lineage of the land of the dead
 四物家の専用特大リムジンが、滑るように停車するや否や、音も立てないままにその扉は開く。前後についていた護衛たち用の車に乗っていた人間が、あらかじめ目的地前で、リムジンが到着するやすぐ扉を開けることができるように待機していたのだ。
 そんな真似を『音も立てないままに』できること、特大リムジンを『滑るように』停車させられること。リムジンの中にはお手伝いさん、というより従僕という立場になるだろう人が、普段はまったく人目を惹かないように待機していて、必要な時にだけ細々と面倒を見てくれたこと。
 それらすべてがごく当たり前のように行われていることが、四物家には家庭の細々とした雑用にさえプロフェッショナル中のプロフェッショナルを雇える財力があるということを示している。もちろん財力のみならず、権威権力と呼ばれるものも持ち合わせているだろう。華族さまだの、お貴族さまだの呼ばれるような人々だって、ここまでそれらを有している人々はほとんどいなかったはずだ。
 つまり、それだけ寄ってくる人も、敵であれ味方であれ、恐ろしく多くなるということでもある。
 そんなことを考えながら、閃は真っ先に車から降りて周囲の状況を確認する。自分でも周囲の気配を探り、顔見知りの護衛たちとアイコンタクトをし、『大丈夫』と確信できてから、すっと車に向けて手を伸ばした。
「園亞」
「あ、うん……えへへ」
 照れたように、というよりあからさまに照れながら笑って、普段よりきちんと(スタイリストまで呼んで)おめかしした園亞が車から降りる。そして笑顔のまま閃の手を引き、目の前の屋敷を指さす。
「ねっ、おっきいでしょ! あれがおじいちゃんたちの住んでるお屋敷なんだよ!」
「ああ……」
 確かに大きさなら東京の四物家の屋敷よりだいぶ大きいだろうが、かけられた金は比べ物になるまい。屋敷そのものの値段も向こうの方が高いだろうが、とにかく地価の違いが圧倒的だ。
 ここは東北、青森県の山間の平地という、日本でも有数だろう地価の低い場所。そこに、この時期――お盆になると、日本中、場合によると世界中から金持ちたちが集まってくるのだという。
 この場所に四物家の菩提寺――というより、三十年以上前、四物家の所有する企業がまだ企業グループとしか呼ばれていなかった頃、グループ内の権力を一手に握ることができた園亞の父、孝治が金と権力を使って強引に、そして秘かに、四物家先祖代々の墓を祭るため『だけ』の寺として開寺させた名もなき寺があるからだ。
 四物家先祖代々の供養のため――という名目で孝治たちと顔を合わせ、少しでも金を引き出すため、『自称』親戚も含めた連中が山ほど、この四物家の分家屋敷(孝治が権力の座から一掃した四物家の人々のうち、自力で屋敷を用意する財力のない者(孝治の父――園亞の祖父も含む)を全員この屋敷に叩き込んだので、孝治たちはそう呼んでいるそうだ。ここに住んでいる人々はそう呼ばれると激怒する、とか)と菩提寺以外なにもない土地に寄ってくるのだとか。
 そして、自分たち――閃と煌は、そういった連中が寄ってくる中、全力で園亞を護らなくてはならない。おそらくは、園亞の祖父も含めた、その連中の中の何割かが、園亞の身柄を狙う妖怪ネットワーク、〝白蛇〟と組んで、この機会に何らかの手を打ってくるはずだからだ。
 それが終われば、自分たちは、園亞と別れることになる。仕事が終わり、園亞と一緒にいる理由がなくなって、園亞と出会う前と同じ賞金稼ぎの生活へと戻っていくことになるはずだ。
 それが当たり前で、当然で。……あるべき姿でも、あるはずなのに。
「おい」
「てっ」
 ごつっと背後から頭を小突かれて、思わず声が漏れる。ちらりと一瞬だけ視線を向け、その拳の主が煌――身体にぴったり合ったオーダーメイドの黒いスーツをまとった、顔に着けた黒いサングラスの下から人を圧するほどの美貌がわずかにのぞく、見上げるような総身を筋肉で鎧った大男であることを確認し、前に向き直ってから「わかってるよ」と小さく告げた。
 煌はふんと鼻を鳴らしてから「ならいい」とだけ告げ、閃たちの後ろに着く。煌は今回、人間に変身したまま姿を現し、閃と園亞を護衛することになっていた。煌がそんなことを言い出した時には驚いたが、つまり煌もそれだけ今回の一件を危険視しているのだろう。
 この屋敷では、いつ何時〝白蛇〟の妖怪たちから襲撃をされるかわからない。いや〝白蛇〟のみならず他の妖怪たちを雇ってこちらを攻撃してくる可能性もある。
 四物家――四物コンツェルンの総帥、四物孝治の有する金と権力がどれほどのものか、それを手に入れるために人間がどこまでのことをしてのけるかというのは、前回の一件でよくわかっているのだから。
 煌の後から、周囲を黒服たちに囲まれながら孝治と玲子が車を降りてくる。園亞が先に車を降りたのは、自分たち――というか煌が園亞の護衛を担当しているからというのが大きいのだが、園亞はそういうことをまるで意識した様子もなく嬉しげに笑って両親の間に陣取る。
 すぐ後ろには自分と煌がいるし、周囲には黒服の護衛が群れを成しているというのに、まるで気にした様子もないのは、おそらく物心ついた頃からそういう環境に慣れ親しんでいるせいなのだろうが、少なくとも以前は脱走の常習犯だった以上、息苦しさを感じていないわけではないはずだ。
 できる限りそういうことも気をつけてやらないとな、と再度気合を入れつつ、眼前の屋敷を見つめる。園亞たちが車から数歩進んで、その武家屋敷のような巨大な門の前に立つと、呼ばわってすらいないのに、ぎぎぃっと音を立てて門が開き、塀の上から上部分をのぞかせていた屋敷の姿をあらわにしてみせた。
 その開き方を見る限りでは、自動扉という感じはしない。おそらく人間(の形をしたもの)が数人がかりでタイミングを見計らって開けたのだろう。
 まぁこれだけ人がいれば、監視カメラなどを使わずとも気配だけで、孝治たちが来たとわかってしまうだろうが、それでもこうしてちょうどのタイミングで門を開けるには、門の前にずっと人が待機して、門前の様子を窺っていなければならない。それだけこの屋敷の主たちが孝治たちを意識しているということなのだろうな、とちらりと思う。
 だが孝治も玲子も園亞も、そんなことはまるで気にした風も見せず、気軽な風情で屋敷の母屋へと進んでいく。飛び石を渡り、ほとんど森じみていると言ってもいいほど溢れんばかりの庭木や苔を配置し、さらには小さな川や池までしつらえた広大な庭を通り抜ける。その奥の、大きく開け放たれた玄関――というには大きすぎる、世界遺産級の寺院じみた広々とした入り口で靴を脱ぎ、人間ほどもある大きな壺に活けられた花や木の枝、金箔が張られていたり日本画が描かれていたりする何枚もの屏風、重厚な欄間といった飾り物の間を通り抜けて、建物のさらに奥――奥座敷へと向かう。
 ここから先には連れてきた他の人々は入れない。随身所に当たる建物が庭の右方に用意してあるので、そこに詰めることになる。その時代がかった屋敷の造りは、主に分家屋敷の主、孝治の父であり園亞の祖父である男の注文によるらしい。
 屋敷の中を先導してくれるのは、この屋敷のお手伝いさんである中年女性だ。玄関で自分たちを出迎えた時からずっと黙りこくって、なにも言わないままある時は平伏し、あるいは会釈するのみで、こちらを直接見ようとはしない。
 だが、それにもかかわらず、閃は自分たちに視線が向けられているのを感じていた。周りに自分たちとお手伝いさん以外に人の気配はなく、森閑とした静けさに満ちた屋敷なのに、妙にじっとりとした、熱のこもった視線が向けられているのがわかる。
 ちらりと煌に視線を向けると、面倒くさげな顔はしているものの、軽く肩をすくめてみせる。その仕草で、この感覚が錯覚ではないことが知れた。人か、妖怪か。どちらにしろ本来ありえないやり方で、こちらを観察しているのだろう。
 孝治たちの話によると、この屋敷の奥座敷は、孝治たちがやってくる日は、次の間と三の間が連なっていて間仕切りが外されているのだそうだ。実に三十九畳もの広さになるらしい。それでも溢れそうになるほどの人があちらこちらからやってくるのだとか。
 それほどの数の人を泊められるほどに大きな屋敷なのだろうと思いきや、実のところ屋敷に泊ることができるのは園亞の祖父や祖母をはじめとしたある程度血の近い人間、ないしその人々に特に認められた人間のみ、と定められているのだそうな。それ以外の人々は、中で眠ることができる車でこの屋敷を訪れるべし、という決まりになっているらしい。
 大量の人々がそれぞれに使用人なりなんなりを連れてやってくるので、そういう決まりにしておかなければどれほど広い屋敷でも飽和してしまうから、というのが理由ではあるのだが、実はそれは表向きで、実際には屋敷の中に泊れる人々――自称『四物本家』が、『屋敷に泊れる』という特権を巡って密やかに競い合う、宮廷陰謀劇じみた争いを楽しみたい、というのが一番の理由らしい、というのがなんとも。実際には四物コンツェルンに対してなんら影響力のない、権力も財力も持ち合わせていない『四物本家』の連中が、自分たちの思うがままに権力闘争を操れる。その一点が、彼らにはこの上ない娯楽になっているらしい、とかなんとか。
 だが実際、今日――四物家の盆供養を行う前日に、この分家屋敷に泊ることができる権利というのは、相当の高値で取引されているそうだ。四物コンツェルンの総帥たる孝治を確実に捕まえられる、話ができる権利というのは、それだけの価値があるのだろう。
 もちろん実際には、屋敷に泊ったからといって孝治が話を聞いてくれるとは限らないのだが、物事を都合よく解釈・判断する人間というのはどこにでもいる。金を少しでも引き出すために、働くことに時間を費やさずわざわざこんな東北の奥地までやってくるほど、切羽詰まっているか大金が必要か、働くことなく金をむしり取るのが当然だと思っている人間ならば、なおさらだ。
 奥座敷の前、きらびやかな絵の描かれた襖障子の前でお手伝いさんは無言で膝をつき、静かに開け放つ。とたん、奥座敷にほぼみっちり詰められた人々――百人を超えるだろう人の群れが、いっせいにこちらに視線を集中させてきた。
 だが孝治は一筋の動揺も見せず、ずかずかと奥座敷の中へと入っていく。玲子と園亞もその後に続く。自分たちはその後ろ、いつでも園亞たちを引き倒せる、つまり助けに入れる位置だ。
 奥座敷の最奥、何列も左右に並ぶ幾人もの人々を従える形で上座にふんぞり返っている老人――孝治の父であり園亞の祖父、四物孝秀が、どっしりとゆったりと、威厳を持った動き――をしてのけようとしているのだろうけれども、その年老いた瘦身のせいもあり、たいていの人には反応が鈍いだけと感じられてしまうだろうのろのろとした動作でこちらを向き、そっくり返ってとは言わないまでも、それに近いほど無駄に胸を張り、告げる。
「帰ったか。座れ」
 そう言って自分の隣、空いている三つの座布団を指し示す。孝治はちらりとそれを一瞥したものの、そちらに向かおうとはせず、園亞に笑顔を向けて一言二言囁き、そっと背中を押す。とたん、園亞は嬉しげな笑顔になって、すたすたとまっすぐに祖父の前へと進み出た。
「久しぶり、おじいちゃん! 会えてよかったぁ!」
「おぉ、おぉ園亞、久しぶりだな。わしも会えて嬉しいぞ? よく戻った、よく戻ってきた」
 ころっと好々爺のごとき和やかな笑顔に表情を変えて、孝秀は嬉しげに自分の前を指し示す。園亞は素直に示された場所に正座し、にこにこと孝秀に話しかけた。
「おじいちゃん、私ね、おじいちゃんに話したいことがいっぱいあるんだよー。いっぱいありすぎて、ちゃんと全部話せるかはわからないんだけど……」
「おぉ、おぉ、気にすることはないぞ、園亞。わしはお前の話だったら、いつでも、なんでも、聞いてやるからな」
「そうだよ、園亞ちゃん。君は私たちにとっても娘のようなものなんだから」
 そう得々と言ってのけたのは、今年還暦だという孝治の兄である孝志。
「いつでも、なんでも言ってくれていいのよ? 私たちは家族なんですもの、ねぇ?」
 皺が見えないほどの厚化粧の下からそう笑顔を作ってみせたのは、五十七歳の今までずっと独身だという孝治の姉の幸恵。
「まったくその通りだよねぇ、私たちは家族なんだから仲良くしなきゃ。園亞ちゃん、うちの息子たち、立派になっただろう? 光司郎は来年大学卒業で、浩太郎は今年大学入学なんだ。年も近いから、また仲良くしてやってほしいな?」
「よろしくな、園亞」
「頼むぜ、園亞」
 やたらにやにやしながら進み出た派手なスーツの男が、孝治の二番目の弟である孝介。離婚と再婚をくり返してきて、息子や娘が園亜に娶せようとしている二人以外にも十人近くいるらしい。
「あら、園亞ちゃんには女の子の方がいいわよ、お嬢さま育ちなんだから。うちの子は園亞ちゃんとは同学年だし、また仲良くなるのはうちの子の方でしょう、ねぇ?」
「…………」
 むっつりと黙り込む娘の腕をぐいぐい引っ張っているのは、孝治のすぐ下の妹である幸奈。三角眼鏡をかけた、前世紀の教育ママのごとき風貌で、事実娘をお嬢さま学校に通わせてはいるようだが、浮気や不倫をくり返し、これまで何度も尻拭いを孝治の手の者に押しつけてきたのだという。
 それから先も孝治の甥だの叔父だの叔母だの姪だの従兄弟だのはとこだの、次から次へと総勢数十人以上が、園亞に寄ってきては仲良しアピールをするのを、閃は園亞のすぐ後ろに控えながら見ていた。そいつらの顔と名前は全員頭に入れてある、ここでは園亞にどんな態度を取るかで、対応をどう調整するか考えるだけでいい。
 まぁ園亞の方はその何十人もの人々に、いつものにこにこ笑顔で朗らかに応えてはいるものの、顔と名前が一致するのは孝秀くらいらしいのだが。『うちってほんとに親戚たくさんいるから、年に一度しか会わない人たちだし全部覚えるの難しいんだよね……』としゅんとしていた。まぁ園亞の記憶力では無理もないことではあるだろうが。
 そんな最初のひと騒ぎが一段落するや、孝秀が上座からじろりとまだ立ったままの孝治と玲子を睨みつける。
「……で、だ。孝治、お前なにを考えて護衛などをこの場に連れてきた? この屋敷が安全だということは、他ならぬわしが証立てておるというのに。それとも、なにか。わしの言葉が信用できないとでも? お前の父であり、園亞の祖父である、四物家の長老たるこのわしの言葉が?」
 とたん、奥座敷の空気がさっと固まった。静まり返った、息詰まるような雰囲気の中、周囲の人々は向かい合う孝秀と孝治を見据えた。今回孝治が孝秀に言い渡すことがそれほど広まっているわけではないはずだが、少なくとも不穏な気配は感じ取っていたのだろう。全員息をひそめ、二人の様子をうかがっている。
 胸を張り、見下すように我が子を睨み据える孝秀に対し、孝治は立ったまま、さして気負った風もなくあっさりと告げた。
「そもそも、私はあなたの言葉に従う必要を認めていない。この屋敷は私の金で建てたものであり、所有権は私にある。あなたの命を長らえるために必要な金もすべて私が用立てている。それなのに、あなたが勝手に作ったくだらない、無駄に仰々しい掟などに従う義務がどこにある?」
「ぬっ……」
「それに、あなたの定めた掟とやらに照らし合わせても、彼らは屋敷の中に連れてきてしかるべきだろうよ」
「なに?」
「家族以外に紹介するのは、これが初めてになるが。――こちらは草薙閃くん。我が娘、園亞の許嫁だ」
「はっ……?」
 孝秀がぽかん、と口を開けて声を漏らすと同時に、声にならない絶叫が奥座敷を満たした。園亞の周りに寄ってきた人々が、顔面蒼白になり、愕然とし、あるいは恐怖して、狂奔の叫びを放ったのだ。
 孝治はそんな人々の醜態に、小さく肩をすくめて背を向ける。
「しばらくは話にならなさそうだな。失礼させていただこう。園亞、おいで」
「あ、はーい」
 園亞も孝治のあとに続いて、てこてこと玲子と並び奥座敷を出て行く。閃と煌もその後に続いた。それに追いすがろうとする人たちには、煌が一瞬すさまじい殺気を叩きつけて足を止めさせる。
 自分たちが奥座敷を出るや、座敷の前で待機していたお手伝いさんが、静かに襖障子を閉めてくれた。それに一礼してから、できるだけ背筋を伸ばして園亞たちのあとを追う。
 そう心がけないと、ついついしゅんと背中を丸めてしまいそうだった。やむをえないと一応納得しているとはいえ、確かに嘘ではないとはいえ、それでもやっぱり彼らを騙しているようで、『未来のヒーローを名乗る人間のやることじゃないよなぁ……』としょんぼりしてしまうのだ。

