この作品には男同士の性行為を描写した部分が存在します。
なので十八歳未満の方は(十八歳以上でも高校生の方も)閲覧を禁じさせていただきます(うっかり迷い込んでしまった男と男の性行為を描写した小説が好きではないという方も非閲覧を推奨します)。




蓬の声で叫ぶ恋詩
 ぴくっ、ぴくっ。川に浮かんだウキがちょっとだけ沈んだのを見て、俺は素早く釣竿を動かしてアワセ(魚をうまく釣り針にひっかけること)をする。川釣り、特にウキ釣りはこの一瞬のカケヒキがすべてだ――って俺に釣りを教えてくれた近所のおっちゃんが言ってた。
 釣竿の先に確かな手応えを感じ、俺はにっと笑む。一気に釣竿を引き、リールを巻いて、魚を一気に引き上げる――
 ――と思ったのが甘かった。アワセの具合が甘かったみたいで、魚はするりと釣り針から抜け出てしまい、俺は勢いあまってその場にひっくり返った。当然、釣竿の先にひっかかったものはなし。思いっきしボウズ。もう一時間もここで粘ってるのに、釣れた魚はまるっきりゼロ。
「………ううぅぅう、うーうーうー、ああああ――――っ!!」
 俺は釣竿を放り出して、ばたばたと手足を動かし喚いた。あーもー、あーもー、あーもーもーすっげーつまんね―――っ!!
 そもそも俺釣りってあんま好きじゃねーもん。とーちゃん漁師だけど(遠洋漁業の。だから家にはほとんど帰ってこない)、とーちゃんは別に釣りのやり方とか教えてくんなかったし、だいいち魚数匹獲るのになんでこんなえんえん時間かけなきゃなんねーんだよ。ちょっと足伸ばせば港があんだから、そこでいくらでも買えんじゃん!
 なのになんで釣りなんかしてるかっつーと、うまく魚が釣れたら一匹ごとにちょっとだけ小遣いがもらえるからで(せいぜい一匹五十円がやっとだけどさ)。それ以上に他にやることがねーからで。うちの周りに同い年くらいの奴なんていないし、遊ぶ場所なんて山とか川とかせーぜー海くらいしかねーし、家にいたらかーちゃんに無理やり家の仕事の(ちっちゃい民宿なんだけど)やらされるからで。
「あーあーあーもーっ、なーんで俺ばっかこーんな目にあわなきゃなんねーんだよーっ!」
 俺の住んでるところは、会豊田町の外れにある。三時間ぐらい歩いたとこに港町――つーか漁港があって、俺はそっちにある小学校に通ってる。
 でも俺のいるところはほとんど山の中。ちょっと裏山入ったら渓流とかもあるし、しばらく歩いた山間じゃ農地があって畑耕したり牛とか育てたりもしてて、うちが民宿なのにそんなとこにあんのはちょっとだけど温泉が出るせいらしいけど、要するに――もんのすげー、イナカだ。
 港町の方に行っても、ビルとかでかい建物なんて全然ない。あるのは魚と魚獲る船と、せーぜーが魚入れとく倉庫ぐらい。遊びなんて釣りか泳ぐかでなきゃ鬼ごっことかみてーなガキっぽい遊びばっか。テレビのCMに流れてるみてーな、ゲームとかパソコンなんて、電気屋にだって全然売ってない。
 あーあ、ほんっとに。
「……なんで俺、東京の家の子に生まれてこなかったんだろー……」
 ごろん、と後頭部を河原の石に擦りつけながら、俺は毎度おなじみの文句を口にした。ほんっとに、なんで俺ばっかこんなしょぼいイナカにいなきゃなんないんだろ。東京には、もーすんげーでかいビルとかあって、カッコいい建物とかいっぱいあって、二十四時間営業のコンビニなんてすげー店とかあって、ゲームとかすげーおもちゃとかだっていっぱい売ってて、飯だってすっげーうまいだろーし、それからそれから……
 とにかく、こんなイナカとかよりずっとずーっとすげーとこが、電車で数時間走った先にあるってのに。今の俺ってば、かーちゃんにムリヤリ民宿の手伝いさせられながら、山とか川とかせーぜー海とかでのたくたするしかねーなんて。せっかくの夏休みだってのに。
「あーあ、あーあ、あーあー………」
 俺は手足をばたばたさせながらいつもとおんなじように考える。早く大人になりてーなー。大人になったら、東京に行って、すっげー金もーかる仕事とかして、すっげーマンションとかに住んで、すっげーうまい飯とか食ってすっげーカッコいいとことかいろいろ行って……
 でも、今の俺はコドモで、東京に行くための電車賃だって手に入れられない。
「………あーあー………」
 あーあ……ほんっとに、つっまんねー………。

 のろのろ山道を歩いて、家に戻ってくる。家っつっても民宿の一部だから、正面玄関から戻ってくるとかーちゃんにどやされるんだけど、いちいちそーいうの気ぃ遣うの面倒くさくって俺はがらがらがらーと玄関の戸を開けた。どうせ今は泊まってる客いないし。
 そしたら、ばっちり知らない人と目が合っちゃって固まった。げ、新しい客!? と焦る俺に、三和土の上の上り框からその客の荷物を受け取っていたかーちゃんの怒鳴り声が飛んでくる。
「新! あんたどこから入ってきてるの! お客さんがいらっしゃってるってのにっ」
「わ、悪かったなっ、けど知らなかったんだからしょーがねーだろっ」
「口答えするんじゃないわよこの子はっ、とっとと裏口に回りな!」
「い、いーじゃんかよぉ、こっちから上がった方が俺の部屋近いし……」
「新っ!」
 その新しい客は、そんな風に俺らが騒いでても、全然気にした様子もなく、なんていうかものすごく淡々とした顔で(年はいくつだかよくわかんなかったけど、おっさんくさい雰囲気は漂ってた)俺らの方を見て、やっぱりものすごく淡々とした、すげーどーでもよさそーな声で訊ねてきた。
「お子さんですか」
「え、ええはい、すいませんねぇお見苦しいところをお見せしちゃって」
「いえ」
「本当にすいません、東京からわざわざいらしたんですからお疲れでしょう? まずはお部屋でゆっくりなさってくださいな」
「――――!」
 俺は大きく目を見開いて耳をそばだてた。東京? 東京って、あの東京っ?
 一見ただの冴えないおっさんにしか見えねーけど、このおっさん、東京から来たんだ……あの東京から。東京タワーがあって、でかいビルとかいくつも建ってて、コンビニがあって新幹線とかもびゅんびゅん走ってる、あの東京から―――
「今すぐお部屋にご案内しますね。少しお待ちいただければお茶お持ちしますから」
「! 俺が案内するっ!」
 俺は即座に手を上げて叫んだ。東京から来たお客。普段だったら民宿の手伝いなんて嫌で嫌でしょうがないけど、相手が東京から来たお客だったら話は別だ!
「新っ! あんたは引っ込んでなっ、すいませんねぇ行き届きませんで、なにせ小さい民宿なものですから」
「ちっせーから子供遊ばしとく余裕ねーんだとかかーちゃんいっつも言ってんじゃん! 手伝いしてやるってんだから素直にやらせろよっ」
「そんな口の利き方でお客さんの前に出せるもんかい! ほらっ、とっととあっち行きなっ」
「俺が案内するっつったらするっ! かーちゃんだってほめられた口じゃねーくせに偉そうに言うなよっ」
「新っ! この子はっ」
「女将さん。私はお子さんに案内していただいても別にかまいません。それよりも、先に荷物を下ろしてきたいのですが、よろしいでしょうか」
 またすっげー淡々とした声でおっさんが言うと、かーちゃんは慌ててぺこぺこ頭を下げながら俺を叱ってくる。
「ええはいはいすいません気がつきませんで! ほらっ、新っ、せっかくお客さんがこう言ってくださってるんだから早くお荷物お持ちしなっ」
「いえ、結構です。さして重いものでもありませんし、子供に荷物を持たせる趣味はないので」
 そう言ってすい、と俺の方に視線を向けてくる。その視線がやっぱりすっげー淡々としてたんで俺も一瞬どーいう意味だかわかんなかったんだけど、案内しろって言いたいんだって数瞬遅れて気がついた。
「じゃあ、案内し……マス」
 俺のとってつけたような敬語に、そのおっさんが返した反応は、よくよく見ないと気がつかないような小さなうなずきだけだった。

 俺はふすまを開けて部屋の中に入ってから、おっさんの方を振り向いて「どーぞ」と部屋の奥へ手を突き出した。おっさんはまた小さくうなずいてとっとと入ってくる。うちは一応エアコンがついてるけど、お客さんが入れてくれって言わないと冷房入れないんだけど(近くに沢があるし、風通しいいから、窓を開けとくだけで十分涼しいし……電気代かかるし)、おっさんは別に気にした風もなく荷物を置いた。
「えっと、朝食は朝七時、昼食は十二時、夕食は夜七時にお出ししますけど、言っていただければ好きな時間に作ります。食堂もありますけど、今はお客さん一人だけなんで、なんでしたらお部屋にお持ちしますけど、どーします?」
「部屋で」
「わかりました。風呂は一階に内風呂もありますけど、裏に出てちょっと歩くと露天風呂もあります。そっちは基本二十四時間入れますけど、内風呂は夜十一時から朝六時までは入れません。トイレは一階と二階に一つずつありますけど、そういうのの位置は非常口とかも一緒に金庫前の地図に書いてありますんで。なんか用ありましたら、一階で声かけてもらえれば誰かしらいると思うんで、よろしくお願いします」
 俺も家の手伝いやらされて長いから、このくらいは言えるんだ。けどおっさんは気に留めた風もなく、また小さくうなずいて、
「了解」
 とだけ言ってちゃぶ台前に腰を下ろす。すかさず俺は、
「じゃ、お茶持ってきますね」
 と言ってとっとと部屋から出て一階に降りた。
 そしてすぐまたお茶を持って上がってきた。かーちゃんにはなんやかや言われたけど、東京からのお客なんてめったにない機会逃せるわけねーし! なんとか居座って東京の話、ありったけこのおっさんから引き出さねーと!
 そんな気合を込めて俺は部屋に入り、「どうぞ」ってお茶をちゃぶ台の上に置いた。おっさんは窓際で景色を見てたけど、俺が茶を置くとひょいと立ち上がり、お茶の前に置いてある座布団の上にあぐらをかいて、「どうも」と言ってお茶をすする。
 すすり終わるのをちゃぶ台の前で正座して待ってから、なんでずっと待ってるのか不思議に思ったのかちろりとこっちを見るおっさんに、俺は勇んで問いかけた。
「なぁなぁお客さんっ、お客さんって東京から来たんだよなっ?」
「ああ」
 無表情で無愛想な返事が返ってくる。けど目の前に東京≠チて世界への扉を吊り下げられた俺がそんな程度でめげるわけない。
「東京ってさ、やっぱでっかいビルとかあるんだろ? 東京タワーとかさ、新都庁とかさ、そんで夜はライトアップがびかびかーってされてて、夜景とか見えんだろ?」
「ああ」
 やっぱり無表情で無愛想な返事だったけど、本物の東京人からもたらされた情報に、俺は興奮してたすたすと腿を叩いた。やっぱ、テレビの中だけじゃなくてほんとに東京ってそんな風なんだ!
「おっさんさ、そういうの、自分で見たこと、あるんだよな?」
 言ってからあっやべっおっさんっつっちまった、と慌てたけど、おっさんは微塵も動揺せずやっぱり無表情に不愛想に「ああ」とだけ答える。なんだこのおっさん話わかる奴じゃん! と俺は勢いがブーストし、ずずいっとおっさんに迫った。
「なぁなぁっ、東京ってさ、コンビニってのがあって、そこは二十四時間いつでも開いてるってホント?」
「ああ」
「そんでさそんでさ、東京ってさ、電話したらいつでも三十分でピザとか寿司とかが届くってホント?」
「おおむね」
 初めて「ああ」じゃない返事が返ってきて俺は頭のすみっこであれ? と思ったが、フルスロットルになった勢いはその程度じゃ止まらない。
「じゃあさじゃあさ、東京ってさ、新幹線がびゅんびゅん走ってて、行こうと思えばあっという間に沖縄とか海外とか行けるってホント?」
「『あっという間』のレベルにもよる」
 今度は初めてちゃんとした話し言葉が返ってきた。一瞬驚いて口が止まったけど、すぐにさっきにも増した勢いで問いかける。
「じゃあどんくらいで行けるのっ!?」
「東京のどこから行くかにもよるが、東京駅からと仮定すると空港自体には電車の乗り継ぎがうまくいけば三十分程度で行ける。だが沖縄にしろ海外にしろ、飛行機は基本的に全席予約制になっているから必ず予約した便まで最低でも数十分、長ければ数時間は待つことになる。国内線でもあれこれ手続きはあるし、国際線の場合出国手続きやらなにやら手間のかかることも多いしな。当日購入の場合は便の振り替えもできることが多いが、それでも便が早くなることはまずないし。あとは飛行機の速度、つまり空模様次第だが、なにも問題がなければ沖縄――那覇空港までは二時間半。一番近い海外といえば韓国だろうが、首都のソウルまでならまぁ同程度だろう。一番遠い海外といえば、日本人になじみがある場所ならイギリスだが、行きで十二時間半帰りで十二時間弱というところだと思う」
 ずらずららーっ、とこれだけ長い言葉を(やっぱり無表情で無愛想だったけど)当然のように返されて、俺は一瞬わけがわからなくなった。え、なに、このおっさん、最初なんつってたっけ……?
「え、えっと……つまり?」
「概算になるが、最短で三時間、最長で十八時間程度だろう、と思う」
「………すっげええぇぇぇ!」
 すっげぇ、そんなにあっちゅー間に海外とか行けちゃうのもすげーし、そんなのがなんにも見ないですらすらーって出てくるこのおっさんもすげぇ! やっぱあれだよな、このおっさん東京から来たからこんなにすげーんだよなっ! うっひょぉおやっぱ東京ってすっげー!
「東京ってやっぱすっげーっ、ここらへんとは全然ちげーよっ! こんな田舎より、やっぱずーっとずーっといいよなーっ!」
 たまらなくなって畳の上に寝転がり、ぱたぱたと手足をばたつかせる。東京! 東京! やっぱ東京ってすっげー、今すぐ行きてぇぇぇ!
「なにに?」
 ――とうきうきパワーでわーっとなってた俺に、おっさんは(やっぱり無表情で無愛想に)静かな声を投げかけた。
「……へ?」
「ここより、東京のなにがなにに、ずーっとずーっといいんだ?」
 むっ、と俺は唇を尖らせて起き上がった。時々いんだよ、こーいう田舎見たら『いいところだなー』とか言う奴。
「東京よりこっちのなにがいーってんだよっ。言っとくけどなーっ、ここらへんはコンビニとかないし新幹線も走ってないし町まで車でも一時間はかかるしそこまで出ても大したもん売ってないし」
「東京よりこちらの方が優れている、とは言っていない。俺は、こちらより東京のなにが、どう、お前にとって利点があるとお前が考えているのかと訊ねているんだ」
「え……え、え?」
 意味がよくわからない。
「つまり、お前は東京のなにがどういい≠ニ思っているんだ?」
 それならわかる。俺は勇んで並べ立てた。
「全部いいじゃんっ! コンビニとかあるし東京タワーとかあるし新幹線とか走ってるし」
「それは、お前にとってどう利点があるんだ?」
「………は?」
 りてん……って?
「東京の方がこの辺りより様々なものがあるのは当たり前だ、首都なんだから。だがそれとお前にとって利点があるというのはイコールではない」
「え……は?」
「お前はこの近辺に慣れ親しんでいるのだから便利も不便もこの近辺を基準にしているだろう。ならば、東京にはメリット――便利な点もあればデメリット――不便な点もあるはずだ。コンビニも東京タワーも新幹線も、お前の生活に対し十全なメリットを提供するとは限らない」
「え、えっと……つまり?」
「どんな場所だろうが、そこがいい≠ゥどうかは個々人がその場所になにを求めるかによる、ということだ。ここでも東京でも外国でもな。ここで国際的な商取引を行うのは無駄が多すぎるし、東京で渓流釣りをしようと思うなら相当な時間と金が必要になる、というように」
「え、えっと……だから?」
「だから、東京がお前にとっていい≠ゥどうかは、お前が東京になにを求めるかで決まることで、総合的な満足度でここより勝るかどうかすらある程度の期間居住しなければわからない」
 それだけ言って、おっさんはまたずずっ、とお茶をすすった。
 俺はぽかーん、としながらおっさんを見つめた。なんだこのおっさん、なに言ってんのかさっぱりわかんない。ていうか、何語? いや日本語だってことはわかんだけど言ってることが難しくて外国語喋られてるみたいな気になるっていうか……。
 ええと、東京にいろんなのがあるのは当たり前で、でもそれと俺にいい≠チていうのとはいこーるじゃな……いこーるってなんだよ。それホントに何語? メリットとかデメリットとかもよくわかんないし……なにをもとめるかで決まって東京で渓流釣りでそーごーてきなまんぞくどが……あーもーわけわかんねーっ!
 思わず頭を抱えてうんうん唸ってる俺を、おっさんはやっぱり無表情な仏頂面で見つめていた。このおっさん、顔からだとなに考えてんのかさっぱりわかんない。
 俺は考えるのをやめて、おっさんに向き直った。目の前におっさんがいるのに、おっさんの言ったことをうんうん考えるなんて時間の無駄だと思ったからだ。
「なーなー、おっさんさー……」
 ぱしーん!
