(どーしよう……困ったなぁ……どーしよう……)
猿轡をかまされ、腕と足を縛られ、完全に動きを封じられた格好で園亞は困惑しながらきょろきょろと目を動かしていた。周囲にあるのはむき出しのコンクリートの薄汚れた壁、そしてアルミサッシのドアと園亞にはとても届かなさそうな高いところにある小さな窓だけ。
(うーんうーん、困ったなぁ、どうすればいいんだろ。このままじゃ私、殺されちゃわないかなぁ?)
考えている内容のわりに切迫感のない思考だったが、実際現在の園亞の状況はシャレにならないほどの大ピンチだった。
今園亞は、誘拐されているのだ。
それもなんだか、謎の組織っぽい奴らに。
学校から帰る途中、突然口を押さえられて車に連れ込まれた。必死に暴れたがそれ以上の力で取り押さえられ、薬をかがされ拘束された。そしてあれよあれよという間に車でこのビルまで連れてこられ、部屋に放り込まれてもう一時間になるというわけだ。
自分をさらった奴らは全員黒覆面に黒スーツというすさまじく怪しい格好の男たちだった(たぶん、男。だと思う。なにも喋らなかったけど体つきごつかったし。男なんじゃないかなぁ)。みんな同じ格好だったから新興宗教のようなアヤシイ雰囲気で、それで謎の組織なんじゃないかと思ったのだ。
(うーんうーん……どうしよう……前みたいにSPの人たちが来てくれればいいんだけど、今回も前みたいにうまくいくかなぁ……)
実を言うと、園亞が誘拐されたのはこれが初めてではない。以前にも二……三度? たぶん二度ぐらい誘拐されている。今回と同じように学校の帰りに、今回と似たような服装の人たちに。その時はSPの人たちがそばにいたこともあり、幸いすぐに助けがきた。だが今回は一人になりたくてSPの人たちを避けてこっそり学校から出てきたのだから、自分一人でなんとかしないといけないような気がしないでもなかったりするのだが。
(どうしよう……なんとか逃げ出す方法ないかなぁ?)
うーんうーんと考えながらごろごろと打ちっぱなしコンクリートの上を転がる。この勢いでなんとか縄を切れないかなぁと思うものの、戒めは厳重でせいぜい転がるくらいの反抗しか許さない。あーお話だったらこんな時ちょうど手近に縄を切れるものがあったりして脱出への糸口がつかめたりするのに。今自分の周りにあるのはドアと窓とコンクリートだけなのだ。
……コンクリートの端っこで切れたりしないだろうか。
ずりずりと芋虫のように這いずってドアのところまで行き、気合を入れてよいこらしょと上体を起こし、ドアとコンクリートの境目で縄をごしゅごしゅと――
切ろうとした瞬間、窓の外の驚愕の面持ちと目が合った。
「んむーっ! へんふ……!」
「! ! !」
しーっしーっ、と必死に口に指を当てる閃に、園亞もはっとしてこくこくとうなずく。閃はまじまじとこちらを見つめてから、小さくため息をついて外側から窓を開けた。えー閃くん宙に浮いてるの、と目をぱちぱちさせていると、閃はひょいと窓から部屋の中に入ってくる。そしてようやく閃が体をザイルロープで固定していたことに気がついた。
「むぁ……」
すたり、と床に着地し体に引っ掛けていたロープを外し、もう一度唇に指を当ててから園亞の縄と猿轡を解く。カッコいい、と思いながら腰が抜けそうになるほどほっとして(やはり自分なりにたった一人で誘拐されたことはプレッシャーだったのだ)、その瞬間また閃からたまらなくいい香りが漂って、園亞は思わず閃に抱きついていた。
「っ! ちょ、園亞!」
閃の声も今は遠い。たまらなく幸せな気分ですりすりと閃の体に顔を擦り付け――噛んだ。
「………っ!」
「せ、閃くん、ごめん、ごめんね? そんなつもりじゃなかったの、わざとじゃなかったんだよ、ホントにごめんってば」
「……別に、怒ってるわけじゃない」
ぶっきらぼうなこちらを睨むようにしながらの返事だったが、園亞はその言葉をあっさり信じて笑顔になった。
「そお? よかった!」
「…………」
なぜか頭を抱える閃に、首を傾げて問う。
「でも、閃くん、なんでこんなところにいるの?」