「閃くん。君には、園亞の許婚になってもらいたい」
 東京から分家屋敷に出発する際、自家用のジェット機で空港から空に上がってからしばし、自家用ジェットという富豪感溢れる環境に少しばかり気圧されて、自分の席(普通の飛行機のように乗車席が用意してあるというよりは、離着陸の際や揺れた時に体を固定できるよう準備してある椅子で、ビジネスクラスやファーストクラスより豪勢なんじゃないかと思うほど、やたらと大きくふかふかして飛行機の座席とは思えないほど快適な代物)に座ったまま固まっていた閃に、孝治は真正面から相対してそう告げた(閃の前の席(スペースは充分以上に取っている)を使用人の人が即座に回転させて向き合う形にしてくれたのだ)。
 閃は仰天し絶句して、それからすぐに言葉を返そうとしたものの、孝治はそれをさっと手で制し、自身の言葉を続けて告げる。
「君の言いたいことはわかる。だが、先に私の話を聞いてもらいたい。……今回の盆供養で私は、園亞を害そうとした連中――私の父を含めた分家屋敷に巣食う連中のいくらかと、〝白蛇〟を含めた外部の組織などに、自分たちのしたことを思い知らせてやるつもりでいる。具体的に言うと、私の父を含めた分家連中にはびた一文渡さずに屋敷から叩き出し、外部の組織には組織を維持できなくなるほどの打撃を与え、場合によっては一人一人に社会的な死を与えるつもりだ。まぁ、外部の連中には盆供養という機会を使おうとしない者たちもいるだろうから、ある程度長期戦になるのも覚悟してもいるがね」
「………はい」
「そのために必要な手はずは整えた。法律上――人間のルールにおいても、妖怪のルールにおいてもね。私もそちらに関して、君の手を借りるつもりはない。私が君にしてほしいことは、繰り返しになるが、園亞を全力で護ってもらうことだけだ」
「はい」
「だが、今回の戦場――四物家の分家屋敷では、それがいささか困難になる可能性があるのだよ」
「……というと?」
「四物家の分家屋敷には、分家連中――我々に寄生することで生き永らえ、自力で稼ごうなどと考えもしていない連中がひしめいている。むしろ分家屋敷というのは、そういう連中をひとつところでまとめて管理するために建てた屋敷だ。盆供養のための寺もついでに建てはしたが、それは本当についで、親戚連中を叩き込んだ屋敷で盆供養ができるなら時間の無駄がなく便利だ、というだけでしかない」
「……でも、分家屋敷の中には、東京まで頻繁に出てきてる人たちもいるそうですけど? というか、ご親戚の方々を数え上げると、どんなに大きかろうとひとつの屋敷で管理するのは無理な数になりませんか?」
「そうだね。四物家はもともと旧華族の家柄ではあるから、姻戚の類はそれこそ売るほどいる。たとえ頼りない縁であろうと、全力で使って我々から金を引き出そうとする連中の数は、それに層倍するだろう。基本的に私は、そういった連中には適度に金を与えて黙らせてきた。園亞の生まれる前は、そいつらの引き起こした醜聞で私の仕事が邪魔されることを、なにより厭ってもいたしね」
「はい」
「だが、分家屋敷に叩き込んだ連中は、そいつらの中でも特段に質の悪い連中の寄せ集めだ。我々から金をせびることを当然だと考えているだけでなく、コンツェルンに――私の仕事に影響力を有したいという、権力欲に取りつかれてもいる奴らなのだよ。当時の私にとっては、まさに不倶戴天と言うべき敵だった。だから屋敷に封じ込め、ここから出ることができないよう見張りをつけて、足を封じ、外部と連絡を取ることを困難にした。――まぁこの時代、どれだけ力を尽くそうと、外部と連絡を取るのが不可能な状態を継続させるのは、いささか無理があるだろうけれどね」
「…………」
「だが、そいつらの権力欲を存分に充足させられるような環境ではなかったのは確かだ。だから私の父は〝白蛇〟と通じたのだろうし――分家屋敷に奇妙な掟を蔓延もさせたのだろう」
「掟、ですか」
「ああ、そうだ。奴らは分家屋敷の中で少しでも権力欲を満たすため、分家屋敷が王宮かなにかであるかのように、自分たちを権力者に見立て、威厳と支配力を増すための演出に凝り始めたようでね。分家屋敷には無駄な掟が山とあり、それに違反した者は入ることを許されない。もちろん奴らの本来の持ち物……行使できる程度の権力や財力では、そんな掟に従ってまで近づく者もいなかろうが、困ったことに奴らは、私が年に一度盆供養のために屋敷を訪れることを餌にしたのでね。私に近づくために、その掟に従う者も山といる」
「それは……そうでしょうね」
「四物家が旧華族の家柄であることは周知の事実だし、分家屋敷は青森の山奥だ。そんな場所に広い屋敷を構えて住んでいる旧家の一族、というのはそれなりに押し出しの効く演出だったようでね、さして反発を受けることもなく何十人、何百人、何千人という人々が掟に従い、分家連中に金を支払って私に近づこうとしてきた」
「…………」
「ほとんどの場合そんな連中を私が相手することはなかったが、中には相手をする価値を持つ……私の仕事相手になりえる人々もいたのでね、実績ができてしまった。それをいいことに、奴らは無駄この上ない掟を、何百年も前から受け継がれてきた掟のように重んじ、護ることを強要するのさ。屋敷に入る際や、屋敷の中で行われている特殊な礼儀作法やら、盆供養の際の席次の決定方法やら……『護衛を屋敷の中に上がらせてはならない』という掟やら、ね」
「――――」
「もちろん、本来ならそんな掟に私が従う必要はない。分家屋敷の所有者は私であり、そこに住む者の生活費や、そこで働く使用人たちの給料も私が払っている。単にそこに住んでいるだけの人間が勝手に決めた規則など、意に介する必要はない。だが、今回は、その〝掟〟に、強制力が存在しうる、という情報が入ってきたのだよ」
「それは……!」
「私は今回、雇っている妖怪の調査員たちに、改めて分家屋敷の下調べを行ってもらった。妖怪の調査員を使ったのは、〝白蛇〟がなんらかの妖的な加護を与えている可能性がそれなりにあったためだ。〝白蛇〟の実働戦力を半壊させる作戦はその時すでに進行してはいたが、情報は早め早めに入手しておくべきだからね。そして、私の推測は当たった。〝白蛇〟が行ったことかどうかは定かではなかったものの、分家屋敷には妖怪によって入った者の行動を縛る制約がかけられていたのだよ。そして、その制約の少なくともいくつかは、分家連中の定めた〝掟〟に沿っていた」
「それが……分家の人たちが定めた〝掟〟に、従わざるをえない理由、なんですね」
「そうだ。それからも何度か妖怪の調査員を派遣したが、その制約の全貌はいまだ明らかになっていない。というか、昨日私の元に届けられた調査員たちの最終結論では、現在分家屋敷内に妖怪が潜伏しており、幾度も術をかけ直してこちらの調査・襲撃に対応してきている、ということだったのだよ」
「…………」
「そしてその妖怪の所在、正体はまるで判明していない。私の雇っている妖怪調査員は、妖怪たちの中でも相応の実力がある者たちだ、と私は考えている。私は妖怪たちについて深い知識を持っているわけではないが、人を見る目にはそれなりに自信があるのでね。人に似た心を持つ妖怪たちの、実力相応の自信を見抜くことができるという自負がある。そして、それだけの実力がある調査員たちが、チームで挑んでまともな情報が得られない、ということは――分家屋敷に潜伏している妖怪は、妖怪たちの中でも並外れた実力を持つ者である、と考えざるをえない。ツリンや煌殿ほどかどうかは、定かではないけれどね」
「―――!」
「そんな相手に対抗するためには、こちらもできる限りの手を用意せざるをえない。君たちの他にもいくつも手立ては用意しているが、少なくとも園亞にとって一番気安い上に信頼できる護衛は、君と煌殿であることは間違いない。つまり、君には常に園亞のそばにいてほしいし、そのためには分家屋敷の連中にも文句がつけられないような関係を、あらかじめ構築しておく必要がある。そのために、君には園亞の許婚になってほしいのだよ。将来の婿殿ともなれば、園亞と常に行動を共にしていたところで、誰からも文句のつけようはないからね」
「……っ、ですが」
「むろん、これが君の意に染まぬ行いであることは承知している。君はどんな理由があろうとも、人を騙すことには拒否感を覚えるし、嘘をつくのも好まない人間だ。――だが、私としては、正直なところ、嘘をついているつもりも、騙すつもりもないのだよ」
「え?」
「私は今回の一件をきっかけに、君に正式に園亞の許婚になってもらいたいと思っているからね」
「――――っ!!!」
「わかっている、君としては職業上も、自身の人生観からも、園亞のような女の子と結婚するということは考えられない、というのだろう? よくわかっているとも。だが、許婚というものは、基本的には親が定めるもの。当人たちの意志はむろん、最終的にはなによりも尊重されるべきだが、許婚という関係をあらかじめ結んでおくことで、当人たちの意志に変化が起きることを期待して、親にとって望ましい相手をとりあえず許婚に定めておく、というのはさして珍しくもないやり方だ」
「っ……ですけど!」
「そして、君という人間個人を私がこれまで観察してきた限りでは、君は私が園亞の許婚に選んでもおかしくはない人間だ。厄介事は絶えないだろうが、それに対処できるだけの能力を、運命共同体である存在込みでとはいえ備えているし、自身の容貌、人格、言動、能力、どれも高水準と言わざるをえない。なにより、園亞が心より好意を抱いている少年だ。現段階では結婚までは考えようとはしていないだろうが、許婚という関係を結ぶことは嫌がりはしないだろう。ならば、私としては繋がりを作っておきたい、と考える。園亞が最終的に、思う通りの、願う通りの結婚相手と結ばれることができるように、できる限りの手を尽くす。それは私の親としての義務であり、権利だからね」
「っ……」
「なので、私としてはぜひとも君に園亞の許婚になってもらいたい。君が園亞の護衛という職務を全うするために必要であり、園亞にとっても私や玲子にとっても文句のない行いであり、君が嘘をつく必要をなくす行為だ。私としては、受け容れてもどこにも問題の出ない話だと思うのだが、どうだろう」
「……問題なら、いくつもあるでしょう。少なくとも俺は、その後結婚するつもりはつゆほどもないんです。それなのに、許婚になるなんて、不誠実なんてレベルじゃ……」
「言っただろう、今はそうでもいつか気が変わるかもしれない。それを期待して、いつでも解消できる不安定な関係を結んでほしいというだけだ」
「だけど! 俺は本当に、園亞と……誰とも結婚するつもりはないんです! それはまず間違いなく一生変わらない。それなのに……」
「絶対に変わらない、とは君も言い切れないのだろう? ならばこちらとしてはなんの問題もない。残るは君の方の問題になるわけだが……君も、今回の一件において、園亞を全力で護衛してくれるつもりはあるのだろう?」
「それは……もちろん、ですけど」
「ならば、君は一時的に、というつもりで許婚という関係を結んでくれればいい。今回の一件が終わったなら、すぐにでも解消してくれてかまわない。私たちとしては、その短い時間で君の意志が変わることを願って、正式な許婚として扱うから」
「っ……それは、だけど! 一時的に、なんてつもりで許婚になるなんて……なんていうか、その……よくないです!」
「ほう? どこがよくない、と?」
「だって、その、なんていうか……人の道に反してるでしょう!」
「どう反しているというのかな? 許婚という関係を結ぶこと自体は、私たちも園亞も文句はない。それが一時的なものになってしまったとしても、正式に許婚という関係を結んでもなんら問題はないと考えている。そして、許婚という関係を結ぶことは、君の仕事を果たすために必要なことだ。園亞を護るという仕事を、放りだすつもりはないんだろう、君も?」
「そっ……れは、そうですが」
「それなのに、どこが人の道に反しているんだい? 今回結ぶ許婚という関係は、私たちにとっては未来への投資。君にとっては仕事を果たすための必要条件。君にそのつもりがなくとも、私たちにしてみれば一時的にでも関係を結ぶこと、それ自体が利得となる。だから正式な許婚として扱うし、ことがすんだあとに関係を解消されても文句を言う気はない。それなのにあくまで君がこの申し出を拒むというのなら、それは君が仕事を放棄する意思を固めた、ということに他ならないのでは? むしろ、その方が人の道に反してはいないかね?」
「いや……だけど、だって!」
「……それにね。私たちは、今回の盆供養では、『園亞の許婚』という存在がいてくれた方が、園亞の安全性が格段に高まる、と考えているんだよ」
「………どういうことですか」
 一瞬で意識が切り替わる。一瞬で剣尖のごとく鋭く変わった視線で、刺し貫かんとばかりに気迫を叩きつける閃に、孝治はちらりと園亞の居場所を確認してから(玲子と一緒にお茶菓子をつまみつつお喋りをしていた)、声を低めて告げた。
「分家屋敷に集まる姻戚の中には、若い男に分類される連中がそれなりにいる。園亞と年齢的につり合いが取れている、と判断されるだろう連中がね。むろん、その中にほんの一欠片でも見どころがある者は一人もいないが……連中の大半はその事実を無視して、園亞と婚姻を結ぼうと画策しているんだよ」
「そんなことは、あなたも玲子さんも許さないでしょう」
「その通り。天地がひっくり返ろうと、そのような愚物を園亞と結婚させるつもりはない。だが、そういった連中は、自分たちの手前勝手な道理が私たちにも通用すると思い込んでいる。園亞を自分たちのものにしてしまえばこちらのもの、四物コンツェルンを自分たちのものにできる、などという妄想を抱いているんだ」
「つまり、どういうことなんですか」
 ぎっ、と孝治を睨みながら問うと、一瞬の戸惑いの表情と、それから苦笑が返される。それから孝治は小さく肩をすくめ、声をさらに低めて説明した。
「端的に言えばこういうことだよ。――園亞をレイプしてしまえば園亞と結婚できる、なんて妄想を大真面目に信じ込んでいる若い男や、その親兄弟がこの盆供養には何十人も集まる、ということさ」
「―――――!!!」

 あんな話を聞いてしまった以上、自分には孝治の申し出にうなずく以外の選択肢はなかったし、その行いに後悔はない。許婚として常に園亞と行動を共にしていれば、そういう意味での園亞の身の安全も確保できるし、そもそもそういった連中の矛先はまず閃に向かうはずだ、という孝治の理屈は閃にも納得できるものだったからだ。単に、状況の理不尽さ――四物家と園亞を取り巻くもろもろの、一般的な倫理からの外れ具合についてまでは納得できていないので、気持ちの据わりが悪いだけで。
 園亞たちのあとについて屋敷内を歩くことしばし、たどり着いたのは広々とした、当然ながら和室だった。園亞たちが入る前に、一通り部屋をチェックし、物理的にも妖術的にもまずなにも仕掛けられていない、ということを確認する。
 布団は日に干したばかり、掃除もきちんとできている。さすがに四物家、というか四物コンツェルンのトップが寝る部屋なのだから、内心でどう思っていたとしても、小さな嫌がらせをして機嫌を損ねるような真似をする気はいないらしい。そして、四物コンツェルンのトップに粗相を指摘されたくもないのだろう。そもそもこの屋敷で働く人々の給与も孝治が払っている以上、表立って工事に逆らうような人間は誰もいないはずだった。
 何人かの例外を除けば、と心の中で続けてから、すでに運ばれている旅行鞄を開けてなにやら考え込んでいる園亞に声をかける。
「園亞」
「え、あ、うん、なに?」
「とりあえず、今日園亞がなにをするっていう予定があったら教えてもらっていいか? 基本的な盆供養の流れは教えてもらってるけど、園亞がなにをするかっていうのは知らなかったから」
 そして、園亞の場合、前もって予定を聞いても、それが当てになる可能性ははなはだ低いと判断し、屋敷についてからこうして予定を聞いているわけだが――という閃の目論見などさっぱり気づいていない顔で、園亞は素直にうーんと首を傾げて考える。
「うーん、私もお盆の時なにするか、ってちゃんとわかってるわけじゃないからなー。お父さんとお母さんの言う通りにしてるだけだし。今日は晩御飯まで自由時間で、ご飯食べたら順番にお風呂。あ、このお屋敷って、うちの家と一緒で、お風呂いくつもあるからみんなそんなに待たないで入れるよ?」
「………うん」
 確かに『お風呂いくつもある』のは、東京の四物家の屋敷と一緒ではある。使用人たちが使う一角にある使用人用の風呂と(閃も普段はそこを使わせてもらっている)、家族用の風呂が気分に合わせて使い分けられるようにいくつか、それとは別に客用の風呂、というように作られている東京の屋敷とは、だいぶ違う目的で、ではあるが。
 東京の屋敷の風呂のしつらえもだいぶ常識外れではあると思うが、この屋敷はそれとは別方向に常識外れだ。この屋敷では、訪れた人間がどの風呂に入れるかというのは、その人間に与えられた〝格〟で決まるのだ。
 東京の屋敷も客用使用人用、というように使う人間の性質によって分けられているわけだが、そういうことではなく、分家屋敷の人間が訪れた人間を勝手にランク付けして、風呂も寝室も使えるものを振り分けている。〝格〟が高ければ高いほど、上質で高級な設備が使えるようになっているわけだ。そして、その〝格〟を決定づける一番大きな素因は、四物家本家との血の近さもあるが、それ以上に分家屋敷の人間に渡す付け届けの金額の多寡によるらしい。
「お風呂入ったら、いつもは別になんにもしないでそのまま寝ちゃうかなぁ。このお屋敷だと、持ってきた端末でテレビ見たり動画見たり、ぐらいしか暇潰すものないし。ボディガードの人たちが入れないお屋敷で、あんまり出歩いても迷惑かけちゃうしね」
「……でも、今日は俺たちがいるから、誰にも迷惑は掛からないと思うけど?」
「あ、そっか。そうだね、じゃあ、お屋敷の中探検してみよっか! 私も実はこっちのお屋敷ってあんまり中うろうろできなかったから、どういう感じになってるのか気になってたんだ!」
 朗らかな、まったく他意のない笑顔を向けられ、とりあえず「………うん」と、『あんまりうろうろされない方が護衛としては助かるんだけどな……』という想いを吞み下してうなずきを返す。それに、この屋敷の人々や、姻戚関係の反応を引き出すためにも、園亞と自分が一緒に屋敷の中をうろつくというのは、真っ当なやり方だろうと考えたのだ。
「えっと、じゃあ、お父さん、お母さん。私たちで、お屋敷の中探検してきてもいい?」
「ああ、もちろんだとも園亞。お前の思う通りにしてみなさい」
「あなたがなにをどうしようと、私たちがきちんと手助けしますからね」
「うんっ! じゃあ、行ってきまーす!」
 そう言って部屋を出て行く園亞のあとに、孝治と玲子に一礼してから続く。二人の護衛は自分たちとは別口で用意してあることは、とうに教えられていた。自分と煌は、あくまでも園亞の護衛に専心すればいい、と。
 煌は人間の姿で、黒スーツをまとったまま自分のあとについてくる。『いつものように〝よりどころ〟には隠れない』ということは、煌からちゃんと伝えられていたので、戸惑いはない。おそらく、煌にとっても、今回の敵は端倪すべからざる相手であるのだろう。
 園亞はふんふんと鼻を鳴らしながら、屋敷の廊下を歩き回る。閃は園亞を一瞬で引き戻せるほど近くに続いて歩き、その一歩後ろに煌が続いて歩く。はたから見ればずいぶんと狭苦しいことだろうが、煌が自分からある程度離れてしまうと力を失ってしまう関係上、閃としてはこの体勢を崩す気はなかった。
「やっぱりおっきなお屋敷だねー。でも、東京のお屋敷とは内側もずいぶん違うね? うちだと、中は洋間っていうか、扉で開け閉めする部屋も多いのに、このお屋敷は襖ばっかり」
「そうだな……」
 東京の四物家の本家屋敷は、昔に建てられた日本家屋を、住みよいように何度も(目立たないように)改築し直してきたのでそういうつくりになっているのだろう。もちろん分家屋敷のように座敷や縁側のような、日本家屋そのものの部屋も残してはいるのだが、ふだん屋敷の人間――園亞や孝治と玲子が暮らしている生活空間は(園亞の両親はそもそも屋敷に戻ってくることがめったにないので、『暮らしている』という言葉は正確ではないだろうが)、基本的に洋間で、インテリアもそちらに寄ってしつらえられている。
 実は家族それぞれが自分のために用いる和室、つまり和風の自室というものも用意されており、そちらは当然ながら寝具もインテリアもすべて和風。部屋にそぐわないものは一切用意されていない。そのせいだけではないだろうが、園亞は『和室での暮らし方』というものにはそれなりに慣れているようだった。
 だが、この屋敷は、洋間の類は一切用意されていない。すべて和室であり、寝具は布団しかありえず、照明はもちろん電気による灯りではあるものの和風のぼんぼりだ。
 これはこだわりというよりは、内装に手を入れることができなかったがゆえなのだろう。孝治はここにいる人々のために、大金を支払って望み通りに改築してやる、などということは断じてしなかっただろうから、この屋敷を建てた時と同じ、日本家屋のまま、まるで変わりがないのだ。
 庭なども、その様子が透けて見える。閃にはもともと庭を見る目など備わっていなかったが、この数ヶ月、常に一流の庭師が出入りする四物家本家屋敷で寝起きしていたせいか、それとの違いはなんとなく見て取れるようになっていた。
 ここの庭は、この屋敷に努める庭師(おそらくは)一人で、地道に日々少しずつ整えていったものなのだろう。ちゃんと見れる庭として造り上げられてはいるものの、庭の広さに対して人手が足りなさすぎるせいで、手を入れてから時間が経った場所の草木が、『整えられた庭』の範疇からはみ出すくらいに伸びてしまっている。
 閃としては、特に整えられていない自然のままの庭の方が気楽ではあるが、一応の体裁は繕えられている分、そういった微妙な足りなさが違和感を感じさせ、不快感まで覚えさせてしまう。庭師の人が、その職分の許す限り、全力を尽くして庭を整えようとしていることが理解できるので、見ている方が申し訳なくも哀れにも思えてしまうのだ。
 ――が、四物家の本家屋敷で育った園亞は、そういったことをまるで気にする気配もなく、機嫌よさそうに屋敷の中を見て回っていた。扉や襖はノックしたり、声をかけたりしたのち、遠慮なく開ける。
 幸い今のところ誰とも出くわすことはなかったものの、その無遠慮なやりようは礼儀作法にかなっているとは言い難く、園亞がふんふんと楽しげに鼻歌を歌っているので少し心は痛むが、諫めようと口を開く――が、なにか言うより前に、廊下の向こうからぎしぎしと足音を立てて、数人分の人の気配が近づいてくるのが感じ取れた。
 煌と視線を交わすより早く、閃は園亞の前に出て、いつでも刀を抜ける体勢で身構える。もちろん刀を抜いてはまずい相手が仕掛けてくる可能性もあるので、刀を抜かずに相手を制する体術の足運びにも移行できる、自然体の構え方だ。園亞が目をぱちくりさせてこちらを見やるが、なにか言葉を口にするより早く、人影の方が閃たちの前に姿を現す。
 廊下の曲がり角の向こうから姿を現したのは、総勢四人の若い男たちだった。顔には一応の見覚えがある。孝治の二番目の弟である孝介の、次男である光司郎と三男である浩太郎。それに加えて、孝治の父方の従兄である愁一の息子である宗一。孝治の母方の従姉である紗耶香の次男である翔之介、で四人。つまり園亞からすれば従兄が二人、はとこが二人、となるわけだ。
 四人の男はこちらの気配に気づいていなかったのか、ちょっと驚いた顔をしたものの、園亞を目に入れるやぎらりと目を光らせて口の端を吊り上げる。が、その後園亞の前に立つ閃と、後方に立つ巨漢――煌の姿を認めたのだろう、舌打ちしそうな顔になった。
 だがすぐに園亞に向き直り、にやにやと顔を歪めながら声をかけてくる。
「園亞、久しぶりだな。さっきはろくに話もできなかったもんな」
「せっかく会えたんだから、ちょっと話しようぜ。親類同士、水入らずでさ。な、いいだろ?」
「園亞と話せねぇんじゃ、屋敷に来てもつまんねぇもんな。俺たちみんなで、仲良くしようぜ?」
「無粋な連中とかはなしでね。ね、いいだろう?」
「あ、はい……」
 園亞はそう困ったように言いながら、ちらりとこちらに視線を向けてくる。たぶんその内心は『どうしようこの人たちの名前なんだっけなんだっけ思い出せないよう』というものだったのだろうが、閃はあえてその問いに答えず、園亞をかばうような体勢を取って男たちと対峙した。
「お断りします。あなた方と『親類同士、水入らずで』話したとしても、いい結果を生みそうにありませんから」
 当然ながら男たちの顔は忌々しげに歪み、口々にこちらに蔑みの言葉をぶつけてくる。
「あぁ? 調子に乗ってんじゃねぇぞ、使用人風情がよっ」
「君などがどう言おうと関係ない。園亞さんと僕たちは親類なんだからね。四物家本家と縁を結んでいる者だ」
「お前なんかがなにをどうしたところで、逆らえるわけがねぇんだよ! すっこんでろ!」
「お断りします。俺は園亞の護衛で――そして今は、許婚だ。園亞の心と体の安全を守り、外敵を排除する義務がある。この屋敷の掟とやらを盾に取り、よからぬことを企む連中のいいようにさせる気は、まったくありません」
 きっぱり言い放つと、男たちの気配がさらに歪む。憎悪、嫉妬、悪意、殺意――呪わしげで恨めしげな、負の感情を煮凝りにしたような吐き気を催す類の思念が、いっせいに閃に向けられる。
「てめぇ……調子に乗んのも、いい加減にしとけよ……?」
「なにが許婚だ……ふざけんな。俺たちを、誰だと思って……」
「四物家――というか、四物コンツェルンの総帥孝治さんから少しでも金を引き出そうとする、あるいは園亞を自分のものにして四物コンツェルンを我が物にしよう、だなんて馬鹿な考えを抱いている屑野郎だと思ってます。俺は職務としても、個人的な感情としても、園亞をそんな連中にいいようにされる気も、触れさせる気もない」
「てめぇっ!」
 一番前に立っていた男――光司郎が殴りかかってくる手をつかみ、即座に関節技にもっていく。上手い具合に体勢を崩してくれていたので、背後に回り込みながら手首、肘、肩を極める三カ条締めがきれいに入った。
 きれいに入りすぎて、相手が一瞬で意識を失い、がっくりと頽れてしまったが、まぁこの場合は大して問題にはならないか、と光司郎の身体を投げ出して、残り三人をぎろりと睨む。
「俺は、曲がりなりにもボディガードです。そんな相手に、素人が殴りかかったところで、意味があると思いますか?」
 さすがに人間相手に刀を抜く気はないが、閃でも無手の体術は二、三段程度には修めているのだ。光司郎の殴り方は、人を殴るのに慣れた動きは感じたものの、その鋭さ、速さ、力強さは素人とさして変わらない。そんな相手がこの程度の数群れたところで、どうとでも対処のしようはあった。
 そんな正直な想いを感じ取ったのか、他の三人はあからさまに怯えた顔を見合わせると、「覚えてろよ!」と口々に叫んで回れ右をする。そこに、閃は鋭く「待った」と声をかけた。
 びくりと震えておそるおそるこちらを振り向いてくる男たちの前で、閃は光司郎を座らせると、活を入れて意識を取り戻させる。「ぅぐ……え……?」と、まだ状況が呑み込めていない(そして体調的にも最悪であろう)光司郎を指差し、閃は三人の男たちに告げた。
「この人もちゃんと連れ帰ってください。曲がりなりにも連れ歩く相手というなら、きちんと面倒は看るように。どこも傷をつけてはいませんから、介抱の必要はないと思いますが、布団に寝かせるぐらいのことはしてあげるべきでしょう」
『……っ……』
 また顔を見合わせ、いまだなにが起こったのかわかっていない、という顔の光司郎を二人がかりで支えながら、廊下の向こうへ去っていく男たち。それを見やりつつ小さくため息をついて、閃は園亞の方へと振り返った。
「園亞、怪我はないよな? 気分は……え」
 気遣う声をかけようとして、思わずあっけにとられる。園亞は、なぜか、やたらめったら顔を赤くして、頬を両手で挟みながらやたらきょろきょろしつつうろたえているのだ。
「せせっ、閃くんっ、私の、いいなずけ、許婚って……! そ、そそっ、そうだよねっ!? せっせっ閃くんっ……今は、ホントに、私の、い、い、許婚っ、なんだもんねっ!? わぁ、わぁぁ、わぁぁぁ……! ちょ、わぁっ、すごっ……! こ、こ、こんなのって、わぁ、わぁぁっ……!」
「……ええと、園亞?」
「なっなに閃くんっ! あっ……と、い、許婚の、閃、くん………? わわわわわわぁわぁわぁ、ちょ、待って、すごっ……! えー、待って、すごい、そんなのあるんだ……! もう、もうもうもう、なんかもう、すごい………!」
「………、ええと………」
「放っとけよ閃。今はなに話してもどうせ聞いてねぇ」
 園亞の向こうで、煌が黒スーツに黒サングラスという格好を崩さないまま言ってのける。雇われボディガードの身としては、護衛対象に対するそんな言い草は咎めるべきところなのかもしれないが――反論のしようのない眼前の光景を眺めやり、閃は再度ため息をつくしかなかった。

