地区大会
 昼食の弁当をかっ食らいながら、隼人ははぁ、とため息をついた。それを敏感に察知した巴が、首を傾げる。
「はやくん、なにため息ついてるの?」
 幼稚園に入る前から一緒に暮らしてきた従妹の巴の言葉に(はやくんはやめろっつってんだろ、と言いたい気持ちを抑えつつ)、またため息をひとつついて答える。
「いやー……なんつーか、俺、これまでの試合でちゃんと戦力になってねーよな、って思ってさー……」
「でも、隼人くんの出た試合はどっちも勝ってるじゃないか」
 そう天野が言っても隼人の気分は晴れなかった。
「だってさっきまでの二試合はほとんどお前と巴に頼りきりみてぇなもんだったじゃねぇか。俺……どっちかっつーと足引っ張ってたと思うし」
「うーん……そんなことは……」
「まぁ、少しくらいはあるかもね。はやくん力発揮できてなかったし」
 気を遣って微笑みながら否定しようとした天野の言葉を巴にあっさり無視されてきっぱり言われ、隼人はがっくりとうなだれた。いつものことながらこの従妹は言動に容赦というものがない。
 だが実際隼人は足を引っ張っていたなと思うのだ。地区予選大会、これまでの二試合隼人は天野とのダブルスと巴とのミクスドに出場したのだが、そのどちらもはかばかしい戦果は得られなかった。両方とも余裕を持って勝ちはしたのだが、そのどちらもパートナーのフォローがあったからこそ得られた勝利だということを隼人はよくわかっている。
 隼人はもともとほとんどダブルス経験はなかったのだが、それでもここまでダブルスが苦手だとは思わなかった。シングルスと変わらずに動けると思っていたのだ。
 だが試合してみると、自分のコートに他人がいるという感覚にどうにも馴染めず、思うように動けない。練習の時からそう思っていたが試合ではさらにそれが顕著だった。
 天野は練習時からダブルスに才能を発揮していたのでまだわかるが、巴は一ヶ月前にテニスを始めたばかりの初心者だ。おまけに幼い頃から一緒に育ってきた従妹。
 俺がフォローしてやるぜと大きい口を叩いたというのに、蓋を開けてみれば的確なテクニックでフォローされているというていたらく。どっぷり落ち込みたくもなる。
「はぁぁぁ……」
「……鬱陶しいからため息つかないでくれる」
 冷たい口調で言われ、隼人はぎんっとリョーマを睨んだ。リョーマも巴と天野にむりやり引っ張ってこられ一緒に食事していたのだ。
 他の相手ならごめんと謝っていただろうが、リョーマにだけは、こいつにだけは頭を下げたくはない。
「ぁんだと? てめぇみてぇな常時鬱陶しいゴーマン野郎に言われたかねぇよ」
「傲慢になれるだけの実力があるからね。俺はどっちの試合も楽勝で勝ってるし。自分の力で」
 隼人はうぐっ、と言葉に詰まった。それを言われると隼人としては返す言葉がないのだ。
「……う、う、うるせぇ! リョーマはどっちもシングルスだったからじゃねぇか、俺だってシングルスなら楽勝で勝てたんだ!」
「勝負のあとでああだったら勝てたのにとか言うのやめてくれない。聞いてる方が恥ずかしくなるから」
「うぐっ……お、俺は少なくとも負けてはねぇぞっ!」
「勝つのに貢献してもいないよね。さっき自分でそう言ってたの忘れたとでも言う気?」
「うぐぐっ……ふ、不得意なダブルスで足を引っ張らなかっただけ上等じゃねぇかっ!」
「引っ張ってたじゃん、足。天野も赤月もパートナーがお前じゃなかったらもっと楽に勝てたね」
「うぐぐぐっ……うるせぇうるせぇうるせぇ! 偉そうなこと言ってんじゃねぇっ、ダブルスやったこともねぇくせにでかい口叩くな!」
 そう怒鳴るとリョーマはムッとした顔で冷徹に吐き捨てる。
「少なくともお前よりははるかにマシに動けるね」