「新っ! あんた、お客さんにむかってなんて口の利き方してんだいっ!」
「げっ! か、かーちゃん……」
「お客さんの部屋にいつまでも居座るな、って教えただろっ! すいませんお客さん、今すぐこの子連れ出しますからねっ」
「いえ。お気になさらず」
「ててっ! かーちゃん、いて、いてーってばっ!」
 必死にぎゃあぎゃあ喚いて暴れたけど、かーちゃんの力にかなうわけなくて俺は部屋の外に連れ出され、台所でぎゃんぎゃん説教されて、「晩飯でも釣ってきなっ!」と外へ蹴り出されてしまった。俺は悔しくてちくしょーちくしょーと思いながらたすたす地面を蹴ったけど、そんなんで気持ちが晴れるわけない。
 負けるもんか。あのおっさんがここにいる間に、絶対もっともっといろんな話聞き出してやる。俺は(渋々)裏の川に向かいながらそう誓った。
 ――この時の俺は、まだなんにもわかってなかったし、全然気づいてなかった。あのおっさんに話を聞きたいって気持ちが、『東京の話を聞きたい』って気持ちから、半ば以上『おっさんの話を聞いてみたい』って気持ちになってることさえ、少しも気がついてなかったんだ。

「なーなー、おっさんさー。東京って、他にどんなもんがあんの?」
「ジャンルを特定してくれなければ、列挙するのにも時間がかかりすぎるな」
 俺は、その日から、時間の許す限りそのおっさんのあとをつけ回しては話を聞くようになった。幸いおっさんはここには渓流釣りをしにきたみたいで、朝から夕方までほとんどずっと、麦わら帽子やらなにやらの釣り用の装備をかーちゃんに準備してもらっては、裏の川に釣り糸を垂らしてじっとしている。
 っていうか、釣りっていうより単にぼーっとしてるっつった方がいいかもしんない。釣りってのはただ糸を垂らしてりゃ魚が釣れるような甘いもんじゃないけど、このおっさんほんっとに糸垂らしてるだけでそれ以外なーんにもしないんだもん。むしろほとんど動いてもいない。なんか石像とかになってんじゃね、って思うくらい。
 だから俺はその隣で、同じように麦わら帽子をかぶって、釣り糸を垂らしながら、思うぞんぶんおっさんにいろんなことを聞いた。
「ジャンルってなに?」
「物事の種類。領域。特に芸術作品等の形態上の分類」
「え、えっと、つまり?」
「たとえばどんな建物があるか、とかどんなものが売っているか、とかどんな店があるか、というように、最低限どんな分野か決めてくれなければ、多すぎて言いようがない」
「そーなんだ。……じゃー、えっとさー、どんなもんが売ってんの?」
「地方限定品でなければ、日本で買えるもののほぼすべて」
「え、マジで!? じゃあさじゃあさ、すっげーカッコいいコンピューターとかも売ってる!?」
「『すっげーカッコいい』というのがどういう種類なのかにもよるが、通常手に入るレベルならばまず間違いなく」
「へーっへーっ、すっげーなーっ。じゃーピッてボタン押したら学校の宿題とか全部できちゃったりするんだー」
「現代のコンピュータにはそんなことはできない」
「へ!? そ、そうなの?」
「コンピュータというのは、すなわち情報処理を行う機械を指す。一定のインプットに対し、一定のアウトプットを返すというのが現代のコンピュータに求められる仕事だ」
「え、えっと……つまり?」
「宿題ひとつひとつに対して、適切な答えが求められるようにコンピュータのシステムを構築しなければ、コンピュータで宿題がなんでもできるようにはならない。やろうと思えばできないことはないだろうが、そちらの方が明らかに、人力で宿題をやる数十倍、数百倍、数千数万倍の労力と、知識を自在に操るようになるための勉強を必要とする」
「え、えっと……うーんと……つまり、自分で宿題やった方が早い、ってこと?」
「そういうことだ」
 あっさりとうなずくおっさんに、俺はぷーっと頬を膨らませて、ぺしぺし自分が腰かけている岩肌を蹴った。釣りをしてる時にこんな風に魚が逃げるようなことするのは厳禁なんだけど、おっさんはまるで気にした様子もない。
「ちぇーっ、なんだよーっ、コンピューターってあんま役に立たねーのなーっ」
「それはコンピュータをなんの役にたてようとするかによる」
「え、え……? つまり?」
「コンピュータというのは、要は道具だ。電卓やそろばんと同じように、人がなにかをする時に使うもの、結局はそれだけでしかない。電卓を使ってテレビを見ようとするのが間違っているのと同様に、コンピュータならばどんなことでもできる、と考えるのがそもそも間違っている」
「え、え……へえ……?」
「そもそもコンピューターと名付けられるものの種類は実に幅広い。基本的にコンピュータというものは入力機能、記憶機能、演算機能、出力機能、制御機能の五つを有する情報処理を行う機械を指して言うが、マイクロコンピュータも含むならば、現代ではコンピュータが組み込まれていない電化製品の方が珍しいほどだ。それぞれのコンピュータに異なる機能があり、用途がある。太古の昔から人間が使ってきた、様々な道具と同じように。コンピュータもそういうものだ、ということだ」
「え、えっと……どういうこと?」
「つまり、コンピュータもしょせんは人間が使うために作られた道具なんだから、人間ができることそのままをやらせようとしても無駄が多すぎる、ということだ」
「へ……へー……?」
「それ以前にコンピュータを使って宿題をやっていっても先生は認めてくれないと思うがな」
「それ先に言えよ!」
 思わず大声で突っ込んだけど、おっさんはやっぱり無愛想な無表情で軽く肩をすくめただけだった。
 おっさんとの会話っていうのは、いっつもそんな感じだった。おっさんはいっつも無表情で無愛想で、でもだからといって声を荒げたりするようなことはなく、淡々と俺の質問に答える。つらつらーっと当然みたいに、よくわかんないことを長々と。
 よくわかんないから説明してくれって言っても、やっぱりよくわかんない答えがつらつらーっと返ってきて。俺の頭がこんがらがってるところに、最後にはずばっと決定的な(これまでの長々とした説明が無駄になるみたいな)一言を告げて終わらせる。
 はっきり言ってなに考えてんのかよくわかんない奴で、言ってることもよくわかんなくて、一番わけわかんないのはなんでそんなよくわかんない説明をするかってことだったんだけど、俺はそれでもおっさんに何度も話しかけて、質問をした。おっさんも(答えはいつもよくわかんないもんだったけど)嫌がる風も見せずに、淡々とではあったけどいちいち最後まで答えてくれた。
 ホント、よくわかんないおっさん――ではあったんだけど、俺はおっさんのよくわかんない話を聞くのがそんなに嫌じゃなかった。わけわかんないけど、やな感じはしないっていうか……よくわかんない答えを、わかるようにうまく答えさせていくのは、ちょっとパズルみたいで面白かったし、おっさんが本気っていうか……こっちをガキ扱いして、嘘とかごまかしとかこっちを舐めてテキトーなこと言ってんじゃなくて、真面目に真剣に答えてるのは、なんとなくわかったからだ。
 そんな大人、俺は今まで会ったことなかったから、俺はしじゅうおっさんにつきまとって話を聞いてたんだけど、おっさんはやっぱり嬉しい顔も嫌な顔もせず、愛想のかけらもないすごく淡々とした無表情で、質問のいちいちに淡々とした答えを返すだけだった。

「なーなー、おっさんさー。ここに、なにしに来たの?」
 おっさんがやってきて三日目ぐらいに、俺はようやくおっさんに訊ねた。このおっさんは、毎日毎日渓流釣りに行くわりに、ちっとも釣れるように頑張る素振りとか見せなくて、ただひたすら針と糸を川に垂らしてぼーっとしてるようにしか見えなかったからだ。そんなお客、これまで見たことなかった。
 なんか怪しいな、とこっそり思いつつできるだけさりげなく訊ねた問いに、おっさんはやっぱりごくあっさりと、淡々と答えた。
「有給の消化をしに」
「へ……? ゆう、きゅ?」
「多くの会社では、有給休暇といって休んでも給料が払われる日数があらかじめ決められている。その日数を越えて休むと今度は給料が削られるわけだが、それは使わないでいると少しずつ溜まってくる。そして、会社にもよるだろうが、少なくとも俺の会社ではあまりに有給休暇を使わないでいると、ある程度それを消化するように命令が下るんだ。労働組合に睨まれる、という理由でな。俺は入社から八年、一度も有給を使ってこなかったから、四十日分溜まっている。一週間ぐらいはそれを消化してこい、と命令が下された」
「え、ええと……つまり、会社に休めって言われた、ってこと?」
「そういうことだ」
「わーっ、なんだよ、いーないーなーっ、俺も学校から休めって言われてーよっ」
「伝染病等に感染すれば可能だが」
「でんせ……い、いーよいーよそんなのっ、そんなんに感染したらろくに遊べねーじゃんっ」
「遊ぶどころか、外出も禁じられるだろう。基本的には病院に強制隔離されるはずだ」
「うーっ……ていうかさぁ、ならおっさん、なんでここに来たの? 休めって言われてるだけならどこでもいいはずじゃん」
「上司に勧められたからだ」
「……へ? 上司、って?」
「俺の属する研究開発部の部長だ。『周囲になにもないし、客も少ないから、思う存分のんびりできるだろう。渓流釣りでも楽しんできたまえ』と言われて、逆らう理由も思いつかなかったのでやってきた」
「…………ふーん」
 俺はあからさまにムッ、とした顔と声で言った。自分ではいつも言ってるけど他の土地の奴らに『周囲になにもない』とか『客も少ない』とか言われるのはすっごく面白くなかったし、それに……このおっさんがそんな風にテキトーっていうか、いやいや……っていうんじゃないかもしれないけど、『逆らう理由も思いつかなかった』なんて、なんていうか……そうだ、しょうきょくてきな理由でここにやってきたんだ、と思うと、なんだかすごくムカッとしたのだ。
 だから俺は全身で不機嫌! というオーラをまき散らしたんだけど、おっさんは少しも動じずにひたすらぼーっとしている。俺をなだめようとするどころか、話しかけてきさえしない。それがまたムカついてイライラして、どかどかたすたすと岩肌を蹴ったんだけど、それでもやっぱりおっさんは少しも表情を変えなかったし動きもしなかった。
 むーっ、と俺は唇を尖らせて、ムカつきのままにおっさんの背中を叩こうと手を振りかぶり、振り下ろ――したんだけど、おっさんの背中を叩くことはできなかった。おっさんがこっちを見もせずにひょいと身をかわしたからだ。
 俺はますますむっかーっ、として、びゅんびゅん音が鳴るくらい手を振り回しまくったけど、おっさんは意外なくらい機敏な動きでひょいひょい身をかわして俺の手を触れさせもしない。しだいにこっちの方の息が上がってきてしまい、俺ははーっ、はーっと息を荒げながら上げていた腰を下ろした。
 と、おっさんが初めてこっちの方を向いた。これまで一度もなかったことに、俺はびくっとして身構える。だけど、その口から発されたのはなんていうか、すごく変な言葉だった。
「俺を叩きたいなら、渓流釣りの道具を持って帰るまで待ってくれ」
「……は?」
「それなら、食事の時間まで相手になってもいい」
「……えぇ!?」
 思ってもいなかった台詞に、俺はぽかん、と口を開けてから勇んでおっさんに質問をぶつけた。
「おっさんっ……なんで!?」
「なんで、とは?」
「なんでわざわざ俺の相手してくれんの!? これまでずーっと、俺の方まともに見もしてなかったのに!」
 言ってから、自分でも初めて気づいた。そうだ、このおっさんは俺の方を改めて見る、ということがまるでなかった。俺の方を見ることはあったけど、それは俺≠見てるんじゃなくて、誰でもその場にいたらおんなじように見るんだろうなーって感じで、えーとなんかうまく言えないけど、わざわざ俺≠フ相手になるほど俺に興味を持ってるそぶりなんて一度も見せたことがなかったんだ。
 そんな俺の質問に、一瞬わずかに(珍しいことに)目を瞬かせてから、おっさんはやっぱり淡々と答えた。
「別に、他にやることもないからな。ひたすら川べりでぼうっとしているよりはましな時間の使い方だろうと思っただけだ」
「…………」
「嫌なら、別にいい」
 言ってまた川の方に向き直ろうとするおっさんに、俺は慌ててぶんぶかぶんと首を振った。
「んなわけないじゃん! もーっ、マジで、すっげーすっげーうれしーよっ」
「…………」
 またも珍しいことに、一瞬驚いたようにこっちを見てから、おっさんはひょいと道具を持って立ち上がった。
「それなら、道具を置いてくる。ここで待っていてくれ」
「うんっ! 早く来いよっ、約束破ったりしたら絶対許さないからなっ」
「……、ああ」
 立ち去っていくおっさんに俺はぶんぶんと手を振って、たまらないわくわくにじっとしていられなくなってばたばたと手足をばたつかせながら待った。フツーに考えてみれば、ただ客のおっさんに遊んでもらえるからって俺がそこまで喜ぶ必要なんて全然ないんだけど、その時の俺はそんなこと考えもしないで、体中からあふれ出る嬉しさを放出せずにはいられなかったんだ。
 そしておっさんは約束通りすぐに戻ってきてくれて、その日は俺たちは陽が暮れるまで河原でプロレスごっこをして遊んだ。
 おっさんはあんま体力なくてすぐへばりがちだったけど、俺の知らない技とかいろいろ知ってたし、技のキレ、っつーの? そーいうのが鋭くって、けっこういい勝負になったし、なによりはぁはぁ荒い息をついていても、おっさんは絶対自分から『もうやめよう』とは言わなかったんだ。

「なーなー、おっさん。おっさんって、どんな仕事してんの?」
 次の日には、俺はおっさんにそんなことを聞いていた。東京とは全然関係ないことなんだけど、そんなこと全然意識しないで。
 もうその頃には俺の興味は、『東京から来たお客』じゃなくて『おっさん』への興味に完全に移っちゃってたんだけど、俺はそれに全然気づいてなかった。ただ心の底からどんどん湧いてくる『知りたい!』という気持ちに突き動かされて、勢いのままに訊ねる。
 おっさんは、やっぱりいつも通りに、釣り糸を垂らしている川の方を見ながら無表情で無愛想に答えた。
「主にヒト遺伝子の検査方法の研究」
「……は?」
 いつも通りに意味がわからず、ぽかんとする俺に、おっさんはいつも通りに淡々とした口調で続ける。
「つまり、人間の遺伝子がどんな風になっているか、形はどうか、異常があるか、そういうことを調べる新しい方法がないか、ということを主に研究している」
「え、えと……どういうこと?」
「人間は約二万六千個の遺伝子――身体を形作るための設計図から構成されているが、その遺伝子からもたらされる遺伝子情報は一人一人異なっている。それを調べることで、遺伝病の有無をはじめ、さまざまな体質や、病気のなりやすさなどがわかる。それを調べるための方法は現在いくつかあるが、もっと効率のいい、もっと詳しく調べられる方法がないか、ということを主に研究している」
「え、えと……つまり……おっさんって、お医者さん?」
「いや。単なる研究者だ」
「……なんか……難しそうな仕事してんだな」
「それなりには」
 しれっと言い放つおっさんを、俺はちょっとだけど尊敬のまなざしで見つめてしまった。自分のさっぱりわかんないことを当たり前みたいにわかっちゃう人は、当たり前だけどなんかすごい人みたいに思っちゃうし。
「おっさんって、もしかして、すげえ人?」
「『すげえ』の定義にもよる」
「え、えっと、つまり?」
「どんどん新しい研究方法を開発できる天才か、という意味なら答えはノー。優秀な研究者か、という意味なら、少なくとも俺自身は答えはイエスだと思っている」
 言われたことをしばらく考えて、俺はちょっと噴き出した。
「ぷふっ……それってつまり……おっさんは、自分で自分のこと、ゆーしゅーだって思ってるってこと?」
「ああ」
「なんか、すっげーえらそーだなー。自慢げっつーか」
「自慢だとは思っていない。少なくとも俺自身は、客観的な事実だと思っている」
「へ〜〜〜……」
 俺はなんだかにやにやしながらおっさんにじゃれついてしまった。なんていうか、このおっさんに初めて意外な可愛げ、みたいなもんを感じちゃったからだ。しかもおっさんが心の底からそれが正しいと思って言ってるのがわかるから、よけいになんかおかしい。
 おっさんは黙ったまま、俺にじゃれつかれてたけど、やっぱり特に反応を返さなかったんで、俺はちょっとむーっと膨れながらも新しい質問を投げつけた。
「仕事、楽しい?」
「少しも」
 そのきっぱりとした答えに、俺はちょっとぽかん、とした。
「えっと……少しも楽しくない、ってこと、だよな?」
「そうだ」
「……なら、なんでそんなことやってんの?」
 本気で疑問だった。ここらへんなら仕事っつったら漁師か店屋か、珍しいとこでも農家で、それしないとせーかつできないから仕方なくしてるわけだけど、東京だったらもっと他にいっぱい、面白くて金になる仕事があるって俺は当たり前みたいに思ってたからだ。
 けど、おっさんはやっぱりあっさり答えた。
「生活するだけの金が手に入るからだ」
「……金のため、ってこと?」
「そうだ」
「けどさ、東京だったら他にもっと、楽しくて金もいっぱい手に入る仕事とか、あんじゃないの?」
「ない」
 きっぱり言われて、俺はまたちょっとぽかん、とした。
「ない……って」
「少なくとも俺の知るどこの国、どこの都市だろうと、『楽しくて金もいっぱい手に入る仕事』などというものはない。どんな仕事だろうとそこには苦労があり、苦痛がある。特に多くの金が得られる仕事というのは必ず働き手に高いレベルの労力なり技術なり知識なりを要求する。もし『楽しくて金もいっぱい手に入る仕事』があるとしたら、それは仕事じゃない。おそらくはコネで得た閑職だ」
「かんしょ……?」
「暇な仕事。重要でない仕事。遊び半分でやっている仕事。そういった仕事で高い俸給を得ている人間というのは、基本的に不当な手段を用いてその仕事を得ているから、ほとんどの人間に軽蔑と敵意を持って迎えられる」
「……ずるしてる、ってこと?」
「そうだ」
「……じゃー、大人って、全然楽しくないじゃん……」
 それは俺には気分がずーんと沈むような言葉だった。大人になったら東京に行って、そしたら金もうかる仕事とかしてすっげー楽しく暮らせる――っていうのが俺のすっげーつまんねー毎日のせめてものキボーってやつだったのに、それを真正面からぶっ壊されちゃったって気持ちだ。
 けど、そんな俺におっさんはやっぱり淡々と言った。
「それはなにを楽しい≠ニ定義するかによる」
「……へ?」
「純粋に楽しい≠ニいうのとはまた違うだろうが、それぞれの人間にとってやりがいのある仕事というのは確かに存在する。そしてやりがいのある仕事を持った人間というのは懸命に仕事に打ち込むことが多いから、多く働いた分多くの報酬を手にしやすい。そうして得た金を使ってさまざまなものを購入したり自分の好きなことをやったりする限定的な自由さを、楽しい≠ニ呼ぶ人間は少なくない」
「え、えと……つまり、大人ってのは、やっぱ楽しい……ってこと?」
「そう考える人間もいる、ということだ」
「そーなんだー……へへ、そっかそっかー」
 俺はなんだか嬉しくなってにやにやと鼻の下を擦った。やっぱ大人って楽しいんだ! 俺絶対大人になったら東京行って楽しい仕事……ってのはないのかもしんないけど、金もうけて楽しいこといっぱいしてやろっ!
