候子は魔獣に呪われる
 アールダメン候子アーヴィンド・クラーク・リズレイ・プリチャードは、将来有望な候子として貴族社会でも有名だった。
 頭脳はわずか十歳で下位古代語の読み書きが完璧にできるほど天才的に優秀。剣技も馬術もそんじょそこらの青年貴族よりはるかに上。信仰心篤く、よく気がついて臣下にも偉ぶるところがない。おまけに容姿は絶世の、がつきそうな美少年――
 文武両道才色兼備、おまけに性格もとってもよろしく、貴族社会の礼儀作法も人の動かし方も完璧。三百六十度どこから見ても、完璧な跡継ぎ。アールダメン候は他の貴族に何度も羨ましがられている。
 ――のは、いいのだが。
 アールダメン候は深々とため息をついた。目の前にいる愛しくも大切な一人息子、アーヴィンドは一歩も退かぬ、という眼差しでこちらを(あくまで真摯に)見つめてきている。
 仕方なく、アールダメン候は口を開いた。
「アーヴィンドよ。何度も申したであろう、そなたのすべきことはよりよき侯爵家の跡継ぎとなるよう努力することだ。それが民を守り、世の正義を守ることに繋がるのだぞ」
 アーヴィンドは、声変わりはしたもののあくまで涼やかな耳に心地よい澄んだ声で言い返す。
「僕も何度も申しましたが、父上、民の心を真に知らぬものがよき為政者となれましょうか。いかに民の心を知ろうと努力しようとも、いまだ僕の手は労働を、額に汗して働くことを知りません。そのような人間に民の真に望む施政を行えるとは思えません」
「お前はファリス神殿で何度も奉仕労働を行っているではないか……」
「神殿での労働はなににも代え難い貴重な経験であったと思います。ですがそれは世俗とは離れた神殿という神の世界でのこと。僕が手に入れたいと願っているのは、自らの糧を自らの力で得る、真っ当な民であるならばみな当然のごとく持っている経験なのです」
「だが、アールダメン候家の人間ともあろう者が――」
 アールダメン候は心の底から苦々しく言葉を吐く。
「冒険者になりたいなどとは!」

 オラン、という国がある。
 アレクラスト大陸の中央部に位置する広大な王国だ。三百年もの歴史を誇るアレクラスト大陸一の大国は、魔術師ギルドの本部があることからもわかるように、歴史的に賢人を多く排出しており、王都オランの街並みは古代王国の都市もかくやと思われるほど文化的で清潔である。
 王国の制度も機能的だ。貴族制を取り、他国と同じく各貴族はおのおの領地からの税収と民政を管理しているが、それらを監視する機関が存在しているため貴族の腐敗は防がれやすい。
 税制、法制、それらの類もおそらくはアレクラストで最も進歩的だ。実用的な技術も最先端。魔術の研究も同じく。まさにオランはアレクラストで、いやおそらくはフォーセリアで最も進んだ国と呼べるだろう。
 アールダメン候家はそんなオランでも有数の名家である。ほとんどオラン創設時からの。二代前に王家から姫を降嫁されているほど。
 領地であるアールダメン地方は交通の要所である上に土壌の関係か農作物が豊かに収穫できる。目端の利く男だった初代当主は何人もの御用商人を雇い入れており、彼らが農作物を管理して盛んに商売をするためアールダメン候家はきわめて富裕である。
 そんなアールダメン候家に侯爵も侯爵夫人も年を取ってから生まれた一粒種、アーヴィンド。それこそ目に入れても痛くないほどの可愛がりようで育てられた彼は、本当になにをやらせても優秀で、頭がよく、その上美しく、侯爵夫婦の自慢の種だった。
 ――それだけですんでいればよかったのに。
 アールダメン候は思わず目を押さえる。間違いの始まりは賢者の学院に入れたことだった。
 どうせなら優秀な師をつけようと、方々に金と影響力を駆使して学院の実質的な最高指導者バレン主席導師(オランの賢者の学院では最高導師の名は永久にマナ・ライのものだ)を師に選び、指導に当たってもらったところ。バレンは「ご子息は天才ですな!」とべた褒めするほどアーヴィンドの才を認め、熱心に指導に当たった。
 それ自体は嬉しいことなのだが、なにも自分は正魔術師の資格まで得させろとは言っていない。侯爵家の人間に必要なのは優秀な魔術師を従えさせる力であり、自分自身が魔術を修めることではないのだ。
 のみならず、それと平行してアーヴィンドはファリス神殿に通い始めた。アールダメン候家はファリス信徒だったからその点ではおかしなことはないものの、修行僧に混じって奉仕活動や修行を行い、神聖魔法まで会得してしまうというのは、明らかにやりすぎだ。
 アールダメン候は何度か息子を諭そうとしたものの、逆にこう説得されてしまった。
「よりよい技術や信仰を身につけることは、その専門家たちをよく知り、動かす役に立つと思います」
 そう言われてしまうと確かにそうなのだ。
 だが、賢者の学院で熱心に学ぶたび、ファリス神殿で熱心に活動するたび、剣術の教師に熱心に稽古をつけられるたび、アールダメン候の中にはむくむくと不安の雲が立ち上っていき――
 そしてとうとう、二週間前のアーヴィンドの十五歳の誕生日、その不安は的中した。アーヴィンドは侯爵家夫妻に誕生日パーティののちこう宣言したのだ。
「僕は、冒険者になります」
 ―――と。
 単なる子供のわがままなら諭しようもある。無理やり閉じ込めてでも反対しただろう。
 だが、アーヴィンドはあくまで真正面から、正々堂々と、論理と情理に訴えながら説得してくるのだ。下手をするとアールダメン候自身説得されそうになってしまう。
 このようなことを言わせるために優秀な師をつけたのではないのに、とアールダメン候は歯噛みした。いっそ凡庸な才の持ち主であったほうがまだましだった。
「僕に今、候子として最も足りないのは実践であると思います。剣も知恵も知識も魔術も信仰も、限界を試されるほどの戦いの中で磨き、人として強く成長すること。父上もあとは実践だ、とおっしゃっていたではありませんか」
「しかし、アールダメン候家の人間が浮民に混じって下賎な仕事に従事するなど!」
「職業に貴賎はないと思います。なにより浮民と父上が呼ばれる者たちが、どのようなことを考えどのようなことを望むのか父上はご存知なのですか? 侯爵家の人間として、知らぬものを知らぬままにしておくことの方がよほど恥ずべきことであると思います」
「危険であろう! アールダメン候家の跡継ぎはお前しかいないのだぞ!」
「僕が死んだ場合は親戚筋から養子をもらってください。むろん、死ぬようなことがないよう全力を振り絞りますが。生きている限り死の危険はどこにでも潜んでいるのです、ならばよりよき生を過ごせるよう努力すべきではないですか?」
「うぐぐぐぐぐぐぐぐ………」
 どの反論も論理的に言い負かされ、アールダメン候は言葉が出てこない。
 しかし、ここで退くわけには、とアールダメン候が怒鳴ろうとした時、アーヴィンドは一礼した。
「父上、今日はこれにて引き下がります。ですが、僕は諦めていません」
「アーヴィンド……」
「侯爵家の人間として生まれた責任から逃げるつもりはありません。ですが――僕は、見てみたいのです。世界を、世間を。そして自らの力を試し、正義を示したいのです。自らの手で」
「………………」
 押し黙るアールダメン候を、アーヴィンドは真摯な瞳で見つめる。
「わがままを言って申し訳ありません。ですが、せめて。せめて三年、いや二年でも一年でもかまいません、僕に、ただ正義と自らの生のために戦う機会をください」
「………………」
「……では、失礼します。父上、お休みなさい」
 非の打ち所のない礼をして、アーヴィンドはアールダメン候の部屋を出て行った。
 その細いが力強く、美しい背中をアールダメン候は苦々しく見送って、ぼそりと呟いた。
「――おるのだろう、月の主=v
 そうアールダメン候が言った瞬間、ふわ、とカーテンが揺れて、くっくっという笑い声が返ってきた。
「いるよ」
「あれが、問題の息子だ」
「大したもんだな、あの子は。本当にあんたの息子か?」
 からかう口調の言葉にアールダメン候は顔をしかめる。こいつが恐ろしいほどに優秀でなければこんな口など利かせておかないものを。
「アーヴィンドは間違いなく、わしの自慢の息子だ。……今は問題を起こしておるがな」
「問題? どこがだよ。あの子の言い分には筋が通ってるだろ? あとはあんたが認めれば丸く収まるんじゃないのか?」
「月の主=I」
 怒鳴ると、相手はまたくっくっと笑い声を返してくる。まったくもって忌々しい。
「――で? 俺への依頼はどのような内容なわけで?」
「……怖い思いをさせてもらいたい。世間には恐ろしい者や怪物たちが山ほどおり、とても危険なのだと知るように。冒険者になりたいなどと間違っても言わせないように」
「ふぅん。そんな風に思わせたらあの子の成長には妨げになると思うがね」
「いくら成長の妨げになろうがあの子を冒険者などにするよりはマシだ!」
 絶叫すると、相手はふん、と鼻を鳴らした。
「ま、いいけどな、あの子はあんたの息子で、俺のじゃない。……それで? 方法は俺にお任せでいいのかい。それともなにか指定が?」
「そなたに任せる。ただし、くれぐれも危険には巻き込むな。安全に、この上なく安全に、それでいてあやつが冒険者になど間違ってもなりたいと思わぬよう怖がらせるのだ」
「そりゃまた面倒な」
「面倒だからこそそなたを呼んだのだ」
「そう言われると返す言葉がないがね。――了解。その仕事請けた。ただし報酬は弾んでもらうぜ。俺の好みじゃない仕事なんでね」
「わかっている」
 アールダメン候はさらさらと混沌の地≠ゥら伝えられた植物を使った紙に金額を書いて、窓の外に放り投げた。紙はすぅっと暗闇の中に形を消す。
「――ま、こんなもんだろ。じゃ、俺は仕事に入るぜ。数日間坊ちゃんが行方不明になっても文句言うなよな」
「……ああ」
「そんじゃ、せいぜい怯えながら待ってるこった」
 その言葉を最後に、窓の外から気配は消えた。アールダメン候は大きく舌打ちをする。
「まったく、金食い虫が……」
 だが、あの者はよろず厄介ごとにつけては他の誰より優秀だ。アールダメン候は母からあの者との連絡方法を受け継いでから、それを何度も思い知らされている。
 今まであの者に仕事を依頼して、裏切られたことはない。今回も自分の依頼を果たしてくれるだろう。
 アールダメン候はしばし、自らの息子の切なる願いに想いを馳せた。
「許せよ、アーヴィンド……そなたがどう言おうと、そなたを冒険者などにするわけにはいかぬのだ」