「ほー、言ったな!? その言葉後悔すんなよ、次の決勝戦ではお前ダブルスやんだからな! 竜崎先生にそーお願いしてやっからな!」
「……上等じゃん」
「おーおー言うじゃねぇかわがまま小僧がよ! さっき言った言葉覚えてろよ、ちょっとでも俺より鈍い動きしたら大笑いしてやっからな!」
 ふんっ、とお互いそっぽを向いて中身の同じ弁当をかっ食らう。その様子を見ながら、天野、巴、小鷹の三人は深々とため息をついた。
「もー……本当に、どーしてそうすぐ喧嘩になるかなぁ?」
「一緒に住んでるんだからもうちょっと普通に仲良くすればいいのに」
「家でもこれなの? 巴可哀想……」
「あ、わかってくれる那美ちゃん! 不肖の従兄とわがままな同居人に挟まれて、私が毎日どんなに胃を痛めていることか……」
「嘘ついてんじゃねぇぞ巴、お前俺とリョーマが殴り合いになった時面白がってレフェリーの真似してたくせに!」
「……巴ちゃん、本当?」
「い、いやぁ、なんていうか、ナマの男同士のぶつかり合いって、燃えるじゃない!」
「男と喧嘩になって踵落としするお前に言われたくない」

「え―――――――っ!?」
「…………………嫌っス」
 隼人とリョーマは二人揃って思いきり拒否の顔を見せたが、竜崎は眉も動かさず言った。
「これは決定事項だ。決勝ではお前さんたち二人にダブルスをやってもらうよ」
「そんなぁっ! 俺今度こそシングルスだと思ってたのにーっ!」
「……ダブルスってのはまだいいとしても、こいつとってのが嫌っス」
 そう口々に言ってから、お互いの顔を睨んでふんっとそっぽを向く。竜崎はやれやれという顔になって説明を始めた。
「まず、はっきり言うよ、赤月。お前にはまだシングルスは任せられない」
「……!」
 隼人の顔から血の気が引く。それは、確かに自分はまだ暫定レギュラーなのだけど。
 こんな風にはっきり言われると、強烈にショックだった。
 ………リョーマは、シングルスに出てるのに。
「というか、現在青学にはダブルスの選手が少なく、シングルスの選手が余っている。ミクスドの大会が始まったこともあり、今後はよりダブルスを強化していく必要があるだろう」
「…………」
「二年三年レギュラーでシングルスの枠は充分埋められる。つまりお前さんたち一年にはダブルスをより強化することを期待してるのさ。将来的にはまた別だけどね」
「…………」
「赤月。お前さんを暫定とはいえレギュラーにしたのは、お前さんの可能性に賭けてみたところが大きいんだよ。お前さんはろくなライバルもいない状況で中部地区小学生チャンピオンに上りつめた。そのまだ磨かれていない部分を、これまでとこれからの練習でどう輝かせるのか。それを期待しているんだ」
「…………」
「つまり、お前さんにはいろいろな試合経験を積んでいってもらいたい。もちろんシングルスに出すことを考えてはいるよ、けど必要な戦力とお前さんのこれまでの試合経験を考え合わせ、地区予選ではダブルスに出すと決めたんだ」
「…………」
「そしてダブルスの経験を積ませるならできるだけいろんな人間と組んだ方がいい。越前と組ませるのもそのひとつだよ。お前さんたちには将来青学を背負うだけの選手になってもらいたい、だから今のうちに積める経験は全部積んでおいてほしいんだ。わかるね?」
「…………はい…………」
 わかるわけない、わかるわけない。本当は全然わかるわけない。
 リョーマにシングルスを任せることはできても、同じ一年の俺には任せられないなんて台詞、全然少しもわかるわけない。
 だけど、わからないって言ったってしょうがない。五月のランキング戦でリョーマは全勝したけど俺は全勝できなかったように、俺がリョーマに届かなかったっていう、ただそれだけの話なんだから。
