月下氷人・その1
「澳継がどこにいるか、知らないか?」
 龍斗にそう声をかけられて、桔梗は顔をしかめた。
「あたしは知らないよ。大方いつもみたいにそこいらへんをほっつき歩いてるんじゃないのかい?」
「あいつの行きそうな場所は全てあたってみたがどこにもいなかった。修業場も那智滝も双羅山の澳継のお気に入りの場所も、あいつの気配すら残ってない」
「じゃあ内藤新宿だ。団子でも食いに行ったんじゃないかい?」
「それも考えた。だが、もうすぐ夕餉の時刻だっていうのに戻ってこないのは少しおかしくないか?」
 桔梗は眉をひそめて、龍斗に問い返す。
「たーさん……あんた、もしかして坊やに何かあったんじゃないかって言いたいのかい?」
 龍斗は静かにうなずいた。
「おそらくは」
 龍斗の並外れた勘の鋭さはこれまでに何度も実証されている。桔梗は少し真剣になって考え込んだ。
「……あの坊やをどうこうできる奴がそうそういるとは思えないけどねえ……?」
 風祭はああ見えて鬼道衆でもニ、三を争う(一位は龍斗で不動)使い手だ。そんじょそこらの破落戸が何十人、いや何百人集まったところで風祭を傷つけられるとは思えない。
「けど、あいつ不意打ちに弱いだろ」
「……確かに」
「後ろからいきなり薬かがされでもしたら、カッとなって暴れまわって、薬の回り余計に早くしてあっさりぶっ倒れたりしかねない。それに……」
「それに?」
 聞き返した桔梗に、龍斗は肩をすくめて言った。
「あいつは今前後の見境ないくらい怒りまくってるはずなんだよな。俺のせいで」

 風祭は覚醒と同時に、のろのろと目を開けた。
 ひどく頭が重く、吐き気がする。身体の芯に何か重いわだかまりが残っていて、身体を動かす気になれなかった。
 目に入ってきた天井は、風祭の知らないものだった。九角屋敷と違い木目の色が新しく、つやつやと鈍い光を放っている。
 俺、昨日どこで寝たっけ?
 まだ半分寝ぼけた頭で考える。
 ――そうだ、俺は内藤新宿にいたんだ。
 しばらく考えてようやく思い出した。
 俺腹立って腹立ってしょうがなかったから団子でも食いまくってやろうと思って――
 そこまで考えて、腹立ちの原因を思い出し風祭はきゅっと顔をしかめた。
 たんたんの大ボケ野郎。久しぶりに手合わせしてたら、いきなり……押し倒してきやがって。
 『汗で濡れた体がそそる』だあ!? てめェは何見てもその気になるんだろうがあの万年発情期男ッ!
 金玉蹴り上げて逃げ出してきたけど……唇は吸われるし(舌もしっかり入れられた)耳は舐められるし尻は揉まれるし、俺の……股んところも……妙に優しく撫でられるし……あの後体が熱くなって、治めるのにどれだけ苦労したことか……
 ……ってなに考えてんだよ俺はァッ!
 カーッと顔を熱くして、飛び起き頭をかきむしろうとする――が、体が動かない。
「!?」
 風祭はさっと意識を警戒時のそれに切り替えた。
 自分の最後の記憶を素早く思い出してみる。
 ……そうだ、自分は裏通りを歩いていて、急に後ろから薬をかがされたのだ。怒り狂っていたせいで気配に気づかなかった。
 むろんその相手は速攻で半殺しにしてやったが、その後頭がくらくらぁっとなって意識を失い――
 ここにいるわけか。となるとここは、少なくとも安全な場所ではない。
 自分の状態を確認する。自分は服を脱がされて、褌一丁になっていた。そして体中に縄をかけられ、四肢を伸ばした状態で台のようなものに仰向けに寝かされている。
 その上、縛られているせいかと思ったが、首から下が動かない。どうやら何か薬を使われたようで、力が入らないのだ。
 戦闘は無理か、と小さく舌打ちした。
 周囲の様子を観察してみる。
 薄暗い部屋だった。光の入ってこない完全に閉じきられた場所。
 唯一の明かりは少し離れたところに立てられた一本の蝋燭。それに照らされてぼんやりと浮びあがっているのは――
 風祭はきゅっと眉を寄せた。三角形の木馬や人間大の車輪、人を吊り下げられそうな鎖に人をくくりつける器具のついた円盤――これは、御神槌の件の時の、井上なんとかとかいう奴の屋敷で見た拷問用具ではないか?
 ということは、ここは――
 と、そこまで考えた時、部屋の扉が開きぱっと見四十代後半くらいのでぶでぶに太った男が入って来た。
「ぐふふ……目覚めたか」
 弛んだ脂肪を震わせて、下卑た笑みを浮かべる。
 その笑いを見て、風祭は一瞬で確信した。
 こいつは最低の下衆野郎だ。