「坊ちゃま、侯爵さまのおっしゃることももっともですよ。侯爵家の跡取りである坊ちゃまが、冒険者などという下賤の輩と轡を並べるなんて! 考えただけでぞっとします!」
 いつも自分の面倒を見てくれて、おまけに説教もたっぷりとしてくれる乳母のニーナがそう言って痩せた体を震わせた。
 今アーヴィンドは父の部屋から退出し、召使たちに先導されながら自分の部屋に向かっているところである。そしていつものように召使たちに騒がれている。
「でも、アーヴィンドさまが冒険者になられたら、きっと吟遊詩人のサーガに謡われるようなすごい英雄になるんでしょうねぇ。考えただけでうっとりしちゃう」
 ほう、とため息をついたのは自分付きの侍女ミーナだ。働き者のよい娘なのだが、やや夢見がちで吟遊詩人の詩と現実の区別がついていないところがあった。
「なにを言うんだいこの小娘は!」
「ニーナさんだってそう思いません? アーヴィンドさまならきっと剣匠ルーファスやリジャール王、アトンを倒した魔法戦士たちに勝るとも劣らない大英雄になられますよ!」
「そりゃ坊ちゃまはそんな成り上がりなんか問題にしないくらいすばらしい方だけども……」
「ニーナ、ミーナ、僕を買いかぶるのはやめてくれ。僕は少しばかり小器用なだけの、ただの男にすぎないんだから」
 できる限り静かに言って聞かせたが、ニーナもミーナも首を振った。
「なにをおっしゃいます坊ちゃま! 坊ちゃまほど頭がよく、優しく、すばらしい方はこの世におられませんのに!」
「本当ですよアーヴィンドさま! アーヴィンドさまは将来きっとアレクラスト中に名を轟かせる方になられます!」
 いつもながらの自分への傾倒ぶりに、アーヴィンドはふぅ、とため息をついた(その仕草すら様になっているので二人の召使はますますうっとりするのだが、それには気づいていない)。こういう自分に仕える者たちが自分をほとんど崇拝と言ってよいほど褒め称えるのには、正直アーヴィンドはうんざりしていた。
 自分はまだまだ未熟者だ。剣も魔術も信仰も知識も、どれひとつとして師匠にかなうものはない。
 その分際で、と人は言うかもしれない。アーヴィンドも自分がわがままなのはよく承知している。
 けれど、それでも。自分の力で、自分だけの力で生きてみたい。自分の力を証明し、自らに誇りを持てるようになりたいのだ。
 それが、あの時からの、あの人と出会った時からの、あの人と共に戦った時からの変わらない自分の望みなのだから。
 部屋に着き、召使たちと別れて一人着替えベッドに入る。昔はいちいち着替えさせてもらっていたものだが(侯爵家の人間なら人を使って当然だと言われてそういうものかと思っていた)、今は身の回りのことはたいてい自分でやる。
 父は侯爵家の人間がすることではないとたしなめるし、召使たちは私たちの仕事がなくなってしまいますと嘆くが、自分の面倒も自分で見れないなんて、そんな人生は嫌だと思うのだ。
「……明日は、少しでも話し合いが進めばよいのだけれど」
 ふぅ、とラムリアース産の上等な掛け布団を被りながらため息をつく――
 ――と。
 部屋のカーテンが、大きく揺れたのが見えた。
 アーヴィンドは半ば反射的に、さっと身を起こして身構える。アールダメン候子の部屋なのだから、カーテンも当然最高級品を使っている。たっぷりとした重みのあるそのカーテンは、少し風が吹いた程度ではそよぎもしないのだ。
 そして今、風は吹いていなかった。
「――誰かいるのか」
 相手を刺激しないよう、そろそろとベッドから降りつつアーヴィンドは誰何する。人影はいないように思えたが、アーヴィンドの感覚は、間違いなくそこに人がいると告げていた。
 返ってきたのは、楽しげなくすくす笑い。
「いやはや、まったく優秀だな。十年に一人の逸材とお歴々がこぞってお前を褒めちぎるのは、間違いじゃないってわけか」
「―――!」
 アーヴィンドは即座に身を翻して駆け出した。足の速さには自信がある、よしんば向こうが自分より速かったとしてもいきなり走り出せば不意をつける。
 向こうはおそらく――相当な腕の持ち主だ。
 自分の情報を下調べしてあること、声がしたにも関わらず姿が見えないこと、さっきまで確かに感じていた気配が声がかかるやすぅっと消えていったことから、アーヴィンドは即座にそう看破して自分では勝てないと理解したのだ。
 そして即座に助けを呼ぶべく軽く息を吸い込み――
「空気よ変じよ、眠りの雲に=v
 それより早く変じた周囲の空気に、ぱったりと倒れ、意識を失った。

「ん、んん……」
 アーヴィンドはガンガンする頭を押さえつつ、ゆっくりと顔を上げた。何度も頭を振って思考をはっきりさせようと試みつつ、周囲の様子を確認する。
 さっき、自分は、自分の部屋に侵入してきた何者かに眠らされた。
 あれは自分も知っている呪文、眠りの雲≠セ。初級の呪文だが、大きく省略が施されていたことを考えると相当な腕の魔術師だと見当がついた。
 腕も足も動く。縛られてはいない。眠りの雲の持続時間はせいぜいが三分、それなのに拘束もされず体に痛みもなく床に転がされているということは――
 予想通り、周囲は見たこともない部屋だった。
 アーヴィンドはまず、たっぷり一分近くかけて深呼吸を繰り返した。恐慌状態に陥ろうとする心を必死に冷静に冷静にと言い聞かせて制御し、思考を明晰に働かせようとする。
 そして周囲の様子をきちんと観察した。そこは古ぼけた部屋だった。古ぼけた、というよりは風化した、と言ったほうがいいか。
 どうやら寝室のようなのだが、家具も壁も床も、すべてが数百年の時を経ているかのように古ぼけている。様式から見ても、古代王国時代の遺跡ではないかと思った。埃の積もり具合から見て、人の出入りはあるようだが。
 出入り口を確認する。窓はなし、扉は大きなのが目の前にひとつだけ。だが明かり≠フ呪文が付与してあるのだろう、視界は明るい。
 鍵を確認する。鍵はかかっていない。どうぞここから逃げ出してくださいと言わんばかりだ。
 アーヴィンドはきっかり一分考えた。あの男が近くにいる可能性、これが罠である可能性、男の思考回路、そういったものを必死に。
 そして、やはり最初からわかってはいた結論に達した。
 ――罠であろうがなんであろうが、それに乗る以外自分が自力で帰還できる道はない。
 目的が金――自分の身代金ならば自分は最終的には殺される可能性が高い。なんらかの理由で自分自身が必要であるならばおそらくは不本意な状況に追い込まれることだろう。魔術の実験材料や、儀式の生贄にされる危険性もある。
 それが嫌なら、自らの意思と、力で、この苦境を乗り切るしかない。
 アーヴィンドは小さく息を吸い込んで、指でファリスの印を切った。心から自然に祈りの言葉が生まれ出る。
「ファリスよ。御身の力をあなたのしもべにお与えください。私の心と行いが御心にかなうよう、曲がることのないよう見守りください。私がこれより立ち向かう闇に、御身の御光をお届けください」
 祈りの言葉を唱えると神殿にいるかのように自然に心が落ち着いてくるのを感じる。大丈夫、自分は一人ではない。神が、ファリスが自分を見守っていてくださる。
 一度ゆっくりと深呼吸をしてから、アーヴィンドは扉を開けた。

「祈りの言葉か。まったく司祭ってやつはどいつもこいつも熱心というかなんというか」
 くっく、と笑いながらフェイクは水晶球を撫でた。これは遠見の水晶球の特殊版で、この遺跡の中ならば時間制限なしでどこでも自在に観察することができる。
 のみならず遺跡内の仕掛け≠烽アの水晶球で制御することができた。アーヴィンドの行動を見守るにはこれ以上の場所はない。
「さて、お坊ちゃま……あんたの覚悟がどの程度のもんか、試させてもらうとしようかね」
 じっと水晶球の中を見つめ、ふいにフェイクは身を震わせた。背筋に猛烈な悪寒が走ったのだ。
「うーっ、風邪引いたかな。年は取りたくないねぇ」

 扉の向こうは通路になっていた。ところどころひび割れた石造りの通路。煉瓦ではなく石そのものを塗りこめたように長い通路が左方向に続いている。右は行き止まりだ。
 アーヴィンドは警戒しつつ、左に向かい歩を進めた。右に隠し扉がある可能性はあったが、盗賊の技の心得のない自分が探したところで見つかるとは思えない。
 その通路はさらに左右に分かれている。アーヴィンドはひざまずき、足跡が残っていないか調べた。野伏の技の心得はないが、積もった埃の上に足跡があるかどうかくらいはわかる。
 だがすぐに顔をしかめた。どちらにも足跡が残っている。やはりこの遺跡には人がよく出入りしているようだった。
 とりあえず、さっきの部屋とは逆方向に向かう右へと進んだ。忍び足になるべきか考えてやめる。心得のない人間がやったところであの男には通じないだろう、ならばそんなことに神経を集中させて他への注意がおろそかになるほうが問題だ。
 通路には二つ扉があった。扉を調べてみる。どちらにも開いた形跡はあるように思えた。どちらにも危険はある。
 が、やるしかない。
 すうはあ、と数度深呼吸し、ぐいっと前にある扉を開けた。
 そしてすぐさま閉めた。
「キィ! キィ!」
 扉の向こうで相手が叫びながら扉をがんがん叩いている。アーヴィンドの心臓も負けずにどんどん鳴っていた。
 ゴブリンだ――間違いない。本で読んだ通りの醜く邪悪を漂わせる妖魔族。それらが三匹、この部屋の中にいた。
 どうしよう、どうすれば。武器もない鎧もない、まともに戦って勝てるわけがない。となれば逃げるしかない、だがこの扉には鍵がない、逃げればゴブリンたちは追ってくる、どうする?
 扉を押す圧力はどんどん強くなる。このままでは遠からず押し切られる。三対一だ、無理もない。
「………っ!」
 アーヴィンドは思いきり扉を押しやり、駆け出した。隣の扉に大急ぎで駆け込み、扉を閉める。ギャアギャア、とゴブリンたちは喚きながらやってきて、どんどんと扉を叩いた。
 素早く部屋の中を観察する。だが、部屋は広いもののどこかに続く扉のようなものはなかった。中にあるのはいくつもの怪しげな壷や薬草、そして魔法陣――
 魔法陣?
「―――!」
 魔法陣の中でなにかが起き上がろうとしていた。黒い影。そんな表現では足りないほど、暗く黒くおぞましいものが。
 長い爪と牙を持つ二足歩行の黒い蛇。そう表現するのがもっとも似つかわしいだろう。だがのみならずその蛇は鱗から絶えず腐汁を垂れ流し、鼻が曲がるような匂いの黒い煙を吐いていた。そしてそのおぞましい体を震わせながらずぞぞぞっと大きく伸ばし、くぱぁ、と大きく口を開け、腐れた肉が生々しく息づいている口内からずろぉ、と舌をアーヴィンドへ向け――
「ファリスよ……!」
 思わず目を閉じかけ――アーヴィンドは首を振った。駄目だ、そんなことを自分に許しては駄目だ。最後まで、息の根が止まるまで諦めるな。あの人はそう、自分に言ってくれたではないか。神に救いを求めるのは、やれることをすべてやってからだと。
 自分はまだ、やれることを残している。
 ファリスへの祈りの言葉を唱えながら、アーヴィンドはきっと黒い蛇を睨んだ。自分はまだ、頭も体も動く。
 アーヴィンドは黒い蛇を睨みつけたまま素早く扉を開いた。わっとゴブリンたちが部屋の中に入ってくる。
 ゴブリンたちと黒い蛇の目が合う。おそらくゴブリンたちは恐慌状態に陥るはず。この部屋に遠慮なく入ってきたことからして、ゴブリンたちはこの蛇の存在を知らないはずだ。その混乱の隙を衝いて部屋から脱出する!
 そのつもりで走り出しかけて、アーヴィンドは愕然となった。
 体が、動かない。
 黒い蛇の特殊な力なのか、走り出そうとする直前ざわりと体に悪寒が走って体が動かなくなったのだ。それこそ魔法にかけられたように。
 黒い蛇が舌を伸ばしてくる。は、は、とひどく臭い、腐った匂いのする息がアーヴィンドの鼻先に吐きかけられた。ゴブリンたちが周りを取り囲み、囃したてる。黒い蛇の爪が伸び、自分の顎にかかる――
 混乱と恐怖で硬直していたアーヴィンドは、その瞬間我に返った。
 おかしい。なにかがおかしい。ゴブリンたちはどう考えてもこの魔物のことは知らなかったとしか思えない。もちろんすでに誼を通じていた可能性もあるが、どう見ても普通でないこの魔物に恐れる様子が微塵もないというのは不自然だ。
 自分の知識などたかが知れたものだが、それにしてもこの魔物はおかしい。リザードマンのゾンビ? いや、ゾンビが体を自在に大きくしたり小さくしたりできるわけがない。もしや、これは。もしかすると。
 爪を振り上げる黒い蛇に、アーヴィンドは叫んだ。
「いくら脅かしても無駄だ、お前たちは存在しない! すべて幻だ!」
 その瞬間、ゴブリンと黒い蛇は消えた。

