実。それにぶち当たった大人ができることなど、せいぜいが酒で記憶を洗い流す程度しかないとわかっていたからだ。
 ――その仕方ない≠ナ諦めるしかない命を、全身全霊で嘆き悲しんで我が身を犠牲にしても護ろうとする、一人の少年を知っていたとしても。
「ま、こんなことはセオや、フォルデやレウの前では話せんからな。すまんが、いい機会だと思って愚痴の聞き役にさせてもらった。悪いな、そんな役を押しつけて」
「いや、それは、俺も同じことだし、かまわないけど。……セオがこの話を聞いたら、相当深刻に落ち込むだろうしな」
「ああ。命の選別≠、魔物に対してすら行いたがらない子だ。全力で自分を責めて苦悶するだろうことは疑いがない。しかもその姿を俺たちに隠すような、小癪な気遣いを発揮する可能性もあるしな」
「小癪って……まぁ、言いたいことはわかるけど」
 苦笑して、また酒杯を傾ける。そういった気遣いを覚えるのはある意味まっとうな成長過程ではあるだろうが、セオは子供の頃からいかなる時も他者の感情を慮って優先する生活をしてきたのだ、自分たちの前でくらい気を使わないようにしてくれないと、それこそまっとうな大人に育たないだろう。
「まぁ、とにかく。……抱え込まずに、適度に発散しろよ。俺でも、愚痴の聞き役くらいならいつでもなれるんだから」
 自分なりに誠意を込めて言うと、ロンはにっこり笑って両手を抱擁を受け止めるように広げてみせる。
「お前は発散の相手にはなってくれん、と? つれないな」
「そういうのはいいから。……というか、そういう発散がしたいのか? お前がそういう店に行ってるところって、旅を始めてから一度も見たことがないんだが」
 素朴な疑問を首を傾げつつ口にすると、ロンは苦笑した。
「まぁ、したくないわけでもないが。俺はその手の店を使うのは好かんのさ。もし俺がその手の店で働いているとしたら、店に来る客のすべてが嫌で嫌で仕方ないだろうと思うしな」
「……そうか。そう、だな」
「それにその手の店というのはたいてい、普段は女遊びをしているような連中も客として狙えるように、女くさい若者や子供を使っているからな」
「やっぱり、若い子がそんな境遇に置かれているのを見たくはないか」
「そこではなくだな、俺は女くさい子供よりしっかりと成熟した男くさい男が好みなんだ。なんで金を払ってまでそんなそれこそ女の腐ったような奴の相手をせねばならん」
「そこなのか!」
 思わずだんっと杯を卓に打ち付けて怒鳴ると、ロンはくっく、と笑って肩をすくめる。
「ま、それに実際、その手の欲望は旅を続ける中でずいぶんと失せてきてしまっているしな。可愛い息子たちがいるというのに、それを放って男遊びなどしようものなら、我が子たちに顔向けができなくなってしまうだろう。なぁ母さん」
「だから母さんはやめろ。……まぁ、そうだな。確かに俺も、今は正直女はいい。……絡まれる前に言っておくと、男もいらんが」
「ちっ、薄情者め。まぁ女が人生に不要になったというのは一歩前進だな、ここからじわじわと心を切り崩して男の味を教えていかねば」
「だからそういう恐ろしい計画を聞こえるように言うのはやめろと」
 そんなくだらない会話をぐだぐだと重ねつつ、ラグはふと一人の少女のことを思い出して声を上げた。
「あ、そうだ。女といえば、サマンオサに来てたダーマの使節の中に、ダーマで会った女の子がいたよな。あの大神官さんの孫娘っていう。シンフォン……なんていったっけ?」
「……シンフォンインミンだ。それが?」
「それが……って。いや、単にふと思い出しただけだけど……あの子に、なにか思うところがあるのか?」
 ロンは無表情のまま押し黙る。初めて見るそんな顔をしばしぽかんとしながら眺めやり、それから我に返って、ああ、と小さく手を打った。
「そうか、そういうことだったのか。悪かったな、いきなり横から嘴突っ込むような言い方して」
「……おい待て。お前なにか妙な勘違いをしていないか」
「いやだから、横から口を出されるのは嫌だろう? 心配するなよ、セオたちには黙っておくから」