 集めた下忍衆を前にして、龍斗は声を張り上げた。
「一番隊から六番隊は内藤新宿を徹底的に洗ってくれ。七、八番隊は念のため双羅山近辺の捜索を頼む」
「あの、ですが、緋勇殿。本当に風祭殿が何か危険な目に会っているのでしょうか?」
 今ひとつ納得のいかない様子の下忍に、龍斗は苦笑してみせた。
「もし俺の勘が外れてたらみんなには無駄足を踏ませてしまうことになるな。そのときはみんなに菓子折り持って土下座して回る。――すまないが、頼む。嫌な予感がするんだ」
「聞いた通りだ、皆の者。龍のいう通り、澳継を探してやってくれ」
「はっ!」
 龍斗に続いて天戒も声をかける。天戒の言葉となれば下忍達に否やはない。一斉に号令を返すとそれぞれ別の方向へ散っていった。
 天戒に龍斗が声をかける。
「悪いな、天戒。下忍衆まで引っ張り出させてしまって」
「いや、澳継が連絡もなしに夕餉の時間に遅れるとは確かにおかしいからな。おまけにお前が嫌な予感がするというのだ、放っておくわけにもいくまい。……龍、これからお前はどうするのだ?」
「……内藤新宿に行く」
 龍斗はきゅっ、と手甲の紐を締めなおした。
「たぶん、澳継はあそこにいる」

「わしは千二百石の旗本、若元金之助元忠というてな」
 男――若元はにたにた笑いながら風祭に近づいてくる。
「まっこと残念なことながら、無役でな。ありあまる暇をどう潰すかがわしの一番の厄介ごとというところよ」
 手を後ろ手に組んで、風祭の乗っている台の周りを歩きまわる。
「暇にあかせて大抵の遊びはやり尽くした。酒も女ももう飽き飽きじゃ。だがのう……最近、ひどく面白い遊びを見つけてのう……」
 風祭に顔を近づけて、舌なめずりをした。
「子供をな、いたぶるのじゃ。それもお前のような生意気そうな子供をのう。わしはな、こまっしゃくれた子供が大嫌いでな。ちびのくせにいっぱしの口を利く奴はすぐにお仕置きをしたくなる。どんな子供も最初は生意気な口を利くが、数日かけてみっちりお仕置きをしてやればあっさり素直になって、どんなこともはいはいと聞くようになる。くく……楽しいぞ、偉そうなことを言っていた子供が這いつくばって許しを乞い、命じれば糞尿すら食らうようになるのを見るのは」
 若元は嬉しげに歪めた顔を、さらに風祭の顔に近づけてくる。
「そして、苦しめて、苦しめて、苦しめぬいた後に――殺す。四肢を切り取られた人間を見たことはあるか? 達磨のようでな、それは面白い眺めなのじゃぞ。そしてそのようなみっともない姿になってもなお助けてくれとわめく子供をいたぶり殺した時の快感と言ったら、これはもうえもいわれぬものよ。わかるか? お前に待っているのはそういう運命なのじゃよ」
 若元がぐい、と風祭の顎を持ち上げた。ちろちろと舌を出して、風祭の眼をのぞきこむ。
「わしはな、お前を街で一目見て気に入ってな。早速我が手の者にかどわかさせたのじゃが……相当な暴れ馬だったそうじゃな。くく……期待通りで嬉しい限りじゃ。言っておくが助けはこんぞ。お前がわしの屋敷に連れ込まれたところを見た者は誰もいない。おまけにお前の体には特殊な薬をたっぷりと使ってあってな、感覚はかえって鋭敏になるが首から下はどう頑張っても動かん。もっとも体中を縛ってあるゆえもとより動けまいがな。……お前にはわしに奴隷に調教される以外の道は残されておらん……どうじゃ? 何か言いたいことがあるか?」
「……俺をとっとと殺した方が、身の為だぜ」
「ん?」
 目の前の醜く肥えた面を風祭は凄絶な殺気を込めて見た。
「テメェは殺す。テメェのいたぶったガキ共の苦しみを十倍にして味あわせてやる。どんなに命乞いしても許してやらねェ、今から閻魔にどんな言い訳するか考えとくんだな、このクソ豚野郎」
 若元はそれを聞くと、のけぞって耳障りな笑い声を上げた。
「ぎゃっはっは! 今まででかい口を叩く餓鬼は山ほどいたが、このわしを殺してやると言いきった餓鬼は初めてじゃな!」
 ひとしきり笑うと、若元はにたり、といやらしい笑みを浮かべた。
「これはたっぷり楽しめそうじゃ……わしを失望させるなよ、小僧」
 そう言うと脇から巨大な竹製の鞭を取り出した。あれで打たれれば皮は裂け、肉は傷つく。
「まずは小手調べといこうかの」

