そして、君の還るところ
 ばーん! という音を立てて、勢いよく開いた我が家の扉にユーリルは仰天してソファから飛び上がった。あやしていた我が子(一歳になる男の子の方だ。ちなみに名前はソロ)も驚いて、わぁっと泣き出し始める。
「おーっと、よーしよしよしよし大丈夫だからなー……って、え? ライアンさん? と、ホイミン?」
「ユーリル!」
 自らの結婚した相手であるホイミンを横抱きにして抱え、目を血走らせ大きく見開き明らかに常軌を逸しているとわかる顔で、自分とかつて共に旅をした仲間、ライアンは叫んだ。
「子供ができた!」
「……………」
 一瞬ぽかん、としてからおそるおそる訊ねる。
「えー……っと。それって、誰に?」
「ホイミンにだ!」
「……え゛ぇ゛え゛ぇ゛ぇ゛え゛っ!!?」
 ユーリルは全力で目をかっ開いて叫んだ。そして父親の叫びにますます勢いを増して泣き始めるソロを慌ててあやしつつ、ユーリルはたった今言われた言葉に対する驚きを必死に消化しようと試みる。
 だって、子供って、ホイミンに子供って。それって普通に考えてライアンさんとだろうけど。それ以外の相手と子供作るような真似死んでもしないだろうって思うけど。だけども。
「ライアンさんもホイミンも、男だろ……?」
 呆けたように呟くや、泣き止みかけていたソロがまた勢いよく泣き出したので、慌てて懸命にあやした。

 ルーラで飛び回っても、世界中から仲間が集まることができたのは陽が沈んでからのことになった。
 サントハイムの王女アリーナ(もうすぐ女王になるらしい)。彼女付きの神官クリフト。同じく彼女付きの相談役ブライ。
 世界に名だたる大商人トルネコ(エンドールの店を売って旅に出たりまた買い直したりまた売ったり固有の店を持たない商人たちの相互扶助組織を作ったりいろいろしているらしいのだが今回は幸いエンドールにいた)。今回はその妻のネネと息子のポポロも一緒に来てくれた。
 ここモンバーバラで踊りの教室を開いているユーリルの妻マーニャと、その妹である旅の占い師のミネア(この前手紙を送ってきた街に行ったらまだそこにいたのだ)。
 そして、子供ができたと叫びながら我が家に飛び込んできたバトランドの王宮戦士ライアンと、その妻……というか、パートナーである元ホイミスライムのホイミン。
「わぁ、ヴィラちゃんもソロちゃんも、また大きくなったわねぇ。今、いくつ?」
「ヴィラが三つでソロが一つ……っつかな、今んなこと話してる場合じゃねーだろ」
「そうね。姉さんとユーリルの子供の成長具合が平均よりやや遅れていることやちゃんとお乳やご飯を上げているのかということはまた別の機会にただすとして」
「え、マジかよミネアホントに遅れてんの? どのくらい? 他の人に聞いてもそんなこと言われたことねーんだけどマジで遅れて」
「別の機会に、つってんでしょ。心配しなくても遅れてるったって誤差の範囲内よ、あたしだってコーミズ村やら劇場やらで何十人も子供見てんだから気になるほど遅れてたら気づくっつの、ミネアはいっつも大げさなんだから……とにかく。今はホイミンのことよ。どうなの、クリフト?」
 マーニャに問われて、ホイミンの腹部に聴診器を当てていたクリフトは、難しい顔をしながら聴診器を外し言った。
「間違いありませんね。鼓動が聞こえます。男性が妊娠した際の医学的な兆候というものはさすがに知りませんが……肛門からおりもののようなものが下りてきていること。体内を調べてみた時の反応。他のことについて調べても、月のものに関すること以外は女性とほぼ変わらない妊娠兆候を示していること。……以上の事実から、ホイミンさんの腸内の奥に……場所はもっと詳しく調べてみなければいけないでしょうが……とにかくそこに子宮のようなものができて、胎児はそこにいるのだと思われます」
「…………」
 ホイミンが混乱しきった顔で手を握っているライアンの顔を見上げる。ライアンの顔も負けず劣らず混乱しきっていたが、それでもしっかりとホイミンを見返し、その手を強く握った。
「だいたい三ヶ月というところでしょうか。もう少ししたらお腹が膨らんでくると思います。……女性と同じだと考えれば、ですが」
「そ、そーだよ妊娠の症状がどうとか以前にさ、ホイミンもライアンさんも二人とも男じゃん! どうやって妊娠できたんだよ?」
「わかりません。……正直、『ホイミスライムから人間』というほどの大きな変化を起こした存在ならば、体の仕組みも通常の人間とは異なっているのかもしれない、ということしかはっきりしたことは言えないのです、前例がひとつもないわけですから」
「確かに、のう……医学の常識がまるで通用しないのじゃ、なにが起きてもおかしくない、としか言えぬな……」
『…………』
 一瞬場の空気が重く沈んだが、すぐにぱんぱんとトルネコが笑顔で手を叩いてみせた。
「はいはい、みなさん、そう暗くならないで! 胎教によくないでしょう?」
「た、胎教、ですか……」
「そうですとも! 前例がない、けっこうじゃないですか。これまで生まれたことのない子供なら、きっとこれまでにいなかったくらい幸せな子に育ちますよ! そりゃこの先どんな苦労があるかもわかりませんけどね、はっきり言えることがひとつありますよ?」
「え……なんですか?」
「お父さんとお母さんがどんと構えて、生まれようとしてる子供を愛おしまなくっちゃあ、子供にも夫婦にも、幸せはやってこないってことです!」
「……あ」
 小さくホイミンが声を漏らす。その不思議なほど気の抜けた、どこか安堵しているとすら感じられる声に、アリーナが大きくうなずいた。
「そうね……そうよね、さすがトルネコさん。どんなことが起きるかはわからないけど、そうしなくっちゃ絶対よくないもんね」
「姫様……お言葉ですが、この胎児がどこからやってきた存在なのかもわからないうちに愛情を抱けるほど、人間というものは簡単にできては……」
「もう、クリフトったら。本当に、いつもそうなんだから。マイナス面ばっかり考えてたら、人を好きになるなんてできないでしょ?」
「ひ……姫様、姫様の御身はもはやサントハイムの国そのもの! そのようなことをおっしゃられては」
「阿呆。そのようなこともなにも、姫様のおっしゃっているのはお前の言っているようなことではないとすぐにわかろう。下種な勘ぐりをするでない、たわけが」
「し……しかし、もし万一ということがあれば」
「ごっほん。……ライアン殿、ホイミン殿。わしも魔法的な側面からならば、少しは力になれると思いますぞ」
「そうそう。私だってできることがあればなんでも手伝うから、いつでも言ってね。ほら、クリフトも」
「……私でよければ、これからもホイミンさんの主治医としてお体を診させていただきます。お勤めが終わってからになりますので、診察は夜になってしまうと思いますが、それでもよろしければ」
「それはもちろん……願ってもない」
「……我が子を愛する気持ちは神もご照覧くださるでしょう。想い続ければ、きっと神のご加護があります」
 それぞれに相変わらずながらも、サントハイムの三人組は真面目な笑顔でライアンとホイミンに語りかける。それにミネアも真剣な顔で続けた。
「私も、お産婆さんのお手伝いをしたこともありますし……占い師として、私なりにアドバイスはできると思います。少しでもホイミンさんの気持ちを楽にすることなら、できるかと」
「あたしも一応、出産経験者だからね。わかんないことがあったらなんでも聞いていーわよー。ね、ネネさん?」
「ええ、もちろん。とりあえずは食事からですね。妊婦にはとっても栄養が必要なんですから。普段と同じ食事をただ食べればいいというものでもないですし」
 経産婦ならではの頼もしい笑顔で言うマーニャとネネに続き、ユーリルは笑顔でぱん、とライアンの背中をはたいた。気合と激励の気持ちと力を込めて。
「だよなぁ、マーニャもつわりとかいろいろすっげぇ苦労してたし。夫の方もこれから大変だぜ、頑張れよ? ライアンさん」
「…………」
 ライアンはどこか呆然とした顔でユーリルを見返し、ホイミンを見て、周囲の人間の顔を見回し、改めてホイミンの顔を見る。そして、ホイミンがひどく戸惑った顔をしながらも、真摯な視線で自分を見つめているのに気づいたのだろう、おそるおそるというように身をかがめ、ホイミンの腹部に耳を着け、目を閉じた。
 とくん、とくん、とくとくん、とくん。ただ耳を着けただけでは聞こえない。感じられるのはホイミンの体温と、鼓動だけだ。
 なのに、この中には命が宿っているのか。どこから来たのか、本当に祝福されるべき命なのか。……ホイミンの命を蝕むようなことはないのか。
 心配は尽きない。不安も尽きない。だが、確かなことは、ここに確かに、命が息づいていることだ。ホイミンの中に、確かに。
「……ライアン、さん」
「ホイミン」
 ぎゅ、とまた手を握る。はっきりと、力を込めて。そばにいることを知らせるために。
「大丈夫だ。私は、ここにいる」
「うん……うん。ありがとう……」
 甘い雰囲気が漂いかけたところへ、マーニャがぱんぱんと手を叩いてその空気を消し飛ばした。
「はいはい、いちゃいちゃすんのは二人っきりの時にたっぷりしっぽりやんなさいね。あ、子供できたんだったらまずいか」
「え、そうなんですか?」
「妊娠初期なら気をつければ駄目っつーこたないらしいけどさ、もしアレ突っ込んだとこに子供がいたらヤバいでしょっつー話で」
「マーニャ殿……そういった話は私にしていただければ」
「うわ、聞いたユーリル? このおっさん本気でガキまで作っといて『自分の若妻はなにも知らない純真な自分だけの可愛い宝物なんだー』なんてことマジで思ってるわよ?」
「マーニャ殿……」
「ライアンさん、そりゃまずいだろー。ホイミンだってもーガキじゃねーんだから、自分で知っとかなきゃなんねーことは教えねーと」
「……ホイミンは人間になってからは八年半しか経っていない。八歳半も同然だ」
「ふーん、そんな子供に手ぇ出したんだ、あんた」
「…………」
「もう、姉さん! 人様の夫婦生活に口出ししないの! ライアンさんだって怒ってるじゃない」
「いや……」
「ライアンさん……怒ってるの?」
「いや、そんなことはない。ホイミンが気にすることはまったくないぞ」
「……まぁ、そういったお話はとにかく。とりあえずブライさまにももう一度きちんと検査をしていただいてから、診察の日を決めましょう。キメラの翼が胎児に悪影響を及ぼす可能性を一応考慮に入れて……」
「えっ、キメラの翼って、赤ちゃんによくなんですかっ!?」
「いえ、そのような事例は報告されていないのですが、あなた方の場合はまた違うかもしれませんし。それに、どちらにしろ安定期に入るまではあまり運動しない方がいいので、私の方が診察にうかがわせていただきたいのですが」
「すまない、クリフト殿……申し訳ないが、ぜひお願いしたい」
「わしも同行して診察を手伝おう。医学についてはわしよりもクリフトの方が詳しいが、わしの経験がなにかの役に立つこともあるかもしれん」
「すいません……本当に、ありがとうございます」
「いやいや。ライアン殿の奥方にできるだけのことをするのは当然じゃ」
「お、おくがた……」
 ぽっと顔を赤くするホイミンに、また空気が和む。マーニャがつんつんとライアンを肘でつついた。
「あんたってホイミンについてはほんっとわかりやすい奴ねー、顔がでろでろに緩んでるわよ」
「……む」
「ま、あたしも暇見つけて様子見に来るから。なにかおかしなことがあったら連絡するわ、クリフトとかにも」
「私も、ホイミンさんのお子さんが生まれるまではこの近くにいて姉さんに同行させてもらおうかしら。私なりにでもお手伝いがしたいし」
「あ、いいなぁ。私もホイミンの様子見に行きたーい」
「姫さま! お立場をおわきまえくだされ、数年後の即位に向けてご公務が山積みである時に」
「はいはーい、わかってるわよ。……じゃあ、私の分もちゃんと二人とも二人の力になってよ?」
「もちろんです、姫さま。神の名に懸けて、微力を尽くさせていただきます」
「はは、それでは私は別のところから力になりましょうかな。ホイミンさんのような例が他にないか、あったとしたら助けになるものはなにか、調べてみたいと思います。ユーリル、すいませんが手伝ってもらえますか?」
「え? 俺は全然いいけど……俺で役に立つのか? あんま調べ物とか、得意じゃねーんだけど」
「いえいえ、あなたにはあなたにしかできないやり方というのがあるんですよ。……そういうわけだから、しばらくは商売にあまり力を入れられなくなるけれど、いいかい? ネネ」
「はい、あなた。もちろんですとも。お店の方は任せておいてください」
「うん、お父さん! 僕ももう成人だし、店の方は任せておいてよ! ……あ、そうだ、ホイミンさん!」
「え……はい?」
 ポポロとあまり話したことがないので、なにを言われるのだろうとホイミンが目を白黒させていると、ポポロは笑顔で言ってきた。
「ホイミンさんのお腹に、耳当ててもいいですかっ?」
『……え?』
 ホイミンを含めた数人が揃ってきょとんとしたが、トルネコとネネは心得た様子で笑ってみせる。
「ああ……ポポロ、最近妊婦さんとお近づきになるっていうことがなかったからねぇ。子供っていうのがどういうものか、思い出したくなったのか」
「まぁ、ポポロも年頃になったのねぇ。今から子供のことを考えるなんて」
「別にそういうわけじゃないけどさぁ。赤ちゃんがお母さんのお腹にいる時どんな感じなのか、って考えてみたらあんまりよく知らないなって思って。あ、もちろんホイミンさんが嫌だったら断ってくれて全然いいんだけど……どうですか?」
「……えと……ライアンさん。いいですか?」
「……ああ。ホイミンがそう望むのなら、私はかまわん」
「えと……じゃあ、どうぞ」
「わぁ、ありがとう!」
 笑ってポポロは身をかがめ、ホイミンの腹部に耳をくっつけて目を閉じる。
「わぁ……あんまりどくんどくんいったりはしないんだなぁ……ホイミンさんもまだ、お腹薄いし」
「それは、まだ妊娠三ヶ月ですからね。もう少ししたら鼓動も少しずつはっきりしてきますよ」
「へぇ……でも、なんだろうなぁ。なんだか……懐かしい感じがする。なんだか、ずっと知ってたみたいな、生まれる前から知ってたみたいな……」
 その言葉に、赤ん坊を作ったことのある面々は、顔を見合わせて苦笑した。
「そうだな……そういう気持ちは、わかる気がするな」
 自分たちも突然手の中に生まれた命に、生命というものにたいする畏敬と驚きと、そしていくぶんノスタルジックな想いを抱かずにはいられなかったのだから。自分もかつて、こうして親に誕生を見守られ、今自分たちがやっているようなことを我が子もやって、そうして命は続いていくのだ、と。

「……ふむ。……うぅん……」
 クリフトがホイミンの体内を開いている内視鏡を前に唸ると、即座にライアンが反応した。
「クリフト殿。いかがした」
「……いえ、まだわかりません。……それとライアンさん、一応診察中は区切りがつくまでお静かにしていただけると……ご心配なのはわかりますが、集中したいので」
「む……これは、申し訳ない」
 ゆっくりと内視鏡を抜き、消毒と身づくろいを終え、ホイミンたちが身づくろいを終えるのを待ってから、クリフトは二人に向き直った。診察の結果はその都度どんな結果であれ細かく報告する、というのは最初にすでに知らせている。
「……考えたのですが、これまでの内診の結果も合わせると、どうやらホイミンさんの腸内に子宮のようなものができているのはほぼ間違いないようです。ただ、より正確に言うならば、腸内というより直腸のすぐ外側に新しい臓器ができている、というような形になっているのですが、その臓器はこれまでのところほぼ妊娠した女性の子宮と同じ働きをしているようです」
「む……」
「その臓器は骨盤内で位置的にも一応安定しているようですので、日常生活はとりあえず送れると考えていいと思われます。筋腫や炎症などもないようですし、胎盤もできてきています。経過は順調と言っていいでしょう」
「そうですか……よかった」
「ですが、どうか注意してくださいね。男性の妊娠、しかも新しい臓器を作ってしまった状態というのは本当に例のないことですので、なにが命取りになるかわからないのですから」
「う……はい」
「それと、ホイミンさんの骨盤は男性にしては驚くほど大きく、胎児が標準的な体格ならばまず妊娠状態を継続するのは問題ないと思われますが、骨産道――骨盤のこの、胎児が通る穴の部分ですね、は胎児が通れるほど広くはありません。ですから、男性ということもあり最初から予定していましたが、やはり帝王切開にした方が安全だと思います」
「ていおうせっかい……って、えっと、お腹を裂いて中から子供を取りだす、っていうやつですよね?」
「はい。執刀医を務めたことも何度かありますので、助手を用意すれば問題なく行えるかと。こちらで用意してもいいですし、お二人に心当たりがおありならそちらで当たられてもかまいませんよ」
「いや、我々は普段ほとんど医者にはかからないのでな……申し訳ないが、クリフト殿にお任せしたい」
「わかりました。あの、ほんとに、毎日ありがとうございます。毎日、クリフトさんも、お忙しいのに」
「いえ。新しい命のため奮闘できるのは、神のしもべとしてはむしろ喜びです。こちらこそ、お二人のお手伝いをさせていただけてありがたいですよ」
 クリフトは穏やかな笑顔を浮かべてうなずいてみせる。それにほっとしたようにライアンとホイミンはうなずき、お互いを見て視線と微笑みを交わし合った。思いきり愛に溢れた、蕩けそうな顔で。
 ……少しばかりはここまで堂々といちゃつく二人にイラッ、とくるものを覚えなくもないが、新しい命のために奮闘できるということが嬉しいというのは嘘偽りのない感情だった。幸せな人生を、幸せな出産を、幸せな結婚生活を送る人間を見るのは、心がほっと慰められ、優しい気持ちになれることだ。
 自分には絶対に得られないものだと思うので、なおさら。
 こんな風に幸せな人間を見ると、クリフトはいつもアリーナのことを思い出す。クリフトにとってアリーナがただ一人の存在であり、なにより優先すべき対象であること。それはもう、いまさらどうにも変えようがないことなのだ。
 そして祈らずにはいられない。アリーナにもどうか、こんな幸せが訪れてくれるようにと。
 ……純粋な心で祈ることができているとはとても言えない。アリーナをその手に抱くことができる男のことを考えると、何度も何度も経験しそのたびに必死に押し殺しているというのに、憎悪と呪詛の感情が腹の底から湧いてくる。
 けれども、それでもアリーナに幸せになってほしいと思うのは確かなのだ。――そして、自分はその相手にはふさわしくないだろう、と思うのも。
 あんなに眩しく、気高く、美しく輝いている人には、自分はとうてい、釣り合わないだろうから。