「なんだその理解者面は。だから妙な勘違いをするな、俺は単にだな」
「いやいいから、言い訳する必要なんてないから。口出しもしないし詮索もしないよ。やっぱりあれだけ年が離れてると、いろいろ考えることも多くて大変だろうし……もちろん相談役や愚痴の聞き役がいるなら相手になるけど」
「だからその暖かい眼差しをやめろ誤解だし勘違いだ俺は根っからの男好きだと何度も何度も言っとるだろうが!」
 そんなやり取りを重ねることしばし、ラグはとりあえずそのシンフォンインミンという娘さんが一方的にロンに惚れ込んでいるだけで、ロンにとっては迷惑千万な話で早く諦めてほしいと思っている、と納得したが、それでもやはりロンが彼女を相当に意識しているだろうという考えは捨てられなかった。普段のロンなら、女という女は自分に寄せ付けないだろうし、好かれようものなら口を極めて相手を罵ってでも相手の心を自分からもぎ離そうとするだろう、と思えたからだ。
「……お前はいったい俺をなんだと思っている」
「少なくとも、女と名の付くものならなんでも断固として自分に寄せ付けようとしない奴だとは思ってるよ」
「だから別にそういうつもりはない。単に俺の目に付く女のほとんどが俺と相容れない性格をしているだけだ」
「そういうのを女を寄せ付けようとしない奴、って言うんだろ?」
「だからな、そもそも俺にとっては女という代物は性欲の対象でも同じ性を持つ同朋でもないわけで、仲良くなる必要も仲良くなれる要素もないんだよ基本的に。女色家と一緒にするな」
「その女色家って言い方もどうかと思うんだが……でも、女性をすべからくそういう扱いをしているお前が、あのインミンっていう女の子に対しては扱いが違うだろう? だからまぁ、特別な存在なんだろうな、と思っただけだよ。別にお前があの子をどうこうしようとか思ってると考えたわけじゃない」
「ふん。だからそもそも俺は『女という性を持つ存在』をひとしなみに嫌っているわけじゃなく、『女の中の嫌いな性格をしている奴』を素直に嫌っているだけだと言ってるんだよ。あいつは嫌いな性格の持ち主じゃない。それだけだ」
「俺からしてみれば、女性に対してまず否定から入るという時点で、相当女性に対して偏見を持ってるとしか思えないからな。そんなお前が嫌っていないということは、特別なんだなと思っただけだよ。……そもそも、そこまでムキになって否定することか? 女性だろうとも……いや、お前は男しか欲情の対象にならないんだし、特別な存在だから即座に恋愛対象にしてるってわけじゃないだろ? 友達として、家族として、庇護対象として、それぞれ違った形の特別があっていいはずだ。お前にとって、そのインミンって子が特別なんだったら、それはそれで人生が豊かになるじゃないか。めったに視界にも入れない性の持ち主に大切に思える相手ができたっていうのは、悪いことじゃないだろ?」
「…………」
 ロンは苦虫をかみつぶしたような顔で酒を呷り、しばらく黙って、それからぼそっと呟いた。
「特別な存在ってわけじゃない。……というか、俺はあいつを、特別な相手だと思いたくないんだ、精神衛生上な」
「それは……また。なんでだ?」
「……俺にとってあいつは、世界で唯一可愛いと感じられる心を持った女だ。少なくとも知っている範囲ではな。それを特別というなら、確かにあいつは俺にとって特別ということになるだろう」
「うん」
「だが、その可愛いと思う感情が、どうしてもあいつを傷つけることにためらいを起こさせる。あいつをしっかり諦めさせるためにはきっちり冷たい素振りをしなきゃあならんというのにだ。その上特別だなんぞという感情まで抱え込んでしまったら、ますますあいつと接するのに精神が摩耗する」
「はぁ……なるほどな。そこまで思うんだったらいっそつきあっちゃえば……というわけにもいかないんだろうしな」
「当たり前だ。俺は女に欲情する趣味もなければ欲情しない相手と恋愛する趣味もない」
「まぁ、それは誠実って言えば誠実なんだろうけど。……で、お前はどうするんだ? その子のこと」