「さあ……少なくとも今日は来てないね。あの元気な坊ちゃんだろ? あたしはずっと店にいたから来れば気がつくと思うんだけどね」
「……そうか。ありがとう」
 店主にこころづけを渡し、龍斗は店を出た。
 いつも行く馴染みの茶店には来ていない。あと心当たりといえば、お杏のいつも瓦版を売っている道端くらいのものか。
 心細いことこの上ない手がかりだ。だが、龍斗は風祭は内藤新宿に、少なくともその近辺にいると信じて疑っていなかった。
 根拠はない。だが、自分の体が感じるのだ。澳継は近くにいる。そして、危険が迫っていると。
「――急がなきゃ、な」
 そう独りごちて軽く息を吸いこむと、龍斗は走り出した。

 ビシィ! ビシィ! バシィ!
 部屋の中に響く鞭の音がそろそろ五十回を越えようかという頃になっても、風祭は冷静だった。
 むろん、痛いことは痛い。鞭が体を打つたび、皮が裂け、焼けつくような痛みが体を襲う。
 確かにそれは心地よいものではなかったが、なにせ骨折や刀傷を日常的に作っている身の上だ。物心ついた時から痛みと共に日常を送ってきた風祭は、痛みに慣れている。
 おまけに風祭のよく鍛えられたしなやかな筋肉は衝撃をよく吸収するので、肉はほとんど傷つかない。むしろ鞭を五十回振った若元の方が疲れて息を荒くしているほどだ。
「どうした? そんなもんかよ。無抵抗な相手を屈服させるのが得意なんじゃなかったのか、この屑野郎」
 せせら笑う風祭に、若元はむしろ嬉しげに笑ってみせた。
「くく……そうでなくてはな。そのくらいでなくてはわざわざ捕まえて来た甲斐がないというもの。――次は、これを使ってやろう」
 若元が取り出してきたのは、茨鞭だった。皮製の鞭に鉄の棘を埋め込んだもので、あれを使えば確実に肉は大きく裂ける。
 その醜怪な道具を見せつけるようにする若本に、風祭は鼻で笑ってみせた。
 若元は笑みを深くし、鞭を大きく振り上げて、思いきり振り下ろした。
「……ッ!」
 風祭は声を上げまいと、とっさに唇を噛み締めた。茨鞭の与える痛みはさっきの竹の鞭とは比べ物にならない。鉄の棘がたやすく皮を裂き、肉をえぐり、大きな傷跡を残す。
「………ッ!」
 ザシュッ! ザリッ! ブチッ! グジュッ!
 若元は何度も同じ所を狙って茨鞭を振り下ろした。肉を切り裂かれてズキンズキンと悲鳴を上げている場所に、何度も何度も棘が食いこみ、血を流している傷をさらに深くえぐり、真っ赤な筋肉をむりやり引きずり出す。
 茨に切り刻まれた筋肉が、血と共にひと振りごとに飛び散る。肉を引き裂かれ、千切られる痛みが体中を襲う。
 だが、風祭は絶対に声を上げまいと、血が出るほど唇を噛み締めた。

「ええ、見たわよ。声かけたんだけど気づかないみたいで、すごい顔してずかずか歩いてったわね。なんか怒ってたみたいだったけど」
「それで!? どっちに行った!」
 勢い込む龍斗にやや気圧されながら、杏花は指差した。
「あっち」
 街道をそれ裏道に進んでいく方向だ。
「あっちの道を進んでいって……そっから先は見てないわ」
「ありがとう! 今度改めて礼に来る!」
 言うやいなや疾風のように龍斗はその場から姿を消した。
 杏花は思わず目をぱちくりさせる。あの子供が何かをしでかしたのか、それとも心配しているのか。
 どちらにしろあの緋勇龍斗という男があの子供をひどく気にかけているのは確かなようだ。
 今度会ったらその辺を突っ込んでやろ、と杏花は人の悪い笑みを浮かべた。

