黄昏
 風祭はぐいっと差し出された薬湯を飲んだ。この薬湯は舌が捻れるほど苦く、風祭は大嫌いなのだが、この年で好き嫌いなど言うわけにはいかない。
 ことに、差し出している相手は自分の孫なのだから。
「……いつまでも見ておらんでも、ちゃんと薬は飲む。椀は置いておく、さっさと退がれ」
 見張るような視線が面白くなくてぶっきらぼうに言うと、辰斗――自分の孫で目下風祭家の唯一の跡継ぎは負けず劣らずぶっきらぼうに返した。
「祖父様は見ていないとすぐに薬を飲むのを怠ける。俺は見張り役を任されたんだ、見てないわけにはいかない」
 その言葉に思わず顔をしかめて、ぎろりと辰斗を睨む。
「俺をいくつだと思っている。見張られねば薬も飲めんとでも言うのか」
 辰斗も負けずに睨み返してくる。
「祖父様はもう還暦を迎えてるのに、子供みたいなところがある。信用ならない」
「馬鹿者。お前のようなひよっこが偉そうな口を叩くな。俺からまだ一本も取れたことがないだろうが」
 そう言うと辰斗はぐっと唇を噛んで、苛烈な闘志に満ちた瞳で睨み返してくる。
「俺はひよっこなんかじゃない。今やれば絶対祖父様にだって勝てる」
「ほう、なら試してみるか?」
 布団から立ち上がりかける――そのとたん猛烈な咳き込みが風祭を襲った。
「ああほらもう! 祖父様は本当に子供より馬鹿だ。子供だって自分の体のことぐらいはわきまえてるぞ」
 生意気なことを、と思うが肺が軋んで声が出ない。このおんぼろ体め、と内心舌打ちする。
「ほら、湯冷ましを飲んで。ゆっくり、吐き出さないように。薬はここだ」
 いちいち風祭の呼吸が落ち着くまでさんざん世話を焼き、薬を全部飲むところまでしっかり見張り、退出する時だけは一丁前に礼儀正しく襖のところで頭を下げる。その挙動は息子たちにしっかりしつけられたことを思わせる、我が孫ながら凛としたものだ。
 あれに似てきたな、と三年前に逝った連れ合いを思い出す。あれも動作や言葉遣いは品があるのに、いちいち口うるさい女だった。夫とさんざんにやりあって出戻ってきたという気性なのだから当然と言えば当然だが。
 そういえば、あいつももう十六になるのか―――自分があの男と出会ったのと同じ年だ。
 布団に寝転がりながら、風祭は大きく開け放たれた襖から庭を眺めた。季節は夏の盛りを過ぎ風に秋の空気が混じるあたり、部屋の中に吹き込む風の涼しさが心地いい。少し前までは寝苦しさにうんうん唸っていたものだが。
 嫌な時に病にかかった、と風祭は何度も歯噛みしたものだが、この季節の空気は悪くない。できるなら、今のうちにとっととくたばってしまいたいものだ。
 ――風祭は、この病は治らない、とわかっていた。
 感じるのだ。命の力を感じ取る武道家としての本能が、自分の生命力がどんどん削り取られていくのを察知している。
 看病してくれている孫や嫁の手前口には出さないが、自分はもうじき死ぬのだろうと思った。日一日と鍛え上げた体が弱っていくのが、はっきりと感じ取れるのだ。
 ――死は怖くない。生に未練はない。妻を迎え、子を生し、孫の誕生を見守り、孫が武道家として日一日と成長するのを見届けることができた。できるなら一人前になるまではそばにいてやりたいとも思ったが、その頃にはもう曾孫が生まれているだろう。きりがない。
 ただ、ひとつだけ心残りがあるとするならば。
(―――たんたん)
 口の中で、そう唱えて苦笑する。
 自分はなにを思ってこんなあだ名をつけたのか。もはや記憶の山に埋もれてしまっているが、今となっては口に出すことすら恥ずかしい。こんな言葉を口にするのを孫が聞いたら仰天するだろう。
 自分に世界の広さを教えた男。初めて、そしてただ一人肌身を許した男。
 ――人生でただ一人、惚れた男。