「どうしようもない。すげなくしようが傷つけようが、それでも一途に俺を想っているような奴だ。そもそも俺は最初っからあいつに望みはないときっぱり言っている。だというのにあいつは俺のために――というか、俺に対する想いに恥じないように、なんぞという行動原理で人生を送ってるんだぞ。できる限り関わらないようにして、あいつにとっとと運命の相手が現れてくれることを祈るぐらいしかできんだろうが」
「それは、まぁ、そうかもしれないけど……」
 ラグは天井を仰いで嘆息する。特別に想われたところで当たり前のように想い返せるわけでもない。大切に想われたところで迷惑にしか思えないということはいくらでもある。もちろん当然ながら、特別に想う相手が特別に想ってくれない、ということもいくらでもあるわけで。
 今現在のように、お互いを大切に想える、恋愛感情を交える可能性のない仲間連中で一緒に旅をしていると、心地よさにそんな当たり前のことも忘れてしまいそうになるけれど。
「なんというか……ままならないよなぁ、人生って」
「そうだな。当たり前のことではあるが、な……」
 それでも、その心地いい空間のおかげで、自分たちが暗い記憶に囚われずに済んでいるという事実は、この上なくありがたいことではあった。

 暗い闇がどこまでも広がる海を、フォルデはぼんやりと眺めた。夜番の真っ最中なのでもちろん周囲に対する警戒は続けているのだが、パーティでは索敵を担当するだろう盗賊の高レベルによる恩恵というものか、どうやら今の自分は警戒・索敵に要する集中力が以前よりはるかにわずかで済むようになっているようで、しっかりと警戒しながらぼんやりする、という珍妙な真似が簡単にできるようになってしまっているのだ。
 なにを考えるでもなくぼんやりと――いや、考えていることはないではないのだが、そんなもの別に大したことではないというか、わざわざ考える必要なんぞないというか、そんなことを考えるほど気にしているということ自体がどうにも悔しいというか苛立たしいというかなのであまり自覚したくないというか――
「……クソッ、なに考えてんだ俺ぁ」
「………、あの」
「っ!」
 反射的に声をかけられた方に飛びかかりかけて、理性でそれを鎮める。見張り台の梯子をちょうど登りきる寸前、という格好のセオの、悲痛とすら言ってよさそうな痛ましげな表情が、フォルデの気勢を自然と削いだのだ。
「……あの、ごめんなさい。見張りの邪魔を、少しでもしない、ようにって気配を、できる限り殺して、近づいた、ので……フォルデさんの、考えの、邪魔をしちゃったみたい、で………。本当に、ごめんなさい………」
「……そうかよ」
「………、あの、フォルデさん」
「なんだよ」
 心底痛ましげな、申し訳なさそうな、フォルデの心情を全身全霊で慮っていますという顔をしていたセオが、ふいに決然とした表情になった。
「フォルデさんが、なにを考えていたか、聞かせて、もらえないでしょうか」
「………っ、人に話すような話じゃねーよっ」
「はい。それは、もちろんだと思います。フォルデさんの考えられていることを、俺なんかが聞いても、役に立つことを言うことも、フォルデさんの気を楽にすることも、なんにもできないと思います」
「っ、てめぇなぁっ」
「それでも、俺は、聞きたいです。フォルデさんが、なにを考えて、なにを苦しんでいるか。フォルデさんを、もっと知りたいです。そうしたら、フォルデさんが苦しんでいる時、少しでも、力になれるかもしれない、から」
「っ……」
「もちろん、俺なんかがフォルデさんの力に、なれる可能性なんてほとんどない、と思います。お話を聞いても、迷惑をかける可能性の方がずっと高い、と思います。でも、俺は……」
 真正面からこちらを見据え、はっきりと強靭なまでの意志をもって。
「フォルデさんの役に立つために、全力を尽くさないなんてことは、したくないんです」
「…………っ…………」
 フォルデはぎりっ、と奥歯を噛み締め、ぽかん、と軽くセオの頭を叩いた。
「………? フォルデ、さ」