 天空城。もう二度とやってくることはないだろうと思っていた場所。
 そこにユーリルは、トルネコと一緒にやってきた。最近はたまの手入れ以外には触っていなかった、天空装備一式を身にまとい。
 当然、目的はホイミンの体のことをマスタードラゴンに聞くためだ。ライアンたちの話が本当ならば、ホイミンを人間にしたのはマスタードラゴンのはず。ならばその体の変化について訊ねるのは、マスタードラゴンしかいないだろう、とトルネコに言われ、不本意ながらも納得したのだ。
 以前いつもそうだったように、ルーラで雲の上に飛んでくると、とっとと城門に向かう。門衛の天空人たちは自分を認めると、「これは、勇者殿! どうぞお入りください!」と敬礼してきた。
「……トルネコさんのこと無視かよ」
「いやぁ、ははは。世界を救った勇者と勇者の仲間が一緒にいれば、勇者を優先してしまうのはしょうがないことだよ」
「勇者……ね」
 けれど、自分は、今でも納得できていないのだ。なぜ自分が勇者なのか。なぜ自分でなくてはならなかったのか。なぜ自分のために、あの人たち――自分を育てた人々は死ななければならなかったのか。なぜ自分を生みだした母親は幽閉され、父親は殺されねばならなかったのか。
 そして、なぜマスタードラゴンは、自分の父親を殺したのか。
 恨んでいる――というのとは、違う気がする。顔を見たこともない、育てられたわけでもない遺伝上の父親の死を、悼むことならまだしも殺害者を恨むほど嘆くというのは少しばかり難しいことだ。本物の両親に育てられるというのがどういう感じだったか知ってみたいな、とは思うけれども。
 ただ、その話を聞いて、ユーリルはひどく腹が立ったのだ。殺された自分の父親と、半幽閉の状態でずっと一人で暮らしてきた母親がすごく可哀想だと思った。自分の両親としてではなく、普通に生きている一人の人間として。
 違う種族っていっても結婚生活を営んで子供を作れるくらいの違いなんだろうに、それを怒って相手の男を殺すなんて奴はユーリルは嫌いだ。腹が立つ。ぶん殴ってやりたくなる。許せないと思う。しかも、そんなことをした相手を勇者として選ぶなんてどういう神経してるんだと疑わずにはいられない(なぜ自分が勇者なのか、という焦げつくような想いとはまた別に)。
 なので、最初に会った時にその辺りを全力でぶつけてみたのだ。
「なんで俺を勇者に選んだんだ。なんで俺が勇者なんだ」
「なんで俺の父親を殺したんだ。なんで母親を苦しめてるんだ。なんで天空人と人間が結ばれちゃいけないんだ」
「あんたは何者なんだ。そして何様なんだ。竜の神様ってみんなに崇められてるけど、そんな玉座に座ってあんたはいったいなにをやってるんだ」
 返ってきた答えは、どれもふざけんなと言い切ることはできなかったものの納得できるわけでもない、という微妙なものだった。
「私がお前を勇者に選んだわけではない。ただ、私は生まれる前からお前が勇者だと、魔王を倒すほどに強くなれる存在だとわかったのだ。だからそのために環境を整えた。きたるべき敵との戦いのために」
「天空人と人間が結ばれていることを禁ずるのは、種族の保護のためだ。天空人は寿命は長いが、繁殖力が人間よりはるかに低い。そして人間との間に作った子供は天空人の特徴をほとんどすべて失ってしまう。種族の保護のためには互いの交流を禁じるしかない」
「お前の父親を殺したのは、神罰を与えることで周囲に神威を思い知らせるというためもあったが、それ以上に天空城の主として許せなかったからだ。お前の父親は、確かにお前の母親を愛してはいたようだったが、ほとんど騙し討ち同然のやり方でお前の母親を娶り、だというのに恒常的に暴力を振るうような人間だった」
「お前の母親を苦しめているのは私ではない、お前の父親を本当に愛してしまったという私への、殺してしまったという自らの夫への、育てられなかったというお前への罪悪感だ。勇者を産んだという崇敬と掟を破ったという軽蔑の入り混じる周囲の天空人の視線にも苦しめられてはいるだろうが、人の心までは私がどうこうすることはできない」
「私はマスタードラゴン。すべてを知るもの。力あるもの。最強と定義されるべき存在。黄金の竜神。天空城の主。天に在り世界を見守るもの。私がなぜこのような力を持つかは私も知らぬ。ただ私は天空城に在り世界を見守り、世界が崩壊するほどの変異にのみ力を振るうことを自らに課しているのみ。私の力は強すぎて微調整が効かず、地上に直接力を振るえば救える命以上の被害を生み出してしまうからだ。人の神威に対する畏敬の感情を使っていることは確かだが、私は人間にも、天空人にも、自らを崇めろと命じた覚えはない」
 ……なんというか、いちいち明快なのは確かだが、どうにもこう、ムカつくというか腹が立つというか、とにかくどうにも納得ができなかった。いちいち上から目線で偉そうだし(まぁ強い存在が絶えず世界の危機がないか目を光らせながら周囲に崇められればそうなるのもわからないでもない)、情がないし(上に立つものが情に流されてはならないというのも確かかもなとは思うが)、身勝手、自分勝手な感が拭えない。こっちをなんだと思っているんだというか(偉い人というのはたいていそんなものだ、と言われるとそうかもなぁ、とも思ってしまうのだが)。
 なのでこう、素直に従うこともできず、てめームカつくと喧嘩を売るほど憎むこともできず、彼と相対する時はどうにも奥歯に物の挟まったような気分になってしまうので、ユーリルはあまりマスタードラゴンと会いたくはなかった。が、当然ながらライアンとホイミンの重大事ともなればそんなことを言っているわけにはいかない。
 ので、天空人の衛兵のあとについて、ユーリルはトルネコと並ん、マスタードラゴンの在る玉座の間へと進んだ。
 太陽の光がさんさんと降り注ぐ明るく広い玉座の間。そこに、いつものように黄金竜はいた。まばゆく光を跳ね返す鱗。魔物を含むこれまで見た生物の中でもっとも大きいと断言できる巨体。そんな生物がゆっくりとその巨大な頭を巡らせてこちらを見る。
「来たか。勇者よ」
 衛兵が玉座の間を出ていってから、仏頂面で言葉をぶつける。
「……その口ぶりからすっとさ。あんたもしかして、ずっと俺らのこと見てたわけ? ホイミンの身になにが起きたか、とか」
「言ったはずだ。私はすべてを知るもの。私が知ろう≠ニ思えば、この世界の中で知ることのできぬことはない」
「……そりゃまた、ご大層なお力でいらっしゃることで」
 あーもー俺もう二人も子供いんのになにガキっぽく因縁つけてんだ、と思いはするものの、やっぱりどうにもムカつく。このドラゴンの言うことを、はいそうですかと素直に聞くことができない。ついついどうにもイライラしてしまうのだ。
 なので、助けを求める視線をトルネコに向けると、トルネコは心得た顔でずいっと前に進み出た。
「お久しぶりです、マスタードラゴンさま。私のこと、覚えてらっしゃいますかね?」
「勇者の仲間を忘れるはずがなかろう、商人トルネコよ」
「それは、まったく光栄の至りですなぁ。では、ライアンさんと、その連れ合いのホイミンさんのことも、覚えてくださってますかね?」
「むろんのこと」
「よかった……では、どうかお知恵をお貸し願えないでしょうかねぇ。ホイミンさんが身籠られたんですが、性別が男性ということもありいろいろと不安になられているんですよ。あなたのお知恵をお借りできれば、お産も楽になると思うんですが」
 性別が男だっつーことがついでみたいな言い方だな、と思わず感心する。さすがトルネコさん、こういう時の会話術は天下一品だ。
 が、マスタードラゴンはわずかに頭を動かして、あっさりきっぱり告げた。
「私はホイミンがなぜ妊娠したのか知らぬ。なので、知恵の貸しようがない」
「はぁ!?」
 思わず目を剥いて叫んでしまった。トルネコも叫びはしないものの、その細い目をわずかに見開き驚きを表した。
「し、知らないってどーいうことだよ!? あんたなんでも知ってるんだろ!? 知ろうと思えばなんでもわかるってさっき言ったじゃんかよ!?」
「知ろうとしたその瞬間の世界においては。だが、過去や未来の世界においては、時が離れるほどその精度が揺らぐ。なぜ卵子を作ることもできぬ男性であるホイミンの体内において、受精が行われ、それどころか懐胎のための臓器まで生まれるようなことがあったのか、その瞬間に力を全力で振るえば調べることは可能だっただろうが、今となってはもはや知りようがない」
「ホイミンを人間にしたのあんたなんだろ!? だったらどうしてそんなことになったのかだってわかるはずだろ!」
「そんなことをいつ私が言った」
「え……」
 今度こそ、ユーリルは思わずぽかんとしてしまった。
「……ホイミン人間にしたの、あんたじゃ、ねーの?」
「違う。かつて戦士ライアンの仲間であったホイミスライム、ホイミンが死んだのは知覚していた。だが、その瞬間になぜ体が消滅したのか、そしてしばしの間をおいてから人間として復活したのか、そこまでは意識を全力で向けたわけではないのでわからぬ」
「なんで向けねーんだよ!? 普通気になるだろ!?」
「それ以上にライアンの身の安全を優先すべきだ、と考えた。ホイミンが消えた直後、ライアンは荒れ狂ってキングレオ城へ突撃していったのでな。なんとか助けに入ることができないか、全力でライアンの周囲を調べぬわけにはいかなかった」
「そ……そりゃそーかもしんねーけど……じゃー一段落したあとに調べようとか思わなかったのかよ!」
「調べた。そして、知ったのだ」
「……なにを」
「あれは、私の力の及ばぬものだと」
「……は」
 今度は、ユーリルは思わずまじまじとマスタードラゴンを見つめてしまった。マスタードラゴンはその巨体を微塵も揺らがせずこちらに視線を向けている――なのに、ユーリルにはなんというか、彼がひどく落ち込んでいるように見えた。落ち込むというか、無力感に打ちひしがれているように見えた。
 そうだ、こいつも言ってた。自分は絶対の者ではない、って。こいつは神様かもしれないけど、別に絶対でも、完全でも、自分の言っているくらいに完璧ですらないんだ。
 そんなことに改めて気づき、ユーリルは小さく息を呑んだ。
「調べた時は変異の時より時間が過ぎていたので完璧に調べることができたわけではない。だが、不完全ながら調べることができた情報から推察するに、ホイミンはおそらく、自力で進化したのだろう」
「自力で、進化……?」
「ピサロやエスタークの使った進化の秘法とは似て非なる力。本来人が持つには、人のみならず誰が持つにも過ぎた力。魔法でもなく、技術でもなく、人間や他の種が長き長き時を経てゆっくりと行う種としての変異を、あれは一代で、ひと時で、自らの生のうちに行ったのだ」
「…………」
「もともと、魔物――魔界の混沌より生まれ現世に滲み出てきた生命は、驚くほど可塑性が高い。特にスライム族は、周囲の環境に影響されて一代で姿を変えてしまうということを頻繁に起こす。あれはそれの究極とも言えるだろう。魔物から人へ、本来ありえざる変異を、死をきっかけに生命の形を飛躍させるという驚くべき力を発揮したのだからな」
「…………」
「その後私もあの者の体を調べてはみた。だが、どこをどう見ても人間の男にしか見えなかった。魔物だという過去を持っているなど体からはとても考えられないほどに。だから、なぜ突然今になって体内に新たな臓器が生まれたのか、胎児が生まれたのか、まったく想像がつかないのだ。また新たにホイミンが進化しているのではないか、程度のことしか言えぬ。出産の助けにもなれぬ。どうやって体内で平衡を保っているのかもわからぬところに、外から私が力を加えては、いいことにはならぬだろうとしかな」
「…………」
 ユーリルは、トルネコをちらりと見た。トルネコは少しばかり戸惑ってはいたが、しっかりとうなずいてくれる。ので、自分もうなずきを返してマスタードラゴンに向き直った。
「あんたってさ。案外大したことないのな」
「…………」
「すべてを知るものとか言ってても、なんでもかんでもわかるってわけでもないし。知っても、ほとんどのことになにかができるってわけでもないし。助けに入ろうとしたって力加減が上手くできなくてなんでもかんでもぶっ壊しちまうみてーだし。ぶっちゃけあんたの存在がどんだけ世界に助けになってんだか疑問だな」
「…………」
「だからさ。もう、そんなに無理しなくてもいーんじゃねーの」
「……なに?」
「そんなに無理して、自分一人で世界見守ってる、みてーな気分になんなくてもさ。あんた一人じゃ世界は救えない。だから、世界になんかあったって別にあんたの責任じゃないんだ。世界を守る責任は、そこに生きてる奴ら全員に取らせろよ。ずっと責任肩代りされてばっかっつーのは、けっこう嫌なもんなんだぜ」
「…………」
「ま、あんたが自分で世界守り続けたいっていうなら止めないけどさ、そーいうのはせめて、自分で大切に思える、自分を大切に思ってくれる奴が何人かできてからにした方がいいぜ。世界を背負う気合ってのの入り方が格段に違うから! これ、経験者談な」
 にっ、と笑いかけてやる。マスタードラゴンは黙ってこちらを見ている。竜の表情はよくわからないが、なんだかぽかん、としているように思えて少しおかしかった。
「じゃ、俺ら地上戻るわ。ホイミンの助けになれねーか、もちょい俺らなりに頑張ってみる」
「そうだね。ああそうだ、マスタードラゴンさま。もし、天空城に医療用のアイテムがあれば見せていただけませんかね? 地上のものより優れたものがあればお借りしたいな、と思うんですが」
「……宝物庫の番人に連絡しておこう。帰る時寄っていくがいい」
「はい、ありがとうございます。それじゃ、失礼させていただきますな。いろいろ教えてくださって、ありがとうございます本当に」
「じゃーな、マスタードラゴン。いろいろサンキュ。またな」
 ユーリルはそう笑って軽く手を振り、玉座の間を出ていく。改めて言うのもなんだが、悪くない気分だった。

 ミネアは水晶玉から視線を上げた。いつもと同じ、夢から覚めたような気分の中で、ホイミンににっこりと微笑む。
「大丈夫。あなたの頭上には、変わらず星が輝いています。きっと出産は無事に済んで、元気な子が生まれてきますよ」
 その言葉に、ホイミンは(顔の線は相変わらず柔らかく細いとはいえ、すでに年は二十歳前後にはなっているように見えるのに)透明感のある、女の目から見ても可愛らしいと思える笑顔で微笑む。
「そうなんですか、ありがとうございます。ミネアさんの占いって、本当にすごいですね。すって気持ちが楽になっちゃう」
「あら、ホイミンさんに言われると恐縮してしまいますわ。あんなに優しい歌を歌われる方が」
「えへへ、そうですか? そう言われると、すごく嬉しいな」
 にこっと笑うその笑顔は、男性のものには見えなかった。かといって女性に見えるというわけでもない。なんというか、子供……というか、赤ん坊というか……とにかく、性が分化する前のとても清らかなものに見えるのだ。ライアンさんはよくこんな人と子どもを作るようなことができたわね、とちらりと考えてしまってから、なにを考えてるの慎みのない、と心の中で自分を叱った。
「あの……ミネアさん。聞いてもいいですか?」
「なんでしょう?」
「あの……ミネアさんは、なんでこんなに何度も占ってくれるんですか? タダで」
 意外な言葉に思わず目を瞠ったが、ホイミンの顔は真剣だった。
「……ライアンさんは大切な仲間ですから、その奥さんの力になりたいと思うのは、別におかしなことではないのじゃありません?」
「えと、それはそうだと思うし、すごく嬉しいなぁって思うんですけど。でも、占いっていうのは、ミネアさんにとって、お仕事なんですよね? 自分のお仕事に誇りを持っている人ほど、その仕事の技術を私的なことで使ったりはしないって、単純な好意や一時の感情で与えられるほど、その技術は自分にとって軽いものじゃないんだから、って……」
「それは……ライアンさんが?」
「いえ、あの、以前一人で旅をしていた時に人に教わったんです。僕がお願いされたらタダでも歌ってたら、ものすごく怒られて」
「そうですか……」
 それはそうかもしれない。ライアンは恐ろしいほどの剣の達人でありながら、自分の技を厭うているように思えるから。
 けれど、ホイミンに対しては、『ライアンの妻』としての意識が大部分を占めていたミネアにとって、その言葉は新鮮な驚きをもって響いた。そうだ、ホイミンも、ライアンただ一人で完全に人生が占められているわけではないのだ。
 ゆっくりと苦笑してから、手早く水晶玉を片付けて、改めてホイミンに向き直る。初めて、彼ときちんと話をしたい、と思うことができたのだ。
「ホイミンさん……誰にも内緒にしていただけます?」
「え? えと、ライアンさんにも、ですか?」
「もちろん。というか、ライアンさんには絶対に言わないでほしいんです。ホイミンさんを信じて打ち明けるんですから」
「え、あの……わかりました、僕でよかったら、頑張ってお話聞きます」
 むん、と真剣な顔でこちらを見るホイミンに、ミネアは笑って、さらりと言った。
「私ね。昔、一緒に旅をしていた時、ライアンさんが好きだったんです」
「―――え?」
「言っておきますけど、恋愛感情で、ですよ? とても、とても好きでした。人生で本当に恋したと思える、ただ一人の人です。今でも」
「え……」
「でも、まぁ、私が恋心を自覚したかしないか、っていうぐらいですぐに失恋してしまったんですけどね。ライアンさんがあなたへの恋心を切々と語るのを聞いてしまったので」
「………!」
 ぼんっ、とホイミンの顔が赤くなる。それを可愛いなぁ、と微笑みを浮かべて見つめながら(もうそうすることができるようになっていることに、ミネアな安堵と満足を覚えた)、続ける。
「私はね、初恋はオーリンという男性だったんです。父の助手で、優しくて真面目な人で。私にも子供のころからとても親切にしてくれて。父が死んだ後も、いろいろと力になってくれて。とても好きだと思いました。恋しているつもりでした。劇的な別れ方をしてしまったので、気持ちも盛り上がって……自分が悲劇のヒロインになったような気分で、勇者さまを探しながら、旅をしながら、オーリンを思っていたんです」
「………はい」
「でもね、ライアンさんと初めて会った時。私、すごくどきりとしたんです」
「え………」
「その時、ライアンさんはキングレオ城の主に戦いを挑もうとしていて、配下の者たちを次々に斬り倒していたところだったんですけど。……私、初めて男の人を『怖い』って思いました。その時のライアンさんは、本当に荒れ狂う獣のようだったんですもの。今でもはっきり思い出せます、あの憎しみとも怒りとも絶望ともつかない、激しく荒れた感情に満ちた瞳。私、子供の頃からたいていの人の気持ちの動きがなんとなくわかってしまったので、人ではないのではと思えるほど心の荒れ果てた、私の常識の通用しないあの人が、とても怖かった」
「…………」
「でも、そこにユーリルが声をかけて。『あんたがライアンか』『ホイミンって奴が助けてやってくれって言ってたぞ』って……そうしたら、その人がばっとこちらを見て。愕然とした顔をして。『ホイミン?』って、一滴の水も与えられずに生きてきた人が初めて水を見たように言ったので、私勢い込んで言ってしまったんです。『ホイミンという人はあなたをとても心配していました』『あなたが生きていてほしいと、必死に私たちに頼んできました』って。この人の助けになりたい、って心の底から思ったんです」
「はい」
「そうしたら、ライアンさんはふっ、とすごく優しく、柔らかく、なのに切なそうに笑って。『そうか』って言ったんです。……私、それを見たらもう恋に落ちてしまったんですよ」
 一生誰にもすることのないだろうと思っていた告白。それを、まさかライアンの妻にすることになろうとは。
 けれど、ミネアは微笑んだ。微笑みながら話ができることを、とても嬉しく思いながら。
「でも、私は理性としてはオーリンが好きだと思っていたので。その想いを自覚することもできなかったんです。占い師というのは、他人ばかり見ている分自分のことには疎かったりするんですよ。オーリンへの思いは、家族に対する親愛をのぞけば、少女の初恋の域を出るものではなかったのですけど……」
「はい……」
「そして、恋心を自覚しないまま一緒に旅をして。ライアンさんの優しさとか、人としての強さとかを知ってどんどん好きになっていって。でもそれに気づかなくて。そして……フレノールという街で、オーリンと再会して」
「そうなんですか?」
「ええ。あの時は戸惑ったわ、死に別れたかと思った相手と再会できて泣くほど嬉しかったけれど、それがあまりに……なんというか、純粋なものに思えて。運命の再会と言ってよさそうなものだったのに、ドキリとも胸がときめかなかった。オーリンのことを想っている人のことを知っても、むしろほっとした気持ちになってしまうくらいで。自分の気持ちがさっぱりわからなくて、とても混乱したんです」
「はい」
「そしてね。親の仇を討った後、私はオーリンに報告をしに行ったんですけど……オーリンはとても喜んでくれたけど、私はあまり喜べなくて。バルザックのことはとても憎かったし、殺したことに後悔はないと言い切れたけれど、だからといって人を……それも、かつて一緒に生活した人を殺すというのは、とても暗澹とした気持ちになるものですから。仇を討つことが人生の目的のようになっていたこともあって、気が抜けたような、なんで自分はまだ生きているんだろう、というような気分になってしまって」
「はい……」
「だけど泣くほど喜んでくれるオーリンを前にしていると、喜べない自分がまるで父を愛していないように思えて。とても暗い気持ちになって、オーリンのいる宿を出たんですけど……」
 そこで一度言葉を切って、ミネアはあの時の光景を思い出した。宿の外、真っ暗な空間で、ただ静かに立って、じっとこちらを見つめるライアンの透徹した瞳。
「そこで、ライアンさんに会って。驚いて立ち尽くす私に、ライアンさんは言ったんです。『よろしければ、夜の散歩に付き合ってはいただけないか、ミネア殿』と」
「…………」
「私は顔を熱くしながらうなずいて、ライアンさんと一緒に星空の下を歩き始めました。なにを話すでもなく、本当にただ、しばらく歩くだけ。なのにどうしても顔が上げられなかった。まぁ……死にそうな時に助けに来てくれたような気分になってしまったんでしょうね。あんなにどきどきした散歩は、一生のうちたぶんあれだけだと思います。……そうして、ようやく私は、自分の感情を自覚したんです」
「……はい」
「でもそれからも私はなにを考えて、とか世界を救う旅の途中だというのに、とかライアンさんだって迷惑に決まってる、とか、まぁそんなことを言い訳にして素直に気持ちを表せないでいるうちに……ライアンさんがあなたを愛しているということを知り、失恋してしまったわけです」
「…………」
「ごめんなさいね、こんな話をして。ただ、そんなわけで、私にとってあなた方のためにする占いは自分にとってとても重要なものなんだっていうことが言いたかったんですよ。私にとって、人生ただ一人の恋した相手の幸せがかかっているんですから」
「………ごめんなさい」
「あら。なにを謝っているんです?」
「僕……ミネアさん、きっと辛いだろうって想うのに、嫌な気持ちとかもしてるだろうって思うのに」
「はい」
「なのに、ごめんなさい。僕、今ちょっと嬉しいって思っちゃったんです。ライアンさんは、やっぱり、ミネアさんも好きになるくらい、優しくてカッコいい、素敵な人なんだなって知ることができて」
 沈んだ顔で、潤んだ瞳で言われたその言葉に、ミネアは思わずぷっと噴き出した。ライアンの選んだ人は、本当に純真で、可愛らしい人だと、改めてわかったのだ。
 