 あれは恋というものだったのだろう、と今なら素直に認められる。憎しみと怒り、苛立ちと腹立ち――自分の中に渦巻くあの男への感情は、結局半分はあの男への恋情からくるものだったのだ。
 最初は陽の龍として、やがて気に入らない相手として、最後には渋々ながらただ一人背中を預ける相手として認めて。その間中ずっとあいつを意識してきた。厳しい修練を重ねている時も、実戦の真っ最中も――いつも自分の頭の中には、あいつの姿があった。
 でもそれを認めたくなくて、嫌いだ大っ嫌いだといつも喚き立てて。そんな自分によく龍斗はつきあってくれたものだと思う。あの頃は断じて認めたくなかったが、自分はずっとあの男に甘やかされていた。
 俺も丸くなったものだな、と内心風祭は苦笑する。昔ならそんな感情を認めるくらいなら死んだ方がましだと言ったろうに。
 ―――あいつと別れた時も。

「どうするんだ?」
 と、龍斗はそう言った。いつも通りの、平然とした顔で。
 一緒に旅をして十年経った――そう、十年間も自分とあいつは国内国外を旅し続けていたのだ――ある日。自分たちのところに、風祭家からの使いがやってきたのだ。
 風祭家からの、父が倒れた、どうか帰って家を継いでくれ、という嘆願書つきで。
「……てめェはどうしてほしいんだよ」
 まるで人事のような言い草が気に食わなくて、ぶっきらぼうに言った。
 この頃になるとさすがに、自分も龍斗に対してある程度馴れのようなものを感じてきていた。龍斗が自分に優しくするのを、甘やかし想いをかけるのを許容するような。
 龍斗が自分の隣にいるのを、当然のこととして、別にかまわないと受け容れるような。
 ――だから、龍斗がこんなことを言うなんて、これっぽっちも思っていなかったのだ。
「――帰った方がいいんじゃないか」
「……なんだって?」
 最初、聞き間違えかと思って真剣に聞き返した。
 だが、龍斗はいつも通りの平然とした顔で言ってくる。
「お前は帰った方がいいんじゃないか。お前は帰ることを望まれてる。俺といつまでもふらふらしてるわけにもいかんだろう」
 一瞬呆気に取られて――
 それから目の前が真っ赤になるほどの怒りが体中に満ちた。
「……本気で言ってんのか」
「ああ」
 あっさりと、平然とした顔で言い切る龍斗――
 風祭は激情のまま、その横っ面を全力でぶん殴った。
「それがてめェの本音かよッ! 二度とその面見せんなクソ野郎ッ!」
 そう言って荷物を引っつかみ、もう日の暮れた外へ飛び出した。
 悔しかった。たまらなく悔しかった。こいつがそんなに簡単に自分と生きることを捨てたことが。
 龍斗は自分との十年間を、そんなに軽く考えていたのか。自分は、龍斗との十年間を――悪くないと、一生このままでも別にいいかというくらいに思っていたのに。
 龍斗のことを――自分が背中を預けるのは、こいつだけだというくらいに思っていたのに。
「………クソ野郎ッ………!」
 悔しい悔しい悔しい悔しい。そんな言葉ばかりが頭の中を走り抜けた。
 お前なんかに裏切られたなんて思ってたまるか。俺だってお前のことなんか大切だなんて思ってない。俺はお前なんてどうでもいいんだからな―――
 感情のままに飛び出してきて、その足で使いのいる宿に向かってどこにでも行ってやると啖呵を切って。その夜のうちに出発して。
 ――だけど本当の本当は、これっきりで終わりになるなんてこれっぽっちも思っちゃいなかった。

(最初の頃は苦しかったがな……)
 龍斗がいつ来るか心の底で待ちながら苛立って過ごした一年。本当にあいつは来ないんじゃないかと不安に怯えた二年。龍斗への苛立ちが憎悪にすら変わった三年。
 そんな思いが落ち着けたのは、十年近く経って妻を娶ってからだ。