 それからの屋敷散策の中では、どれだけ扉を開け閉めしようとも、他の親戚たちと会うことはなかった。おそらく園亞も、親戚たちが普段使いしている部屋や、客間として使われているはずの部屋は避けたのだろう。……まぁ、単に、屋敷の中で迷ってぐるぐる回っていたせいで、自分たちの寝室からそこまで離れたところにはたどり着けなかった、というだけなのかもしれないが(閃も方向感覚には自信がないので確信が持てない)。
 が、夕食となればそうはいかない。孝治たちから聞いたところによると、今日明日の食事は、基本的には奥座敷で、親戚及び招待客全員と一緒に取ることになっているらしい。向こうがどう動くのか、その際に思いきった動きを見せるかどうか、悩もうと思えばいくらでも悩めるところだったろうが、今の自分は園亞の護衛だ。その任を全力で果たすのみ。そう心に定め、閃は煌と共に、四物家親子に付き従って、夕食の時間ぴったりに奥座敷へと赴いた。
 前回同様、お手伝いさんが襖を開ける形で座敷の中に通されるや、すでに座敷の中に満ち満ちていた人の群れがいっせいに、ざわりと蠢き、幾人かは腰を浮かせた。
 孝治はそんな連中をまるで意にも介さずに、無造作に座敷を進む。座敷の最奥、一番の上座に座す孝秀の隣に、三人分の膳がしつらえられていた。おそらく、自分たちには園亞たちと一緒に食事を取る権利など与えない、という無言のうちの親戚たちの主張なのだろう。親戚たちのうちの何人かが、くすくす、くっくっといやらしい笑い声を立てるのが聞こえた。
 が、園亞はそういう細かいことにさっぱり気づかなかったようで、自分たちの分の膳を見て首を傾げると、孝秀に真正面からストレートに問いかける。
「あれ、おじいちゃん? 閃くんたちのご飯がないよ?」
 ざわり、と再度座敷全体が蠢く。だが、そんな気配にも園亞はさっぱり気づかない様子で、孝秀に心底不思議そうに問い続ける。
「おじいちゃん、閃くんたちのご飯準備するの、忘れちゃったの? 初めての相手だから、うっかりしちゃったとか?」
「ぬっ……ぐっ……」
「心配する必要はないよ、園亞。私たちがきちんと算段をつけておかないはずがないだろう?」
「たとえこの家の方々が、私たちの食事の用意を忘れても、もてなしに遺漏があっても、当然問題がないようにしてあるわ。あなたの親を信じなさいな」
「え、うん。私お父さんとお母さんのこと信じてるけど……?」
 意味が分からない、という顔で首を傾げる園亞に笑いかけてから、孝治と玲子はちらりと視線を動かす。とたん、襖がまたも静かに開き、二人の(これまで見たことのない)お手伝いさんがお膳をもって奥座敷に入ってきた。
 思わずぽかんとする閃をよそに、そのお手伝いさんはてきぱきと園亞たちの膳の隣に席をしつらえていく。そしてそのままさっさと退出しようとしたところを、孝秀が震える声で怒鳴りつけた。
「待てっ! どういうつもりだ、貴様ら! 私はしかるべく配慮をしろと申しつけたはずだぞっ!」
 二人のお手伝いさんたちは目を伏せたまま答えようとしなかったが、孝治がその前に進み出て、余裕たっぷりの笑みを投げかける。
「しかるべく配慮をしているだろう? ――金を払っている相手に対して、ね」
「っ、貴様っ……!」
「まさか、自分に命じられれば使用人は誰もが素直に言うことを聞くとでも思っていたのかな? あなたは貴族でも華族でもなく、東北の果ての屋敷に閉じ込められた、一老人でしかないというのに?」
「ぐ……ぬ……きさ……っ!」
「さ、園亞、夕食をいただこうか。せっかくの料理人の心づくしだ、冷める前にいただかなくてはな」
「あ、うんっ! わぁ、すごいいい匂い……!」
 孝治の後ろで、孝治と孝秀を困ったような顔で見比べていた園亞だったが、孝治に導かれて、あっさり意識は夕食のお膳の方へいってしまったらしい。やれやれ、と思いながらも、閃と煌も園亞の隣の席に着く。護衛なのだから食べる時間をずらすべきでは、と閃は孝治に提言したのだが、食事関係にはきちんと手を回しているので毒を盛られる心配はいらない、君たちは園亞の許婚とその家族という扱いになるのだから、一緒に食べない方がおかしい、と説得されてしまったのだ。
 まぁたとえ毒を盛られていようとも、煌ならばまず気づけると思ったからこそ説得に応じたのだが。煌は毒物に関しても専門家並みの知識があるので、簡単な毒見程度でも毒の有無を見分けることができるはずだ。たとえ毒を食ったとしても、煌を殺せる毒なんて、強力な毒使いの妖怪が調合した妖毒でもまず無理だろうし(毒が効くとか効かないとか以前に、耐久力が旺盛すぎて、人間なら死亡間違いなしという毒でも殺しきれない。いざとなれば毒を浄化することもできる)。
 が、煌は夕食を乗せたお膳を前にして、わずかに眉をぴくりと動かしただけで、毒見も様子見もせずに、遠慮会釈なく(かつ、礼儀正しい箸づかいで)夕食を口に運び始めた。思わず目を瞬かせた閃に、煌は心の声を投げかけてくる。
『心配ねぇ、この飯は安心できる。この飯を作った奴が厨房を預かってるってぇんなら、この屋敷で出される食事に毒を盛られるだなんだってことにゃあまずならねぇだろうぜ』
『……煌、その厨房を預かってるっていう人のこと、知ってるのか?』
『ま、とりあえずは食ってみな』
『…………』
 言いたいことはないではなかったが、とりあえず言われるままに、礼儀にのっとった箸づかいで焼き魚を口に運び――絶句した。
「これって……」
「おいっしー! ねぇねぇ閃くんっ、このお料理すっごいおいしいよねっ! この前このお屋敷に来た時に食べたのより、ずっとおいしー!」
「……ああ、そうだな」
 自分たちにつられて食事を始めた者たちからも、賞賛の、というより絶賛せずにはいられないという勢いの声が漏れる。それも当たり前だろう、改めて見てみれば、お膳の上は窮屈な感じはしないのに一分の隙もなく、かつ美しく整えられ、料理人がどれだけ細やかに神経を使って食卓を形作っているかがわかる。一見しただけでは当たり前の日本の食卓でしかないというのに、そこに広がる間と季節感の表現は、高級料亭でもこうはいかなかろうというぐらいだ。
 味もすごくおいしい、などという段階ではない。見たところごくごくありきたりに、鯛の尾頭付きを焼いただけという料理でも、身はふっくらとしてみずみずしく、なおかつ微妙な歯ごたえを残しており、口の中で噛み締めるだけで心地よい風味が広がる。塩加減ももうこれ以上はない、というほどに完璧だ。のみならず、他の料理とのバランスも取れていて、というより出された料理のすべてが見事な調和を保っていて、どの組み合わせで口に運んだとしても幸せな味が口の中を駆け抜けてくれる。
 ――こんな料理を出せる料理人は、閃の知る限り――というか、閃の常識から判断すると、一人しかいない。
『……箕輪さん、だよな?』
『それ以外ねぇだろ』
 箕輪祐。以前に園亞たちと食事をしたレストラン、〝カルパ・タルー〟の雇われシェフ。食後に店のスタッフと少し話をした時に、実はインドの料理の神であると教えてもらった、人間の時は小学生にしか見えない姿をしている妖怪だ。彼の料理はまさに絶品としか言いようのない代物で、料理は達人級である煌(というか、煌の場合は達人級でない技術の持ち合わせそのものがほぼ存在しないのだが)とすら比べようにならない超達人級の腕前の持ち主。
 だがその分自身の料理人という職業に強い誇りを持ち、店に来た客に料理を出すことをなによりの喜びとしているらしい彼が、なんでこんなところで料理をしているのだ?
 まぁ当然この人たちがなにか働きかけをしたからなんだろうけど、と涼しい顔で礼儀正しく食事を進めている孝治と玲子をちらりと見やってから、閃もとりあえず食事を進めた。とりあえず、こんなおいしい料理を出してもらっているのに、ぐだぐだ考え込んで味を落とすなんて、それこそ作ってくれた人に失礼すぎる。
 奥座敷に詰まった人々もほぼ全員が感嘆、というより感動と言っていいほどの声を上げていた。当然だろう、箕輪の料理にはそれを成し遂げるほどの力がある。
 ――が、それも残念ながら、料理人の心づくしを感じ取れない人間、そもそも食べようとも考えていない人間の心までを思い通りに動かすことはできない。今日厨房を預かっている料理人が、自分のの支配力の及ぶ相手ではないと理解したのだろう、孝秀は顔を真っ赤にして唸っていたが、やがて堪忍袋の緒が切れた、とばかりにだんっと畳を叩いて立ち上がり、怒鳴る――というより喚き散らし始めた。
「孝治ィッ! 貴様……わしに、四物家の長老たるこのわしに、逆らうつもりかァッ!」
 孝治は涼しい顔でそれを無視し、食事を続ける。まぁ箕輪の料理を味わうのを中断するほどの意義をその行動に認めなかったということなのだろうが、当然ながら孝秀はますますいきり立った。
「貴様ァッ! とうとう、とうとうわしに反逆するつもりなのだなッ!? わしは知っていたぞ、お前はずっとそうだった! 親を親とも思わず、敬いもせず、頭を下げることすらせず! まるでわしが愚か者であるかのように、蔑むような目で見ることすらして………!!」
「―――。敬い、頭を下げるだけの価値があることを、あなたがした、と? 自分が愚か者でない、と本気で言っているのか? 財閥を絶命寸前にまで追い詰めた、気位ばかりが高い無能な華族崩れが? 私が財閥の主導権を握り、ようやくまともに働くことができるようになってからも、つまらないことでいちいち私の足を引っ張っておきながら? これ以上面倒をかけぬよう、閉じ込めた屋敷ですらくだらない掟を蔓延させ、周囲に迷惑をかけ通す、私にとってはまさに害悪としか言いようのない代物に、親として敬われる価値がある、と?」
 孝秀がこういう反応をすることはある程度理解していたのだろう、やや急ぎ目に箕輪の料理を食べ進めていた孝治は、食後のお茶までしっかり飲み切ってから滔々と反論を始めた。正座した背筋は凛と伸び、見上げる格好になりながらも視線ひとつですら堂々と、よく響く声で告げる姿には、まさにコンツェルンの総帥と呼ぶにふさわしい威厳があった。老人が癇癪を起こしたとしか言いようのない孝秀の醜態とは、比べることすら愚かというほどの。
「貴様ァッ!」
「はっきり言おう。今日、私はあなたに、引導を渡しに来たのだよ」
「なん………だとっ?」
 座敷全体がざわめく。こそこそと近くにいる人間と顔を寄せ合い、焦ったように言葉を交わす。つまり、この人たちにとって、それだけ孝治の言葉は以外で、驚くに値するものだったのだろう。演技をしている人ももちろん多いのだろうけど。
「あなたがしたことにふさわしい罰を下し、我々にこれ以上なにをどうしようとも迷惑がかけられない状態に落とし込んで、すっぱり縁を切る。あなたに従う者、あなた同様の罪を犯した者も同様だ。そこまではいかなくとも、これまでに私と、私の家族に無礼な振る舞いをした者にも、相応の報いを与えるつもりでやってきた」
「なっ……なっ……なっ……」
「あなたの行いがなぜこれまで見逃されてきたと思っている? 園亞の心を慮ってに決まっているだろう。あなたがいかに周囲に迷惑をまき散らすことしかしない害虫であろうとも、園亞は祖父として慕っていた、その心を踏みにじるのが忍びなかったから、それのみだ。だが――園亞の周囲にまでその汚らしい手を伸ばし、愚かな画策をするに至っているとなると、もはや放置しておくわけにはいかない。園亞も、その優しい心を奮い立たせて、あなたと対決することに同意してくれた」
「なっ……そっ……」
 座敷中の視線が園亜に集中する。これまでも園亞はこの屋敷の人々にとってはメインターゲットではあったのだろうが、自分たちの進退を決定づける相手だとは自覚していない者が多かったのだろう、その中には驚愕の視線もいくつか交っていた。
 園亞は少し居心地悪げに身じろぎしたが、孝治に笑顔でうなずかれると、うなずきを返したのち、孝秀の前に進み出る。
「そっ、園、亞……」
「あのね、おじいちゃん。私、知らなかったんだけど……おじいちゃんって、よ……じゃない、は……じゃなくて、悪い人たちと仲良くなって、悪いことしようとしてた、んだよね? 藤野さんとかも一緒になって。私が山でキャンプしてた時に、山火事起こそうとしてた、って閃くんに聞いたんだけど」
 言葉のあちらこちらで言いよどんだりはしているものの(『よ』というのは妖怪のことで、『は』というのは犯罪組織にして悪の妖怪ネットワークである白蛇のことだろう)、それでも孝秀を真正面から見据えてはっきり告げた園亞の言葉に、孝秀はあからさまにうろたえた。
「なっ、なにを言うか、園亞。わしが、お前の祖父であるこのわしが、そのようなことを……」
「うん……私も、本当かなって、ちょっと思ったけど。でも、閃くんも、お父さんもお母さんも、本当に真面目にそう言うから。そういう風に見られることをおじいちゃんがしてたのは確かなんだろうなって、思ったんだ。閃くんも、お父さんもお母さんも、私には嘘なんて絶対つかないもん」
 いや孝治と玲子が嘘をつかないかどうかは請け合えないというか、たぶんバレない確信があるのならばいくらでも嘘をつきまくっているだろうと思うのだが(園亞は真実をなにもかも教えてしまっては不都合しかない相手ではあると思うし)、園亞がそう確信していることは確かなのだろう。孝秀は必死に反論しようとはするものの、園亞の信頼度においては自分は孝治と玲子に負けていることを悟っているのだろう、言い返す言葉が思いつかないようで、ぱくぱくとひたすらに口を開閉している。
「おじいちゃん、あのね。なんでそんなことをしたのかはわからないけど……お父さんとお母さんに、ちゃんと謝って、それからお巡りさんのところに行こう? 悪いことをしたんだったら、ちゃんとお巡りさんにごめんなさいってしなくちゃ」
「っ………!」
「お父さんもお母さんも、ちゃんと謝ったら許してくれると思うから。だから……」
「ふっ、ざ、けるなァァッ!!」
 もはや老い先短いとすらいえそうな風貌の老人である孝秀は、裏返り掠れた声で、それでも喉を震わせて絶叫する。膳をひっくり返しそうなほど勢いよく立ち上がり、ときおり微妙にふらつきながらも、園亞と孝治と玲子と閃を、我を失ったぎらついた瞳で睨みつけながら、裏返った声で喚き散らした。
「ふざけるな、貴様ら、ふざけるなよ!? わしを誰だと思っておる! 四物家第二十八代当主、四物孝秀だぞッ!! 四物家の資産はすべて、すべてわしのものなのだっ! 誰にも渡さん! わしの財をかすめ取ろうとする薄汚いコソ泥どもめがっ、貴様らには報いを、相応の報いをくれてやるッ!!」
「あなたの主張に同意してくれる者は、少なくともまともな人間社会に生きる者なら誰もいないだろうことを、あなたはまだ理解できていないらしい。たまたま物持ちの家の長男に生まれたから、その家の資産をすべて好きにしていい、なんぞという馬鹿馬鹿しい言い草は、それこそ封建の世ですら通らなかっただろうよ。あなたは無能で、身の程知らずで、性根の曲がった愚か者だ。そのような人間の言葉に耳を傾け、それを煽るようなことをするような輩も、分をわきまえない愚物に他ならない」
「貴様ァァァッ!」
「あなたがどれだけ吠えようと、これはもはや決定事項だ。このような僻地での小さな世界ですらも、生産性のない無駄な行為で人的・時間的・資源的な浪費しかしないような輩に、誰も何も与えることはない」
「き―――!」
「それでは失礼。せいぜいのたうち回りながら、これまでの生を悔いるがいいだろう」
 そう告げて立ち上がり、孝治は自分たちに向けて笑顔で退出を促した。閃たちはさすがに園亞よりも食事が遅いということはないし、玲子もあらかじめ急ぎ目に食べていたのだろう、優雅な挙措で立ち上がった。そしてそのまま孝治を先頭に、堂々とした足取りで奥座敷を出て行く自分たちに、他の人々は半ば呆然とした視線を送る。
 そして、襖がお手伝いさんによって締められると、襖の向こうですさまじい勢いで喚き声が飛び交い始めた。その中には孝秀の怒号も含まれていたし、孝治の兄弟やその子供たちの半泣きになっている声も聞こえた、と思う。
 できるだけ冷静な表情を崩さず、園亞の前、孝治と玲子の後ろという立ち位置で先頭を追ったが、内心ため息をついていた。なんというかやっぱり、こういう仕事は正義のヒーローとは言いにくい。

