閃は鏡の中の自分を見つめてはー、とため息をついた。制服なんて、まさか着る時が来るとは思わなかった。
「学ランか。珍しいな今時。というか絶滅危惧種じゃないか? ま、お前にゃブレザーは似合わんが」
背中からひょいと胸元を覗き込んで言ってきた煌を、閃はじろりと睨みつけた。
「大きなお世話だ。そもそもこんなものを着る羽目になったのもお前の」
「ん〜? 最後にあのオヤジにハイっつったのは閃くんじゃなかったかな?」
「っ」
顔を赤くする閃に、煌はくくっとそのおっそろしくきれいな顔を笑みの形に歪めた。腹の立つことにこいつの顔は世界で一番といっても遜色のないほど綺麗だから、そういう顔をされるといくら顔を見慣れている閃とはいえ言葉に詰まる。
「ま、いいんじゃないか。似合ってるぜ」
「っっ」
しれっとした顔をしてこんな台詞を吐きながらぽんぽんと頭を叩くのだからさらに腹が立つ。
「閃くーん! そろそろ学校行くよー!」
どんどん、と与えられた部屋の(園亞の隣の護衛用の部屋をもらった。園亞と閃の部屋がある建物は建て増しした離れにあるから洋間で、部屋部屋にはどっしりとした木製の扉がついているのだ)扉が叩かれ園亞の声が響く。はぁ、と小さく息をついてから扉に近づきかけ、はっとして煌の方に向き直る。
「煌。入れ」
「はぁ? なんで」
「わかってるくせに聞くなよ! これから俺は学校に行くんだぞ、お前を堂々と連れ歩くわけにはいかないだろ!」
「どーせいつかはバレんだからはなっからバラした方がいいんじゃねーのー?」
「煌!」
きっと自分よりはるかに高い場所にある頭を睨むと、煌は肩をすくめた。
「へいへい。じゃ、尻出しな」
「……っ……」
閃は唇を噛んだ。いつものこととはいえ、煌の出し入れはどうしたって屈辱的だ。なんというか、ひどくみっともないことをしている気がして恥ずかしい。閃が煌を呼び出すのをぎりぎりまで控えるのには、そういう理由もある(他人の前でそんな恥ずかしいこと! という気持ちがある)。
「んー? どーした、閃ちゃん? 尻出してくんねーと俺お前の中に入れねーんだけど?」
「わかってるよっ」
だがむろん、恥ずかしいからってやらないわけにはいかない。にやにやとこっちを見ている煌を睨みながら、ズボンのホックを外して下ろし(出し入れに不便なのでベルトはつけていない)、パンツをずらしてあざを出した。このパンツをもうちょっとずれたら見える、というところまで下ろさないとならない場所にあるあざが、煌の住処、というかよりどころ≠ネのだ。
「んじゃ、入るぞ」
「っ………!」
言うや朱金の炎と化して、ぎゅるるるっ! とあざの中に入ってくる煌に、閃はぞくぞくっと震えた。煌が入ってくる時は、少し息詰まるような苦しいような、体が熱いもので満たされていくような感覚を得る。
だがそれも一秒未満程度のこと。煌を体の中に収めた閃は、ふぅ、と息をついてパンツとズボンを上げた。
「閃くーん! 遅刻しちゃうよー!」
「今行く!」
慌てて叫んで、閃はベルトを締め扉へと向かった。
園亞は毎朝毎夕車で送り迎えをされているらしい。練馬区にある四物家(と普通の家のように言うのがためらわれるほどの大きな家)から杉並区にある四物学園まではそれなりの距離があり(電車に乗れば三十分もかからないだろう、というか自転車でもそのくらいなんじゃ、と閃は思うのだが)、安全のためもありそういうことになっているのだそうだ。
ちなみに車はセンチュリー。中学生の送り迎えにそれはありえないだろう、と思いつつも閃は護衛のセオリー通り園亞が乗るまで周囲を警戒してから後部座席に乗った。当然園亞の右隣だ。
「閃くん、学校は久しぶりなんだよね。編入試験に合格できたんだから勉強は大丈夫だと思うけど、なにか困ったことがあったらいつでも言ってね!」
「……ああ」
周囲を警戒しつつぶっきらぼうに答える。答えてからあんまり愛想がなさすぎたかな、とちらりと思ったが、園亞は少しもめげずに(というか気付いているかも怪しい)にこにこと言葉を続ける。
「あのね、私バスケ部なの! 今年は絶対レギュラー取ろうって決めてるんだ!」
「……そうか」
「うん、それでね、今日練習日、っていうか土日と週一でミーティングある日以外は毎日練習日なんだけど、夕方六時まで練習するんだよ。あ! も、もしかして閃くんもその時間まで付き合わせちゃうのかな……? せ、閃くんやっぱり、早く帰りたい……?」
おずおず、と大書してあるような表情でこちらを見つめる園亞に、閃は苦笑して首を振った。
「いや。稽古はどこででもできるし。いくらでも付き合うよ」
「そっか、よかった! ありがとうっ!」
にこにこっ、と形容するのがふさわしい笑顔になる園亞に、閃は苦笑を深くする。なんていうか、本当に無邪気な子だ。これまで接してきた中でも、園亞が無邪気で、天然で、空気が読めなくて、でも優しくていい子だ、というのはわかった。
四物家はやたらめったら広いだけあり住み込みの家政婦やら家令やら(今時普通ありえないだろうと思うのだが)がいるのだが、その人々にも(全員に面通しをしておいてもらったのだが)園亞は愛されているようで、煌に涙ながらに「お嬢様を頼みます!」と懇願している光景を何度も見た(閃は当然のように相手にされなかったのがちょっと悔しかったが、力の桁が違うのは閃自身が一番よくわかっている)。
早く、出て行かなくちゃな。
心の中で再度考えて、ぎゅっと刀の柄を握り締める。当然学校にも刀は持っていく。これがなければ護衛どころか盾にもなれない。園亞の父に頼んでおいたから、学校にも許可はもらえているはずだ。
自分はここにいてはいけない。こんな子を死なせてはいけない。自分のせいで誰かが死ぬなんて経験、二度としたくなんてないんだ。
「閃くん、どうしたの? なんだか悲しそうな顔してる」
「っ、別にっ! なんでもないっ!」
現実に戻り、慌てて首を振る閃に園亞は首を傾げた。
「そう……? あ、そうだ、聞いてみたかったんだけど」
「……なに?」
「あのね、閃くんって、どうして日本刀で戦うの? 今まで見たSPの人ってみんな銃で戦ってたから、現代の人はみんな銃で戦うんだろうなーって思ってたんだけど」
「え……いや、そうだな」
閃は少し考え込んだ(園亞SPが戦ってるところ見たことがあるのか、とわずかに驚きを感じつつ)。閃にとっては自明のことなのだが、改めて説明するにはきちんと言語化する必要がある。
「……まずさ、俺が相手をする敵との戦いってのは、現代で普通に考えられてる敵より近距離戦になることが多いんだ。近距離戦に特化した奴とか、けっこう多いし。もちろん遠距離戦に特化した奴もいるんだけど。だから近距離戦闘の能力は必須なんだよ。攻撃を受け流す方法がないとどうしようもない。これが、まずひとつ」
妖怪という言葉を極力使わないようにしているのは一応の用心だ。
「ふんふん」
「で、現代の普通の人間が銃を使うのは、遠距離から攻撃できるっていうのと、扱いやすいのと、単純に攻撃力が強いからだろ。確かに普通の人間が扱える武器で殴りかかるよりは、M60でも銃使った方が効率がいいからな。だけどさ、俺の場合……相手の防御力がまず普通じゃない。たとえ至近距離で全弾撃ち込んだってほとんどの相手は死なない、というか所持許可がもらえる拳銃とかじゃほとんど傷をつけることすらできない。対戦車用ライフルとかが必要になるんだ。そんなのさすがに持ち歩けないだろ。だったらいっそ刀で弱点狙う技を磨いた方が、経済的にもいいかなって。銃弾高いし」
「なるほどー」
「最後に……これが一番大きいんだけど。十歳の時に俺がまともに使える武器が、刀だけだったんだ」
「え! 十歳でもう武器使えたの!」
「いや、まぁ武器っていうかさ。本身は何度か持たせてもらったことがあっただけだったけど。家が、古流剣術の道場だったから。物心つく前から剣の扱いは叩き込まれてたんだ。だから、単純にその修行をしてきて……性にも合ってたからな」
それが本音だと思う。閃にとって剣はもはや自分の一部ともいえるものだったし、これ以外のものを使って戦うところは想像しただけでも違和感が消えない。自分の命を任せられる技ではない、と思うのだ。
「なるほどー……すごいねー、そんなちっちゃな頃から修行してきたんだー」
「いや……まぁ」
「うん、すごいよ閃くん! 閃くんが強いのは、やっぱりそういう風にずっと訓練してきたからなんだね! 偉いなー」
「……別に、偉くなんてないだろ」
「偉いよー。あ!」
「……なに?」
「ご、ごめん……辛いこと、思い出させちゃった?」
「は?」