 憎悪と寂しさで枯れ果てた風祭の心に、妻となった女の優しさは静かに沁みた。苦しみに悶えていた心は諦観と受容にゆっくりと変わっていき、三十五の年を数えるようになった頃子供を授かった時は素直に喜ぶことができた。
 当時の苦しさを思い出して風祭は苦笑する。自分は思いきり腹を立てていたけれども、それでも龍斗とあれっきりにするつもりなんて微塵もなかったのだ。というか、龍斗の方が絶対に自分を離さないだろうと思っていた。あいつは絶対に自分から離れることはないと、心のどこかで思い込んでいたのだ。
 そんなはずはないのに。一方が手を伸ばしているだけでは、絆は途切れてしまうのに。
 あの頃の自分は、そんなことすらわかっていなかったのだ。
 今になって思う。あの頃のあいつも、きっと怖かったのだろうと。
 今の自分のようにひとつところに落ち着き、妻を娶り、子を成す、そういう営みから自分を外れさせることが、その重みを背負うことが恐ろしかったのだ。
 なのに自分はそんなあいつの恐れも不安もわかってやれなかった。
 ……なにもかも過去のことだ。苦しい時間を乗り越えて、子を成し孫ができもうすっかり忘れたつもりでいたのに。
 ――死期を迎えた今になって、たった十年しか一緒にいなかったあいつのことばかりを思い出す。
 あいつの手の大きさ。指先の優しさ。柔らかい笑顔。声、瞳、体、体捌き。全て昨日のことのように覚えている。あいつはもういないというのに。
 風の噂で緋勇家に戻っているとは聞いた。その辣腕で緋勇家を改革しているとも。だから会おうと思えば会えないことはないのだろう。
 だが、どうしても会いにはいけなかった。意地と矜持と子や孫に対する対面で。
 会ったとたん泣きつきでもしたら自分は迷わず腹を掻っ捌く、だがそんなことをしないと言い切れない自分がどこかにいたから。
(――未練だな………)
 かつて龍斗にもらった数珠をはめた左手を見ながら考える。結局この数珠は捨てることはおろか外すことさえできなかった。何度も壊して捨ててやる、と思って手をかけもしたのに、握って糸をちぎろうとする寸前でいつも龍斗の顔が浮かぶのだ。
 捨ててしまったら、本当に二度とその顔も見れなくなりそうで怖かった。当時の自分はそんなことは死んでも認めなかっただろうけれども。
(いまさら会ったところで、どうなるものでもあるまいに……)
 惚れていたと今になってようやく認めたところで、なんになるというのだろう。もう自分には子も孫もいる、向こうにも子がいると聞いた。なにより自分はもう六十七だ。そんな年寄りが惚れたの腫れたの、しかも男同士でやったところでおぞましいだけだろう。
(―――なのに)
 なぜあいつの面影はこうも胸を焦がすのか。想いを素直に認められなかった過去の復讐か伝えられなかった後悔のゆえか。
 そんな思いなどさらさらないと言ってやりたいのに、自分はここ半年、あいつのことばかりを考えている。
(―――たんたん………)
 本当にいまさらだ。いまさらなのに。今になって気づいたところでなんの役にも立たないというのに。
 自分はもう終わっていくしかない存在だというのに――
 なぜかこの想いは、四十年前のその時のように熱い。

「………祖父様」
 す、と襖が開いて、辰斗が顔を出した。身を起こしていた風祭は、重厚な顔を作ってそちらの方を向く。
「どうした」
 辰斗はなにやら戸惑ったような顔でこちらを見て、それからぼそぼそと言った。
「祖父様に客だ」
「客?」
「今祖父様は病だから人とは会えないと言ったんだけど。それはわかってる俺の名前を言えばすぐ会うと言ってくれるはずだから――って」
 ずくん、と心臓が跳ねた。
 まさか。そんな、馬鹿なことが。
 あるはずはない、あるはずはないのに、次に出した声は明らかに震えていた。