「さて。とりあえずこれからしばらくは様子見だな。向こうがどう動くかで、こちらも対応を決める」
 部屋に戻ってきて、閃と煌が室内のクリアリングと、部屋の周囲に人の気配がないことの確認を終えたのち、孝治は一緒に部屋に入った自分たちを眺め回し、そう告げた。園亞がいくぶん心配そうな顔で首を傾げる。
「おじいちゃん、大丈夫かな……ちゃんと素直に謝ってくれるといいんだけど……」
「園亞が心配することはなにもないとも。我々も別に彼をなぶりたいわけではないんだ」
「そうよ、園亞。決して悪いようにはしないから安心しなさい」
「うん……」
 両親の優しい声にうなずきながらも、園亞の表情は打ち沈んでいる。やはりこの状況では両親のそういう言葉は信じられない――というわけではなく、単純に祖父が心配なのだろう。
 そして孝治と玲子は、嘘はついていないかもしれないが、園亞に真実を告げるつもりもまるでないだろう。『悪いようにはしない』というのが、『孝秀にとって悪いと感じられるような扱いはしない』という意味ではまるでないことは、騙し合いに疎い閃でもわかる。
 ただ、孝秀やそれに追従する者たちに相応の報いを与える、それ自体はなんとしてもしなければならないことだと思うので、今回孝治と玲子のやることに逆らいはしない、と決めているが。悪の妖怪ネットワークと通じて山火事を起こそう、などと考える人間を放置しておくわけにはいかないし、それに追従してきた人間たちに対してもそれ相応の対応が必要だろう。
 ただ、閃にとって譲れない一線を超えるようならば、躊躇なく制するつもりでもいるが。
 それはともかく。孝秀も、それに追従してきた連中も、このあとなにをしてくるか知れたものではない。護衛たち(この中には妖怪も混じっている)とも連絡を取り合い、順番に休みつついつでも屋敷に突入できる体制を整えてもらっているし、こちらでもいつ誰が部屋に侵入、あるいは突撃してきても対処できる迎撃態勢を取る手はずだ。煌は閃と一緒にいれば睡眠を取る必要がないので、こういった状況ではこの上ない番人になれる。閃はそうもいかないので仮眠を取り、体調を整える必要があるが、それでも部屋に誰かが入ってくれば即座に抜き打ちを放てる態勢をとっておくつもりではあった。
 とにかく、護衛はここからが本番だ。風呂という護衛しにくい状況も待っているし、いっそう気合を入れて仕事にかからなければ。

 ――と、意気込んだはいいものの、自分たちの部屋を襲撃するどころか、会いに来る人間も、夜半を過ぎても誰もいなかった。というより、風呂に入る(園亞たちを護衛する)ために部屋の外に出た時に気配を探ってみたところ、屋敷にいる他の人間は全力でこちらを避けているようだったのだ。
 まぁそれだけ孝治の発言が衝撃的で、それにどう対処するかを考えるのに必死、ということなのだろうが。それでも、妖怪も誰も近寄ってくる気配もないというのは、正直拍子抜けする気持ちが否めなかった。
 だが、護衛としては、だからといって気を抜くなど許されない。園亞たちが揃って床に就いたのちも、閃はそこに視線の通る隣の部屋で待機していた。煌は当然、閃の隣だ。護衛としては離れた方がいいに決まっているのだが、閃と一定以上の距離を取ると能力が格段に落ちてしまう、という煌の弱点からして、そうせざるをえない。
 夜半を過ぎて丑三つ時にかかる頃、煌がちょいちょい、と閃の頬を搔いた。仮眠を取る時間だ、ということなのだろう。躊躇する気持ちはあったが、素直にうなずいて、片膝立の姿勢を取り、刀を握り込んだまま目を閉じる。苦しい姿勢ではあったが、このまま眠りについたことは一度や二度ではない。
 今にも敵を探して屋敷内に駆けだしたい、という心中の熱を、いつものように懸命になだめて、目を閉じた。自分の仕事は、園亞たちが無事家に戻れるまで、終わらないのだから。

 ――――と、悲鳴が響いた。
『ぎゃああああぁぁぁッ!!!』という、それこそ魂消るような大絶叫。それを耳にしたとたん、閃は跳ね起きて刀を抜き構えたが、煌にとんとん、と後ろから肩を叩かれて気づく。この声は、もしや。
 屋敷中に響いただろうその絶叫で、孝治も玲子も目を覚ましたようだった。園亞だけは幸せそうな顔で眠りこけていたが、孝治と玲子に寄ってたかって揺り起こされ、半ば以上眠っているとしか思えない顔で立ち上がる。
 それを心配そうな顔で見ながらも、孝治と玲子は手早く身支度をし、園亞にも浴衣の上から夏羽織を着せ掛け、手を引っ張って部屋の外に出る。当然閃と煌は先導しつつ、後方からの襲撃にも対処できる態勢を整えていた。
 声が聞こえてきたとおぼしき部屋の周辺は、すでに人であふれていた。口早に喚き合いながら、なにをするでもなくうろたえている人々をかき分けて前に進む。部屋の入り口はびっしりと人で埋め尽くされていたが、孝治が「そこをどいてもらおうか」と落ち着いた声で告げると、慌てて道を開けた。
 部屋の中に見えたのは――
 孝治と玲子が息を呑み、煌がふん、と鼻を鳴らす。閃も思わず拳を握り締めたが、ある程度予期はしていたので取り乱すことはしなかった。園亞は孝治と玲子の後ろで、まだまともに目の覚めていない顔でゆらゆら揺れているが、それはともかく。
 部屋の中にあったのは、孝秀の死体だった。園亞の祖父であり、孝治の父であり、本人は四物家の長老であると主張していた老人。それが首を半ば斬り落とされかけた格好で、畳の上に突っ伏している。当然ながら首からは血が池を作るほどに垂れ落ち、周囲には金臭い匂いが充満していた。
 死体を助け起こすべく、反射的に進み出た閃を、「待て!」と鋭く孝治が制す。足を止めて振り向いた閃に、孝治は落ち着いた声で告げた。
「現場の保存を心がけよう。死体の様子を整えるのも、警察が来て調査を行ってからだ」
「………はい」
 それは確かに正論ではあるので、閃は素直に従って後ろに下がる。それを確認してから、孝治は部屋の前に集まった人々に向け、よく通る声で告げた。
「この部屋で殺人事件が起きた。私はこの屋敷の所有者として、手続きを行いたい。誰か、警察に連絡した者は?」
 人々の群れはしばしざわめきどよめいたのち揃っておずおずと首を振る。
「この屋敷の〝掟〟で、携帯端末の持ち込みは禁じられておりますので……」
 その中の、四物家の姻戚ではなかったと思う中年男がためらいがちに告げると、孝治は鷹揚にうなずいてみせた。
「けっこう。警察への通報、その他手続きは私が直接行う。他の人間は手出し無用。よろしいですな」
『…………』
「現場保存のため、この部屋は閉め切り、他者の出入りを禁じる。あなた方は自室に戻り、待機していただきたい。待機といっても、休むなと言っているわけではないので、眠るなりなんなりご自由に」
『…………』
「本日予定していた盆供養は延期。関連する連絡も私が行うので、ご心配なきよう。ただし、ことがことだ。皆さんには屋敷の外に出ることを禁じさせていただく。庭を歩く程度ならばまだしも、外出は基本的に許可できません。問題がある方は、のちほど個人的に、私の部屋までおいでいただきたい。そこで話をしましょう」
『…………』
「それでは、解散を。私の言ったことを、くれぐれもお忘れのないように」
 孝治の言葉に、集まった人々は幾度も顔を見合わせあっていたが、やがて三々五々、こそこそと話し合いながら方々へ散っていく。それを鋭い目で眺めていた孝治は、誰も人がいなくなってから表情を緩め、は、と呆れたようなため息をついた。
「ことが起こる可能性は、それなりに考えていたが。まさか、殺人事件とはな……」
「……孝治さん。死体を調べてもかまいませんか。現場保存の原則はわかってますけど……相手がどんな腕の持ち主か、知っておきたいんです」
 閃が食いつくような勢いで願い出ると、孝治は苦笑してうなずきを返す。
「わかった。だが、手早く頼むよ。私たちも一度部屋に戻らなくてはならないからね」
「はい。煌、頼めるか」
「あいよ」
 煌は肩をすくめながらもうなずき、ずかずかと部屋に入って、孝秀の死体や部屋の中などを鋭い目つきで眺め回し始める。閃も部屋の中に入り、主に死体の傷と様子を入念に確認した。
 煌は以前箕輪が濡れ衣を着せられた一件から、『必要性を感じた』とかで犯罪学の知識と調査技術を身に着けている。閃にはそんな知識の持ち合わせはないが、刀を使う者として、刀傷については嫌というほど見てきているのだ。この刀傷がどういうものか、どんな人間が斬ったものなのか、判断するぐらいのことはできた。
 その結果導き出された犯人像に、少しだけ驚いて目を見開く閃に、同じ結論に至ったらしい煌が肩をすくめてくる。反射的に犯人を確保すべく走り出しかけてから、犯人像に当てはまる人間が複数いることに気づいて足踏みする閃に、孝治が告げた。
「調査が終わったのなら、一度部屋に戻ろう。なによりまず、園亞を寝かせてやらなくてはならないからね」
「……そう、ですね」
 この期に及んでというか、起こされてからずっと半ば夢うつつで、今も目を閉じながらゆらゆら揺れている園亞を改めて見つめてから、閃はため息と共にうなずいた。自分が今なにより果たすべき役割は園亞たちの護衛なのだから、それを放り出すなんていう真似は絶対にできない。

「……さて。君たちはどうやら、犯人の目星がついているらしいね? お聞かせ願っても?」
 ずっとゆらゆら揺れっぱなしの園亞をきちんと布団に寝かしつけるや、孝治は自分たちの方を向いて訊ねてきた。玲子もその隣で、静かにこちらを見つめてくる。閃は少し迷ったものの、まずは自分から告げた方がいいだろうと口を開いた。
「目星がついているといっても、犯人の年齢や性別、あと背格好の見当がついたくらいです。その条件に当てはまる人間は、この屋敷の中に何人もいるので……特定できたというわけじゃありません」
「かまわない。まずはその『見当』というのを聞こうじゃないか」
「……犯人は、おそらく中年から壮年の男性でしょう。骨はそれなりにがっしりしているようですが、普段は運動していないので、筋肉よりも贅肉の方が多い、でっぷりとした肉付きをしていると思います」
「ふむ。それは、日本刀を振るう剣術使いとしての意見かい?」
「そうです」
 閃はきっぱりとうなずく。あの体に残された傷からは、それだけのことがはっきり読み取れたのだ。
「そして犯人は、ろくに剣術を身に着けていないというのも、まず確かなことだと思います。実際の腕前をごまかしているにしては、斬り方に迷いがありすぎる。あそこまで無駄に右往左往した傷を、剣術の玄人がつけるというのはだいぶ無理があるんじゃないかと。……それと、斬った時の状況にも、いろいろ疑問点がある、というか……」
「疑問点とは?」
「あんな不安定な傷をつけておきながら、一刀のもとに孝秀氏を殺せたとは、俺には思えないんです。完全に不意を討ったとしても、おそらく一撃で仕留めることはできず、揉み合いになるなり、悲鳴を上げられるなり、騒ぎが起こったはず。なのに、あの部屋には揉み合いの痕跡も、人のいた気配もまるで残っていなかった。血はまだ湯気が立ちそうなほどの温度を保っていたというのに」
「ふむ」
「俺の感覚でいうなら、孝秀さんにまったく気づかれないうちに致命傷となるほどの刀傷を負わせた犯人が、その場を立ち去ってしばらくしたあとに、孝秀さんが自分の傷に気づき、悲鳴を上げて亡くなった、と考えるのが一番自然に感じられるほどです」
「ふむ……煌殿。あなたのご意見は?」
「おおむねこいつに同意だな。要するに、この殺しには、妖怪が絡んでるってこった。それも相応の力を持った妖怪なのは間違いねぇ。ひとつ屋根の下で人殺しをさせておきながら、この俺にまるで気づかれねぇほどに完璧に隠匿してみせるってのは、妖怪としての力がそっちに特化してるか、単純に力のほどが高いか、どっちかだ。で、俺の勘で言えば、高い力を持ってやがる相手と考えた方が座りがいい。事前情報もあったしな」
「人殺しをさせた……ですか。つまり、殺した人間がいるのは間違いない、と?」
「ああ。それだけの力を持つ妖怪が、あんな太刀筋をつけるかよ。あれぁどう考えても素人の手だ。素人があの爺さんを殺しやすいようにお膳立てを整えて、証拠もきっちり隠滅してやったんだろうさ。使える力の塩梅によっちゃあ、あの悲鳴を上げた時に爺さんを殺させておきながら、まるでその気配を残さねぇようにした上で、自分の部屋から爺さんの部屋の前に向かわせる、ってぇのも容易いからな」
「……その、それだけの力を持つ妖怪は、その犯人に力を貸している――とも、限らないのでしょうな?」
「ああ。力を貸すっつぅ形を取りながら、相手の人間を破滅させる妖怪なんぞいくらでもいる。そもそも、この屋敷の掟とやらにその妖怪が力を貸してたっつぅんならだ、この屋敷の主だったあの爺さんに面識がないってこともねぇだろう。どんな腹積もりでいたのかはわからんが、その妖怪はこの屋敷の『なにか』に利するところがあったはずだ。それが感情的なもんか、実際的なもんかはまだわからねぇがな」
「実際的……というと、金銭ということでいいのですかな?」
「いや、それだけの力を持つ妖怪なら、金なんぞ得ようと思えばいくらでも手に入れられる。それよりもありそうなのは、妖怪の力や弱みに繋がる方だな。たとえば、一定の条件下で贄を捧げることでその妖怪が生きる力を得られる、みてぇな話だ」
「ふむ……そういった話については、我々は専門外ですが……少なくとも、私の父を殺害した人間は間違いなく存在する、ということでいいのですな?」
「ああ。そりゃまず間違いねぇだろ」
 煌と同様に、閃もうなずく。あの太刀筋はどう考えても、人間の、奢侈に弛んだ中年男の者としか思えないのだ。
「ふむ。ならば、私のやるべきことは決まったな」
「……と、いうと?」
 孝治はすっと改まった姿勢を取り、閃と煌に向けて深々と頭を下げた。
「あなた方に、どうかお願いしたい。私の父、四物孝秀を殺した犯人を見つけ出していただきたいのです」
「え……」
「ふん?」
「むろん、これは私の孝秀に対する親子の情による依頼ではない。孝秀に対するそんな代物の持ち合わせは、物心ついた時から一欠片たりともありませんのでね。ですが、私が今後どんな手を打つか、それを定めるためには、孝秀を殺した犯人についての情報が必要なのです」
「情報……ですか」
「むろん、確保できるならしてもらえる方がありがたいが、絶対ではない。その妖怪が求めるものによっては、確保が困難になることも大いにあるでしょうしね。そもそも、犯人がもう殺されていたとしても少しもおかしくはないのでしょう?」
「ふん……それでも『犯人を見つけろ』ってわけか」
「はい。ことがどう転ぶにしろ、情報は押さえておきたい。方々にしかるべく手配する際にも、犯人がわかっているのといないのとでは雲泥の差があります。たとえそれが死んでいたとしてもね」
「……ですが、犯罪捜査となると……どうしても、あなた方のそばを離れなければならない時も出てくるでしょう。それでは護衛の任が……」
「それについては、さほど心配はいらない。私と玲子は、夜が明けたらこの屋敷を出て、護衛たちと共に車内で待機する」
「えっ……」
「ふーん……見張りと、囮か? どっちを重要視してるのかは知らねぇが」
「どちらかというと、避難が理由としては一番大きいですがね。四物孝秀の殺害を助けた力ある妖怪は、おそらくですが、屋敷の外にいる者には、あまり手出しをしてこないような気がするのですよ」
「根拠は?」
「私のただの勘です。だが、私は自分の勘にはそれなりに信頼を置いている。危険を察知する能力についてもね。そのどちらもが反応していないとなると、この勘が正しい可能性はそれなりに高いと私は考えています。この屋敷に隠れた力ある妖怪が、屋敷の掟に力を与えたことも、その勘の後押しをしていますしね」
「………ふむ」
「いや、待ってください。そもそも孝治さん、あなたは俺に園亞を護れと――」
「ああ、むろん園亞については、本人が起きたあとに自分がどうするかを選ばせたいと考えているよ」
「えっ……」
「私も園亞になにができるか、ということについてはすべて把握しているわけではないが。少なくとも、犯罪捜査に有用な能力の持ち合わせがあることは知っている。君たちに力を貸すというのは、どちらにとっても有益な申し出なのでは?」
「有益って……そりゃ、俺たちの役には立つかもしれませんけど、園亞にとっては……」
「『好きな人間の役に立つ』という行為は、どんな人間にとっても、もちろん園亞にとってはなおのこと、嬉しい行為だと思うのだが、どうかね?」
「…………」