「クソ恥じぃこと言ってんじゃねぇこのすっとこどっこいがっ」
「……ごめん、なさい。でも」
「ったく、俺らのことになるといきなり気合全開にしやがって」
「ごめんなさい……でも」
「……っとに……お前は成長しても、面倒くせぇ奴だな」
「え……はい……?」
 は、と息をつき、軽くセオを手招きする。戸惑った顔になるセオに、仏頂面で告げた。
「話聞いてくれんじゃなかったのかよ。とっとと来い」
「………、はいっ」
 心の底から真剣に、けれど隠しきれない喜びの滲むその表情に、フォルデは心臓の辺りがひどくむず痒くなるのを拳を叩きつけてごまかした。

「……別に……マジで、大したこっちゃねーよ。単に、なんとなく思い出してただけだ」
「なにを、でしょうか」
「…………、ヴィスタリアに、挨拶されたことだよ」
「え………?」
 セオがどこか頑是ない仕草で首を傾げる。そちらから微妙に目を逸らしつつ(こんな馬鹿馬鹿しいことわざわざ目を見て話す気にはなれない)、フォルデはぽつぽつと言葉を重ねた。
「サマンオサがとりあえず落ち着いた後よ。あの、化けもん王倒した後、サドンデスだのサヴァンだのって奴らと話す前ってくらいのことなんだけどよ。……ヴィスタリアが、俺に挨拶しに来たんだよ。いろいろお世話になりました、ってよ」
「…………」
「俺ぁ、別にんなこたどーでもよかったんだけどよ。なんか、それが……妙に、いちいち思い出しちまうっつーか。どーでもいいこったってのに妙に記憶に残るっつーか。それがなんつーか、いちいち面倒くせぇっつーか……、? おい、どうしたセオ」
「えっ」
 ばっと顔を上げるセオに、眉を寄せて問う。
「なんかお前、さっき妙に深刻な顔してなんか考えてなかったか。妙なこと考えてんなら早めに口に出しとけよ、お前考えこじらすとマジで面倒くせぇんだからよ」
「いえ……あの。……ごめんなさい、ヴィスタリアさんが、サマンオサに、いらしたんですね」
「……ああ。まぁな。言ってなかったか」
 実際のところは、半分意図的に隠していた話ではあったが。わざわざ言うことでもない、というかこんなことを素直に仲間に話したらロンはあのクソムカつく口調でからかってくるだろうしラグは生暖かい目で見てくるだろうし、レウのきょとんとした眼差しで根掘り葉掘り聞かれるのもそれはそれで鬱陶しいし、セオは……正直、どう反応するかはわからなかったが、なんとなく嫌というか、話す気になれないというか、とにかく仲間たちに話す気などまるでなかったのだ。
 ただまぁこんな風に真正面から聞かれたらさすがに話すしかないというか、わざわざ隠すのも男らしくないようで嫌というか、自分が聞かれたというのに無理にヴィスタリアのことをひた隠すというのもなんだか無駄に意識しているようですさまじく面白くなかったので、できるだけ正直に口にしたわけだが。それでも、ヴィスタリアのことを明かす時には、なぜか妙に緊張した。
 が、セオは、フォルデの予想していたのとは違った反応を示した。いや予想といってもはっきりこれこれと言えるようなことは考えていなかったのだが、なんとなくセオはどんな形にしろ鬱陶しい反応をしそうな気がしていたのだ。
 しかしセオは、正直奇妙な印象を受けるほど、はっきりと真剣に考え込み、そして真剣な表情のまま自分に問うてきた。
「あの、フォルデ、さん。ヴィスタリアさんとは、どういう風に出会われたん、ですか?」
「は?」
「もし、お嫌で、なければ、どんな風に挨拶されたか、とかサマンオサにいる間にどんな話をしたか、っていうことも聞かせて、もらえると嬉しい、んですけど」
「……なんでそんなことが気になんだよ」
「………、大したことじゃ、ない、んですけど。なんていう、か……ヴィスタリア、さんは、フォルデさんに会いに来た、のかもしれない、って思って………」
「………はぁっ!?」
 思わず素っ頓狂な声を上げたが、セオは真剣な面持ちのまま言葉を重ねる。
