速水は司令席に座って、無表情に戦場マップを見つめていた。 「目標接近、距離二千五百。スキュラ2、ミノタウロス4、ゴルゴーン4、キメラ5、ナーガ5」 「全機微速前進。現在の距離を保ちつつ戦場中央に集結、射程距離に入った幻獣から各個撃破」 一瞬しん、と指揮車内が静まりかえった気がした。 速水の言葉を聞いてぴたりと動きを止めた瀬戸口は、すぐに咳払いをしてオペレーター席に向き直る。 「……了解」 そう言って速水の言葉を復唱し、肩をすくめた。 速水は、無表情を崩さずに前を見据える。 驚かれるだろうとは思っていた。速水が司令になって初めての、戦術理論に乗っ取ったまともな命令だ。 だがそんなことはどうでもいいことだった。もうすぐ目的が果たされようとしているのだから。 なぜだかひどく冷たく感じられる体を無理矢理動かして、そっと拳を握り込む。滝川は、この戦闘の間に、必ず死ぬ。 もっと苦しめてやりたかった。これ以上ないほどの激痛にのた打ち回らせ、無け無しのプライドを粉々にして自分の前にはいつくばらせてやりたかった。自分の味わった苦しみの何十倍という苦しみを味あわせてやりたかった。 だが、それももうできなくなる。 まったく早まったことをした。予定では半身不随なりなんなりにして戦場に出れなくしてからたっぷりいたぶってやるつもりだったのに。舞に意識されているのに気付いていないあの顔を見たらつい―― まあ今の医療技術じゃもう死ぬ、というところまで痛めつけないと治療の可能性があるからどっちにしろ同じことかもしれないが。 それにしても今日の指揮車は空気が悪い。吸気がひどく不味く感じる。中村に言って換気装置を取り付けさせようか。 滝川は死ぬギリギリまで自分が死ぬことに気付かないだろう。そう思うと腹立たしい。 自覚症状は死ぬ一時間ほど前からあるはずだが(もう始まっているかもしれない)あの鈍感な男はそれが死ぬ前兆だとは思ってもみないだろう。 しかし今日は妙に寒い。身体が冷たくてしょうがない。そのくせ冷や汗はだらだら流れている。体調管理はしっかりしているはずなのに。 せめて滝川の耳元にだけ『お前は死ぬのだ』と通信してやろうか。まだ誰かに発見されていなければ三番機のパイロット席に仕掛けた爆弾を爆発させてもいいんだけど。 耳元がドカドカとやけにうるさい。なんだこれは、ああこれは心臓の音か。なんで心臓の音がこんなに大きく聞こえるんだ? ふいに、以前にも自分の体がこうなったことがあるのを思い出した。 これは―― そう、これは苦しい″というのだ。 舞は勝手に跳ね上がる心臓の鼓動を全神経をあげて無視し、計器のチェックに集中しようとしていた。 滝川と離れている時も滝川のことがしじゅう頭をよぎった。今回の戦闘前、ハンガーで顔を合わせた時まともに顔が見られなかった。 今、士魂号の中で二人っきりで座っていると考えると、今まで何度もやってきたことだというのに心臓がドキドキして、苦しくてたまらなくなってくる。 これはなんなのかさっぱりわからない。舞は芝村″としてあるべきように、不明確な事象――即ちこの症状を徹底的に調べてみた。ある一人の人間のことが頭から離れず、会うと心臓の鼓動が激しくなる症状とは一体何なのか。 だが、精神医学書、神経医学書、果ては循環器系統医学書までさらってみても当てはまる症状は見つからなかった。 これは一体何なのか。それがわからないから対処の方策も立てようがない。 途方にくれる、などというのは芝村としてあるまじきことだが、舞は今自分がそれに近い状態にあると自覚していた。 しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。全力を尽くして敵を撃破する。さもなくば死。 今自分は戦場にいるのだから。 舞はビューの端っこに見える戦場マップを見据えた。味方機は少しずつ戦場の中央に進んでいる。 ふと、三番機の進み具合が他の二機より早いことに気がついた。このままでは三番機だけ突出してしまう。 「滝川。もう少し速度を緩めろ。他の2機と機を合わせるのだ」 必死に動揺を抑えて言った言葉なのに滝川からの返事はなかった。 戦闘が始まった。 壬生屋の一番機は突出してきたナーガを一刀のもとに切り伏せ、善行の二番機はバズーカの一撃で奥にいるスキュラに大ダメージを与えている。 滝川と舞の三番機は―― 「突出しすぎだ、三番機!」 今や猛スピードで敵陣に突っ込んでいた。 『……始まった、か』 速水は口の中だけで呟いた。 滝川の体の中に打ち込まれた毒は、ほぼ一日をかけて体の中を巡り、高熱を発させて最終的には死に至らしめる。今はおそらくそのすぐ前、死の一時間前の高熱が体を襲っている頃だろう。滝川は高熱で既に半ば人事不省に陥っているに違いない。 三番機は敵陣の中央まで一気に進んでいた。敵機は次々と三番機に照準を合わせる。 