泣きそうな顔で見つめられ、閃はきょとんとしたが、すぐに両親のことか、と気付いた。何度も夢に見て、吐くほど苦しみ、煌にそのたび救われて、今はもうほとんど自分の一部として見つめられるようにはなっていたが、それでもやはりそう思い出したいことでもない。気を遣ってくれてるのはわかるけど、そういう風に言われるとよけい思い出しちゃうんだけどな、と内心苦笑しつつ首を振る。
「いや。別に気にしなくていい」
「そっか、よかった!」
とたん嬉しそうな笑顔になる園亞。この子は本当に相手の言葉を疑うということをしない。いいところと言えなくもないけど度が過ぎると社会生活大変だよな、本当にいい子なんだけど、と苦笑して、自分のことに思い当たりちょっと落ち込んだ。
果たして、自分は、もうだいぶ前に縁を切った普通の子供らしい社会生活≠ニいうものを、支障なくこなすことができるのだろうか。
学校に着き、先に車から降りて、周囲を警戒しつつ園亞を降ろし。運転手さんに礼を言ってから、下駄箱まで歩いていく段階で、閃は正直ため息をつきたくなっていた。
四物学園は渡された資料で見た通り設備の整ったきれいな学校ではあったが、それは問題ではない。まだ八時ぐらいだったが、それでも周囲にはちらほらと生徒たちの姿が見える。ごく普通の、戦うことなど考えたこともないだろう子供たちの群れ。
不似合いだ、と思うのだ。園亞と同様。自分はこれまでも、これからもずっと普通でない戦いばかりの人生を送るだろう。そんな人間がこんなところにいていいのだろうか、と思ってしまう。
それに、自分と少しでも係わり合いになれば、自分に対する人質として使われる可能性がある。やはり一刻も早くここから去らなければならない。園亞の父孝治に説得されてしまった以上仕事はきちんとしなければならない、とは思うが。それに園亞が白蛇≠ノ狙われているというのならそれを放ってはおきたくない。とりあえず白蛇をなんとかしなくては、と思い、現在は管理局に願い出て情報を集めてもらっている段階なので、しばらくはこのまま園亞の護衛をしなくてはならないのだが。
それでも憂鬱になる気持ちはどうしようもない。ここに妖怪たちが襲ってきたら何人の人間を守れるだろうか、と埒もないことを考えてしまう自分を叱りつけつつ、園亞と一緒に校長室に向かった。
待ち受けていたらしい校長は(なんとなく脂ぎった人物を予想していたのだが、どちらかというと腺病質な印象を与える五十がらみの人物だった)閃の刀に目をやるなり一瞬顔を引きつらせたが、すぐに無理やり笑顔を浮かべて言った。
「理事長から、お話はうかがっています。園亞くんの護衛として派遣されたそうで」
「……はぁ」
「その、いろいろと大変ではあるでしょうが。我々は全力でサポートする所存ですので、どうぞ頑張ってください。護衛のお仕事も、学園生活も」
「……はぁ。どうも」
ははは、と乾いた笑い声を立てる校長に、たぶん園亞の親父さんに厳しく言い含められたんだろうなぁ、と閃は想像した。私立の学校で理事長がどのくらいの権力を持っているのか詳しくは知らないが、少なくともやろうと思えば首を飛ばすこともできるのだろう。
「じゃ、閃くん。教室でね!」
嬉しげな笑顔で言って園亞が校長室を出て行ったあと(当然手が回されて同じクラスに配属されている)、しばらく経ってから(その間校長はひどく居心地悪そうにしていた。たぶん間が持たなかったのだろう)扉がノックされた。校長が待ってましたといわんばかりの顔で「入りたまえ」と言うと、まだ年若い男性教師が入ってきた(そして閃の持つ刀を見て顔を引きつらせた)。
「あの……校長先生」
「遅かったじゃないかね、矢部先生。ええと、草薙くん、こちらが君の担任の矢部先生です。今後学校になにか言いたいことがあったら、彼に言ってください」
「……はぁ」
それだけで閃はああ、この人はまだ若いからという理由で厄介事を押し付けられたんだな、とわかった。理事長の娘の担任というのがそもそも厄介な立場だろうし、いかにもお人好しそうな印象の顔からも困惑げな表情からもそういう雰囲気がぷんぷんする。申し訳ない気分になって頭を下げた。
「矢部先生、草薙閃です。以後、よろしくお願いします」
「ああ、うん。よろしく……」
「極力迷惑をかけないようにするつもりですから、どうかお気遣いなく。他の生徒と同様の扱いでけっこうですから」
「え、ああ、うん」
「ただ、俺の仕事上どうしても必要なことについては、どうか口出ししないでください。あと、基本的になにか学校にしてもらいたいことがあったら直接校長先生に言うと思いますけど、状況がそれを許さない時は先生に伝えてくださるようお願いすることもあるかもしれません」
閃としては正直に、害意のないことと必要な連絡事項を伝えたつもりだったのだが、校長も矢部も揃って顔が青くなった。
それから閃は矢部に連れられて職員室に向かい、すれ違う教師生徒にいちいちぎょっとした顔をされながら学校生活の説明を受けた。始業時間は八時半、ただし八時二十五分からホームルームがある。校門を閉めるのは八時二十五分。昼休みは十二時二十分から五十分。給食はないので弁当を用意するか食堂に行くこと。授業時間は五十分が六回。基本的に校則は緩いがいじめ・暴力行為については厳しい罰則がある。と、ここまで聞いて一応訊ねた。
「その暴力行為というのは、敵対勢力についてもですか?」
「て、敵対、勢力って、なんのことかな?」
「襲ってきた敵と戦う時にも、罰があるんですか?」
「……い、いや、それは、ないんじゃないかな?」
「そうですか」
それ以外は特に口を挟まず説明を聞き終えて、最後に言った。
「先生」
「な、なんだ?」
「始業時間までまだありますよね。学校内、案内してくれますか」
「わ、わかった」
こくこくうなずいて椅子から立ち上がる矢部のあとについて歩く。学校で教われる可能性は決して低いとはいえない、有利な戦場を選べるよう巻き添えが出ないよう、学校の構造はしっかり頭に入れておかなければ。もちろん資料は得ているが、実際に見ることは重要だ。
『ずいぶん緊張してんな、閃』
少し面白がるような煌の声に、閃は心の中でぶっきらぼうに返した。
(別に。このくらいの警戒、初めて来た場所なら普通だろ)
『ふーん……警戒かぁ? どー見てもなにかされないかびくびくしてるっつーよーに見えるがね』
(っ……なんでだよっ。いくら俺が未熟だからって一般人になにかされるほど弱くないぞっ)
『うーそつけ。お前フツーの人間≠チてやつ赤ん坊みてーに思ってるだろ。泣くんじゃねーかなにか余計なことするんじゃねーかってびくびくしてるくせに守らなきゃーとか思ってやがる。まー今に始まったことじゃねーからどーこう言う気はねーけど』
(う、うるさいなっ……お前の言いたいことくらい、わかってるよっ)
『ほー?』
(わかってるよ……ちゃんと)
「……今の俺じゃ、誰一人守れない、って」
口に出して呟いていたことに気がついて、ばっと口を押さえたが幸い矢部には聞こえなかったようだった。ほ、と息をつくのに、煌がくっくと笑う。
『ドジ』
(ううう……)
『ま、それがわかってんなら俺の言うことはひとつだ。わかってるな?』
(わ、わかってるよ……)
『言ってみな?』
(……俺は、煌の、生贄兼、食料兼、相棒……だってこと、だろ)
にやり、と笑む気配が伝わってきた。
『よし。ならあとはお前の思うようにやれ』
(……うん)
いつものことながら、つきりと胸が疼く。命をあっさり預けるほどの全幅の信頼。それを自分がよこされているという事実は、泣きそうになるほどの幸福と身が震えるほどの重い責任、そしてなんと言えばいいのかわからない痛いようなむず痒いような感覚を自分に与えた。
本当ならば自分は賞金稼ぎになどなるべきじゃないのだろうし、妖怪と戦いなどするべきじゃないのだろう。自分の腕では悪い妖怪から人を守ったり妖怪を倒したりするどころか、自分の身を守ることさえ難しいとわかっている。少し強い妖怪が出てくればあっさり自分は死ぬだろう。そして。
煌も死ぬ。自分がいなければ煌も生きられないのだから。
(……煌)
『ん?』
(……ごめん。あと、ありがと)
何度言ったかわからないその言葉に、煌はいつも通りにくくっ、と笑った。
『どういたしまして――ったく、可愛い奴だな』
「ひゃんっ!」
「っ、どうかしたのか!?」
慌てたように振り向く矢部に真っ赤な顔で首を振ってから、閃は自分でも泣きそうだとわかる顔で煌に(心の中で)怒鳴った。
(バカッ! 人のいるところではやめろっていっつもいっつもいっつも言ってるだろっ!!)