「じゃあさじゃあさ、おっさんもやっぱ、仕事してない時にはいろいろ遊んだりしてんの?」
 俺は当然『そうだ』って答えが返ってくるもんと思って笑顔でそう訊ねた。だって、おっさんは仕事が好きじゃないんだからそうじゃなきゃ楽しいことが全然ないからだ。
 けど、おっさんは眉を動かすことすらなく、すごく淡々とこう言った。
「してない」
 俺はまたぽかん、と口を開けた。
「し、してない、って……じゃあ、なにしてんの? 暇な時とか、やることない時とか……」
「仕事のための準備や勉強をしている」
「え、だ、だっておっさん、仕事全然楽しくないんだろ!?」
「ああ」
「なんでわざわざ楽しくないことのためにそんな頑張るわけ? 頑張って金いっぱいもらったって、遊ばないんじゃ全然意味ないじゃん!」
 俺のめいっぱいの疑問を表して自然にでかくなった声に、おっさんはやっぱり淡々と、あっさりと答えた。
「他にすることがないからだ」
「他に、って……東京には、遊ぶもんいっぱいあるんだろ!? 面白いもん買ったり、好きなことしたりできる場所あるんだろ!?」
「それは東京に限ったことではないだろうが、確かに娯楽・遊興施設は多いな」
「じゃーなんでそーいうとこで遊ばねーの!?」
「特にそういった遊びをしたいとは思わないからだ」
 やっぱりあっさり、するっと、淡々と答えたおっさんの言葉に、俺はぱかっと口を開けた。おっさんの言葉は、俺にとっちゃ、はっきり言って常識外の代物だったからだ。
「じゃ、じゃー……どーいう遊びだったらしたい、って思うわけ?」
「少なくとも、俺の知る範囲の遊び≠ナは、わざわざ時間を費やして行いたいと思えるものはない」
「……遊びたいって思えるものがない、ってこと?」
「そうだ」
「じゃ、じゃー……仕事だったらしたい、って思うわけ?」
「まったく思わない。実際、俺にとっては楽しくもないしやりがいもない仕事だ」
「じゃ、じゃーさ……」
 あとから考えたらけっこうひでー台詞だと思うんだけど、その時の俺はつるっと言ってしまっていた。
「おっさんって、なにが楽しくて生きてんの?」
 そのしつれーな質問に、おっさんは眉ひとつ動かさず、いつものようにあっさりと答えた。
「さあ」
「………………」
 言葉だけだったら、からかわれてるのか、って思ったかもしれない。
 でも、まがりなりにもおっさんがこっちに来てからほとんどずっと一緒にいた俺には、おっさんが本気で言ってるんだ、っていうのはわかった。おっさん、本当にわかんないんだ。
 なにが楽しくて生きてるのか。生きてて楽しい、って思うことがあるのか。
 でも、だったら俺はどうなんだろう。俺はわかってんのか? なにが楽しくて生きてんのか。生きてて楽しいって思うことがなにか。
 ……それは、俺だってわかんない。毎日毎日、いっつもつまんなくて、東京に行きたいってばっかり思ってて、やることなすこと全部いやでいやでしょうがなくて。
 でも、おっさんは東京にいるのに。大人で、仕事だってしてんのに。行こうと思えばどこにだって行けるのに。
 なのにやりたいこと≠ェなんにもないって、なんていうか、なんていうか………
「ああ……そういえば、しいて言うならひとつだけあったな」
「え……なにが?」
「やりたいこと」
「! なになにっ!?」
 俺は勢い込んでおっさんに訊ねた。別に俺が勢い込む必要なんて全然ねーとは(あとから考えてみたら)思うんだけど、その時は必死だった。なんていうか、すぐにも死にそうな人を必死に手ぇ握ってこの世につなぎとめる、みたいな気持ちで。
 けどおっさんは、いつも通りに淡々とした仏頂面で、すっげーどうでもよさそうにさらっと言った。
「少年盛り」
「………へ?」
 なにそれ。
「裸になった少年の体の上に、刺身等を盛りつけて、取っては食べ取っては食べする」
「………それ、したいの?」
「そうだな。しいて言うなら」
「なんでしたいの? そんなことして、なんか楽しいの?」
 さっぱりわからず眉を寄せて訊ねる俺に、おっさんはいつも通り、無愛想な無表情で答えた。
「楽しいかどうかはわからないが、この世の中に存在する行為の中で、内容を聞いた時『あ、ちょっとやってみたいな』と思ったのがそれだけだったんだ」
「ふぅん………?」
 やっぱりわからず俺は首を傾げる。少年って、俺らみたいな男の子供のことだよな。それ裸にして刺身を盛る? そんなことして、なにが楽しいんだろ? 刺身が汗とかで汚れるだけだと思うんだけど。ぬるくもなるし。
 俺がうんうん考えている間にも、おっさんはひたすらじーっと、なのかぼーっとなのか顔からではよくわかんないけど、川とそこに垂らされた釣り糸を見ていた。ほんと、このおっさんなに考えてんのかさっぱりわかんない。
 ――と、おっさんの方を見た俺の視線の先で、おっさんの釣り糸がぴくっ、と揺れた。
「あ……おっさん! 引いてる、引いてる!」
「え?」
 珍しく目を瞬かせて釣り糸を見てから、おっさんは固まった。ウキがぴくぴくしてるってのに、釣竿を動かそうともしない。
「ちょ、なにやってんだよおっさん! 釣竿動かして、アワセしなきゃ!」
「……アワセ、というのはどういった行為を」
「あーもーっ、ほらっ、こうっ!」
 俺は横から割り込んで、おっさんの釣竿と、意外とでかい手をつかんだ。真剣にウキを見ながら、おっさんの手の上から釣竿を動かし、うまくアワセをしようとする。
 息詰まるような数秒ののち、釣竿の先にぐっと引く手応えを感じた、と思うや俺は叫んでいた。
「おっさん! 釣竿引いて、あとリールっ!」
「っ!」
 おっさんは俺と一緒に釣竿をぐいっと思いきり引きながら、リールをぐるぐるるっと巻いた。ぎぎぎぎっと釣竿がしなり、俺たちの体の方が引かれてるんじゃないかってくらい強い力で引っ張られるけど、それでも体を後ろに倒すくらいの勢いで思いっきり引っ張る。
 夢中で力を込めた数秒ののち、引っ張る力がふっと消えた、と思ったらばっしゃあ、と水面をぶち割って、魚が飛び出してきた。二十p以上はある、でかいイワナ――それを見た瞬間、俺はぱぁっと顔を輝かせて一緒にほとんど背中側に倒れかけてしまっていたおっさんをばしばしと叩いていた。
「やった! やったじゃん! 釣れた釣れた! けっこうでかいぜ!」
「………ああ」
「ああじゃねーって、とっととクーラーボックスに入れねーと! ほらっ」
「…………ああ」
 おっさんはじっ、と岩場の上でのたうつイワナを見つめて数度深く息を吐いては吸いすると、がっしと思いきりよく胴体をつかんでクーラーボックスに突っ込んだ。それを確認して、俺は改めてにっぱーっと笑っておっさんの背中をばしばし叩いた。
「やったな! 釣れたじゃん! 釣れる時は釣れるもんなんだなーあんなテキトーに糸垂らしてるだけでも! 帰ったらかーちゃんに塩焼きにしてもらおうぜ!」
「……ああ……」
「なんだよ。塩焼き嫌い?」
「………そういうわけでは、ないが」
 おっさんはじっ、とこっちを見たかと思うと、無愛想な無表情のまま、唐突に言った。
「君のフルネームは、なんというんだ」
「へ?」
「できれば、どういう字を書くかも教えてくれると嬉しい」
「え……えぇ? えっと、森新、木が三つの森に新しいの新、だけど……」
「そうか。俺は、日比野陽二という。毎日の日、比べるの比、野原の野で日比野。太陽の陽、ひとつふたつの二で陽二」
「へー、そうなんだ……あのさ、なんで、急にそんなこと……」
 もしかして名前で呼べってことなのかな? とちょっとドキドキしながら訊ねると、おっさんはやっぱり無表情で無愛想に首を振る。
「別に。ただ、聞きたくて、言いたかっただけだ」
「………ふーん……」
 俺は、なんかよくわかんなかったけど、ちょっと面白くなくて唇を尖らせた。わざわざ名前聞いてきたのに、なんだよそのテキトーっぷり、って思ったんだ。
 もしかしたらというか、たぶんというか。この時には俺は、おっさんのこと――陽二さんのことが、かなり好きになってたんじゃないかな、と思う。

「陽二さーんっ!」
 俺は両手に持ったバケツと釣り具を鳴らしながら、いつものように川べりで糸を垂らしている陽二さんのところへ走った。陽二さんは俺を見て、ちょっと目を瞬かせてから、「ああ」と言ってまた釣り(というか糸を垂らして暇をつぶすっていうの)に戻った。
 でも俺はそんなの全然気にせず、満面の笑顔で陽二さんの隣に座った。陽二さんの体が一瞬だけどぴくりと動くのに、なんだかすごく誇らしい気分になりながら。
「な、陽二さん、見ててくれよな。俺がばかすか魚釣るとこ。だてに産まれた時からこんな田舎にいるわけじゃねぇってとこ見せてやるぜ」
「……ああ」
 帰ってくる言葉は無愛想だったけど、表情は確かに柔らかい。俺のことをそばにいていい相手だって、ちゃんと思ってくれてるのがよくわかる。
 俺は嬉しさのあまりにこにこ笑いながら、陽二さんの隣に座りこんだ。そしてこてん、と陽二さんの意外にちゃんと筋肉のついた体にもたれかかり、すりすりっと顔や体を擦りつける。
「……なにを、しているんだ」
「えー? だって、これってデートだろ? デートだったらこういうのしなくちゃダメなんだろ、俺ちゃんと知ってるもん」
 情報源はテレビとかだけど、それでも知ってるのには変わりない。そして俺の知ってることは間違ってない、って体を擦りつけてよくわかった。
 俺が体を擦りつけると陽二さん一瞬ぴくってしたし、ちょっとだけ顔が嬉しそうに(フツーの人には無愛想な無表情、ってしか見えないようなもんだけど。そーいうのに気づくってやっぱ愛だよなー、って俺はこっそりにやにやする)歪んだし。それになにより俺が嬉しくてたまんないんだもん。
 陽二さんの体の感触がわかって嬉しい。体温が伝わってきて嬉しい。体が繋がってるって実感が嬉しい。もっと、もっとと俺はもう抱きつくような感じで陽二さんに体を擦りつけまくった。
「……釣りを、するんじゃなかったのか」
「えーっ、いいじゃんちょっとくらい。あんまり何度も部屋に来るなっつったの陽二さんだろ? だったら俺、こういう風に外でひっつくしかやりようないじゃん」
「そういう問題では、ないと思うが」
「……なんだよー。陽二さん、俺にひっつかれるの、いやなのか?」
 ちょっと悲しそうな顔をして陽二さんを見上げてやる。たぶん俺の目は潤んでるだろう。演技とかだけじゃなく、陽二さんに邪魔だとか思われてるのかって想像すると、自然に目が潤んじゃうんだ。
 陽二さんは俺の方を見て、なんかすごく困った顔を(これもフツーの人は無表情としか見えないんだろうけど)してから、いつものようにぼそっと、でもきっぱりとした一言を告げた。
「嫌ではない。お前が俺にひっつきたいというなら、満足するまでひっついていればいい」
「へへーっ、陽二さんだったらそう言ってくれると思ってたぜーっ」
 俺はなんかすごく嬉しくなって、陽二さんにまたすりすりっとすりついて、さらにちょっと背伸びして陽二さんのほっぺにちゅっとキスをした。髭の感触と中年のおっさんのくさい匂いがしたけど、今の俺にはそれもすごく陽二さんって感じがしてなんか嬉しくなってしまう。
 陽二さんは俺の方をひどく困った顔で見つめるけど、突き放しはしなかったので、俺は安心してぎゅーっと陽二さんに抱きついて陽二さんの感じを体全体で味わった。毎日のように味わってる感じだけど、それでもやっぱり、痺れるくらい嬉しい。
 こんな風に陽二さんのことが大好きになったのはいつだろう。たぶん名前を聞いてからしばらくしたら、もうこんな感じだったと思う。
 だって陽二さんってすっげー優しいんだってわかっちゃったんだもん。なに考えてんのかわかりにくいし、表情にも出ないから気づかれないけど。
 俺がどんなバカなこと言っても、陽二さんは頭っからバカにしないでちゃんと話聞いてくれる。マジメに俺と向き合って、俺が納得いくまで話してくれる。すっごく物知りで、なにを聞いても答えてくれるのに、そういうとこ全然ひけらかさないで、俺が自分で考えてなんか言うのを待ってくれる。
 そんな大人見たことなかった俺は、陽二さんのことが好きで好きでしょうがなくなって、抱きついたりチューとかするようになった。本当ならそーいうのは男と女でやるんだろうってのは知ってたけど、陽二さんが『軋轢を避けるためにも人前ではしない方がいいだろうが、行為自体は間違っているわけでもなんでもないし、俺はお前にされて嫌だとも思わない』っていつものぶっきらぼうな口調でいろいろ難しい話と一緒に説明してくれたし。
 だから、俺はなんで陽二さんが好きになったのかとか、いつ頃陽二さんを好きになったのかとか、ぶっちゃけどうでもよかった。だってそれがなんでにしろいつにしろ、俺は陽二さんが好きで好きでしょうがないんだもん。
 目が合うと嬉しいし、笑ってくれると嬉しいし、こういう風にひっつける時間なんて幸せで幸せでしょうがなくなっちゃう。本当にのうみそん中、100%陽二さんでいっぱい、ってくらい。
 別にこくはくしたとかいうわけじゃないけど、陽二さんが俺の気持ち知ってるだろうってのはなんとなくわかった。あと、それがまんざらじゃないのもなんとなくわかってた。
 だから俺は思う存分陽二さんにひっついて回っていた。そんで、こうかんどとか上げてって、最後には俺のこと東京まで連れてってくんないかなーって。
 誤解されるかもしんないから言っとくけど、俺は東京に連れてってもらいたいから陽二さんにひっついてるんじゃない。そりゃ、東京ってのへの憧れとかは消えてないけど、それだけじゃなくて、どっちかっていうと『陽二さんと一緒にいたいから東京に連れていってほしい』って気持ちのが強い。
 陽二さん、ぶっちゃけ俺にひっつかれてかなり嬉しそうだし(顔とかは無表情だけど、ずーっと見てた俺ならなんとなーくわかるんだ、そーいう気持ちのキビってやつが)。このままうまく落として、東京に連れてってもらって、陽二さんとこでずーっとこんな風に一緒に暮らす、っていうのが今の俺のビジョンってやつだった。
 陽射しは厳しかったけど、川のそばにいるわけだからそんなに暑くはない。どっちかっていうと涼しいから、陽二さんに思う存分ひっつける。
 だから俺は釣りをする陽二さんに、陽二さんが立ち上がって俺んちへ戻るまで、ずーっとずーっとひっついてたんだ(釣り具とかはどっちかっていうとアリバイ作りのためだ、かーちゃんになんやかや言われたくないし)。

 夕方になると、陽二さんはいつものようになに考えてんのかわかんない無表情で(こういう時はいろいろしょうもないことを考えてるんだって俺は陽二さんに教えてもらって知っていた)立ち上がり、釣り具の類を持って宿へと向かう。
 俺はそれからちょっとだけ遅れて、別方向から家に向かった。かーちゃんにこういう風に陽二さんにべたべたひっついてるのがわかったら、絶対ぎゃんぎゃんわめくからだ(お客さんに失礼だろうとかなんとか)。そんなのいちいち聞きたくないし、そんなんで無駄に時間を使いたくない。だって、家に戻ったら戻ったでやることあるんだから。
 家に戻り、釣り具をいつものところに置き、手と足を洗ってから俺は陽二さんへの部屋へと向かった。一応勉強道具やらなにやらを準備して。
 そう、実は俺は今、陽二さんに勉強を教えてもらってるんだ。大した理由があるわけじゃなくて、単に俺が学校の勉強が難しいってグチをこぼしたら陽二さんがかーちゃんに『なんでしたら、暇な時間にでも少し勉強を教えてもかまいませんが』っつって、かーちゃんがそれに乗ったせいなんだけど。
 ともかく、せっかくの親公認で一緒にいられる時間なんだから、俺としては一秒だってムダにしたくない。俺はとっとと二階の陽二さんの部屋へ向かった。
 陽二さんはいつものように部屋でぼけっと宙を見てたけど(でもなんか考えてるのは顔の感じですぐわかる)、俺が部屋に入るといつもの落ち着いた顔で俺の座る座布団を示してくれた。
「毎日毎日、頑張るな」
「だってさぁ、陽二さんがせっかく誘ってくれたんだから、勉強だってやらないわけにはいかないじゃん」
「……わかりやすい動機の説明だ」
 言って肩をすくめ、俺をちゃぶ台の前に座らせる。そしてばん、といろいろ問題を書いたわら半紙(うちにはそういうのしかなかったから)をテーブルの上に置き、すぱっと言う。
「まずは復習からだな。昨日やったことがどれだけ頭に入ってるか、確認といこう」
「う……はーい……」
 俺としてはせっかく目の前に陽二さんがいるのに勉強なんてやってられないって気持ちもあるんだけど、陽二さんは真面目な顔で俺が問題を解くのを待っている。その気持ちをムダにするのもなんだし、なによりこういう時にじゃれついたりしたら陽二さんがマジで怒るからしょうがない。
 マジで怒るっつっても声張り上げたりとかはしないんだけど、『一度話を受けておきながらやる気を見せないということは、契約不履行と同じだぞ』とか『一人前の社会人を目指すのに、そんな不真面目な状態でなんとかなると本気で思ってるのか?』とか静かーな声で(けどすっげー迫力で)言ってくるから俺は怖さのあまり『真面目に勉強やります』と誓わざるをえなかった。
 まぁ、そういう風に仕事についてはすっげーマジメっていうか、テツガクあるところもカッコよくて好きなんだけさ。こんな風に仕事と真正面から取り組む人、俺見たことなかったし。なんていうか、すっげー大人だなー、って思うんだよな。
 渋々だけど、真面目にわら半紙に書かれた問題を解いて、おそるおそる陽二さんに差し出す。陽二さんはそれに赤ペンですらすらと丸つけをしてから、軽くうなずいた。
「昨日までにやった分は覚えているようだな」
「やったーぃ!」
 俺は思わず歓声を上げてバンザイし、陽二さんに飛びつく。陽二さんは眉を寄せて、「勉強中だぞ。離れろ」とか言ってきたんだけど、俺はかまわずに陽二さんにすりすりしながらできるだけかわいこぶってねだってみた。
「なーなー陽二さーん。俺、ごほうびほしいなー」
「ご褒美?」
「そーそー、これまでのとこちゃんと勉強してた分のー」
 こういうことちゃんと言えるように陽二さんの授業が終わったあとも一人で勉強したりしてたんだぜ? これまで勉強なんて学校でしか(それも時々居眠りしたりしながらでしか)やったことのない俺がそこまでやったんだから、ちょっとくらいごほうびもらってもいいじゃんっていうか、絶対あるべきだと思う!