 フェイクはくっくと笑いながらぱちぱちと手を打った。
「やるやる。まだ冒険に出てもいないガキがよく読んだな。だてにバレンに教えを受けたわけじゃないってことか」
 フェイクはするりと水晶球を撫でる。
「ここまでは合格――さて、そこから先は読めるかな?」

 消え去った幻影の前で、アーヴィンドは荒い息をついた。もしやと思って言ったことが当たっていたとは。間違った論理展開ではなかったとは思うが、自分の思いもつかない状況というのがこの世にはいくらでもあるということくらい自分だって知っているのだ。
 それからたっぷり二分は経ってから、体が自由に動くようになった。これは魔法の縄≠フ呪文だろうとアーヴィンドは見当をつける。導師級の魔術を修めた者にしか使えない術だ。自分を連れてきたあの男がかけたのだろうか?
 部屋を調べながら考える。それにしてもおかしい。あの男は、いったいなんのために自分をここに連れてきたのだろう? 少なくともあの男は転移≠ェ使えるはずだ。犯罪を犯して金を得る手段など誘拐のような成功率の低い犯罪を選ばずともいくらでもあるはず。
 ではなぜ? なにかの特殊な事情で自分が必要になったのだろうか?
 そう考えてもおかしい。そういう場合なら自分はなんとしても逃がすわけにはならない存在のはず。縛り上げもせず放っておくわけがない。
 なぜ、あの男は自分をここに連れてきたのか?
 アーヴィンドは立ち上がって部屋を出た。少なくとも自分にはこの部屋にはなにも発見できなかった。魔法陣や壷の類もすべて幻影だったのだ。残るはさっきの曲がり角で左に進む道のみ。
 道を戻りながら思考を続ける。もちろん自分にも思いもつかない理由で自分に今の状況を与えているということも考えられる。だがそうだと決め付けるのは思考の放棄だ。もし自分にも理解できる理由だったらと仮定して考えてみたら? 高導師級の魔術師が、アールダメン候子を誘拐し、かつ古代遺跡で放置せねばならない理由とはなんだろう?
 一応さっきゴブリンの幻影が出てきた部屋も調べてみる。よくぞここまで、と思うほど隅々までなにもない部屋だった。そこから出て左方向に進むと、最初の部屋に戻る曲がり角、それから最初の部屋程度の幅の間があってから扉が出てきた。思考を切り替え、なにが出てくるか注意しつつ開ける。といってもこの先以外に道がないのだからなんとかここから進むしかないのだが。
 そこは寝室のように思えた。古代王国風のベッド周りの家具。奥には天蓋つきの大きなベッドが鎮座している。扉はない。
 ではここには出口がないのか? 一瞬絶望し、それから首を振った。どこかに移送の扉≠ノ類するものがあるかもしれない。もう一度探しなおしてみよう。とりあえずこの部屋からだ、と気合を入れて、部屋の中を見渡す。
 と、「うぅん……」と声が聞こえた。
「!?」
 慌てて周囲を見回す。今のは誰の声だ? 年若い少女の声に聞こえた。
 ベッドに誰か寝ているのに気付く。警戒しつつ近づき――息を呑んだ。
 それは今まで見たこともないような少女だった。年齢は自分と同程度だろうが、まだ季節は春だというのに、服装は肌を惜しげもなく丸出しにした半袖半ズボン。胸にはわずかながら膨らみが見えた。焦げ茶の髪、琥珀色の肌。長い睫毛を伏せ、すうすうと寝息を立てている。
 しばし呼吸も忘れてその少女に見入り、やがてはっとした。なにを見ているのだろう。別におかしなところなどなにもない、ごく普通の少女ではないか。アーヴィンドは頭を振りながら少女を揺り動かした。
「起きて。起きてください」
「うぅー」
 少女は唸り声を上げる。アーヴィンドは必死に少女を揺り動かし続けた。起こさなくては、となぜか強く思い込んでいた。起こして、彼女の瞳を見なくてはと。
「起きてください。ほら、起きて」
「うぅー……」
 彼女はしばし唸り、やがてかっと目を見開いた。
 アーヴィンドの背筋がぞくりと震える。黄金、いや違う、最高級のインペリアルトパーズにも勝る透明な輝き――
 その瞳がきらめき、柔らかそうな唇が動いて言葉を発した。
「サトイモっ!」
「………は?」
 とアーヴィンドが呟くと同時にぶおんっと少女の腕が動いた。首を挟まれ、ベッドに引きずり込まれる。反射的に抵抗したが引っ張る力の方が強かった。ぎゅっと抱きしめられベッドに押し倒される。
「ちょ、君……」
「ナスの芋煮とタコの煮浸しぃ……」
 少女はむにゅむにゅ言いながらぐいっと自分を強い力で抱き寄せた。寝ぼけてる、とカッとなって振りほどこうとするが、それより早く。
 ちゅっ、と唇にキスされた。
「………!」
「猫のから揚げはおいしくないのにぃ……」
 目の前で少女はひどく愛しげに微笑み、目を閉じた。
 アーヴィンドは顔を真っ赤にして呆然とし、それから生まれて初めて怒りに我を忘れて怒鳴った。
「起きろーっ!」
「わひゃ!?」

 フェイクは水晶球をのぞきこみつつ、思わず頭に手を当てた。
「本気で寝てやがったな、あいつ」

 少女はベッドの上で、ぽりぽりと頭をかきながら頭を下げた。
「そーだったんだ、ごめんね。俺、一度寝ちゃうと起きるまで目が覚めないからさー」
「……それは誰でもそうだと思うよ」
「あ、それもそっかー」
 あはは、とあっけらかんと笑う少女を、アーヴィンドは恨めしげに見やった。別に女の子ではないのだからいつまでも根に持つ気はないが。なにもそんなにあっけらかんと笑わなくたって。別に乙女のように夢を見ていたつもりはないけれど。
 ……はじめてだったのに。
 じっとりと少女を睨むアーヴィンドの顔を、少女は珍しげにのぞきこんだ。
「ねぇねぇ、なんで怒ってるの?」
「……怒ってないよ」
「怒ってるじゃん」
「怒ってない!」
「あ、もしかしてちゃんとしなかったから?」
「え? なにを」
 後を続けるより早く、少女はぐいっとアーヴィンドの頭を引き寄せ、口付けた。アーヴィンドの頭が真っ白になる。この子はどうしてこんなに力が強いんだろうなぁ、と真っ白な頭のどこかがぼんやりと考えた。
 ぬるっとしたものが口の中に入ってくる。それがアーヴィンドの舌をつつき、絡め、軟口蓋と硬口蓋を撫で、歯の裏をくすぐり始めると、アーヴィンドの体は熱くなった。腰の底が燃えるように熱を持ち、背筋が痺れるように震え、自然に少女の体に腕が回る。
 そしてそこではっと我に返って少女を全力で突き飛ばした。
 わぁ、などと間抜けな声を上げつつひっくり返る少女に、アーヴィンドは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「なに考えてるんだ君はっ、いきなり……なにするんだっ!」
「えー、よくなかった? 俺の舌技、みんな褒めてくれたんだけどなー」
「な……」
 一瞬呆然として、それから再度怒鳴る。
「そういう問題じゃないっ!」
「じゃあどういう問題?」
 きょん、と丸い目を転がせて首を傾げる少女。
「どういうもこういうも、会ったばかりの人にき、き、キスなんかしたらいけないって考えなくてもわかるだろうっ!」
「えー、なんで? 会っていきなりこういうことしてくる人、村にはいっぱいいるよ?」
「え……」
「俺の家呪い師だもん。穢れ≠払うのが仕事だし。男の人たちに穢れ≠吐き出させるのは欠かせない仕事だって、婆ちゃん言ってたよ?」
 アーヴィンドは目を見開きながら思い出していた。本で読んだことがある、蛮族の中には、呪術師に穢れ≠ニ呼ばれるもの――性欲や嗜虐欲をはじめとする汚い欲望を向けることを慣わしとする部族があるという。
「そんな……そんなこと、許されることじゃない!」
「なにが?」
 少女はきょとんと首を傾げる。
「だって、そんな、そんなこと……君だって嫌だろう!?」
「んー、別にそんなには。そりゃ殴られると痛いし体臭い人とか下手な人にやられたら嫌だけどさ、上手い人だったら気持ちいいし」
「な……」
「それに、それが掟なんだもん。しょーがないだろ?」
 あっけらかんと言う少女には、憤りや憎しみを耐え忍んでいるような様子は微塵も見受けられない。自分の境遇を当然のように受け容れている、諦めている、変えようとは考えていない者の顔だ。
 嫌だ、と思った。
 この少女にはそんな顔は似合わない。させたくない。こんな、昔の自分みたいな顔させておくべきじゃない。
 アーヴィンドはぎゅっと少女の腕をつかんで言っていた。
「駄目だ、そんなの」
「え?」
「そんな風にしょうがないなんて言っちゃ駄目だ。しょうがないで済ませていいことなんてこの世にはないんだ。君が少しでも嫌だと思うなら、変えたいと思うなら、それを正していかなくちゃならないんだ」
「だって本当にしょーが……」
「君にとってはしょうがないことでも、僕は嫌なんだ!」
 叫んでから、ぼっと顔が赤くなる。今の言い方ではまるで、アーヴィンド自身の個人的な感情で嫌だと言っているようではないか。
「いや、それは、もちろん最優先されるべきは君の希望だし、法と秩序を守るのがファリスの教えではあるけれど、悪法は正すべきであるとファリスさまもおっしゃっているし、誰かを犠牲にすることで秩序を得るなんて許すべきではないと思うし、不特定多数との性行為は精神的のみならず肉体的にも感心できることではないし……」
 恥ずかしくて目を逸らしつつも、必死に言うアーヴィンドの顔を少女はのぞきこむ。ますます顔が熱くなってそっぽを向いた。回り込まれる。逆方向を向く。回り込まれる。さらに逆方向を向く。
 自分の真っ赤な顔を興味深げな表情で見つめる少女に、たまらず泣きそうな声でアーヴィンドは言った。こんな恥ずかしい思いをしたのは初めてだ。
「……あんまり見ないでよ」
「…………」
 少女はそう言ったアーヴィンドの顔をじーっと見つめ、それからにこっと笑った。寝ぼけていた時と同じように愛しげに、けれどそれよりはるかに優しく活き活きと。
「ありがと。嬉しい。なんでかよくわかんないけど」
「…………」
 顔を押さえる。なんでこの子はこんな顔でこんな風に礼が言えるのだろう。
「俺、なんかお前のこと気に入っちゃったな。名前、なんていうの?」
「……アーヴィンド・クラーク・リズレイ・プリチャード……」
「なっがい名前だなー。なぁなぁ、アーヴって呼んでいい?」
「いい、けど……」
「よし! 俺の名前は、ヴィオ! ヴィオっていうんだ、よろしくな、アーヴ!」
 少女――ヴィオは満面の笑みで手を差し出す。アーヴィンドもまだ赤い顔でその手を握り返し、ぼんやりと思っていた。
 あの人が呼んでくれたのと、同じあだ名だ。