『んー? まーあれだ、出物腫れ物ところ嫌わず?』
(出物でも腫れ物でもないだろぉぉ!)
煌と会話して少しリラックスできたものの、教室に近づくにつれて閃の緊張は蘇りどんどんと膨れ上がってきていた。なにを話せばいいんだろう。なにか聞かれたらどう答えればいいんだろう。変な受け答えして怪しまれないだろうか。
どんどん湧き上がる不安に負けまいと、必死に歯を食いしばる。負けない。負けるもんか。俺はどんな奴にだって負けないって、そのくらい強くなるんだって、あの時誓ったんだ。
教室の扉をがらりと開け、中に入っていく矢部を直立不動で見送り数十秒。「草薙くん、中へ」という言葉を聞き、閃はよし! と気合を入れて中に入った。剣を振るっている時の感覚を思い出せ、迷いを消すんだ。
教室中の視線が自分に集中する。そのひとつひとつの様子を窺うほど余裕はなかった。ただそのひとつひとつを裂帛の気合を込めて見返す。
「え、ええと、じゃあ、自己紹介を……」
教卓の前まで歩いてくると、矢部が告げる。閃は小さく息を吸い、生徒たちを睨みながら言った。
「草薙、閃です」
しん、と教室が静まり返る。どうしようどうしようなにか失敗しちゃったんだろうか、とうろたえ慌てる心を気合でねじ伏せて睨み続けた。
「あ、じゃあ、その……みんな、質問あるかー?」
矢部の声に、手が上がる。閃はさっと緊張した。
「え、と。なんだ、時田?」
「はいっ、草薙くんはいくつですかー?」
閃は即答した。基本的に質問には嘘をつかず答えるつもりだった。無駄に嘘をついても意味がないし、なにより閃は嘘をつくのが苦手だ。
「十五」
「誕生日はいつですかー?」
「四月十五日」
「趣味はなんですかー?」
趣味? 趣味ってなんだ。そんなものを持てるほど余裕のある人生は送ってない。
だが普通の中学生というのは趣味を持っていないと変な目で見られるのかもしれない。必死に頭を回転させて考えて、結局持っている技術のうち仕事に使わないものを挙げた。
「……家事、とか」
煌に一応仕込まれている。自炊の機会がある時は必ず煌が一緒だが(煌は料理がすごく上手だ。というか煌はたいていの技術はすごく上手だ)。
「……草薙くんはここの前、どこの学校に通ってたんですかー?」
しばしの沈黙のあとまた問い。今度のそれに答えるのが遅れたのは、単純に一瞬思い出せなかったからだ。両親がいて普通に小学校に通っていた頃の記憶は、非現実的に感じるほど今の閃には遠い。
「……前に学校に通っていたのは、北川小学校」
「へ?」
確かこれで正しいはずだ、と気合をこめて言った言葉に、さらに質問が飛んできた。
「えーとでも、草薙くんは十五歳なのに、どーして? 別に小学校卒業してから学校に通ってないってわけじゃ」
「小学校卒業からじゃない。小四になってしばらくしてからずっと学校には通っていない」
「え」
答えてからはっとした。自分の事情を少しでも公開するのはまずい。ここを去る時記憶操作する手間がかかりすぎる。ぎゅっと刀の柄を握り締め気合を入れ、声のした方を睨みつけ言った。
「詳しくは、言いたくない」
「…………。じゃあ別の質問! 草薙くんは、なんでそんな日本刀なんて持ってるんですか!?」
閃は一瞬も考えることなく即答した。仕事に関する話なら慣れている。
「仕事に必要だからだ」
『………………』
「えと。仕事って?」
「悪いけど、部外者に話すわけにはいかない」
切って捨てるように言う。自分に踏み込むな、と宣言するようなつもりで。
『……………』
「じゃあじゃあっ、りじちょーのお声がかりで転校してきたってことですけど、園亞さんとはどーいうご関係ですかっ」
「こ、こら時田っ」
一瞬言葉に詰まった。園亞と俺って、本当にどういう関係なんだろう。仕事の途中で会って、記憶を消せないまま別れて、潜入の時また会って助け出して、今は一緒に暮らしてる。
どう答えるべきか一瞬頭が混乱したが、すぐにはっとした。少なくとも、仕事を依頼された以上その関係を告げるべきだ。
「護衛と護衛対象だ」
『………………』
教室がざわめいた。
「じゃあじゃあっ! 理事長から護衛の仕事頼まれたってこと? 年変わんないのに? つか仕事って秘密なんじゃなかったの? なんでそんな仕事やってんの、つかどこでなったの?」
立て続けに浴びせられる質問。一瞬閃はパニックに陥りかかった。だが負けん気で必死に心をどやしつけて、質問をいちいち思い出しながら(なんだかさっきからどれも同じ方向から質問されている、と気がついた)声のした方向を睨みつけながら懸命に答えを返す。
「最初の質問の答えはYES。次の質問の答えはだからなんだ、としか答えられない。それ以上の仕事の質問に関しては……悪いけど、答えるわけにはいかない」
途中で問いの内容に混乱して、必死に考えて無理やり質問を打ち切った。閃としてはもういっぱいいっぱいだ。仕事の途中で聞き込みするとかならともかく、目的もなく交わされる会話をどうこなしていくか、なんて閃の習得した技術の中にはない。
「じゃあさじゃあさっ、もーっと俺らが仲良くなってから質問したら答えてくれるってことー?」
――――――!
閃は思わず、震えた。
仲良く? 普通の、戦ったことのない、身を守れない人間と仲良く≠ネる? 関係を作る?