 陽二さんは眉を寄せたまま(っつってもほんとにちょっとの変化だから見慣れない人はぜんぜんわかんないと思うんだけどさ)じっと俺を見て、いつものようにぼそっと言った。
「たとえば?」
 へっへっへー。よっくぞきーてくれましたっ!
「……チュー、して」
 俺がうっ、と唇を突き出して、テレビで見た女優とかみたいにセクシーポーズ(なんでこーいう風に胸突き出してるのがセクシーポーズになるのかはさっぱりわかんないんだけど)を取りながら言うと、陽二さんは眉を寄せたまま、やっぱりぼそっと返してくる。
「なぜ?」
 うっ。やっぱそーきたか。でも今回はちゃんと答え考えてあるもんね!
「だってさっ、俺、今すっげー陽二さんにチューしてほしい気分なんだもん! 陽二さんのこと、すっげー好きだから、一緒にいたらどんどんそーいう、いちゃつきたい気分になっちゃうし! そんでごほうびってのは相手がもらって一番うれしーもんをあげるべきだから、陽二さんは俺にチューしてくれるべきだと思う!」
 昨日いっしょーけんめー考えた台詞をなんとか噛まずに言い終えると、陽二さんはまだしばらく眉を寄せてたんだけど、俺がじりじりしながら待ってると、ほんの小さくだけどうなずいて、言ってくれた。
「わかった」
 ……っしゃーっ!
 俺はわくわくドキドキしながらまたうっと唇を突き出す。やっぱ昨日答え考えといてよかったーっ、陽二さんってすぐ理由とか聞くけど、その理由がちゃんとしてたら絶対言うこと聞いてくれんだよなーっ! もー、そーいうスジの通ったとことかも大好きだっ!
 陽二さんはす、と俺の首の後ろに手を回す。そしてくっ、と俺の体を引き寄せる。そんで、ほとんど俺が身構える暇もないまま。
 ちゅ、と唇に唇を触れさせてくれた。
 俺の唇んとこから、陽二さんの唇の感触が伝わってくる。温かくて、俺のと違ってあんまふにふにしてなくて、なんか固いくらいの感じするけど、でもなんか、なんていうか、すっごい嬉しい感触だ。
 俺は顔がにやけそうになるのを我慢しながら必死にチューを続ける。陽二さんは黙ったまんまずっと唇を触れさせてくれてる。陽二さんの感じ。匂い。体の温度。そういうのがぜんぶぜんぶ繋がってる唇から俺ん中に入ってきて、陽二さんで俺ん中がいっぱいになって――わー、わー、なんか、なんか、チューって生まれて初めてだけど、死ぬほどドキドキする……!
 なんか別に悲しいわけじゃないのに泣きそうになりながら必死にチューを続けていると、陽二さんはふいにすい、と唇と手を離して、俺から離れたところに座り直した。え、と俺はなんかすごく寂しい気持ちになって目を潤ませながら陽二さんを見上げたんだけど、陽二さんがなんか反応するより早くがらっと襖が開いてかーちゃんが入ってくる。
「失礼しますねぇ、お客さん。本当にすいません、お客さんにわざわざうちの子の勉強まで見てもらっちゃって……お茶お持ちしましたから、ここに置いておきますね」
「いえ。お気になさらず」
「ちょっと、新! なにぼけっとしてんだい、せっかくお客さんが勉強教えてくださってんだよ、ちゃんと真面目にやんなきゃ承知しないよ!」
「わ、わかってるよっ! 真面目にやってんのにかーちゃんが邪魔してんだろっ」
 思いっきり怒った顔でかーちゃんに怒鳴るように言う。実際怒ってたし、その上ちょっと泣きそうだった。せっかく、せっかく陽二さんとすっげーいいムードだったのに、かーちゃんのせいでだいなしじゃんかーっ!
「なんだってぇ!? 親に向かってこの子はっ」
「申し訳ありません、奥さん。お気遣いはありがたいのですが、まだ今日のノルマが終わっていないのも確かなので、できれば」
「あら! いやだ、すいません。それじゃ失礼しますね、うちの子のこと、よろしくお願いします」
 陽二さんにぼそぼそと言われ、かーちゃんはさっさと退散する。俺はかーちゃんをこんなに簡単にあしらう陽二さんすっげーとか、陽二さんも早く俺と二人っきりになりたいとか思ってくれてんだーとかの気持ちでわーってなりながら陽二さんを見つめたんだけど、陽二さんはいつも通りの無表情で(つまり、さっきの俺とのチューのなごりとか全然ない普段の顔で)ぼそっと言った。
「それでは、今日の分を始めるか」
「え……えー! もうごほうび終わりっ!?」
「ああ」
「なんでーっ」
「勉強というものは基本的に自分のためにするものだ。自分で必要だと思わないのにいやいややってもなんの意味もない。まだ自分で勉強を必要だと思えない段階でのモチベーションを上げるのには有効だと判断したのでお前の提案に乗ったが、あまり長い間やってもありがたみが薄れて効果が半減する。なので、基本的には一日の勉強ごとに一分程度の割合にしておくのがベストだと判断した」
「え……えーっ! そ、そんだけーっ!?」
「ああ」
 ううう、と俺は唸ったけど、陽二さんは平然とした顔で今日の分のプリントとか出してきてる。こういう風に、仕事モードっていうか、これをやる、って決めた時の陽二さんは俺がどんなにだだをこねても暴れても絶対びくともしてくんない。それどころかじーっと俺のこと見て、マジで怒った時みたいにすっげー迫力で説教してくるってわかってるから俺は諦めて出されてきたプリントに向かった。
 なのに陽二さんはそんな俺のケナゲな心なんて知りもしませんって顔で、今日解かされる問題の説明とかする前に、相変わらずの無表情で言ってくる。
「それから、余裕ができたのならこれからは明日やるところの予習もしておくように」
「えーっ!?」
「基本的に勉強というものは自力での予習、授業、復習を一セットとして考えるものだ。新が勉強というものに慣れていないことを考えてこれまでは強いることはしなかったが、ここまでやる気が出てきた以上、今のうちにその習慣を体に身につかせておいた方がいい。一回のご褒美はその一セットごとに与えることにする」
「ううううぅぅー……」
 俺はすんげー嫌だったんだけど、陽二さんが一度言ったことを変えるような人じゃないのは身に沁みてわかってるし、なにより陽二さんがそれが本当にベストだって思って言ってんだろうっていうのはわかったから(そんでそーいうのを『これもお前のためなんだから』みたいに恩着せがましい言い方しないのが陽二さんなんだけどさ。そーいうとこも好きだし)、渋々「わかった……」と言ってうなずいた。
 陽二さんはよし、とうなずいて、自作の教える用のプリント(俺の持ってる教科書とかは無駄や間違いが多いからって、わざわざ教えることを書いたプリントとか用意してくれてんだ)を出して、説明を始めた。俺は気合を入れてそれを聞く。だってちゃんと聞かないと陽二さんのごほうびもらえないんだし。
 俺はもう、自分の夏休みだっていつまでも続くわけじゃないって知ってたくせに、こんな生活がこれからもずっとずっと続くんだって、当たり前みたいに勘違いしてたんだ。

「え」
 いつもの川べり、いつものように朝から一緒に釣りをしようと陽二さんの隣に座るやぼそりと放たれた言葉に、俺は一瞬ぽかんとして、それから目をかっ開いて詰め寄った。
「陽二さんっ! なんだよっ、なんだよそれっ!」
「なんだよ、というのは?」
「マジで言ってんの!? ほんとの、ほんとに、本気で言ってんの!?」
 俺が切れそうになってんのを気にもしてませんって顔で、陽二さんはあっさりうなずく。
「ああ。俺は明日、東京へ戻る」
「…………!!!」
 俺はそれこそガクゼンとして、ぎっと陽二さんを睨み、思いっきりのどを嗄らして怒鳴った。
「なんで!?」
「なんで、とは?」
「なんで東京なんか行っちゃうんだよっ、俺置いていくのかよっ! 俺、俺一人置いて、こんなとこに置いて、そんな……」
「俺がここに来ていたのはそもそもが有給の消化のためだ。それが終われば東京に戻るのは当然のことだ。お前を置いていくと言うが、そもそもお前に両親がいる以上、俺がお前を東京に連れていく必要性はまったくない」
「…………!」
 いつもの無表情で、しれっとした顔で、俺の方をいつものこんなの当たり前だって顔で見てそんなこと言う陽二さんに、俺はかーっと頭に血が昇り、むしゃぶりつきながら叫んでいた。
「なんでだよっ! なんでそんなこと、言うんだよっ!」
「それが事実だからな」
「陽二さん、俺のこと、好きじゃないのかよっ! 俺とチューしたじゃんっ、俺にひっついてもいいっつったじゃんっ! なのに、なんでっ」
「俺がお前のことをどう思っているかと、お前の人生に関連性が生まれる必然性はまるでない。俺はお前といくつかの行為を共に行ったが、その重要性と就学年齢にある児童が両親と共に暮らす重要性を比較した場合、『両親と共に暮らす』ことの方が圧倒的に重い。その両親がお前に虐待などを強いているならともかく、俺から見るとお前のお母上はごくごく一般的な水準にあると判断した。よって、俺がお前をここから連れ出す必要性は皆無だ、と俺は考える」
「…………!!!」
 俺はもうわけがわからなくなって、「うあぁぁ!」とか叫びながら陽二さんに飛びかかった。陽二さんは俺の体を受け止め、ひたすら暴れる俺の拳や蹴りをなんにも言わずに体に受けている。きっと痛いだろうって思ったけど、それより背中から頭にかけてがかんかん熱くって止まらなかった。
「陽二さんのバカ! アホ! おたんちんのこんこんちき! すっとこどっこいの玉なし野郎っ!」
「…………」
「なんでだよっ、なんで、そんな、なんでっ」
 俺は自分でもなにを言っているかわからないくらい、ひたすらに怒鳴って、叫んで、暴れたけど、陽二さんはびくともしなかった。ただ、俺にぶたれたり蹴られたりしながらも、いつもの無表情でじっとこちらを見てるだけだった。
 だから、嫌でもわかっちゃうんだ。俺がどんなに暴れて、叫んで、駄々をこねたって、陽二さんは絶対、俺の言うこと聞いてくれないって。
 俺を、ほんとのほんとに、ここに置いていくつもりなんだって。
「っ……ぁ、ぁ、あ」
「…………」
「ぅあぅっ……ああぁっ、陽二さんの、ばかやろーっ!」
 俺は思いっきり陽二さんの金玉のある辺りを蹴り上げて、だっとその場から走り去った。目からはだあだあ涙がこぼれてて、鼻水まで出てて、口からはわぁわぁ泣き声が漏れてたけど、気にする余裕なんてなかった。
 陽二さん、いなくなっちゃうんだ。俺のところから。もう会えないんだ。俺のこと、もういらないんだ。もうどうでもいいんだ。
 ……もうちょっと成長してから思い返してみたら、そんな言い草すっげー勝手っていうか(だって陽二さんは最初っから別に俺のことがほしいともなんとも言ってないわけだし)、思い込み強すぎだろって思ったんだけど、その時の俺はそんなこと考えもしなかった。ただもうひたすら、陽二さんのばか、ばか、ばかって叫んで、わめいて、罵って――陽二さんがいなくなっちゃうのやだって気持ちしか考えられなかったんだ。

「………はぁ」
 山の中を、ひたすら、えんえんとうろつく。ほとんど生まれた時から歩いてる山だから、適当に歩いてもちゃんと家まで戻ってこれる自信はあるし、ちょっとくらい暗くなっても別に大丈夫――なんだけど、もちろんそんな遅くまで歩いてたらかーちゃんにどやされるに決まってる。
 でも、俺はうろつくのをやめることができなかった。うろつきながら、はぁ、はぁ、と何度も何度もため息をつく。――だって。
 帰ったら、帰って一晩経ったら、陽二さんはもう、東京に帰っちゃうんだ。
 東京。ずっとずっと憧れてた場所。でも今はもうそんなものなくなっちまえばいいのにって気分だった。そしたら、陽二さん、俺のとこにずっといてくれるかもしれないのに。俺と一緒に、釣りしたりチューしたりべたべたしたり、そーいうのずっとやってくれるかもしれないのに。
 ……やっぱ、無理かな。陽二さんって、すっごい人だし。こんなしょぼい街とかにおさまってるわけない。絶対、外に出てって、すっげー難しい仕事とかびしばしして……そんで、帰ってこないんだ。
 ずーん、と俺はますます暗くなった。なんかもうこの世にキボーとかそういうのが全部なくなっちゃったみたいな気分だった――けど、ふいに、はっと気づいた。
 そういえば、陽二さんって、仕事が全然面白くないとか言ってなかったっけ。
 そうだ、思い出した。まだ俺と会ってそんなに経ってない頃言ってた。仕事、全然楽しくないって。東京には遊びがいっぱいあるけど、その中のどれもやりたいって思ったことないって。この世に、面白いって思ったものが、なんにもないって。
 そんなの、なんかやだって俺は思ったけど、陽二さんはいつもとおんなじように、へーぜんとした顔して言ったんだ。この世に楽しいと思えることがなんにもないって、そんな、すごく……なんていうか、寂しい、ことを。
 じゃあ、俺のことは?
 木々の枝の隙間からのぞく、もう赤っぽい色に染まり始めた空を見上げて考えて、俺は泣きそうになる。陽二さんにしてみたら、俺につきまとわれるのも、おんなじだったんだろうか。嫌じゃないけど、楽しくも面白くもない、他のいろんなことと同じように、どうでもいいことのひとつだったんだろうか。
 う、と思わず喉の奥が鳴る――でも、俺はがぶっと握り拳を噛んで、必死に泣くのを堪えた。
 ダメだ、泣いたって。泣いて、騒いで、陽二さんに嫌がられるの、嫌だ。陽二さんは、俺がちょっと泣いたくらいで態度変えるような、ぬるい人じゃないんだから。
 俺は、陽二さんと、離れるの、嫌だ。でも、どんなに嫌でも、陽二さんは東京に戻っちゃうんだ。陽二さんはそういう人なんだから。一度決めたことは絶対最後まで押し通す人なんだから。
 だから、俺にできることって、いったら。せめて、泣かないで、騒がないで、うるさがられないようにするくらい――
 あ!
 そこまで考えて、俺ははっと気がついた。そうだ、あるじゃんか! 陽二さんがただひとつ、やりたいって思ったって言ってたこと! 俺が陽二さんにしてあげられること!
 そうだ、まだ俺には、できることがあるんだ!