「……それはこっちの台詞だ。なんでこんなところにいるんだ、園亞」
「え? 私は……誘拐されたから」
「ゆうか……!? っ!」
叫びかけて慌てて口を塞ぐ閃にこれまでの経緯を説明する。園亞は説明は苦手なほうだったが、閃は根気よく聞いて顔をしかめながらも納得してくれた。
「……つまり、学校帰りに突然さらわれて、相手の素性もここがどこかもわからないんだな?」
「うん、そーなんだー。ホントに、突然誘拐されても困っちゃうよね? こっちにも都合があるのにさー」
は、と小さくため息をつく閃に、今度はこちらから話しかける。
「それで、閃くんはなんでこんなところにいるの? あ、もしかして、正義のヒーローとして、悪人を倒しに来たの?」
「まぁ、そうなんだけど……煌、どう思う? 一番手っ取り早いのはお前がこの子を送ってくれれば……な、放っておけるわけないだろ! う、そりゃそうなんだけどさ……でもだからって。! そんなの俺絶対嫌だからな!」
「えーと、閃くーん?」
突然小声でぼそぼそとなにやら独り言を言い始めた閃の目の前で手を振ると、閃ははっとしたようにこちらを向き、きゅっと唇を噛んで説明を始めた。
「園亞。俺たちはこのビルを持ってる奴ら――白蛇≠フ構成員の一人を捕まえに来たんだ。連続殺人を犯したとして賞金がかかってるそいつを俺たちはずっと追ってたんだけど、ここにいるって情報が手に入ったから」
「そうなんだー。すごいね!」
「いや別にすごくはないけど……ともかく俺たちはそいつをなんとしても捕まえなきゃならない。だから園亞を守るためにずっとここにいるわけにはいかない」
「うん! わかってるよー」
「……そうか? じゃあ、悪いんだけど」
「一緒に悪い奴を捕まえにいくんだよね!」
「は」
ぽかんと口を開ける閃に、園亞はびしぃ! と親指を立てた。
「大丈夫、ちゃんと覚悟完了してるから! 私運動神経には自信あるから、絶対手伝えることあると思うもん!」
「ん……んなわけないだろぉぉ!」
「わ」
大声で叫ばれて園亞は耳を押さえた。その動作で我に返ったのか閃ははっと口を押さえ、園亞の耳に口を寄せて声を震わせつつ怒鳴るように囁いた。
「とりあえず安全な場所まで連れていくから、そこからは自力でなんとかしてくれないかって言いたかったんだ!」
「えー。そんなー、せっかくもう手伝うしかない状況かと思ったのにー」
「そういう問題じゃ……! ああもう、そんなこと言ってる場合じゃない。ちょっと下がってろ!」
「わ」
閃は背中に背負っていた刀袋の紐を素早く解き、柄に手をかけすらりと抜いた。閃が刀を抜くのを見るのは初めてだ。
刀身が光を反射してぬらりと光る。業物だ、というのはこれまでにもいくつか値打ちのある日本刀を見てきた園亞にはなんとなくわかったが、今まで見たことのある刀とはなにかが違う。なんというか、よく手入れはされているが使い込んであるというか。いろんなものを斬ってきた刀なんだ、とぼんやりと思った。
「ふっ!」
閃は素早くドアに向けてその刀を振るう。きしゃん、とガラスをひっかくような音がして、扉は蝶番を壊されて倒れた。
「わー……」
「こっちだ、早く!」
閃は刀をすいと鞘に収め、ぐいっと園亞の手を引いて走り出す。園亞も足には自信がある方だったが、閃は園亞よりはるかに足が速いようで、ぐいぐい前から引っ張ってくる。力強い、たぶんマメを何度も潰しただろう固い手だった。
不思議な感じがした。自分とほとんど年の変わらないだろう男の子なのに、閃は刀を振るうのに慣れている。人を殺せる武器を使うことに習熟している。そしてそんな自分を少しも疑問に思っていない。
たぶんずっと戦ってきたんだ、と思った。危険な場所で。刀を振るって敵を倒してきたんだ。自分とさして年が違うようには見えないのに。それは本来なら悲しむべきことだったのだろうけど、園亞には不思議に、胸をざわめかせる、どきどきさせる事実だった。
閃くんって、やっぱり、カッコいい。
「!」
閃が曲がり角で唐突に足を止める。どうしたの、と口を開く前に口に指を当てられた。静かにしろ、と言われているのがわかって園亞はばっと両手で口を塞ぐ。