「あら、ブライ。こんなところでなにをしているの?」
 かけられた声に、ブライは驚いて振り向いた。そこに立っていたのは間違いなく、ブライが命より大切に思っている姫、アリーナだ。もう二十六歳になるというのに未だ独り身で色恋沙汰にも興味を示さないことが心配でしょうがなくはあるけれども、太陽のように明るく心優しく美しく、全国民から慕われ崇められ、次期王位継承者としての勤めも最近は熱心に行っているこの上なく素晴らしい王女殿下。
 が、まさかこんなところで会うことがあろうとは思っていなかった。ここは書庫、いかに勉強もきちんと行っているとはいえ、そのために必要な書物は常に部屋に用意されるのだから、アリーナが訪れることなど考えたこともなかった場所だというのに。
 だが、その衝撃と言っていいほどの驚きを、少なくとも表面には毛ほども表すことなくブライはほっほと老人らしく笑ってみせた。
「おやおや、それはこちらの台詞ですぞ。まさか姫様が書庫にいらっしゃることがあろうとは、この爺ともあろう者が見抜けませなんだ」
「もう、ブライったら、相変わらず私のこと子供扱いするんだから」
 少し唇を尖らせるその仕草は、可愛らしくはあったが大人の女性のものだ。本当に、アリーナは成長した。成熟したと言った方が正確だろうか。仕草や挙措に女性らしい柔らかさが見えるようになった。今でも毎日の稽古を欠かさない、武術大好きな上にサントハイム全軍でかかっても勝てるかどうか怪しいほどの強さを誇る、とんでもない姫ではあるのだけれども。
「いやいや、これはしたり。失言でしたな、最近の姫様は実によく勉強なさっているというのに」
「ううん、今日は勉強の本を探しに来たんじゃないの」
 今度はさらに驚いた。アリーナが、勉強以外で本を読むなどということがあろうとは。
「……では、なんの本をお探しに?」
「うん、妊婦さんについて詳しく書いた本がないかなって思って」
「ほ……ホイミン殿ですかな?」
「うん。やっぱり心配だし、気になるし、今度暇を見て会いに行こうと思うのよね。その時のために、妊婦さんにしていいことしちゃいけないこと知っておこうって思って」
 ブライは顔を難しくしかめて髭をひねる。
「姫様。いまさらくだくだしく申し上げる気はございませんが」
「『由緒あるサントハイム聖王国の王女殿下ともあろうものがそう気安く出歩かれては』っていうんでしょ。私もまたこの話くだくだしく蒸し返す気はないけど、外に出たいって思う時に好きに出られない王女になる気ないの、私」
 さらりとこちらの言葉を流してブライの隣に立つ。成長してくださったのはありがたいのだが自己主張の仕方がどんどん頑固になられていくのは、と眉を寄せるブライの横で、アリーナはひょいとブライの見ていた棚をのぞきこんで笑う。
「なんだ、ブライも妊婦さんについて調べてたのね? やっぱりホイミンのこと気になってたんだ」
「いや、ユーリル殿とトルネコ殿の働きもあり、妊娠の原因がおそらくは魔法的なものではない、と知れましたのでな。わしはさして役に立てぬだろうと、せめて迷惑をかけぬようにと……」
 なんとはなしに面映ゆく髭を捻っていると、アリーナがふいに可愛らしく小首を傾げ、とんでもないことを言ってきた。
「ねぇ、ブライ。ブライは誰かを妊娠させたことって、ある?」
「は!?」
 思わず杖を取り落としそうになったが、アリーナはあくまで真面目な顔でこちらを見つめてくる。思わず苦りきった顔になり、厳しい声を出してしまった。
「姫様。申し上げておきますが、わしはこれまでの人生で妻を娶ったことがないのですがな?」
「え? でも爺、昔はすごく女性の人にモテたって言ってたじゃない。ブイブイいわせてたとか嬉しそうに」
「それとこれとはまったく次元の違う問題でございます! そもそも姫様、姫様はもう立派なレディなのですから、いい加減淑女としての慎みというものを」
「……ごめんね。私、知りたかったの」
 アリーナはすい、とこちらから視線を外し、少し落ち込んだ声でそんなことを言ってくる。ええい姫様はどこまで意図的にやられているのだか、と思いながらもそんな声を出されては放っておけず、つい「なにが、ですかな」と(厳しい声ではあったものの)訊ねてしまう。
 アリーナはふぅ、と可愛らしく息をついて、もの思わしげな口調で言った。
「子供を持つって、どんな気持ちなのかな、って」
「は……?」
「ほら、私も、いつかは結婚しなきゃならないわけじゃない? 子供を作らなくちゃいけないから」
「姫……お言葉ですが、結婚というものは子供を作るためにのみするものではないのですぞ」
「うん、一人ではできないことをするためよね。一緒に仕事をしたり、他国との繋がりを作ったり、王室に魅力的な人間を入れることで民意を得たり。でも、王族になんで結婚の義務が課されるかっていうと、やっぱり子供を作るためでしょう?」
「……姫様」
 その(最近ちらちらと垣間見せることがあったので、すでに理解してはいたが)あまりに夢のない結婚観に顔をしかめる。
「申し上げておきますが、陛下も、国民も、このわしも、結婚を迫る侍従長ですら、姫様を国家のための道具にしたいとは思っていないのですぞ」
「うん、それはもちろんわかってるわ。でも、なんていうか……私、自分が幸せな結婚っていうのをできる気が全然しないのよね」
「……姫様」
 ごく当たり前のことを言うような顔と声で言われ、ブライはほとほと苦りきった顔で首を振る。
「姫様はまだお若い。なにも男性すべてに絶望せずとも」
「二十六じゃ、もう女性としては年増だって前に女中の誰かが言ってたけど?」
「なにをおっしゃいますか! 姫様ほど瑞々しく若々しい女性は世界のどこにもおられませんぞ!」
「あはは、ありがと。……でもねぇ……なんていうのかな。私、どんなに魅力的な男の人と会っても……恋に落ちるていうのかしら、そういうことになる気がしないの。もちろん、決め込んでいるつもりはないけれど……私は、少なくとも今は、素敵な男性と恋をすることよりも、サントハイムや世界の人たちを幸せにできるよう頑張ることの方がずっと嬉しいことだって、心の底から想うのよ」
「……しかし、お一人でその重責を背負うのは寂しいことでございましょう」
「重責じゃないわ、心からやりたいって思うことだし、それに本当は誰だって背負っていることだわ。それに一人だとも思わない、私と一緒に人生を懸けて頑張ってくれている人はいっぱいいるじゃない」
「心寂しい時、お辛い時、疲れを癒してくれる家族となる方が、姫様には必要だと申し上げているのでございます」
 厳しい声で言った言葉に、アリーナはわずかに首を傾げて、訊ねてきた。
「ブライは?」
「は……?」
「ブライには必要じゃなかったの? 寂しい時に心を癒してくれる、家族」
「――――」
 不覚極まりないことに、ブライは一瞬、言葉を失った。
「……爺はただ縁がなかっただけですじゃ。姫様は、引く手あまたでいらっしゃるのですから」
「女性にモテたって言ってたくせに」
「っ……そういった関係と結婚はまた別でございましょう」
「……それってつまり、ブライも結婚したいって思えるような恋をした相手がいない、ってこと?」
「……姫様」
 孫娘のような年頃の、いや実際に孫娘のように思っている相手にこんなことを言われ、ブライは困りきったが、アリーナは真剣に言ってくる。
「お願い。知りたいの。結婚すること。子供を作ること。家族になること。それがどういうことなのか。それがどこまで、大切なことなのか」
 真摯な眼差し。ブライは、アリーナのその顔には、いつも弱かった。
 深いため息をひとつつき、ゆっくりと語り出す。ブライにとっても、けして笑顔で語れはしない言葉を。
「……そうですな。わしは、ただ面倒だったのです」
「面倒?」
「ええ。結婚という繋がりを、しがらみを他者と持つことが面倒くさかったのです。女性と家庭を持つことよりも、仕事に打ち込むことの方がずっと意義のあることに思えた。結婚など無駄だ、とすら思っておりました。もういい年だから、などという理由で簡単に結婚してしまう人間を軽蔑すらしていたのです。……爺も、その時は若うございましたゆえ」
「……今は?」
「今は……どうでしょうな。自分には一人が似合いだとは思っております。自身の人生に後悔もございません。ですが……それでも。それでも、寒い夜、明かりが切れた時などにふっと、ひどく物寂しい心持になることがあるのです。虚しいと、自分の人生はまったくの無駄だった、とそう思えてしまうことが。そのように思うのは、独り身の人間に限ったことではないでしょうが……そのように、人生の中でふいに発作のように襲ってくる寂しさを、もっとも強く癒してくれるのは、そばに在ってくれる家族の存在なのだと、何度も実感したのです。独り身だからこそ」
「……そうなの」
「ええ。ですから、申し上げているのです。姫様は、どうぞ幸せなご結婚をなされませと。爺は、あのような思いを姫様に味わわせるのは、まっぴらごめんでございます」
 そう言って深々と頭を下げる。恥を捨てて、真っ向勝負で願った。心の底から。どうか、幸せにと。世界の誰よりも幸せに、と。
 が、アリーナは優しく微笑んで、言った。
「じゃあ、独り身っていうのも決して悪いものじゃないのね」
「は!?」
 愕然とするブライに、アリーナは穏やかな笑顔で告げる。
「だって、ブライの人生はとっても素敵だもの。もちろん寂しいって思うこともたくさんあったんだろうなって思うけど、それでもブライはとても素敵に人生を送ってるって私わかるもの。だから、大丈夫なんだって思ったわ。幸せな結婚ができなくても、一人の夜にしょっちゅう寂しくなっても、素敵に人生を送ることは、きっとできるって」
「姫様!」
「だって、ブライとお揃いなんだもの。だったら、絶対に悪いわけがないわ」
 にこっ、と微笑んで言われ、ブライは言葉を失って、はぁ、と深く深くため息をついた。なんとかしなければ、このままでは姫の人生が――と思いつつ、心のどこかで、『ブライとお揃いだったら悪くない』とアリーナが言ってくれたことに、泣けるほど喜んでいる自分がいるのにも、気づいていたのだった。

「ただいま、ネネ、ポポロ」
「お帰りなさい、あなた」
「お帰りなさい、お父さん」
 トルネコは陽の暮れる頃、いつものように店舗兼自宅の玄関をくぐった。笑って出迎えてくれるネネとポポロに、笑顔で帰りを告げる。トルネコにとっては、もっとも生きている喜びを感じることができる瞬間だ。
「今日はスタンシアラの方に行ってきたんだけどね、向こうではちょうど林檎の花が見頃だったよ。街には林檎の花をあしらったブーケなんてものがあったから、ひとつ買ってきたんだ。ネネ、受け取ってくれるかい?」
「まぁ、嬉しい。ありがとう、あなた、さっそく飾りますね」
「ポポロにはこっちだ。スタンシアラの地方菓子らしいんだけどね、タルト・タタンのバリエーションのようで。ポポロはタルト・タタン、嫌いじゃなかっただろう」
「ありがとう。へぇ〜、タルト・タタンってこんな形のもあるんだ……だけどさ、お父さん。もう僕も成人なんだから、なにも戻ってくるたびにお土産買わなくてもいいんだよ?」
 もうトルネコより背が高くなってしまった愛しい息子が少し拗ねたように言うのに、トルネコはわっはっはと笑ってぽんぽんと肩を叩いた。
「まぁ、そう言うな。お前が結婚して家庭を持つまでは、この楽しみを味わわせておいてくれよ」
「……お父さんは、本当にもう」
 そんなことを言いながら、一緒に店じまいをして自宅部分へ戻る。トルネコの経営するトルネコ商会は、世界中に商売の手を広げている世界一の大商会、ということになっているが、現在トルネコたち自身が経営している店は、エンドールの端にちょこんと建っているごくごく小さなものだった。
 ここを利用しているお客さんでも、この店がトルネコの経営する店だと知らない人の方が多いらしい。もちろん、武器や防具の質については(高級品も手の届きやすいものも)最上のものを揃えているので、隠れた名店としてひそかに評判ではあるようなのだが。
 これはユーリルたちとの冒険を終え、家族だけであちらこちらに旅をしたり冒険をしたりするようなことがあってから学んだことだった。大きな店を構えるメリットももちろんあるが、家族が生活する場は身軽な方が動きやすい。世界中に繋がりを作っているトルネコはどこにいっても商売ができる。小さな貸店舗を使って、店の回転を早くする方が有益だと考えたのだ。
 現在トルネコ商会の主としてのトルネコが行っている仕事は、情報流通の充実だった。現在は平和景気による市民の冒険心も落ち着いて、生活が守りに入ってきている。今ここでそれぞれの世界から腕を伸ばさせておかなければ、せっかく繋がれた道が閉ざされてしまうことにもなりかねない。
 世界中を飛び回って、支店(というより、トルネコはむしろ相互扶助組合のような関係を作っていっているのだが。情報と商品、そして人間の流れる道を作り、その道をそれぞれ活用しあう代わりに道の整備費用をもらう、というような)の主と話をし、懸命に制度を整えているところだ。交渉がうまくいけば、ちょうどライアンたちの子供が生まれる頃には世界中に流通の網が張られる予定だった。
 そして、そのついでに、自分の経営する店に有益な情報を仕入れたり、商売の話を持ちかけたり、ネネやポポロにお土産を買ったり、ホイミンの体のことを調べたりしているわけなのだが。現在は妊娠した男性についての情報にある程度見切りをつけ、医療関係のアイテムについての情報を積極的に収集していた。
 家族そろってネネのおいしい食事に舌鼓を打ち、食後のお茶を飲みながら、トルネコはふと、息をついた。
「あら、どうしたんです? あなた」
「いや、ライアンさんたちのことを思い出してね。無事お産がすめばいいんだが」
「そうですね……せっかくできたお子さんですもの。男性同士でいらっしゃるから、お子さんはもう望めないと思っていらっしゃったでしょうし」
「ああ。それにライアンさんは、これまでの人生で家族の縁が薄かったから。幸せになってほしいと思うんだ。私がこうして、ネネやポポロと一緒にいられて、とても幸せなようにね」
「あなた……私も幸せです。あなたと一緒に歩んできて、幸せでなかった時はありません。これぞと思った人と一緒になれたんですもの、ライアンさんたちもきっと幸せになれますわ」
「ありがとう、ネネ。私もそう信じているよ」
「うん、僕も幸せだよ……でもさ、お父さん、お母さん。どこの家族もうちみたいな幸せが当たり前だとは、思わない方がいいと思うな」
「おや、ポポロがそんなようなことを言うとはね。もしかして、意中のお嬢さんでもできたのかい?」
「そ、そんなんじゃないよ! ただ……うちの幸せ家族っぷりは、ちょっと特殊なんじゃないかな、って思うだけで」
 顔を赤くして告げるポポロの言葉に、トルネコとネネは顔を見合わせ、揃って首を傾げた。