「もちろん、俺の考え違い、っていう可能性の方がずっと大きい、んですけど。もしかしたら本当、のことがちゃんと、推測できるかもしれない、って思ったんです。お嫌でしたら、いいんですけど、よければ詳しく、聞かせてもらえない、でしょうか」
「……なんでお前がそんなこと気になんだよ」
 ぶっきらぼうに告げた言葉に、セオは思いきり真摯な表情で返してきた。
「フォルデさん、のことですから。気にならないわけ、ないです」
「…………〜〜〜〜っっっ、わぁったよっ」
 フォルデはがりがりと頭を掻いて説明を始めた。自分の顔が妙に赤くなっていることを、ついでに心臓とみぞおちがたまらなくくすぐったいことも、全力で無視しながら。

「……フォルデ、さま。よかった……ご無事、だったんですね………」
 寝台の上でそう儚げな笑みを浮かべてみせるヴィスタリアに、フォルデはポケットの中で拳を思いきり握りしめつつ言い放つ。
「お前はどうなんだよ。ベッドからまともに起き上がれもしねーみてぇじゃねぇか。……体、大丈夫なのかよ」
 無愛想この上ない口調でのそんな問いに、ヴィスタリアは儚げな笑みをたたえたまま首を振る。
「それほど、大したことは。久しぶりに、少し、体を動かしたので……少しだけ、疲れてしまっただけです」
「……そんな体調だってのに、俺を助けに来たのかよ」
「助けに来た、と胸を張って言えるほどのことはできませんでしたけれど……このまま、フォルデさまが殺されるようなことがあってはいけない、と思ったんです」
「俺が殺されたところでお前には関係ないこったろーが。……お前みてぇなお嬢さまが、俺に関わる必要なんざどこにもねぇだろ。俺のことなんざ放っときゃよかったんだよ」
 フォルデの無愛想な言葉に、ヴィスタリアはゆるゆるとまた首を振った。
「……私がいたせいでフォルデさまが殺されてしまったら。それは、私の人生などなかった方がよかった、ということになります。私は、きっと。そんなことには、耐えられません。なにかを成せずに死ぬのは、覚悟しています。誰かを幸せにできるような、そんな人生の幸福を得られぬままに死ぬことも。けれど――後悔にまみれながら死を迎えるのは。成すべきことをせぬままに死ぬことだけは、私は、したくなかったのです」
「…………」
「フォルデさまは、世界を救う力となる方です。天の高みにまで駆けていかれる方です。せめて、その邪魔だけはしたくない、と思ったのです。……それに、もし少しでもフォルデさまのお役に立てたのなら――世界を救う方のお役に立てたのなら、私にも、生きてきた甲斐があったと……生まれてきた意味があったと、そう、思えると……」
 かぼそい声でそう言って、ヴィスタリアはにこり、と微笑んだ。
「フォルデさま。私は、もうすぐ、家へ帰ろうと思います」
「家へ……?」
「ええ。本当は、もうとっくに帰っている予定だったのです。父にも、母にも心配をかけっぱなしにして、ぐずぐずと旅の時間を引き延ばしていました。……旅の中で、なにかを見つけられるのではないかと。私が生まれてきた意味が少しでも見出せるなにかが世界にはまだあるのではないかという、そんな儚い希望を捨てられずに……」
「…………」
 フォルデは口を開き、だが結局なにも言えずに口を閉じた。ヴィスタリアの儚げな、生きる力と呼ぶべきものがひどく薄い笑顔に、苛烈なまでの覚悟を感じたのだ。
「けれど、私はここで、あなたを助けることができました。もちろん私がフォルデさまを巻き込んでしまったのが原因ではあるのですけれど、それでも、私は成すべきことを成せた。巻き込んだ人をきちんと助けることができた。世界を救う人の命を救う一助となることができた。それは私にとっては、本当に、望外の成果だったのです。生まれた時からまともに務めを果たせず、家族にも周りにも迷惑をかけることしかできなかった私が、人の、それも世界を救う人の役に立てた、と……」
 ヴィスタリアは柔らかく、そして儚く笑んで、フォルデをじ、と見上げた。わずかに潤んだ、今にも消えそうな命の炎を残らずつぎ込んだように、生きる力をあえかに燃やし、木漏れ日のように輝く明翠色の瞳で。