もしかして、これで死ぬか? そんな思考がちらりと頭をかすめた。 だが、そうはいかなかった。 三番機が右に大きく跳んだ。幻獣たちは攻撃する直前に照準を外され、(感じとしては)慌てて照準を合わせなおそうとする。 だがそこはちょうど建築物の間で、しかたなく幻獣たちのほとんどは三番機に向けて近寄っていく。 その間が幻獣にとっては致命的だった。 鈍重なスキュラがレーザーを撃ってくる直前に、三番機はミサイルを発射していたのだ。 「……ミノタウロスを撃破! ゴルゴーンを撃破! ナーガを撃破!」 耳元から聞こえてくる瀬戸口の報告を半ば以上聞き流しながら舞は神経を集中していた。 滝川はさっきから無言で士魂号を動かしている。舞もあえて答えを求めようとはしなかったが、滝川が何を求めているのか全神経を集中して読もうとしなければ士魂号の動きに遅滞が生じてしまう。 それはむしろ望むところだ。そのくらいのことは当然やってみせる。ただ滝川は今まで必ず言葉で舞に確認を取ってきたので、それが妙な感じがした。 滝川はいつものごとく討ち洩らした幻獣を大太刀とアサルトで仕留めるつもりのようだった。次はどこにいくかを全神経を集中して読もうとする。 が、ふいに滝川の思考が途切れた。 「?」 走っていた士魂号が急にぴたりと静止する。オートバランサーが働いて前のめりに転びそうになった士魂号は逆に尻餅をついた。 これは――尋常ではない。 舞は素早くヘッドセットを外し、パイロット席に座っている滝川を見た。 滝川はぐったりとシートにもたれかかっていた。左手も接続端末から離れ、力なくシート脇に投げ出されている。 舞の行動は素早かった。滝川の左手を取り、自分の左手と合わせて一瞬だけ同調を行なう。 舞はさっと顔色を変えて、左手を端末に戻しインカムに叫んだ。 「司令! 三番機は即時帰還を要請する! パイロット滝川が42℃の高熱を発している!」 「了解した。三番機は補給車に帰還せよ。指揮車を直ちにそちらへ向かわせる」 指揮車内は一瞬騒然とした。戦場でパイロットがいきなり高熱を発するなど、通常はありえない。確かに体調不良は自己申告だが、戦闘が不可能になるほど不調ならば誰かが気付くはずだ。 しかし速水は露ほども動揺を見せず、冷静に命令を下した。 「加藤、指揮車を補給車のところへ回せ。石津、医療機器のチェックをしておくように。壬生屋、善行、聞いた通りだ。じきに幻獣は撤退を始めるだろうが油断せずに一体でも多く敵を倒せ」 速水の冷静な声に、一瞬間を置いて了解の返事が返ってくる。 この戦闘は勝つだろう。三番機のミサイルは実に効果的に使われ、大量の戦果を上げた。一度撤退を始めさせてしまえばこちらが負けることはまずない。 速水は深くシートに腰掛けた。問題はない、何一つない――でも苦しい。 何が自分を苦しめているんだろう。息ができない、体が思うように動かない。 なぜこんなことになってるんだろう? 別にたいしたことがあるわけじゃない。ただ滝川が死ぬだけだ。憎んでいた奴を殺した、ただそれだけのこと。よくあることだ。どうってことのない、日常茶飯事。 滝川が死んだからって別にどうなるわけじゃない。自分は今まで狙っていた通り舞に近づき、その心を手に入れる。5121小隊を指揮して軍功を立て、軍内部での地位を確立する。出世し、金と権力を手に入れる。研究所を出た時から目指していたものを。素晴らしい日々。心安らぐ日々。これまでとなんにも変わらない日々。 速水はかっと目を見開いて、体を震わせた。 嘘だ。 そんなの全部嘘だ。 速水はのろのろと立ち上がり、うつろな目で中空を見つめた。瀬戸口が怪訝そうに視線をよこしたのにも気付かない。 滝川と会う前の生活? そんなの覚えていない。生まれてからずっと滝川と一緒にいて、殺してやりたいと思ってた気がする。 いや、確かに滝川の存在しない記憶もある。ここに来る前の、研究所での日々だ。あの苦痛と絶望にまみれた日々。 ここに来てからの自分は自由だった。どんな行動をしてもよかった。誰を愛しても、憎んでも。 その時間を、自分はずっと滝川を憎んで過ごしてきた気がする。 なぜ? 舞に近づいたからじゃない。それより前からのことだ。滝川に会って、一般には友達といわれるであろう関係を作って、役に立たない奴だ、適当に相手して放っておこうと思って。 それがいつのまにか。ある日真面目に訓練するようになった頃から。自分は滝川を殺したくて、苦しめたくてしょうがなくて、でもそう思うたびにどこかが痛くて思いとどまってきた。考えただけで自分のどこかが痛んだ。 でももう、自分はやってしまった。滝川を殺そうと、やってしまった。 もう取り返しがつかない。 速水は全身が硬直していくのを感じた。 滝川が死ぬ。 その言葉が頭の中でわんわんと反響した。 