そうしたらまた俺のせいで、人が死ぬ。
「冗談、じゃ、ない」
そう、冗談じゃない。そんなのは、死んでも二度とごめんだ。
「そんなこと、絶対に考えるな。俺となにか関係≠作ろうなんて、間違っても思ったりするな」
自分と少しでも親しくした人間は、ほぼ必ず、死ぬ≠フだから。
「―――命が惜しければ」
もう限界だった。閃は矢部の方を向き「先生。席に着いてもいいですか」と訊ね、「あ、ああ……じゃあ、そこの席を」と指差された空席に足早に歩き座る。
『お疲れさん』
(……うん)
負けを認めるなんて絶対に嫌だけど、本当に、ちょっとの時間ですごく疲れた。これをしばらく続けるのかと思うと、考えただけで目眩がする。
と、とんとん、と机のふちが叩かれた。左隣の人間が指を伸ばしてきたのだ。一瞬どうしよう、と混乱状態に陥って、囁かれた声に我に返る。
「閃くん」
「……っ、園亞?」
大声を上げそうになる喉を必死で制御して囁き返す。左隣は園亞だった。護衛対象の近くの席が用意されるのは、当然といえば当然だ。
ようやく周囲を観察する余裕が生まれてきた。席の位置は廊下隣の一番後ろ。護衛をするにはいい席だ。とりあえず周囲の人間は、こそこそ話したりはしていても、こちらに視線は向けてこない。そのことにだいぶほっとした。
ただ一人真正面から視線を向けてきている人間、園亞がひどく嬉しげないつものにこにこ笑顔で口を開く。
「閃くん、あのね」
「……なんだ?」
「四物学園へ、ようこそっ!」
「………」
閃はぽかんとしたが、園亞は言ってからきゃ、言っちゃったv という言葉が似合いそうな恥ずかしげな顔になり、教科書で顔を隠した。それからそろそろと教科書の上から目を出して、こちらの様子をうかがう。
閃はなんというか、ひどく照れくさいというか、いたたまれない気分になって、小さく「ありがと」とだけ呟いて授業の準備を始めた。本当に、なんでこの子に自分はこんなに懐かれているのだろう。
一時間目の授業は英語だった。一応煌に叩き込まれてはいるが、日常会話くらいしかこなせる自信はない。どんなことを聞かれるのか、ドキドキしながら教師が来るのを待った。
中年の女性教諭は妙に緊張した顔で入ってきて、わずかに日本訛りの英語で挨拶をした。
「では、今日は25Pからでしたね。担当は……」
一瞬固まってから、きっと顔を上げて宣言する。
「一番廊下側の列、先頭から」
「! ……大変だよ閃くん、閃くんに訳が回ってくるよ!」
「………」
訳が回ってくるというのはどういうことかよくわからず、閃はわずかに眉をひそめた。訳をする順番が回ってくるということだろうか。だがなぜ園亞はああもうろたえているのだろう。
「英語の小林先生ってすっごく厳しいの! 大変だよ〜っ」
「ミズ・ヨモツ。授業中の私語は慎みなさい!」
「はっ、はい〜っ」
きっとこちらを睨んでくる小林という教師に、閃はわずかにムッとして睨み返した。別にいちいち喧嘩を売って歩きたいわけじゃないが、たとえ教師だろうと負けるのはやはり気に食わない。小林はわずかに気圧されたような顔をしてから、きっと教室全体を睨み回して言う。
「では、まず音読から」
小林が教科書を読むあとについて、生徒たちが教科書を読む。なるほど、全体で読むわけか。なんだか効率が悪いような気がするが。
閃も真似をしてテンポを合わせて教科書を読んだ。読みながら頭の中で訳を組み立てる。閃は英語で考えられるほど英語に習熟しているわけではない。
先頭の生徒がつっかえつっかえ訳を述べるのを、小林はいちいち居丈高に修正していく。その訳は確かに正しいと思えるものだったが、その高飛車な態度に少しばかり腹が立った。
自分に当てられた時は完璧な訳を述べてやる、とそこからしばらく教科書の文章を読んでいると、甲高い声で叫ばれた。
「ミスター・クサナギ! なんであなたはノートを取っていないのですか!? 真面目に授業を受けなさい!」
閃はわずかに眉を寄せ、顔を上げてこちらを睨みつけている小林を睨み返した。
「なんで、ノートを取っていないのが真面目に授業を受けていないことになるんですか?」
「………! 当たり前でしょう、そんなことは!」
「少なくとも俺には、少しも当たり前じゃありません」
煌との授業ではノートなど使ったことがない。小学校の時はノートを使っていたような気もするが、それは子供の時の話だ。実際に技術を使う時にはノートなど参照はできないのだから、意味がないではないか。
だが小林は息を荒げるほど興奮しながらけたたましい声で怒鳴った。
「なら、今から言う文章を英訳しなさい! まず充分なお金を貯めないといけないので、私が実際にそのヨーロッパ旅行に行くのには時間がかかるでしょう=I」
「……It will be a long time before I can actually go on that trip to Europe because I must save up enough money first.=v
少し考えてから言うと、なぜか教室がどよめき、小林はひきつけを起こしたようになってふらついてからぎっとこちらを睨み、「今日は自習にします!」と叫んで教室を飛び出した。
閃はなんで小林が職場放棄をせねばならんのか、と一瞬ぽかんとしてから、顔をしかめた。どんな理由があろうと仕事を放り出すのは大人のするべきことではない。しかもなんの説明もせずでは子供の癇癪と変わらないじゃないか。閃は心の中で小林教諭を『足手まとい的警戒対象』としてチェックした。なにかことがあった時ああいうタイプは確実に足を引っ張る。
そして、小林が教室から飛び出すが早いか、なぜか周囲からわっと人が集まってきた。園亞のみならずさっきまでこっちを見もしなかった生徒たちが歓声を上げて迫ってくるので、閃は反射的に飛び退りかけたがそれより早く囲まれてしまう。
「すっげぇじゃん草薙! お前英語までできるわけ!?」
「なんであんなにすらすら英訳できんの!? 実は帰国子女とか!?」
「閃くん、閃くん、すっごーいっ! 閃くんって頭までいーんだっ」
「………………」
閃はもう固まって返事もできなかった。こんな風に注目されて話しかけられるのは慣れてない。園亞まで一緒になってわぁわぁ騒がれて、どうすればいいのかわからないまま完全に硬直したまま一時間目は終わった。
二時間目は体育だった。体力テストを行うのだ、と園亞が言っていた。そういえば小学校でも四月の頃はそういうことをやっていた気がする。今日は50m走と走り幅跳びだそうだから、体操着に着替えて校庭に向かえばいいのだろう。体操着はちゃんと用意してもらっている。
が、早めに着替えて園亞の警護に就かなければ、と学ランのホックに指をかけて、固まった。男女一緒に着替えるのだろうか?
閃自身は誰に見られながら着替えようとさして問題ではないが、もし男女が一緒に着替えるのだとしたら。嫌だ、冗談じゃない、女子が着替えるところを見させられるなんて恥ずかしすぎる。でももし一緒に着替えるんじゃないんだとしたら、男は別の場所で着替えるんだとしたらさっさと着替えてしまうというわけにはいかない。まだ休み時間に入っていないので周囲の人間は(園亞も)まだ立ち上がりもしていない。どうしよう、中学生って男女一緒に着替えるのか!?
頭をぐるぐるさせていると、自分に向かい歩み寄ってくる気配をひとつ感じた。閃はすばやく立ち上がり、そちらの方を向き身構える。
「っと!」
驚いたように足を止めたのは、一人の男子生徒だった。顔に丸い眼鏡をかけた中肉中背の少年だ。特に殺気は感じないし武器を隠している様子もない。足運びも素人のものだ、と確信してから閃は構えを解き、その少年を睨むようにして見つめた。
「なにか用か?」
「いやー、用ってほどのことじゃねーけどさー」
その少年はへらへらと笑いながら近寄ってきて、ぽんぽんと馴れ馴れしく閃の肩を叩いた。この声、と閃は顔をしかめる。さっき自分に質問してきた声だ。こうも馴れ馴れしく近づいてきたことも合わせて考えると、裏があるという可能性がある。
「転校生に更衣室案内してやろーと思ってさー。まだ場所知らないだろ?」
「……更衣室?」
「そ。このガッコ男子も女子も更衣室があって体育ん時はそこで着替えんの。遣い方とかも教えてやろうと思ってー。うっひょー俺親切ぅ!」
「あ、時田くん更衣室案内してくれるの? よかった、私じゃ男子更衣室は案内できないから誰に頼もうかなって思ってたんだ」
さっきからなぜか自分をにこにこしながらじっと見つめていた園亞が笑顔で言う。時田と呼ばれた男子生徒はにやり、と笑ってぽんぽんと閃の肩を叩きながら笑った。
「そーそー、人の親切は受け容れるもんだぜー? あ、俺時田。時田渉ね。別に名前で呼んでもいいぜ、草薙閃クン」
「…………」
「じゃ、早く行こうぜ、閃。ちょっとややこしい場所にあるからさ」
「……悪いけど、仕事があるから」
「は?」
「園亞から離れるわけにはいかないんだ」
じっと時田を見つめ言うと、時田は驚いたような顔をする。
「いや、だって、体育なんだから着替えなきゃならないじゃんか。まさか女子更衣室で着替えるわけにもいかねーだろ?」
「トイレや着替えの間は仕方ないにしても、それ以外の時間は基本的に園亞と一緒にいる。護衛なんだから当たり前だろ」
挑発に乗る気はない、という意思を込めて時田を見つめると、時田は少しの間言葉に詰まったが、すぐにっかりと笑って言った。
「じゃあ一緒に行けばいーじゃんか! 男子更衣室と女子更衣室ってわりと近いしさ!」
「……護衛が護衛対象の行動をどうこうできるわけないだろ」
「え? いいよ、別に? 私も閃くんに学校案内とかしたいし」
「って、園亞」
驚いて見つめると、園亞はにへちゃ、と顔を笑み崩れさせた。なぜかわずかに顔が赤い。なにか興奮するようなことがあるのか?