 だから、隼人はのろのろとうなずいた。
「越前もいいね? いろんな経験を積ませなきゃならないのはお前も変わらないよ」
「……ウィーッス」
「よし、話はこれで終わり。ウォーミングアップに移れ」
 その言葉に、隼人とリョーマは別方向にウォーミングアップに向かった。

 リョーマと自分が任されたのは、ダブルス1。伊武・神尾ペアとの対戦だった。
 ダブルス2は天野と桃城のペア。このペアは練習中でも高い評価を得ていただけあって、わりと危なげなく勝っていた。
 ――だけど、俺とリョーマのペアは違う。
 というより、俺は。
 そんな思いにどっぷり浸かり、でっぷり落ち込みながらコートに向かおうとした隼人に――後ろから声がかかった。
「――なに? 山ザルはやる前から負け認めちゃってるんだ?」
 隼人は思わず顔を上げ、振り向いてリョーマを睨んだ。
「……ぁんだと、コラ」
「竜崎先生にちょっと言われたくらいであっさり自分は弱いって認めちゃうんだ。別にいいけど、そんなんだったらわざわざ山奥からこっちに出てくることもなかったんじゃない?」
「んだと!? 俺がいつ負けを認めたってんだ!」
「思いっきりそういう顔してたくせに。負け犬は負け犬らしく家にいた方がよかったんじゃないの。そうすれば俺も山ザルと関わって面倒な思いしなくてすんだわけだし」
 いつも通りの平然とした顔で淡々と言うリョーマに、頭にカーッと血が上った。
「誰が負け犬だコラァ! 第一俺はてめぇに面倒見られた覚えねぇよ! 家でも手伝いもせずごろごろしてやがるくせに!」
「居候の分際で四杯飯食って手伝いもしない奴よりはマシだと思うけど」
「俺はたまには手伝いしてるっ!」
「いるよね。威張れもしないことを勘違いして偉そうに言う奴って」
「ぁんだとコラ!? てめぇこそ人のこと勘違いして偉そうに言ってんじゃねぇかよ!」
「勘違いだって言うなら少しはそれを証明してみせてくれない。口ばっかりの奴って俺信用しないから」
「あー上等だ見せてやろうじゃねぇかよ! 俺の華麗なプレイ見てから吠え面かくんじゃねぇぞっ!」
「青学ペア、早くコートに入りなさい!」
「わかってますっ!」
 腹立たしさでいっぱいになりながら、隼人はコート内に足早に乗り込んだ。
 腹立たしさで体も心もいっぱいで――落ち込みなんて思い出せないくらい昂ぶりながら。

「楽しませてくれよ。あんまり早くカタがついちまうとリズムに乗れねーからよ」
「……一年でレギュラーかぁ。いいよなぁ。うらやましいよなぁ。一年はもっと苦労すべきだろ。ちょっとムカつくよなぁ」
 二人揃って勝手なことを言う不動峰ペアに、隼人ははっと吐き捨てた。
「悪いですけど俺、速攻で勝たせてもらいますから。覚悟しといてください」
「なっ!」
「……お前、一度負けた方がいいよ」
 二人とも盛り上がり方は違うものの、それぞれ一気にいきり立つ。
 望むところだった。相手が強敵なら強敵なほど、自分の力を示す役に立つ。
 サービスは隼人からだった。一回、二回ボールをバウンドさせていると、すぅっと気持ちが落ち着いてくる。
 神経と精神が研ぎ澄まされ、自分が人間というよりはひとつの武器になっていくのを自覚する。相手のコートにボールを叩きつけるための武器。
 ぽぅんと大きくボールを宙に放り投げ、全力でサーブした。
 そのサーブはしっかり返されたが、この程度の位置なら簡単に拾える。思いきり打ち返した玉をさらに前衛の神尾に返され、そのスマッシュを前衛のリョーマがスマッシュで返してこちらのポイントになった。
 リョーマに拾われて助かった、と思うべきなのだろうが、隼人はむっと眉間に皺を寄せた。今の球は絶対に俺が拾えてたのに。