 閃は結局、孝治の申し出を受け入れた。というか、まずは園亞の意見を聞くべきだろう、という正論に反論できなかったのだ。
 翌朝、いつも通りに朝食の時間ぎりぎりになって起きた園亞は、昨夜殺人事件が起きたことさえ認識しておらず、孝秀が殺されたことを聞いた時は驚愕と仰天で我を失ってしまったほどだったが、閃たちがこの事件を調べるつもりでいることを告げた時には、即座に「私も手伝うね!」と瞳をきらきらさせて答えてきた。状況ホントにわかってんのかな、と疑問に思ってしまうような反応だったが、本人にやる気があるのは間違いない、ということで(渋々ながら)、閃は孝治との約束通りに、護衛たちと車の中に籠った孝治たちを置いて、事件捜査に乗り出すことになったわけだ。
「ねぇねぇ閃くん、私、犯行現場とか見なくていいのかな。おじいちゃんの死体、まだ残ってるんだよね?」
「ああ……季節が季節だから、強力な冷房をつけっぱなしにしてあるみたいだけど。園亞、自分の祖父の死体なんて見たいのか?」
「うーん、見たいっていうか、私まだおじいちゃんにちゃんとお別れの言葉も言えてないし。ご挨拶したいなって思ったんだけど、ダメかな」
「……いや。ダメじゃ、ないけど」
 園亞の、こういうことを当たり前に言えてしまうところに、閃は時々圧倒されるものを感じる。妖怪でありながら、そうでなくとも大金持ちのお嬢さまでありながら、普通すぎるほどに普通というか、正しく人間であるところ。そしてそれが特に正しいことだとも思わず、ごくごく当たり前のことだと天然自然に受け容れているところに。
 その言葉を断る理由を思いつかなかったので――というか、『死体なんて普通に生きているお嬢さんが見るべきじゃない』なんて言葉で、園亞の意思を穢したくなかったので。閃は園亞に言われるままに、犯行現場である孝秀の部屋へと向かった。
 孝治の『自室待機』という命令が効いているのか、途中誰かに会うということもなく、孝秀の部屋にたどり着く。一応周囲の様子と気配をうかがった上で、冷風が部屋の外でも感じられるほどに吹き荒れている室内へと入室した。
「……おじいちゃん………」
 園亞が息を呑む気配が隣から伝わってくる。だが園亞はそれ以上取り乱すことなく、畳に突っ伏した死体の前、のさらに前、血がしみ込んでいる辺りからある程度距離を取ったところまで歩み寄り、しゃがみ込んで合掌した。
「おじいちゃん……おじいちゃんもきっと、いろいろ、大変だったと思うんだけど。もう、そんなことは気にしなくていいから……えっと、気にしなくていいって言っても気にしちゃうか。しちゃうよね。うーんでもえっと、未練とかいろいろあると思うけど、それはもういいっていうか、おじいちゃんがどうこうすることじゃないっていうか、しちゃいけないことだと思うから……えっと……」
 しばし唸っていたものの、やがてうん、と大きくひとつうなずいて、ありったけの想いを込めた、という顔でひそやかに祈りの言葉を告げる。
「どうか、成仏してください。お疲れさまでした」
 そう言ってうつむき、口の中で念仏を幾度も唱える姿には、閃のような無骨者にも感じ入らせるほどの、清らかななにかがあった。宗教というのは、こういう心のために存在するのだろうと、素直に納得することができるような。
 遅ればせながらにもほどがあると思ったが、閃もそれに従わないわけにはいかず、合掌して祈りを捧げた。口の中で念仏を唱え、どうか成仏してください、お疲れさまでした、と園亞の言った言葉を繰り返す。
 しばし沈黙の時間が過ぎたのち、園亞はうんとうなずいて立ち上がり、閃に笑顔で向き直った。
「よっし! それじゃ、頑張って犯罪捜査? しよっか! 私にできることだったら、なんでもするからね!」
「なんでも……というか。俺もできるなら、園亞に頑張ってもらえると助かるんだけど」
「え、え? なに、それ? どーいうこと?」
 驚きうろたえる園亞に、そんなに変なこと言ったかな、と思いつつも閃は率直に訊ねる。
「まず、聞きたいんだけど。園亞の使える魔法って、今はどういうものがあるのかな」
「ん、ん? どういうものって……どういうこと?」
「つまり、犯罪捜査に使える魔法があるか、ってことが知りたいんだ。ただ、園亞は犯罪捜査の専門家ってわけじゃないだろうから、そんなことを聞かれても困るだろう? だから、とりあえずどういう類の魔法が使えるのか、知っておきたいと思ったんだけど」
「あ、あー! そっか、そーいうことかー! うーん、そうだねぇー……だいたいっていうことだったら……まず、閃くんにも何度も使ってる、防御の魔法でしょ。あと、傷を治すとか、毒の治療とか。あと病気の治療とか、腕とかを繋いだり再生させたりとか。あと、水を操る魔法かな。相手を凍らせちゃうみたいな、攻撃魔法? っぽいのは、今使える中ではそれだけになっちゃうかな」
 園亞は指を折りつつ、うんうん唸りながら説明してくれる。実は閃は園亞が自分で説明することができるほど、身に着けた魔法のことをひとつひとつ覚えていられるとはあんまり考えていなかったのだが、さすがに自分の能力だからかツリンの教育方法のせいか、きっちり余すことなく記憶できているようだ。
「あとは、前に閃くんにも言った、ものを探す魔法とか。水とか、石とかを探すのもできるよ。ものを動かす魔法とか。空飛ばしたり、瞬間移動したりさせたり、何度か閃くんに使ったみたいに、すごく早く動けるようにしたりとか。あと、心を操る魔法とか……」
「心を? どんな風に?」
「えーっと、ぼーっとさせたりとか眠らせたりとか、怖がらせたり逆に勇気持たせたりとか、私の言うことだいたい聞くようにさせたりとか。あと覚えてることを忘れさせたりとか、偽物の記憶を作っちゃったりっていうのもあるかな」
「そ、そうか……」
 思いのほかとんでもない魔法を覚えてたりするんだな、と閃は内心だいぶ引いた。だがまぁ、教えているのはあのツリンだし、むべなるかなと言うべきかもしれない。魔法については門外漢の自分がああだこうだ言ってもうるさいだけだろうから、園亞に教育を受ける意志がある以上口出しはできないが。少しでも問題があれば、園亞と話し合った上で、無理やりにでも引き離すことになるかもしれない覚悟はしておいた方がいいだろう。
「それから、あと光を操る魔法とか。数日もったり眩しかったりする魔法の光つけたり、逆に暗闇作ったり、人の身体をぼやけて見えにくくしたり透明にしたり……あと、人の心を読むとか」
「………えっ?」
「えっ? えっと、人の心を読む、魔法なんだけど。えっ、あれっ、なんか私おかしいこと言った?」
「いや……あの、待ってくれ。人の心を読むというのは、具体的にどういう……?」
「えっと、こっちに悪いことしようとしてくる人を感じ取ったり、嘘をつかれた時わかるようにしたり。あと、今なにを考えてるのかを読み取ったり、心の深い部分に質問して、答えてもらったりとか……」
「……つまり、それは。殺人犯に、あなたは誰それを殺しましたか、って質問をして、答えてもらうこともできる、という?」
「うん、魔法がちゃんと効けば、できると思うよ?」
「………………」
「わっ、閃くん、どうしたの!? なんか突然すごい疲れた顔してるけど!?」
「いや、まぁ、あの……いや、なんでもないよ……」
 曲がりなりにも犯罪捜査の仕事と意気込んでいた自分がすさまじくばかばかしく感じられただけなのだが、それを園亞に言ってもしょうがない。というか、そんな魔法が使えるのに、それを活用すれば簡単に殺人犯が特定できるという事実に思い至らないあたりが、ある意味すごいというかなんというか、園亞だなぁというか……。
『っつぅかな、俺だってやろうと思やあ人の心ぐらい簡単に読めんだよ。殺人犯が誰かくらい簡単にわかんだよ。園亞が心読めようが今更だってんだよ、それも気づかねぇでたわけたこと考えてんじゃねぇ』
『だってお前の場合は俺がなに言おうとなに頼もうとやりたくないことは絶対にやらないし、やってもいいって思うことなら俺がお願いするまでもなくやってるだろ……』
 横に立っている煌と無言のままでそんな心の会話を交わしたのち、閃は園亞に改まって向き直った。
「園亞。それじゃあ、この屋敷にいる人の心を全部読んで、殺人犯が誰なのか、見つけてくれるか?」
「えっ?」
 閃としてはごく当然の質問をしたつもりだったのだが、園亞はちょっと驚いた顔になった。それからうーんと考え込んで、指折り数えて計算し始めたので、閃もちょっと驚いて訊ねる。
「園亞。なにしてるんだ?」
「えっとね、体力の計算」
「体力?」
「あのね、魔法ってすっごい疲れるの。普通の魔法ぐらいなら大して疲れたりはしないんだけど、強力な魔法とかになると、一度でダッシュ十セットよりも疲れたりするんだ。ツリンはマナとかオドとかがなんちゃらかんちゃらって言ってたけど……魔法使いはそーいう、どのくらい疲れるかをちゃんと計算できるようになるのも大事なんだって。……えっと、心に質問して答える魔法だとこのくらい疲れるから、私の体力がこんくらいで、お屋敷にいる人がこんくらいで、休んで回復するのがこんくらいだから……」
 しばしうんうん唸って考え込んだのち、園亞はうんとうなずいて笑顔で告げた。
「えっとね、だいたい一日半くらいで、ここにいる人全員の心読み終えられると思う!」
「……う、うーん……」
 それはまたなんというか、微妙な長さだ。いや、たったそれだけの時間で間違いなく犯人を特定できるというのはとんでもなくすごいことに違いはないし、普通ならありえない超常的能力なのは間違いないのだが、今回の一件で気軽に選択肢に浮かぶかというと疑問符がついてしまう。
 なぜといって、今回は、孝治の依頼で行う犯罪捜査だからだ。なにせ孝治は四物財閥総帥。ほぼいつも分刻みのスケジュールで動いている、とんでもなく多忙な人間だ。
 今回の盆供養も、無理に無理を重ねてスケジュールを開けての行いであるはず。毎年そこまで苦労して盆供養のためスケジュールを開けてきたのは、ひとえに園亞を案じてのことだろう。園亞を一人この屋敷に向かわせるというのは孝治たちにとっては問題外だったろうし、使用人の人たちではどうしても雇い主の実の親族を相手にするのは分が悪い。だから園亞を護るためにと、幾度も必死になって無理を通してきたはずだ。
 そして今回はその集大成。これまでに打ってきた手の成果を得るべく、園亞を狙う親族どもを一掃するつもりでここにやってきたはず。それなのに殺人事件なんてものが起きてしまったのだ、孝治としては内心頭を抱えたい思いだろう。なんとかさっさとこの問題を片付けて、本来の目的に戻りたいはず。
 そうなると、一日半を容疑者総当たりでしらみつぶしにするというのは、いくらなんでも時間を無駄に使いすぎだろう。最後の決め手にするのはいいとしても、本来ならこんな場所で無駄に使える時間は一秒もない多忙な財閥総帥を無駄に待たせるほど、まともな手だとは思えない。少なくとも容疑者を数人にまで絞ってから使った方がいいだろう。
 それを説明すべく、閃が園亞に向き合う――やいなや、屋敷中に『ぎゃああぁぁああぁッ!!!』とさっきの繰り返しのようなそれこそ魂消る絶叫が鳴り響いた。
 一瞬呆気にとられたものの、すぐに慌てて立ち上がり、園亞を先導しつつ走り出す。さっきの絶叫は、録音やなんかではなく、間違いなく肉声による絶叫だ。もちろん、妖怪の力によって再生、ないし作成された音声だという可能性もあるが。少なくとも、最初の殺人事件の時の絶叫と同一ではない。
 最初の事件。そう、閃も確信できてしまっている。これはただの殺人事件ではない。これまで曲がりなりにも、幾度も妖怪の事件に関わってきた身として、否が応でも理解できてしまう。これは――
「たっ、孝志さんが、孝志さんがッ!」
 声の元を追って走ることしばし。客の大半が孝治の言葉に逆らうことになるのを恐れてか、なかなか部屋から出てこようとしていないせいか、真っ先に声の元にたどり着けたのは自分たちだった。廊下で喚く壮年の男性――確か孝治のはとこの配偶者の兄弟の友人かなにかだったと思うが、その人に「なにがあったんですか!」と鋭く問いかけると、男性はうろたえきった顔で、絶叫した。
「孝志さんが死んでるんだっ! は、腹からっ……腹を、斬られて……内臓がっ、飛び出て……!!」
 そこまで言うや、その男性はその光景を思い出してしまったのだろう、その場に膝をついて胃の中のものをもどし始める。それを避けながらも、とにかく現場を確認しなければ、と一歩を踏み出そうとした時、またも『ぎゃあぁああぁッ!!』と絶叫が響いた。
 これもまた、録音などではない肉声のもの。しかも、悲鳴は二回響いた。あとの方は、女性の声だ。そのあとすぐに、誰かが遠くの廊下で喚き散らす声がかすかに聞こえた。
「孝介さんが、し、死んでる……っ!! 首を、首を斬られてっ………!」
「きっ、来てくれ、頼むっ! 幸恵さんが、血まみれで……体中を、めった刺しにされて……!」
「………っ!」
「せ、閃くんっ、これって……」
「ああ――大丈夫だ」
 力強くうなずいてみせると、園亞はほっとした表情になって、そろそろと手を伸ばし、閃のシャツの端っこをつかんだ。少しばかり動きにくいが、それだけ園亞も不安になったのだろうと思うとむげにはできず、つかまれたままひとつひとつ現場を確認していこうと足を踏み出す。
 大丈夫、と言ったのは嘘ではない。犯人は特定できた。いや、実行犯ではなく正確には黒幕と呼ぶべき相手なのだろうが、とにかく止めなければならない相手はわかった。たとえ実行犯を捕まえたとしても、その黒幕を倒さなければ、犠牲者はまだまだ増え続けることだろう。なぜならば黒幕は、その超常の力を用いてか、人の心を自由自在に操ることが可能なのだろうから。
 そう、これは――妖怪の起こした事件。妖怪の教唆により、不特定多数の人間を実行犯として使った、連続殺人事件だ。

「……つまり、人間の犯人を特定することには意味がない。君はそう言っているのだな?」
「はい」
 閃はきっぱりうなずいた。これは、妖怪による犯罪の取り扱われ方を知らない人間には、きちんと説明しておかなければならないところなのだ。
「今回の事件は、おそらくは妖怪が妖術なりなんなりを使って何人もの人の心を操り、何人もの人間を殺させている、という代物だと思います。殺した人間も殺された人間も、おそらくはその氏素性が重要ってわけじゃない。殺すことそのものが犯人の妖怪の利になるか、不利を打ち消すかするんでしょう」
「だが、手を下したのは間違いなく人間なのだろう? それはその人間の罪に問うべきではないのかな?」
「妖怪の用いる術なり力なりは、人間の常識では計れません。幼児に人殺しをさせることだってできるし、子供を誰より可愛がっている親に子殺しをさせることもできる。もちろん、対抗手段がないわけじゃないですし、強い意志の力で跳ねのけるやり方もあるにはあるんですが……その手の妖術を相手にして、人間の意志力だけで対抗しようっていうのは、戦車に対抗するために豆鉄砲を持ち出すみたいなもので、『不可能ではない』レベルの話でしかないんです」
「妖怪と常に相対している君は? 同様のやり口で意思を奪われる危険性があるのに、妖怪を退治し続けているのだろう?」
「俺もそうやって操られたことはありますよ、何度も。ただ、俺はその時に備えてそれなりの対抗手段を準備しているし、なにより煌が一緒にいてくれますから。危険ではあるけど、対抗できないわけじゃない、ってぐらいには持ち込めるってだけです」
「……ふむ」
「そして、そういった妖怪の理不尽な強さを、今はもう日本政府も、治安維持組織も、一部ではあるでしょうが呑み込んでいる。俺は賞金稼ぎとして、この事件の通報をしかるべき部署に連絡します。そうすれば専門の人間なり妖怪なりが派遣されてきて、この事件が外に漏れないように、漏れたとしてもうやむやにできるように、処理をしてくれるでしょう。だから人間の実行犯なんて突き止める必要はない。俺たちがすべきことは、妖怪の黒幕を一刻も早く見つけ出し、倒すことです。そうしなければ、下手をすればまだまだ被害が拡大しかねない」
「ふむ……その妖怪の黒幕とやらが、なにを考えてこの事件を起こしたかはまだわかっていないのだね」
 閃はぐっ、と奥歯を噛み締めながらも正直にうなずく。
「まだ、どういう妖怪か、も特定できていない段階です。わずかに、手がかりになりそうな事実がいくつかあるか、というくらいで……」
「話してみてはもらえないかしら? 私たちは妖怪に関しては素人ですけれど、この屋敷や、この屋敷に住まう人たちのことについてはいくらか知っています。あなたたちではわからないことにも、気づけるかもしれません」
 孝治の隣の椅子に腰かけている玲子が、しとやかな仕草でお茶を注ぎながら言ってくる。ここ特大リムジンの中でお茶を飲もうとするなら、普段は執事なり使用人なりが手際よく淹れてくれるのだが、妖怪にまつわる話をしようというのだ、人払いをせざるをえなかったのだろう。さすが社交界で四物財閥総帥夫人として働いている女性、茶道関連も必須技能のひとつなのだろう、その手際は堂に入っていた。
「……本当に、ささいな手がかりでしかないんですが……たぶんその妖怪は、刀にまつわる妖怪だろう、とは思ってます」
「というと?」
「傷口や、傷跡を調べてみたんですが。もちろん精密に調査しなけりゃ正確にはわからないんですが、たぶんこれまでの殺しで使われた刀は、同じものだろう、と思うんです」
「ほう……」
「殺しの実行犯は別々です。孝秀氏を殺したのは中年から壮年の男ですが、もっと若い人間や、女性の実行犯もいました。ですが、使われた刀はたぶん同一のもの。となると、刀にまつわる、刀についての妖力妖術が使える妖怪、と考えていいんじゃないか、と」
「……私の考え違いかしら。先ほどあなたたちは、幸恵さんは体中をめった刺しにされて殺されていた、と言ったわね? でも、日本刀でめった刺し、というのは普通ありえないんじゃないかしら? そんなことはそれこそ剣道の達人とかでなければできないし、そういう人たちでも斬り殺す方がはるかに簡単なはずよね?」
「はい。そこが、刀にまつわる妖力妖術が使える妖怪だろう、と俺たちが考える理由なんです」
「と……いうと?」
「幸恵氏は確かにめった刺しにされて殺されていました。使われていたのは出刃包丁程度の長さの短刀でしょう。ですが、他の被害者の刀傷と、傷跡に残った刀の金属粉……そして、切れ味が、まるで同じものであるかのように俺たちには感じられたんです」
「……あくまで君たちの感覚でしかないのだね? 科学技術に基づいた証拠ではない、と?」
「技術に基づいた感覚ではあるつもりですが、絶対に確実、と言い切るには傷口を見ただけでは断定は難しいのも確かです。ただ、俺たち自身としては、その感覚にはそれなりに自信を持っている。だからこそ、その手がかりに従って動くつもりです」
「そうだな……君たちのように常に命の危険にさらされている者たちの勘だ、重視しない方が危険というものだろう。しかし、刀にまつわる妖怪か……玲子、お前にはなにか心当たりは?」
「いいえ、なにも……この屋敷の方々の中で、日本刀を収集する趣味がある方なんて、一人もいなかったのは確かだけれど」
「私もご同様だな。この屋敷に、そのような妖怪が好みそうな場所がある、なんて心当たりもない」
「それはこちらも覚悟の上です。俺たちなりのやり方で調査を進めるつもりでいますから、どうかもう屋敷の中には入らないようにしてください」
「ここにいても絶対に安全だ、という保証がないのに、かね? それに、また新たな死体が出たというのならば、先ほど同様、私が出て行かないわけにはいかないだろう?」
「それは、そうかもしれませんが……」
 先刻、新たに三人の死体が発見されたのち。屋敷に残された人々は大混乱に陥った。被害者が一人ならば尋常の殺人事件として、迂闊な行動を避ければ被害には合わないだろう、と考えることができる。だが三つもの死体が新たに発見されたとなると、普通の人間なら無差別殺人の可能性を疑う。こんな場所にはいられるか、と逃げ出そうとする人間が出てこないわけがないのだ。しかも、ここは陸の孤島ではあるが、外部との連絡ができないわけでも、行き来が封じられているわけでもない。
 なので、何人もの人間が孝治たちのいるこの車庫を(閃たちが状況を孝治たちに報告する前に)訪れ、孝治たちのリムジンを奪うなりなんなりしようとしたらしい。そして孝治の護衛たちに全員きっちり叩きのめされ、護衛たちの見張りのもと捕虜のごとく囚われることとなった。
 孝治はそこを衝き、また同様のやり口で犯罪を犯されるかもしれないことを憂慮していることを告げ、警察が現在こちらへ向かっていること、危険はわかっているのでできれば屋敷内の全員を奥座敷に集めてそれを何人かの護衛に護らせたいこと、むろんこれはお願いであり強制ではないが、この状況下で自分だけのことを考えて行動するような輩には自分がそれ相応の対処をすることを理解してほしいことなどと説明した。
 四物家の関係者以外は全員奥座敷に集まることに同意したのだが、四物家の姻戚には何人も、断固としてプライバシーを主張し、自室に篭る者がいた。この純和風の屋敷で戸締りによる安心安全なんてほぼ得ようがないし、少しでも安全を得るためには護衛戦力に頼る以外に方法はないと思うのだが、その人々は自身の主張が容れられないことは自分の命が失われる可能性よりも重大らしい。喚き騒ぐその人々に顔をしかめつつ孝治は彼らの行動を許したが、当然ながら護衛の貸し出しは拒否した。
 孝治たち自身は車庫の巨大リムジンの中で、『車を奪おうとした犯罪者たちの見張りをする』という体で、外部との連絡、交渉などを行っているらしい。そんな話を誰彼かまわず聞かれるわけにはいかないだろうし、このリムジンは防護壁としては相当強固だということもあるので、閃としては護衛が二手に分かれることで生まれる危険性を除けば、悪くない判断だと思っていた。
 だが、閃たちの仕事はただ護衛をしていればいいというものではない。被害を減らすためにも、安全を確保するためにも、一刻も早く黒幕の妖怪を倒さなくてはならない。当然、できる限り早くその妖怪の居場所を突き止めなくてはならないのは大前提、なのだが。
『……煌。心当たり、あることはあるんだよな?』
『何体かこういうことをやりそうな奴は知ってる、ってだけだ。そいつらが黒幕だったとしても、どこに隠れていやがるか、だのいつ姿を現すか、だのについちゃあまるでわからねぇからな』
『うん……』
 煌の言う通り、たとえ犯人にいくらか目星がついていたとしても、妖怪相手の話だ、それだけではなんの役にも立たない。必要なのは妖怪の居場所を突き止め、目の前に引きずり出して、罪を犯した妖怪を斬り倒すことができるほどの力なのだ。
 園亞の魔法でも、こんな時に使えるような都合のいいものはないようだし。となれば、閃たちにできるのは、少しずつでも思い当たる手がかりにあたっていくことしかない。昨日から今日にかけての短い時間で、すでに四人もの犠牲者を出していることを考えると、またも妖怪がその力を振るわないか相当心配ではあるが、奥座敷の護衛の中には妖怪も何体か交えることに成功したことだし(孝秀の作った〝掟〟に基づく強制力――〝掟〟に従わない侵入者を弾く力は、少なくとも現在は失われているようだった。孝秀が、さらに孝志が死んだことで、この屋敷の所有権が孝治に移ったのが原因なのかもしれない)、奥座敷の安全は彼らの力を信じるしかないだろう。個々の部屋に閉じこもっている四物家姻戚の人々は――
 閃は思わず唇を噛む。放っておくわけにはいかないし、なんとか彼ら彼女らも奥座敷にまで連れてくるべきだっただろう。だが、孝治の言い分に反発して部屋の中に残った人々は、閃の口下手な説得にはまるで耳を貸してくれなかった。ならば力ずくでと手を出せば、すさまじい勢いで騒ぎ立て、触ったら通報する、犯罪者にしてやると喚き散らす始末。だからといって放っておくわけにはいかない、というのが閃の正直な気持ちだったが、孝治に『まずは、君に救われたいと願う我々を優先してはくれないか』と頭を下げられてしまった時、閃には反論することができなかったのだ。
 ならば今は彼ら彼女らを救うことよりも、できる限り早く問題解決を図ることで、犠牲者を少なくするしかない。そのために必要な、手がかりを有している相手は――
 孝治の前を辞し、再び屋敷に入ろうと歩を進める中、閃とすぐ後ろ、煌との間に挟まってついてくる園亞(どこにいてもそれなりの危険がある現在、閃たちに同行してもらうのが安全性と利便性を最も兼ね備えた選択だ、という孝治の言葉に説得されてしまったのだ)に、おずおずと訊ねられた。
「閃くん、どこか目的地っていうか、調べようとしてるところって、あるの? 私、このお屋敷のどこに黒幕の妖怪さんが隠れてるとか、全然見当つかないんだけど……」
「俺も、見当がついてるわけじゃない」
「だよねぇ……」
「ただ、俺たちよりも長くこの屋敷にいる相手になら、聞く価値はあると思ってる」
「え? えっと……この屋敷に住んでる親戚の人とかに聞くってこと?」
「違う。妖怪についての知識がない人に聞いても、たぶん役には立たないだろう」
「え……? えっと……どういうこと?」
「……料理人に聞く、ってことだよ。俺たちより長くっていっても、数日か、あるいは数時間かってだけの長さかもしれないけど」