「園亞ー、なにー、もーラブラブじゃーん?」
「えーもう、そんなんじゃないよー」
ラブラブ? なんだそれ、誰の話だ。
「ほれ、決まり決まり! さっさと行こうぜ!」
「あそこが時計塔。塔部分は基本立ち入り禁止だけどさ、生徒会室とかはあそこの根元にあるんだぜ、ベタだよなー。で、そっから繋がってるのが第一校舎。高等部教室とか、職員室とかがある。化学実験室とかもあっちの方な」
「こっちの第二校舎には中等部の教室と、食堂とか図書室とかの施設があるの。でね、その間の、あそこに体育館があるでしょ? 更衣室はね、そこの階段をちょっと登ったところにあるの。階段がちっちゃくてわかりにくいんだー。私更衣室探して何度も迷っちゃった」
「それはおめーだけだよ、四物。お前三年になっても迷うことがあるとか言ってたもんなー」
「さ、三年になってからは二回しかないもんっ!」
三年になってから二回も迷える方がすごいんじゃないか……? と思いはしたものの、口には出さない。自分は護衛なのだから護衛対象の気に障るようなことを言う気はないのだ。
会話を交わす園亞と時田の間よりわずかに下がって閃は警戒しつつ歩く。時田がいつ園亞に襲いかかっても防げるように、刀の柄を握りつつ。
「で、あっこの建物が部室棟。体育会系も文化部系もごっちゃで入ってんだよな、うちのガッコって。あ、ちなみに俺は新聞部ねっ」
喋り続ける時田の言葉を聞き流すようにしながら、閃は時田同様に周囲を警戒しつつ歩く。周囲に注意を払うのは十歳の時からずっとやってきたことだ、もはや日常的な習慣になっていた。力の入れどころ抜きどころもわかっている。だがどうしても頭の一部が時田の言葉を処理しようとしてしまい、正直普段より相当疲れた。
『おい閃。俺を出せ』
(は? なに言ってるんだ、できるわけないだろこんなところで)
『このウスラボケしゃべくり人形に軽く一発入れてやるだけだ。殺しゃしねぇ』
(お前な! お前の力で殴ったら普通人は死ぬだろ! 第一、なんで時田を殴る必要があるんだよっ)
『バカ。てめぇを煩わすよーな奴は人間だろーと妖怪だろーとぶん殴るぜ、俺は』
(だ、だからっ、そーいうのは人間の決まりに反してるから、そういうことをしたら俺たちが人間から疎外されちゃうって)
『俺は別に人間に疎外されてもいーもーん。人間社会と戦争しても勝つ自信はあるしな』
(だからそういう問題じゃっ)
『心配しなくても、ちゃんとお前も守ってやるよ。――髪の毛一本血の一滴、他の奴らにはやらねぇ』
(だだだだからっ、そういう、問題じゃっ)
泣きそうになるのを必死に堪えていると、くっくっくと煌の声が笑った。またからかわれたっ、と閃はきっと宙を睨みつける。
(煌っ、いい加減にしろよっ、仕事中だぞっ)
『んーなこと言ったって俺はこん中じゃ外の様子がわかんねーんだからしょーがねーだろーよ』
(だから、邪魔はするなってっ)
――直後、閃はぴたりと足を止めた。
「時田。案内はまたの機会にしてくれ」
「へ?」
「園亞。こっちへ」
「え、なに閃くん、きゃ!」
園亞の手を引っ張って走り出す。走りながら園亞に小声で囁いた。
「園亞。この学校で大暴れしても大丈夫な場所ってあるか?」
「へ? え、体育館裏かな? あそこ邪魔になるもの、なんにもないし、外からも、視線通らないよ」
わずかに息を荒げながらも答える園亞。閃はわずかにため息をついた。
「……そこしかないか」
体育館裏。コンクリートの壁を背にし、けれど物質透過をされてきた時のためにある程度間を開ける。後方左側に園亞を立たせ、刀を抜き、閃は低い声で告げた。
「出てこい。いるんだろう」
くっくっく、くすくすくす。二つの声が聞こえてきて、閃は顔をしかめた。敵は複数か。自分の見た、明らかに自分に誘いをかけてきた黒スーツは一人だけだったが。どちらにしろ、放っておくわけにはいかなかった。早く潰さなければいつ無差別攻撃に出るかしれない。
「案外敏感だなァ? たかが人間の分際で。百夜妖玉よォ」
閃はさらにぐっと奥歯を噛み締める。こちらのことを知っている。自分の相手らしい。ならば、煌のことも知られていると考えた方がいい。一人ならばまだしも、今は園亞がいる。どうする、今のうちに煌を出しておくべきか。迷い屈辱を感じながらそろそろとズボンに手を伸ばす。
とたん、ぶわん、と空間が歪んで目の前に気配が現れた。
ぎぃん! と刃と爪が噛み合う音が周囲に響く。攻撃を防げたのは完全に僥倖だった。今、確かに目の前のこいつは、瞬間移動して現れた。
「人間にしちゃあやるなァ、百夜妖玉? 噂通りだぜェ」
にたにたと牙の生えた口を大きく裂かせて妖怪が笑う。吊り上がった瞳の虹彩は細く、太い尻尾と三角形の耳が特徴的な半人半獣の妖怪。
「……化け猫、か」
「その通りィ。齢三百年の大妖さァ」
「もう一体はどこにいる」
「さァて。どこにいると思う?」
さすがにそうぺらぺらは喋ってくれないか、と小さく内心で舌打ちし、す、す、とすり足で足を動かし、間合いを変えていく。鍔迫り合いの距離では明らかにこちらが不利、せめて斬り合いにもちこまなければどうにもならない。
化け猫はにたにたと笑いながら爪にぎりぎりと力を籠めていく。閃はぐっと奥歯を噛み締め、それを懸命に受け流しつつ言う。
「こんなところで姿を現していいのか。人払いの結界も張ってないんだろう」
「フぅン。人の目につかない方法は結界だけじゃねェんだぜェ?」
「じゃあなんだ」
「はァん、当・て・て・み……なァッ!」
「っ!」
しゃりん!