「……人の球横取りしてんじゃねぇよ」
「あれのどこがお前の球なわけ。お前に任せといたら返せるもんも返せないから俺が倍働かなくちゃならないんじゃない」
「てめぇ……馬鹿にしてんのか? あの程度の球取れねぇわけねぇだろ!」
「青学ペア、早くポジションに着きなさい!」
『う……。スンマセン』
 声を揃えて謝って、渋々元のポジションに着く。神尾と伊武のペアもむっとした顔をして、特に伊武なんて「仲間割れなんて見苦しいからやめてほしいよな。別に俺の学校じゃないからどうだっていいけど。早くやって早く終わらせろよ。どうせ俺たちの勝ちなんだから」とかなんとかぼやいている(そんなことが聞こえるのは人間離れした耳を持つ隼人ならではだろう)。
 サーブ、リターン、サーブ、リターン。それを繰り返し、ゲームは2−2までになっていた。お互いサービス権が一巡してそれぞれサービスゲームをキープ、勝負はここからというところだろう。
 だが、隼人は正直苛々していた。絶対自分で取れたという球を拾われたり、自分がこう返そうとイメージした球を勝手に返されたり、視界を邪魔されたり背後で妙な動きをされたり、そういう全てが苛ついてたまらない。
『……駄目だ駄目だ隼人、落ち着け。そーいう心がけだからダブルスうまくいかないんだ。たとえ相手がリョーマだろうと、広い心でそのくらい受け止めてやらなきゃ……』
 隼人にしては珍しく必死に大人になろうと自分に言い聞かせる――だが、チェンジコートの時、リョーマはぼそりと、ぶっきらぼうに言った。
「……どうもしっくりいかないんだけど」
「はぁっ?」
 隼人は思わずすっとんきょうな声を上げてしまった。
「外の敵より内の敵の方が問題だよね。タイミング狂わされて」
「ちょっと待て!! それはこっちの台詞だぜ!! どんだけ俺が我慢してきたことか!」
 こっちが珍しく必死に耐えてきていたことなどまるっきり無視のリョーマの台詞に、隼人はあっという間に激昂する。
「お前、ハッキリ言って、ダブルス、ヘタすぎ」
「テメーに言われたかねぇや!! ワガママな動きしやがって、あーやだやだ、一人っ子は!」
「本能に任せた山ザルの動きよりはマシだと思うけど」
「ぁんだと、コラ!!」
「青学ペア、早くポジションに着きなさい!!」
『う……。……スンマセン』
 先刻と同じように怒られて、隼人とリョーマは渋々それぞれのポジションに向かった。審判に逆らえば失格になりかねない、そんなのはごめんだった。
 だけど―――
 こんなすっとこどっこいと同じコートで試合なんてできるか!
(ちっ、しかたねぇな!)
 隼人はがっとラケットを握り、コートの中央に立つ。と、リョーマも同じように中央に立ったのを見て、なんだ同じこと考えてたのかとちょっと面白くない気分になった。
「なーんだ、お前も同じこと考えてたんだ。少しは知恵、ついたんじゃない?」
 平然とした顔でそんなことを言ってくるからますます気分が逆撫でされる。隼人はコートの中央に縦にラインを引きながらぐわっと噛み付いた。
「るっせーな! このラインからこっちのボールは俺のだかんな!!」
「じゃ、俺はこっちのコートね。くれぐれも俺の縄張りには入って来ないように」
「縄張り、ゆーな!!」
 叫んでサーブ位置に着く。竜崎や先輩たち、天野がざわめいているのは聞こえたが、そんなのこの際どうだっていい。
 俺は自分だけの力で敵と勝負してやる!
 ぽん、ぽんと二回球を跳ねさせて、全力でサーブする。向こうは伊武が拾おうとしたが、隼人の強烈なサービスを受けそこねてラケットを弾いた。
 伊武に強烈な視線で睨まれたが、隼人はにっと笑ってみせた。ようやく調子が出てきたって感じだ。このまま一気に勝ってやる!