閃がそろそろと曲がり角の向こうを窺う。園亞もそろそろと閃と並んで向こうをのぞく。てっきり見張りでもいるのかと思っていたが、そこにはいくつも扉が並ぶ通路があるだけだった。どうしてここで止まるんだろー、と思いながら閃を見上げると、閃は顔をしかめつつ数歩曲がり角から離れ、口から指を外した。もう話していいってことかな? と園亞は勇んで閃に訊ねる。
「閃くん、なんで止まるの? 急ぐんじゃないの?」
「喋る声がしたからな。曲がり角の一番最初の扉の中には見張りがいる。扉が開いてただろ、たぶん部屋の中から酒でも飲みながら通る奴を見張ってるんだろ」
「え、わ、わ、じゃあどうやって突破しよう?」
閃はふ、と息を吐き、それからきっと鋭い表情でこちらを見た。
「……園亞、運動神経には自信があるって言ったよな?」
「え? うん」
「じゃああの道を全力疾走してくれ。俺が後ろを走る。向こうには階段があるみたいだから、そこまで。……最初の扉を抜けてしまえば人はいないし、できるだけ庇うけど、完全に守れるかどうかはわからない。情けなくて悪いけど、でも」
「うん、わかった!」
にっこり笑顔でうなずく園亞に、閃はなぜか目を見開いた。
「え」
「あそこを走ればいいんだね! よーし頑張るぞー。閃くん、見ててね!」
「いや見ててねっていうか俺も一緒に走るんだけど」
「いきますっ」
小声で宣言すると、園亞はすっと息を吸い込み、曲がり角から先へ飛び出した。全力で前へ前へと疾走する。
我ながら生涯ベストテンに入れてもいいほどの高速疾走だった。どこかで誰かが叫ぶような声がしたのが聞こえた気もしたが、それもひどく遠い。足をそれこそ目にも止まらないほど(と園亞には思えるくらい)の速さで交互に動かし、前へ前へと。
五m。十m。二十m。五秒も経たないうちに向こうの階段までたどり着く――
と思った瞬間に、園亞は足が滑ってずってんどうと倒れた。
「いたっ!」
「そ!」
「あっちだ!」
「ぶっ殺せ!」
パァン、と大きく響く妙に乾いた音。「っ!」と園亞を助け起こしてくれた閃が一瞬呻き声を上げた。
まだ状況がよくつかめなくてぼうっとしている園亞を、閃は後ろからぐいぐい押して階段まで連れてきた。そこから前に出よう、とした瞬間閃の顔が固まる。
階段の下から何人も人がやってきていた。黒覆面に黒スーツの怪しい人々。全員銃を構え、こちらに向けている。
「くそ!」
閃は舌打ちすると階段を上へと走り出した。園亞の手を引っ張って灰色の階段を駆ける。と、階段の下からぴょーん、と一人の男が跳び上がって園亞たちの前へ立ち塞がった。助走もなしに五m近い跳躍。驚く園亞にかまいもせず、男は目をぐりぐりと動かしながら舌をれろぉんと顎下まで伸ばす。
「逃がさねぇよぉ、くけけ――」
「邪魔だ!」
ざしゅっ。閃が烈光の速度で刀を抜き、そのままの動きで男の目に刀を突き刺した。「ぐぎゃあ!」と喚く男を階下へと蹴り落とし、閃は園亞を引っ張って階上へと走る。
呆然としながらも園亞は走っていたが、階段を上りきって屋上に上がり、ばん! と扉を閉めてからようやく我に返った。
「せ、閃くん! 刀が、目、ぴょーんて、あれ死んじゃったの!?」
「……悪いけど、ちょっと黙っててくれ」
む、と顔をしかめたが、閃がぎりっと奥歯を噛み締めながらシャツを脱いだのを見て、園亞はきゃっ、と顔を赤くして目を手で隠し、それから閃の脇腹からだらだらと血が流れているのを見て顔面蒼白になった。
「閃くん、血! 血が出てる! だらだらって、嘘、なんでこんなに出るの!? ……い、痛くない?」
おろおろと訊ねると、呼吸を少し荒くしながらジーンズの内側から包帯等を出していた閃は、なぜか少し笑った。
「大したことはない。弾は抜けてる。一応血止めしとけば死にはしないだろ」
「死にはしないって、そんな、だって、そんな……」
半ば呆然として閃が応急処置をするのを見ていて、ようやく気付いた。あの乾いた音は、もしかして銃声? 閃が傷ついたのは、さっき通路で転んだ自分を庇ってくれたからではないか?