「……名は?」
「……ひゆうたつと、だって」
「――――――――………………」
 風祭はしばし目を閉じ――威厳に満ちた声を必死に取り繕って、辰斗に命じていた。
「すぐに通せ」

「――久しぶりだな、澳継」
「―――…………」
 風祭はしばし無言のまま龍斗を見つめていた。
 龍斗だ。間違いなく、龍斗だ。
 むろん記憶の中の姿よりはるかに老けてはいる。皺がその整った顔を覆っているし、髪もほぼ全てが見事な白髪になっていた。
 だが、その瞳の輝きは。
 いつも自分をたまらなく愛しいという目で見る、龍斗そのものだった。
「―――辰斗、退がれ」
 不審そうな顔をしてこちらを見ている辰斗に、声の震えを懸命に抑えながら言う。
 辰斗はばっと立ち上がった。
「なんでだ。俺がいちゃなにか不都合なことでも――」
「昔馴染みと話をするのだ、お前がいては邪魔だ。退がれ」
「…………っ」
 噛みつくような視線で龍斗を睨むと、辰斗は素直に退出していった。龍斗はそれを静かに微笑みながら見守っていたが、やがてその笑みが四十年前と同じいやらしいにんまりしたものに変わる。
「澳継。俺の名前を孫につけてくれているのか?」
「ばッ……阿呆かてめェはッ、誰がてめェなんざの名前をつけるかッ! うちの馬鹿息子がガキ作っちまった時嫁の名前から一文字取って勝手につけたんだよッ!」
 反射的に怒鳴ってから、はっとした。口調がほとんど元に戻ってしまっているではないか。
 恥ずかしさのあまり唇を噛むと、龍斗は静かに微笑んだ。
「……変わってないな、澳継」
「……てめェ舐めてんのか、あれから何年経ったと思ってんだ。どこもかしこも変わってるに決まってんだろ」
 もう口調を元に戻すのは諦めた。年を食ったとはいえ、印象の変わらない龍斗の顔を見ていると、口が勝手にあの頃の言葉を紡ぎ出してしまう。
 それに、それが心地いいのも確かだった。あれから四十年もの時が流れているというのに、今自分たちはあの時とまったく同じように会話をしている。
 変わっていない――そのことが、なんだか泣けそうになるほど嬉しかった。
「変わってないさ。――そりゃあちょっと渋くはなったが、やっぱり四十年前と同じに可愛い」
「なッ……こんなジジイに可愛いだァ? てめェ目ェ腐ってンのかッ!」
「可愛いさ。昔と同じにお前はひたむきで、前だけ見ようと頑張っている」
「…………」
「やっぱり、好きだなと思うよ。お前を見ていると――」
 自分を見る龍斗の目には懐かしむような光があった。
 しばし二人の間から会話が絶えた。だが二人とも視線は相手に向けたまま逸らさない。いたたまれなさより逸らすのがもったいないような気持ちの方が強かった。
 ああ、こんなにも。こんなにも自分は会いたかったのだ―――
「……なんでこれまで来なかった」
 風祭は静かに訊ねた。今なら聞ける気がした。心静かに。別れてから四十年経った今ならば。
「…………」
「俺と別れた理由は、だいたい想像がつく。お前は俺に結婚させて、ガキ作らせたかったんだろう?」
「………ああ」
 静かにうなずく年輪を重ねた顔を見て、やはりと思った。
「だが―――一方的だろうがよ。俺はお前が隣にいないのを受け容れるのに――十年かかったんだぞ」
「………そうか。俺は二十年だ」
 龍斗の静かな言葉に、風祭は一瞬目を見開いた。
「………じゃあ、なんで」
 お前も寂しいと、苦しいと、会いたいと思っていたのに、なんで俺から離れたんだ。
 そこまで言うことはできなかったが、龍斗はどこか寂しげな笑みを浮かべ、わかっているというようにうなずいた。
「俺はな、澳継。お前を試したんだ」
「………試した?」
「ああ。俺がお前と一緒にいようと言わなくても、共にいたいと思ってくれるかどうか」