「やっほー、ライアン、ホイミン。マーニャ姐さん一家が遊びに来てあげたわよっ」
「わぁ、マーニャさん、ユーリルさん! ヴィラちゃん、ソロくんもいらっしゃい」
 あらかじめ連絡をしておいたので待っていたのだろう、ホイミンが出迎えてくれた。マーニャはホイミンににっこりうなずいてから、当然部屋の中に座って待っているライアンに突っ込みを入れてやる。
「ちょっとー、あんた妊娠中の若妻に出迎えさせるとかなに考えてんの? 労わりなさいよ妊婦を、夫なんだったらさー」
「……私もそうしたいところなのだが。ホイミンが、ちゃんと運動しないと駄目だ、というので」
「うん、だってクリフトさんも言ってたし、本にもそう書いてあったし! 帝王切開だってあんまり肉をつけちゃいけないみたいだし、でも栄養は必要だし、ちゃんとこまめに運動しなくっちゃ!」
「お! ホイミンわかってんじゃん。もう六ヶ月だもんなー、体重管理にも気を遣わなきゃならない時期だよな」
「なぁに偉そうに言ってんのよ夫の分際で。ま、でも確かにその通りよね。もうお腹も大きくなってきてるみたいだし、周囲いろいろうるさくなってくる時期よね」
「うるさくなんてないです。みなさん、優しいです」
「あんたの夫も?」
 にやりと笑って言ってやると、にっこーっと嬉しげに笑われて答えられた。
「はいっ! すっごく優しいです!」
「……あっそ」
 この子はぁ、と思わず苦笑する。本当に情緒的には八歳半のようなものらしい。可愛いのだが、からかい甲斐のないことおびただしいのは確かなようだった。
 と、ユーリルがライアンの顔を見て、にやりと笑った。
「ライアンさん、すっげー所在ねーって顔してるー」
「……む」
「ライアンさんでもそんな顔したりすんだなー。な、もしかしてさ、ホイミンが出産に向けて張り切りだしたから、なんか自分の居場所がねーよーな気分になっちまったんじゃねーの? 駄目だぜー、そんなんじゃ。せっかく家族になるんだからさ、もっと積極的に出産にかかわってかなきゃ。のちのち家庭内で居場所なくなっちまうじゃん」
「……だが、これからはホイミンがリラックスすることが特に重要なのだろう。あまりうるさく騒いで気を遣わせるわけにもいくまい」
 ぶっ、とマーニャは思わず吹き出した。旅の間は常に冷静沈着、頼りがいのあるいい男という顔しか見せなかったライアンの情けない顔というのは、正直なかなか面白い見物だ。
「なーに、あんた難しい顔してしっかりパパ目指して頑張ってんじゃないの」
「それは当然だろう。ホイミンと、私の子供なのだから責任を取らねばなるまい。それに、ホイミンの体を気遣うのは夫としての義務であり権利だ」
「え……」
 ホイミンが少し戸惑ったような顔になる。ユーリルが苦笑した。
「その言い方さー、子供が生まれてくることが嬉しいわけじゃない、みたいに聞こえるぜ」
「! いや、そのようなつもりで言ったのでは」
「でも、実は戸惑いあったりすんだろ」
「っ」
「突然出てきた子供が、自分の居場所取っちゃうような気分になってんじゃねーの? もうホイミンに甘えられないのかとか実はうじうじしてるとみた」
「っ……」
「……そうなの? ライアンさん」
 ホイミンが不安そうな視線をライアンに向ける。ライアンは(珍しいというか、初めて見ることに)さっと顔色を変えて、ホイミンにかき口説かんばかりに言い訳を始めた。
「ホイミン、けして私は子供が生まれることを嫌がっているわけではない。私とお前の子供なのだ、愛しんで育てたいと思う。ただ、私はお前と私の間に、別の存在が入り込んでくることに不安、いや重圧感を感じただけなのだ。新たに生まれた私とお前の未来の可能性に一瞬身をすくませてしまった。それだけで、私は本当に、ありがたいと思っているのだぞ」
「ま、男親っつーのはだらしのねーもんだからな、女親より親になるの下手な奴が多いんだよ。ムカつくとも思うけどさ、長ーい目で見守ってやってくれよな」
「えと……はい。僕、別にムカついてはないですけど……」
 にやにや笑いながら言うユーリルにもの問いたげな眼差しを向けるホイミンに、気持ちを察してマーニャはにやりと言ってやる。
「ユーリルの場合は全力で親になろうとしてたわよー。妊娠情報細かく調べたり検診の日もいちいちチェックしてねー。下手すりゃ親子ほど年の違うどっかの誰かさんと違って。あー、あたしいい買い物したわぁ〜」
「っ……」
「お、嬉しいこと言ってくれんじゃん。捨てんなよー? ここまでお前好きな男そうそういないぜ?」
「はいはい、捨てないからひっつかないの。ったく、あたしにはあんただけだって何度も言ってんのにしつこいったら」
「いややっぱさー、愛の言葉っつーのは何度聞いてもいいもんじゃねぇ?」
 半ば以上わざとライアンの前でいちゃいちゃしてやると、ライアンの眉間にびしびしっと皺が寄るのが見えた。お、珍しくプライド傷つかせてやんの、とくすくす笑いながら、きょとんとしているホイミンの手を握る。
「ま、母親の先輩として、なんかあったらいつでも相談に乗るわよ。亭主のグチにもつきあってあげるからさ。いわゆるママ友っつーことで」
「あ……はい! ありがとうございます!」
 嬉しげに笑うホイミンの頭を撫でてやりながら、ライアンを流し目で見つめてやる。ライアンの表情は眉間に皺が寄っている以外はさして普段と変らなかったが、その背後には燃える炎が見えた。
 ま、これでライアンもきっちりパパやる気になってくれるでしょ、とマーニャは内心にんまりと笑った。仲間に家族が増えるというのは吉事には間違いないし、子供を持っている相手とは共通の話題も増える。
 それに、いつも余裕な顔しか見せなかったライアンが、子供の出現を前に泡を食う姿というのは、実際面白いことこの上ないのだから、これはちょっかいを出して力を貸さない方が嘘だというものだ、と(三十も半ばの年増女になってはいるが)色気たっぷりの流し目でライアンをからかうように見てやった。

 アリーナは、ホイミンの腹部に耳をつけて、目を閉じた。鼓動が伝わってくる。ホイミンの落ち着いた優しい鼓動。そしてそれに添うように小刻みに響く、確かなもうひとつの鼓動。
「……ここに、赤ちゃんがいるのね」
「はい」
 ホイミンは、赤ん坊の肌のように柔らかい声で答えてくれる。ホイミンは本当に優しくて可愛い。なのにとても芯がしっかりしている。さすがライアンさんの奥さん、という感じだ。
 それに甘えて、アリーナは何度もこうして子供の鼓動を聞かせてもらっていた。命が生まれようとしているのを間近に見て、アリーナは確かに命の荘厳さのようなものに心を打たれていたのだ。突然体の中に命が生まれてしまう。精神的にではなく、肉体的に一人の体ではなくなってしまうのだ。それこそ、世界が変わるような恐るべき力だと思う。
「……ねぇ」
「はい」
 ホイミンの優しい声に力を得て、何度も行った質問を繰り返す。
「怖く、ない?」
「怖いけど、平気です」
「なんで?」
「ライアンさんが一緒にいてくれるから。アリーナさんや、クリフトさんや、みなさんも力になってくれるから。だから、たぶん大丈夫だろうって思えるし、僕は僕にできることを頑張ろうって思えるんです」
「…………」
 アリーナは、まだホイミンの腹部に耳をつけたまま、これまた何度もした質問をまた投げかけた。
「ねぇ、ホイミン。人間って、結婚をしなきゃいけないものなのかな」
「どうでしょう。しなきゃいけない、っていうこともないと思いますけど」
 そして優しいホイミンはいつもと同じように答えてくれる。
「結婚をしておけばよかった、って思う日がいつか来ちゃうと思う? 一人で生きてきたの、ものすごく虚しいって考えちゃうと思う?」
「それは、わかりませんけど。たぶん、実際に生きてみないとちゃんとしたことは言えないんじゃないかと思いますけど」
「そうよね……。私ね、今本当に、自分の生活に不満を感じてないの。夫がいなくても、やりがいのある仕事はあるし、武術は相変わらず楽しいし、誰かと話をしたくなったら夜中でも出迎えてくれる人はいるし。本当に、自分でもとても、幸せだって思うのよ」
「はい」
 でも、ブライに言われて、もしかしたら、と思うようになった。
 今出迎えてくれる人たちは、私が女王になったら出迎えてくれなくなるかもしれない。もっと年を取ったら。もっと大人になったら。誰かと家庭を作ったら。
 そうしたら私は、ブライの言うように、無駄な人生だったと嘆くような寂しい夜を過ごすことになるのかもしれない。
 だからといって、結婚相手を探そうなんて考えたわけではない。そんなの相手の人にも失礼だし、やっぱりどう考えても今の自分に男性との恋愛は必要ない。
 そう思うのに。そう決めて、そう生きているのに。
「……これが年を取る、っていうことなのかなぁ」
「え?」
「なんていうか……昔ならこう決めた! って思ったら迷わなかった……っていうか、それにまっすぐ突き進めたのに。もちろん弱気になることはあるんだけど、それは自分が弱いからだって、もっと強くならなきゃって、慰められたりしたらまた頑張ろうって素直に思えたのに。そこから私なりに、成長したつもりなのに……」
「……はい」
「なんだか……成長したつもりで私、昔より弱くなってたのかなぁ。今の私、選び取った結果を、ちゃんと受け止められてない気がする。言い訳したり、泣き言言ったり……そういう卑怯なことをしちゃうかも、ってくらい。私、自分にこんな情けないところがあるなんて知らなかった。なんだか、すごく、悔しい……」
 頭を浮かぶことをついそのまま口にしてしまう。こんなことを言ってもホイミンだって困るじゃない、とも思うのだが、ホイミンと一緒にいるとつい口をついて出てしまう。ホイミンの周囲を取り巻く雰囲気が、とても懐かしく、優しいからだろうか――子供の頃にこの世を去った、母様のように。
 ホイミンは少し黙っていたが、やがてアリーナの頭を優しく撫で、言った。
「僕は、昔、一人で旅をしていた時、寂しいってよく思いましたけど……それでも、なんとか生きてこれました。ライアンさんや、みなさんがやったことを歌い継ぎたいって思ったから。それに、ライアンさんが生きている間は、生きていたいって思ったから」
「…………」
「僕、最初のきっかけは違いますけど、人間になろうとしてた一番大きな理由は、ライアンさんに胸を張って好きだって言いたい、って思ったからなんです」
「……そうなの」
「はい。最初の気持ちをちゃんと思い出せたから、生きてこられたんです。……だから、アリーナさんもそうしてみたらいいんじゃないでしょうか」
「え……」
「なんでアリーナさんが生きたいのか。その最初の想い……というか、出発点に戻ってみたらどうでしょうか?」
「出発点……」
 どこか我ながら呆然と、アリーナは呟いた。
 
 ライアンはホイミンの腹部に手を当てた。そこはもう驚くほどに大きくなって、服の上からでもわかるほど、命あるものの重みを感じさせた。
「ね、ライアンさん。耳、当ててくれる?」
「ああ」
 腹部の下あたりに耳をつける。そこからは確かに鼓動が聞こえた。ホイミンとは違う命の動き、それがホイミンの中にある。
「ここに、いるのだな」
「うん……」
 最近、ライアンはホイミンとあまり多く言葉を交わすことがなくなっていた。それはおそらく、出産を間近に控え(もうすぐ十ヶ月になろうとしている)互いに緊張していることと、単純に多く言葉を交わす必要がなくなってきているせいだろう。
 ライアンとホイミンはもともと互いになにをかんじているか、考えているか、大体のことはわかった。それでも言葉を交わすのは、はっきり情報を伝えるためと、二人で喋りたい、話をしたいという気持ちのせいだ。
 その気持ちが薄くなってきた……というわけでもないのだが、今は話すよりも二人で触れ合っていたい、という気持ちの方が強かったのだ。ただ互いの体温を感じ、存在を伝えあいたい。その方がはるかに互いの気持ちを伝えあえる気がした。互いの繋がりが強くなって、不安を消せそうな気がしたのだ。
 子供。自分たちとは違う存在。それが自分たちの間に入ってくる不安。自分などに親が務まるのだろうかという怯懦。きちんと愛情を注げるのだろうかという重圧。
 ホイミンの体についての心配。ホイミンを労わり励ましたいという感情。子供を受け容れ頑張ろうとするホイミンを可愛い愛しいと想う熱情。
 そして、そんなもろもろの感情の底に、最初から確かに存在した、『ホイミンとの子供ができたのだとしたら、ものすごく嬉しい』という気持ち。
 自分に子供ができるなどということは、考えたこともなかった。ホイミンに出会う前は結婚を考えたこともなかったし、ホイミンと出会ってからは子供のことなど考えもしなくなった。男で残念だ、などという気持ちすら浮かばなかったのだ。自分にとって子供というのは、そのくらい関係のないものだと想っていたのに。
 こうして拍動を、命を感じていると、確かに、自分たちの子供がここに存在すると、なんとしてもこの子をこの世に誕生させて、ちゃんと育ててやりたいという燃えるような気持ちが湧いてくる。そしてひどく胸が痛くなる。ホイミンに対する愛情が、破裂しそうになった時と同じように。
 そんなもろもろの感情が、こうして触れ合っていると、互いに伝わり、昇華されるような気がしたのだ。互いの気持ちが、互いの力を強めてくれるような。
 ……もっとも、こうしてずっと触れ合っていると、ふいにホイミンに対する情欲がむらっ、と盛り上がったりもするのだが、それを堪えるのにはライアンは慣れていたのだ。
「……元気に生まれてくるのだぞ」
 そう言いながらホイミンの腹を撫でる。
「僕も頑張るから、君も頑張ってね」
 ホイミンもそう言いながら腹を撫でる。
「あまりホイミンに負担をかけるな」
「ライアンさん、赤ちゃんにそれって意地悪じゃない?」
「いや、母親を労わる心を植えつけておくのは当たり前のことだ」
「うーん、でも僕は、せっかく生まれたんだから最初くらいはちゃんと甘やかしてあげたいなぁ。赤ちゃんの時ぐらいなんにも考えないで甘やかしてもらえてもいいんじゃない?」
「む……それはそうだが。…………」
「? どうしたの?」
「いや……私はホイミンに、甘やかしてもらっているのだろうか、と」
「えぇ?」
「私がホイミンにいろいろと甘えているのは自覚しているが、ホイミンは甘やかしてくれているつもりなのだろうか、と思ってな」
「えぇー……? ……ねぇ、ライアンさん、もしかして……僕に、甘えたいの?」
「む……いや……む。……すまぬな、私はこのようなことを思ったことはなかったのだが……子供が生まれるのだと思うと……なぜか、急に……」
「ふふ、ライアンさんがそんなこと言うなんて思わなかった。ライアンさん、なんだか可愛いな」
「……む」
「よしよし。ライアンさん、いい子だね」
 ホイミンの腹部に顔を触れさせながら、自分でも他愛もないと思う言葉を交わす。そして頭をくしゃり、と優しく撫でられて、ライアンは我にもなく赤面した。こんな中年男がなにをやっているのか、と思うが、こうして甘えていることに心地よさを感じているのも事実だ。
 そして、甘やかされて安寧に浸ると同時に、炎のように心の底から、ホイミンとこの子を守らなければ、という想いが湧き上がってくるのも。
 トルネコもこんなことを考えたのだろうか、と父親の先達に想いを馳せながら、ライアンはぎゅ、と優しくホイミンの腰を抱いた。
「さて……寝るか」
「うん」
 すでに歯磨きその他はすませている。二人揃ってベッドに入り、手を握り合った。この家のベッドは特大サイズなので、いかにホイミンが寝相が悪かろうとゆうゆう二人で眠ることができる。
「おやすみなさい、ライアンさん」
「おやすみ」
 笑顔で言うホイミンに、ライアンも微笑んで答え、ちゅ、とおやすみのキスをした。額に両頬に、それから唇に。
 そして、明かりを消した。互いの息遣いだけが聞こえる部屋の中で。