 そう思えることがものすごく嬉しくて、腹の底から湧き上がってくる気持ちのままに俺はだっと駆け出した。急いで家へ戻って、かーちゃんに言わなきゃならないんだ。

「かーちゃんっ!」
 俺が台所に飛び込んでくると、かーちゃんは顔をしかめて大声で怒鳴った。
「足も洗わないで台所にくるんじゃないの! だいたいあんた、今日の勉強はどうしたんだい! 日比野さん、ずっと待ってらっしゃったんだよっ! ったく、本当に最後の日だってのにお客さんに迷惑おかけしてこの子はっ」
「んなことよりっ! 俺の話聞いてよっ」
「んなこととはなんだいんなこととはっ! あんたはいっつもいっつも怠けることしか考えないで、そんなんじゃろくな大人に」
「陽二さんにお礼したいんだよっ! 俺だけができることでっ」
 怒鳴ってくるかーちゃんに負けない声で怒鳴り返すと、かーちゃんはちょっと驚いたような顔をした。
「日々野さんに? ……ってこら、お客さんを名前で呼ぶんじゃないの! 生まれた頃から民宿の子やってるくせにそんなこともわかんないのかいっ」
「んなことどーでもいいだろっ!? いろいろ、ほんとに、してくれた人に、お礼したいんだよ。しちゃいけないってのかよっ」
 そうだ、陽二さんは本当に、俺にいろんなことをしてくれた。勉強教えるのいろいろ頑張ってくれたってのもそうだけど、いろんなこと教えてくれたし、俺がつきまとってもなんにも言わなかったし……なにより、俺の話を、いつも、なんにも説教しないで聞いてくれた。
 そんな人、俺、会ったことなかったのに。そんな人がいるなんて思ったこともなかったのに。俺のこと無視しないで、馬鹿にもしないで、ちゃんと最後まで聞いてくれたんだ。
 だから、お礼しなきゃ。してくれた分ちょっとでも返して……そんで。
 ちょっとでも、俺のこと、ほんとに好きだなって、まんざらじゃないってだけじゃなくてほんとのほんとに好きだなって思ってくれたら、すごく、すごく嬉しい。
 そんな俺のケツイのこもった目に、かーちゃんはちょっと戸惑ったようだったけど、ふんと鼻を鳴らしてうなずいた。
「まったく、人様にお礼しようってのにそんな風にふんぞり返ってどうするんだい。ちゃんとお礼しようってんならそれなりの態度ってのがあるだろうに」
「う、わ、わかってるよっ。だから、お礼の時はちゃんとするってばっ」
「どうだか。……それで、どんなお礼をしようってんだい?」
 いつもとおんなじ説教くさい態度にはムカついたけど、一応これはかーちゃんなりに許可を出してくれたんだってのは俺にだってわかる。なので俺はほっとして、心の底からの笑顔で告げた。
「少年盛り!」
「……………………は?」
 かーちゃんがぽかん、とした顔になった。あ、さてはかーちゃんもこれ知らねーんだ、やっぱかーちゃんはもの知らずだなー、と俺はちょっと物知りになったみたいな気分で偉そうに説明してやった。
「少年盛りってのは、俺みたいな男の子供が裸になった上に刺身を盛りつけて、取っては食べ取っては食べすることだよっ! ったく、かーちゃんはじょーしきってのを知らねーよなっ」
「……なに言ってんだい、あんたは。そんなことやられたって、日比野さんが喜ぶわけ」
「はぁ? そっちの方こそなに言ってんだよ、これは陽二さんが教えてくれたんだぜ? 唯一やりたいって思ったことだって」
 俺が胸を反り返らせて教えてやると、急に、かーちゃんの顔から表情が消えた。そして、(かーちゃんはちょうど晩ごはんの準備をしてたとこだったんだけど)包丁を持ったまんまだだだっと台所を飛び出して、二階へと駆け上っていく。
「え? ちょ、かーちゃん、なにやってんだよっ!」
 慌ててそれを追ったけど、俺が追いつくより早くかーちゃんはものすごい速さで階段を駆け上がり、ぴしゃーん! という音を立てて陽二さんの部屋のふすまを開け放ち、低い声で言っていた。
「お客さん。ちょっと、お聞かせ願いたいんですけどね」
 一瞬俺はびくっとする。かーちゃんのそんな声それまで聞いたことなかったけど、なんか、よくわかんないけど、かーちゃんがすごく怒ってるみたいに思えたからだ。
「なんでしょうか」
 対する陽二さんはいつもとおんなじ、落ち着いた、っていうかなんにも気持ちが入ってないみたいな声だ。だけどかーちゃんはそれにかまわず、低い声で続ける。
「うちの子が、お客さんに聞いたって言うんですよ。お客さんが、少年盛り……だかなんだか、男の子にいやらしい真似をするのが唯一やりたいと思ったことだ、とかなんとか。もちろんそんな馬鹿な話ありえないとは思いますけど、うちの子があんまり自信ありげに言うもんですから、ちょっと確かめておかなきゃ、って思いましてねぇ」
 低い、だけど底になんかすごく煮えたぎった気持ちがとぐろを巻いてる、みたいなかーちゃんの声に、陽二さんはいつもの調子で、さらっと返した。
「お子さんの言ったことは間違っていません。その当時、俺が唯一やりたいと思ったことが少年盛りだというのは確かですし、俺はそのことをお子さんに伝えもしましたから」
「………っなにしれっとした顔して気色悪いこと抜かしてやがんだいこのど変態っ!」
 だだっ、とかーちゃんが陽二さんの部屋の中に飛び込む。俺が慌ててそれを追うと、かーちゃんは(顔はいつもの無表情だったけど)逃げ回る陽二さんを追いながら包丁を振り回して怒鳴っていた。
「この変態! いやらしいっ、なに考えてるんだいこの変質者っ! うちの子のことも変な目で見てたんだろう、こんなところまで子供を漁りに来たのかい色気違いがっ!」
「ちょ、かーちゃんっ、なにやってんだよっ! やめろよ、おちつけってば!」
 俺が慌てて止めに入って、ようやくかーちゃんは足を止めたけど、相変わらず目は据わったままだった。陽二さんの荷物をどかっと蹴り倒し、包丁を突き付けて大声で怒鳴る。
「出ておいき! 二度とうちの敷居またぐんじゃないよっ」
「な……!」
 俺が仰天したのにもかまわず、陽二さんはいつもみたいに、淡々とうなずいて身支度をし、荷物を取り上げた。
「お世話になりました」
「二度と来るんじゃないよっ、今度顔見せたらただじゃおかないからねっ」
「ちょ……! なに言ってんだよっ、かーちゃんも陽二さんもっ! お客さん相手に失礼なことするなって、かーちゃんいつも言って」
「こんな変態がお客なもんかいっ! 新っ、早くこっちにおいでっ、その変態に近寄るんじゃないよっ」
「な……なに言ってんだよぉっ!」
 俺がかーちゃんに食ってかかるよりも早く、陽二さんはさっさと階段を下りて、がらりと玄関の戸を開け外へと出ていく。俺は焦って陽二さんの後姿とかーちゃんを数瞬見比べたけど、もちろんすぐに陽二さんを追って階段を駆け下りた。
「新っ! なにやってんだいっ、どこへ行く気だいっ」
「陽二さん追っかけるに決まってんだろっ」
「馬鹿なこと言うんじゃないよっ! あんな変質者追っかけてなにを」
「陽二さんは変態でも変質者でもねぇもんっ! かーちゃんの馬鹿野郎っ、ボケ、タコ、死んじまえっ!」
 怒鳴り捨てて、俺は急いでスニーカーをつっかけて、陽二さんを追った。遠ざかる陽二さんの背中に向かい、必死に走る。
 陽二さんの足の進みはかなり早かったけど、でも山道歩くのも走るのも俺のがずっと慣れてる。俺はすぐに陽二さんに追いついて、叫んだ。
「陽二さんっ! 待ってよっ」
 でも、陽二さんは少しも足を止めない。それどころか、俺のかけた言葉に返事すらしてくれない。俺はすごいショックを受けたけど、それでもこのまま引っ込んでたらダメだって思って陽二さんの袖を思いきりつかんで叫んだ。
「陽二さんっ、待ってってばっ!」
 さすがに陽二さんは足を止めたけど、俺の方を見てはくれなかった。進む方に顔を向けたまんま、ぼそぼそっと言う。
「お母上が呼び止めてらっしゃったぞ。早く帰った方がいいと思うが」
「っ……なに言ってんだよっ! んなのどーでもいいじゃんっ、それよか陽二さん」
「どうでもいい、と思うのか」
 そう言った陽二さんの声は、俺が今まで聞いたどんな声より冷たくて、俺はかちんって固まった。怖くて、体が冷えて、体も心も動けなくなっちゃって。
「自分を保護し、養い、面倒を見てくれている相手が感情を乱し、心の底から心配してお前を呼び止めたことを、どうでもいいと、無視できることだと思うのか。そんなことが言えるだけのことをお前はやっているのか」
「っ………だってっ………かーちゃん、あんな……あんなひでぇこと言ったしっ……」
「自分の息子が世間一般の常識から外れないように育てようと考えるのはごく一般的な思考だ。その通りに育てることだけが正しいかどうかはおいておくとして、お前をこれまで扶養家族として面倒を見てくれた相手の、その心配する感情を、お前は無視していいと、本当に思っているのか」
「っ………!」
 こっちを向いた陽二さんの視線は本当に厳しくて、冷たくて、陽二さんが本気で怒ってる……っていうか、俺の言ったことがものすごく間違ってるって思ってるんだってわかった。そう考えたらすぐにでもごめんなさいって頭下げたくなっちゃったけど、俺は必死に泣くのを堪えて首を振る。
「いいもんっ! 俺、もうあんな家戻んねーんだからっ」
「……新」
 陽二さんが低い声で言うのにまたびくっとしちゃったけど、それでも俺は必死に首を振る。この気持ちは間違ってないって、少なくとも俺にとってはぜんぜん間違ってないって心の底から思えたんだもん。
「俺、あんな家もう戻んねーもんっ! あんな奴、親じゃねーもんっ」
「新」
 ものすっごく厳しい声で、その声の響きだけでも俺はやっぱりびくっとしちゃったけど、俺は何度も首を振った。他の誰に言われようと自分が間違っていないと思えることはやり通せるに越したことはないって、陽二さん本人が言ったんだから。
「あんな、あんな風に、好きな人のことあんな風に言う奴なんて、親じゃねーもんっ! 親だなんて……思えねーもんっ……」
 陽二さんの視線の厳しさに耐えきれなくなって、俺はぼろぼろっと涙をこぼした。自分は間違ってない、絶対絶対間違ってないってそう自分に言い聞かせて必死に胸張ったけど、それでもやっぱり陽二さん怒ってるみたいなの怖いし、もう住むとこねーとか怖いし、あと、なんか、いろいろ、いろいろで、泣きたくないけど涙が出てきちゃったんだ。
「……新」
「俺、間違ってねーもんっ! あんな家、もう、ほんとのほんとに、絶対、戻らなっ……」
「新。………泣くな」
「う、ぐ。ひっ、ぐっ」
 泣くなって言われて俺は必死に涙を堪えようとしたけど、それでも涙は止まらない。ぐしぐしって拳で涙を拭ったけど、それでもあとからあとから出てきちゃう。ちくしょう、なんでなんだよ、こんなんじゃ陽二さんに、ほんとのほんとに嫌われちゃう、って必死に堪えようとしても腹から喉にかけてのあたりが勝手にひっくひっくって鳴っちゃう。
 そんな情けない俺を陽二さんはじーっと見てから、ふ、と小さく息をついてぼそっと言った。
「わかった。折衷案を取ろう」
「へ? せっちゅ……?」
「この辺りに交番の類はあるか? 駐在所とか、警官が常駐している場所だ」
「へ? あ、あるけど……そこにいんの、なんかもうじーちゃんってくらい年食ってるおっさんだぜ? そんなとこ行って、なにすんの?」
「公平な立場から見張り番をしてもらう」
「は……?」
「とにかく、急ぐぞ。お母上がお前を探して山にでも分け入って、怪我でもしたら厄介なことになる」
「…………」
 俺はこんな時にかーちゃんのことなんて、ってむっとしたけど、とりあえず陽二さんが一緒に来てくれるんだから、って先に立って駐在所への道をたどった。もう山はどんどん暗くなってきて、大げさなこと言ったらそれこそ目の前も見れないような感じだったけど、この山だったらそんくらいでも家とか、駐在所とかそういう大事なとこに行くことくらいはできる。十分くらい歩いて、俺たちは会議所の近くの駐在所にたどり着いた。
「なー、おっちゃん」
「おお!? お前、森さんとこの坊主じゃないか! こんな暗くなってから外歩いちゃいかん、灯りも持ってないみたいじゃないか!」
「そんなことはどーでもいーんだよ! えっと……その……なんてーかさー……」
「失礼。私は成田遺伝構造学研究所という研究機関の検査研究部門に勤めている日比野陽二という者ですが」
「へ? あ、ああ、こりゃどうも」
 いきなり名刺を差し出されて、警官のおっちゃんはわたわたと慌てながら受け取った。この辺りじゃ初対面だからって名刺差し出してくるような奴普通いないから、なんか偉い相手みたいな気がしてビビったんだろう。ま、陽二さんはみたい≠カゃなくてホントに偉いんだけどさ。
 そんなおっちゃんに、陽二さんはあくまでいつも通りの冷静で落ち着いたカッコいい感じで話しかけた。
「実は、この新くんが、お母上と喧嘩をしまして。民宿を辞した私の後を追いかけてきてしまったのです。お母上はさぞご心配なされていることでしょうし、ご連絡差し上げたいのですが」
「あ、ああ、はいはい! そりゃさっさと連絡しないといけませんなぁ」
「それなのですが……実は、新くんが絶対に家に帰らない、と言い張っていまして」
「なんですと! おいっ、坊主っ、お前なぁにを言って……」
「そこで、冷静な第三者のいる場所でなんとか説得をし、自分自身の意志で家に戻るようにさせたいと思いまして。ご迷惑かとは思うのですが、できればお力をお貸し願えないでしょうか」
「へっ? い、いや、あの、はい、こ、こんな場所でよろしければ、どうぞお遣いになってくださいっ!」
「ありがとうございます」
 軽く頭を下げて、陽二さんはすたすたと駐在所に入っていって、奥の座敷に座ってじっと俺を見る。俺は、気が進まなかったけど、のろのろと陽二さんの前に座った。いちおう、正座で。……なんか、そうしないと、悪いような雰囲気だったから。
 陽二さんは黙って俺を見ている。俺はその顔をちゃんと見返せなくて(だって、陽二さんが怒ってるの見るの、怖いし)、もぞもぞと身をよじらせながらうつむいたりする。そこにさっきまで電話してた駐在のおっちゃんが入ってきて、なんか上ずった声で「ま、どうぞお茶でも」とかなんとか言いながら陽二さんと俺の前、両方にお茶(ほかほか湯気が立ってた。夏なのに)の入った湯呑みを置く――や、陽二さんが口を開いた。
「新。まず最初に聞いておく」
「………な、に」
「お前は、俺のことが好きなのか」
「………はぁ!?」
 俺は思わず声を張り上げてしまった。なに言ってんだよ、いまさらこの人!?
「当たり前だろ!? 気づいてなかったのかよっ、っていうか何度もやったじゃんっ、チューとかぎゅーとか、いろいろっ」
「……ああ、わかっている。だがきちんと聞いたわけではないからな、まずここは確かめておくべきだろうと思った」
「だからって!」
「……無神経なことを聞いて、悪かった」
 ほとんど立ち上がりかかっていた俺は、頭を下げて告げられた陽二さんのその言葉に、ぴたっと止まって、のろのろと座り直した。陽二さんが謝るなんて、少なくとも俺に謝るなんて初めてだったからだ。陽二さんはたぶん、ほんとのほんとに自分が悪いと思ったから、謝ったんだろう、って。
 座り直した俺に、陽二さんはさらに聞いてきた。
「これも確認しておきたいんだが。お前は、お母上に、なにか激昂……ひどく怒らせるようなことを言ったのか」
「へ? 言ってねーよ! ただ、陽二さんにこれまでのお礼がしたいから、少年盛りやってくれないかって頼んだだけで」
「その際に説明は?」
「へ?」
「なぜそんなことを頼むか、ということの説明は行ったのか?」
「え、うん。……陽二さんが、ただひとつ、やってみたいことだって言ってた、って」
「そうか」
 小さくうなずいてから、陽二さんはじっと俺を見つめながら(なんか陽二さんにそんなにじっと見つめられるの初めてだから、尻のあたりがもぞもぞした)、やっぱり淡々とした声で続ける。
「それで、お前は、なぜお母上がああも怒られたか、わかっているか」
「んなの、わっかんないよ。わかりたくもねーし……」
「そうか。では、俺が教えておこう」
「え」
「俺はお前に何度か言わなかったか。軋轢を避けるためにも、人前で男性同士があまりに親密な様子を見せるのは避けた方がいい、と」
「え?」
 俺は思わずきょとんとした声を出す。そんな話、したっけ?