 フェイクは水晶球を観察しつつ頭をかいた。
「なんか、妙なことになってきてやがんな……」

「えっと、ヴィオ。君はどうしてこんなところにいるの?」
「え? えっと……えーっと……あ、そーだそーだ、俺、誘拐されたんだ!」
「え!?」
 ヴィオはぽんっと手を打って、笑顔で続ける。
「あのな、俺は暗黒神の生贄に捧げられるんだよ。そんで、アーヴもそーなんだって。だから、頑張って逃げ出さないと殺されちゃうぞってフェイクが」
「……フェイクって誰?」
「え? フェイクはフェイクだよ」
「いや、そうじゃなくて……どういう人なの?」
「えっとね、強い人! そんで優しくてカッコいいの」
「そういうことでもなくて……ヴィオとどういう関係なの?」
「え? どーいう関係って……どーいう関係だろ? なんか俺が五歳ぐらいの時からよく村にやってきてんだけど、えっと……なんでかは、言えない」
「……聞いちゃいけないことだった?」
 ヴィオは困ったような顔で首を傾げた。
「そうじゃなくて、言えないんだ。言えないようになってるの」
「………?」
「えっとー、フェイクに会ったら言ってくれるよ。とにかく俺たちは暗黒神の生贄にされたくなかったら逃げ出さなくちゃいけないんだよ」
「…………」
 アーヴィンドはいろいろと聞きたいことはあったが、とりあえず一番優先すべきことを聞いた。
「脱出の方法、知ってるの?」
「うん。ここに来る時フェイクが教えてくれたんだ。えっとね、こっち」
 ヴィオはアーヴィンドを引っ張ってベッドの脇に立った。サイドテーブルをずりずりと動かすと、人が一人ようやく立てるくらいの小さな魔法陣が現れる。
「ここに立ってね、きーわーどを唱えると出入り口に繋がってるところに転移するんだって」
「………。フェイクって人は、他になにか言ってた?」
「え? んっと、別に。あ、アーヴのこと助けるかどうかはお前が好きに決めろって言ってた。あとね、助かりたいんなら知恵絞って考えろよ、って」
「……あとふたつ。フェイクっていう人は、どんな技を持ってる?」
「技って?」
「魔術を上手に使えたりしないかな?」
「まじゅつってなに?」
 アーヴィンドは一瞬ぽかんと口を開けたが、いやいや僻地の蛮族だったらそういうものなのかも、と思い直して言い方を変えた。
「呪文を唱えて一瞬で遠くの場所へ行ったり、人を眠らせたり空を飛んだりできないかな?」
「あ、できるよ! 俺も村からここに来る時それで来たもん」
「最後に。ヴィオ、誘拐ってどういう意味か知ってる?」
「知ってるよ! 人が人をなにかするために連れてくることだろ? フェイクが教えてくれたから知ってる!」
「…………」
 アーヴィンドは小さく息を吸い込み、それからうなずいた。
「わかった。じゃあ、行こうか」

 フェイクは苦笑して肩をすくめた。
「こりゃ、読まれたな。本気であのおっさんの血引いてんのか疑わしくなるね、まったく」
 それから真剣な顔になって水晶球を撫でる。
「だが、ここからが本番だ。俺の試験は学院ほど優しくないぜ、お坊ちゃま」

 二人同時に転移すると、そこは細長い通路の端っこだった。三十mほど先に扉がある。二人はそちらへ向かい歩いた。
「ヴィオ。聞きたいんだけれど、君はなにか戦いに役立つような技術を持っている?」
「へ?」
「魔法が使えるとか、戦士や盗賊や野伏の訓練を積んでいるとか」
「あー、そーいうことかぁ。えっとね、ちょっとだけど精霊に力貸してもらえるよ。あと、村の子供だから戦士と野伏の訓練もしてる」
「そうか、君は精霊使いなんだね。……光の精霊≠フ呪文は使える?」
「うぅん、だめー。まだ難しくって呼び出せないんだ。あ、でも炎の矢≠フ呪文は使えるよ」
「そうか……」
 アーヴィンドはため息をつく。つまりこの状況では使える呪文はほとんどない、ということになる。
「気をつけてね。なにかあったらいつでも逃げ出せる準備をして。僕もできるだけ君を守るけれど、武器も鎧もなしでは長くもたないだろうから」
「えー、俺だってアーヴ守るよ。お互いを守りあった方が生き延びる確率高くなるってフェイクも言ってたし」
「……それは、そうだろうけど」
 君は女性なんだからできるだけ傷を作るべきじゃない、と言おうかどうか迷って、結局やめた。自分のことを『俺』などと言っているし、男たちの性欲の対象にされてきたという事実もあるし、ヴィオは女扱いされるのは嫌なのかもしれない。
 できるだけ傷つけないようにこっそり気を遣えばいいんだ、と思いつつ、扉の前に立つ。
「開けるよ。いい?」
「うん」
 すう、と息を吸いつつぐいっと扉を押し開ける。中は五m四方程度の大きさの部屋だった。向かい側の壁には扉。
 中をよく見渡してみる。と、部屋の中央に木の枝が一本転がっているのが見えた。アーヴィンドは即座に扉を閉める。
「……ヴィオ」
「なに?」
「中に入ったらきっと部屋の中央にあった木片から怪物ができると思うんだ」
「そうなの?」
 首を傾げるヴィオ。アーヴィンドは魔術の名も知らなかった少女にできるだけわかりやすいように、と説明する。
「うん。魔術……さっきの話のフェイクさんのような人の使う術で、そういうことができるんだ。この古代遺跡の仕掛けだと思うけど。もしかしたら幻影かもしれないけど、それにしては木の枝をあんな無造作に置いておくのが解せないし。たぶん本当にオーク……怪物が現れるんだと思う」
「うんうん」
 ヴィオは真剣な顔で聞いている。アーヴィンドは説明を続けた。
「だからヴィオにはオークの横を走り抜けて、扉を開けてもらってほしいんだ。その間のオークの攻撃は、僕が食い止める。だからできるだけ急いで扉を開けて扉の向こうに飛び込んで、僕が後から同じように飛び込んだら扉を閉めてほしい」
「うん」
「……それと、こういうことは考えたくないけど。もし扉に鍵がかかっていたら、僕が呪文で開けるから」
「その間の時間は俺が稼げばいいんだなっ、わかった」
「え……」
「だいじょーぶ、任せとけって。俺、すばしっこさと頑丈さじゃ村でも一番だもん!」
 にっ、と笑うその笑顔。活き活きとして、元気で、自分も当然のように傷つく可能性を甘受している顔だ。
 アーヴィンドはその顔に一瞬見惚れ、それからぷっと吹き出した。こんな少女、見たことがない。こんな子を他の女性と同じように守ろうだなんて傲慢だ。
 そう、こういうのを、共に冒険する仲間というのだろう?
「うん。頼んだよ、攻撃はしなくていいから、防御に専念して」
「わかった!」
 アーヴィンドは扉に手をかけ、勢いよく押し開けた。