 出産予定日。
 といっても、帝王切開なので経過が順調な場合の手術日、ということなのだが。幸い予定外のことも起きず、手術を行うことが決定された。
 夫であるライアンと、手術の執刀医であるクリフトは前々から願い出ていた通り、朝から休みを取った。自営業であるトルネコ一家とミネアも同様に。ユーリルは現在育児の真っ最中なので半専業主夫のような状態なので、子供たちを連れてやってきた。他の面々はそれぞれの仕事が終わってからやってくる、とあらかじめ連絡してある。
 手術はあらかじめ準備してある手術室で行われるが、中に入っていいのはクリフトはじめとする医療関係者と夫のライアンだけだ。当然、厳重に消毒と洗浄を行ったのちのことだが(トルネコの用意した医療アイテムによって可能になった)。
 他の面々は、外(手術室はライアン家を一部改築し、離れのような形で作られているので、主としてライアン家の応接間で)待つことになる。ライアンに支えられながら手術室(との間の消毒室)へと入っていくホイミンが微笑んで手を振るのに、めいめい振り返してからそれぞれ椅子に座った。
「いやぁ、いよいよかと思うと緊張しますなぁ。ライアンさんは今頃もっと緊張なさっていることでしょうが」
「いや、でもここまできたら腹もくくれるだろ。それに、ホイミンと一緒に頑張れるんだから気合も入るだろーしさ」
「けれど、私、まさかライアンさんがお産に立ちあうとは思いませんでした……普通、男の方は外で待たれるものだと思っていたので」
「ミネア、認識古いぜ。今は自然分娩でも立ち会い許してくれるとこの方が多いんだから。俺だってどっちの時も立ち会ったもん」
「いや、それはうらやましい。私は立ち会いが許されませんでね、お産をしている部屋の外でひたすらうろうろと待ったものです。あの不安な時間、忘れられませんなぁ」
 勝手知ったる他人の家。それに今回はきちんと許可を得ているので、めいめいお茶を淹れて啜りつつのんびり会話をする。
 それぞれお産に際し緊張もしているが、クリフトを信頼しているのと、それぞれホイミンとライアンの出産への努力と互いの結びつきを何度も見せられているので、不安は感じていなかった。手術時間は三十分から一時間、と言われていることもあり(自然分娩の場合は初産だと平均十二〜十五時間くらいはかかる)、旅の時に馬車の中にいるのと同程度の緊張感でのんびり話をする。
「おお、そういえば。こんな話をご存じですか? はるか南東の海に、火山活動が確認されたのだそうです」
「え、火山活動? 海なのに?」
「海の底の、海底火山というやつですな。島が生まれる時などには、海底火山の活動が活発になります。なので、もしかすると近々新しく島が生まれる……海底から盛り上がるかもしれない、という話になっていましてな。もし島ができれば、私はさっそく船を用立てて調査に向かおうと思っているのです」
「え……でも、海底からできたばかりの島なのですから、わざわざ調査する価値もないのではありません?」
「いやいや、私も最近知ったのですが、新しくできた島……というか、陸地はですな、新しい鉱物資源の宝庫だったりするのですよ。それに、せっかく新しくできた場所なんです、見に行ってみたいじゃないですか」
「あー……それ、わかるな。旅の間でも、新しく行ける場所ができたら行かないとそわそわしてたまんなかったもんな」
「ふふ、トルネコさんもユーリルも。あまり仕事をおろそかにしてはいけませんよ? もういい加減家庭に落ち着いてはいかがです?」
「いえ、いいんですよ、ミネアさん。私、この人のそういうところが好きなんですから。夢に向かって進んでいないこの人は、この人じゃありませんもの」
「おいおいネネさん、それじゃートルネコさんが年取って落ち着いたら魅力を感じないとかいうことになっちゃわねぇ?」
「いいえ、そんなことにはなりませんよ。この人は年をとって、動けなくなっても世界に夢を馳せる人です。そう見込んだから、一緒になったんですもの。この人を支えたい、と思って」
「ネネ……」
「あー……はいはい、ごちそーさま。なーポポロ、お前こういう両親で大変だったこととかねーか?」
「んー、まぁけっこうあるけど、やっぱり僕二人のこと好きだし、尊敬してるから別にいいかな、って」
「こんのー、いい息子め。うちのソロにも見習わせたいぜ」
「え、ソロくんなにか困ったことでもあるの?」
「なんかな、あえて空気を読まずに破壊するっつーか、俺とマーニャがそーいう雰囲気になったタイミングを見計らって泣き叫ぶみたいなとこがあってさ。単に寂しい、かまえっつってんのか、やきもち焼いてんのかは知らねーけど。あいつ何気に甘ったれだからなー、俺そっくり」
「あはは、ユーリルさん、嬉しそうな顔してるね」
「え、そうか? ……んー、まーまっとうに子育てしてる親は、みんな親バカになるもんなんだよ」
「ふぅん。ライアンさんもそうなのかな?」
「じゃねーかな。今から楽しみだぜ、どんな顔してライアンさんが子供の面倒見るのか」
「あはは、ちょっとわかるかも……」
 と、その時。ホヤアァァ、ホヤアァァ……という、か細く高い声が、手術室から響いた。
「……っし。無事生まれたか」
「いやよかった。ライアンさんもほっとされたことでしょうねぇ」
「お祝いを考えなくてはなりませんわね、あなた」
「うん。今日は家族だけにしておいてあげた方がいいだろうしね」
「そうですね。他のみんなにはこちらから連絡に向かって、頃合いを見て来てもらいましょう」
 などと話しているうちに、手術室の扉が開いた。手術着を脱ぎ捨てたクリフトが、助手たちを連れて出てきたのだ。その表情は明るい。
「無事生まれましたよ。元気な男の子です」
「ほう、男の子ですか。もう名前は決められたのでしょうかね」
「ええ――ライアンさんとホイミンさんから一字ずつもらって、ラディローンと名付けられたそうですよ。愛称は、ラディンと」
 クリフトはそう言って、どこか清らかさを感じさせる顔で笑った。

 そして、一年後。
「お、全員集まってるな!」
「ああ。お前たちが最後だぞ。よく来たな、ユーリル、マーニャ、ヴィラ、ソロ」
「おじさんたち、こんにちはー!」
「うむ」
「こんにちは。……こんにちは、ソロくん」
「………っ」
「こーら、ソロ。……悪いな、こいつ人見知りでさぁ。家の中では甘えん坊のくせに、って、いて、引っ張るなってば」
「駄目ですよ、ユーリルさん。子供にだって矜持はあるんですから」
「お、それって実体験?」
「ええ。ラディンもよく自分の恥ずかしいところを見られて泣きそうになって……あ」
「うー……うーうー!」
「いたた、ごめん、ごめんってば、ラディン」
「ラディン。母さまを困らせるな」
「うっわ、あんた子供に母さまって呼ばせてんの? なんかいいお家の子みたいじゃん」
「む……確かに家には不釣り合いかとも思うのだが、私が長年王宮勤めをしてきたせいか、気安い言葉遣いというものにどうにも馴染めなくてな」
 そんな会話をしながら、一年前よりかなりに広くなったライアンの家の中に上がる。もともと王に勧められてこの周囲の土地を買いはしたものの、広い屋敷は分不相応だし意味もない、と小さな家だけを建てて住んでいたのが、子供ができたのをきっかけに貯金を崩して改築を始めたのだそうだ。
 広くなった応接間にそれぞれ陣取っている、久しぶりに顔を合わせる仲間たちに挨拶をしつつ、自分たちに用意された場所に座る。久しぶりに全員で集まろう、とトルネコが音頭を取って開いた今回のお茶会は、ラディンの一歳の誕生日に合わせて行われていた。
「だけど、ラディンちゃん、本当に大きくなりましたね。ライアンさんに似て、大きく育ちそう」
「む……そうかな? 顔立ちはホイミンに似ていると私は思っているのだが」
「ま、ライアンよりは優男風に育ちそうよね。女泣かせないように育てなさいよ〜」
「もう、姉さん、あなたと一緒にしないの!」
「でも可愛いなぁ、子供って。ヴィラちゃんやソロくんも可愛いと思ったけど、ラディンくんもやっぱり可愛い……」
「姫様、そうお思いならご自分の子供をお作りになれば」
「ブライさま、せっかくみなさんで集まっている席なのですから、それはまた別の機会に……」
「お、クリフト空気読んだな! やっぱお前も日一日と成長してるんだなー、お前が空気読める子になろうとは」
「あなたに上から目線でものを言われるとすさまじく腹が立つのでやめていただけませんか。あとあなたに子と言われる筋合いはありません」
「ははは、みなさんそれぞれに変わっているということですよ。けれどもこうしてみんなで集まってお茶が飲めるというのは、ありがたく嬉しいことですなぁ」
 トルネコがはっはっは、と笑いながらお茶をすすり、カップをソーサーに置いた。そしてすい、とごくさりげない仕草でその場を見回す。
「ところでみなさん。少しばかりお話があるのですが」
 その場の空気が少しばかり緊張した。トルネコがこういう言い方をするということは、かなりに重大な話なのだろう。全員揃って口を閉じ、トルネコに注目する。
「実は、ですな。以前、ユーリルさんとミネアさんにはお話したと思うのですが。一年ほど前に、ここからはるか南東の海で、火山活動が活発になったと言ったことがありましたでしょう」
「ああ、言ってたな。そういえばあの話、どうなったんだ?」
「実はですな。南東の海に、大陸群ができたようなのです。場合によっては、我々の住む大陸群と同程度の大きさのあるのではと思われるほどの」
『…………』
「はぁ!?」
 声を上げたのはユーリルだったが、それぞれ明らかに仰天した顔になった。それはそうだろう、たった一年でこの大陸群と同じほどの大きさの大陸群が生まれるなんて、普通に考えてありえないことだ。
「いや、私も驚いたのですがな。この一年で、海底からどんどんと驚くべき勢いで、しかもさして津波も立てることなく大陸が持ち上がってしまったのですよ。マスタードラゴンがお力を発揮されたのかもしれませんが、驚くべきことでしょう。のみならず、その大陸の土には豊かな栄養と植物の種が含まれていたようで、一年前には海の底だった大陸にもう少しずつ森ができてこようとしています」
「えぇー……? マジなのそれ?」
「どんな学問的にもありえないことだと思うのですが……」
「魔法学的にも驚くべき事態じゃな。サントハイムにはそのような情報は入ってこなんだが……」
「はっはっは、それはまぁ、私なりにこれまで世界中に情報網を張り巡らせましたから。……それで、ですね。私、その大陸に行こうと思うんですよ」
「え……」
「その、大陸に……? なにをしに?」
 その問いに、トルネコはにこり、と福々しく、けれども貫録たっぷりに笑んだ。
「むろん、開拓ですよ。これまでの商売で繋がりのある方に声をかけて、大船団を組織し、開拓者を募ろうと思うんです。平和景気も落ち着いて、社会全体の活気が失せてきたところにこの話です。なにせ耕した分だけ自分のものになるわけですから、話に乗ろうという方は多いと思いますよ」
「…………」
「それで、ですね。できればアリーナさんや、ライアンさんに、あちらこちらのお国の首脳陣の方々に話を通していただきたいんですが。国々が揃って開拓の人材を集めていると布告していただけないか、と思うのですよ。もちろん私も話をしようと根回しはしていますが、最終的には政治力のある方々が公的な会談を行わなければならないでしょうからね」
「そっか……うん、わかったわ。とてもいいと思う。特にうちの国には、ホフマンの作ったプレミアムバザーがあるから、人が集まってくるもの。新しい世界ができたことに喜ぶ人は多いと思うわ」
「ですが、姫様。人材の流出は国力の低下に繋がりますぞ?」
「だけど新たな大陸を開拓したいという人々の想いはそう簡単に止められないと思うの。その想いを後押しして、援助してあげる代わりに一定期間こちらに有利な条件での貿易を行う。そういうことならばサントハイムの財政的にも都合よく開拓が行えるんじゃないかしら?」
「む……それは、確かに……」
「おー、さすがアリーナ、しっかり王女様やってんなー。すっげー勉強したっつーのが俺にでもわかるぜ」
「うん、私なりに頑張ってるつもりよ。ユーリルたちと一緒に旅をして、いろんなことを思ったし、考えたし。それに、やっぱり私を育ててくれたサントハイムのみんなが大好きだから、みんなに幸せになってほしいもの」
「ふーん……お前らしいな」
「そう?」
 アリーナとユーリルが軽く笑みを交わす横で、トルネコは話を進めていた。
「そういうことなので、私はこの大陸を出発したらしばらくは帰れないと思うのです。もしかすると、本拠を向こうに移すことになるかもしれません。もちろん連絡は差し上げますが……こうして揃って集まれるのは、これが最後になるかもしれませんな……」

 自室の扉を開けると、ユーリルに「よう!」と笑って手を上げられ、クリフトは思わず脱力して肩を落とした。すでに勝手にお茶も淹れている様子に、本当にこの人は勝手に人の部屋でくつろいで、と毎度お馴染みの文句が脳内を駆け巡る。
「お、飲む? このお茶。市場で買ったんだけどけっこううまいぜ、飲むんだったら淹れてやるけど」
「……あなたまた自分でお茶を買ってきたんですか? 部屋の外で待っていてくれればお茶くらい出しますと何度も」
「だって冬のサントハイムってけっこうさみーんだもん。司教さんもいいっつったしさ。それに、俺とお前の仲だろ?」
「どんな仲です。少なくとも部屋に無断で出入りを許すような関係になった覚えはないんですが」
「はは、悪い悪い。けどまぁ、そういうのもこれで最後だから勘弁してくれよ」
「え……」
 思わずたじろいだクリフトに、ユーリルは真正面から視線をぶつけて、当然のようにきっぱり言った。
「俺たち、トルネコさんと一緒に、新大陸に行くから」
「…………」
 クリフトは目を見開き、一瞬呼吸を止めた。心臓も、一瞬痙攣を起こしたような気がした。
「……なぜ、ですか」
 情けないことに、掠れた声で言葉を返す自分に、ユーリルはあくまで真摯に答える。
「マーニャの仕事がさ、一段落ついたんだ。モンバーバラに、踊りの教育機関っていうものががっちりできてきてさ。どの劇場でも、舞台に出るからには踊りをきちんと教育するのが当然って意識ができてきて、マーニャの教室自体にも引退した踊りの名人たちが集まってきた。マーニャがいなくても、教室がきちんと機能する、って確信できたんだって」
「だからといって……わざわざ未開の地へ旅立つ必要は」
「『必要』じゃなくてさ。行ってみたいんだよ。俺は旅が好きなんだ、知らない場所へ行ってこれまでにないことをやってみたいっていう想いはいつもあった。マーニャは未開の地で必死に生きる人たちなら、こんなおばさんの踊りでも楽しんでくれるだろうって笑ってた。それに、マーニャも旅暮らしが身に染みついてるとこあってさ、未開の大陸っていうのにワクワクしてる気持ちもあるんだよ」
「……お子さんたちは、どうするんです」
「連れていく。当たり前だろ、あいつらと別れ別れになる旅なんて、今の俺にとっちゃ意味がないんだ。家族であっちに行って、開拓を進める奴らに護衛と踊りの腕を売って、生計立ててくつもり」
「…………」
「それと、また別に話があると思うけど、ミネアも向こうに行くんだって」
「ミネアさんまで……なぜですか」
「なんでも、失恋の思い出の残るこっちの大陸より、新天地に向かって人生やり直してみたいんだってさ」
「失恋……なにも、そのようなことで人生の重大事を」
「失恋だって人生の立派な重大事だろ。まっとうな恋ってのは人生懸けて命懸けて好きなんだ、それがうまくいかなかったら新しい人生でも生きなきゃどうにもならないって気持ち、俺わかるよ。それにミネアももともと旅暮らしだし……向こうの方が占いってのを役立てる機会も多いかもしれないしな」
「…………」
「マーニャは今アリーナやブライと話してる。城に来たら先にアリーナのとこに案内されたから、あっちに先に話したんだ。もう少ししたらこっち来ると思うぜ」
「……なぜ、あなたは先にこちらに?」
「お前と話したかったからさ」
「……なにを、言っているんです」
「真面目な話だよ。お前が俺にいろいろ素直になれない気持ちを抱えてるのは知ってるけど、俺はお前のこと仲間で、友達だって思ってるし、幸せになってほしいって思ってる」
「…………」
「だからさ。よかったら、お前も来ないか?」
「………え?」
「俺たちと一緒に。向こうの大陸に行かないか」
「…………」
 クリフトは思わず呆然として、真面目な顔でこちらを見つめるユーリルを見た。
「なにを、言っているんです。私は、サントハイムに仕えるアリーナさま付きの神官で」
「だからさ。サントハイムもトルネコさんと一緒に船団派遣するんだから、向こうを監督する人材がいるだろ。それのトップとして、お前ってけっこうふさわしいんじゃねぇの。それなりに強いし、医術に対する知識は折り紙つき。その上神官として不安になった奴らの心を慰められる。人当たりもいいし、頭もいい。どこからも文句出ねぇだろ?」
「ですが、私は……知っているでしょう、あなたは」
 自分の想いを。いつまでもアリーナのそばにいたい、そう魂懸けて願う想いを。
 だが、ユーリルはあくまでも真剣にこちらを見て言う。
「知ってる。だからこそ、いつまでもそのままじゃいられないだろって思うんだ」
「……なにを」
「さっき話した時にも言ってたけど。アリーナ、もうすぐ結婚するんだろ」
「!」
「まだ誰って決まってるわけじゃないけど、そろそろ結婚しないとね、って笑って言ってた。あいつは本気で、好きでもない奴相手に、義務感だけで結婚するつもりなんだろ?」
「……ええ」
「俺はそんなのごめんだ。冗談じゃない。だけど、あいつはそれでいい、って言うんだ。『一緒にサントハイムや世界の人々を幸せにしたいって思える人となら、ちゃんと家族を作れると思うわ』って。本気でそう思ってるってわかっちまったから……俺は口出しはできない」
「…………」
「けど、クリフト。お前にはこういうことは言える。今の状態に、本当は少しも満足してないお前には」
「………なにを」
「お前、一度アリーナから離れた方がいいんじゃないか?」
「っ……」
「このままアリーナと一緒にいて、好きでもない男と結婚して家庭を作ってくアリーナをずっと見ていくのかよ、お前? それはいっくらなんだって不毛すぎるだろ」
「……お節介はやめてください。私はアリーナさまのそばにいると、それだけの人生でいいと」
「お前にとってだけじゃなくて、アリーナにとっても不毛だって言ってんだよ」
「な」
「だって、アリーナはお前の気持ち知ってんだぞ。それに、もう子供でも超絶的鈍感でもない。そんな奴が、自分に片想いしてる家族も同然の奴の気持ち、考えねぇとでも思ってんのか。アリーナだってこっそり気遣って、苦しんでるに決まってんだろ」
「…………」
 クリフトは思わず口を開けて固まってしまった。考えていなかった。自分のこの想いが、その存在が、アリーナを苦しめることになるということ。その事実を、自分はようやく明確に、肌に迫って認識したのだ。
「だからさ。ちっと距離置いてみるってのも手だと思ったんだよ。互いに離れて、お互いのこと考えないようにしながら生きてみて。そうしたらこれまでとは違う関係が築けるかもしれない。繋がりを保ちながら、それぞれに不幸じゃない生ってのが見つかるかもしれない、ってな」
「…………」
「時間はまだある。考えてみてくれよ。お前が不毛な人生送るなんて、アリーナだって、まぁお前にはその他大勢なんだろうけど俺たちだって、少しも望んでねぇっつーかまっぴらごめんなんだからな」
 ユーリルが立ち去ってから、クリフトは自室の椅子に腰かけて、ひたすらに考え続けた。自分の存在、アリーナにとっての価値、アリーナの気持ち――そして他の人々の想いについて。
 そして、立ち上がってアリーナの部屋へと向かった。今の時間ならアリーナはまだ部屋で勉強をしている頃だろう。
 部屋の前の衛兵に、自分は部屋に入らず話をするので少し離れた場所から見てくれるように頼む。まだ夕食を済ませてすぐの時間帯とはいえ、夜に臣下が異性の主の部屋に入って話をするわけにはいかない。
「姫様。アリーナさま。すいません、まだ起きてらっしゃるでしょうか」
 そう声をかけると、部屋の中でアリーナが立ち上がる音がした。
『え、クリフト? どうしたの、珍しいわね、夜にあなたが私の部屋に来るなんて。待ってて、今扉を』
「いえ、扉は開けなくてけっこうです。どうか、このままお話し願えませんでしょうか」
『え? なに言ってるの、扉越しに話なんてしたって』
「いえ、どうかこのままで。……姫様のお顔を見てしまうと、言えなくなってしまうかもしれませんので」
『…………』
 扉のすぐ向こうで、アリーナが立ち止まる音が聞こえる。クリフトはふ、と息をついて、頭を下げた(見えないことはわかっていたが)。
「申し訳ありません、ありがとうございます、アリーナさま」
『そんなことは、いいけれど。……どんな話があるの』
「は――」
 クリフトは目を閉じ、数度深呼吸をした。すでに知られていること、それは自分でもわかっていたが、それでもこの言葉を自分から告げる日がくるとは思っていなかった。それは自分の決めた分を越えたこと、戒めを破ることだ。そんなことをするくらいなら、死んだ方がはるかにましだった。
 けれど、自分がそれよりも重要視すべきなのは、しているのは、アリーナの幸せだ。アリーナのそばにいられない人生など自分にとってはゴミ屑同然。けれど、自分のせいでアリーナを苦しめてしまう人生など、それこそあってはならない代物だった。
 そして――それよりもはるかに小さく、意味のないといえばいえてしまえるようなものだったとしても。ユーリルや、他の人々の自分に対する心配を、ありがたいと、申し訳ないと、その気持ちに応えなければと、そう思う感情があることも、また確かなのだ。
「姫様。……姫様は、すでにご存知かと思いますが……私は、かつて、姫様をお慕い申し上げていました」
 一瞬、扉の向こうで息を呑むような音が聞こえた。
 存在してはいけなかった想いを告げた言葉。二十年来の想いを告げる言葉にしては、ごくあっさりと言うことができた。それに力を得て、クリフトは続ける。
「それは存在してはいけない感情です。ですからずっと押し殺し、直視することから逃げ、忘れよう忘れようと努力してきました。ですが、その感情の存在を姫様にお知らせしてしまい……あってはならない感情のせいで、姫様にご迷惑をおかけするという、それこそあらざるべき事態を招いてしまいました」
『…………』
「私は姫様に仕えながら、自分はここにいてはならない存在なのだと思いながらも、受けたご恩を放り出してはならぬと自分を戒め、務めを果たし続けてきました――ですが、このたび、トルネコさんのおっしゃられていた新大陸群について、サントハイムから出す人材を取りまとめる役職を受けてはどうかと……ユーリルに、勧められまして」
『……ユーリルに?』
「はい。姫様の御前を退く無礼は重々承知ですが、せめて目に届く場所にいなければ姫様のお心を騒がせるようなことはないであろう、と。新大陸でサントハイムのために粉骨砕身することで、少しでも姫様や、陛下にご恩を返せれば……そう考えて、ユーリルの提案を受けようと思うのです」
『…………』
「姫様。これまで、私のようなもののためにお心を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした。今後は私のことなど――」
『クリフト』
「は」
 突然言葉を遮られ、クリフトは固まった。半ば勢いのままに、感情を殺し、無視し、なかったことにして話していたからだ。
 だがアリーナは、いつものように、誰より美しく、優しく、輝かしい声で訊ねてくる。
『クリフト。あなた、かつてお慕い申し上げていました、って言ったけど』
「は……」
『今は、もう違うの? 私のこと、思い切ったの?』
「は………」
 クリフトはこわばった唇を必死に動かして答えようとしたが、固まった頭はどうにもうまく動いてくれず、つい言うはずではなかったことをぽろりとこぼしてしまった。
「思い切ろうと、思うのです。このまま、姫様がご結婚なさり、ご家庭を持たれるのを見守り……姫様にお気を遣わせてしまうのだけは、避けねばならないと」
『そう……』
 数瞬の沈黙。その間『なにを言っているのだ、私は!』とクリフトは固まりながら内心悶絶していたが、ふいにぐい、と扉が押されるのに驚いて身を退いた。
 扉の向こうから、アリーナが現れる。いつもと同じく、輝かんばかりに美しく、可愛らしい姫君。その方がじっとこちらを見つめ、告げる。
「クリフト」
「……はっ」
「私と、結婚してくれるつもり、ある?」
「………は?」
 ぽかん、と目と口を大きく開いて、クリフトは今度こそ完全に硬直した。アリーナはわずかに頬を紅く染められながらも、あくまで真剣に言葉を重ねる。
「私はね、やっぱり、少なくとも今は恋をしたいとは思わないの。誰かに恋をしなければならないとも思えない。少なくとも、今の私に恋って、あんまり必要じゃないのよね。でも、結婚はしなければならない。それに、誰かと結婚して子供を産んで、自分の力で家族を作るっていうことに憧れがあるのは事実だし、家族がほしいという気持ちは確かにあるの」
「………はい」
「貴族や他国の人の中から、相性のよさそうな人間を見つくろうということも考えたわ。でも、それってやっぱり、どうしても失礼なような気がするの。相手の気持ちとか、そういうことを考えないで、こっちの都合だけで結婚してくれって頼むなんて。だから、私なりに、『この人と一生一緒にいたい』『この人と家族を作りたい』『この人と添い遂げたい』と思う人を探さなくちゃいけない、って思ったのよ」
「……はい………」
「それでね。私の人生の中を、見渡してみて。一番、この人と家族っていうものを作れたらいいな、と思えたのが、クリフト。あなただったの」
「…………………!!!」
 もはや声も出ないほど固まるクリフトの前で、アリーナは目元を朱に染め、恥じらいに目を伏せながら言う。
「そう思ってすぐ、あなたに吊り合うだけの想いじゃないのにこんなことを言うなんてものすごく失礼だって自分を叱ったわ。クリフトはずっとずっと私を一番好きでいてくれたのに、その程度の想いでなんて、許されないと思ったの。だから、もしクリフトへの想いがあなたの想いに吊り合うぐらい強くなったらって、思っていたら……いつの間にか、ずいぶん時間が経ってしまって」
「…………」
「私、もう二十代も後半になっているし、女性としては年増って言われる年頃だってわかってるわ。だから、クリフトにこんなことを言っても迷惑かもしれないとは思う。クリフトのためにならないんじゃないかとも。だけど……クリフトが、私が嫌になったっていうんならまだしも、私が一番家族を作りたいって思える人が、私への想いを思いきるために離れようとするのを放っておくなんていうのは、あんまり情けない話だ、って思ったの」
「…………」
「だから、あのね、クリフト。私じゃ迷惑かもしれないけれど、だけど、もしよかったら、どうか……私と一緒に、家族を作ってくれないかしら」
 そう言って深々と頭を下げるアリーナ――その紅く染まった耳を、艶やかな亜麻色の髪を、わずかに震える体を数瞬見つめてから、クリフトはひっくり返って気絶した。
「って、ちょっと、クリフト? クリフトー!?」
 ……ことがとりあえず無事に収まって(身分の問題(王室と民草の距離を縮めるいい機会になるともアリーナは考えていたようで、方々に根回しをして無理を通してしまった。それにクリフトの救世の英雄としての名声は自分で思っていたより大きかったらしい)やら聖職者としての問題(還俗はさぞ問題になるだろうと思ってはいたが、驚くほどあっさりと問題なくすんでしまった。大司教としても教会にもサントハイムにも益のあることだと思ったらしい)やらが)、結婚が正式に決まった頃、ユーリルがこっそりとクリフトを訪ねてきた。
 クリフトが(結果的には自分に幸福をもたらしてくれたわけなのだから)礼を言うと、ユーリルはにやりと笑って言った。
「気にすんなって。お前らが幸せになってくれんなら、俺もわざわざ計画立案した甲斐あるし」
「計画を……立案?」
「そ。マーニャと一緒にな。アリーナに探り入れてみてさ、結婚するんなら相手はクリフトがいいって思ってんの知ってたからな。けどお前は頑固だからそう簡単にその話が出てきても受け容れやしないと思うし。つか、自分の気持ちも認めやしねぇと思うし。だから、ちょっとばかしお互いのこと焦らせたら二人とも取り繕ってる余裕なくして素直になるんじゃねーかなと思ってさ。正解だっただろ?」
 クリフトは驚き、呆れ、ぽかんと口を開けてしまったが、少しばかり得意そうに勝利の笑みを浮かべてこちらを見ているユーリルを見ると、つい馬鹿馬鹿しくなってふふっと笑ってしまった。本当に、おせっかいで、無駄にお人好しで、困っている人がいればどこにでも誰にでも首を突っ込んで。
 自分にとってもただ一人の勇者で、大切な友人であるこの人は、いつも自分の世界に窓を開けてくれるのだ。