刃を遡って閃の手を狙う爪を、しかし閃は刀を回転させて受け流した。返す刀で化け猫の頭を狙い斬りつける。とにかく煌を出す隙を作らなければ。
だが化け猫は「ッハァ!」と笑声を立てながら爪を交差させてそれを受け、大きく払って刀を弾く。弾かれた流れを利用して下から上へ顔に斬りつけると、化け猫は飛び退って刀をかわした。
できた一瞬の隙。戦いに逡巡している暇はない、自分はそれをよく知っている。ズボンに手をかけて一気にずり下ろそうとした瞬間――声がかかった。
「逃げるのかァ?」
「……なに」
反射的に手を止めてから、しまったと思った。戦いの中では一秒の遅滞が命取りになる。だが化け猫はなぜか攻撃しては来ず、爪をきらめかせながらにたにたと笑った。
「俺ァ楽しみにしてたんだぜェ? 百夜妖玉が人間のくせにそれなりに使える≠チて聞いてよォ。俺ァ人間をこの爪で斬り裂いて食うのが大好きでよォ、妖術だの兵器だので殺すなァどうにも好きになれねェんだ」
「…………」
「だからよォ、真っ向からやり合って楽しい人間なんてモンがいて、しかもそれが百夜妖玉なんて話知ってよォ、そりゃもう楽しみだったわけよォ? 仲間にも手ェ出すなっつゥくらいになァ。それをてめェは、番人呼び出すことばっか考えやがって。つまんねェよ、ンななァ」
しゃっ、と空気を切り裂いて爪をこちらに突きつけて言う。
「てめェも喧嘩が好きなんだったらなァ、状況だの他の奴ことだのなんだのごちゃごちゃ考えてねェで、真正面から来てみやがれ!」
「…………」
閃は、数秒かけて深呼吸した。その間の時間を使って周囲の気配を探る。
まずいない、と確信してから小さく心の中で呼ぶ。
(煌)
『んだよ』
(フォロー、頼めるか)
『……あいよ。ったく、俺に任せときゃ一秒で殲滅できんのにどーしてこーいちいち自分で戦ってみたがるかねぇ』
(ごめん)
『バーカ。んな殊勝なこと言うぐれーなら食事時間延長しやがれ。とりあえず今日の分に太腿と脇腹のの肉追加な』
(っ、今日は胸だけって言った、じゃなくてこの状況でそういう話すんなっ!)
煌に向けて心の中で怒鳴ってから、閃は刀を構えた。この状況は、確かに自分にとっては望むところだ。
一対一、相手は近接戦闘タイプ、護衛する相手がいるという問題はあるがとりあえず思う存分戦える状況。ならば、自分としてはやらないわけにはいかない。自分は強くならねばならないのだから。世界中の悪の妖怪たちを倒せるほどに。
(――俺は)
だっと踏み込み、刀を横薙ぎに振るう。
(正義のヒーロー(予定)なんだ!)
ぎぃん。爪で受けられた。やはりこの敵はかなりいい腕をしている。煌ほどではむろんないが、自分と同等程度の腕はあった。
右。左。突き。いなし。避け。退き。振り下ろしから、突き。右、同時に左。受け流し。次から次へ飛んでくる攻撃を受けながら、目への突きを狙う閃のいつもの戦い方だ。
だが、奇妙だ、とどこかで思っていた。妙に受け流すのが楽だ。
普段はどれだけ手を尽くしてもせいぜいが八割九割防げればいい方で、一発喰らえば即死しかねない妖怪との戦いでは心もとない防御率なのに、今日は不思議に防御がしやすい。なんというか、自分の回りに見えない壁があってそれが勝手にある程度攻撃を受け流してくれるとでもいうような。相手は自分と同等の腕なのに、まだ一撃も入れられていない。
そういえばさっきなにか妙な感覚があったような、とちらりと一瞬考えたが、すぐに頭から追い出す。今すべきことは、敵を倒すこと!
「せぇっ!」
「ぎゃあァッ!!」
閃の一撃が眼球を貫く。確かな手応えがあった。だがまだ終わりではない、相手は妖怪だ、耐久力も人間とは桁が違う。
化け猫がぎろぉっ、とこちらを睨む。強烈な殺気。閃は気圧されずたたみかけるようにさらに突きを放つ。
とたん、化け猫の姿が消えた。
「っ!」
「くッ!?」
反射的に横っ飛びに飛んだのは正解だった。爪が左背後の空気を裂く音。がっと右足で地面を噛み、くるりと体を回転させてさっきと逆の目を突いた。
「がァッ……!」
よし、と閃は悲鳴を上げてのたうつ化け猫を睨んだ。両方の目を潰せた、脳まで貫いた。ある程度のダメージを与えられた確信がある、これで相手の攻撃はまず当たらない。相手が傷を治す手段を持っているというのならともかく――
「閃くん!」
「っ!」
背後に唐突に気配を感じた、と思った時はもう遅かった。がづんっ、という体の芯に響き渡る衝撃。骨が折れ肉が裂け、衝撃に耐えきれず足が勝手にくずおれる。
それでも必死に刀を杖に持ちこたえようとするが、背後の気配はがすっ、と必死に耐える閃の背中を蹴った。倒れる閃の手を蹴り、刀を跳ね飛ばし、肩を踏んで動けなくする。遠のきそうになる意識を必死で持たせながら姿を確認する。こちらを見下ろしてにやにやと笑う黒いスーツを着たそいつは爬虫類系の妖怪のように見えた。
「まぁ、確かに人間にしては使える方だな。が、しょせん人間だ。俺たちの一撃であっさり倒れるほどもろい」
「……もう一人、か……」
ぜっ、ぜっ、と荒い息の下からこぼした言葉に、くははっと別の場所から笑い声が返ってきた。
「おっめでてぇなぁ! 本気であと一人しか仲間いねぇと思ってたのかよ!」
「……っ」
新しく人影が現れる。これも黒いスーツ。一見人間のように見えるが虹彩が縦だ。さらに新しく人影。さらにもう一人、もう一人――。
「脳天気にもほどがあるぜよォ! お前世界中の妖怪から狙われてるってのによくもまぁのんきに学校なんざ来れんなぁ?」
「もう闇じゃ百夜妖玉の居場所も今なにやってんのかも知れ渡ってんだぜ? 四物財閥だかなんだか知らねぇが俺ら妖怪の前じゃガキみてぇなもんよ」
「しかも俺ら白蛇≠フ支部ひとつぶっ潰しといてなぁ。やったのが百夜妖玉と旧き火神≠セってこたぁすぐに調べがついたし、それなら対抗策もいくらでも思いつくんだよ」
「ツメの背後への転移からの一撃をかわしたのはまぁ褒めてやるけどよ。他にも仲間がいるとか考えなかったのかよ?」
「ツメが言ってただろうがよぉ、結界だけじゃねぇって。せっかくヒントやったんだから人力で人払いするって方法とか仲間がうじゃうじゃ来てるって可能性とか考えつけって」
「ツメが挑発して頭に血を上らせて、気を抜いたところを背後から確保。てめぇがズボン下ろさなきゃ旧き火神≠呼べねぇってのはとうに知れ渡ったことだからなぁ、それさえ防いじまえばてめぇはただの俺たちのエサってわけだ」
「けひゃひゃひゃっ、おいしい仕事だぜ。あっさり四物財閥の娘っ子捕まえて褒美がっぽり、その上百夜妖玉を食えるっておまけつき! いつ旧き火神≠呼ばれるかわかんねーから俺らで食っちまっていい、なんて上も弱気だよなァ」
「まーそのおかげで俺らは最高のエサにありつけんだけどなぁ? さぁて……どこから食ってやろうかァ?」
閃は血の流れ、ぐらぐらする頭を小さく動かして相手を全員確認し、必死に考えていた。
(数が、多い……肩を踏まれている。動きはほぼ封じられた……刀までは二m。立ち上がれればすぐ届く、というにはわずかに遠い……)
恐ろしくはなかった。確かに死は目前という状況ではあったが、今までもこんな状況は腐るほどあった。そもそも一度でも防御を失敗すればまず即死、かつこちらの攻撃は目を貫かなければまず効かない、という重石をたっぷり背負って綱渡りするような戦いを何度も繰り返して生きてきたのだ。閃にとって死とは目の前にあり、常に戦わねばならないものだった。
(油断を待つしかないか……幸い向こうは俺を食う気だ。おまけに複数。まず分け前でもめる……その上どいつも三下。自由になるチャンスは必ずある……)
そして、自分は今は死ぬわけには絶対にいかないのだ。自分が死ねば煌も死ぬ。
そして園亞の、あの(家が妙に金持ちではあるが)ごく普通の女の子も死んでしまう。それは、たとえ(予定)だろうと、正義のヒーローであろうとする閃には絶対に絶対に絶対に、認められない。
(………俺は、死なない)
死んでたまるか。俺はあの時誓ったんだ。こんなところで死んでいいほど、俺の命は軽くないんだ。俺のために何人も、もう本当に何人もの人が殺されてしまったんだから―――
という思考がよぎった瞬間、閃の肩を踏んでいた妖怪がばったりと倒れた。
「へ」
「っ!」
閃は跳ねるように飛び起きた。なぜ倒れたのか、とかそういう思考は後回しだ。今生き延びるために必要なこと以外はあとで考えればいい、やるべきことは状況の変化にきっちり体を反応させること!