「…………なんだって?」
 思わず声が震えた。龍斗は静かに話し続ける。
「俺はお前を幸せにしたかった。だから、女と結婚して子を成し生きていくという、まっとうな道も用意しておいてやるべきだと思った。だが、一緒にいたいという想いはたまらなく強くて――それで、賭けたんだ。お前が俺からの想いがなくても、一緒にいたいと思ってくれるかどうか」
「………………」
「俺からの言葉が想いがなくても俺と一緒にいたいと思ってくれたら、俺はお前と一緒に一生なにもかも捨てて生きていこうと思った。あとからでも俺と一緒に生きたいと言ってくれたらそうするつもりだった。でも、お前はずっと来なかった――それを受け容れるのに、二十年かかったが―――」
 バキッ。
 龍斗が呆気にとられた顔でこちらを見る。風祭は荒い息の下から龍斗を睨んだ。
 考えるより先に殴っていた。体中を四十年前と同じ、激情が駆け巡っていた。
「なに考えてやがんだこのボケ野郎ッ! んな遠まわしにやったって本気の気持ちなんざわかるわけねェだろッ!」
「………澳継………」
「どっちも会いたいって、一緒に生きたいって思ってんのに、なんでうだうだ遠回りしなきゃなんねェんだよッ! ハナっから正直に言やあいいものを、四十年間もずっと悟りすました顔して誤魔化してきやがったのかッ、てめェはそれでも一家の主―――ゲホ、ゲホゲホッ!」
「澳継! しっかりしろ、この白湯を飲んで! ゆっくり息をするんだ!」
 しばし呼吸が苦しくて目の前が暗くなる――再び目を開けた時には、なぜか自分は龍斗の腕の中にいた。
「……ッ! 離せッ、たんたん!」
「たんたん、か。懐かしいな、お前のその呼び名」
 ひどく潤んだ声で言われ、風祭は目を見開いた。これは――龍斗が、泣いている?
「久々にお前に殴られたしな。本当に……お前はいつまでも変わらない」
「……変わったさ。俺はもう昔の俺じゃねェ。お前と殴り合う元気ももうねェんだからな」
「確かに昔のままじゃないかもしれない。けど、お前のお前たるところは――お前の魂は、その気高さを少しも失ってない。俺の好きなお前のままで、再びこうやって会えた………」
「…………」
 勝手なこと言ってんじゃねェ、と殴ってやるべきところだったかもしれない。だが、風祭は目を閉じ、自分を抱きしめて泣く龍斗の腕にしばしその身を任せた。
 心地よかった。龍斗が自分に寄せる感情が。そして四十年ぶりの龍斗の体温も、とても、とても心地よかった。
「……ずっとつけててくれたのか、この数珠」
 龍斗の手が左手に触れた時、龍斗は相変わらず潤んだ口調でそう言った。
「……ああ」
「実を言うとな、この数珠は再会のお守りなんだ。いつか離れ離れになることがあったとしても、また出会えるようにってもらったもんでな……」
「……そうなのか」
「ああ……ご利益、あったな」
 龍斗が体を離し、潤んだ瞳で風祭の顔を見つめる。風祭も龍斗を見つめる。自分の瞳も潤んでいるかもしれない、と思った。
 龍斗の顔がゆっくりと近寄り――風祭の唇に、口付けた。
「………ッはァッ………」
 何十年ぶりだろう。こんな口付けをされるのは―――
 奪われる、というのとは違った。自分の中の全てを味わいつくされているような、優しい、それでいて激しい口付けだった。
 この年になって――と頭のどこかでは確かに思うのに、心と体がその唇に、舌に、体温に酔いしれる。ああ、自分はずっとこいつに飢えていたのだ――そんなことにいまさらのように気づいた。
 唇を離すと、龍斗はじっと、熱っぽい瞳で自分を見つめて言った。
「――抱かせてくれないか、澳継」
 さすがにこの言葉には少し驚いた。
「……てめェ、その年で役に立つのかよ」
「伊達に修行してるわけじゃない。まだ五十程度の精力は残っている」