 トルネコは最後に、自分の組織した船団を見回した。数十にも達する巨大な船の群れは、ソレッタ南の港町に整然と並び、見物客たちにも歓呼の声を持って送り出されようとしている。
 もはやすべての準備は整った。各国首脳陣(と、トルネコ)の挨拶も終わった。あとは、ただ。
「……それじゃあね、ユーリル、マーニャ、ミネア、トルネコさん」
 目を潤ませながら、アリーナは微笑む。その左手の薬指には精緻な細工を施された指輪が着けられている。
「どうか……元気で」
 微笑むクリフトの表情は、ひどく穏やかで優しい。その表情や、瞳がわずかに潤んでいることは、左手の薬指のアリーナと同じ指輪とけして無関係ではないだろう。
「気が向いたら顔を見せてくだされ。いつでも、歓迎いたしますぞ」
 髭を捻るブライの顔も、アリーナやクリフトと似たようなものだった。この老人も、確かに変わっていくのだ。人というものは、どんなものも、死ぬその瞬間まで時と共に変わっていくものなのだから。
「これっきりではない。私はそう信じている。……また、会おう」
 ライアンも、隣にラディンを抱いたホイミンを連れて微笑む。家族の縁は、こうして広がり、繋がっていくのだ。
「ええ……また、会いましょう。いつか。その時には、胸を張ってお会いできるよう精進しますわ」
 笑うミネア。彼女もどこかふっきれた表情をしていた。だからこそ、こうして新天地へ旅立つことを決めたのだ。
「ったく、辛気くさいこと言ってんじゃないの! とーぜんよっ、これで終わりなわけないでしょ。会おうと思えば絶対会えるわよ! だから……またね、みんな」
 艶やかに笑ってみせるマーニャですら、瞳には確かな潤みがあった。そう、幸せであろうとも、一人ではなかろうとも、仲間との、友達との別れは寂しいものなのだ。
「ああ……また会おうぜ。俺はみんなのこと、大好きだからな。これっきりになんて絶対させねーよ」
 にっ、とガキ大将のような笑みを浮かべてみせるユーリル。もう二十代も後半になり、二児の父でもあるというのに、彼の瞳は冒険心と未知の世界への希望に輝いている。……そして、驚くほど純粋な、友との別れに対する悲しみにも。
 けれど、彼はそれに溺れない。――彼がそういう人間だから、自分は年端もいかない少年が、勇者として生きようとするのを止めなかったのだから。
 もう、彼は勇者としての冒険を終え、新たな人生の場へと踏み出そうとしているけれど――
「ええ――みなさん。また、会いましょう!」
 トルネコはそう言って、手を上げた。自分たちが移動するのに伴い、陸地と甲板を繋ぐ板が上げられる。
 全員がぶんぶんと手を振る。その間にも板はどんどんと上げられ、とうとう甲板の上にしまわれた。陸地と船は完全に離れたのだ。
 おのおの顔を見合わせ、小さく笑ってからそれぞれの居場所へ向かい歩き出した。――自分たちの人生の、おそらくはもっとも輝かしいひと時が、今、確かに終わったのだ。

 そして、時は流れた―――

 ざくっ。打ち込んだ鍬の音を心地よく聞き、また鍬を振り上げて打ち込んで音を聞く。砂漠ではとうてい聞けまいと思っていた、土を耕す時の音。
 オアシスに隣接した地下洞窟の中に、こうも豊かな土が息づいていようとはこの場所を探り当てたミネアでも思っていなかった。しかもこの場所の天井は、太陽の光を透過させるようなのだ。つまり、ここならば畑や果樹園を作ることができる。南に豊かな鉱脈を持つこの砂漠で生きるための、食料を得ることができるのだ。
 この砂漠に居を構えて、十年弱。ようやく、まともに暮らしが立つようになってきた。
「いや、まったく、ミネアさまのお力は素晴らしいですなぁ。さすがは勇者さまのお仲間でいらっしゃる! 砂漠の中でこのような場所を探し出すなど徒人にはできぬこと!」
 休憩時間に、お茶を飲んでいる時そんなことを言われ、ミネアは苦笑した。
「いえ、私は占い師ですから。少し力のある占い師ならば、このくらいは誰にでも」
「いやいや、砂漠の中でこのように農地を広げることができるなど通常ありえないことですからな。ミネアさまのお力がなければかないますまい。まこと、さすがミネアさまのお力は素晴らしいものですな! 本当に我らの救世主ですよ!」
「いえ、そんな……」
 そういう言われ方ではミネアとしては苦笑するしかなかった。だがその不満を表すより早く、一緒に休憩していた一人の若者が口を開く。
「馬鹿か。なんでもかんでもミネアさまのおかげにするな」
 一瞬、その場が静まり返った。その若者は顔をしかめて、険しい顔で続ける。
「この場所を耕したのは俺らだろうが。ミネアさまにどれだけ力があろうが、土地を豊かにできるわけでもほいほい樹を生やせるわけでもないんだ。勝手に買い被るな」
「お前、ミネアさまに対してなんて無礼な――」
 いきり立って数人の若い男が立ち上がろうとするタイミングで、ミネアは笑い声を立てながら口を挟んだ。
「そうですね。あまり買い被られても困ってしまいますわ。私はか弱い女で、しかももうお婆ちゃんなんですもの」
 その言葉に、一気に空気が緩む。ミネアがおどけてみせた意味を感じ取ってくれたらしい。若者たちも間を外された顔で座り直し、「いやいやミネアさまはまだまだ若い」「どんな重い荷物も軽々と持たれるミネアさまがか弱いなどとはご冗談を」という言葉に笑ってみせる。
 無事休憩時間がすみ、仲間たちは三々五々それぞれの分担の場所へ散っていく。と、ぼそりと声がかけられた。
「すいませんでした」
 ミネアはゆっくりと、声を出した相手の方に向き直る。そう言ったのは、予想通りさっき場の空気を壊した若者だった。
「なにがですか?」
 ミネアが静かに問うと、若者は恥じらうように目を伏せながら早口に言う。
「さっき、失礼なことを」
 その荒削りではあるが端正な面持ちが朱に染まっているのを見て、ミネアは思わず笑ってしまった。まるで少年のように、この若者は可愛らしい。
「ふふ、なにも失礼なことなど言われていませんよ。あなたが私を人として扱ってくれようとする気持ち、とても嬉しかったです」
 昔から自分は神格化されやすい質だったから、よけいにだ。常にあらざる力を持つものを、人として認めるのよりは『自分たちとは違うもの』として認識する方が、ずっと楽で簡単だから。
「ですが、そのせいで、ミネアさまご自身に自虐的なことを」
 一瞬目を見開いてから、またくすくすと笑ってしまった。そんなことを気遣われるなんて、本当にどれくらいぶりだろう。自分は実際、お婆ちゃんは言いすぎにしてももう四十過ぎのおばさんでしかないのに。
「ありがとう。でもいいのですよ、本当のことですから。自分でも、私はもう老嬢としか言いようのない女だとわかっていますし」
「……ミネアさまは、結婚は、なされないんですか」
「結婚、ねぇ……」
「好きな方は……いらっしゃらない、んですか」
 ミネアは今度こそ一瞬絶句してしまった。それから、思わず沸いてくる笑いに口元を、お腹の筋肉すらほころばせながら答える。
「ふふ、うふふ、私みたいなおばさん占い師に恋の話を振るなんて、面白い方ですね、あなたは」
「……すいません」
「いえ、楽しくていいですよ。そうですね、昔は……好きな人もいましたけれど、本当にもう、昔のことです。必死に生きていたら、もうこんなおばさん。こっそりそれほど悪くない、と思っていた顔も皺だらけ。もう一生結婚はしない、というかできないでしょうね。こんなおばさんに申し込んでくれるような物好きの方、いないでしょう?」
「そんなことは、ないです」
「え?」
 また予想外の台詞が帰ってきて、思わず振り向こうとするミネアに向け、若者はきっとミネアを熱く真摯な瞳で見つめ、言った。
「ミネアさまは、今も、とても美しい方です」
 そうきっぱり言い切ってから、かぁっとその顔が朱に染まった。それから頭を下げるや、こちらに背を向けだっと走り出す。
 その背中を、ミネアはぽかんとして眺めるしかなかった。彼がなにを言いたかったのか、よくわからなかったのだ。
 ……一年後、この砂漠に国を築こうという話が出てきた時に、ミネアは女王として選ばれることになるのだが、その際にこの若者と結婚し、最終的には二児を成すことになろうとは、未来を見通せるとはいえ神ならぬ身のミネアには、まるで予想もつかないことだった。