 ゲームカウント4−3。サービスは伊武。
 前回の伊武のサービスゲームでは伊武のキックサーブを打たれまくり、それをまともに捉えられなかった隼人に集中攻撃をされて落としたのだが(当然リョーマには「結局口だけ?」とか言われて頭に血が上った)、今度こそしっかり捉えてやる。
 伊武がこちらに跳ね上がってくる強烈なサーブを放つ――だが隼人はその上がりばなを捉えた。伊武と逆サイドにロブを返す。
 伊武はそれを拾い、こちらにショットを打ってきた。それをさらに逆サイドに返す――伊武が拾う。
 それを何度か繰り返していると、ふいに一瞬、腕が動かなくなった。
「!?」
 その一瞬の隙を突かれてショットを決められる。リョーマがちらりとこっちを見て、冷たく言った。
「やる気、あるの?」
「う、うっせぇ! 今のは敵の力を確かめただけだ!」
「もう8ゲーム目なんだけど。もうそろそろ勝ちにいってもいいんじゃない?」
「だーっ、わかってるよっ!」
 今のはなんだったのだろう。なんだか一瞬腕が固まったような気がしたのだけど。
 とにかく次は取る、とぎゅっとラケットのグリップを握り締める。次にボールが飛んでいったのはリョーマの方だった。リョーマも強烈なキックサーブをあっさり返し、それを返され、強烈なショットで返し、とやっている。
 今度はリョーマの方にボール集める気か面白くねぇ、と思いながらたんたんと軽く飛び跳ねていると、今度はリョーマの方にショットが決まった。
「んだよ、お前だってポイント取られてんじゃねぇかよ」
 すかさず囃すと、ちろりと冷たい目で見られ言われた。
「俺は山ザルと違ってこれが初めて落としたポイントだからね。お前に言われる筋合いないと思うけど?」
「嘘つけリョーマっ、お前さっきお前にボール集められた時ミスショット打ってたじゃねぇか!」
「あれはお前のせいじゃん。お前がこっちの縄張りに入ってこようとするから」
「入ってねぇよ! ただお前がとろとろやってるからじれったくなって体が疼いただけだっつの!」
「青学ペア、私語は慎みなさい!」
『う……。……スンマセン』
 お互いまたも渋々という顔でそれぞれのポジションに着く。伊武がまたもキックサーブを打ってきた。
 そこからまたさっきと同じ展開。一人にボールを集められて腕が固まり、その隙を突かれて決められた。
 0-40という状況に追い込まれ、隼人は唇を噛んだ。このままではまずい。伊武はこちらの腕を一時的に麻痺させることができるらしいというのはなんとなくわかるのだが、そんなのどうやってやれるのかなんて隼人は知らないし解決策も思いつかない。
 今度はリョーマにボールが集められた。途中で割り込んでやればあの攻撃もなくなるかと思うのだが、陣地を分けてしまった以上そんな真似はできない。
 あーくそムカつくリョーマのバカヤロ、と内心で八つ当たりしつつやきもきしながらリョーマを見守っていると――
 リョーマがおそらくは固まっているだろう腕を強引に伸ばし、ショットを返そうとするのが見えた。
 だが腕の筋肉が硬直した状態で返球するなどしょせん無理だ。リョーマの手からラケットがすっぽ抜け――
 ラケットはポールにぶつかって折れ、跳ね返ってリョーマのまぶたを切り裂いた。
「――――!」
 一瞬、心臓が止まった。

「大丈夫、リョーマくん!?」
「うわぁリョーマくんすっごい痛そうだよ!? すっごい深いの、もーざっくりって感じ。肉が裂けてるよ、血ぃどばどばだよ、痛くない?」
「……いちいち解説しないでくれる、赤月」
 竜崎先生やレギュラー陣に囲まれているリョーマを、隼人は呆然と見ていた。手が動かない。足も動かない。駆け寄りたいと心では思っているのに、なぜか体が動かなかった。
 だって、もしリョーマの怪我がめちゃめちゃひどかったら? もうテニスができないとか言われちゃったら?
 そんなことになったら――もう自分は、どうしていいかわからない。同じコートに立っていた、気に入らなくってでもだからずっとでかい顔をし続けるだろうと思ってたリョーマが、いなくなるなんてことになったら。
 そんなの――そんなの絶対嫌だ!
「……どうですか、竜崎先生」
「どうもこうもないよ。血が止まりゃしない」
「試合続行は無理ですね……」
「棄権するしかないよ」
 ――その言葉を聞いた瞬間、初めて足と口が動いた。
「そんなの駄目っス!」
「……赤月?」
 竜崎先生と手塚部長、その他青学レギュラーの面々がぐるりとこちらを向く。普段ならビビっていたところだろうが、この時ばかりはそんなこと気にしている暇もなかった。
「リョーマの奴がそんなの認めるはずないっス! こいつめちゃくちゃ負けず嫌いでくそ偉そーで高飛車で、負けるなんて全然似合わない奴なんスから! 怪我で棄権なんて全然こいつらしくないっス! こいつ怪我しようがなんだろうがしっかり勝って、そんで戻ってくるんじゃなきゃ駄目なんスよ!」
「……赤月。あんた自分もその試合に出てること忘れてないかい?」
「う……」
「……山ザルにしちゃ、わかってるじゃない」
 赤面する隼人をよそに、リョーマはすっくと立ち上がった。
「やるよ。絶対勝ってやる」
「越前! 無理するな。そんな怪我で試合なんてできるわけないだろう!」
「やるっス」
 そう言い出したリョーマに、隼人は思わず満面の笑みを浮かべていた。
 こいつは大丈夫だ。そんなに簡単にいなくなったりしない。Lサイズの態度で長々とコートに君臨し続けるに決まってるんだ。
 それなら俺は――こいつに完璧に勝つまで、それを手助けしてやるっきゃねぇ!