「えーっ!? 箕輪さんっ!? な、なんでここにいるのっ!?」
 仰天しきった声を上げる園亞に、料理人――昨晩と今朝、この屋敷にいる者全員の食事を作ってくれた相手である、箕輪祐――料理の神アトゥムラティは微笑んだ。見かけは十歳かそこらの少年でしかないのに、その笑顔は優しく柔らかいものであると同時に、こちらを圧倒するというか、気圧されたような気分にする迫力……というか、威圧感……というか、伏し拝むのが自然だと感じてしまいそうになるほどの、〝なにか〟があった。
 それは閃が、箕輪の正体が神であるということを知っているから感じるだけの錯覚なのかもしれない(事実園亞がそんなものを感じている様子はまるでない)が、箕輪は存在するだけで〝なにか〟を、神威とすら言いたくなるほどの気配を振りまいているのは確かだと思う。煌にも(物心つく前からずっと一緒にいて、やることなすことがもう慣れっこになっている閃にとってすら)そういうところがあるので、神の名を冠される妖怪には、大なり小なりそういった特質があるのだろう。
 箕輪の横には、カルパ・タルーのスタッフの一人である、虎人の広里が控えている。おそらくは箕輪の護衛役だからだろう、仏頂面で油断なく自分たちの動きを検分しているが、敵意や殺気は感じられなかった。張り詰めたような気迫が感じられるのは、この状況下では護衛ならばごく当たり前のことだ、と理解しているのか(いや理解していなくても行動自体には変わりはなかっただろうが)、園亞は怖気づくことなく箕輪に問いかける。
「箕輪さん、なんでこんなところにいるのっ? お店大丈夫なのっ?」
「はい、店は二週間ほど、改装のために臨時休業する、と上の人に言われておりまして」
「え、上の人って?」
「カルパ・タルーのオーナー……持ち主なのは、水澤グループ……妖怪たちがストレスなく仕事を行うために立ち上げられた企業グループです。僕は雇われシェフにすぎないので、店の経営については、意見は言えても口は挟めません。なので、僕たちの上司が休業すると言えば、こちらとしてははいそうですか、と従うしかないんです。理不尽な扱いを受ければ訴えることは許されてますけど、休業中も給与を変わりなく支払ってくれるとなると、訴え出てもまず却下されてしまうでしょうしね」
「そうなんだぁ……」
「ですけど、ここで問題になるのが僕の体質でして。僕の妖怪としての特質として、最低でも一日に一回は、誰かに自分の作った料理を食べてもらって、『おいしい』と言ってもらわなければ生きていけないんです。言葉としてじゃなくても、心の底からの『おいしい』という想いが発せられればいいんですけどね。少なくとも二週間の間誰にも料理を食べてもらえないとなると、僕は間違いなく消滅してしまうはずです」
「わっ、そ、それすっごい大変じゃないっ?」
「僕としては、自分の生きる目的に噛み合っているので、不満はないんですけどね。そういう風にお店が休みな時には、新しい料理できる場所を探しに行けば済むことですし……ただ、僕の上司の人たちとしては、僕が料理ができる場所を新規開拓して、そちらの方に河岸を変えてしまうことを警戒してるそうで、いつも店が休みの間の仕事を紹介してもらえるんです」
「え……っと、箕輪さんは、それ、嬉しいの?」
「そうですね、なにもないよりはありがたいです。万が一、一日中誰にも料理を作ることができなかったら、正直だいぶ辛いことになりますからね」
「そっかぁ。箕輪さんが嬉しいなら、よかったね!」
「はい。で、今回僕が紹介された働き口というのが、ここなんです。このお屋敷の料理番として、屋敷の人たちの食事をまかなうこと。一週間ほど前からこちらにお世話になって、仕事をさせていただいているんです」
「そうなんだぁ……! わーっ、なんかすっごい偶然だね!」
 当然ながら、偶然などではないだろう。おそらく孝治が手を回し、料理番兼いざという時の実働戦力として箕輪を確保したのだ。料理に毒が盛られることを警戒していたのもあるだろうし、鬱陶しい相手と相対するストレスをおいしい料理で緩和したいという気持ちもあったかもしれないが、なによりもいざという時の戦力として期待して箕輪たちを招いたのは間違いない。
 当然ながらそのことについてはきちんと話を通し、相応の金も積んでいるはずだ。ことによると、カルパ・タルーが改装工事をするということから孝治の仕込みかもしれない。
「そこの、えっと……ウェイターさんは、なんで? ご飯運んだりはしてなかったみたいだけど……」
「浩くんは、自分から進んで僕の助手を買って出てくれて。料理助手というか……こまごまとした雑用や、対人関係の処理なんかをしてもらってるんです。こちらのお屋敷には、僕たちが料理番をするということは伝えてあるし、それを邪魔するようなことはないけれど、僕たちの詳しい氏素性を伝えてはいない、そもそも決して伝えてはならない相手だ、ということも教えていただいていたので。浩くんは戸籍としては成人しているし、調理師免許も取得してくれているので、こういう仕事の時に僕の補助をしてくれることが多くて」
「そうなんだぁ。ウェイターさん、優しいんだね!」
「……祐さんが危ねぇとこに行くってのに、ほっとけるわけねぇだろ。俺、一応祐さんの護衛でもあるつもりだからな」
「浩くん。お客さまにはきちんとした口の利き方をするように、って言ったよね?」
「あっ、はいっ! 申し訳ありませんっ!」
 広里が唐突にびしっと背筋を伸ばして頭を下げる。それが反射行動になるまで、礼儀作法を叩き込んだのだろう。箕輪は(あれだけの料理を作れるほどの職人なら当然といえば当然だが)口の利き方に厳しい親方でもあるようだった。
 そんなことを思いながらも、頃合いかと、閃は一歩前に進んで口を開く。
「……そんなあんたたちに聞くのは筋違いかもしれないけど。どうか、教えてほしいことがあるんだ」
「どのようなことでしょうか」
「あんたたちは、もう一週間ここで働いてるんだよな? その間に、なにか妙なことを見聞きしていないか、教えてほしいんだ。……俺たちは、この屋敷で起こった殺人事件はすべて、おそらくは一体の妖怪による誘導によって起きたものだとほぼ断定している。だけど、どんな妖怪かということについてはそれなりに推測もできるけど、その妖怪が今どこに隠れているか、ということを突き止めるには、今の情報量じゃまるで足りない。手がかりにするために、少しでも多くの情報量が必要なんだ」
「情報を提供してくれ、ということですね?」
「ああ。人間に友好的なネットワークの一員であるあんたたちなら、事件の調査にも慣れているはずだと思って。その視点から、なにか手がかりになる情報を得てはいないか、知りたいんだ。その妖怪をなんとかすることについては、基本的には俺たちがやる。あんたたちが手を貸してくれるというならありがたく受け取るけど、その時もできれば被害者になりうる人たちの見張りと護衛をやってくれた方がありがたい」
「……俺たちの手なんぞ不要ってか。舐めてくれたもんだな」
 広里が顔をしかめてこちらを睨みつけるが、閃もそれを真正面から受け止めて言い返す。
「要不要なんて、相手の戦力がわからない以上はっきり言えるわけないだろう。ただ、相手が相当に強い妖怪であろうことはほぼ確定してる。となれば、黒幕と相対するのはできるだけ強い妖怪でなくちゃいけない。少なくとも煌は、そんじょそこらの妖怪とは比べ物にならないぐらいに戦闘能力は持ってる。そんな奴とぶっつけ本番で連携するよりも、被害者となりうる人たち――特に、現在まるで護衛をつけることができていない、四物家姻戚の人々の見張りと護衛をやってくれた方が、少しでも被害が減らせるだろう、ってだけだ」
「…………」
 閃なりにこういった事件の当たり前のセオリーを告げたつもりだったが、広里にはまるで納得した様子がなく、こちらを睨みつける視線を緩める気配はない。少しばかりまいった気分にはなったものの、今はなにより手がかりが必要、と箕輪に向き直って再度問いかける。
「どうだろうか。なにか、手がかりになる情報を持ってはいないか?」
「……そうですね。手がかり、というか……今回の一件。四物孝秀さん、四物孝志さん、四物孝介さん、四物幸恵さんの殺人事件ですね。実際に手を下した人間の犯人と――それを教唆した、というよりは犯行を導いた、あなたの言う妖怪の犯人が誰なのかについては、見当がついています」
『………えぇっ!?』
「ちょっ……えぇっ!? ならなんでそれをもっと早く……っていうかなんで止めなかったんだ!?」
「うわぁ、すごい、すっごーい! 箕輪さんって頭もいいんだねっ、探偵役の人みたい!」
「うおぉ、すっげぇぜ、さっすが祐さん! こんな片田舎の事件あっつー間に解けんだよなっ、やっぱ!」
「皆さん、とりあえず少し落ち着いて。あまり大きな声を出しすぎると、外に聞こえます」
『あっ……』
 慌てて口に手を当てるものの、まだ興奮を抑えきれていない自分たちは口々に問うた。
「じゃっ、じゃあ、誰が犯人……っていうか、黒幕は誰……っていうか、どこにいるんだ!?」
「だぁってろ、祐さんに偉そうな口叩いてんじゃねーよっ! これから説明してくれんすよねっ、祐さんっ」
「だよねだよねっ、犯人突き止めた探偵役の人がえっと、すいり? を公開するのはお約束だって言ってたし……誰が言ってたかは忘れちゃったけど! でも、教えてくれるんでしょ、祐さん?」
「そんなことを言ってる場合じゃないだろ!? 一刻も早く確保しないと、また被害が……」
「落ち着いてください。僕の推測が正しければ、『黒幕』はまだ出てこない。というか、最後の犯行……少なくとも、次の犯行が起こるまでは、姿を見せることもないはずです」
「えっ……ど、どういうことだ?」
「……僕はこのお屋敷に最初に来た時、真っ先に探査系妖術でお屋敷の中を探りました。妖怪がこのお屋敷に侵入しようとして果たせなかったということは、まず真っ先に考えつくのはこのお屋敷に、永続し、妖怪にも有効な、かつ目標を選択できる人払いの妖術がかけてあるということですが、様々な妖力妖術を駆使しての侵入に対しても対応してきているのだから、普通に考えて、術者はお屋敷の中にいるはずです。それなら、自身の縄張りで家探しをする妖怪が現れたことに危機感を覚え、なんらかの手を打つのが普通なはず」
「あ、ああ。それはわかるけど……」
「おそらく、術者は入れる者と入れない者の選別を、この屋敷の主――四物孝秀氏の判断に依っているのだろう、と考えました。だからこそ、人間の姿ですら子供にしか見えない、不審極まりない存在である僕と、まだ年若く、料理人としても半人前以下とみなされるだろう浩くんが、あっさりと屋敷に入ることが可能だったのだろうと。孝秀氏は、僕たちと顔を合わせることなく、使用人の雇い入れはすべて家令の方――四物孝治氏に抱き込まれている方に任せているようでしたから。ならば、僕たちが妖怪としての力を振るえば、なんらかの揺さぶりにはなるだろうと考えたのです」
「い、いやだから、そいつがどこにいるかって話を……」
「そして、僕の使った妖術には、なんの反応もありませんでした。妖怪や、知られていない生物が存在している反応も――僕が妖術を使用したことに対する反応も」
「……えっ……」
「この屋敷に人払いの妖術をかけた妖怪は、屋敷の中を逐一監視しているわけではない。そして屋敷の中にいるわけでもない。もちろん僕の妖術が効かなかったという可能性もありますが、この一週間幾度もかけたというのに、まるで反応が見られなかったということは、本当にこの屋敷の中にはいない、と考えた方がいいでしょう」
「い、いや、だけど、この屋敷の中にいないのに、いったいどうやって人払いの術の対象を選別してるっていうんだ!? 遠距離から術の効能をいじれるなんて、それこそ普通じゃ考えられないだろ!?」
「もちろんその可能性もありますが、まずはシンプルに考えてみた方がいいと思います。妖怪ならば、この屋敷の中にいながらこの屋敷の中にいない方法は――異空間を作る方法は、ひとつだけではないでしょう?」
「! 隠れ里……!」
 思わず呟いてしまった閃に、箕輪は静かにうなずいた。
「妖術で空間を作った可能性もありますが、そのやり方で長い時間を過ごすというのは少し無理がある。もちろん絶対に無理、というレベルではないので、考慮には値しますが……まずは隠れ里がこの屋敷にある、という可能性から考えていった時に、僕は一番ありえそうな説を見つけ出せたんです」
「ありえそうな、説……?」
「ええ。隠れ里がこの屋敷の中にあるということは、普通に考えて、その隠れ里に住む妖怪は、ずっとこの土地に根付いていた妖怪、ということになりますよね? わざわざこの屋敷へとはるか遠くから扉を繋げた、なんていう酔狂な真似をしたわけじゃないのなら」
「あ、ああ……そりゃ、そうなるだろうけど」
「ならば、普通に考えて、この土地に伝承が残っていてしかるべきでしょう。ですが、この近辺はそもそもが私有地――中世から続く地主の一家が有していた土地のひとつを、四物家が、というより四物孝治さまが買い上げた場所です。そして、その土地の中で、この屋敷以外に人の住んでいる場所はない。だいぶ過去までさかのぼって調べても、記録は見つからなかったそうです。それでは、この土地固有の歴史、伝承は残りようがない――ならば、『この土地固有』ではない伝承の一環として存在するものなのではないか、と考えたんです」
「この土地固有、じゃない……?」
「青森は山岳信仰が盛んな地域のひとつです。そして、全国でも珍しい鬼神社――鬼を祀る神社が存在する土地でもある。鬼は全国津々浦々に数多く存在する、それこそ人がいる場所ならどこにでもいる種族ですが……基本的には、人の妄執や憎悪が形となった妖怪ですからね……この土地では山野の神、まつろわぬものといった、善鬼、あるいは人界の外に住まう隣人としての印象が強い。そして、そういった鬼は、温羅伝説を持ち出すまでもなく、製鉄……山にて鉄鍛える片目片足の人々、というイメージと繋がります」
「え……え? ど、どーいうこと?」
「ええと、鬼という妖怪の中には、鉄を作る人々……昔の、どうしても片目片足を悪くしてしまうやり方で作っていた人たちに向けた〝想い〟から生まれたものもいるのだ、と考えていただければ。青森にも製鉄の遺跡は多く、十腰内のように鉄や鍛冶そのものと鬼をストレートに結びつけた伝承もあります。ここに隠れ里があるのだとしたら、その一環……かつて数多存在した鬼の隠れ里の残り火なのではないか、と僕は考えたんです」
「な、なるほどー……」
「……鍛冶?」
 思わず呟いてしまった閃に、箕輪は大きくうなずいてみせた。
「そう、鍛冶です。日本においては、鍛冶師は太古から連なる火と異界からの技術の運び手というイメージのみならず、〝刀鍛冶〟という想念と非常に結びつきやすい。日本刀という優れた金属製品に向けられる〝想い〟の大きさは、僕よりも常に日本刀を持ち歩くあなたの方がずっと理解しやすいでしょう。そして、今現在刀鍛冶師の受け継いでいる技では、過去の優れた日本刀を再現することが難しいという事実も相まって、古来からの技を受け継ぐ鍛冶師というものに対しては、オーヴァーテクノロジーの使い手とすらみなす〝想い〟すらあるんです。どれだけ大きく、強い〝想い〟なのかは、言うまでもありませんね?」
 刀鍛冶。それにまつわる〝想い〟。青森という地に残された伝承。そして、死体につけられた刀傷。これは、つまり。
「つまり、今回の一件は……刀鍛冶師の妖怪が、黒幕だと?」
「正確には、剣鬼……刀剣にまつわる〝想い〟を背負った鬼でしょう。鬼は〝まつろわぬもの〟として、刀で追い散らされる存在としても描かれますが、すでに申し上げた通り、製鉄にまつわる者としての側面も有している。剣鬼という妖怪の性質は、『刀を振るう鬼』という在り方も多いですが、『刀を鍛える鬼』という在り方も数多い。製鉄にまつわる者という側面のみならず、刀鍛冶師という常識を超越した技術者の、尋常の人間では手に入れられないほどの覇気、鬼気、執着に対する、ごく当たり前の人々からの畏怖や尊崇が、刀鍛冶師を鬼とみなすからです」
「剣鬼……」
「と、なれば……今回の事件の動機も、おのずからある程度はわかります」
「えっ……な、なんで?」
「もちろん、推測にしかすぎない話ではありますが。刀鍛冶師である剣鬼の、本来の性は刀を打つこと。その本性を抑えることなく、反発することなく解放したならば、より強く、より優れた刀を産み出すことが目的になるはずです。そうして彼らが最上を目指し鍛えた刀は、その多くが妖具になる」
『よーぐ……?』
「……妖怪の力を持つ、妖怪の分身ともいえる道具のことだよ。前にツリンが話してくれただろ?」
「え、えっ? い、いつのこと?」
「ほら、妖怪課との一件の時に。人間が妖怪を倒す方法について話をしてただろ? その三つ目の、妖怪に属する力を使って妖怪を倒す、っていう話の最初で……」
「……………あっ! あーっ! 思い出した思い出したっ、覚えてる覚えてる! そっかーすっごーい、閃くんってそんなことまで細かく覚えてるんだねっ!」
「………うん。まぁ……」
 実のところ、園亞がこういうことをどんどん忘れていくのは予想できたことだったので、話をしてもすっかり忘れられていた時に備えて、重要な話が出た時はその日時や話の流れも含めてメモをしておく、という習慣が(ツリンに何度も忠告されたせいで)できてしまったというだけなのだが。まぁ、思い出してくれたならなによりではある。
 園亞同様、妖具と言われてもぽかーんとしていた広里にも、閃たちが話している間に箕輪が説明をしてくれた。園亞同様、箕輪の知識と記憶力を褒めちぎる広里に笑顔で応えながら、箕輪は説明を再開する。
「妖具というのは、必ずしも狙って作れるものではないですし、作り上げる中で妖怪の存在する力を削ることも多い。その関係上、妖具作成の技術というものは、基本的には存在しないというか、技術と呼べるほど定着してはいないのが普通です――けれど〝刀鍛冶〟たる妖怪の中には、刀についてはかなりの確率で妖具を仕上げられる、という者たちが存在します」
「……そうなのか」
「〝日本刀〟や〝刀鍛冶〟に対する〝想い〟の強さゆえでしょうね。妖刀と呼ばれる刀も、この国には数多いですから。向けられた〝想い〟によって刀が妖怪と化し、それによってますます〝想い〟が強められる。そういった過程を見てきているからでしょうか、刀鍛冶たる剣鬼が妖刀を打つ際には、〝想い〟の凝集を、血として吸わせる、という過程を踏む場合が多いんです」
「……血として、吸わせる?」
 目を見開き問うた閃に、箕輪は我が意を得たりとばかりにうなずいてみせる。
「はい。太古より、より優れた制作物を仕上げるために、人の命を吸わせる、という工程を踏む伝承については枚挙にいとまがありません。鉄を鋳造する際に妻の髪や、乙女そのものをその中に投げこんだり、鍛え上げられた刀を仕上げる際に、刀が求める者の血を吸わせたり」
「刀が、求める者……」
「作り手としての感覚、と言うべきでしょうか。作り上げた作品が、どのような作品として完成させられたいか、完成するためになにを与えられたいか、そういった欲求を感じ取ることは、無生物と会話する妖力を持たない作り手でもしばしばあります。もちろんそれはただの妄想とも呼べるものなのかもしれませんが、技を極めた者であれば、多かれ少なかれそういった、他者からは霊感として扱われるような感覚を有しているのは確かです。妖怪の刀鍛冶であればなおのことでしょう。――今回の場合、おそらく事件を起こした妖怪が打った、あるいは打とうとしている刀は、〝悪性〟にまつわるものであると、僕は思います」
「悪性………?」
「人の醜さ、愚かしさ。歪み、穢れ、汚らしい欲望。愛を軽んじ、自身の欲望のみを重んずる心。人の悪性――それを〝斬る〟刀なのか、〝喰う〟刀なのか、刀そのものに取り込ませようとしているのか、そこまでは刀鍛冶ならぬ僕にはわかりませんが……なんであれ、そういった悪性に満ちた人間を、同様に悪性に満ちた人間が、その刀を用いて斬り殺すことによって、完成に近づく。そういう刀を打とうとしているのだ、と僕は考えました」
 なるほど、と唸らざるをえない。孝秀、孝志、孝介、幸恵。その誰もが、四物財閥という存在の、そして孝治が有する金の輝きに魅せられ、自分たちは何もすることなく、できる限り孝治から、そして園亞から、欲するものを奪い取ってやろうとした。確かに人の悪性と呼ばれるものは、持ちすぎなほどに蓄えていたことだろう。
「……被害者の周りの、同様に悪性を蓄えた人間の心を操って、悪性をこの上なく有する人間――被害者を斬り殺すことで生まれる、刀……」
「おそらくですが……その妖力の基となる存在は、〝白蛇〟の妖怪だと思います」
「っ! 〝白蛇〟だって!?」
「〝白蛇〟が四物孝秀氏をはじめとした、四物家分家の方々と、深く関わり合っている理由もそこにある気がするんです。もちろん、最初は園亞さまの、高い魔法の素質の存在を突き止めて、四物コンツェルンという存在に基づくザ・ビーストからの制止、それに加え孝治さまが有する妖怪たちによる護衛戦力の高さに手を出しあぐね、分家の方々と手を結んだのでしょうが……曲がりなりにも千年以上前から続くネットワークの幹部たちが、ああも浅慮な方々に、いつまでもかかずらっていると考えるのは、少々不自然だ」
「っ……どういうことだ!?」
「普通なら、心を操る術のひとつでもかけて、いいように操った方が楽で確実でしょう。こんな辺鄙な屋敷にご機嫌うかがいに来る必要もない。人間の方を動かして、東京やらどこやらで会えばすむ話です。それなのに彼らは頻繁にこの屋敷を訪れて、そのことにまるで反発もしていない。それに、僕はこの屋敷で、心を操る術を破る妖術を仕込んだ料理を幾度もお出ししました。それにまるで反応がなかったところをみると、やはりこの屋敷の住人には心を操る術はかけられていなかったはず。この屋敷を訪れた時に、〝白蛇〟の方が精神操作を受けていたと考えると、その不自然さが解消されるんです」
「センリョって……悪口だよな? やっぱ祐さん、この屋敷の奴らにすっげー腹立ててたんだなー……まともに飯食ってくれないとか言ってたもんなー……」
 広里が小声でぶつぶつ呟いているのをよそに、閃は勢い込んで問い質してしまった。
「いや、それ以前に! 〝白蛇〟の妖怪が基って、どういうことなんだ!? 妖怪が、刀の基に!?」
「妖具を作り出すにはいくつか方法がありますが、いずれの方法にせよある程度の妖力は必要になります。妖具を存在させるためだけに、妖具の作り手はある程度自らの妖力を消費しなくてはならない。ですが、その裏技として、妖具の基となるものに既に存在する妖怪を使うことによって、その妖怪の有する妖力で、妖具に必要な妖力をまかなうことができる、と聞いたことがあります。むろん、誰にでもできることではないですし、その妖怪本来の在りようは歪められてしまうわけですが」
「ちょっと待ってくれ。じゃあ、〝白蛇〟の連中は……ここに来るはずだった頭目は、もういないっていうのか!?」
「おそらくは。〝白蛇〟のお家芸である、『特別なものを食して特別な力を得る』という儀式を、自分たちに使われもしたのかもしれません。少なくとも私が調べた限りでは、今現在この屋敷の通常の空間には、我々とあなた方、そして四物家本家の護衛の方々以外の妖怪は一体もいないんです。私がこちらのお屋敷を訪れてから今まで、時間にすれば一週間ぐらいにはなるでしょうが……その間には、私の妖術に引っかかるような妖怪の反応も、幾度もあったというのにね」
「…………」
「剣鬼にしてみれば、おそらくは今この時が刀の仕上げ時なのだと思います。隠れ里の本来ある場所がこの屋敷からどれほど離れているかはわかりませんが、この屋敷を建てた場所こそに存在する、なんていう偶然はそうそうないでしょう。起こりえないとは言いませんが……この近在にある隠れ里から、この屋敷に扉を繋げた、という可能性の方が大きいはず。おそらくは、自分の住まう隠れ里の近在に突然できた人の住まう場所に、様子を見に来て、この屋敷に渦巻く人間の悪性に、それにまつわる刀を打ってやろう、と創作意欲を刺激されたのではないか、と思います」
「創作意欲……」
「妖刀を打つ妖怪の刀鍛冶は、それこそ何十年もかけて一本の刀を打つ、ということも多い。この屋敷ができた時から、隠れ里から扉を繋ぎ、屋敷に渦巻く悪性の〝想い〟を取り込んで、〝白蛇〟の妖怪たちの心を操り、といくつもの手を打ってきたはず。だからこそ、仕上げ時の今は、なんとしても邪魔をされたくない、と考えていると思うんです。おそらくは探査系の妖術にもそれなりに心得があるでしょうし、そうでなくとも〝白蛇〟の連中から煌さんの情報は仕入れているはず。――つまり、向こうは全力でこちらから逃げ隠れしようとしている。向こうの目的からすれば、煌さんとやり合う必要性なんてまるでないわけですからね」
「…………」
「もちろん、これはあくまで仮説です。まるで見当違いの考えだということもあり得る。ただ、あくまで私の、当てにならない勘にすぎませんが……この仮説は当たってるのではないか、と考えています」
「うんうんっ、そうだよねっ! 全部はわかんなかったっていうか、いっぺんにばーって言われて覚えきれてないとこもいっぱいあるけど、箕輪さんがそんな風にすらすらいっぱい言えちゃうってことは、きっとその考え間違ってないんだよ!」
「だっろぉお? そう思うよなっ? わかってんじゃねぇかまだガキのくせによ! そうだよ、祐さんの考えが間違うとか、そっちの方が普通にありえねぇからっ!」
「浩くん。言葉遣い」
「もっ、申し訳ありませんでしたっ!」
 姿勢を正して美しいお辞儀をしてみせる広里をよそに、閃は刀の柄に手をかけて、だっと走り出しかけた。
「えっ、閃くん、どこ行くの!?」
「四物家姻戚の人たちの警護をする! その刀鍛冶の妖怪は、四物家姻戚の人を狙ってるんだろ!? だったらその人たちを狙って顔を出したところを倒すしかない!」
「おそらく、それは無理だと思います。というか、顔を出す……隠れ里から出てくるということを、もう剣鬼はしなくていいはず。刀自体の特性か、剣鬼の妖術によって仕込みがしてあるのかはわかりませんが……これまでの殺人で、剣鬼の完成させようとしている刀は、すべて人間の手で、悪性に満ちた人間を斬り殺してきました。おそらくは今も別の人間の手に渡り、殺意が爆発する時を待っているはず」
「……っ!」
「持ち物を強制調査することができれば見つかるかもしれませんが……必ずしもその手は有効ではないでしょうね。妖具ならば、必要な時だけにどこからともなく現れる、という妖力を有していてもおかしくはありません。むしろ妖具にはよくある特製のひとつと言えるでしょうし」
 あくまで落ち着いた、穏やかな口調で話す箕輪に、閃はぐっと拳を握り締めて喚いてしまった。
「じゃあ、どうすればいいんだ!? 俺たちに、なにか他に打てる手があるっていうのか!?」
「はい、あります」
「えっ……」
「というか、むしろあなたでなければ打てない手があるんですよ。草薙さま」
「……さまづけはやめてくれ。俺はそんな偉い人間じゃない」
「いえ、一度店を訪れていただけたなら、どちらさまもお客さまですので。仕事中はこう呼ばせていただきたく存じます。――あなたが我々のところを訪れてくださるのを、ずっと待っていたのですよ、草薙さま」
 そう言って箕輪は、可愛らしい小学生男子にしか見えないその顔を、にっこりと優しく笑ませたのだ。