「……結局声も上げず、か。く、くく。これは本当に屈服させがいがあるのう」
 体中に鞭を打たれて傷だらけになった風祭を見て、若元は息を荒げながら笑った。
 風祭は唇を噛み締めながら、強烈な殺意を込めて若元を睨みつけている。
 若元はそれをにたにた笑いながら見返していたが、何かに気がついたように、不意に笑みを深くして猫撫で声を出した。
「おうおう、可哀相に、こんなに傷を作って。さぞ痛かろうのう? 今薬を塗ってやろうのう」
 そう言って壁に据え付けてある棚から、薬壷のようなものを持って来る。
 そして壷の中に手を突っ込んで、ぬたりとした深緑色の半液体状のものを手にとってみせる。
「この薬はな。ひどくよく効く薬でな。どんなに深い傷を負っても、これを塗って数日すればたちどころに治ってしまうという優れものなのじゃ」
 薬を見せつけるようにしてそこまで猫撫で声で言うと、若元は薬をつけた手を思いきり風祭の傷口に突っ込んだ。
「その分痛みは数倍になるがな!」
「ウアッ……!」
 若元はその痛みが数倍になる薬をたっぷりとつけた手を風祭の傷口にぐりぐりとえぐりこみ、薬をなすりつける。皮が裂け剥き出しになった筋肉を、無骨な手が直接つかみ、這い回る。
「クッ……ウッ……アゥッ……!」
「痛いか! 傷に薬を塗られて痛いか! もっと痛がれ! 痛みにのたうち狂うがいい!」
 狂ったように若元が傷口をえぐるごとに、風祭の体が跳ねまわる。
 胸に、腿に、背中に。傷を負った部分を嫌というほど丹念に若元の手が這いまわり、痛みを数倍にする薬をなすりつける。
 ――全ての傷に薬を塗り終えられた後には、風祭はぐったりとしてうつむいてしまった。
 若元はひどく楽しそうに、風祭のその姿を眺め、笑う。
「くく、少しは堪えたようだの。……しかし、声が地味だったのが少しばかり興醒めじゃの……次はもっと派手に叫んでもらうとするか」
 そう言うとくるりと踵を返す。
 がしゃり、と音がしたのでのろのろと首をあげてその音の方を見た風祭の顔から、一瞬血の気が引いた。
 若元は赤々と火が燃え盛る炉に突っ込まれていた鉄串を金バサミで取り出していたのだ。
 若元がひ、ひ、ひ、とひどく嬉しげな笑みを浮かべる。
「これをどう使うかわかるな? 爪と皮膚のあいだに、突っ込むのじゃよ。爪の辺りはただでさえ敏感な場所なのに、串を、それもようく焼けたものを突っ込めば……痛いなどというものではないぞ。皮膚は焼けただれ、爪は剥がれる。舌を噛み切りたくなるほどだ。だが舌を噛み切ったところで死なせはせんぞ、お前にはまだまだ楽しませてもらわんとのう。さて……まずはどこからいく? 親指か? 人差し指か?」
 若元はこれ以上ないほど楽しげに、鉄串をふらふらと動かす。
 それをつい目で追ってしまう風祭ににたりと笑いかけ、狙いを定めた。
「まずは……ここじゃ!」
「…ぐっ……あぁぁぁぁぁぁぁーっ!」
 激痛。
 今まで味わったことのないほどの痛みに風祭はのたうち回った。
 体中の神経が指先に集まったかのようだ。
 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。それだけしか考えられない。
「ひゃはははは! ひゃーははははは!」
 若元は笑いながら、焼けた鉄串をさらにぐりぐりとえぐりこむ。
 じゅううう……と肉の焼ける音がして、蛋白質の焦げる匂いが周囲に漂った。
 肉を突き破って神経までえぐられても、傷跡はすぐ焼けるので血を流すことも出来ず、苦痛が何度も、延々と続く。
 めりっと音を立ててさし込まれた指の爪が剥がれた。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁ!」
 喉が枯れるほど叫んで、叫んで、叫んで――ようやく激痛の嵐が終わった。まだ体中の神経が痛みの余韻を訴えている。
 うつむいてはあはあと息をつく風祭に、若元はくくく、と笑った。
「痛いのはまだまだたっぷりあるぞ? ――指は両手両足で二十本あるんじゃからのう」

 龍斗は内心ひどく焦りながら辺りを見まわした。杏花に聞いた話の通り、裏通りを歩いているのだが、あれっきり風祭の目撃証言が途絶えてしまったのだ。
 どこを探しても見つからないが、嫌な予感だけはどんどん強くなってくる。
 急がなければ。その思いは強まる一方なのに、手がかりは何もつかめない。
「――くそっ!」
 龍斗は、覚悟を決めた。
 一か八か、自分の勘を信じるしかない。
 龍斗は思いきり息を吸いこんで――匂いを嗅いだ。
 同時に体中の感覚器官を全開にして、風祭の気″の痕跡を辿る。
 龍斗は別に犬並に鼻が利くわけではない。気″のわずかな残滓を追っていくのも、街中のように雑多な気が集まる場所では至難の技だ。
 だが――
『澳継の……あいつの残した匂いなら、どんなに遠くまで行ったって、絶対辿りついてみせる!』