「せ……閃くん、ごめん!」
勢いよく頭を下げて、一気に言う。
「私、運動神経いいとか偉そうなこと言っといて、いや運動神経にわりと自信があるのは嘘じゃないんだけど、私言うの忘れてたけど実はすごくドジで、普通に歩いてるだけでもよく転ぶの。ものもよく落とすし割るし壊すし、ってそんなことどうでもいいよね、ごめん、私が言わなかったせいで、ほんとにごめん!」
「……まぁ、今度からは気をつけてくれればいいよ。たぶん今度はないだろうけど」
「今度はないって……駄目だよ、閃くん、諦めちゃ! そりゃ今はすごいピンチだと思うけど、諦めたらそこで試合終了だって安西先生も言ってるじゃない!」
閃はちょっと目を見張るように真剣な顔で閃を見つめる園亞を見て、それからぷっと吹き出した。
「せ、閃くん?」
「そういう意味じゃないって。なんだよ安西先生って?」
「えと、古いバスケ漫画の先生なの……じゃあどういう意味?」
「もう二度と会うことはないだろうけど、って意味だよ」
「う……」
そりゃ私迷惑かけてばっかりだけど、と泣きそうになる園亞に、閃は慌てたようにわたわたと首を振る。
「いや、そういう意味じゃなくて! 迷惑かけられたとかからじゃなくて、単純にここから脱出できたら連絡の取りようがないだろ? お互い連絡先知らないんだから」
「……私のこと、怒ってたからじゃ、ないの?」
閃は小さく苦笑した。
「別に怒ってない。さっきも言っただろ。今度から気をつけてくれればいいよ」
「…………」
園亞はぺたん、と屋上の冷たいコンクリートの上に座った。空はとうに陽が暮れて、月が太陽の代わりに世界を照らしている。
黙々と応急処置を続ける閃に、園亞は思わずぽろりと言ってしまっていた。
「なんで、閃くんは、そんなにすごいの?」
「え?」
目をぱちくりさせる閃に、叫ぶように言う。
「だって! まだ私と変わらないぐらいの年なのに賞金稼ぎしてるってだけでもすごいのに、どんな時もすぐどうすればいいか思いつくし、刀使うのにもすごく慣れてるしさ。私のせいで銃で撃たれたのに平気な顔して、私のこと気遣ってくれるし。なんでそんなに、優しいの?」
「俺は別に、すごいってほどのことやってないだろ」
「すごいよ! ……そりゃ、人の目に刀突き刺したのは怖かったけど、それだけ覚悟ができてるっていうのはすごいって、思うし」
「…………」
「閃くん……なんで、そんなに、頑張ってるの?」
閃は少しの間黙って応急処置を続けた。園亞も黙って返事を待つ。
包帯を切ってテープで止め、くるくると包帯を巻き直してから、ふいにぼそりと告げる。
「妖怪の話、覚えてるか?」
「え? あ、う、うん」
普段園亞はかなり忘れっぽい方ではあるのだが、あの話はなぜか頭に残っていた。
「俺は物心ついた時から、いやそれこそ生まれた時から悪い妖怪たちに狙われてきた」
「なにを?」
「命を。俺の体を骨まで食い尽くしてやろうってな」
園亞は思わず目を見開いた。
「な、なんで?」
「俺が百夜妖玉≠セから」
「え……ひゃ? え?」
閃はわずかに苦笑する。
「ひゃくやようぎょく=B百の夜に住まうすべての妖しが玉のように求める存在。そうだな……西遊記の三蔵法師ってあるだろ?」
「あ、うんうん、食べると寿命が延びるっていろんな妖怪に付け狙われてた」
「俺もそれなんだ。俺を食うと妖怪は強い力を手に入れる。妖怪には寿命がないけど、おっそろしく強い体を手に入れられる。のみならず俺の肉は妖怪にとっては天上の美味、血は至上の美酒にも勝る味わいを持つってんで人間の命に価値を認めてない妖怪は当然のように俺を食おうとしてきた」
園亞は目を見張った。そんな。それじゃ閃は、よくわからないが、ものすごく大変なことにならないか?