 眉を寄せて思い出そうとして、あ、と目を見開く。そういえば、チューとかした時に、似たようなことを言ってたような。
「け、けど、さっきは別にそんなところを見せたわけじゃなかったし……」
「そうだな。では、なぜ俺が人前で男性同士が親密な様子を見せるのを避けるように言ったか、わかるか」
「えぇ……っと」
 俺がよくわかんないなりにうんうん考えている様子を陽二さんはしばらく見守ってたけど、俺が答えを出せそうにないと思ったのか、肩をすくめて言った。
「同性愛者だと周囲に認識されるからだ」
「は?」
「……ホモだと思われるからだ、と言ったらわかるか。変態性欲の持ち主、自分たちとは違うバケモノだ、と」
「……はぁっ!!? なんだよそれっ、俺らはそんなホモとかじゃなくて……」
「では、さっきお前が言っていた俺が好きだ、というのはどういう意味だ?」
「え」
「お前はさっき言ったな。俺が好きなのか、と聞かれて当たり前だ、と。その俺に対する好意は、父親に対するような親愛の情か。それとも友達に対するような友情か。それとも世界でただ一人愛する人に対する愛情の類か」
「そんなのっ……」
 勢い込んで言いかけて、はっとする。陽二さんがなにを言いたいのか、わかっちゃったからだ。
「男が男に愛情を抱くことを、世の多くの人間はホモと呼び、変態とさげすむ。その是非はともかく、その現実をお前は理解しているか」
「っ……け、けどっ……」
「さらに言うなら、お前はまだ未成年で、俺は成人した男性だ」
「へ……? それが、どうか……」
「世の中には未成年を保護するための法律というものがある。具体的に言えば、この県では十八歳未満の青少年と淫行……いやらしいことをした人間には罰が与えられるし、そもそも刑法上も十四歳未満の人間といやらしいことをした人間は問答無用で強制わいせつだ。つまり、それだけお前のような未成年は性的に保護されるべきだと考えられている」
「け、けどっ、俺らそんなやらしいこととか別にしてねーじゃんっ」
「少年盛りというのは、一般常識で言うならば相当にいやらしいこと≠セ」
「んなっ……!」
 納得いかなくて俺は立ち上がりかけたんだけど、陽二さんはやっぱり冷静に淡々と説明する。
「少年の裸を見たいと思うような人間はたとえ犯罪を犯していなくても犯罪者予備軍として扱われるし、少年の裸の上に刺身を乗せるという発想自体が世間の多くの人間からしてみれば唾棄すべき……軽蔑されて当然の変態行為だ。そういうことをしたいと思った時点で、俺は世間の一般常識からすれば変態の犯罪者、ということになる」
「でもっ……!」
「でも?」
「陽二さんは、変態とかそういうんじゃねーじゃんっ! 俺のやなこととか、全然しなかったし、いっつもぶっきらぼうだったけどちゃんと俺の相手してくれたしっ」
「……俺も、自分が間違ったこと≠しているとは思っていない」
「ならっ!」
「だが、たとえ法律を犯していなくとも、相手の嫌がることをしていなくとも、世間の一般常識というものからすればそういった欲望を抱く俺のような存在は排斥すべき……そばにいてほしくない奴だ、ということになる。俺がなにをどう考えているか、ということとは関係なく。そしてお前のお母上はそういった一般常識に乗っ取った行動をした。それはだいたいの場合において、敵を作らない方法でもある」
「え……て、敵って」
「このような地方の村社会では特にそうだと思うが、一般常識≠ゥら外れる考え方をする人間というものは、それだけで敵視され、排斥される。日本は特に、そういった考え方をすることで仲間同士の結束を強めてきた国だからな。そんな状況で、子供に一般常識≠ゥら外れてほしくない、外れたものを近づけたくないと思うのは、親として、母としてごく当たり前の考え方だ。――わかるか」
「……わかる、けどっ……!」
 俺はなんかもう泣きたいくらい頭がかーってなってきたけど、必死にぶんぶん頭を振りながら陽二さんに主張した。
「だけどさっ! いっぱんじょーしき≠チてのと違うのはわかったけどっ! 陽二さん、それ悪いことだって思ってないんだろっ? 間違ってないって思ってるんだろっ?」
「……ああ」
「だったらっ! 俺が陽二さんにそれしてあげたいって思うのって、間違ってんのかよっ! 話聞いてくれたりとか、真剣にいろいろ教えてくれたりとかした人に、ちょっとでもお礼したいって、なんかお返ししたいって思うの、変なのかよっ!」
「………新」
「俺、かーちゃんとか、せけんいっぱんとか、そーいうので陽二さんのこと好きになったんじゃねーもんっ! 陽二さんが、陽二さんだから、陽二さんのこと好きってなったから好きになったんだもんっ! だから、陽二さんに、ちょっとでも、もういなくなっちゃう人に、ちょっとでも、なんか、できたらって、そんで、俺のこと、ちょっとでもいい風に、覚えてて、くれたらってっ……」
「……新………」
 俺はもうたまんなくなって、目ん玉からぼろぼろ涙をこぼしちゃってた。目も顔も頭ん中も燃えそうなくらい熱くって、止めようがないくらいだあだあ泣いちゃってた。ひっくひっくって情けない泣き声出しながら、何度も何度も目を擦るけど、それでもあとからあとから涙が出てくる。やだやだこんなのみっともねーって思っても、それでもちっとも止まってくんなかった。
 陽二さんが何度も静かに名前を呼んでくれてるのはわかるけど、それに応える余裕なんてなかった。俺の、陽二さんのこと好きって気持ちとか、陽二さんのことぎゅーってしたいとか、されたいとか、チューしたいとかされたいとか、可愛がられたいとか優しくしてほしいとか、なんかしてあげたいとか、そういうの全部陽二さんには邪魔なのかって、そんなわけないっていう声が消されちゃうぐらいどんどん強く思えてきちゃって、もう頭ん中ぐらんぐらんで、どうしていいかわかんなくって――
 うっくうっくと泣いてたら、ふいにぽこん、と頭を叩かれた。
「なーにを泣いとるか、情けない」
「………っ、おっちゃんにはかんけーねーだろっ!」
 いつの間に部屋に入ってきたのか(それともずっとこの部屋にいたのか)、駐在のおっちゃんが俺の頭を叩いたんだ、と気づいて、俺はなんかみじめな気分で怒鳴った。んだけど、駐在のおっちゃんは、なんかこれまで見たことないマジっぽい顔で俺の方をぎろりと睨む。
「ああ、確かに関係はねぇ。けど、だからこそわかること、言えることっちゅうんもあるぞ」
「は………?」
「坊主。お前、こちらの旦那がどんな気持ちでお前に説教しとるかわかっとるのか?」
「え………」
「…………」
 ちょっと困ったみたいに眉をひそめる陽二さんにかまわず、駐在のおっちゃんはちょっと興奮気味に説教してくる。
「こちらの旦那は、お前さんのことを思って、自分の心を押し殺してお前さんと別れようっつぅてるんじゃろうが」
「………いや」
「………自分の心、って?」
「そりゃあ、お前さんのことを可愛ぇ、好きじゃ、っちゅう気持ちじゃろうが。男がそういうもんを押し殺して、耐えて、指一本触れずに別れようっちゅうんはなぁ、お前さんにゃあまだわからんじゃろうが、並大抵のこっちゃねぇぞ」
「えっ!?」
 俺は思わず勢いよく陽二さんの方へ振り向いてしまった。陽二さんは、やっぱり困ったように眉をひそめてはいるけど、そうじゃないって言わない。もし違うんだったら陽二さんは絶対すぐ違うって言うはずだから、それってつまり――
「ほ……んとの、ほんと、に?」
「あったりまえじゃろうが、そんなもんこの人のお前見る目ぇ見りゃすぐにわかるわい」
「けっ、けどっ! 俺に、かーちゃんのとこ戻れみたいなことばっか言うしっ」
「じゃから、自分の気持ち押し殺して、歯ぁ食いしばって我慢して言うちょるんじゃろうが。そっちの方がお前さんのためじゃろう、と考えて」
「え………」
 思わずぽかんと陽二さんを見るけど、陽二さんは困った顔はしたけどおっちゃんの言葉を否定はしなかった。……陽二さんが否定しないってことは、つまり、ほんとの、ほんとだ、ってことで。
「陽二さん……そう、なの?」
「…………」
「俺のこと、ほんとは、いるの? ほしいとか、ちょっとでも、思ってくれてんの?」
 陽二さんは深々と息をついたけど、すぐにしっかり、はっきりとうなずいて、言った。
「お前にご両親がいらっしゃらなかったとしたら、すぐにでも引き取って先々まで面倒を見たい、というぐらいにはお前のことを好ましいと思っている」
「っ……陽二さっ……」
 わーっと湧き上がってきた嬉しい気持ちのまんま、陽二さんに抱きつこうとする――のを、陽二さんは素早く掌を突き出して止めた。
「だが、お前をご両親と引き離す気は全くないし、さらに言うならお前とこれ以上関わり続けよう、という気もまったくない」
「っっっっ………なんでっ!」
 俺はまた泣きたくなって怒鳴った。だって、そんなのおかしーだろ!? 陽二さん、俺のこと好きなんだろ!? それなのになんで!?
「ひとつには、もうすでに言ったことではあるが、俺のその好ましい気持ちと、お前が俺を求める気持ちを合わせても――俺とお前の間の結ばれた感情の行き交いを考慮に――考えに入れたとしても、就学児童がご両親と一緒にいることの重要性の方が大きいと考えているからだ」
「なんでっ! 俺んち、とーちゃんは漁師でほとんど家に帰ってこねーし、かーちゃんだって別になんかしてくれるわけでも」
「そう、思うのか」
 前に見たのと同じ、厳しい視線が向けられ、俺はびくっと震えた。
「民宿の仕事をこなしながら、食事を作り掃除をし、お前が生きていける環境を作ってくれる相手に対して、なにかしてくれるわけでもないと、本気で思えるのか。むろん自分自身のためでもあるだろうが、家族を養うために、ほとんど家に帰れないほど忙しく働いている相手に対して、自分と関係のない人間だと、そう主張できるのか?」
「っ………」
 それは。そりゃ、かーちゃんも、とーちゃんも、俺にはいろいろしてくれてるかもしんないけど。だけど、俺は、ただ。ほんとの、ほんとに。
「もうひとつには、お前から選択肢を奪うのは間違っている、と思うからだ」
「え……へ? せんたくし……って?」
「お前はまだ幼い。少なくとも、自分の考えを明確に、言葉にしてわかりやすく相手に伝える、という能力はまだ持つことができていない」
「っっ……そ、そりゃ俺は、そーいうの、下手かもしんないけど、別に、ガキとか、そーいうんじゃ……」
「言葉によるコミュニケーション能力は社会生活を送る上で必須……絶対に必要になる能力だ。さらに言えば、自分のやったことの責任を取るために必要な能力でもある。言葉で相手にわかるように伝えることができなければ、相手は自分がなにを考えているかわからない。そんな状況では、相手はこちらの責任を追及することができない。自分で自分のやったことや言ったことの責任を取ることができない人間を、俺は年齢を問わず大人だとは認めない」
「そ、れは、そうだけどっ……」
「そして、俺は子供はまだ選択肢……自分がどのように生きるかをはっきり決めることなく、さまざまな価値観と触れ合うべきだと俺は考える。就学期間……学校に行かなければならない期間があるのは、本来そのためなわけだしな。この世界にはどんな生き方があり、その中で自分はどんな風に生きたいのか、どんな生き方を選ぶのか、そのメリットやデメリットをきちんと考えに入れて、誰にどんなことを言われてもこれが自分なりの生き方なのだと胸を張れるだけの自信が持てるような経験を積んでおかなくてはならない。お前が俺への好意に人生を懸けることは、その選択肢を奪う行為に他ならない。……わかるか」
「え……と、俺が、他にどういう生き方があるのかとか知らないのに、陽二さんについてくのは、人としてしちゃダメ……ってこと?」
「大雑把にいえば、そういうことだな」
「け、ど……だけどっ」
「またひとつには、俺たちがこれ以上この相手を好ましいという感情を持ったまま互いの人生に関わるのは、互いの人生にこの上ない醜聞の種を蒔くことになるからだ」
「へ……しゅうぶ……?」
「醜聞。スキャンダル。ゴシップ。悪意のある噂話。東京であろうと、ここであろうと、成人男性と就学児童が互いに……いわば恋愛感情を持ちながら関わることは、さっきも言ったが法律で禁じられているし、世間からは攻撃される」
「それはっ」
「たとえ俺たち自身が自分のやっていることを間違っていないと考えていようと、世間というものは当事者――俺たちの感情を斟酌――いちいち考えたりはしない。それぞれ勝手に俺たちの関係を想像して、不特定多数――俺たちときちんと向き合うわけじゃない分、手前勝手に気軽な悪意を持って攻撃してくる。それは俺たちのみならず、その周囲に対してもだ」
「しゅ、周囲……って?」
「俺や、お前の両親や、兄弟、親族関係だ。たまたま近くに住んでいたとか、同じクラスだとかいうだけの相手にも波及する――巻き込まれる可能性はある。俺たちと血が繋がっているせいで、たまたま近くにいたせいで、迷惑をこうむり、俺たちに憎悪を抱く人間も出てくるだろう。それらすべてを受け止めるだけの覚悟が、お前にはあるのか?」
「……っけど……だけどぉっ……!!」
 俺は泣きそうになりながらも、きっと陽二さんを見つめる。必死に泣くのを堪えてたから、睨むような感じになっちゃったけど、今はそんなの気にしてられる余裕なかった。
 陽二さんの言うことは、きっと全部正しいんだろうけど。反論とか、俺の頭じゃ絶対ムリなんだろうけど。俺がなんて言っても、みんなガキのわがままにしかなんないんだろうけど。
 でも、痛いんだ。死ぬほど胸が痛いんだ。本当はいらないものなのかもしんないけど、あっちゃいけないものなのかもしんないけど、痛い痛いって陽二さんの言葉にめいっぱい気持ちが言い返すんだよ。
 本当はいらないなら、必要ないなら、なんでこんなにはっきり感じられるんだよ。なんでこんなに死ぬほど痛いんだよ。なんでこんなに、消しちゃいたくないって思うんだよ。
 陽二さんのこと好きだって。世界中に叫んだってぜんぜんかまわないって。ちょっとでもいいからそばにいたいって。俺のこと、ちょっとでもいいから好きだって思って、できれば、忘れないで、ほしいって。
「………新。泣くな」
「泣くほかに……いったい、なにしろ、ってんだよっ……」
「……そうだな。悪かった」
 そう言いながらも、陽二さんは、俺に少しも近づこうとしてくれない。俺になにかしようとしてくれない。そうだ、ずっとそうだった。陽二さんは、俺がなにかするのを、受け容れてはくれたけど、応えようとは絶対にしてくんなかったんだ。
「……陽二、さん」
「なんだ」
 俺が涙をぼろぼろこぼして、鼻をぐすぐす言わせながら口を開くと、陽二さんはいつも通りに、淡々とした口調で答える。それがすっげー悔しくて悲しかったけど、必死に陽二さんの顔を見て言った。
「陽二、さんはさ。俺に、チューしたいとか、ぎゅってしたいとか、そういうの、思って、くれてたの」
「……そうだな。生まれてこの方、誰かにそんなことをしたいとは思ったことがなかったが」
「っ………」
「お前には、思った。そばにいたいとも、いてほしいとも思ったし、はっきり愛を口に出して確かめ合いたい、とも思ったな」
「……なら、なんで……これまで、なんも、しなかったの」
「さっき言ったのと同じ理由だ。お前とそういった関係を結ぶことは、少なくともお前にとっては+よりも−の方がはるかに大きいと思ったからだ」
「っ……っ……」
 俺はうつむいた。涙と鼻水の混じったしょっぱい液が、ぼたぼたと畳の上に落ちる。
 そうだ、陽二さんはそういう人だ。どんな時もそういう人だ。絶対に、なにが起きても、筋の通らないことはやらない。
 そういう人だから、好きになったんだって思う、けど。けど。
「っ……う、ぅ、ぅう―――っ………」
「………………」
 それでも、俺は、俺の時だけは、筋を曲げてほしかった。
 顔をおおってひたすら泣きじゃくる。わがままで、身勝手で、それこそ筋の通らない言い分なんだけど、それが俺の、ほんとの気持ちだった。
 ちょっとでも、俺が陽二さんに、今まで感じたことのない気持ちを与えられてたのならなおさらに。陽二さんに筋を曲げさせられるくらい、すごい、特別な、超一番の存在になりたかった。
 だけど、俺には、それは、できなかったんだ。
 だから俺は、ひたすらに、何度も何度も、声が嗄れてまともに泣くこともできなくなるまで、泣いた。

「………んぅ?」
「起きたか」
「へ……どわっ!」
 俺は驚いて跳び退ろうとしたけど、下半身を押さえられてるのでひっくり返りそうになり、慌てて目の前の背中――陽二さんの背中にしがみつく。陽二さんの背中は、これまで何度も抱きついたりくっついたりしてきたけど、やっぱりおっきくて、あったかい――じゃなくて!
 なんで俺、いきなり陽二さんにおんぶされてんだよ!? さっきまで陽二さんに別れ話……っつっても別に俺陽二さんとつきあってたわけじゃないけど……されてたんじゃなかったか!?
 だけど目の前の陽二さんはいつも通りの平然とした顔で俺をおぶっている。俺のおなかと陽二さんの背中がくっついてる。うわぁうわぁってなんか心臓がやたらばくばくしちゃったけど、それでもやっぱり気になっておそるおそる聞いた。
「陽二さん……あのさ、なんで、俺、おんぶ……」
「お前のお母上に頼まれた」
「は!?」
 仰天して顔を上げる。と、その時になってようやく俺らのちょっと先をかーちゃんが懐中電灯持って歩いてるのに気がついた。え、な、なんで? どーして?
「……なんで、かーちゃん、怒ってたくせに……」
「お前が泣き疲れて眠ってしまってから、お母上がひどく顔をしかめながら駐在所に現れて、俺にお前を民宿まで運ぶように言われた。俺としても断る理由はなかったので受け容れた。それ以上の詳しい事情はわからん」
「そ、そーなんだ……」
 いつもながらそっけねーなー、とがっかりする気持ちともうちょっとでも陽二さんと一緒にいられるんだ、と嬉しいような痛いような気持ちが俺の中でぐるぐるする。なんか、たまんなくなって目の前の陽二さんの背中にうりうりうりっ、って顔を思いきり擦りつけた。
 でも、陽二さんはなんにも言わなかった。それが、なんか、なんて言えばいいのかわかんないけど、すごくお別れって感じがしてまた泣きそうになる。
 だけど、かーちゃんが目の前にいるので、必死に泣くのは堪えた。……ほんとに、なんで、かーちゃん、わざわざ陽二さんに運ばせたんだろう。
 その疑問に答えないまま、かーちゃんは家まで陽二さんを連れてきた。がらがら、と裏口の戸を開けて、応接間――っていうか、民宿の客じゃないお客を通すためのとこだけど、そこに陽二さんを(背負ってる俺も一緒に)通す。
 それからぎろりと俺を見て、背中から降りるようにうながしてくる。俺はちょっと迷ったけど、陽二さんもそうしろ、とでも言いたげにとんとんと俺の足を叩いてくるので、しぶしぶ陽二さんの背中から降りて、かーちゃんの隣に座る(陽二さんの隣に座ろうとしたらすげー目で睨まれて、陽二さんも首を振ってきたんで、しかたなく)。
 かーちゃんは陽二さんをぎっと、殺気をこめて見つめる。陽二さんはいつもの淡々とした顔で見つめ返す。俺はひやひやしながらそんな二人を見つめる。そのまま数十秒間、誰も口を開かない。
 それから、かーちゃんが、怒りまくってる、と全身で表してる顔で、陽二さんを睨みながら喋り出した。
「日比野さん。あんた、うちの子に手を出したわけじゃないってのは、本当なんだろうね」
「はい」
 陽二さんはかーちゃんの問いにきっぱり答える。手を出す、ってどーいう意味だろ? って俺はちょっと考えたんだけど、それより先にかーちゃんが言葉を続けた。
「うちの子を傷物にしたわけじゃないんだね」
「はい」
「……裸を見るとか、写真を撮るとか、そういういやらしいこともやってないんだろうね?」
「はい」
 ここでかーちゃんははーっ、と息を吐いた。それからまたぎっと陽二さんを睨んで、厳しい口調で話し出す。
「あんたは、うちの子をどういう風に思ってるんだい」
「え……!」
「とても好ましいと、思っています」
 かーちゃんなんでそんなこと急に聞くんだよーっ、と俺が抗議する間もなく、かーちゃんと陽二さんの話はどんどん進む。どっちもすげー真剣な顔で……陽二さんの顔は、ちょっと見ただけじゃやっぱりいつもみたいな静かな顔なんだけど。
「とても好ましいだけじゃわからないだろうが。どういう風に好ましいと思ってるんだい」
「……人生で初めて、愛しいと思った相手です」
 え! い、い、いとしいって、俺? 俺のこと? ほ、ほんと? ほんとに?
「いやらしい気持ちだけでそう言ってるんじゃないのかい。男なんてもんは木の股見たってそんな風に思う奴らだからね」
「そういった気持ちが皆無だとはとても言えません。しかし……俺にとって、彼は……新くんは、これまで生きてきて、誰もわざわざ積極的に関わってこようとする人がいなかった俺の人生に、太陽のように眩しい笑顔とともに飛び込んできて、いろいろなことを教えてくれた……驚きも、喜びも、誰かと一緒になにかを行うことができる幸福も、生きる幸せのすべてを教えてくれた恩人です。俺がなによりも惹かれるのはその魂です。もし得ることができるのだとしたら、体だけではとうてい、物足りません」
 え……ええぇえ……!? ま、マジで、ほんとに……!? 俺のこと、そんな、そこまで……うわうわうわ、どーしよぉっ、陽二さんの顔いっつもとおんなじなに考えてんのかわかんない顔だし、声もすっげーそっけないけど……めちゃくちゃ……めちゃくちゃ、うれしーよぉ……!