 に、とフェイクは口の端を吊り上げる。
「よくできました」

 鍵はかかっていなかった。オークの攻撃をかわしきり、無事二人とも扉の向こうに飛び込み扉を閉める。
 思わず顔を見合わせて、息をつき、それからへらりと笑んでしまった。力を合わせて、ひとつめの障害を乗り越えたのだ。
「あ、この扉鍵かかんないよな。どうしよう。あの怪物、扉開けて追ってこないかな?」
「大丈夫、オークは誰かを攻撃するよう指定するか、入ってきた人間を攻撃するようにしか動かせないから。相手を追いかけるようなことはできないんだ」
「へー、すごーい、よく知ってるなー」
「あは、だってオークは魔術で創る人形だもの。魔術師なら誰でも知ってるよ。僕だって一応、魔術師の端くれだからね」
「へー、すごーい、魔術師なんだ、すごーい」
 何度もこくこくうなずかれて感心され、アーヴィンドは照れた。別に褒められるのが初めてというわけではないが(いやむしろ賞賛の言葉は飽きるほど浴びているが)、こういう素直な感嘆をヴィオから向けられるのはひどく照れくさい。
「行こうか。まだ障害は残ってるみたいだしね」
「うん」
 二人並んで通路を進む。先ほどと同じように、長い通路の先に扉があった。
「開けるよ」
「うん」
 ばっと扉を開ける。先ほどと同じ五m四方の部屋。中にはなにもないように見えた。
「……なんにもないよな?」
「なにか罠があるのかもしれない……慎重に進もう」
「わかった」
 二人揃って中に入る。
「アーヴ」
「なに?」
 アーヴィンドは振り向いて、仰天した。ヴィオが短剣を振りかざしている!
「っ!」
 辛うじて身をかわし、アーヴィンドは叫ぶ。すっかり気が動転していた。
「ヴィオ! なにをするんだ!」
「気がつかなかったのかい? 俺は本当はお前を殺す機会をずっとうかがってたんだよ」
「なにを、馬鹿な」
「馬鹿じゃないさ。俺はお前をさらってきた奴の仲間なんだよ。お前を殺して暗黒神の祭壇に捧げてやる!」
 ヴィオは短剣を振り回す。アーヴィンドはほとんど恐慌状態に陥りながら部屋の中を逃げ回った。
 馬鹿な、そんな馬鹿な、なんで? ヴィオがそんなことするはずがない。だってヴィオは、そりゃ会って間もないけれど、自分の言葉に笑ってくれたじゃないか。自分をアーヴと呼んでくれたじゃないか。
 なのに突然こんなことを――
 アーヴィンドは立ち止まった。そう、突然こんなことを言い出すなんて、理屈に合わない。
 ヴィオは、いやそう見えるものはにやにや笑いながら自分に近寄ってくる。
「へっへっへ、観念したかい?」
 アーヴィンドはそれを冷たい視線で一瞥してから、無視してすたすたと部屋の向こう側の扉に近寄り、開けた。
 とたん、そのヴィオは消える。予想通りだ、と思いながらアーヴィンドは入り口のところで目を丸くしているヴィオに声をかけた。
「ヴィオ」
「え? アーヴ? え? なんで、さっきまで俺の目の前で――」
「それは幻だったんだよ。この部屋に仕掛けられた罠だと思う。仲間が自分を裏切るような幻影を見せられたんだよ」
「…………」
 ヴィオはしばし考えて、顔を赤くして唇を尖らせ怒鳴った。
「趣味、悪い!」
「そうだね――ほら、行こう。まだ部屋は残っているみたいだ」

 フェイクは苦笑いした。
「趣味が悪いか。確かにな」
 そして真剣な顔になる。
「だが、お見事」

「開けるよ」
「うん」
 扉を開けると、そこはさっきまでの倍以上広い十m四方程度の部屋だった。そして、そこには一人の男が立っている。三十前後に見える人間の男だ。
「……あなたが、フェイクさんですか?」
 軽く息を吸い込んで訊ねると、男が答えるより先にヴィオが首を振った。
「違うよ、フェイクはハーフエルフだもん。顔も全然違うし」
「え?」
 驚いてヴィオとその男を見比べる。
「……では、あなたはどなたなんですか?」

 フェイクは眉をひそめた。
「……誰だ、あいつ?」

 その男は(顔立ちが特に整っているわけではないが、目が異常なまでに炯炯と光っているのが印象的な男だった)ヴィオを見て微笑んだ。
「久しぶりだね、ヴィオ」
「……どっかで会ったことあったっけ?」
「君がまだ生まれるかどうかという頃に」
「へ? じゃあわかるわけないじゃん」
「だが、君は覚えているはずだ。私の存在を、魂と肉体が」
「…………」
 ヴィオは顔をしかめた。なにが苦いものを噛んでいるような顔で、男を睨む。
「……そうかも、しんない。なんか、よくわかんないけど、懐かしい感じがする」
「ヴィオ……?」
「君が十五になったことは非常に喜ばしい。君が生まれてから十五年経ったということは。言祝ぐべきことだ」
「え……なんで?」
「私に新たな世界が開けるからさ」
 男はすっと、滑るようにこちらに近づいてきた。アーヴィンドは完全に不意を衝かれ反応することができなかった。いや違う、そんな問題じゃない。間が絶妙すぎて、反応できないのだ。
「君と、もう一人の君、アーヴィンド・クラーク・リズレイ・プリチャードに祝福を与えよう。挑む者よ、我が神は君たちを愛する!」

 フェイクは大急ぎで呪文を唱えていた。
 ―――まさか、あいつが!?

「待てぇっ!」
 叫ぶ声が聞こえた、と思うより早く男はアーヴィンドに触れていた。
 電流のようなものがアーヴィンドの体を走り抜ける。アーヴィンドは反射的に男の手を振り払った。逆らわず男は満面の笑みを浮かべ、アーヴィンドの顔をのぞきこむ。
「おめでとう、アーヴィンド。我が神は君に祝福を与えてくださった。冒険を志す君にさらなる試練を、さらなる喜びを! 私は君を愛している、そうとも心から!」
「あの、なにを……」
「アブガヒードっ!」
 叫ぶ声の方を向く。さっきまで誰もいなかったその場所には、一人のすらりとした、苦みばしった渋みのあるハーフエルフの男性が立っている。
「あ、フェイク」
「やぁフェイク、早かったね」
 ヴィオが声をかけ、男も微笑みながら男の方を向く。だがハーフエルフの男――フェイクは殺気をこめた目で男を睨み、低く言う。
「アブガヒード……てめぇ、アーヴィンドに呪いをかけやがったな?」
「え……」
「聞く必要のあることかな?」
 男――アブガヒードという名なのだろう、たぶん――は微笑みを崩さない。さっき我が神と言っていた、まさか、彼は暗黒神の司祭だというのか?
 フェイクは憎憎しげに吐き捨てる。
「確かにねぇな。どんな呪いをかけやがった?」
「君に言うべきことでもないだろう?」
「……! また言うに言えねぇ姿を見て楽しむつもりか!」
「なに、これは私の趣味の問題さ。こだわりだね。まぁ、彼の場合は君と違ってすぐに呪いの効果はわかるだろうよ。そういう呪いだ」
「てめぇ……アーヴィンドに目をつけていやがったのか? それとも俺がアーヴィンドの父親の依頼を受けたからか?」
「最初から彼に目をつけていたよ。候子でありながら冒険に身を投じようとするその心根は、祝福するにふさわしいものだと思ったのでね。まぁアーヴィンドを知ったのは君がアールダメン候と親しくしていたのがきっかけだが。ヴィオを連れてきてくれたのは嬉しい誤算というやつかな」
 どんどん入ってくる情報にアーヴィンドの頭は高速で回転する。アブガヒードはフェイクと旧知。自分に目をつけていた。やはりこの一件はフェイクに父が依頼したことだったのか? いやそれよりも。
「あなたの目的はいったい、なんなのですか?」
 訊ねると、アブガヒードは嬉しげに笑った。
「その胆力。冒険を志す者はそうでなくてはいけないな、アーヴィンドよ。私の目的は単純さ、我が愛するものたちに幸福を。冒険という狂気にとり憑かれた者たちに幸福を! それが私が生きる喜びであるがゆえに!」
 アーヴィンドははっとした。
「あなたは、名もなき狂気の神の暗黒司祭……?」
 アブガヒードはにこり、と笑う。
「いいや――魔獣さ」
 とたん、アブガヒードの体が変成し始めた。あったはずの服が見る間に宙に溶け消え、背中から黒い翼が生える。顔が竜のように伸び、牙が生える。手も伸び、長い爪が生える。体全体が一回り大きくなる。皮膚が硬質な黒い甲殻のようなものに変わる――
 一瞬でアブガヒードは、魔神にも似た怪物に姿を変えていた。
『さて、アーヴィンド。君には私の与えた祝福の効果を伝えてあげたいところだが、後回しにさせてもらうよ。効果のわかる人間がいないここでは興醒めだ』
 呆然とするアーヴィンドにかまわず、アブガヒードは楽しげな男の声で言う。
『さて、我が祝福を受けた者がここには三人も揃っているわけであるし? せっかくだ、君たちの旅立ちに際してひとつ贈り物をしよう。経験を重ねた者にはそれなりに、若い二人にはなかなかに素晴らしい贈り物だよ』
「……なにをする気だ」
『だから贈り物さ――来たれ、魔神よ!=x
 とたんアブガヒードの横に人間大のなにかが現れた。形としては全身真っ黒な、身長三m程度の巨人だ。顔には真一文字に赤く裂けた口が開いている。
 なんだこれは? 魔神ということだったが、こんな魔神本でも読んだことがない。だがフェイクは知っているのか、ちっと舌打ちして言った。
「ドッペルゲンガーかよ。グレーター・デーモンを呼んでくるとはな」
 グレーター・デーモン!?
『素敵な贈り物だろう? 諸君、全力を尽くしてこの障害を乗り越えたまえ。若い二人には少々厳しいかもしれないがね。では、失礼させていただこう。君たちに我が神の祝福を! 空間よ、そは我が前には障害とならじ。マナよ空間を曲げよ、我が体を彼方へ運び去れ!=x
 流暢な転移≠フ呪文と同時にアブガヒードの姿は掻き消えた。同時にドッペルゲンガーと呼ばれた魔神がのっそりと動き始める。
 だがドッペルゲンガーが行動を起こすよりフェイクの呪文の方が先だった。
「雷よ、光と風の競演よ、我が声に応えよ。万能なるマナはそを束縛の網の姿へと導かん。マナは我が言葉に従わん、空より出でよ雷、糸となり網となりて我が敵を捕らえよ!=v
 じゃっ! と音がしてドッペルゲンガーの周囲に電撃が生まれた。まるで縄のように幾重にもドッペルゲンガーを捕らえ縛る。ドッペルゲンガーが悲鳴のような声を上げた。
電撃の網≠ゥ、とアーヴィンドは息を呑んだ。転移≠謔閧烽ウらに高位の魔術。この人はやはり並大抵の魔術師ではない。
「このおっ!」
 ヴィオが進み出て殴りかかる。ドッペルゲンガーは電撃の網に行動を制限されながらもその拳をかわした。フェイクが怒鳴る。
「邪魔だ、下がってろ!」
『万能なるマナよ、束縛の刃となれ! 我が前に並ぶ敵どもを、縛り妨げ傷つける刃の網となるがいい!=x
 え、と思った瞬間自分たち三人の周りに銀色に光り輝く網が現れていた。
「なんだこれ? うわぁっ!」
 ヴィオはその網に触れようとして、その動きで網に触れ体を斬り裂かれた。ドッペルゲンガーに斬りかかり、同様に体を斬り裂かれつつもフェイクが叫ぶ。
「これは刃の網≠チつー相手の動きを邪魔する魔法だ! 動かなければ傷は負わない! こいつ程度なら俺は正面からぶつかっても勝てるっ、お前らは巻き添え食わないように後ろに退がってじっとしてろ!」
「わ、わかった……」
 ヴィオが転がるように後ろに退がる。助け起こしてやりたかったが、アーヴィンドは動けなかった。動けば刃の網≠ェ体を斬り裂く。
 フェイクは超人的な身軽さでドッペルゲンガーの攻撃を軽々とかわしながら攻撃を繰り返していた。その動きの速さ、鋭さはアーヴィンドにはほとんど目にも止まらぬと言っていいほどで、少しずつ傷を負いつつも着実に敵に損害を負わせ続けている。このままいけば勝てる、とアーヴィンドはわずかにほっとした。
 だが、ドッペルゲンガーはさらなる呪文を唱えた。
『万能なるマナの力もて空気よ変われ。皮膚を焼き、喉を焼き、目を焼く毒の雲へと。そは酸の雲、そは毒の霧、我が敵を苦しめのたうたせよ!=x
 一瞬アーヴィンドの眼前ぎりぎりのところまでの空気が緑色に変わる。酸の雲!? とアーヴィンドは仰天した。あんな魔術を使えば自分も巻き込むはず。
 そこまで考えて思い出した。魔神のこの世界における肉体はかりそめのもの。ゆえに毒も、病気も魔神の肉体を損なうことはないのだ。
「ゲホッ!」
 フェイクが血を吐く。強烈な打撃を負ったように見えた。そうだ、彼はハーフエルフだ、肉体的には人間より弱いはず。刃の網≠ナ少しずつ傷も負っている、それが積み重なればやがては、死ぬ。
 誰かが、その傷を癒さなければならない。
 そしてここにいる司祭は、自分一人だけだ。数瞬で、アーヴィンドは成すべきことの結論に至った。
 そうか、これが第一歩なんだ。アーヴィンドは思った。強い敵。かなわないかもしれない困難。それに全力で立ち向かうこと。傷を負うことを、苦しむことを覚悟して勇気を振り絞って生き延びるために立ち向かうこと。仲間たちと共に、戦うこと。
 それが、冒険。
 アーヴィンドは息を吸い込んだ。我が神ファリスさま。父上、母上。フェイクさん。――ヴィオ。
 そして―――
 僕を見守ってください。僕の声を聞いてください。僕は今から戦いを始める。傷ついても、怖くても、困難が僕をたまらないほど苦しめても。逃げ出しはしない、立ち向かう、自分の手で掴み取る。
 今、この瞬間から。
「我が神、偉大なるファリスよ! 我が友たちを傷の苦しみから救いたまえ! その御力をもって我らに、癒しの加護を与えたまえ!=v
 そう叫ぶと同時に強烈な痛みが体を斬り裂き、アーヴィンドは意識を失った。