 部屋中に満ちている肉の焼けた匂いを、若元はかぐわしげに吸いこんだ。
 風祭の指二十本全部に鉄串をさし込み、その度に風祭は絶叫した。
 指のほぼ半分は爪が剥がれ、残りの半分もぐらぐらと揺れている。
 風祭は、完全に脱力して、倒れこむように前のめりになっている。縄で宙に吊られて、かろうじて浮いている状態だ。
 ぞくぞくするような喜びと共に、若元が風祭に顔を近づける。
「ん? どうした、小僧? わしを殺すのではなかったのか? 自分の無力さ加減がようやくわかったか? 這いつくばって許しを乞うたらどうじゃ、『若本様、私はあなたさまの奴隷です、なんでも言うことを聞きますからどうか許して下さいませ』と言ってみろ。そうすれば許してやらんでもないぞ?」
 むろん本当に言ったところで許すつもりはこれっぱかりもない。そうして口にさせることで相手のぼろぼろになった矜持をさらに粉々にしてやろうというのだ。
「……」
「ん? どうした?」
 小声で風祭が何か言ったのが聞こえ、風祭の口に耳を寄せる――と。
 ぺっ。
 風祭の吐いた唾が若元の顔にかかった。
「くたばりやがれって言ったんだよ、この最低のウジ虫野郎。ウジ虫はウジ虫らしくクソでもくらってやがれ」
 そう言って風祭は凄絶な笑みを浮かべる。
「………! きさっ……!」
 一瞬顔を真っ赤にした若元だったが、しばし呼吸を整えたあと、あえて微笑んでみせた。
「ほ、ほ、ほう。まだそのようなことをする元気があるとはの。これはなんとしても、自分の分というものを教えてやらねばなるまいなあ」
 若元はしばしじろじろと風祭を見つめた後、にやりと下卑た笑みを浮かべた。
 さっと手を、風祭の褌に伸ばす。
「……!」
 風祭は腰を引こうとする。だがまだ体に力が入らず、動こうにも動けない。
「テメェ……ッ!」
「く、くく。その体ではまだ女を抱いたこともないのであろう? わしが気をやらせてやろう。最低のウジ虫とまで言った相手に気をやらされたら、お前はどんな顔をするであろうの?」
 風祭は、この時初めて、心底ぞっとした。
 触れられる。今まで、自分以外には、あいつにしか触らせたことがないところに。
 嫌だ。
 嫌だ。
「やめろ……」
「おや、急に大人しくなったの? 期待しておるのか? く、くく」
 やめろ。
 そこに触るな。
 そこは――あいつ、だけの――
 風祭はぐっと唇を噛み締めた。力を抜いたら、涙がこぼれそうな気がした。
 馬鹿野郎。馬鹿野郎。てめェなんか大ッ嫌いだ。
 ―――たんたんッ……!

「澳継――――ッ!」
 声に、風祭ははっと顔を上げた。
 まさか。
 でも、この声は。
 どがっ! がすっ! ずがっ! などという派手な音が、部屋の外から聞こえてくる。
「な、なんじゃ?」
 若元は慌てたように風祭の褌に伸ばしていた手を止めた。きょろきょろと意味なく辺りを見回す。
「澳継――っ! どこにいる、答えてくれ、澳継――っ!」
 ここだよ、馬鹿野郎。
 遅えんだよボケとろくせえなまったく余計なお世話だってんだよッ。
 頭の中を駆け巡った言葉は、一言も口から出なかった。
「澳継―――ッ!」
 ドゴーン!
 派手な音を立てて壁が吹っ飛び、そのむこうからあいつ――龍斗が顔をのぞかせた。
「………あ………」
 何か言おうとして、ようやくその一言だけが口からこぼれ出た。
 龍斗は風祭を見た。
 体中の肉をえぐられ、爪を剥がされ、指先を焼かれた姿を見た。
 褌に手が伸ばされているのも見た。
 その手の付け根の方に目をやって、若元の姿も目に入れた。
 と、龍斗の表情がすうっと消えた。
 そしてその、今まで見たどんな顔よりも冷たい完全な無表情で一言告げる。
「――――殺す」
 若元が、ひっ、と硬直した。

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