 そんな風に泣きそうになってる俺の横で、かーちゃんはチッと舌打ちして、さらに続ける。
「でもあんたらみたいな変態は、相手が年くったらぽいと捨てちまうんだろう。あんたらにとっちゃいくらでもいる相手の一人でしかないんだろうが」
「失礼ですが。俺はそうではない、とこれまで何度も示してきたと思いますが」
「それが嘘じゃないって証拠がどこにあるんだい」
「心を目の前に証拠として抉り出すことはできません。だから、俺は誓うしかない。――俺は、あなたの息子さんのことを愛しています。少なくとも、一生、お互いが皺くちゃの年寄りになっても、共に在りたいと思うだろうくらいには」
「………………」
 かーちゃんは(なんかすごいこと言われて、真っ赤になってドキドキしてる俺の横で)、はぁーっ、と深く息をつき、しゅっ、と懐から包丁を抜いて陽二さんに突きつけた。俺はひぇっ、とビビっちゃったけど、陽二さんは少しもうろたえる様子もない。そんな陽二さんに、かーちゃんは低い、不機嫌そうな声で言った。
「もしよそ見なんてしたら、あたしは本気であんたの節操のないもんを切り落とすよ。それでも?」
「はい。嘘をついたつもりは、ありませんから」
 そう陽二さんに言われ、かーちゃんはまたチッ、とすごい音で舌打ちをして、包丁をつきつけたまま俺の方を向いた。
「このおっさんはこう言ってるけど、あんたはどうなんだい」
「ど、どうって……そんなの……めちゃくちゃ嬉しいに、決まってんじゃん……!」
 かーちゃんの前で泣くのが嫌で、ぐっと目の辺りに力を入れて涙を堪えながら正直に言うと、かーちゃんははぁぁ、とまた深く息をついた。それからぎっと睨みつけるような顔になって、俺に聞いてくる。
「なら、あんたは、この先一生この人と一緒でいい、っていうんだね」
「い……一緒になれるんなら、そりゃ、絶対、なりたいけど……」
「一緒に生きるっていうのはきれいごとじゃない。相手のいいところだけじゃなく、嫌なところも厄介ごとも一緒に引き受けて生きることになる。あんた、それが本当にわかってるのかい」
「そんなのわかってる! ……ほんとのほんとにわかってるかは、よく、わかんないけど。陽二さんだったら、嫌なとこあっても、厄介なこととかあっても、一緒にいれるなら、嫌でも頑張れるって思う」
 ……なんでかーちゃん、こんなこと聞くんだろ。かーちゃん、陽二さん殺しかけてたくせに――なんて必死に答えながら考えていた俺は、かーちゃんが続いて放った言葉に仰天した。
「日比野さん。ふつつかな息子ですけど、どうか、幾久しくよろしくお願いいたします」
 わざわざきちんと正座に座り直して、深々と頭を下げ、そんなことを言うかーちゃんに、俺はぽかんとしてしまったんだけど、陽二さんは少しも驚いた顔とかしないで、こっちも(陽二さんは元からきちんと正座してたんだけど)同じように深々と頭を下げて、返事する。
「こちらこそ、どうか幾久しくよろしくお願いいたします」
「え……え、え、ええぇぇ!?」
「ほらっ、新っ! こういう時なんだから、あんたもきっちり頭下げな!」
「え、だ、あの、だって……なんで!?」
 なんでいきなり『よろしくお願いします』ってことになってるのかとか(フツーあれって結婚の時とかに言うことだよな?)、陽二さんがなんで全然動じてないのかとか、いろいろ言いたいことはあったんだけど、かーちゃんは顔をしかめて、がっしと俺の頭を押さえてぎぎぎぎぎと無理やり下げさせた。目をひたすら白黒させるしかない俺をよそに、話はどんどん進んでいく。
「で。成人か、少なくとも十八まではこちらで育てるということで、よござんすね」
「はい」
「夫が帰った時はお知らせしますんで、その時にはまた改めてこちらにおいでくださいますか。まぁ、情けない夫ですけど、それでもこの子にとっちゃ父親ですから、きっちり話通しておきたいんで」
「はい」
「それじゃ、新と一緒にお部屋へいらっしゃってください。お夕食お運びしますんで」
「いや、それは……」
「……曲がりなりにも婚約した間柄なんですから、怪我でもさせなきゃなにも言いやしませんよ。そこの辺りの加減は日比野さんにお任せします」
 それじゃ、と言い捨てて応接間を出て行くかーちゃんに、俺は思わずぽかんと口を開けてしまっていた。
 婚約? 婚約っつった、かーちゃん? それって……え? それって、そんな、いきなり、どういう……
 わけがわからず呆然としている俺に、陽二さんがすっと手を差し出した。いつも通りの、そっけない顔と声で――でも、すごく優しい目の色で。
「部屋へ、行こうか」
「………………っ」
 俺はわけがわからないなりに、なんかすごく恥ずかしくなってきて、顔がゆだるくらい真っ赤になっちゃったんだけど、それでもやっぱり陽二さんに応えたいって気持ちはあったので、小さく小さくだけれども、「うん」と応えて、そっと陽二さんの手を握ったのだった。
 ……もしかしたら、陽二さんと手ぇ繋ぐのってこれが初めてかも、と思ったらまたかぁっと体中がゆだりそうなくらい熱くなってきちゃったんだけど。

「聞かれていたようだ」
「へ?」
「俺とお前が、駐在所で話していたことのあらかたを」
「……ええぇぇ!?」
 部屋に入り、向かい合うや告げられた言葉に仰天して、ぱくぱくと口を動かす俺に向かい、陽二さんはしれっとした顔を変えずにてきぱき説明する。
「どうやら駐在警官の方が電話をかけた時から、すでに大急ぎで駐在所に向かっていたらしい。警官の方が俺たちをしっかり監視しようと思わずにはいられないくらいには取り乱していらしたそうだ――これは警官の方から聞いたんだがな。俺たちが話している途中に駐在所にたどり着いて、外から話を聞いていたようだ」
「ええぇぇぇえぇぇ……」
 俺はなんか、ものすっごく恥ずかしくなってきてぐたぁと畳に上半身を倒してぐりゅぐりゅと擦りつけた。わーもうわーもう、なんていうか、全部本気で言ったことなんだけど、本気だからそーいうところを親に見られるとかめっちゃ恥ずかしい……。
「お前が泣き疲れて眠ってしまってからすぐ、お母上は駐在所に現れて、お前をこの家に運ぶように言われた。それ以上のことは詳しくうかがっていないので、なぜお気持ちを変えられたのかはわからないが、明らかに俺をここから追い出された時とは雰囲気が違っていたな」
「ううぅぅ……」
「なにを考えられているのか、正直量りかねていたが……親御さんに、きちんと婚約のお許しをいただけるとは、思いもしなかった」
「こっ……!」
 俺は畳に頭を擦りつけた格好のまま、ぴっきーんと固まる。こ、ここ、こここここ婚約って婚約って。さっきかーちゃんも言ってたけど……け、ケッコンの約束、ってことだよな。
 そ、それを、俺と、陽二さんがした、ってことは。陽二さんと、俺が、将来、け、っこん、するって、ことに。
「……男、同士なのに……結婚とか、でき、んの」
「俺もそのあたりは詳しくないが。たぶん現在の日本の法律では同性婚を認めていなかったと思う。だが事実婚というやり方もあるし、養子縁組をすることで本来結婚できない相手同士が事実婚の証立てをする、というやり方は昔からあったと聞いている」
「え、えと……ほんとはできないけど、それっぽい感じになるのはあり、って感じ?」
「概括すれば。――そうだな、改めて聞いておかなければならなかったな」
 陽二さんはきちんと正座し直して、俺と真正面から向かい合って、すっげー真剣な、あ、もちろん普段と表情自体はそんな変わってるわけじゃないんだけど、真剣だって感じられる雰囲気で、俺に言ってきた。
「俺は、お前と、養子縁組という形であろうとも、きちんと籍を入れて、結婚という形を作りたいと思っている。お前はどう思っている?」
「――――!!」
 俺は、そのすっげーストレートな言葉に、数瞬かっちーんと固まった。
「だっ……て、陽二さん、俺のこと、東京に、連れてかない、って」
「ああ、もちろんお前がきちんと成人し、自分で自分の人生に責任を取れるだけの大人になってからの話だ。それまではあくまで婚約、という状態になる。お前が他に相手を見つけたり、俺と結婚したくないと思ったならばいつでも解消してくれてかまわない。――少なくとも俺の方は、解消する気にすらならない自信があるがな」
「け、けど、陽二さん、しゅーぶんになるとか、いっぱんじょーしきとか、そういうの、いろいろ……」
「ああ、俺は今でも俺たちがこの関係を結ぶことの−は極めて大きいと思っている。お前にも、俺にも、これ以上ないほどの醜聞の種になるし、知られれば世間からは徹底的に攻撃されるだろう。だが……お前のお母上の、言われた言葉を考えると、な」
「え……かーちゃんの?」
「ああ。手塩にかけて育てた息子を男の嫁に出す、というのはさぞ、苦しく、辛い選択だっただろう。それでもあえて、あそこまで言ってくれたのは……それをすべて覚悟して、お前の気持ちを大切にしよう、と考えられたということだ。それには、相応の覚悟でもって応じるべきだ、とな」
「…………」
「それに、なにより……俺は、こういった、人と人が感情を通わせる、ということは、まずなによりもお互いの気持ちが重要だと考えている。誰かのためでなく、自分のために、相手を好ましいと思う自分の気持ちのために、相手と交際するのだと」
「え……? うん、そりゃ、そうだと思うけど……」
「俺とお前がこれ以上交際することの−の大きさについての、俺の考えは変わらないが。お互い想いあっており、ご両親のご理解があるならば、交際を続けていくことはできるのではと……」
 そこまで言って、陽二さんはふ、と小さく息を吐き、首を振った。すんげー珍しいことに、ちょっと苛立ったっていうか、困ったっていうかな顔で。
「いや。そんなことをどれだけ言っても、結局はごまかしにしかならないな」
「え……」
「俺は、お前がほしかった。心も、体も、魂も、全部俺のものだと錯覚を抱きたいと……独占したいという欲望を受け止めあえる関係を築きたいと思っていた」
「え、え……どういうこと……?」
「……お前がほしかったから、目の前におまえを手に入れられる機会を突き出されて、我を忘れた」
「……え」
「軽蔑してもかまわんぞ。むしろそれが当然だと思う。俺は、ご両親にお許しをもらったという、そんな機会を利用してでも、お前を手に入れたいと思った」
 すっげー真面目な顔で、陽二さんは言う。自分のやったことを、思いっきり責める、っていうか間違ってるって……しゅちょう? してる感じの顔だ。いつもの陽二さんと同じ、すっげー真面目で、真剣な、筋の通った人の顔だ。
 そんな人が、俺の時だけ、我を忘れたって言う。利用したって。ずるしたって。筋の通らないことしたって。本当だったらしちゃいけないこと、俺を手に入れるためにしたんだって――
 俺は腹の底からうっわーっ、と嬉しい気持ちが湧き上がってきて、がばっと陽二さんに飛びついた。陽二さんは少し驚いて、よろめいたけれども、俺の体をちゃんと受け止めてくれる。
「……新」
「いーよっ」
「……なに?」
「俺にはずるしてもいーよ。俺には卑怯でも、筋が通んなくても、しちゃいけないことしてもいいよ」
「なにを……」
「そのかわり。そーいうことすんのは、ぜったいぜったい、俺だけにしろよな」
 陽二さんの膝の上で、陽二さんを見上げてにやにやって笑って(だってすっげーすっげー嬉しかったんだもん)そう言うと、陽二さんはちょっと戸惑ったみたいだったけど、数度深呼吸をしてから、うなずいた。
「わかった。お前以外には、断じて筋の通らないことはしない。間違ったことも、卑怯なことも、利用することもしない。誓って」
「うんっ!」
「……それで、いいか?」
「うん………!」
 俺は嬉しくて嬉しくて、もうめちゃくちゃだらしない笑顔になりながらひたすらに陽二さんの胸に顔を擦りつけた。うわぁもう、好き好き好き好き好き好き好き好き、大好き。陽二さん、陽二さん、陽二さん。
「陽二さん……もうぜったい、一生、ずーっと俺のだからな」
「………ああ」
 たまんない気持ちを抑えきれなくて、ぎゅーって陽二さんを抱きしめると、陽二さんもそっと抱き返してきてくれた。その腕の感触がたまんなく気持ちよくて、もっともっと陽二さんがほしくって、唇めがけてうーって首を伸ばす――
 というところで、ぴしゃーん、と襖が開いてかーちゃんが入ってきた。
「げっ! なんでこんな時に入ってくるんだよーっ!」
「うるさいね、これでもちゃんと様子を見計らって入ってきたんだよ! ほらっ、あんたの分もあるんだからね、とっとと並べるの手伝う!」
「……へーい」
 くそー、せっかくすっげーすっげーいい感じだったのにー、とか思いながらも俺はしぶしぶ並べるのを手伝う。今日は刺身だった。たぶん港まで行って魚を買ってきたんだろう。
「食器は明日の朝になったら取りに来ますからねっ、はいじゃあごゆっくり!」
「あ、そうだ、かーちゃん!」
「なんだいっ」
「かーちゃん、なんでいきなり、俺らのこと許してくれたの?」
 普段はすっげーものわかりのよくないかーちゃんが、いきなり俺らのこと許してくれるっていうのが不思議で、ちょっと気になってたから聞いたんだけど、かーちゃんはすっげー渋い顔してぼそっと答えた。
「あたしらも駆け落ちして夫婦になったからね。あんたの気持ちはわかんないでもなかったんだよ」
「え」
 それだけ言って俺が反応する前に部屋を出て行ってしまう。俺は思わずぽかーんとその後ろ姿を見送ってしまった。カケオチ? かーちゃんととーちゃんが? ええー、マジで? そんなの全然聞いたことない……。
 でも、気持ちがわかるってことは。かーちゃんも、とーちゃんと一緒になるのを反対されて、泣いたことがある、ってことだろうか。
 好きで好きでたまんないのに、周りとか、せけんとか、そういうののせいで一緒になれないのが、辛くて辛くてたまんなかったことがあったんだろうか。
 なんか想像できなくて、それに死ぬほどこそばゆくて、体をもぞもぞさせていると、陽二さんがいつもの冷静な声で言ってきた。
「せっかくお前の分も運んでくれたんだ、一緒にいただくとしよう」
「あ、うん」
 俺はうなずいて俺の分のお膳が並べられた方に座る。並べられているのは、飯に、味噌汁、木の芽の酢味噌和えに、あとは全部刺身――と軽くお膳を眺め回して、はっと気がついた。
「そうだっ! 陽二さん、せっかくだからさ、少年盛りやらねぇ!?」
「………なに?」
「だからさ、俺の上に刺身並べるの! そーいうのが少年盛りなんだろ? 陽二さんやってみたかったんだっつってたよな!」
「……それは。確かに………言ったが」
 陽二さんの眉間に皺が寄る。困ってる……というか、たぶんこれ、どう反応していいかわかんないって顔だ。
「な? だったらやろーぜっ! せっかく刺身がこんなにあるんだからっ」
「………いや。俺は、確かにやってみたいと思ったとは言ったが、お前とそういうことをしたいと、言ったわけでは」
「え……俺じゃ、不満、なのかよ……」
「いや、そういうことではなく。今の俺にとっては、その行為自体が重要なのではなく、お前と共に在ることがなによりも楽しいのだから、なにもわざわざそんなことをする必要はないと」
「でも、俺に会う前に、たったひとつやってみたいって思ったのがそれだったんだろ?」
「………それは。確かに……そう、ではあるが」
「だったらやろうぜ。……なんていうか、さ。こんなに、いろいろタイミング揃ったんだから……婚約のギシキ、っていうか、さ」
「儀式……とは」
「俺はさ、なんていうか、陽二さんがしたいって思うことだったらなんでもさせてあげたいわけ。でも陽二さん、あんまりあれしてこれしてとか言わないじゃん? 俺と一緒にいて、いろいろやって、そういうのまんざらじゃないよなーっていうのはわかるんだけど」
「……ああ」
「だからさ。今日、ちゃんと、一生おつきあいするっていうか、ケッコンの約束……婚約、したじゃん? これまでとは違うんだぞーってことちゃんと……自覚? みたいの、俺らがどっちもできるように、陽二さんがしたいって思ったことさせたげるのって、ギシキって感じするし……それと、あと、俺以外の男のガキ見ても少年盛りしたいって思わないくらい、俺にメロメロになってほしーしさぁ……」
 う、あ、改めて言うのちょっと恥ずいけど、でも言わなきゃなんない大事なことだし、言ってあげたいことだ。俺が顔を赤くしながらも言うと、陽二さんの眉間の皺がびしびしっ、って増えた。でも不機嫌になってる感じはしないから、たぶんこれ、本当にどうしようって思ってるんだろう。
 よし、もうひと押し、と気合を入れて、すすすっと陽二さんに近づいて、ひょいっと膝の上に乗って抱きついた。動きを止めた陽二さんを、下から見上げて真剣な顔で言う。
「してよ。陽二さん、俺に」
 陽二さんは眉間にすんげー皺を寄せたまましばらく固まってたんだけど、ちょっと待ってると、は、と小さく息をついて、うなずいた。
「わかった」
「やりっ!」
 俺は嬉しくなってガッツポーズしたんだけど、陽二さんは相変わらず眉間に皺を寄せたまま、「ただし、嫌になったらすぐに言うように」なんて言ってくるから、俺はむーっとふくれた。
「言わねーよ、そんなことー。陽二さん、俺のことシンヨーしてねーのかよ」
「お前がそういう気持ちを抱いてくれていることは理解しているが、実際にやってみると嫌だった、という可能性もある」
「んなわけねーじゃん! もー、人のことバカにすんなよな!」
 そうだ、だって単に裸になって上に刺身乗せられて食べられるくらい、嫌もなにもねーじゃん。

 って、俺は、ほんとにそう、思ってたんだけど。
「…………っ」
 俺はつい、もぞもぞっ、と体を動かした。それからあ、やべっ、と思って必死に体に力を入れる。陽二さんはなんにも言わないけど、やっぱり載せる台が動いてるともの乗せにくいと思うし。
 なんだけど……そう思うんだけど……なんか、なんか、体が動いちゃう。だって、なんか……なんか。
「………………」
 陽二さんが、じっと俺を見つめながら、箸でそっと刺身を乗せていく。ちゃぶ台の上か畳の上かどっちがいいのか聞いて、陽二さんはちゃぶ台の上に心惹かれてるっぽかったんで俺はちゃぶ台の上に寝転がって(うちのちゃぶ台でかいから俺くらいならなんとか乗る)るんだけど。当然、素っ裸になって。
 なんか……なんだろう、なんなんだろう、これ。陽二さんが俺を見る目が、なんか、こう……普段と違う、っていうか。裸くらい別に見られても平気だって思ったのに、なんか、妙に、むずむずドキドキもぞもぞする、っていうか。じっとしてるとそのむずむずが爆発しちゃいそうで、なんか……
「嫌になったら言えよ」
「! 嫌なんじゃないってっ!」
 そうだ、嫌だってわけじゃない。なんか……恥ずかしい? のもあるけど、それだけじゃなくて……なんか、胸とか、腰の奥とかが……
「っひ!」
 俺の胸の、乳首の上に新しい刺身が乗せられて、俺は思わずびくんと体を震わせた。震わせてからいやいや動いちゃダメだろ! とまた体に力を入れるんだけど、なんか、それがどんどん難しくなってく。陽二さんは、胸から腹へ、体の下の方へ刺身を乗せてってるんだけど、それが……なんか、すごく、むずむずするっていうか……ぞくぞくするっていうか……。
 ただ体に刺身を乗せてるだけなのに。ただ裸を見られてるだけなのに。なんだかどんどん体が熱くなっていく。体に刺身が触れるたびに、ぞくんぞくんって腰の奥がしびれる。別に変なことされてるわけでもないのに、刺身の触れたところが、なんかすごく、熱くって、疼いて――
「ひゃ……っぁ!」
 俺はまだ体を震わせて叫んでしまった。陽二さんが、刺身を、俺のチンコの上に乗せたからだ。そりゃ、少年盛りってのは体に刺身を乗せるもんなんだから、そこに乗せたっておかしくない……? のかもしんないけど、フツーに考えて汚いし、それに……その、なんか……そこ、なんか……よくわかんないけどなんか……す、すげー変な感じする……! ただ刺身乗せられてるだけなのに……!