「そんな……だ、大丈夫だったの?」
「まぁ……煌のおかげでな」
煌って誰だっけ、と思ってから数秒後閃と一緒にいた超美形の男の人だと思い出した。確か自分のことを妖怪だと言っていたあの人。
「煌のおかげで俺は十歳の年までまるで傷つかずに幸せに暮らしてこれた。自分が百夜妖玉だってことは知ってたけど、普通に生きていけると思ってたんだ」
「い……生きていけないの?」
閃はなぜか、ちょっと困ったように笑った。
「普通には、な。……俺が十歳になってしばらくして、家が焼けた」
「え! な、なんで?」
「悪い妖怪が俺たちを動揺させて、呼び寄せるためにやったんだ。俺と煌は友達とキャンプに行ってたから」
「…………」
園亞は息を呑みながら話を聞いた。これはたぶん、閃にとってとても重要な話だという気がする。
「大慌てで帰ってきて、父さんと母さんが悪い妖怪にさらわれたことを知った。必死に探して、悪い妖怪のアジトを見つけた。煌の力でそいつらのほとんどはあっさりやっつけられたけど、最後の一体が父さんと母さんを人質に取った。こいつらを殺されたくなければ百夜妖玉をよこせ、ってわけだ」
「そ、それで?」
閃はあくまで淡々と、静かに話を続ける。
「俺を引き止めて煌が炎を放った。自分の力なら一瞬で倒せると思ったんだ。それは正解で、父さんと母さんを人質に取った妖怪は一撃で倒された」
「よ、よかった……」
「だけど、父さんと母さんは戻ってこなかった」
「え」
「もう殺されてたんだ。人質に取った時に。反抗されると面倒だと思ったんだろう、って煌は言ってた。殺されたんだ。俺のせいで」
園亞は愕然としつつも、ぶんぶんと全力で首を振った。
「閃くんのせいじゃないよ!」
「俺のせいだよ。俺がいなければあの人たちは殺されることなんてなかったんだから」
「だけど、そんな。だけど」
必死に言葉を探す、だけど見つからない。だってなんて言えばいいだろう。わずか十歳で両親を失った人間に。自分が理由で両親をさらわれ殺されてしまった人間に。自分のせいだと自らを責めることで、彼は立ち上がる気力を奮い立たせてきたのかもしれないのに?
閃は静かに続ける。
「その時俺は、自分は普通に生きていちゃいけない人間なんだってことを知った。普通に暮らしていたら絶対に家族、友人、それどころかさっき知り合った人まで巻き込んでしまうかもしれない人間なんだって」
「……そんな」
「だから、決めた。普通に生きるのをやめようって。全力で立ち向かおうって。悪い妖怪を倒して少しでも多くの人の命を救う、そういう人間に、正義のヒーローになろうって決めた。だから敵と戦うのも、傷つくのも、人を助けるのも、俺には当たり前のことなんだ」
「…………」
「こういうことをしてれば多分早死にするだろうし、俺がどれだけ力を振り絞ったって焼け石に水をぶっかける程度がせいぜいってこともわかってる。でも、俺はそう生きる。俺のために命を失ったあの人たちに恥じるような生き方したくないから、俺の命はそう使うって、十歳の時に決めたんだ」
「……閃くん」
包帯をポケットにしまい、シャツを着る閃を園亞はじっと見つめる。頭の後ろが、心臓の下が焦げているような気分だった。たぶん自分はこの人になにも言ってあげられない。自分のようなぬるい生き方をしてきた自分がなにを言っても、きっと彼には届かない。
だけどお腹の底がたまらなく熱かった。彼に、他人に自分の力のすべてをかけてなにかしてあげたいと生まれて初めて心の底から思った。彼を少しでも癒してあげたい、彼の力になりたいと魂かけて願った。
だから、ぶわ、と体の底から噴き上がる熱が促すままに、園亞はすっと閃の腹に触れた。
「? その……」
怪訝そうに言ってから目を見開く。ばっとシャツをまくり上げ、包帯をずらして傷のあった場所をのぞきこんだ。
「な、治ってる!? なんで!?」
「えっと、それは」
「!」
園亞が言葉を続ける前に閃は飛び起きて刀を扉とは反対方向に構えた。え、なんでそっちに、と思う間もなくそちらから屋上に人影が浮かび上がってくる。
園亞は全身を確認して目をぱちぱちさせた。大きな袋を背負ったおじいさんに見えたからだ。なんでおじいさんが空を飛んでいるんだろう? と首を傾げたが、閃は一気に顔を鋭く引き締め走り出す。
が、その途中でぱたんと倒れた。
「せっ、閃くんっ!?」
園亞は慌てて駆け寄る。口の前に手をやると、呼吸は確かだ。というか、これはもしかして、寝てる?