「てめ、ま」
妖怪たちが騒ぎ出す前に、閃はズボンを思いきりずり下ろしていた。
ギュルオォォォォッ!!!
周囲が一気に明るくなる。この世で一番眩しい炎に照らされたのだから当然だ。閃の体を熱く疼かせ、熱に浮かさせる、毎度お馴染みの熱気がしばし閃の全神経を支配する。
あっという間に生まれ出でた全身炎でできた巨人は、いつも通りにぞっとするほどきれいににぃ、と笑って、まずぱちん、と指を弾いた。わずかに空間が軋むような音。煌が周囲の空間を人払いの結界の中へと導いたのだ。
それから、すっと手を閃に伸ばし、暖かい空気をこぼす。傷がみるみるうちに癒された。
それから固まっていた妖怪たちへ向き直り、再びにぃ、と笑う。
「てめぇら、俺の可愛い可愛い生贄に、なんつった?」
「ひ……」
「脳天気だとか? 俺たちのエサだとか? いろいろと抜かしてくれやがったよなぁ」
「て、てめ」
笑みの形に引き上げられた口が裂けんばかりに広がる。鼻の部分が震える。目が吊り上る。何度も見ている、煌の怒りの表情だ。
「――ただで死ねるたぁ、思うんじゃねぇぞ?」
それから、蹂躙が始まった。
煌の燃え盛る爪がごおっと唸りを立て相手の腕を切り飛ばす。妖怪の肉体は人間とは比べ物にならないほどの耐久力を誇るが、本気を出した煌の力は戦車を一瞬で屠るほどなのだ、相当強い妖怪でも一撃、妖怪だろうが腕を切り飛ばすくらいたやすい。
ずぶっしゃ! と音を立てて煌の爪が敵の顔を貫く。分厚い鋼の壁だろうが一撃で貫く爪は、大砲が直撃したような巨大な穴を開けた。さらにそこからぽいっと宙に敵を放り投げ、ずばっずばっしゃぐばっしゃ、と斬り裂きまくる。敵は悲鳴を上げることすらできず消滅した。
悲鳴を上げて逃げる妖怪に向けては炎を吐く。石でも鉄でも鋼でもあっさり消滅させる超高温の炎は自由に効果範囲を選ぶことができる。扇型に広がった炎は妖怪だけをのた打ち回らせて、それを見下ろしながら煌はにっこりと笑い、しっかりと止めを刺した。
相当に遊んでおきながら、煌は全員を数秒も経たないうちに一人も漏らさず片付けている。
煌は、本当に強い。世界最強の妖怪と自称するのはまんざら駄法螺ではないと思うほど。どんな妖怪だろうと煌に相対すれば手も足も出ない。そういうところを見ると、くそー悔しいなとも思うが、やっぱり素直に、カッコいいなぁ、と思ってしまう。最強の存在というのは、やっぱり理屈をすっ飛ばしてカッコいい。
じっと煌を見つめていると、「閃くん……」と声をかけられた。
「! 園亞っ」
しまった、と慌てて声のした方を振り向く。園亞のことを忘れていた。戦闘中の『意識している暇がない』という状況から戻ってきていなかった。護衛対象だというのにそれはまずすぎる。向き合って、状態を確認しつつ訊ねた。
「大丈夫か、園亞? 怪我はないか?」
「うん……それより、閃くんの方が」
「え?」
「頭のところ、まだ傷あるよ」
「あ」
確かに頭にはまだ痛みが残っている。煌の治癒の術でも治りきらなかったのか。相当傷が深かったのだろう。園亞はひどく心配そうな、というか今にも泣きそうな顔でその傷に手を伸ばした。
「閃くん、大丈夫? あ、大丈夫じゃないよね。あんなに思いっきり殴られたんだもん。あの人たち、すごい、ひどい……」
「いや……」
閃はやっとそれだけ言う。正直かなりうろたえていた。もし泣かれたらどうしよう。女の子の泣き止ませ方なんて自分は知らない。この今までいついかなる状況でも明るかった子が、泣きそうに目を潤ませているというのは思いっきり閃を慌てさせた。
だが園亞はぎゅ、と唇を噛んで泣くのを堪え、手を伸ばしてそっと閃の頭に触れた。温かい。正直閃は他人に触れられるのは苦手な方だが、園亞の手は心地よかった。痛みがすうっと引いていく。
「……うん、治った……と思うんだけど。もう痛いところない? この魔法使うの、これで二回目だからよくわかんないけど」
「は?」
閃はいきなり出てきたすっとんきょうな単語に眉を寄せた。魔法? なんでそんな単語が今出てくる。ていうか治ったって?
「あーったく、クソ共が。弱ぇ、しょべぇ、脆ぇ。ちーとも苦しめられなかったじゃねーかよ。もう消滅した方がマシってくらいの地獄の苦しみを味わわせるつもりだったのによ」
煌がぶつぶつ言いながらずかずかとこちらに戻ってくる。園亞があ、と声を上げた。
「煌さん、怪我ない? 痛いところあったら私が治してあげられるよ?」
「いや、どっこも。つか俺は傷負ってもあっちゅーまに治っちまうんだよ。食事さえすればな」
「えー、そうなの? すごいんだねぇー。どんな食事?」
「そりゃもちろん俺専用のよーく引き締まった体にたっぷり浮いた汗と興奮した血をまぶした肉と」
「それより園亞。怪我を治してあげられるってどういうことだ」
煌の食事の話についてはまったくもってしたくない閃は割って入って訊ねた。だが実際かなり気になることではあったのだ。しかも煌もそれがまるで当然のことのように受け容れているし。
「あ、それね」
園亞が明るい笑顔になる。なんというか顔全体で嬉しい! と表現しているようなわかりやすい、けれど心地いい笑顔だ。
「私、魔法使いなの!」
「…………………はぁ?」
閃はしばらく絶句したのち、ぽかんと問い返した。魔法使い? なんだそのファンタジックな単語。
「あー、お前魔法使いだったのか」
「えー、煌さん気付いてなかったの?」
「魔法使いかもなー、とは思ったが。妖術って可能性もあったしな。どっちでも効けば一緒なんだ、まだ敵か味方かもわかんねー奴のワザがどんなもんかなんていちいち考えねーよ」
「えー! 私煌さんに味方って思われてなかったのー! なんだかショック……」
「いや待て煌。なに普通に受け容れてるんだよ」
「なにが?」
煌はにやり、と面白がるような笑顔を閃に向ける。そんな顔もいちいち男前なのがちょっとムカつく。
「だから……魔法使いっていうやつ。普通に考えておかしいだろ、そんなお伽話みたいな話」
「えー、なんで? 閃くん妖怪と戦ってるのに」
「いや、だって……妖怪は、実際にいるし」
「魔法使いだって実際にいるよ。私も最近知ったけど」
「……え、でも、だって……魔法なんて、お伽話だろ?」
困惑の視線を煌に向けると、煌は肩をすくめてみせた。
「言っといてやるとな、この世界にも魔法ってもんはある」
「……あるのっ!?」
「むーだからなんでそんなに驚くかなー、妖怪とあんなにフツーに戦ってるのに」
「いやだってそれは」
「魔法ってもんが信じられてるから想いからそーいうもんが生まれたのか、そもそもそーいうもんが昔からあったから魔法ってもんが知られるようになったのかは知らねーがな。とにかくそーいうもんはある。ただ、もーそーそーあるワザでもねぇ。妖怪の中になら使える奴はいないわけじゃねーが、もーほとんどって言っていいくらいいねぇ」
「えー、そうなの?」
「ああ。魔法が迷信って考えられたりしたせいで知られなくなった、っつー奴もいるが、俺は単に魔法っつーのがめんどくせーワザだからだと思うがな」
「……面倒くさい?」
「あー。まず魔法ってのはそーいう素質がある奴しか使えねぇ。そーいう奴がまずほとんどいねーし、妖術みてーに体が覚えるワザじゃねーから、いちいち長い時間勉強して頭に覚えこませなきゃなんねぇ。素質ある奴が師匠見つけるだけでも一苦労だしな。妖怪でも」