「お父さーん! 早く早くーっ!」
「こら、レック! そんなに早く行ったって特に見るもんねぇぞっ!」
 そう怒鳴っても、レックは笑ってどんどん先へ先へと走っていってしまう。まぁまだ十歳の末っ子なのだ、元気でなくては困るのだが。
「俺が見てくる。心配しないで」
「おう、悪いな、ソロ」
 そう言う自分に小さくうなずいて、長男であるソロ(現在十五歳)は走り出す。昔から無口な質だが、最近長男としての責任感に目覚めたらしく、弟妹たちの面倒を頑張ってみるようになってきた。もしかしたら惚れた女でもできたのかもしれない。
「でもさぁ、改良されたルーラを試してみるっていうのはわかるけどさぁ、なんでわざわざこんなとこまで来なきゃなんないの? エンドールなりサントハイムなりモンバーバラなり、行くところどこにでもあるじゃない」
 長女のヴィラが肩をすくめる。ざっかけない口調はマーニャに似たが、マーニャの享楽的な部分の代わりに現実的な部分を詰め込んで生まれてきたヴィラは、最近『そこそこ稼ぎのある男を探してとっとと結婚する』などと言って女に磨きをかけることに凝っているのだ、もっと大きな街などに行きたかったのだろう。……もちろん、そんな腹積もりを許してやる気はないが。
「そう言うなって、ヴィラ。ピクニックついでに俺の生まれた場所を見たって、別に悪いこたないだろう?」
「そーだよ、お姉ちゃん。パパの生まれたとこあたし見てみたいもん。なにせユウシャサマの故郷だもんねー?」
 きしし、と笑う次女のダリア。十三歳の生意気盛り。というか、そろそろ反抗期のようでやたら自分に刺々しい。もっとも熱心に踊りに打ち込んでいる子なので、マーニャに懐いている分自分に冷たいというだけなのだろうが。
「ま、今じゃ……いや、今も誰も住んでないだろうけどな。深い森の中のわずかな平地だ、人のいない今じゃますます廃墟だろうさ」
「ふぅん……なのに、なんでそんなところにわざわざ行くの?」
 きょとん、と首を傾げる次男のアベル。ダリアと双子の十三歳だ。いつもぼんやりとしていることの多い、天然と言われることの多い奴だが、踊りは熱心に取り組んでいて、才能はダリアよりあるかもしれない、とマーニャは言っていた。なのにダリアと仲がいいのは、親として素直に嬉しい。
「ん、そうだな……まぁ、そろそろ見ておいてもいいだろって思ってな。俺も、もう四十だから」
「おじさんだよねー」
「そう? 子沢山なのにお若いよねぇ、って武器屋のおじさん言ってたけど」
「若作りなだけでしょ。ていうか、なんで年が関係あるわけ?」
「そうだな……まぁ、半分まで来たなってことさ」
 人生の終わりまで。
 もちろん必ず八十の時に死ぬと決まったわけではないのだが、八十というのは大体において健康な人間の平均とされる死亡年齢らしい。この前クリフトに会った時に聞いた。
 なので、もう一度見ておこうと思ったのだ。自分の生まれた場所、かつて生きた場所、あの山奥の村の残骸を、その場所に行ったことのない人間がいても転移できるように改良されたと教えてもらったルーラで。
 自分の隣を、無言で歩いているマーニャと一緒に。
 マーニャは四十九になった。中年から、もう老年へ移っていこうとする年齢だ。
 けれどマーニャは、きちんと美しく年を取っていた。しゃんと伸びた姿勢、気高い表情、若い頃と形は変わっているけれど、今も美しいと思える顔貌。若い頃身にまとっていた享楽的な雰囲気の代わりに、ユーモアのある意地悪さを持った気品をまとい、とりあえず今腰を落ち着けている街の人々からも慕われている。
 そしてユーリルとしても、その隣に立つ資格があるくらいには自分のことを磨いているつもりだった。一応、今でもそれなりに見れる顔をしているはずだ。のぼせあがった女の子が告白してくることもあるくらいだし。
 やがて、自分たちはあの村のあった場所に着いた。
「……村って……どこ?」
「はぁ……本当に、ほとんど廃墟になっちまってるな」
「ていうかどこもかしこも草と樹ばっかじゃない!」
「いや、そこらへんに石壁の名残があったりするだろ? わずかだが、名残はあるさ。知っている奴にはわかる、ぐらいのことだけどな……」
「……ここが、パパのふるさと?」
「そんなにいいもんじゃないけどな。もう誰もいない場所だし」
「……旅立ちの時に、皆殺しにされたから?」
「そういうことだ」
「……ふぅん」
 ダリアが小さく唇を尖らせる。ユーリルがかつて勇者として世界を救ったことは教えてあったが、ダリアはどうしても半信半疑のようだった。向こうの大陸に行ってから生まれた子だから、親の言葉以外にほとんど証拠がないのだ、まぁ当然といえば当然だろう(アベルとレックは疑った様子もなくあっさり受け容れたのだが)。
 そして、ユーリルも、別になにがなんでも信じてもらいたいとは思わない。
「よし、そういうわけで、俺は少し感傷に浸るから、お前らは遊んできていいぞ。ただし、この村あちらこちらに崖があったりするから落ちないように気をつけろよ。あと魔物と獣にもな」
「やったぁっ!」
「レック! 勝手に走るな!」
「もー、こんなとこで遊べってなにしろってのよ、あたしたちのこといくつだと思ってんの?」
「んー、じゃー、踊りの練習しようかな―」
「じゃー、あたしもつきあおうーっ、と!」
 めいめい駆け去っていくのを見送り、ユーリルはゆっくりと歩いた。かつて、自分の世界のすべてだった場所を。
 面影はほとんどない。自分の家もほとんど残っていない。ただ、かつてシンシアの幻と邂逅した場所がまだ花畑のまま残っているのが、少しおかしかった。
 決して好きな場所ではなかった。むしろ出ていきたいとばかり思っていた。それでも、ここが、自分の始まりだったのは間違いのないことだ。ある大切な男と寝た場所でもあるし……いやいやそうじゃないそうじゃない。
 けれども、それだけだった。
 自分にとってここはもう、はるか昔の、過去の遺物なのだ。もう誰もいない。死体すら残っていない。だから墓もない。人がいた痕跡すら消えていこうとしている場所だ。
 自分にとって、ここは忘れてもいいと思えた場所だったのだ――
 と、ふいにきゅっと指先を握られた。驚いて振り向く。
 自分の隣に座り込み、自分の指先をそっと握っているのは、もう二十年以上一緒に生きて、お互いの気配がほとんど区別がつかなくなってしまった、最愛の妻――
「あーっ! お父さんとお母さんが手ー握ってるー!」
「ちょっとぉ……仲いいのはいいけど子供たちの前でいちゃつかないでくれるー? さすがにもう子供は作らないと思うけどさー」
「そーよっ、んっとに年頃の娘に対するデリカシーがないんだからっ、パパはっ!」
「………仲良しで、いいじゃないか。喧嘩するより」
「うん、パパとママが仲良しなの、嬉しいよ?」
 背後から声をかけられ、思わず赤面する。父親としては、こういうところを見せるのはやはり、妙に気恥ずかしい。
 だが、父の威厳を保つためにもここで慌てるわけにはいかない。わざと悠々と立ち上がり、くるりふと振り向いて笑ってみせた。
「おう、お前ら、早かったな。少しはいちゃつかせてくれてもいいだろうに」
「………っ! パパ、サイテーっ!」
「ダリア。……父さんも、煽らないでくれよ」
「はは、悪い悪い。さって、じゃーこっちの街をゆっくり巡ってくとするか! ダリアとソロ以外は初めてだろうからな、たっぷり時間かけて回るぞー」
「やった! そのためにこっちに来たんだもんねっ」
「ねぇねぇお姉ちゃん、ほんとにこっちの大陸群ってそんなに人が多いの?」
「多いわよぉ、そりゃもうすんごく。向こうのどんな街も田舎に思えちゃうくらいなんだから」
「ソロにーちゃん、そうなの? 強い奴とかもいっぱいいる?」
「俺はこっちにいた時まだ二歳だったんだ、ほとんど覚えてないよ。レック、誰彼かまわず勝負を挑むようなことは絶対にするなよ?」
「踊り、見たい。いっぱい」
 とたんに騒がしくなる子供たちに笑い、ユーリルはちらりと隣を見た。マーニャはにっと微笑んでくる。その変わらぬ、勝気な笑み。
 ユーリルは思わず顔に満面の笑みを浮かべ、ぎゅっと強く指先を握り、足を踏み出した。

 ブライは、ロッキングチェアにゆったりと腰かけながら、中庭の東屋でお茶を楽しむ女王陛下一家を見つめた。侍女も使用人も退がらせて、女王陛下一家はにぎやかに喋っている。
 普段は神々しいほどに美しく、厳しくも優しい女王陛下として国中から慕われているアリーナは、こうして家族だけになるとふっと表情を緩ませる。昔の、元気に暴れ回るおてんば姫の顔に戻るのだ。
 それは、クリフトの力なのだろう、とブライも素直に認めることができた。公的な役目はあくまで女王婿であり城付きの神官(本来ならば大司教と呼ばれてもおかしくない学識と信仰の持ち主なのにもかかわらず)でしかないというのに、ひたすら献身的にアリーナを支え、愛する。そのおかげでアリーナの心がどれだけ和らげられたか知れない。
 そうして、今や二人の間には二人もの子がいる。男児が一人、女児が一人。どちらも健康この上なく、可愛らしく優しい心をおもちの御子たちだ。
 ただ、女児は父親に似るということだからクリフトに似て穏やかな質になってくれるのではないか、という希望的予測に反し、二人揃って城内を揺るがすほどの腕白者になってしまったのは憂慮すべきところではあるのだが。
 だが、アリーナさまたち一家は、とても幸せだ。
 仕事がいつもお忙しく、いつもいつもたっぷり話をするとはいかぬものの、その分お互いの触れ合いを心待ちにして、かけがえのないものと感じている。通常の親子よりはるかに密度の濃い付き合いだ、とブライは感じていた。
 国の内外にも不安はない。一神官を女王の婿にするという、本来ならとうていありえぬことを、アリーナさまはその事実をきっかけに国家機関の民営化の可能性を示唆する――政治を民にゆだねる可能性を示し、国民を味方につけて押し通してしまった。外交についても、笑顔できっぱり押しが強く、相変わらず武術の鍛錬を欠かさないせいで、気が昂ぶると勢いでうっかりテーブルを壊したりもする力強さをも持ち合わせ、周囲の国々にも恐れられている。
 あの方は、アリーナさまは、本当にあの方らしい、型破りな女王になられたのだ。
 もう、大丈夫。そう思える。
 もう大丈夫だ。アリーナさまにはクリフトがついている。アリーナの心を安らがせることにかけてはあやつに勝る男はいない。アリーナさまの御子たちの教育についても抜かりなくやってくれるだろう。国内外の諸問題には、アリーナがその意志力をもって快刀乱麻を断ってくれるだろう。
 もう、思い残すことはない。
 ブライはそう、わずかに涙ぐみながら目を閉じた。
「あー、おおじーじ、ねてるー」
「おかあさま、おおじーじ、ねちゃったの?」
「ええ。だから今は休ませてあげましょう。……本当に、ブライったら、最近は昼寝の時いつも『これが最後』みたいな顔で眠るんだから」
「……ええ。できるならば……その終わりが、できるだけ先であってほしいものですが」

「おじいちゃーん! トルネコおじいちゃーん!」
「おお、ミュセ。どうしたんだい?」
「パパがね、おじいちゃんを呼んできて、って。なんだかね、ルラフェンの方で嵐が起きた、とかで」
「おやまぁ、それはたいへんだ」
 慌ててトルネコは話をしていた老人に頭を下げ、二言三言話して店舗兼住居へと向かった。ここサラボナの街(そう、すでに街と呼べるだけの機能を備えつつあるのだ)でも一番の大きな建物だが、その八割以上は商品を納める倉庫だった。この大陸の、いやこの大陸群どこにでも商品を届けられるようにするには、そのくらいの巨大な倉庫が必要なのだ。
「ああ父さん、戻ってきた? ルラフェンの話なんだけど」
 そうきびきびした口調で言ってきたのは、今やトルネコと共に商会を取り仕切る立場となったポポロだった。二十歳の時に可愛らしいお嫁さんをもらった愛する息子は、まだ三十になったばかりだというのに二男四女を子供に持つ元気なお父さんでもあるのだ。おかげでトルネコはもう六人もの子供たちからおじいちゃんと呼ばれる身になってしまった。
「嵐が起きたそうだね?」
「うん、そうなんだよ。一応仕入れた情報では、被害は建築物よりも農作物の方に多かったみたいなんだ。だからとりあえず食料部を向かわせるのは確定なんだけど、人的被害がね……」
「ひどいのかい?」
「ひどいっていうわけじゃないよ。ただ、嵐が地酒の酒蔵を直撃したらしくて、杜氏の人たちが怪我をしたらしくて……」
「それは……ルラフェンの人たちも辛いだろうね。地酒を名産にすると張りきっていたのに」
「うん。だからそのフォローをしたいと思うんだけど、建築部に今体の空いている人材がいたよね? 酒蔵の立て直しと、道具の作り直しをさせたいんだ。また借金を増やしてもらうことになるから、商談が必要だし、とりあえず僕は今からルラフェンに行ってくる。こっちのこと、頼める?」
「もちろん。気をつけて行くんだよ。……ああそうだ、さっき少し話した人がいるんだけどね、その人はなんでも昔杜氏だったそうなんだ。本人が言うには腕はよかったそうで、頑固そうではあったけど職人という感じがしたから、連れて行ったらいいんじゃないかな?」
 その人の名前と住所を渡すと、ポポロはわずかに苦笑した。
「かなわないな、父さんには。いつも僕の立てた計画の、足りないところにひょいと手を貸してくれるんだもの」
「いやいや、たまたまさ。あとは年の功と、父親の意地というやつだね」
「……まったく。それじゃあ、行ってくるよ」
「行っておいで。気をつけて」
 にっ、と笑みを交わしてから、ポポロは早足で歩き出す。そのあとに、ポポロの妻である秘書のファニーが続いた。
「ほら、旦那様、急いでください。この手の商談では一分一秒の遅れが死を招きますよ!」
「わかってるって、ファニー。頼りにしてるからフォローよろしく」
「……当たり前でしょう、そんなこと。あなたは私の旦那様なんだから」
 言い合いながら、ポポロは外に出ていく。それはトルネコ商会を支える、立派な若旦那そのものだ。今ポポロに商会を任せても、ポポロは問題なく商会を運営していけるだろう。あの子は賢いし、強いし、そしてなにより愛する人を持っているのだから。
 だから、トルネコは歩き出す。寄ってくる人々にてきぱきと指示を出しつつも、店舗兼住居の奥へ。
 店舗の裏には、ごく小さな、細かい品々を請け負うカウンターがある。そこに、果たしてネネはいた。街の中でも通にしか知られていないが、商会の扱う数えきれないほどの商売の中で、出てしまった半端なものや堂々と商品にするには問題のあるものを、安く、あるいは一工夫加えて売る場所だ。
 ネネは、そこで他の誰にも真似のできないほど高額の利益を、商会の庶務を取り仕切る仕事の片手間に上げてみせるのだ。トルネコの愛する、世界一の奥さんは。
「あら、あなた。どうかなさったんですか?」
 帳面から顔を上げて微笑むネネに、トルネコは少し照れ笑いをしながら言う。自分の新たな商売の話を、夢を。
「なぁ、ネネ。私は思うんだよ……」
 そしてネネは、それにいつも微笑んでうなずくのだ。
「はい、あなた」
 と、心の底から嬉しそうに。

「……ラディン。お主、これだけ言ってもまだ考えを変えぬというのだな」
 すでに老境に入りながらも、あくまでしゃんと背を伸ばした眼光と所作の鋭い男は、息子に対してそう睨みつけた。
 大して息子――蒼黒の髪と蒼灰にきらめく瞳を持った、凛々しげで目元涼やかな少年と青年の間くらいの年頃の男は、きっと父を睨み返して低く言う。
「何度もそう言ったはずだ、父上」
 双方ぎっ、と苛烈なまでの視線をぶつけ合う。父と子でありながら、その様は敵同士のように激しかった。
「陛下より稀なるご厚情を受けながら、それを返しもせず出奔すると?」
「俺は宮仕えなんて柄じゃない。父上と違ってな」
「あちらこちらで女子と戯れ、妊娠騒ぎまで起こしておきながら、責任も取らず逃げ出すと?」
「だから! 言っただろう、あの女と俺は一度だって寝てないって! 他の男と作ったガキを押しつけられてたまるか!」
「母にさんざん心配をかけ、心をかけられながら、それを放りっぱなしにして出ていくと?」
「……っそれはっ……」
 この時、初めて息子は言葉に詰まった。ひどく悔しげに唇を噛む。だが、すぐにぎっと父親を睨み返し、つけつけと言う。
「子供は親に迷惑をかけて育つんだって言ったのは、あんただろう、父上。あんただってふた親に迷惑かけて生きてきたんじゃないのか」
 相手を怒らせるつもりで言った言葉だが、父親は表情を揺らせはしなかった。ただ、一瞬ぎろりと眼光を光らせ、告げる。
「よかろう。望み通り勘当してやろう。――二度と当家の敷居をまたぐことは許さぬ」
 その望んでいたはずの言葉をぶつけられた時、息子は一瞬ぎゅうっと奥歯を噛んだ。が、それでもくっと顔を上げ、苛烈な声で言う。
「上等だ」
 言って立ち上がり、踵を返す。さっさと自分の部屋に戻って、まとめておいた荷物を持った。そして愛剣と革鎧をさっと身につけただけの軽装で、さっさと出ていく。世界を救った男の一人といわれる父に持ち方から教わった剣技に、息子はかなりの自信を持っていた。山賊や獣、はぐれ魔物程度に後れは取らない。
 剣一本で生きてやるのだ。しがらみと人の視線ばかり気にしなくてはならないこんな場所ではなく、もっと自由な、自分だけの場所で、自分の好きに。
 自分が勢い込んでいるのは自覚していたが、それがどうした。男の門出だ、少しくらい勢い込んでなにが悪い。もう二度とこの場所には戻ってこないのだから。
 そうきっと顔を上げて歩き出す――や、澄んだ声がかかった。
「ラディン」
 息子は思わず固まる。会わずに出て行こうと思ったのに。絶対引き留められるし、悲しそうな顔をされるし、もしかしたら泣かれるかもしれないと思うともう、走って逃げだしたくなってしまう。
 だが、声の主はそんな息子の心など気にせず、こだわりなく歩いてきてじっ、と自分を間近から見上げた。
「ラディン、勘当されたの?」
「………母さま」
 絞り出すような声で、かろうじて答える。その顔が悲しげに曇っているのを見ると、自分はもう勘当息子だというのに胸がぎゅうっと痛んだ。
 本来なら、そんな呼称がふさわしい相手ではない。二十歳ぐらいの時に自分を産んだのだそうなのに、どう見てもまだせいぜいが二十代後半というほど若々しい姿形もそうだが、なにより、彼は男だったのだ。本来子供を孕めるはずのない性。
 そんな存在と父が結婚のような状態になっていること自体おかしいし(戸籍上は養子ということになっているのだが、結婚届けは出されているのだ)、男が子を孕むなど普通に考えてあるわけがない。子供の頃はそれをつつかれて、何度いじめられたかしれない。
 けれど、青年は彼を心底愛していたし、ただ一人の母と思っていた。母の言う、自分が元ホイミスライムだという戯言としか思えない言葉ごと、男の体で妊娠したのだという奇跡を信じた。父も――こんなことは照れくさく悔しくて死んでも言えないが、世界の誰より尊敬し憧れている、齢六十を数えてもいまなお世界最強の戦士の名も高い、誰よりカッコいい男である父も、母を心底愛していた。
 だから、いじめてくる奴は全員、自分の顔を見るだけで泣き出し逃げ出すほど完膚なきまでに叩きのめした。陰口をたたく中年女には残らず水をぶっかけた。そのたびに家には苦情が寄せられたが、両親はあくまで毅然と対応し、自分を諫めながらも「やり過ぎな感はあるが、よくやった」「僕のために頑張ってくれたんだね、ありがとう。……でも、あんまり喧嘩はしないでね」と優しく言ってくれたので、自分は嬉しくて何度も同じことを繰り返したのだ。
 それが、回り回って、こうして自分を勘当せざるをえない状況にまで両親を追い込んでしまったというのに、ずっと、優しい声で。
 青年は首を振って埒もない繰り言を頭から追い出し、母と向かい合って一礼した。
「母さま。お暇乞いをさせていただきます」
「うん、ライアンさんから聞いてる」
 母は、優しい顔と声で、それでも確かに少しだけ悲しそうに微笑んで言う。胸の痛みをぐっと奥歯を噛んでやり過ごしてから、頭を下げたまま続ける。
「二度とお会いすることはないでしょう。俺のことは、どうか死んだものと思い」
「思えないよ」
「っ……」
「ラディンは死んでないんだから。死んだなんて、思えないよ」
 優しく澄んだ声が降り注いだ、かと思うやきゅっと青年の頭が抱きしめられた。細く、柔らかく、優しい手だ。懐かしい、母の腕だ。
「だから、ね。ラディンがここにいて辛いっていうんなら、ここを出て行って、世界中を旅するのって、すごくいいと思うけど。でも……旅先で、僕たちのことを思い出して、帰りたいって思うなら、いつでも帰ってきてね。僕、またラディンと会って、話がしたいよ」
「っ……ですが、俺はもう勘当を受けた身です。父上にも、二度と家の敷居をまたぐなと」
「だったら外で会おうよ」
「……は」
「家の外で会ったら、敷居をまたがなくてもすむでしょ?」
 静かではあるが、あくまで真摯な声で言う母に、青年は思わず吹き出してしまった。こんな時でも、母はどこまでも母なのだ。
 きょとんとする母を、頭を下げた姿勢のままぎゅっと抱きしめる。痛いかもしれないとは思ったが、力を込めて抱き締めずにはいられなかった。
「……母さま」
「うん」
「父上と、幸せに。……っさようなら!」
 叫んで母から離れ、だっと駆け出す。情けないことに瞳がじんわり涙ぐむのを感じていたが、足は死んでも止めたくなかった。
 ――駆け去ったラディンを姿が見えなくなるまでじっと見送ってから、ホイミンはライアンの部屋へと向かった。予想通りに、無言でじっと壁を見つめ、静かに落ち込んでいるライアンを、後ろからそっと抱きしめる。
「……ホイミンか」
 小さくそう言って、そっと抱きしめた腕に触れる。顔を見せたくないんだ、と思うと胸がきゅうっとした。
「……私は、よい父親にはなれなかったな。結局、ただ一人の息子を守ることもできなかった」
「そう?」
「そうだろう。息子を、自分自身を勘当させずにはおかないほど追いつめて」
「僕は、そういう風には思わないよ。ラディンだって、そんな風には絶対思ってない」
「…………」
「いつか、また会えるよ。絶対、会えるよ。だって、僕たち、お互いのこと大好きだもの」
 自分の声が涙声になるのはわかっていたが、それでもぎゅっとライアンを抱きしめて言う。
「僕だって、もう会えないって思ってたけど、ライアンさんのことずっと好きだったら会えたもの。だから、絶対、また会えるよ」
「……そうか。そうだな……」
 掠れた声で言った、と思うやライアンはぐい、とホイミンの体を引いた。正面からホイミンを抱きしめ、ベッドに押し倒す。ホイミンはそれに逆らわず、涙に潤んだ瞳を、そっと閉じた。