「俺みてェなジジイ見て勃つのか?」
「お前は年を取って爺さんになっても可愛い」
 真剣な顔でそう言われ、風祭は思わず吹き出した。この男は、本当に自分のことが好きなのだ。
 会えなかった間も、ずっとずっと、自分に会いたいと、恋しいと思っていたのだろう。自分を愛し、幸せにしたいと、共に在りたいと想い続けてきたのだろう。
 その事実が、昔は苛立ちの原因だったその事実が、今死期を目の前にして、ようやくたまらなく嬉しいと思えた。
 風祭はすっと龍斗に顔を寄せ、唇に自分から口付けた。龍斗は目を見開きながらも、それを受け入れる。
 唇を離すと、風祭は龍斗に笑いかけた。
「やるよ」
 龍斗の手を取って自分の心臓の上に触れさせ、自分は数珠をはめた左手で龍斗の心臓の上に触れて。
「お前にやる。こんなジジイでよけりゃ、俺の心も体も、俺に残ってる全部のもんお前にやる」
「………澳継」
「ようやくその覚悟ができたんだ。五十年かかってな。だから、残さず食ってくれるんなら、お前にやるよ、全部」
 お前にやる―――
 その言葉を発した時、龍斗の心臓が、たまらなく高鳴ったのを感じた。
 自分の心臓も鼓動が早い。二人の鼓動は合わさって、どんどんと高めあっていく。
 龍斗は風祭の手を取って、愛しげに頬擦りすると、初めて会った時と同じ、この上なく優しい笑みを浮かべて言った。
「嬉しいよ………」
 その言葉に、風祭は満足して、龍斗の首に腕を回したのだった。

 なにせ四十年ぶりだ。その上二人とも還暦を越えている。結合はさぞ面倒だろうと思ったが、なにかが力を貸してくれたかのように二人の体は軽やかに動いた。
 二人とも無言だった。代わりに目で、息で、手で指で体で熱で、懸命に訴えた。お前のことが好きだと。誰よりも愛していると。
 これまでも、今も、そしてこれから先もずっとそうだと。
 二人の体はじわじわと、ゆっくりと、お互いに熱を感じながら昂ぶっていき、やがて同時に達した。
 自分がまさか達するとは思っていなかった風祭は不思議な気分だったが、目の前に龍斗がいて、静かに微笑んでいるのがひどく嬉しく、そんな気持ちなどどうでもよくなって、ただ龍斗を抱きしめて言った。
「ずっと俺のそばにいろよ」
 そんな熱に浮かされたような言葉に、龍斗は笑ってうなずいた。
「ああ、ずっと一緒だ」

 しばし同じ布団でお互いを見つめながら手を握り合っていると、ふいに眠気が兆してきて目を閉じた。
 すると、次の瞬間には自分の体が宙に浮いているのを感じた。
 しかも自分の視線の下には、自分と龍斗が同じ布団で眠っているのが見えるではないか。
 これはどうしたことだ、と一瞬慌てたが、自分の体に皺がないのを見て取って、はっとした。
 これは五十年前の体だ。あいつと、龍斗と初めて会った時の体だ。
 それを知り、ようやくああ、自分は死んだのだ、とわかった。
 ぽん、と肩を叩かれる。
 見上げると、そこにはやはり五十年前の龍斗がいた。
『行くか』
 その笑顔がたまらなく嬉しくて、風祭は蹴りを入れて笑顔を返してやった。
『おう』
 眼下では襖を開けて入ってきた辰斗が自分たちを見て驚愕の表情を浮かべている。決まりが悪かったし、悪いなとも思ったが、結局まぁいいかと決めた。
 自分は全てを龍斗にやると言ったのだから。
『行くぞ』
『行こう』
 二人は並んで、にやりと笑みを交し合い、ぐるぐる回りながら天に昇っていく。天のてっぺんに穴が開いていた、あそこが目的地なのだとわかった。
 天はどこまでも高く、蒼く――隣にいる奴はたまらなく嬉しげだったので、風祭は一発蹴りを入れてやった。

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