「大丈夫っスよ、大石先輩。こいつが動けなかったとしても、俺一人で勝ってみせるっス。こいつはじっとしてりゃいいんスよ」
「ちょっと、勝手なこと言わないでくれない。第一お前じゃ二対一で勝てるわけないじゃん」
「んだと!? だったらてめぇは勝てるっつーのかよ」
「当たり前じゃん」
「あっさり敵の策にハマってミスったくせしゃあがって」
「俺以上にあっさりハマったお前に言われたくない」
「いい加減にしろ、二人とも。まだ試合は終わっていないぞ」
『……スンマセン』
 黙りこんだ二人を眺めてふぅ、とため息をつき、竜崎はリョーマのまぶたに応急処置を始めた。
「せいぜいがもって十五分ってところだよ」
「十五分……」
「越前、赤月。――十分以内に勝て。そうでなければ棄権させる」
「――ウィーッス」
「了解っス!」
 ちろりと視線を見交わし、うなずきあう。自分はリョーマの考えていることがわかったし、リョーマも自分の考えていることがわかっているのがわかった。
 なんとしても十分以内に勝ってやる。

「リョーマ」
 コートに戻りながら隼人は話しかけた。
「何」
「さっきの陣地のやつ。あれ、なしな」
「なんで」
「なんでじゃねぇだろ。俺はお前のフォローしなきゃならねぇんだぞ」
「いらない。かえって邪魔」
「ぁんだと、コラ!? てめぇ自分の怪我わかってんのか、本当だったら速攻で病院行かなきゃなんねぇような怪我なんだぞ!?」
「最初に試合しろっつったのお前じゃん」
「だからそれはぁっ……!」
 お前が。俺よりずっと強いって、心のどっかでそう認めてるお前が。
 俺以外の奴に負けるなんて、絶対嫌だったから。
 ――そんなこと言えるか!
「とにかく! さっきのはなしだぞ!」
「……ま、いいけど。その代わりそっちの縄張りのも取るからね」
「縄張りゆーな!」
 ゲームカウント4−4、隼人のサーブ。隼人はすぅ、と息を吸い込んだ。
 十分以内に決められるか。敵は強い。けど。
 ここで決めないで毎日ラケット振ってきた意味なんかねぇっ!
 渾身のサーブ。伊武は返したがコースが甘い。全力でセンターに打ち込み、伊武と神尾の間を抜いた。
 隼人はにやりと笑んだ。伊武がどうやってこちらの腕を麻痺させているかはわからないが――考えてみれば、そんなもの麻痺する前にこっちが強烈なショットでゲームを取ってしまえばいいだけのことだ。
 続いてのサーブを神尾が拾う、逆サイドに返してきた球をリョーマがボレーで返して決めた。
 ちょっと面白くないが、まぁいいやと思えた。負けるよりはリョーマにやらせた方がマシだ。
 次のサーブはノータッチエース。ゲームポイント。全力のサーブは神尾に拾われたが、しばらくのラリーのあと逆サイドに上げたロブに神尾は追いつけなかった。ゲームポイント5−4。ここまでで五分。
 あと五分で1ゲーム取らなけりゃ……と気合を入れる。神尾のクイックサーブが放たれた。早いペースは望むところだ。逆サイドに返して伊武にスマッシュを打たれたが、それをさらにリョーマがスマッシュで返して15−0。
 次のサーブはリョーマが返したボールをスマッシュで返され、それを隼人がボレーで深い球を打ち30−0。
 次はしばらくのラリーのあと、また逆サイドをついたロブで40−0。マッチポイント。
 ここまでで四分。あと一分。ぎゅっと隼人は奥歯を噛み締めた。
 神尾がサーブを打つ。リョーマが返す。神尾が拾う。隼人がスマッシュを打つ。
 またラリーになった。残り時間は刻一刻と減っていく。まずいまずいまずいまずい、とぎりぎり奥歯を噛んでいた隼人は、緩いボールが自分の少し先を動いていくのを見て思わず走った。拾える――ボレーできる。
 だが途中でその足は止まった。
 なんでなのかはよくわからない。ただ、視界の隅でリョーマが動いているのが見えた。