 屋敷の一角。部屋の中で懸命に息をひそめる四物家の姻戚たちが集まっている近辺。その廊下で、閃はすらり、と刀を抜いた。
 鋼の鈍い、そして同時に鋭い輝きがひらめく。それをじっ、と眺めたのち、閃は刀を振るった。
 中段、上段、下段。八相、陰、霞、刺手、蜻蛉。いくつもの構えから、それにふさわしい形に剣を振るう。つまり、閃が日々一日も欠かさずくり返している鍛錬――型稽古だった。
 形を守っていればいい、というものではない。だが、型をおろそかにしていては剣術の意味がない。何百年も磨き上げられてきた剣術と呼ばれる武芸、技術と、実戦の中で鍛え上げられてきた閃の心身と魂の力を合一させて、天然自然の形のままに振るう。それでようやく剣術使いと、剣士と呼ばれるに足る。
 雑念が消え、剣技に瞬時に心身が没入する。生あるもののあるべき形に、あるべきものをあるべきように動かす。刀を振るうひとつの機構へと、心身が自然に変じていくのを感じる。世界が自分であり、自分が世界であるように。集中し世界を閉じ切らせながら、世界のすべてを認識する。
 ひたすらに。ただ、ひたすらに―――
「………ひでぇ、ことを。するものだ」
 そんな呟きと共に、廊下の向こうから、人影がひとつ生まれ出る。闇の中からずるりと這い出るように、暗闇が人の形を作る。
 いや、それは人影というにはやや無理があったかもしれない。頭には角、手には鉤爪。体の大きさは三m近く、横幅もそれ相応に大きい。日本家屋としては珍しいほどに大きく広々とした廊下が続くこの屋敷でなければ、まともに歩くことすら難しかったかもしれない。
 赤々とした皮膚を、ほとんど襤褸切れのような衣服の間からあらわにしたその妖怪は、手に持った槌――鉄を鍛えるための火作槌を揺らしながら、嘆かわしいとでも言いたげな顔でかぶりを振った。
「刀を今まさに仕上げようっていう時に、別の刀を打ちたくさせるような、この上ねぇ素材をあからさまに見せつけるなんてなぁ。打っていた刀の仕上げにしくじったら、どうするつもりだってんだ。ちっとでも情ってもんがあるんなら、こんな仕打ちとてもできねぇだろうに」
「……それは、悪かったな。でも、俺にも、やらなくちゃならない仕事があるんだ」
 刀を最後の型まで振るい終えてから、閃は静かにその妖怪――刀鍛冶の剣鬼へと向き直る。心はまだ型稽古に没入した状態から戻りきってはいなかったが、断じて自分の仕事を放り捨てるわけにはいかない。
「あんたは、自分の刀を仕上げるために……刀に人の悪性を吸わせるために、妖具となる刀を、この屋敷の人間に持たせたな? そして心を操って、人を殺させた」
「心なんて操っちゃいねぇよ。俺にできるのは、刀を打つことだけ。あの刀は、人の薄汚ぇ心を喰うのが大好きだから、薄汚ぇ心の持ち主に働きかけて、使い手になってもらう。そいつは自分の欲と悪意のために、自分同様薄汚ぇ心の持ち主を斬る。それだけのことさ」
「……刀がやったことで、自分に非はない。そう言うんだな?」
「実際ねぇだろう? 俺はあの刀が鉄だった時から、なりてぇ形ってぇもんがわかってた。だからそうなれるように打ってやった。俺は刀鍛冶だからな。そうしないわけにはいかねぇ。打った刀をどう扱うかは、使い手が決めることさ。可愛がってほしいたぁ……刀が求めてる形で、思う存分振るってやってほしいたぁ、思うがね。ま、俺ぁ刀を打つ邪魔になるなら同じ妖怪だって殺すから、偉そうなこたぁ言えねぇんだがよ。今回も、刀が食いたがってたこの屋敷の連中の心を操ろうとした奴らを、何体か刀の素材として使っちまったしな」
「それに加えて、あんたが人の命が失われる原因を作ったっていうのも確かなことだ」
「人間なんて当たり前に死ぬもんだろう? ちょっと前までは、この辺でも藪蚊みてぇにうじゃうじゃと人が死んでたんだ。ちぃっとばかし時が過ぎたからって、扱いを変えるってぇ方がおかしなこったろうに」
「……そうかもな。だけど――」
 閃は刀を持ち上げ、上段鳥居に構える。刀の鈍く鋭い輝きが、剣鬼の目にきらめいた気がした。
「俺は人の命を軽々しく奪う妖怪を、すべて倒すために人生を費やす誓いを立てた人間だ。だから、あんたがそうやって、人の命を費やしながら刀を打つのを、放っておくわけにはいかない」
 剣鬼はほぅ、と巨体に似合わない小さな息をつく。それは感嘆の吐息のようにも、感動のため息のようにも聞こえた。
「それなら、俺は刀鍛冶として、あんたを斬り殺してでも刀を打ち続けねぇわけにはいかねぇよ」
「そうか」
「あぁ―――」
 剣鬼がそう声と息を漏らした次の瞬間、閃の刀と剣鬼の刀はぶつかり合っていた。刀の鋼に細かくひびが入り、鉄片となって周囲に飛び散る。
 人間のひ弱な皮膚は、それだけで傷つき血を垂らし始めるが、閃にはそんなことを気にしている余裕はなかった。剣鬼が掌から直接生やして、閃の刀を受けきった、その動きで否応なくわかる。この妖怪は、剣の達人だ。自分と比べても、さして遜色のないほどに。
 自分がこれまで数多の妖怪と相対し、曲がりなりにも生き延びてこれたのは、運がよかったからでもあるし、相手の妖怪が全力を出せないよう策をあれこれ弄したからでもあるが、閃の剣術の技が普通の妖怪より優れているからでもあったはずだ。普通の妖怪は妖力や妖術を鍛えることに傾注して、技を鍛えることは怠りがちになる。むろんその方が実戦では有効だからで、閃には技を磨く以外の選択肢がなかったがゆえの、当然の話ではあるのだが、閃の技が相手を大きく引き離して優れているという事実がなければ、おそらくは園亞が力を貸してくれていても、自分は生き延びてこられなかっただろう。
 つまり、相手がこれほどの腕の持ち主であるという事実は、閃の勝ち目を大きく減らすだろうことは間違いない。
 ――だが、閃はそんな瑣末事に想いを馳せることなく、静かに呼吸をしながら刀を振るった。
 刀と刀を打ち合わせるなんて、いったい何年ぶりのことだろうか。それこそ、両親が死ぬ前、家の道場で稽古した時以来かもしれない。
 それほどの時間が経っても、剣と剣を打ち合わせる戦いの時の心境は覚えている。一瞬の気の緩みが死を招く現状。全身全霊で相手に集中しながら、同時に周囲のすべてを感得しなければならない不条理。そんなことはいつものことだが――閃にとって、剣と剣を打ち合わせることは、むしろ『会話』だった。
「っ………!」
「ふっ………!」
 一瞬の隙を捉えては打ち込み、誘われては反撃され、打ち込まれては受け、返し、受け流す。一瞬のうちに無限に交錯する、剣閃と意志。
 それは閃にとって、命をぶつけ合う儀式であり、相手と真情をぶつけ合う対話だった。十歳やそこらの頃から、実戦に向かう際の武器に、刀以外のものが考えられなくなるほど、剣術は閃の身に馴染んでいたのだ。自分とほぼ同等の腕の持ち主と剣を交わして、久々にそれを思い出した。
「―――っ!」
「ほぅっ!」
 交錯の中で、閃の刀が幾度か剣鬼の身体をかすめる。そのたびに、剣鬼のいかにも分厚く、丈夫そうな皮膚はずっぱりと斬り裂かれ、血を噴き出した。明らかに刀が触れた部分より深い傷だ。つまり、それがこの剣鬼の弱点なのだろう。刀を作り出す鬼でありながら、刀で斬り裂かれることに弱い、という。
 いや、正確には違うか。おそらく、『一定より高い水準の』刀による斬撃に弱いのだ。閃自身が『斬り損ねた』と感じた一刀は、剣鬼の皮膚に防がれている。相応の剣の腕を持つ者にしか斬り裂けない皮膚。無効化される範囲が狭い分、激烈な弱点になっているのだろう、閃が剣鬼に与えた一撃は、どれも相当深い傷になっているのが見て取れる。一撃でも喰らえばおそらくお陀仏になるだろう閃と比べても、条件に大きな違いはないのかもしれない。
 だが、閃はそんな考えを一瞬ちらりと脳裏に閃かせながらも、心身のほぼすべてを傾けて、斬り合いを続けていた。
 右上からの斬り下ろし、返す刀での顔面狙いの突き、避けられて大きく薙ぎ払ってきた一閃を懐に飛び込んでかわし足を斬り上げ――そんな瞬時の交錯と試行錯誤を山と越えているうちに、身体の方が悲鳴を上げてくる。息が上がり、苦しくなり、緊張と相まってまともに動かなくなってくる。
 けれど、閃は知っていた。その先に、剣と剣を交わさねばたどり着けない一点があると。
 剣がひらめき、血がしぶき、反吐を呑み込み味わいながら、斬って、斬られての交錯を、幾度も幾度も繰り返し―――
 ――気づいた時には、閃は、倒れ込んだ剣鬼を見下ろしながら、荒い息をついていた。
「―――………」
「………見事。見事だ。大したもんだ。人の身で、よくそこまでの境地に至ったもんだ。いいものを見せてもらったよ、本当に」
 喉を斬り裂かれ、血を噴き出させ、ごぼごぼと声を濁らせながらも、剣鬼は落ち着いた、穏やかささえ感じる声で、笑顔すらうかべてそう告げる。閃はその答えに、ゆるゆると首を振ることしかできなかった。
 境地になんて至れてはいない。どこにもたどり着けてはいない。自分はひたすらに未熟者で、力が足りなくて、うろたえてばかりだ。自分の目指す道とのあまりの乖離に、ため息をついてばかりだ。
 そんな閃の想いを感じ取ったのか、剣鬼はくぐもった笑い声を漏らした。
「そこまでに鍛え上げてもまだまだ足りんというのなら、この刀を使うといい」
 そう言って、震える腕をのろのろと少しだけ持ち上げて、さっきまで柄を握っていた刀を差し出してみせる。
「俺からしてみりゃ、邪道な造りだが……道半ばの、力が足りねぇことに泣いてばかりの子供が振るうにゃ、このくらいでちょうどいいだろうさ」
「…………」
 閃は無言のまま、その刀を受け取る。さして重い刀ではなかったが、受け取ると同時に、剣鬼の身体から重みが一気に失せたのがわかった。
「……そんな若ぇ身空で、ここまでの技を見せてくれたんだ。まだまだ打ちてぇ刀はあるが……年を食った親爺としちゃあ、道を譲らねぇわけにはいかねぇさ」
「…………」
「まぁ……また身体を持った時にゃあ、同じように刀を打ち始めるだろうがね。刀がなりてぇ形に、求めてる形に打ってやるだろうし、刀が人を斬りてぇ、喰いてぇというなら喰わせてやるだろう。俺はそういう妖怪なんだ、あんたがどれだけ殺そうが、俺は幾度蘇っても同じことをするだろう。だから今回は俺を魅せてくれたあんたに譲ってやろう、ってぇ話なんだが……いいかね、あんたはそれで?」
「……いいわけは、ないだろう。だから……あんたが蘇ってきた時に俺がまだ生きていたなら、何度でも止めに行く。いいか、あんたはそれで?」
 閃の言葉に、剣鬼は今にも消えそうな息の下で、小さく笑ったようだった。
「まぁ、それもいいさ……あんたが生きているうちに、俺が蘇ってくるこたぁ、まずねぇだろうが……あんたがどこかへ至った末の技の冴え、ってもんを見せてくれるなら……それなりに、分のいい取引だ―――」
 その言葉を最後に、剣鬼は一瞬で塵に還る。ついさっきまで喋っていた存在が、一瞬で無に帰す。それをじっと見守ったのち、閃は小さく息をついて、いつでも構えに入れるよう、右手に握っていた刀を鞘に納めた。
 と、ぱちぱちぱちぱち、と拍手の音が響く。小さな掌を精一杯打ち合わせているのだろうことがわかるその拍手の発生源は、予想通り、隠れていた部屋からぴょんと飛び出してきた園亞だった。
「閃くん、すごい、すっごーい! 閃くんはいっつもすっごくすっごいけど、今回は特にすっごかった! なんていうかもう、本当、達人って感じしたもん! 閃くんがすっごい大変だったのはわかってるけど、私ちょっと見とれちゃったよ、ホントにっ!」
「………ふん。まぁ、なんだ。まぁ一応は認めてやるぜ、まぁ一応はな。まぁ一応は、大したもんだって言ってやらなくもねぇっつぅか? けど忘れんなよ、祐さんがお前じゃなきゃ敵の相手にならねぇっつったのは、敵が剣鬼だったからだかんな! 刀打つのに命懸けてる妖怪だから、刀上手に振り回すとこ見せたら誘い出せるし、刀での勝負挑まれたら断らねぇって考えただけだかんな! 素手だったら俺の方がぜッてェ強ぇし!」
「浩くん、年下の子相手に張り合わないの。それと言葉遣い。……お見事でした、草薙さま」
 そう言って出てきたのは、カルパ・タルーのスタッフである妖怪、箕輪と広里だった。広里は最初自分も黒幕の妖怪と戦いたいと言い張っていたのだが、箕輪の(剣鬼と相対するのは閃が一番いいという)説得により折れて、箕輪と一緒に四物家姻戚の人々を説得する役に回っていた。箕輪の言葉巧みな説得と、硬軟取り混ぜた(料理や妖術も含めた)交渉術によって、四物家姻戚の人々は揃って内情やら心情やらを吐き出したそうで、現在は妖具の刀を取り上げた上で、孝治のところで交渉を詰められている。
 そんな箕輪は、頭を下げて謝意を示したのち、気遣わしげに自分を見つめ、問いかけてくる。
「ですが、草薙さま。お体の方は大丈夫なのでしょうか? 僕は剣術については素人ですが、それでも草薙さまが見事な技の冴えで剣鬼の剣戟を捌ききっていたのは見えました。ですが、それでも、あれほどの長時間真剣で斬り合ったならば、体力も精神力も、身体にかかる負担も限界に―――」
 箕輪の声が聞こえたのはそこまでだった。そのあと感じられたのは、空中に放り出されたような浮遊感と、横転した時のような腹の底と頭がねじれる感覚。それから、遠くに響く園亞の叫び声と、身体を支えてくれる、慣れ親しんだ大きな腕の感触だけだった。