ばんっと扉が開いてどやどやと黒覆面黒スーツの男たちがやってくる。顔はわからなかったがなんとなくにやにやしているような雰囲気が感じられた。
「おお〜、寝てやがる寝てやがる」
「やっぱりザントの眠りの妖術は効くな」
「このクソガキィ……よくも俺の目を。楽には殺さねぇぜぇ……腕一本一本ちぎり取って食ってやる。ひゃひゃひゃ」
「独り占めはさせねぇぞ。せっかく百夜妖玉がこっちの手の中に飛び込んでくれたんだ、たっぷり堪能させてもらおうぜぇ」
こちらに近寄ってくる。どうしようどうしよう、と周囲を見回したが逃げ道はない。誰か助けてはくれないか、誰か誰か――
(おい小娘!)
そう必死に考えていたから、そう心に話しかけられてきた時はすぐに反応した。
「誰っ?」
(んなこたどーでもいい。助かりたきゃ閃のズボンとパンツをずり下ろせ!)
「え?」
その突拍子もない言葉に、園亞は目をぱちぱちさせた。
「なんで?」
(説明してる暇はない。急げ! それさえやりゃ俺が全部終わらせてやる!)
「…………」
なんだか相手も状況も言葉の真偽もよくわからなかったが、確かにもう男たちは目の前まで迫っている、時間はない。閃と自分を助けてくれるというのなら、幻聴かもしれなくてもやってみるしかない。
園亞はぐいっと閃のズボンに手をかけ、てからちょっと恥ずかしくなって閃をうつぶせにしつつずりずりと膝のあたりまでズボンをパンツごとずり下ろした。男の子のズボンを下ろすなんて当然初めての経験ですごく照れくさい。
「? なにやってんだ?」
「へっ、ぶち込んでほしけりゃ俺たちが代わりに」
男たちの言葉はそこまでで切れた。ぎゅるおぉんっ、と音を立てて(もしかしたら錯覚かもしれない)閃のお尻からなにか大きなものが出てきたのだ。
それは炎でできた巨人。三mを軽く越す大きさの、ぞっとするほどきれいな紅い炎で創られた人。
それは絶句する男たちを見てにぃ、と笑い、告げた。
「全員殺す」
ごうっ!
炎が舞い、踊る。苛烈などという言葉が生易しく思えるほどの熱がこちらにも伝わってくる炎が宙を駆け、その場にいた男たちを(飛んでいたおじいさんも含め)すべて消滅させていた。
「あの……」
「おらおらおら、逃がさねぇぞっ!」
園亞の言葉などまるで聞こえていない様子で叫び、走り出す炎の巨人。左腕には抜かりなく閃を抱えている。どうしよう、と園亞はしばし考えたが、周囲に炎がまだわだかまっているところから、火事になるかも、と思って閃と巨人を追い走り出した。
なんでこういうことになってるんだろう、と閃はぐるぐるする頭を押さえながら考えた。
気がついたら、目の前のビルが燃えていて。煌が人間の姿になってにやにや笑いながらそれを見ていて。園亞も隣にいて。
慌てて必死に怒鳴って喚いて懇願して(食事の三十分延長を承知させられた)炎を消させ、煌のしたことだからもうここには白蛇の構成員は残っていないと思うけど園亞を家の人に送り届けるべく連絡、しようと思ったところに黒服の男たちが現れて「園亞お嬢さまご無事ですか!」とか言ってきて、園亞が「この人たちが助けてくれたの」と言ったので「旦那さまにぜひともお会いくださいませ」とでかい車で園亞の家まで連れてこられて。
恰幅のいい父親といかにも上品なご婦人という感じの母親ににこにこと礼を言われ「ぜひとも食事を一緒に!」と懇願されて一緒に飯を食っている。
早く管理局へ報告に行きたいんだけどなぁ、と思いつつもこうまで懇願されると断りきれないお人よしの閃は若鶏のコンフィだかなんだかといった料理をもぐもぐと食べた。味はおいしいと思うのだが、腰が落ち着かなくてせっかくの料理もまともに味わえない。
今閃は普段三人なのによくこんな広い場所で落ち着いて飯が食えるなぁ、と思うほど広い食堂の端っこ、上座に腰掛けた父親の隣に煌と並んで座らされている。自分の向かいは園亞だ。以前来た時も思ったが、この家は本気で洒落にならないくらい広い。東京にこんな邸宅ってあっていいのかと思うほどだ。個人の屋敷で曲がり角を曲がった時えんえんと続く塀の端っこが見えないってどうかしてると思う。