 夢の中にいるようだった。頭がぼんやりして、体がまともに動かない。
 痛い。体中が痛い。誰かの声が遠くに聞こえる。誰か、とても大切な人の声。
 でも頭がはっきりしない。視界が暗い。体が思うように動かない――
 ――はっと目が覚めると、そこは薬の匂いのする天幕の中だった。鼻の奥がひどくつんとする。
「……目が覚めたようじゃの」
 老婆の声。
「婆ちゃん、アーヴ平気なのか? 大丈夫なのか?」
 ヴィオの声だ。
「馬鹿者、わしを誰だと思うておる。わしの快癒≠ヘ生きてさえおればどんな深い傷でも治すわ」
「快癒≠フ呪文は誰がかけても同じだと思うけどな……とにかく、ほっとしたぜ、アーヴィンド」
 フェイクの声がした、と思ったら眼前にヴィオの顔が現れる。
「アーヴ!」
 泣きそうな顔だ。アーヴィンドはたまらなくなって体を起こし、思いきりヴィオを抱きしめた。温かい、生きている。その感触。たまらなくてう、と一声嗚咽を漏らすと、もういけなかった。
「う……う、わあぁぁぁっ! うわ、うわぁぁぁぁんっ!」
「アーヴ……うえぇん、生きててよかったよぉアーヴっ、うえぇぇぇぇんっ」
「……やれやれ」
 ヴィオと一緒に喉が痛くなるまで泣いて、ようやく羞恥の感情が戻ってきた。顔から火が出そうな気分で、そばに座っているフェイクと老婆を見る。
「あの……助けてくださって、ありがとうございます」
「なに。孫を癒してくれた礼じゃ」
「俺には礼を言わん方がいいぞ。これから恨みたくなるようなことを言うからな」
「……ここは、どこですか?」
「モーヴ族の村、わしらの家の中じゃ。ヴィオとわしの、な」
「ドッペルゲンガー、倒せたんですね」
「なんとかな。……その件については礼を言う、お前の癒し≠ェなかったら正直やばかった」
 アーヴィンドはほっと息をついた。よかった。少しでも助けになれた。自分の行為は邪魔にはならなかったのだ。
「ま、お前が気失ってるの見た時には驚いたけどな。ああいう場合は自分も含めて癒せよ。癒し手が倒れちまったらどうしようもないんだからな。応急処置しても意識がはっきりしてないみたいだったし、バーブさんが呪文かけても薬使ってもなかなか目覚まさないし」
「……計算では、まず大丈夫だと思ったんです。体は丈夫な方だと思ったし……すいません」
 しゅんとするアーヴィンドに、フェイクは笑いかけた。
「まぁ、生き残ったんだからよしとしとくか。お前の言ってることも確かだしな。けど、これからは気をつけろよ」
「……はい」
「で、だ。いろいろと話すことがあるんだが」
「………はい」
 アーヴィンドは姿勢を正した。ヴィオも少し困った顔をして自分から離れる。
 フェイクは真正面からアーヴィンドに向き合って言う。
「まず、お前さんはなにを聞きたいのか聞こうか。なんでも聞いてみろ」
 アーヴィンドは数秒考えてから訊ねた。
「最初から聞きたいです。まず、あなたが僕をあの古代遺跡へ連れてきたのは父の依頼だったんですね?」
「ああ。お前もやっぱりわかってたんだな。正確にはお前の親父さんの依頼は『怖い思いをさせてもらいたい』っていうのだったがな。『世間には恐ろしい者や怪物たちが山ほどおり、とても危険なのだと知るように。冒険者になりたいなどと間違っても言わせないように』って」
 アーヴィンドはため息をついた。あまりに簡単に想像できてしまう言葉だ。
「で、俺はその依頼を請けはしたが、俺の気に入らない依頼だったんで、とりあえずお前さんを試してみることにした。冒険者となるだけの覚悟があるのか、生き延びれるだけの知恵と根性があるのか。あの古代遺跡は幻覚魔術師の作った、遺跡内なら別の場所にある水晶球から自由に精神に直接作用する幻影が作れて呪文がかけられるっていう遺跡なんで、試すのにはうってつけだった」
「……その中に、なぜヴィオを?」
「ひとつには、お前さんの思考力を試すためだ。見も知らぬ人間のどこを信じ、どこを疑うべきか。こいつにはろくに事情を説明してなかったから。まぁ、あんまり考えさせる役には立たなそうなのは確かだがな、こいつは」
「えー、フェイクなんか俺のこと遠まわしに馬鹿だって言ってない?」
「馬鹿だとは言ってないが考えなしだとは言ってる」
「なにそれ、ひっどー!」
 フェイクはヴィオの抗議を無視した。
「もうひとつには、もし気が合うようならパーティを組ませてやってもいいと思ったのさ」
「……え?」
 アーヴィンドは目をぱちくりさせた。それから忙しく思考を回転させる。
「ちょっと待ってください、えっと……ヴィオは冒険者になる予定だったんですか? それとなんであなたがそんな世話までする必要があるんですか? あなたとヴィオはどういう関係なんですか? そもそもあなたは、何者なんですか? 高導師級の魔術も使える上に体術も超人的なんて、普通の人間やハーフエルフにできることじゃない」
「それを話すには、あいつ――アブガヒードについて話すのが一番手っ取り早いな」
「…………」
 いよいよ出たか、とアーヴィンドは拳を握り締めた。
「あれは、なんなんですか。魔獣――それも名もなき狂気の神の信徒のようでしたが」
「化け物さ」
 フェイクの口調は苦い。
「あいつは普通の魔獣じゃない。俺は自分を世界でも有数の盗賊だと自認してるが、それでもあいつと戦ったらまず勝てない。俺と同程度の力を持つパーティが一緒でも、怪しいな」
「そこまで……」
「狂える天才<Aブガヒード・ディシィ・ル・ヴァル。知ってるか?」
 アーヴィンドは首を振りつつ、記憶を辿り言う。
「知りません……ただ、ル・ヴァルというのは確か古代王国の高い実力を持つ魔術師の尊称だったと……」
「ああ。遡れば空中都市の太守の祖に連なる付与魔術の名門、ディシィ家でも大天才ともてはやされ、同時に一族郎党表舞台に出れなくさせたほどの大恥をかかせた人間だ。今の記録にゃまったくと言っていいほど残ってない古代王国時代の付与魔術師さ。――それが、あの魔獣の素体なんだ」
「え……」
「古代王国時代の天才魔術師を素体にして創られた魔獣なんだよ、今のアブガヒードはな。もちろん火竜の幼生体だのグレーター・デーモンだか魔神将だかのエッセンスだの強烈なもんもたっぷり混ざってるらしいが」
「で、でも! いくら古代王国時代だって貴族を素体にして魔獣開発なんて許されるはず」
「そう、許されない。禁忌を冒したのさ、あいつの創成主愚者<~ンタモール・ドルロスはな。創成魔術の名門ドルロス家に生まれながらその才能のなさで虐げられていたミンタモールは、思い余って優秀な魔術師を素体にして魔獣を創ることを思いついた。そしてアブガヒードはそれに乗った。そしてその魔獣創成は大成功し、ミンタモールは処刑され逃げ出したアブガヒードはその存在を抹消されたというわけさ」
「だけど……だけど、魔獣に自分からなるなんて」
「あいつはそういう人間だったんだよ。狂ってるんだ。魔獣になる前から名もなき狂気の神の暗黒司祭だったそうだからな」
「…………」
「あいつはとにかく魔法の道具を創ることに全精力を注いだ奴だったらしい。それも、普通の古代王国の貴族が創るような芸術的な道具じゃなく、戦いに役立つ道具を。武器防具、杖に兵器。城砦を丸ごと一個魔力付与した、なんてのもあるらしい。戦いという名の狂気に身を浸したくて仕方がない、そういう奴だったそうだ。そしてあいつは半永久的に魔法の道具を創り続けたいと願い、魔獣となった。そして今も生きて、この世界をうろついている」
 アーヴィンドは思わず背筋が寒くなった。そんな恐ろしい魔獣がこの世界に存在していたなんて。
 フェイクはどこか冷えた口調で続ける。
「ただ、あいつは普段はそう害のある魔獣じゃない。狂ってはいるがな。自分の好きなように魔法道具を創りながら世界を巡り、自分の創った道具が遣われるのを見て楽しむ、それだけだ。――だが、いつの頃からかは知らないが、あいつは十五年に一度、妙なことをするようになった」
「……妙なこと?」
「ああ。あいつにはある奇妙な特殊能力がある。すさまじく強力な呪いをかけることができるんだ。十五年に一度だけあいつはそれを使う。十五年に一度しか使えないのか、使わないのかは知らんがな。その力は肉体すら変容させてしまうほどで、たとえ最高司祭だって容易には解くことはできない。……その力を、駆け出しの冒険者や、冒険を志す奴に使うんだ」
「……冒険を?」
 フェイクは苦々しげにうなずいた。
「そう。あいつは冒険者って人種がお気に召したようなのさ。自分の創る道具を思う存分使ってくれる冒険者って人種がな。そいつらが自分のかけた呪いに四苦八苦するのが楽しいんだ。自分の呪いを祝福にしてしまう冒険者たちがな」
「呪いを……祝福に?」
「ああ。……ある意味では、な」
 フェイクは吐き捨てるように言い、小さく息をついてから説明を始めた。
「あいつの特殊な力による呪いを受けたものは、普通に生きている者より成長が早くなる」
「え……それは、早く年を取る、という意味ですか?」
「違う。能力の成長が早まるんだ。強力な障害を越えるたび、その障害の強力さに応じた分能力が普通よりはるかに早く成長する。のみならず普通よりもはるかに高い頻度でその強力な障害とやらと出会う羽目にもなる。……ほとんどの場合自分の力に応じた障害なのが救いだがな」
「……そんなことが、本当に?」
 信じられず問うと、フェイクは苦虫を噛み潰したような顔でうなずく。
「ああ。目の前にその実証例が一人と半分いるぜ。――ヴィオはまだまともに冒険に出ちゃいねぇがな」
 アーヴィンドは思わずまじまじとフェイクを見つめた。
「……そう、俺はあいつに呪いをかけられた。冒険に出たての十五の時にな。今から七十五年前のことだ」
 この人は九十歳なのか、さすがはハーフエルフ、などと妙な感想が頭をよぎりつつも訊ねる。
「どんな、呪いを受けたんですか」
「俺の場合は言葉に対する呪いだった。相手に好意を持てば持つほど、思ったことと反対の言葉が口から飛び出てきちまうっていうな。好きだって言うつもりが嫌いだ、大丈夫かって言うつもりが早くくたばれ、ありがとうがくそくらえって具合にな。実際的な指示とかは普通に話せるのがまだ救いだったが、好きじゃない奴には普通に話せちまうってのがまた軋轢を生んでな。その上あいつの呪いはかけられた人間はその呪いについて説明できないっていう制限もかかってるんだ。……実際、苦労した」
「その呪いは、解けたんですか?」
「ああ。アブガヒードが教えてきたんだがな、あいつの呪いの解除条件は冒険の中でしか達成できないようになってるらしい。同じ結果でも冒険を通じてじゃなけりゃ駄目なんだ。俺の場合は、『冒険を通じて仲間と言葉に左右されないほどの絆を結ぶこと』だった。……三十年かかったぜ。今の俺の能力のほとんどは、その時に培われたもんではあるがな」
「………ヴィオ、は?」
「え?」
 黙って聞いていたヴィオがきょとんとする。
「ヴィオは、いつ、どういう呪いをかけられたんですか? 呪いをかけられた者じゃなければ話せるんでしょう」
「ん、まぁな……話していいか?」
「うー……いつ、かけられたかっていうのはいい。どんな呪いかっていうのはダメ」
「……すぐばれるぞ?」
 ヴィオはなぜか顔を赤らめて小さくなった。
「だって……なんか、恥ずかしい……」
「……そーかい」
 フェイクは肩をすくめ、アーヴィンドに向き直った。
「こいつが呪いをかけられたのは赤ん坊の頃のことだ。生まれた直後にこいつは呪いをかけられたんだよ」
「え……だってそんな、生まれたばかりじゃ冒険者になるかどうか決めることなんて」
「あいつが狂ってるっていうこと忘れんなよ。狂人は不誠実な上気まぐれだ。あいつが言うにはヴィオの母親が冒険者を志してたんで、母体がもたなそうだったからその志を継ぐと神の啓示があった子供にかけたとか言ってるがどうだか……っと、すまん」
「いーよ。いまさらだし」
 フェイクの謝罪に、ヴィオはあっけらかんと答える。
「……ヴィオとフェイクさんはどうやって出会ったんですか?」
「俺は呪いが解けてからは、冒険でたんまり金が稼げたこともあってアブガヒードの呪いをかけられた奴の解呪に協力することを人生の目的のひとつにしてたからな。十年くらい前に、この村にやってきた」
「だけど、呪いがどこの誰にかけられたかなんてわかるものじゃ」
「ああ、だがある程度近くまで来るとわかるんだよ。これが反応するからな」
 フェイクはすらりと腰に差した短剣を抜いた。間近で見ると、それは月光の色に輝く冷たく冴えた業物だった。どう見ても魔法の品だ。それも相当強力そう、おそらくはミスリル銀製だろう。
「月光の刃≠セ。これはアブガヒードにもらった。あいつは呪いが解けると、めちゃくちゃ強力な魔法の道具をその呪いが解けた相手に渡すんだ。その魔法の道具は、百km以内に近づくと呪いがかかった人間の居場所を光って知らせる」
「そんなものが……」
 感心した顔になると、フェイクはため息をついた。
「じゃあ呪いかけられてもいいかな、とか思ってんじゃねぇだろうな。言っとくが、呼び寄せられる障害ってのは命懸けで越えなきゃいけねぇもんなんだ、しくじれば死ぬんだぞ。実際そうして過酷な冒険の中で死んでいった呪いをかけられた奴も知ってるしな」
「い、いえ、思ってませんよ、そんなこと!」
「ならいい。……俺の方で言っておくことはだいたいこれで全部だ。で、どうする」
「どうする、って……」
 フェイクは冷徹な目でアーヴィンドを見つめた。
「呪いがかけられた、冒険しなきゃ解けない、だけど死ぬ危険は高まる。そういう状況でお前さんはどう動く? アールダメン候家の財力ならおっそろしく強力な儀式を執り行うこともできるだろ。そうすりゃいくら強力な呪いだって解けんことはないかもしれん。そういうこと全部を考えに入れて、お前さんはどうしたい?」
 アーヴィンドはフェイクを一瞬見返してから、ヴィオの方に顔を向けた。ヴィオはきょとんとした顔で見返してから、にこーっと笑う。
 その満面の笑みを――心が跳ねるように軽くなる笑みを見てから、アーヴィンドはヴィオに微笑み返し、フェイクに言った。
「冒険者になって、呪いを解きたいと思います。……できれば、ヴィオと一緒に」
「ほんと!?」
 ヴィオが歓声を上げる。バーブと呼ばれていた老婆がふぅ、と息をつく。フェイクはアーヴィンドをじっと見つめ問うた。
「その理由は?」
「呪いは儀式を行えば解けるかもしれません。解けないかもしれません。でも、呪いの中には解くのに失敗した場合反作用を術者に返すものもあると聞いたことがあります。そこまで強力な呪いなら、そちらの可能性の方が高くはないですか?」
「確かにな」
「それなら冒険に出てその中で呪いを解く方が安全だと思うんです。そして同病相哀れむではないけれど、同じ境遇の人間がいた方が心強いですし、それに、ヴィオとは一緒に行動して、戦って、気が合いましたし、楽しかったですし。だから一緒に冒険したいなって思ったんです。……どうかな、ヴィオ。パーティを組んで、くれる?」
 まず間違いないとは思っていたものの、それでも訊ねる時は胸がたまらなくどきどきした。ヴィオは一瞬きょとんとした顔をしたが(心臓が痙攣を起こした)、すぐに笑ってうなずく。
「うん! 当ったり前じゃん、せっかく仲良くなれたんだもん、一緒に冒険しよーよ!」
「うん……よろしくね、ヴィオ」
「よろしくっ、アーヴ!」
「……やれやれ」
 フェイクは苦笑し、それから真面目な声で言った。
「それなら、俺も仲間に加えてもらおうか」
 アーヴィンドは驚いてフェイクを見た。フェイクは表情も声同様真面目にこちらを見ている。
「なんで、ですか? 僕たちとフェイクさんじゃ、力量に差がありすぎると思うんですけど」
「まぁな。だが、言っただろう? アブガヒードの呪いを解くのに協力するのは俺の生きがいのひとつだ。曲がりなりにも依頼を受けた最中に守るべき対象を守れなかったことには俺に責任があるし。それに寄ってくる障害に対抗するには強力な助っ人がいた方がいいだろう? おまけに俺は事情も知ってるし、それに――」
 一瞬フェイクが言葉を切ったその時、天幕の入り口の布が持ち上がった。男が一人天幕の中に入ってくる。
「婆さま、すまん。うちの子が熱を出したんだが、診に来て……」
 そして、アーヴィンドと目が合った瞬間、固まった。
「? なにか……」
「………うおぉおぉぉっ!」
 男は顔を真っ赤にして、アーヴィンドに襲いかかってきた。アーヴィンドは不意を打たれ押し倒される。フェイクとヴィオが立ち上がるのが男の体の向こうに見えた。
「おい、あんたなにを」
「わっ!」
 アーヴィンドは思わず叫んで両手を突っ張った。男が、顔を近づけてきたからだ。まるでキスしようとしているかのように。
「な、な、なにをなさるんですか、あなたは!」
「愛してる」
「………は?」
 一瞬、空気が固まった。
「愛してる、だからヤらせてくれ。突っ込ませてくれ犯させてくれ。好きだ愛してる可愛いだから……ヤらせろーっ!」
「ちょ、な、な、わ、そんなとこ触らないでくだ、や、やめ、や、やだ、いややめてお願い放してくださいやだーっ!」
「闇の精霊よ、影より出でてこの者の心に打撃を与えよ=v
 流れるような不思議な響きの声がして、ぶわっと周囲が一瞬暗くなったと思ったら男は倒れていた。呆然とするアーヴィンドに、バーブが呆れたような声で言う。
「あんたも厄介な呪いを背負いなさったな」
「……呪い?」
「これが呪いか。男に襲われる」
 フェイクの言葉にバーブは首を振る。
「老若男女問わず、押し倒したいまぐわりたいと思わせる呪いじゃろう。わしにも確かに魅了の感情は働いたからな、こんな腰の曲がった婆さんにすら。まあこの男ほど強烈に効く者も少なかろうよ、わしには少し精神を集中させれば振り払える程度のものじゃったもの」
「………………」
「ま、頑張りなされ。ヴィオと共にな。……さて、わしはこの男の家族を診てやらねばな」
 バーブが外に出て行っても、アーヴィンドは呆然と座っていた。
「…………」
「まぁ……大変だとは思うが、身の安全は心配するな、俺が守ってやる。さっき言いかけてたことなんだが、アブガヒードの呪いが一度かかった人間には呪いの効果は及ばないんだ。だから俺らはお前の呪いの力に気付かなかったわけでな」
「…………」
「アーヴ」
「………ヴィオ」
 呆然とヴィオを見る。ヴィオは真剣な顔をしていたが、アーヴィンドが見つめるとにこっとあっけらかんとひどく明るく笑った。
「だいじょーぶっ。俺がちゃんと守るからっ!」
 しばし唖然として、それから言葉が頭の中に染み渡ってきた。そうだ、ヴィオは今の自分と同じような、いやそれよりはるかにひどい目にずっと遭ってきたんじゃないか。彼女には守ってくれる人はいなかった、それを当然のこととして受け容れるしかなかった。なのに今未遂なのに呆然としている自分を守ると言ってくれている。自分も呪いをかけられているのに。どれだけの強い決意が、そこには含まれているんだろう。
 しっかりしなければ。アーヴィンドは自分に言い聞かせた。こんなことくらいでへこたれていてはいけない、自分だって彼女を守るのだから。
 ファリスよ、あなたのしもべをどうかお護りください。
「……うん。僕も、ヴィオを守るからね。ヴィオがどんな呪いをかけられていようと、絶対に守るから」
「うんっ!」
 ヴィオは嬉しげな笑顔のまま、自分に抱きついてきた。アーヴィンドはあわあわとなりながらも、ヴィオを受け止めてそっと抱きしめ返す。
 温かくて、優しい、気持ちいい感触だった。
「……まぁ、いいけどな。今のうちは幸せに浸っときゃ」
 フェイクがなんと言ったのか、アーヴィンドには聞こえなかった。