「フォルデさま。私は、あなたを……あなたの、ことを………」
「っ………」
 フォルデは口を開けなかった。そして、ヴィスタリアもまたその続きを口にはしなかった。ひどく物言いたげに、狂おしく瞳をきらめかせ、今にも言葉を飛びださせようとしているかのように口を開きながら、次の瞬間にはすっと目を伏せ、ゆるゆると首を振ったのだ。
「………いえ、言っても詮なきことですね。私の言葉も、想いも、フォルデさまには、ご迷惑でしかない。私には、与えられるものがなにもないのですから」
「………っ、ヴィス」
「だからせめて。世界に生きる、そして生きた、一人の娘として、せめて祈らせてください。世界の生きとし生ける人々が、今も祈っているであろうように。――どうか、世界を救ってください。あなたの持てる力を、世界を救うために揮ってください。生きる者たちの幸せを、どうか護ってください、と。きっと……私は、そのために生を受け、あなたに出会ったのでしょうから」
 言って、ヴィスタリアはにこり、と、儚く、幽く、ぞっとするほどに優しく、笑ったのだ。

「……俺は……あいつに、どうこうしてほしかったわけじゃねぇ。あいつからなにかぶんどってやりたかったわけでも、恵んでほしかったわけでもねぇ」
 なにかを求めていたわけではない。なにか得られると思っていたわけでもない。話す必要のない相手だったかもしれない。けれど、それでも。
「ただ……あいつと話すのは。顔見るだけでも反吐が出るような、金持ち連中の同類だってのに。それほど、嫌じゃなかった。それだけだ」
 それだけだ。……それだけ、なのに。
「だってのに……なんつーか。なんか、言い足りねぇ、っつーか。なんか言う暇もなくあの執事に部屋から追い出されて、その後すぐあいつはサマンオサを出ていっちまって。会えなくなって……それから、なんか、妙に、あいつになんか言うこと全部言ってねぇ気がしちまって。なんか……なんかな。あいつのことが、妙に、頭から離れねぇんだ」
 そんなまるで女にとち狂った坊ちゃん育ちのガキみたいなことを、まさか自分が言うとは思わなかった。だから正直こんなことを口にしたくはなかったのだが。
 セオならば、自分のこの感情を、うまく解きほぐしてくれる気がしたのだ。本当に、まるで女に惑った男のようなこの感情を。
 自分はそんなものとは違う。違うはずだ。同じになってしまったら自分はいったいなんのために。あいつのことが気になる。忘れられない。頭から離れない。どうして、なんで、あいつはどこに行ったんだ。そんな混乱し、混濁した自分の感情。本当なら自分一人で始末をつけるような、ぐちゃぐちゃの頭の中。
 それを、自分のことが気にならないわけがないと言ったこいつに、知ってほしかった。知って、判断を下してほしかったのだ。こいつにならば知られてもいい、などと血迷ったことを考えている、自分のぐしゃぐしゃの感情ごと。
「………フォルデ、さん」
 セオがゆっくりと口を開く。フォルデはセオから微妙に視線を逸らしつつ、セオの言葉を待った。
「俺も、十全に、ヴィスタリアさんの考えが、推測できる、わけじゃない、ですけど。たぶん、ヴィスタリアさんは、本当に、フォルデさんと会うというのも、ひとつの目的ではあったんだろう、と思います」
「…………」
「そして、フォルデさんに、少しでも好きになって、もらうのも、やっぱり目的の一つ、だったんじゃないか、とも思います」
「っ……」
 なに馬鹿馬鹿しいこと抜かしてやがんだ、と反射的に怒鳴りかけたのを意志の力で抑える。セオがこの上なく重大なことを話す時のように真摯な顔つきだったので、幸いそれはそこまで難しいことではなかった。
「それ以外の目的は、はっきりこうじゃないか、と言えるほどの考えがある、わけじゃない、ですけど。フォルデさんが、今みたいに、ヴィスタリアさんのことを考えてるのは、たぶん、ヴィスタリアさんにとっては、思う壺というか、狙い通りというか、嬉しいことなんじゃないか、とは思います」
「思う壺、ってか」