当然出てくる料理も贅を尽くしたんだろうなぁと思えるもので(贅沢な食事というものに縁がない閃にはよくわからなかったが)、あとで代金請求されないよな、などと小市民の閃はついつい思ってしまうのだが、煌は平気な顔で高そうなワインをかぱかぱ飲んでいる。
「ふん。なるほど、悪くないな」
「気に入られましたか? 1998年物ロマネ・コンティです。最近はロマネ・コンティも味が落ちてきましたが、これならば少しは味わうに足りるでしょう?」
ロマネ・コンティって確かものすごく高いワインじゃなかっただろうか。閃はおそるおそる訊ねる。
「……ちなみにいくらぐらいするものなんですか」
孝治と自己紹介した父親は鷹揚に笑った。
「なに、三百万はせんよ。せいぜいが二百万と少しというところだろうな」
「にひゃっ……!」
絶句する閃の横で、煌は平然とした顔でワインを味わいつつ鼻を鳴らした。
「供されるものに値段を聞いてどうする、無粋な奴だな。第一しょせん酒は酒、飯は飯なんだ。美味く飲み食いすればそれでいいだろーが」
「至言ですわね」
玲子と自己紹介した母親と父親が揃って笑う。園亞もにこにこと笑顔で食事をしていたが、この父親と母親の間からよくこんな(ちょっとドジでだいぶ天然ではあるが)普通の子が生まれてきたなぁと頭をくらくらさせながら庶民の閃は内心感心した。
「ところで、閃さんはどちらの学校に通っていらっしゃるの?」
笑顔で訪ねてくる玲子に少し言葉に詰まる。十五と年齢を告げてしまっているのだから当然といえば当然だが、この手の普通の話題は普通に生きていない閃の苦手とするところだった。
だが隠すことでもない。閃はぶっきらぼうに言った。
「学校には、行ってません」
「あら、そうなの?」
「はい」
「しかし……君はまだ十五歳だろう? まだ中学生なんじゃないのかな?」
「学校に通っていれば今中三です。でも、俺は十歳の時に両親を亡くしてるので」
園亞があ、と目を見開いてわたわたとし、気遣わしげな視線を送ってきた。あんな話しちゃったからな、と内心苦笑しながら気にしなくていいと首を振る。
「ふむ……それからずっと自活しているのかな?」
「はい」
「なるほど……よし!」
孝治はぽんと手を打って、とんでもないことを言い出した。
「閃くん。うちに住んでうちの学校に通わないかね?」
「……は?」
「うちの学校?」
「ああ、うちは学校経営もしているのですよ。四物学園というのですが、自由で自主的な風通しのよい学校を目指し……」
閃は思わず立ち上がって怒鳴る。
「冗談じゃない!」
『…………』
周囲から視線を浴び、閃ははっとした。昂ぶる感情を抑え、必死に声の調子を落として説明する。
「……俺をひとつ家の下に住まわせるなんて自殺行為です。俺には世界中に敵がいる。俺と関わったことを知られればそいつらによってたかって利用されるでしょう。人質にされたあげく殺されたくないのなら、俺のことなんて忘れて関わりなく生きていかなきゃ駄目だ」
「ふむ」
孝治はわずかに眼を上に向け考える素振りをみせた。それからにっこりと微笑む。
「閃くん。敵というのは具体的に、どのくらいの数なのかな?」
「え……」
言われて慌てて考える。妖怪の総数は世界中の人口のざっと一万分の一。その半数が悪の妖怪だとして。
「だいたい、三十万ぐらいだと思いますけど」
「ふむ。ならばうちの延べ社員の方が多いな」
「えぇ?」
どれだけ大きな会社運営してるんだ。
「だ、だけど相手は社会的にも能力的にもとんでもない力を持つ奴がごろごろしてるし」
「その社会的な力というのは、具体的にどれくらいかね?」
「……ちゃんと考えてみたことはないけど、総合すると国家レベルぐらいには」
「うちは一国くらいと張り合える影響力はあるよ」
「う」