 フェイクが転移≠フ呪文を使えるだけの精神力を回復するために、その日はヴィオたちの天幕の中で休むことになった。アーヴィンドもいささか疲労を覚えていたので、その提案はありがたかった。
 だが横になって目を閉じても(ちなみに寝ている順番はフェイク、アーヴィンド、ヴィオ、バーブだ。若い男女が同じ天幕で休むのは正直どうかと思ったのだが、冒険に出ればそんなことは言っていられないのだからと自分を納得させた)、なかなか眠りは訪れなかった。考えることが多すぎる。
 自分の進むべき道は決まった。だけど両親を説得できるだろうか? アーヴィンドは家を離れ、冒険者の店で寝起きしたいのだが認めてもらえるだろうか。自活するという目的のためにはそうでなければ困るのだが。でも両親に不安を与えるのは本意ではないから、ちょくちょく顔は出したいと思うのだが、そうすると活動場所はオランになる。ヴィオやフェイクはどこか活動したい場所があるのだろうか。
 そしてなにより、ヴィオの境遇が気になっていた。明日起きたらなんとしてもバーブさんに抗議をしなければ。ヴィオの前では傷つけてしまうかもしれない、こっそり話をするべきだろうか。でもこの村の男たちにも説法をしてやりたい気分だ。ところ変われば法も変わるのは承知しているけれど、年若い少女をよってたかって陵辱したり殴りつけたりするなど、どう考えても人倫にもとる。
 ヴィオがやられてきたことを考えると、腰の奥がじりじりと焦がされるようで眠っていられなかった。こんな自分と同い年の少女が(十五年前に赤ん坊だったのだからそのはずだ)、いやらしいことをされていたなんて。胸の奥がもやもやとし、何度もファリスに祈りを捧げた。
 それでも輾転反側しているうちに疲労が勝ち、やがてアーヴィンドは眠りに落ちた。
 ……胸のところが温かい。昨日感じたのと同じ、温かく優しい感触だ。
 アーヴィンドは半分以上眠りながら、幸せな気持ちでその感触を引き寄せた。気持ちがいい、もっと近くで抱きしめたい。その体にそっと腕を回し、抱き寄せる。
 しばらく幸福なまどろみに酔っていたが、やがて感触が微妙に違うのに気付いた。硬い。それにちょっと大きい。ごつごつしている。股間の辺りに、固く、熱く、大きなものが――
「わ――――――――っ!!!」
 アーヴィンドの絶叫に、フェイクとバーブは飛び起きた。
「どうしたっ!」
「何事だい!?」
「ヴィ、ヴィ、ヴィ、ヴィ、ヴィ、ヴィ」
「んー……なーにぃ? 俺、まだ眠いよー……」
 目を擦りながらヴィオ――であったものが上体を持ち上げ、あくびをする。その声は明らかに、昨日のものより一段低い。体も、昨日より間違いなく大きくなっている。
「ヴィ、ヴィ、ヴィ、ヴィオッ!?」
「んー、なんだよー、アーヴ?」
 きょとんと目をぱちくりさせて首を傾げる、その仕草は間違いなくヴィオのものだ。だが、確かに昨日とは違う。ヴィオは、少女であったはずのヴィオは、どう見ても――男になっていた。
「……あー、なんだ、やっと気付いたのか」
「なんだい、驚かさないでおくれよ」
 ふああ、などとあくびをしているフェイクとバーブに、アーヴィンドは驚愕の視線を向ける。
「し、し、し、し、し」
「知ってるに決まってるだろ。こいつの呪いってのはこれなんだからな」
「……え?」
「性別転換の呪い。太陽が出ている間は男になり、陽が沈んでいる間は女になる。生まれた瞬間にかけられたもんだから、本当はどっちなのかってのもわからないんだよねぇ。まぁ、そのせいで本来ならうちの男の役目である穢れを向けられる役目も負ってしまったりもしてるんだけどさ」
「…………」
 ヴィオを呆然と見つめると、ヴィオは少し頬を赤らめて、ばつが悪そうに笑った。
「ごめんな、アーヴ、ちゃんと言わなくて。だけど、なんか……恥ずかしかったんだもん」
 その笑顔は、間違いなく昨日アーヴィンドの目を惹きつけたヴィオのもので――
 アーヴィンドはぐっと奥歯を噛み締めて、ヴィオの手を握った。
「大丈夫、ヴィオ。気にしてないよ」
「……そお?」
「うん。協力して、いつか一緒に呪いを解こうね」
「うん! 頑張ろーなっ、アーヴ!」
 にっこー、と満面の笑顔を浮かべ、ヴィオはアーヴに抱きつく。照れつつも昨日よりは冷静に抱き返しながら、アーヴィンドは心の中で考えた。
 大丈夫。気にしてない。だけどなんだろう、この尋常ではない心の揺らぎは。
 なんだかすごく怖いような、不安なような、困っているような、どきどきするような、とにかく心がたまらなく揺らぐ。
 ああ、ファリスよ、我が神ファリスよ。どうか僕を、あなたのしもべをお救いください、道をお示しください。
 アーヴィンドはそう、心からファリスに祈った。