「そうなんだ……」
「で、えんえんそーいう勉強して覚えても、魔法ってのははっきり言って弱ぇんだよな。なんか詳しい奴によると、距離が離れるとあっという間に効きが悪くなるらしーし。攻撃用の呪文なんてせーぜーが散弾銃程度の威力しかないらしーし。それにな、一度そーいうのを相手したことがあんだけどよ、魔法って無駄に時間かかんだわ。おまけに使うごとにいちいちすっげー疲れるらしーし。人間なら数回使っただけでぶっ倒れるって言ってたな」
「そうなんだー……え、でも私、別にそんな疲れてないよ?」
「だから、お前は普通じゃねーんだろ」
「そーなんだ。え、じゃあ、私ってもしかしてすごい!?」
「ま、すげーって言っていいんじゃね? 雑魚とはいえ一瞬で妖怪をあっさり眠らせるくらいだからな」
わーい、と喜ぶ園亞を前に、閃は新たに知った事実に困惑していたが、ふと気付いた。
「……待てよ。じゃあ、もしかして、俺を踏んでた奴が急にぶっ倒れたのって」
「そいつなんじゃね? 入ってる間は外のことはお前を通してしかわかんねーけどよ。前にもやってたしな、そいつ」
「前……?」
「俺らとそいつが最初に会った時。追ってた奴が急に眠りだしたってことあっただろーが」
「え……えぇ!? あれも!?」
「だろ?」
「うん、あれも私。あの時は最初のことだったからよくわかんなかったけどね、なんとかしなきゃって思ったら声が聞こえて、できたの」
「声……? おい、ちょっと待て園亞、君は何者なんだ。魔法使いとかの家系なのか? 師匠とかいるのか、それはどういう奴なんだ?」
矢継ぎ早に訊ねる。爆弾を抱え込まないためにも、ある程度近くに在るものは調べられるだけ調べておくのが鉄則だ。園亞が意図的に自分たちを陥れるような真似はしないと思うが、暗示を与えられて操られる可能性はある。
だが閃の問いに園亞はうーんと首を傾げた。
「それがねー、私もよくわかんないんだよね」
「は……?」
「私も私が魔法使いだなんて知らなかったんだ。閃くんと出会ってから、何度か声が聞こえるようになって。その声の言う通りに、なんていうか、なんとかしたいって想いを形にしたら魔法が使えたの。感覚的に使い方覚えてたっていうか。閃くんを守りたいー、って想いを防御の魔法にしたり、閃くんの怪我治れーって想いを傷治す魔法にしたり」
「声?」
「うん。さっきも聞こえたよ。優しい、懐かしい感じの声なんだけどね、ちょっと偉そうだったかな」
「…………」
閃はしばし考える。魔法。さっき存在を知ったばかりなのでそれがどういうことができるのかはわからないが、煌は相当な勉強が必要だと言っていた。それをこんな普通の少女がほいほい使えるというのは、どう考えても裏がある。自分に仕掛けられたものか園亞に仕掛けられたものかはわからないが。
と、園亞が閃のすぐ前に立った。反射的に見ると、園亞はいつもの笑顔でにっこりこん、と笑い、言う。
「私、頑張るよ、閃くん」
「え?」
「私、もっともっと頑張って、いろんな魔法使えるようになるね。すごい魔法使いになるね」
「……はぁ」
「それでね。いつか煌さんに負けないくらい強くなって、閃くんの隣で、正義のヒロインやれるようになるね」
「…………」
一瞬ぽかんとした。それから思い出した。最初に会った時、園亞が別れ際に言っていた言葉。
『私がもっと頑張って、いろいろできるようになったら、閃くんと一緒に、正義のヒロインやっていい?』
そんなことを言われたのは閃は初めてだったから、驚いて。真剣な瞳に、少し胸がむず痒くなって。けれど自分と一緒にいることができるのは煌だけだとわかっていたから、首を振った。
それを、この子は覚えて、気にしてたっていうんだろうか。
「っは! わーらわせんじゃねーよ小娘、俺に負けないくらいなんざ一億万年早い」
「そんなことないもん! ていうか煌さん、私の名前ちゃんと言ってよー。四物園亞。知ってるでしょ?」
「いちいち名前思い出すのタルイ」
「もー、そりゃ煌さんはずいぶん長い間生きてきてるみたいだから新しいこと覚えるのが苦手なのはわかるけど」
「あぁ? ざけんな小娘、誰に向かってもの言ってる」
喋っている煌と園亞を見つめ、考える。そもそも煌と普通に話すことができているという時点で相当にすごい子だなとは思っていたけれど。
この子は本当に戦う力を得て、それで自分の隣に立とうとしている。そんな人間は、今まで、一人もいなかった。
でも、この子を巻き込む気はまるでない。この子は自分とは違う。煌とも違う。親がいる、家族がいる。自分と一緒にいていい人間ではない。
その考えは変わらないけれど。閃は小さくよし、と気合を入れて園亞に声をかけた。
「園亞」
「え? なに?」
「俺を助けてくれて、ありがとう。本当に助かった。この恩は、命で返す」
そう真剣に言い、深々と頭を下げる。
礼はちゃんと言うべきだろうと思ったのだ。実際園亞のおかげで相当に助かったのは確かだ。攻めをしのぎやすくなったり、押さえていた奴から解放してくれたり。彼女がいなければ命を失っていた可能性もそれなりにあった。
もちろんさっさと立ち去るべきだという気持ちに変わりはないが、自分にできる恩返しはしておくべきだと思った。とりあえず白蛇≠再起不能なまでに叩きのめすくらいのことはしておくべきだろう。その他の外敵からも、命を懸けて彼女を守る。それが当然の恩返しだ。
そういう閃の誓いに、園亞はなぜか、ぼっ、と顔を赤くした。
「……園亞?」
「え、わーやだ、やだもう、どーしよ、『命で返す』って、あーもうやだ、もーどうしよ、わー」
「……嫌なのか?」
『やだ』と言っているのでわずかに眉を寄せてそう問うと、勢いよく首を振る。
「違うの違うの! 嬉しいんだけどね、なんていうかその、あのねその、なんていうかねその」
「はぁ」
園亞は赤い顔を笑み崩れさせて、秘密の話をするようにそばにより、耳元に囁いた。
「恥ずかしくて……ドキドキしたの」
「………はぁ」
それ以外どう答えようがあっただろう。
園亞は赤い顔で上目遣いに、瞳を潤ませてこちらをじっと見ている。どういう答えを期待してるんだ。恥ずかしくてドキドキって、それにどう反応しろというんだ。さっぱりわからない、女の子ってこういうものなのか? なんでこんなに顔を赤くしてるんだ、ああもうなんだかこっちまで恥ずかしくなってきた。
「で、お前ら、どっか行くとか言ってなかったか? 声かけてきた奴がいたよな」
「あ……しまった! まずい、早く戻らないと。煌、早く入れ」
「へいへい。じゃあ、尻出しな」
「っ」
いつも通りの屈辱に唇を噛みながら言われた通りにしようとして、園亞が興味深げにこちらを見つめているのと視線が合い、閃は固まった。いや違う。違うんだこれは。こうしないと煌が生きていけないから。別に俺が望んだわけじゃないし、だから俺が変態なわけでは全然。
園亞はじーっとこちらを見つめ、ストレートに言った。
「ねぇ、閃くん。なんで煌さん呼ぶ時、お尻出すの?」
「……………っ」
にやぁ、と笑って面白そうにこちらを見る煌を睨みつけ、閃は深くため息をついた。こんなこと説明するのも初めてだし、ものすごく恥ずかしい。
本当にこの子は、いつなにをしでかすかわかんない子だよな。
第一印象は正しかった、と息をつきながら、閃はどう説明するか考えた。