 ――その深い森の中で、青年と少女は出会った。
「伏せろ!」
 叫んで少女の頭の上を薙ぎ払う。その一撃で荒れ狂うパオームは地に倒れ伏した。
 ふぅ、と息をつき、剣の血を拭って鞘に収める。それから改めて少女に向かい合い、厳しい目で睨んだ。
「おい、あんた。村の奴らの話だと、身を守る心得もなにもないのにこの暴れパオームを鎮める、って出て行ったらしいな」
「……はい」
 荒い息をつきながら、少女はこわごわと青年を見上げる。青年は逞しく筋肉がついているのに背が高いせいかすらりとした印象で、凛々しげな顔立ちの好青年だったが、怒りの表情を浮かべるとこちらを圧する迫力があった。
「あんたがどういうつもりでそんなことしたのかは知らないけどな、自分の面倒を見れないのにそういうことをするのはやめてくれ。他の奴があんたが起こした面倒の分苦労するんだ。命の危険を冒すことになることだってある、わがままで他人に迷惑をかけるな」
「……っ、ごめんなさい……でも」
「でも、なんだ」
「あの暴れパオームの命だって、ひとつの命です。殺しちゃったら、失ってしまったら、その命は本当にもう二度と、この世に在ることができない……」
 少女の口調は弱々しげだった。自分の言葉が人間にとって、どれだけ見当違いに聞こえるかはこれまでに何度も身をもって知っていた。訝られ警戒され怒鳴られ叱られ、一度など魔物の化けた姿かと武器を持って追い回されたこともあるほどなのだ。
 が、案に相違して、その青年はごくあっさりとうなずいた。
「わかってる」
「……え」
「だけど、荒れ狂って周囲の奴らを傷つけようとしてる奴を止めるには、力で押さえつけるのが一番手っ取り早いしそうしなきゃならない時もある。相手を殺さなけりゃ他の命が失われちまうっていうんなら、俺は荒れ狂う奴よりは失われそうになってる命を優先する。……だから、身を守る術があるかないかっていうのは重要なんだよ。その場にいる奴らが全員なんとか身を守れるなら、相手を殺さず捕縛しようとできる確率がぐんと上がるんだから」
「…………」
 少女はぽかんと口を開け、青年を見た。青年の剣は魔物を殺すのに慣れていた。歴戦の戦士のものと言っていいだろう。なのに、こんなことを言うことができる人が、お父さんやおじいちゃんの他にもいるなんて。
 青年は呆然とする少女に歩み寄ってきた。その表情からは厳しさがいくぶん薄くなり、優しい面差しが見て取れるようになっている。
「見たところ怪我はないみたいだが、どこか痛いところとかあるか?」
「痛いところ、ですか? 別に、そんな……」
 と言いながら立ち上がろうとするや、足首がずっきぃんと痛んだので足首を押さえてしゃがみこんでしまった。逃げている時に捻ったのか、ずきずきずきずきと痛みを訴えてくる。正直、とても立てそうになかった。
「足首か。見せてみろ」
「……、すいません」
 おずおずと足首を差し出すと、青年は一目見ただけで「捻挫だな」と看破した。懐から取り出した包帯をてきぱきと巻き、足首を固定する。
「このくらいなら数日動かさなければ治るだろ。あとは……」
 す、と掌を当たるか当たらないかぎりぎりのところにかざしながら、一言唱える。
「ホイミ」
 その一言にほわぁっ、と掌が白く輝き、すぅっと痛みが引く。驚いて少女は青年を見上げた。青年はどうということもない顔で、すっとこちらに背を向けしゃがみこむ。
「とりあえず、あんたが宿を取ってる村まで送る。乗ってくれ」
「……あなた、神官さまなんですか?」
「は? 俺のどこらへんが神官に見えるんだ」
「だって、ホイミを……」
「ああ、あれはそういうんじゃない。俺の母親が元はホイミスライムだったせいでな、ホイミは得意なんだ」
「え……?」
「ほら、いいから早く乗れ」
 重ねて強く言われ、少女はおそるおそる青年におぶわれた。青年は軽々と少女を背負い、村へと向かい進んでいく。
「あの……あなたは、いったい?」
 おそるおそる訊ねると、ごくあっさりと返事が返ってくる。
「俺は、現在のところ、ここら一帯の開拓を押し進めてる村々の長をやってる人間だ」
「え! じゃあ、あの村でも評判だったこの一帯の長って……」
「まぁ、そうだな。俺だな」
「うわぁ……すごいですね。私の泊まった村でも、ことあるごとに評判をお聞きしました。剣の腕は天下一品、勇気があってリーダーシップがあって、どんな難題にも解決策を考え出してしまうすばらしい長さまだ、って」
 青年はわずかに苦笑した。
「そんなに褒められるような奴じゃないけどな、俺は。……あんたはなんでこんなところにいるんだ。こっちの大陸群はまだまだ未開、女が一人で旅をしていいところじゃないだろう」
「えと……」
 少しの間逡巡したが、命を助けられた人に嘘をつきたくないという想いの方が勝った。それに、この人ならば自分の、この気持ちをわかってくれるかもしれない。
「私、魔物を守るために旅をしているんです」
「……魔物を?」
 さすがに青年も驚いたようだったが、その声には拒否反応が感じられなかった。それに力を得て言葉を続ける。
「ええ。今、こちらの大陸群ではみんなやっきになって人間の支配領域を広げて、獣や魔物を駆逐しようってしていますよね? 私たちの生まれる前からそうなんだから当たり前といえばそうです、でも……そんな風に、当然のように自分たち以外の生命を軽んじて、本当にいいのかって思ったんです」
「…………」
「私の父には、不思議な能力があって……魔物とある程度意志を通じ合わせることができたんです。自分の力だけではごくまれなことでしたけど、倒した……勝ちを認めさせた魔物を自分の仲間にすることもできました。私はそんな魔物たちと子供の頃から一緒にいて……魔物も命だ、って思ったんです。人間とはありようがちがうだけで。決して当たり前のように駆逐していいものじゃないんだ、って」
「…………」
「だから、私は……私の実家は冒険商人をやっているんですけど、そのつてを使って世界中を巡っているんです。魔物もひとつの命だ、っていろんな人にわかってもらうために」
「……成果はどうなんだ?」
「あはは……あんまり。私、一応父の力を少しは受け継いでいて、魔物と話したり意志を通じ合わせたりすることができるんですけど、完全じゃないっていうか……魔物が暴れている時は話を聞いてもらえないことがほとんどで。みんなの魔物は危ないから殺すしかない、っていう考えを、変えさせることがなかなかできなくて……」
「そうか……」
 ふいに、青年が足を止めた。そしてすっ、とそっと少女を地面に座らせ、目をぱちぱちと瞬かせる少女に視線を合わせるようしゃがみこみ、訊ねる。
「なぁ、お嬢さん。ひとつ、頼みたいことがあるんだが」
「はい……?」
「しばらく、俺たちの村に留まってくれないか?」
「え……」
「俺たちは、今はまだこの森をなんとか開拓することに四苦八苦している村の集合体でしかないが、いずれはこの地に国と呼ばれるものを築きたいと思っている。大きく、豊かで、国民が幸せに生きることができる環境の整った国を。その国民が、みんな『魔物もひとつの命』っていう認識を持っていたら、そこからその認識が世界に広がっていくことができるんじゃないかと思うんだ」
「………え」
「だから、お嬢さんにも都合があるだろうが、ひとつこの場所に腰を据えてみちゃくれないか。あんたの力と心で、この地の人と魔物を繋げてやってほしいんだ」
「…………」
 突然のことに少女は思わず呆然としてしまったが、商人の娘として交渉ごとの基本はしっかり叩き込まれている。すばやく我に返り思考を回転させ、じっと青年を見つめ訊ねた。
「三つほど、お訊ねしてもいいですか」
「かまわない」
「まず、あなたのお名前を聞かせてください」
 その問いに、青年はわずかに瞳を揺らしながら答える。
「ラディンだ。ラディン・ガイサー」
「私はポーラです。……それと、あなたはなんでそんなことをしたいと思うんですか。国を発展させるためなら、魔物なんて駆逐する対象にしかならないって考えるのが普通なのに」
 青年――ラディンは苦笑する。
「そう言われてもな。……俺はさっきも言ったが、母親が元ホイミスライムなんだ。だから、魔物の命を人の命とは別物だと考えられない。それだけさ」
「……本当に、元はホイミスライムだったんですか?」
「俺の母はそう言っていたし、俺はそれを信じている。証拠なんてものはなにもなかったけどな、それでも信じてるんだ。……さんざっぱら迷惑をかけたあげくに、もう会えなくなってしまった親だから、少しでもこうしてあの人の心に適うことをして、恩を返せたらと思うんだ」
「もう、会えない……?」
「俺の母親は男でな。男なのに妊娠して俺を産んだんだそうだ。そんなことをたいていの人間は信じられないから、よってたかって俺たちは後ろ指をさされた。俺はそれに腹が立って、そういう奴らにいちいち喧嘩を売って回っていたんだが……その中に、国王の縁者がいてな。問題になって。俺の父親はその国でもかなり高い地位についていたから、よけいにな。だから、俺は自分を勘当してもらった。もう俺はあの家の敷居をまたげない。もう二度と、あの人たちのいる国には帰れないんだ」
「…………」
 息をつめてから、軽く呼吸を繰り返し、心を落ち着かせて最後の質問を告げた。
「最後に。あなたたちがこの地に国を建てるとしたら、どんな名前の国にしようと思いますか」
 この問いはラディンの不意を衝いたようで、数瞬の間が置かれたが、やがて口を開く。
「グランバニア、っていうのはどうだろう。誰もが心に抱く、一番身近で一番大きな大樹。幸せを示す旗印。家族っていうものを繋ぐ、心の森だ」
 グランバニア―――
 ポーラはしばしその言葉を反芻した。口の中で転がし、頭の中に響かせる。そして、その言葉にどこか懐かしい気持ちすら抱けることに喜びを感じながら、自分たちの伝わっていない氏素性を伝えることから始めようと、口を開いた。

 ゆっくりと、優しく体が拭かれる感触に、ライアンは目を開いた。予想通り、ホイミンが濡らした手ぬぐいで、自分の体を拭いている。
「……ホイミン。すまぬな」
 そう言う自分の声は、我ながら情けなくなるほどか細く掠れている。だがホイミンは、昔より年輪を重ねてはいるけれどもやはり澄んだ、優しい声で笑った。
「なに言ってるの。ライアンさんのお世話を僕がするのは当たり前のことじゃないか」
「私はもはや年老いて、お前と話すことすらろくにできぬ。そのような男が、お前の夫でいていいのだろうか」
「当たり前だよ。僕の夫も、世界でただ一人の一番愛してる人も、ライアンさんだけだもの」
「ホイミン……」
 情けないことに、ホイミンのその言葉に心底心慰められながらライアンは微笑んだ。ホイミンもにこっと微笑み返す。
 その顔には、何本もの皺が刻まれていた。外見だけでいえば四十半ばというところだろうが、実際に積み重ねてきた年月はそれよりいくぶん多い。加齢が遅くなっているのかもしれない、と何度か考えた。
 そして、ライアンはそのままに年を重ね、今や老いて死にゆこうとしていた。
 心身を鍛え、規則正しい生活と栄養を取り、それでもやはり人は老いる。ライアンも人としては充分なほどに年を取った。もはやこの世にいていい存在ではない、場所を空けなければならない。
 それに逆らうつもりはない、が。ライアンは震える手を伸ばし、ホイミンの髪の毛をさらりと梳いた。
「すまぬな……ホイミン。お前を、一人に、してしまう……」
 それは慟哭したいほどの悲嘆を感じる事実だった。この世界の誰より愛する妻を一人残していく。もう守ってやることができない、そばにいてやることができない。それでは自分の人生に価値などないではないか、と泣き叫びたくなるほどの。
 だが、ホイミンは優しく首を振った。
「大丈夫だよ、ライアンさん。僕は、ライアンさんと一緒にいくから」
「……な」
「あ、自殺するとかじゃないよ。なんていうか、ね。僕の人間としての生は、ライアンさんがいなくなったら終わるだろう、って思うんだ」
「…………」
「僕はもう、ホイミスライムとしては死んでるから。だから、ライアンさんがいなくなったら、僕も一緒にいなくなるんだろうな、って思う」
「………そうか」
 それを聞いた時感じたのは、紛れもない安堵だった。愛する者と共に死に行くことができる喜び。それは死に行くものにとっては、これ以上ない心の慰めだ。
「ならば、死ぬのもそう、悪くはないな……」
「うん……僕たち、お互いにいっぱい、幸せもらったものね」
 ホイミンが小さく微笑む。人生に悔いはない。愛する者がいた。共に生を過ごせた。いくつもの確かなものを生み出すことができた。これ以上の幸福が必要あるだろうか。
 共に旅をした仲間も、すでに何人か常世へ旅立っている。それぞれに年老い、ルーラすらも負担になるような体になってしまった。もはや再びこの世で会うことはあるまい。そんな彼らと、再び出会って話ができるとしたら、それは考えるだけで楽しく喜ばしいことだ。
 ただひとつ、気になることがあるとしたら。
「……ラディンとは、やはりとうとう、また会うことはなかったな」
 ぼんやりと言うと、ホイミンはそっと自分を抱きしめた。肌から伝わってくる感触が、ホイミンも確かにそれを悲しんでいるのだと伝えてきてくれた。
「どこで、どうしているのだろうな、奴は」
「元気にやっているよ、きっと。僕、ラディンが死んでるなんていう気持ち、全然しないもの」
「そうか……幸せに、暮らしているのだろうか?」
「うん、きっと……僕たちの子供だもの、きっと幸せに生きることができているよ」
「そうだな……」
 ライアンは自分もぎゅっとホイミンを抱きしめ、ゆっくりと共にベッドへと身体を下ろした。

 そこは、空だった。
 どこまでも続く光り輝く蒼穹。蒼き天空。――死したものしか見れぬ景色だ、と直観する。
 ライアンは隣を見る。そこにはいつものように、ホイミンが自分の手を握っていた。それに安堵と幸福を覚え、互いに微笑みを交わす。
 ライアンとホイミンは天空を駆ける。体――もはや魂そのものが体となっている自分たちの体には、活力が満ちていた。どこまでも、いつまでも駆けていける気がした。
 ライアンとホイミンは揃って天空を駆ける。まだ見ておかなければならないものが、いくつかあるのだ。
 サントハイムでは、年老いて政治の一線を退いたアリーナとクリフトが、共に国民の尊崇を集めながら睦まじく暮らしていた。ブライの墓へと参り、神に祈りを捧げと、サントハイムらしく清らかに。
 サラボナでは、今日も死した偉大なる父トルネコに祈りを捧げてから、ポポロが忙しく商売をしている。
 サンタローズでは、ユーリルがまた一人マーニャの墓へと参り、心配した孫に迎えに来られている。ユーリルは何十人という家族の尊崇を集める、一族の長老なのだった。
 テルパドールでは、ミネアが年老い、国民と家族に嘆かれながら死にゆこうとしていた。ミネアの死後は、長女が女王として立つと決まっていたけれども、それでもやはり長年この国を導いてきた女王の死は衝撃なのだ。
 そして、さらに東へと天空を飛び、ライアンとホイミンは目を見開いた。
 森の中に、城が建っている。こちらの大陸群にあるようには、けして大きくも立派でもないけれども、何人もの人間が力を合わせて作ったことがわかる、力強い城だ。
 そのバルコニーに、略式の王冠をかぶった男が一人立ち、はるか西を見つめていた。その顔を見るや、ライアンとホイミンは悟った。
 ああ、そうか。この地に国を作るため、その国王となるため、ラディンは自分たちの下を旅立っていったのだ、と。
 一人置き去りにしてきた自分たちを思い西の空を眺めるラディンに、何人もの王子や王女が駆け寄る。トルネコの一人息子、魔物を仲間にする力を持つ者ポポロの娘との間にできた子供たちだ。
 その血は、自分たちの血は脈々と受け継がれ、門を守る者たち、エルヘヴンの民の血と結びつくことによって一人の男児を生み出す。世界を変える、世界を救うきっかけとなる力を持つ者を。
 その男児は、天空の血を、ユーリルとマーニャの血を引く娘を娶り、子を成す。男児と女児の双子を。男児は勇者として世界を救う力を持ち、女児は人と魔物の仲立ちとなって世界を変える力を持つ。その父である男は、それを押し通させるだろう。家族への、仲間への、世界への深い愛をもって。
 そうして、世界は続いていくのだ。人が生まれ、そして死ぬ。そして還っていくのだ。自分たちが繋いだ未来へと。
 子を成すことができなくても、人は生きるだけで世界に跡を残す。よいものであれ、悪いものであれ。死したのち、それは残されたものに確かに影響を与え、未来を変える。そうして生は、どこまでもどこまでも続いていく――
 子供たちに抱きつかれ、どこか悲痛な顔をしていたラディンの表情がふっと緩む。優しく微笑んで、頭を撫でる。やってきた妻と抱擁を交わし、家族揃って城の中へと進んでいく。
 それを見届け、ライアンとホイミンは笑みを交し合い、手を握ったまま天へと駆け上っていった。未来へ。世界の進むべき場所へと。
 誰より愛する人と、共に。

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