だからどれだけ大きな会社運営してるんだと。
「け、けど! そいつらは一人で一個小隊を壊滅できるような奴らがごろごろ」
「ふむ」
少し考えるような顔をしてから、孝治は閃に顔を向けた。
「閃くん。君はそういう奴らに狙われてどうやって生き延びてきたのかね?」
「え……」
閃はちょっと不意を衝かれて黙ったが、ある程度なら喋っても大丈夫だよな? と正直に答えた。
「煌がいてくれるから。煌はそういう奴らの誰よりも強いから」
「なるほど」
わずかに笑んで、孝治は告げた。
「閃くん、正直に言おう。私は、君と煌さんに園亞の護衛をしてもらいたいと思っているのだよ」
「え……護衛?」
「うむ。園亞をさらった奴らについて知っているかね?」
「……白森貿易会社。その実国を股にかける犯罪組織白蛇=v
そしてその構成員の何割かは妖怪だ。ザ・ビースト≠フ下部組織とも言われている、悪の組織のひとつ。
「園亞はね。そいつらに目をつけられているのだよ」
「え……えぇ!?」
「うちの令嬢をさらって身代金をせしめるつもりなのかなんなのか。中学に入ってから何度もこういうことが起こっている。むろん護衛はつけているが、園亞は護衛を撒くのが得意でね。気が向くと護衛を撒いて遊びに行ってしまう」
「べ、別に今日は遊びに行ったわけじゃないよ?」
園亞の発言はさらりと無視された。
「なので、年の近い君に学内でも園亞の護衛をしてもらえると非常に助かるのだが。園亞も君を気に入っているようだし。君と煌さんは常に共に行動しているそうだから、園亞を白蛇≠ゥら守ることはたやすいと思う」
「それは……確かに」
「できるだけの礼はする。園亞を救ってはくれないか?」
深々と頭を下げられ、閃は困惑した。どうしよう、どう答えればいい? そんな話を聞かされれば園亞を放っておくのも嫌だし、だけどこの人たちを自分の運命に巻き込むのは絶対に嫌だ。
煌を見ると、こちらを見ながら軽く肩をすくめて見せる。こちらの判断に任せるということか。どうしよう、どうすればいいんだろう。全員が閃を見つめている。
と、にゃあん、と小さな声がした。
「あ、ツリン!」
園亞が椅子を引くと、ひょいと床から猫が園亞の膝に飛び乗った。銀色の毛並みの、とても美しい猫だ。
「ツリンっつーのか、その猫?」
「うん。一年ぐらい前に拾ったの。きれいな子でしょ?」
「まぁな……」
「これ、園亞。今は食事中ですよ?」
「う、はぁい……」
「………。閃、いいんじゃねぇか、この話。受けても」
「えぇ!?」
「おお、それはありがたい!」
「閃くん、本当!?」
「だ、だって煌!」
「ちょっとぐらい腰落ち着ける場所があっても別に困んねぇだろ。たまには学生やるのも面白ぇんじゃねーか」
「そ、そういう問題じゃ」
「たぶん、大丈夫だ」
「え」
閃は目を見張った。煌はめったにこういう不確定な物言いをしない。それは自分の力を信じ、自分にできることできないことを知り、自分にできないことは確約しないからなのだが。
なのに、なぜ?
疑問の視線で見つめると、煌は笑顔で閃の頭をくしゃくしゃにした。
「わっ」
「まー心配すんな。そー悪いことにゃならねぇよ」
「なんだよ、それ……」
納得できないままに席に座ると、向かいからにっこにこと強烈な喜びの笑顔が向けられる。園亞が嬉しくて嬉しくてたまらないというような顔でこちらを見ているのだ。
内心はぁ、とため息をつきながら仏頂面で食事を再開する。確かにこの子は放っておけないと思うし、なんでかすごく懐かれているのを無碍にできないと感じるのも確かだけれども。
本当に、大丈夫なんだろうか。閃は頭を抱えたくなりながらくよくよと考えた。
閃はその思考に夢中で、気付かなかった。ツリン、と呼ばれた猫が煌と目を見合わせ、笑ったようにわずかに顔を歪めたのも、煌がそれに答えるように小さく唇を吊り上げたのも。
ついでにいえば意識を失う前園亞が自分の腹に触れただけで傷を癒したことも、すっかり忘れていたのだった。