 まるでヴィスタリアがなにか企みを巡らせたかのような言い草に苦笑する。間違ってはいないだろうが、無力な女の祈りにも似た願いをそういう表現で言い表すのは少々座りが悪い気がした。
 だがセオはあくまで真面目な顔で続ける。
「だから、フォルデさんは、今のまま、特に意識せずに過ごしていればいい、んじゃないか、と思います」
「………はぁ?」
 思わずぱかっ、と口を開けて唖然とするフォルデに、セオはさらに真剣な面持ちで言葉を重ねた。
「フォルデさんが、今みたいに、ヴィスタリアさんのことを、いろいろ考えるって、いうのはヴィスタリアさんが願った通り、のことだと思います。フォルデさんが考えたいと思う、なら俺は絶対に、それを、止められない、止めるべきではない、と思います」
「……お前、なに言って」
「それも含めて、フォルデさんは、ご自分の進む道、を決められるんだろうって思い、ます。それは、悪いことではないし、責められることでもない、と思います。フォルデさんが、それを選ばれたってこと、ですから。フォルデさんは、自分で選ばないことを、人生に受け容れるなんて、絶対しない、強い人、ですから」
「まぁ……それはそうだけどよ。お前なに言いてえんだかさっぱり」
「だから、気にすることはない、と思います。ヴィスタリアさんとは、きっと、また会うことになる、と思いますし。思ったことや、考えたことは、その時にぶつければいい、んじゃないかな、って」
「…………また、会うことになる?」
 フォルデは思わず、大きく目を見開いてセオを見た。セオも真正面から自分の視線を受け止め、摯実この上ない瞳で見返す。
「なんでそんなことが言えんだよ。あんな体弱い奴なんだぞ。また会える時まで生きてる保証なんぞどこにもねぇ。あいつは故郷に死にに帰るつもりなんだぞ。だってのに、なんでそんなことが言える」
「フォルデさんと、ヴィスタリアさんが、どちらもまた会いたい、と思っている、からです」
「…………」
 セオの言葉を、一瞬目を閉じて噛み締める。視線から、表情から、否が応でも伝わってくるセオの熱誠が、フォルデの精神に沁み渡った。
「……そう、思うのかよ」
「はい。……俺なんかが、こんなこと言っても、なんの役にも立たない、と思うんですけど、でも」
 フォルデはみなまで聞かず、セオの頭をぽんぽん、と叩いて小さく告げた。
「――信じてやらぁ」
 言ってひょい、と見張り台から飛び降りる。セオが驚いたように見張り台の縁に駆け寄ってこちらを見下ろしてくるのに、軽く手を振ってにやりと笑い、それから背を向けて歩き出す。
 なんとはなしに、すっきりした気分だった。この一ヶ月何度も何度も考えて、そのたびにそんなこと考えている暇はない、と打ち消してきた女の問題に、結論が出たわけではない。あの女を自分がどう思っているか、という事実さえまだ判然とはしていない。
 だが、今はそれをさっぱりした心地で棚上げすることができた。また会えるというのなら、その時までややこしいあれこれは棚上げしておいてもいいだろう。少なくともセオが心の底から『また会える』と確信しているようなのだから、そういうことにしておいても悪くはない。これまでセオがあんな風に確信していたことで、その通りにならなかったことは一度もなかったのだから。
 そんなことを思いつつ苦笑する。女のことでくっだらねぇ物思いを抱え込んで、そのあげくにあのボケ勇者に相談してすっきりする、か。実際、馬鹿みてぇな話じゃあるが、そういう気分になっちまったんだからしょうがない。
 まったくどうかしてるぜ、と文句を言いつつ気分よく寝室への道をたどるフォルデは、まるで気づいていなかった。セオとフォルデがお互い、話の中でなにを気にしていたか、交わした言葉に込められた意味、その他もろもろを、見事なまでに取り違えていたことに。
 そして、お互いが自分に向ける感情だけは、しっかり感じ取り受け止めていたという、旅の始まりからすればとても信じられないような事実も。

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