三番機が補給車につくまでにかかった時間は二分だった。これはガンナー席からの非常入力であることを考えれば驚異的な数字だが、舞はそんなことを意識すらせず補給車の前で士魂号を急停止させた。士魂号を体育座りのような格好で座らせてから、素早くシートを下げてハッチを開ける。 そこには既に中村が待機していた。舞は無言のまま滝川の襟首をつかんでパイロット席から無理矢理引きずり出す。中村もそれを手伝った。 体から完全に力を失った滝川の体はぐったりと重かった。額に触れてみるとひどく熱い。 舞は表情をなくした顔で、中村と一緒に滝川を補給車の上から中に運び込んだ。そこにちょうどのタイミングで指揮車が走りこんでくる。 指揮車から石津が慌しく降りてきて、用意されていた医療機器に触れ滝川に処置を始めた。 舞は完全な無表情で、石津が滝川の体温その他をチェックし、解熱剤を打ち、冷却剤を張るのを眺めた。石津は本職だ、横から口を出してもいいことはない。そんな思考が頭をかすめたかどうか。 舞はとにかく、滝川の顔をひたすら見つめていた。それこそ全身全霊を込めて。 滝川がなぜ急にこんな高熱を発したのかとか、石津が対処しきれなければ早急にヘリでもなんでも調達して滝川を病院に運び込まなければ、というような思考が意識の縁をよぎったりもしたが、それでもとにかく滝川の顔から目を離せなかった。 滝川の顔は真っ青で、汗まみれで、表情が虚ろだった。目は閉じていたが、ひどく寒そうに歯を噛み鳴らし、小刻みに震えるその顔は、いつもの大げさなくらい表情豊かな滝川を思うとひどく違和感があった。 石津が舞を呼んでも、舞は滝川の顔から目を離さなかった。 「……芝村……さん……」 石津の震える声が耳に響く。それがなんだか人事のようだった。 「解熱剤……打っても……熱が……下がらな……い……熱……すごい……勢いで……上がっ……てる……。どん……な……病気なのかわからな……い、でも……このままじゃ……危険なのは……確か」 「それならば急いで手近な病院へ運ばなければ」 自分の声がひどく遠く聞こえた。 石津はしゃっくりを飲み込んだような音を立てて、話し続けた。 「そう……だけど、今……滝川君は……生と……死の……境目に……いる……。あとは……想い。強い……想いが……ないと、滝川君は……死んで……しまう」 石津はまたしゃっくりを飲み込んだような音を立てた。そしてひどく優しい声で続ける。 「名前を……呼んで……あげて?」 体の中心で爆発が起こったような気がした。体中の骨を粉々に砕くような重い一撃。 くらくらと眩暈を感じながら、舞は滝川の脇にひざまづいた。視線はやはり顔から外せない。石津がやってくれたのか、いつのまにか手の中に滝川の手が入り込んでいた。 ――じっと見つめる。 「……滝川」 ひどく乾いた声。 「……滝川」 必死に搾り出す。 「……滝川っ!」 でも答えてはくれない。 かっと頭に血が昇って、滝川の顔のすぐ横にパンチを叩き込んだ。 「とっとと起きんかこのたわけっ!」 「芝村……さん……」 石津が肩に手を置いたことにも気付かずに、舞は過熱した頭でまくしたてた。 「何を寝ている! 勝手に熱を出しおって、そんなことが許されると思っているのか!? 私のことを好きだと言っておきながら戦場で動けなくなるとは何たる体たらくだ! 死ぬかもしれんだと? たわけ! もしこんな馬鹿馬鹿しい死に方をしてみろ、あの世まで追いかけていって殺しなおしてやるからな! こんなに簡単に死ぬような真似、私が許すと思ったら大間違いだ! 私は……」 目の辺りがひどく熱くなったが、それにもほとんど気付かず叫ぶ。 「私はおまえのことが好きなのだからな!」 『私はおまえのことが好きなのだからな!』 速水は石津の後について指揮車から降り、舞の後ろに立って、じっと舞と滝川の姿を見ていた。じっと滝川の顔を見つめる舞も、真っ青な顔で苦しむ滝川も、そして泣きながら滝川を好きだと叫ぶ舞の姿も。 『終った』という声が、どこかから聞こえて気た気がした。 その後しばらくなにも考えずに突っ立っていたが、やがて滝川と舞から少し離れ、そこで手招きして石津を呼んだ。 石津は無表情になって、小走りで近付いてきた。 「……なに?」 「これを滝川に注射してやってくれ。多分、これで助かると思う」 そう言って速水はウォードレスのポケットからアンプルを取り出した。滝川に毒入り弾丸を打ち込んでからずっと持ち歩いていたアンプル――毒の解毒剤だった。 石津は困惑したような顔でこちらを見たが、速水は石津の手の上にアンプルを置くと踵をかえして歩き出した。 補給車にいた整備士連中から制止する声が聞こえたような気がしたが、無視した。 もうどうでもいい。何もかも。 ひどく疲れていた。今はただどこかで休みたい。なにも考えずに。 何もかも全部捨てて――だって自分はもう要らないのだから。 |