 リョーマが拾えるからいいやと思ったわけではない。隼人はそんな控えめな性格ではない。
 ただ、リョーマが返した球を向こうが返すなら、たぶんそのボールと逆サイドだ、と自分のテニスの勘が告げていて――
 きゅっと動きを止めて、敵の次の球に対応すべく身構えたのだ。
 ――リョーマの返した球は、見事にセンターを走り抜けた。
 ゲームカウント6−4。――勝ったのだ。

「………よっしゃー! 勝ったぞ!!」
 隼人はラケットを高々と振り上げた。勝った。無事勝てた。
 リョーマの怪我を乗り越えて無事勝てた――そのことがめちゃくちゃ嬉しい。ベンチからもわっと歓声が上がった。
「……そうだね。ま、悪くはなかったんじゃない?」
 隼人は思わず目を丸くした。リョーマがほんの少しでも自分を認めるような発言をしたのは、これが初めてだったからだ。
「もう少し、ちゃんと動いてくれればもっとラクに勝てたんだけどね」
「ぁんだと、コラ! リョーマが俺の邪魔をしてたんだろ!」
 こんにゃろやっぱり可愛くねぇっ、とグリップを握り締める――とたん、リョーマのまぶたの上のテーピングが目に入ってはっとした。
「そーだお前早く病院行かなきゃまずいじゃねぇか! おらさっさと挨拶済ませてさっさと行くぞ!」
「……お前、一緒に来る気?」
「へ」
 言われて初めてまるで一緒に行く気満々だったかのような台詞だということに気づき、隼人は顔を赤くして怒鳴った。
「細かいこと気にするな、バカ!」
「お前にバカって言われる筋合いないんだけど?」
「バカじゃねぇか。だいたい麻痺した腕で強引に打ちにいこうなんて無理するからそんな怪我することになんだよもーちょい考えろバカ!」
「お前がパートナーじゃちょっとぐらい無理しなきゃ勝てないと思ったからやっただけだけど?」
「ぁんだと、コラ!?」
「コラあんたたちっ、挨拶もまだなのに騒いでるんじゃないよ!」
『う……スンマセン……』
 少し呆気に取られたような顔をしている不動峰の選手二人と礼をして、青学の選手全員出てきて挨拶。それが終わるとリョーマは竜崎先生に連れられて病院へ直行と相成った。
 それをなんとなくぼーっと見送っていると、巴がくすくす笑いながら言ってくる。
「はやくん、リョーマ君がそんなに心配?」
「バッ……んなわけねーだろ! あんな奴どーせ殺したって死ぬわけねーんだから!」
「あはは、無理することないのに。すっごい不安そうな顔してリョーマ君の後ろ姿見てたよ?」
「そんなんじゃねぇって……!」
「お、赤月兄、パートナーの心配か? 感心じゃねぇか」
「普段いつも言い合っているのにいざという時のこの絆の強さ……データを修正する必要があるな」
「ふふ、隼人はなんのかんの言いつつお人好しだからね。越前とも気が合ってるみたいだし」
「隼人くんは素直じゃないけど、リョーマ君と仲いいですもん」
「だっからそーいうんじゃねぇんですってば!」
 顔を真っ赤にして怒鳴りながら、隼人は腹を立てていた。
 んっとに、リョーマの馬鹿野郎。ダブルスはめちゃくちゃやるわ心配かけるわで、ムカつくったらありゃしねぇ。あいつのせいでこんな風にからかわれることになるんだ。
 今度組んだら、思いっきり思い知らせてやらねぇと。ダブルスっていうのは、二人でやるもんなんだって。
 あいつと組んで、ちょっとそれがわかったんだから。
 そこまで考えて、隼人はカッと顔を赤くしてぶるぶるぶるっと首を振った。冗談じゃねぇなに考えてんだ俺はあんな奴と組んでなにがわかったっつーんだ!
 ――そうぷりぷりしながらも、隼人はどこかで、自分らしいテニスがダブルスでできたという事実を認め、ひどく気分がよかったりしたのだが。

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