 自分が倒れたあと、箕輪と広里は、こまごまとした後処理をきっちりこなしてくれたらしい。孝治や政府の諸機関に連絡を取り、法律的な問題をうまい具合にごまかしてくれた上で、妖怪としての力を使って屋敷を訪れた人たちの記憶やらなにやらもうまく処理してくれたのだそうだ。
 そのおかげで四物家姻戚の人々は(孝秀はじめ、面倒な人間が何人も殺されてしまったせいもあるのだろうけれども)、なにがどう転んでもこれ以上園亞や孝治たちを煩わすことのないよう、がっちり服従させることができたらしい。孝治たちにとってもそれなりに予想外の展開だったそうだが、結果的には大満足だそうで、カルパ・タルー、というかその雇い主である水澤グループには相当のボーナスを弾んだのだそうだ。閃も、できるだけ早く礼を言いに行かなくてはならないな、と考えている。
 事態が事態なので、盆供養は取りやめになった。それどころか、寺そのものを廃寺にして、分家屋敷も取り壊す方向で話が進んでいるらしい。まぁ実際あんな東北の山奥でしか盆供養ができないというのは不便この上ないし、そこまで行くだけでも多忙な孝治にとってはとてつもなく面倒で無駄な時間なのだろうから、当然といえば当然だ。
 なんとしても閉じ込めておきたかった孝秀はじめ姻戚の何人かは、今回の事件で命を失ってしまった。その人々の供養は当然すべきだけれども(基本、玲子を名代に立てて葬儀を行うらしい)、その結果を利用しない孝治ではないのもまた確かなことだ。屋敷を訪れた人々との間に二つ三つ商談を成立させてすらいたというのだから、一代で財閥を築き上げたというのは本当に伊達ではない。
 ――そして、閃は、あのあとどうなったかというと。
「……煌。もう、いい加減、許してくれてもよくないか」
「はぁ? なに言ってんだお前。俺がなにを許すって?」
「だから! 剣鬼との戦いで、お前に頼らなかったことをだよ! しょうがないだろ、剣鬼を誘い出して果し合いにまでもっていけるのは、剣術をある程度修めた俺だけだったんだから! それ以外の餌じゃあいつは出てこないって……」
「なーに言ってんだお前。俺がそんなこと気にしてるわけねぇだろ? いやムカついてはいるけどな実際。けどいつも言ってんだろうが、お前は俺のなんだ?」
「……生贄兼、食料兼、相棒」
「だろ? それがわかってんだったら好きにやれ、っていっつも言ってんだろうが。あの状況で仕事ができんのはお前だけだったのも確かだろうしな」
「……っ、ならっ! いい加減退院させてくれてもいいじゃないかっ!」
 広々とした病室(当然個室だ)の、広々としたベッドの上で、サイドボードにもたれかかってニヤニヤしながらこちらを見下ろしている煌に、閃は喚く。
 あの後、意識を失った閃が気がついた時には、もうこの病院のベッドの上だった。ここは四物コンツェルンの系列病院のひとつで、その中でも金持ち連中が快適な入院生活を送るために造られたという、筋金入りの贅沢病院なのだそうだ。
 意識を失ったのちの容態を見て取った箕輪と煌により、命に係わることはないが安静が必要だと診断された閃は、孝治の紹介で(かつ、孝治の金で)この病院に入院することになった。病室に(煌の高速飛行によりあっという間に)運び込まれてから三日ほど経つが、自分はまだまともに病室の外にすら出してもらえていない(風呂などには入れてもらえている。プライバシーに対する配慮もこの病院の自慢なのだそうで、他の入院患者には一度も会ったことがないけれども)。
「もう傷は治ってるんだろう!? お前の治癒の妖術なら、死んでなけりゃ人間なんて簡単に治せるっていつも言ってるじゃないか!」
「おうよ、もう傷はちぃとも残してやしねぇさ。俺の生贄兼食料兼相棒に、あんな野郎の傷いつまでも残しておくもんかよ。けど、何度も言ってんだろうが。お前が倒れたのは、傷のせいじゃなく疲労のせいだって。疲れた時にゃあたっぷり休んで、たっぷり滋養取るのが一番。長年溜めてる疲れを解消するにゃあそれしかねぇってここの病院の医者どもも言っただろ? 箕輪もそう診断したし、俺も同じ考えだ。要するに、お前はあと数日はこの部屋でごろごろしてろってこった」
「だ、けどっ……!」
 もう身体は治っているのに。いつでも戦えるのに。それなのにいつまでも休んでいるなんて閃には許されないし、なにより――
 そこまで考えが至った時に、タイミングを見計らったように、こんこん、と病室の扉がノックされた。
 ああもう来ちゃった、と頭を抱える閃に向けて、病室の外から軽やかな声がかかる。
「閃くーん、私、園亞だけど、入ってもいーい?」
「……………どうぞ」
 深々と息をつきながら答えると、扉がばーん、と押し開けられて園亞が入ってくる。いつも通りの満面の笑顔で、手には今日も大きなバスケットが装備されていた。
「あのねー、今日はトロピカルフルーツもらってきたんだっ! マンゴーとかー、マンゴスチンとかー、パッションフルーツとかっ! 閃くんの好きな桃もちゃんと入ってるよ!」
「いや……あの、園亞。いつも言ってるけど、別に毎日毎日見舞いにこなくてもいいから」
「? 部活の練習とかは、ちゃんと終わってるよ? 今日の分の宿題も、ちゃんと朝にやっちゃってるし! ちゃんと面会時間に閃くんのお見舞いに来たいもんねっ」
「いや、だから、毎日来なくてもいいんだよって話を」
「あっ……もしかして、邪魔だった……? なんかこう、気とか使う感じの修行とかしたかったりしてた……?」
「いや、その……俺には気とかそういう、超常的な武術の稽古なんてできないから。刀を振りたいとは思うけど……」
「あっ! 駄目だよ閃くん! お医者さんも言ってたでしょ、閃くんはずーっと一生懸命頑張ってきたから、すっごい疲れてるんだって! 疲れてる時はちゃんと休まないと! いっぱい食べてぐうぐう寝て、それからちょっとずつ身体を動かしてかなきゃ駄目なんだからね!」
「お前ら何回やるんだそのやり取り」
 笑みを含んだ声で言ってくる煌をぎっと睨みつけながらも、ため息をつく。入院中、なにが困るって、園亞に毎日見舞いに来られるのが一番困る。
 毎回必ず高い果物やらなにやらを持ってこられるのも気が引けるし(基本家にあるものを持ってきているだけなのはわかっているし、そもそもその大半は園亞の胃袋の中に消えるのが常だったけれども)。にこにこ笑顔であれこれ世話を焼かれるのは居心地が悪いし(園亞に焼ける世話というのは雑用くらいいしかないし、閃が自分でやった方が圧倒的に早いことがほとんどだったけれども)。身体の調子が悪いというわけでもないのに、大仰に心配されるのも困るしかないし(実際、煌も夜にはこっそり刀を振らせてくれるくらいには元気なのだ)。
 それよりなによりも――園亜との別れ時をうまく見極められないというのが、一番困る。
 孝治から頼まれた仕事は、今回の一件で無事完了した。追跡調査の結果、ネットワーク〝白蛇〟は完全に崩壊していることがはっきりしたし、〝白蛇〟を動かしていた四物家の姻戚たちとの問題も無事解決することができた。四物コンツェルンのご令嬢である以上、園亞にはこれからも危険がつきまとうことだろうが、それは孝治の雇ったSPが処理してくれるはずだ。なにせ妖怪までも雇い入れているというのだから。
 それなのに、この状況では、園亞との関係をなし崩しに続けていくしかない。きっぱりとうまいタイミングで別れる、なんて思いきった手段の取りようがない。どうしろというんだ、と再度深々とため息をついた閃に、園亞が顔を輝かせてバスケットを持ち上げた。
「あっ、閃くん、お腹空いてるの? よかった、いっぱい持ってきて! すぐなにか切ってあげるからね!」
「……いや、俺が切るから、いつもみたいに。刃物扱うのは俺の方が得意だから」
「そっかあ、そうだねっ! 閃くん刃物使うのホントにすっごい上手だもんねっ!」
 顔を輝かせてバスケットを差し出す園亞に苦笑しながら、ナイフを取り出しさくさくと果物を切っていく。それをにやついた目で煌が見ているのはわかっていたが、閃は一睨みをくれるだけで無視をすることに決めた。
 自分がいろんなものから目を逸らしていることはわかっていたが――それ以外に、どうにもやりようがなかったからだ。

戻る   次へ
『ガープス・百鬼夜翔』topへ


キャラクター・データ
草薙閃(くさなぎせん)
CP総計:260+120(未使用CP1)
体:15 敏:18 知:14 生:15(60+125+45+60=290CP)
基本移動力:8.25+1.75 基本致傷力:1D+1/2D+1 よけ/受け/止め:9/18/- 防護点:なし
特徴:カリスマ1LV(5CP)、我慢強い(10CP)、戦闘即応(15CP)、容貌/美しい(15CP)、意志の強さ2LV(8CP)、直情(-10CP)、誓い/悪い妖怪をすべて倒す(-15CP)、名誉重視/ヒーローの名誉(-15CP)、不幸(-10CP)、性格傾向/負けず嫌い(-2CP)、方向音痴(-3CP)、ワカリやすい(-5CP)
癖:普段は仏頂面だけど実は泣き虫で怖がり、実は友達がほしい、貸しも借りも必ず返す、口癖「俺は悪を倒すヒーロー(予定)なんだぞっ!」、実は暗いところが怖い(-5CP)
技能:刀26(56CP)、空手、柔道18(4CPずつ8CP)、準備/刀18(0.5CP)、ランニング14(2CP)、投げ、脱出16(1CPずつ2CP)、忍び17(1CP)、登攀16(0.5CP)、自転車、水泳17(0.5CPずつ1CP)、軽業18(4CP)、コンピュータ操作、学業14(1CPずつ2CP)、戦術13(2CP)、追跡、調査13(1CPずつ2CP)、探索、応急処置13(0.5CPずつ1CP)、生存/都市、英語、鍵開け、家事12(0.5CPずつ2CP)
妖力:百夜妖玉(特殊な背景25CP、命+意識回復+1ターン1点の再生+超タフネス+疲れ知らず(他人に影響+40%、自分には効果がない-40%、人間には無効-20%、肉体ないし体液を摂取させなければ効果がない-20%、オフにできない-10%、丸ごと食うことで永久にその力を自分のものにできる(命のみ丸ごと食べないと効果がない)±0%、合計-50%)88CP、フェロモン(性別問わず+100%、人間には無効-20%、オフにできない-30%、意思判定に失敗すると相手はこちらを食おうとしてくる-50%、合計±0%)25CP、敵/悪の妖怪すべて/たいてい(国家レベル/ほぼいつもと同等とみなす)-120CP。合計18CP)

旧き火神・真なる迦具土・煌(こう)
CP総計:3010(未使用CP2)
体:410(人間時50) 敏:24 知:20 生:20/410(追加体力、追加HPはパートナーと離れると無効-20%。250+275+175+175+156=1031)
基本移動力:11+2.125 基本致傷力:42D/44D(人間時5D+2/8D-1) よけ/受け/止め:13/18/- 防護点:20(パートナーと離れると無効-20%。64CP)
人間に対する態度:獲物(-15CP) 基本セット:通常(100CP)
特徴:パートナー(200CPの人間、45CP)、美声(10CP)、カリスマ3LV(15CP)、好色(-15CP)、気まぐれ(-5CP)、直情(-10CP)、トリックスター(-15CP)、好奇心1LV(-5CP)、誓い/パートナーを自分の全てをかけて守り通す(-5CP)、お祭り好き(-5CP)、放火魔(-5CP)、誓い/友人は見捨てない(-5CP)
癖:パートナーをからかう、なんのかんの言いつつパートナーの言うことは聞く、派手好き、喧嘩は基本的に大好きだが面倒くさい喧嘩は嫌い、パートナーから力をもらう際にセクハラする(-5CP)
技能:空手25(8CP)、ランニング17(0.5CP)、性的魅力30(0.5CP)、飛行22(0.5CP)、軽業、歌唱、手品、すり、投げ21(0.5CPずつ2.5CP)、外交20(1CP)、英語、中国語、仏語、アラビア語、露語、地域知識/日本・富士山近辺、探索、礼儀作法、調理19(0.5CPずつ5CP)、戦術20(4CP)、動植物知識19(2CP)、言いくるめ、調査、鍵開け、尋問、追跡、家事、読唇術、生存/森林、犯罪学18(0.5CPずつ4.5CP)、毒物、歴史、嘘発見、医師、催眠術、診断、鑑識17(0.5CPずつ4.5CP)、手術、呼吸法16(0.5CPずつ1CP)
外見の印象:畏怖すべき美(20CP) 変身:人間変身(瞬間+20%、パートナーと離れると無効-20%、合計±0%。15CP)
妖力:炎の体20LV(120CP)、無敵/熱(他人に影響+40%、140CP)、衣装(TPOに応じて変えられる、10CP)、超反射神経(パートナーと離れると無効-20%、48CP)、攻撃回数増加1LV(妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると無効-20%、合計-50%。25CP)、加速(妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると無効-20%、疲労5点-25%、合計-75%。25CP)、鉤爪3LV(非実体にも影響+20%、妖怪時のみ-30%、合計-10%。36CP)、飛行(妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると無効-20%、合計-50%。20CP)、高速飛行5LV(瞬間停止可能+30%、妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると無効-20%、合計-20%。80CP)、高速適応5LV(妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると無効-20%、合計-50%。13CP)、無言の会話(妖力を持たない相手にも伝えられる+100%、人間にも伝えられる+100%、よりどころの中からでも使える+100%、パートナーのみ心の中で会話できる+25%、パートナーと離れると無効-20%、合計+305%。21CP)、闇視(パートナーと離れると無効-20%、20CP)、オーラ視覚3LV(35CP)、飲食不要(パートナーの精気が代替物、10CP)、睡眠不要(パートナーと離れると無効-20%、16CP)、巨大化34LV(妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると無効-20%、疲労五点-25%、合計-75%。85CP)、無生物会話(30CP)、影潜み1LV(パートナーと離れると無効-20%、8CP)、清潔(パートナーから離れると無効-20%、4CP)、庇う(パートナーのみ-75%、5CP)
妖術:閃煌烈火50-24(エネルギー=熱属性、瞬間+20%、扇形3LV+30%、気絶攻撃+10%、目標選択+80%、妖怪時のみ-30%、パートナーと離れると使用不能-20%、手加減無用-10%、合計+80%。540+8CP)、闇造り1-18(瞬間+20%、範囲拡大16LV+320%、持続時間延長12LV+360%、合計+700%。16+2CP)、炎中和50-24(瞬間+20%、パートナーと離れると使用不能-20%、合計±0%。100+8CP)、炎変形20-24(瞬間+20%、パートナーと離れると使用不能-20%、合計±0%。60+8CP)、治癒20-20(病気治療できる+10%、毒浄化できる+40%、瞬間+20%、パートナーから離れると使用不能-20%、合計+50%。90+8CP)、閃光10-18(本人には無効+20%、瞬間+20%、パートナーから離れると使用不能-20%、合計+20%。48+2CP)、幻光1-18(瞬間+20%、範囲拡大16LV+320%、持続時間延長12LV+360%、合計700%。8+2CP)、火消しの風1-18(瞬間+20%、範囲拡大16LV+320%、持続時間延長12LV+360%、合計700%。16+2CP)、感情知覚10-18(パートナーから離れると使用不能-20%。16+2CP)、思考探知10-18(パートナーから離れると使用不能-20%。32+2CP)、記憶操作10-18(パートナーから離れると使用不能-20%。40+2CP)
弱点:よりどころ/閃の尻の痣(別の価値観を持つ生き物、一週間に一回触れねばならない、その中に姿を隠せるが痣が隠されると出られない。-30CP)
人間の顔:容貌/人外の美形(35CP)

四物園亞(よもつそのあ)
CP総計:665(未使用CP0)
体:11 敏:13 知:10(呪文使用時のみ23) 生:12/62(10+30+200+20+25=265CP)
基本移動力:6.25+1.25 基本致傷力:1D-1/1D+1 よけ/受け/止め:6/-/- 防護点:5(バリア型-5%、-8で狙える胸元の痣の部分には防護点がない-10%、合計-15%。17CP)
人間に対する態度:善良(-30CP) 基本セット:機械に対して透明でない(80CP)
特徴:意志の強さ1LV(4CP)、カリスマ1LV(5CP)、後援者/両親の会社(きわめて強力な組織(国際的大企業四物コンツェルン)/まれ、13CP)、朴訥(-10CP)、正直(-5CP)、好奇心(-10CP)、そそっかしい(-15CP)、健忘症(-15CP)、誠実(-10CP)
癖:自分は普通だと思っている天然、口癖「え、えっとえっと、なんだっけ?」、口癖「私だってそのくらいできるんだから」、胃袋が異空間に繋がっているとしか思えないほど食う、超ドジっ子属性(-5CP)
技能:バスケットボール13(2CP)、学業10(1CP)、軽業11(1CP)、投げ10(0.5CP)、水泳12(0.5CP)、ランニング10(1CP)
呪文:間抜け、眩惑、誘眠、体力賦与、生命力賦与、体力回復、小治癒、盾、韋駄天、集団誘眠、念動、浮揚、瞬間回避、水探知、水浄化、水作成、水破壊、脱水、他者移動、霜、冷凍、凍傷、鉱物探知、方向探知、毒見、腐敗、殺菌、療治、解毒、覚醒、追跡、敵感知、感情感知、嘘発見、読心、生命感知、他者知覚、思考転送、画牢、恐怖、勇気、忠実、魅了、感情操作、忘却、偽記憶、光、持続光、闇、闇操作、ぼやけ、閃光、透明31(1CPずつ50CP)、大治癒、倍速、飛行、高速飛行、瞬間移動、瞬間解毒、接合、瞬間接合、再生、瞬間再生、精神探査、精神感応、不眠、完全忘却、奴隷30(1CPずつ12CP)
外見の印象:人間そっくり(20CP) 変身:なし
妖力:魔法の素質10LV(180CP)、追加疲労点30LV(90CP)
妖術:なし
弱点:行為衝動/悪い妖怪に襲われている人間がいたらその人間を全力で助けずにはいられない(-15CP)、腹ぺこ2LV(-15CP)、依存/マナ(一ヶ月ごと。-5CP)
人間の顔:普通の中学三年生、容貌/魅力的(5CP)、身元/正規の戸籍(15CP)、財産/貧乏(15CP)、我が家/古い屋敷(15CP)