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キャラクター・データ
アーヴィンド・クラーク・リズレイ・プリチャード(人間、男、十五歳)
器用度 12(+2) 敏捷度 20(+3) 知力 23(+3) 筋力 15(+2) 生命力 19(+3) 精神力 20(+3)
保有技能 ファイター1、セージ1、プリースト(ファリス)1、ソーサラー1、ノーブル3
冒険者レベル 1 生命抵抗力 4 精神抵抗力 4
武器 ヘビーメイス(必要筋力15) 攻撃力 4 打撃力 20 追加ダメージ 3
ダガー(必要筋力5) 攻撃力 3 打撃力 5 追加ダメージ 3
ロングボウ(必要筋力15) 攻撃力 3 打撃力 20 追加ダメージ 3
スモールシールド 回避力 5
ラメラー・アーマー(必要筋力15) 防御力 25 ダメージ減少 1
魔法 神聖魔法(ファリス)1レベル 魔力 4
古代語魔法1レベル 魔力 4
言語 会話:共通語、東方語、西方語、上位古代語、下位古代語
読文:共通語、東方語、上位古代語、下位古代語
ヴィオ(人間、性別不詳、十五歳)
器用度 15(+2) 敏捷度 19(+3) 知力 18(+3) 筋力 18(+3) 生命力 21(+3) 精神力 21(+3)
保有技能 シャーマン1、ファイター1、レンジャー1
冒険者レベル 1 生命抵抗力 4 精神抵抗力 4
武器 ロングスピア(必要筋力18) 攻撃力 3 打撃力 23 追加ダメージ 4
ロングボウ(必要筋力18) 攻撃力 3 打撃力 20 追加ダメージ 4
なし 回避力 4
ハード・レザー(必要筋力9) 防御力 9 ダメージ減少 1
魔法 精霊魔法1レベル 魔力 4
言語 会話:共通語、東方語、精霊語
読文:共通語、東方語
月の主<tェイク(ハーフエルフ、男、九十歳)
器用度 18(+3) 敏捷度 21(+3) 知力 19(+3) 筋力 10(+1) 生命力 18(+3) 精神力 21(+3)
保有技能 シーフ10、ソーサラー8、レンジャー7、セージ6、バード6
冒険者レベル 10 生命抵抗力 13 精神抵抗力 13
武器 月光の刃 攻撃力 16 打撃力 13 追加ダメージ 14
なし 回避力 16
ソフト・レザー+3(必要筋力5) 防御力 5 ダメージ減少 13
魔法 古代語魔法8レベル 魔力 11
呪歌 ヒーリング、レストア・メンタルパワー、チャーム、レクイエム、キュアリオスティ、ノスタルジィ
言語 会話:共通語、東方語、上位古代語、下位古代語、西方語、エルフ語、ドワーフ語、
リザードマン語、ケンタウロス語、ゴブリン語、マーマン語、ジャイアント語、ハーピー語
読文:共通語、東方語、上位古代語、下位古代語、西方語、エルフ語、ドワーフ語
マジックアイテム
月光の刃(ムーンシャインエッジ)
知名度 20
魔力付与者 狂える魔獣<Aブガヒード
形状 月光の色に輝く必要筋力5のミスリル銀製ショートソード
基本取引価格 100万ガメル
魔力 攻撃力、追加ダメージに+3。遠距離攻撃。古代語魔法の達成値にボーナス。透明化。コマンドワードで手元に呼べる。主の位置を示す。
 この魔剣は高品質で打撃力に+3され、かつミスリル銀製なので結果的に打撃力は13になります。
 特殊な魔力が付与されており、100m先までならば目の前に敵がいるかのように攻撃しダメージを与えることができます。これはこの魔剣の魔力を知らなければ自動的に不意打ちになります。
 また、この魔剣は魔力の発動体にもなり、その際古代語魔法の達成値を+2できます。
 さらに、下位古代語で『月の主』とコマンドワードを唱えることで『インビジビリティ』がかかっているかのように姿を消すことができます(音は立ちます)。これには維持に集中する必要がありません。会話も戦闘も呪文を使用することも可能です。ただし、『デストラクション』が使用者にかかれば(透明な者を見ることができればですが)効果は切れます。
 そして、どんなに離れていようと、下位古代語で『我が名は月を従えん』とコマンドワードを唱えるだけで即座に手元に転移させることができます。その上、他の人間が持てば使い手の位置を(『ロケーション』の呪文のように)探知することが可能です。この二つの機能はフェイクに合わせて調整してあるため、他の人間には使えません。他の人間に合わせて調整するには一日かけて儀式を行う必要があります。
 他のアブガヒードが魔獣化してから魔力付与した物品と同じように、100km以内のアブガヒードの呪いがかかった人間を探知することもできます。