 やめて、って叫ぼうかと思ったけど、陽二さんはじっと、静かで真剣な目で俺の体を見つめながら刺身を乗せていっている。それを邪魔するのも悪いと思ったし、やってくれっつったの自分だし、それになにより……俺が嫌だとかやめてとか言ったら、陽二さんはたぶん、ホントにやめちゃう。どんなジョーキョーでも。どんなにしたいかとか、自分の気持ちは関係なしに。
 そんなのやだ。冗談じゃない。それに、この少年盛りって……なんか、こう、むずむずするっていうか……とにかくなんかよくわかんないけど、こんなこと陽二さんが俺以外の奴とやるとかやだ! 絶対やだ、したらダメ、すっごいダメだ!
 だから、俺はぎゅうっと唇を噛んで目を閉じながら堪えた。ぜったい、陽二さんに、最後まで少年盛りしてもらうんだもん……!
「………完成、だ」
 陽二さんのその声に、俺はおそるおそる目を開ける。寝転がった体勢で自分に刺身を盛られてるわけだから、どういう風にできてるのかはよくわかんないんだけど……俺をじっと見てる陽二さんの顔は、なんか……今まで見たことがない感じに、なんか嬉しいのと呆然としたのと、あと酔っ払いがうまそうに酒飲む時の顔をまぜこぜにしたみたいな風に、ちょっと歪んでて……もしかしてこれって、感動してんのか?
 陽二さんが、静かなんだけど、ホントに感動してるみたいな、底の方に不思議な熱持ってる感じの声で言う。
「見事、だ。新。お前は……本当に、見事だ」
「え、あ、う……ありがと……」
 なんかすごい恥ずかしくなりながら答える。べ、別に褒められたからって嬉しいわけじゃないけどさ(嫌ってわけでも、ないけど)、なんか、陽二さんの目が今までにないくらい熱っぽくて、本当に陽二さんがこの少年盛りってのやりたかったんだってわかって、やらせてあげられたのよかったなとか、俺ですっげー満足してくれたのは、嬉しいなとか……
「……本当なら、この姿のお前を写真に撮って、永遠に記録に残しておきたいところだが」
「え……と、撮るの?」
「いや。このような行為の記録を残しておくのは、無駄なトラブルの原因を招きかねない。心の底から残念だが……今のお前の姿は、俺の心の底に、しっかりと焼きつけておくことにしよう」
「う、うん……」
 それはいいんだけど、なんか……その、あんま、そんな、熱っぽい目で見ないで……なんか、すごい、恥ずかしいし、むずむずするし……
 そんな俺の気持ちをよそに、陽二さんはどすっ、と俺の体の脇にあぐらをかいた。
「え、陽二さん、なに」
「少年盛りの、続きだ。お前の体に盛られた刺身を食べる」
 あ、そういえば、少年盛りってそういうことするんだっけ。あ、当たり前だよな、そういうもんなんだから。だから、別に、そういうことしたって、全然おかしく、ないんだよな。
 そんなことを考えながら、俺はおずおずとうなずく。陽二さんはそれに真剣な顔でうなずき返して、すっ、と箸を俺の体に伸ばした。
 俺はひっ、って反射的に小さくなっちゃったんだけど、陽二さんはそれにかまわなかった。俺の乳首の上の刺身を、箸でつまんで、持ち上げて……その時に、箸が、しゅって俺の乳首をこする。
 また俺はびくってしちゃったけど、陽二さんはそんなこと気にもせずに、っていうか俺がびくってなってるのをじっとすみずみまで観察するみたいに見つめてから、刺身を口の中に運び、食べた。もぐ、もぐ、と顎が動くのを、俺はなんかすごく恥ずかしい思いをしながら見つめる。
 だって、なんか、だってさ。よくわかんないけど、わかんないけど。なんか、俺の体の上に乗ったのを食べるって、なんか、俺ごと食べられてるみたいっていうか……ちょっと怖くて、ドキドキするんだけど、すごく、なんか、すごく……
 また陽二さんの箸が伸びる。今度はもう一方の乳首に乗った刺身の方だ。しかも今度は、ただひょいって取るんじゃなくて、ぎゅっぎゅって、まるで俺の乳首からなんかダシでも出てるみたいに刺身を箸で俺の乳首に押しつける。なんでかわかんないけどすごく恥ずかしくなって、かぁっと顔を熱くして俺は目を閉じたんだけど、陽二さんの箸が俺の乳首をいじるたびに、びくんっ、びくんって体が動いてしまう。
 何十回も俺の乳首をいじってから、ようやく陽二さんは箸を離した。は、は、と俺は荒く息をつく――けど、ちょんちょんって、体に触れた感触に、今度こそ間違いなく仰天した。
「ちょ……陽二さんっ! 今、どこ……」
 横になった格好で必死に訊ねる俺に、陽二さんはいつもと変わらない――いや、一見いつもと変わらない淡々とした顔に見えるんだけど、目の底にすげぇやる気っつーか、熱意みたいなのが燃え盛ってる顔で答えた。
「お前のちんちんの先に刺身をつけた」
「…………っ!」
 やっぱりーっ!
 それって変だろ普通に考えて汚いじゃんとか、なんかそれすっげー恥ずかしーんだけど! とかそういうの、ほんとに、陽二さんしたいって思うの……? とかいろんな気持ちがぐるぐるして口をぱくぱくさせる俺に、陽二さんはじ、と俺を真剣な目で見つめて言ってくる。
「嫌なら、やめるぞ」
「〜〜〜〜っ、やじゃ、ないっ」
 俺はぶんぶか首を振った。恥ずかしいし、汚いだろって思うのもホントだけど、陽二さんがそれしたいならさせてあげたいって思うのはホントだし、させたげなかったら俺以外の奴とこういうことしちゃうかもって思ったら、ぜったいぜったいどんなに恥ずかしくたって俺とやらせなきゃって思うもん!
 陽二さんはしばらくじっ、と俺を見てたけど、すぐに「そうか」と言ってもう一度ちょんちょん、と刺身を俺のチンコの先につけた。なんかもうめちゃくちゃ恥ずかしくって、俺は目を閉じちゃったんだけど、陽二さんはかまわずに――いいや違う、陽二さんはじっと俺を見てる。俺が恥ずかしがるとこも、目を閉じるとこも、体をよじらせるとこも。そう思ったら、なんか、脳味噌が沸騰しそうなくらい熱くなった。
「……陽二、さんっ……」
「なんだ」
「なんで……っ、チンコの、先に、刺身つけんの……味とか、つかないのに……」
 恥ずかしくて恥ずかしくてなにか言わなきゃって思ったらつい口から漏れちゃってたそんな変な質問に、陽二さんはあっさりと答えた。
「つく。お前のちんちんからは先走りが滲み出しているから、ちゃんと濃いお前の味がする」
「へ……あの、先走りって、なに……?」
「尿道球腺液。カウパー腺液、カウパー氏腺分泌液、カウパー氏腺液とも言う。男性が性的興奮を感じた際に尿道球腺――場所的には、だいたいこの辺りにある……」
「っひ!」
 陽二さんの箸が、俺のチンコの付け根の奥を、ぐいっと押す。わぁ……わぁわぁわぁ、やだ、なにこれ……恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい……! 恥ずかしすぎて、しょんべん、漏れちゃいそう……!
「左右一対、約一pほどの大きさの袋状の器官により作られる粘液だ。働きとしては、射精の前に尿道や膣の内部をアルカリ性に変え、より精子が生き延びる確率を高める効能を持つ」
「わ、わかんな……わかんな……」
「ごく簡単に言えば、男がいやらしい気持ちになった時にちんちんの先から出る液だ」
「っ!」
 俺は今度こそぼんっ、と脳味噌が沸騰した。い、いやらしい気持ちって、それって……俺、そういう、気持ちに、なってたのか……!? なんだよそれなんだよそれ、そんなカッコ悪いとこ陽二さんに、見られ……
「……いろいろと気にしているようだが。俺は、お前が、そういう気持ちになってくれて嬉しい」
「へ……な、なん……」
「俺も、そういう気持ちになっているからだ」
「っ………!」
「自分がいやらしい気持ちになっている時に、愛している相手がいやらしい気持ちになってくれているというのは、とても嬉しい。二人で一緒にいやらしいことができるからな」
 そう言って、陽二さんはまた俺のちんちんの先に、刺身をちょんちょんとつける。俺は「あ……!」とか声漏らしちゃって、びくびくって体震わせたりしたんだけど、陽二さんはそれを、すごい熱っぽい目で観察して、ゆっくりとまるで体中舐め回すみたいにしながら、刺身を食べた。俺の、さきばしりが、いっぱいついた、刺身を。
 ……そうだよな、少年盛りっていやらしいことなんだって陽二さん言ってたもんな。そっか、これって、いやらしいことなんだ。俺は、陽二さんと、すっげーいやらしいこと、一緒にしてるんだ―――
 そう思ったら、体中がじーんって痺れるみたいになって、頭のてっぺんからつま先までぞぞぞぞってなって、腰がなんかがくがくってなって、びくびくって体が震えちゃった。なんか、肌のところがすごくじんじんして、すげー敏感になってる感じで、見られるだけでぞくぞくしちゃう感じで。
 そんな俺を、陽二さんはじっと見てる。指先一本の反応まで見逃さずに。ぞくぞくする俺、びくびくってなる俺、腰がくがくさせる俺、全部。
 そんで、俺の肌に、その上に乗った刺身に箸をつけ、滑らせる。ちんちんの先っぽ、汗をかいたふともも、脇の下、乳首、いろんなところに箸をつける。そのたびに俺はびくびくって震えて、そういう俺を陽二さんは全部見てる。
 ――そんな時間がどれだけ過ぎただろう。俺はもうびくびくしまくってひろうこんぱいって感じで、ひたすらに荒い息をつくしかできなかったんだけど、陽二さんは静かな顔で鞄の中から……アルコール? だと思う、たぶん消毒用の。を取り出して、箸に吹き付けて、きれいに拭いた。それから、俺をちゃぶ台から下ろして、ちゃぶ台の上を拭いて……って、あれ?
「……陽二さん」
「なんだ」
「これで、終わり?」
「そうなるな」
「……じゃあ、さぁ」
 俺はなんて言っていいか少し考えてから、結局ストレートに言った。
「なんで、まだなんかしたそうな顔で俺のこと見てるの?」
「…………」
 陽二さんは珍しく、驚いたように自分の顔を撫でて言った。
「そう、見えるのか」
「うん。俺の方あんま見ないから、よけい、ちらって見た時、したいしたいってのが伝わってくるっていうか……」
「……なるほど。どうやら俺は、この手のことにかけてはよほど修業が足りないらしい」
「えー、そこは俺すごいって感心してよー。……で、なにがしたいの?」
 せっかくなんだからちゃんと全部したいこと言え! って気持ちでじっと陽二さんを見つめると、陽二さんは本当に困った、って顔で小さくため息をついた。
「したいことがない、とは言わんが、それを今お前にする気はない。……お前が、怪我をしてしまうからな」
「え! 陽二さん、俺のこと、殴ったりとかしたいの……? それって、えすえむとかでぃーぶいとかいうやつ……?」
「そうではなく。やりたいこと自体は、男同士のセックスとしては一般的な行為だが……俺とお前の場合、体の大きさが違うからな、傷がついてしまうんだ」
「? どーいうこと? あとせっくすってなに?」
「セックスというのは性交――極力噛み砕いて言えば、愛し合うもの同士が行う、もっとも一般的ないやらしいことだ。男女間で行えば、普通は子供ができる可能性がある。男同士の場合、子供はできないが……アナルセックスという、一方のちんちんをもう一方の肛門に入れる行為を実行する場合、そもそも入れることを想定していない器官に入れるわけだから、ほとんどの場合傷がついてしまう」
「へー……え、え!? ええぇえ!?」
 なんとなく聞いていた俺は、陽二さんの言った言葉を頭の中で想像してみて仰天した。えぇ!? ちんこを肛門に入れる!? なにそれ!?
「そ……そんなこと、したいの? そーいうことして、なんか、楽しいの?」
「楽しい、というのとは少し違う。まず、アナルセックスというのは、男女の性交に似ていることもあり、男同士の場合でもある種もっとも基本的なセックスと認識されている面がある。そういった愛し合う者たちとして基本的な行為を行うことによる、達成感、安心感を求めている、というのがまずひとつ。もうひとつには、可愛い、愛しいと思うお前を抱きしめたい、可愛がりたいという俺の中にある衝動を解放する際、肉体的に広範囲に密着できること、抱擁のような一般的なスキンシップから移行しやすいこと、さらには見た目にも非常にわかりやすいこともあり、アナルセックスがもっとも効率よく衝動を解放できるという認識が俺の頭の中にあること。最後に、俺が射精するにはそれがもっとも簡単そうだからだ」
「え、えっと……えーと……あ、しゃせいってなに?」
「性的興奮が最高に達した時、男性性器、つまりちんちんから精液――精子を含む分泌液、具体的に言うと白くてどろりとした液体を射出することだ。男は基本的に射精したいという欲望を性欲と認識しているところがあるため、多くの男はセックスを射精するために行う」
「えーと、えーと……つまり、陽二さんもそのしゃせいっていうのしたいんだよね? で、えーと、あと……いろいろで、俺と、そのあなるせっくす……したい、んだ」
 おずおずと聞いてみると、オゴソカな感じの表情で、重々しくうなずかれた。
「ああ。だが、俺にとってその欲望は、お前を傷つけてまで解放したいものではない」
「え……あ、俺とだと、体の大きさちがうから、傷がつくから?」
「そうだ。お前に傷をつけるくらいなら、一生射精の欲望に耐えた方がはるかにマシだ」
「そ……う、なんだ」
 きっぱり言われて、なんか俺は照れくさくなる。俺に傷をつけるくらいならって、それってやっぱ、俺がすっげー大事だから、なわけだよな……うわ、なんか恥ずかしい、けど嬉しい……ん、だけど。
「……陽二さん、それ、やってよ」
「……それとは?」
「だから……その、あなるせっくす。やっていいよ」
「言ったはずだ。お前に傷をつけてまでその欲望を解放したいとは」
「だからさぁっ、俺だって言っただろ、俺は陽二さんがしたいことだったらなんだってさせたげたいって! 俺のことで陽二さんが我慢するのとかやだし、俺は、陽二さんに俺にだけはわがままいってほしーの! ずるで筋通ってなくて、でも俺のことが大好きで俺のためだったらなんでもする陽二さんがいいんだよ!」
「…………」
 陽二さんは(淡々としたなりに)ちょっと驚いたような顔になる。そんな顔されると、俺もなんか自分で言ってることがすごく恥ずかしいことみたいに思えてきちゃうんだけど、ええいってそーいうの無視して言い切る。
「それにっ、今日は婚約のギシキなんだから。陽二さんに、やり残したことないってくらい、その。満足して、ほしい、じゃんか……」
 最後の方勢いがなくなって、赤くなってちょっとそっぽ向きながらになっちゃったけど、陽二さんはそんな俺をじっと見て、ちょっと笑って頭を叩いて、言ってくれた。
「わかった」
「……うん……」
 照れくさいながらも嬉しくて、へへ、とか照れ笑いする俺を、陽二さんは優しい(ほんとに、陽二さんのそういう顔って、すんげーすんげー優しいんだって初めて知った)顔で見つめて言う。
「キスしてもいいか?」
「えぃっ? え、あ、う、うん、はい、どうぞっ」
 いきなり言われてなんか慌てちゃったけど、前にチューした時みたいに、うって唇を突き出すと、陽二さんはいつもみたいに優しくキスをしてくれた。――だけじゃなかった。なんか、ぬるってしたのが俺の口の中に入ってきて、俺は驚いて固まっちゃったんだけど、陽二さんは一回口を離していつもの口調で言う。
「俺は舌を使ったキスがしたい。ので、嫌なら今のうちに言ってくれ。嫌でないのなら、舌を口の外に突き出してくれ」
「え、う、ぁ……や、やじゃ、ない……」
 とまで言ったら、もう一度チューされた。そんでまたぬるっとした、たぶんこれって陽二さんの舌なんだろうってのが口の中に入ってきた。舌、舌出さなきゃ、って慌ててれって舌を出すと、陽二さんの舌がれろって俺の舌に触れて、そんで――
 う。わ、ぁ、あぁ。なにこれ、なにこれ、なんか……これまでのチューと全然違う、っていうか、なんか……なんか、脳味噌、溶けそうになる……!
 俺の舌が、陽二さんの舌で、ぬるぬるして分厚くてすごく熱いもので包まれる。撫でられる。くにくにくにっていじられる。舌なのに、すげーちっちゃなとこなのに、なんか体中がふわってして、でろでろに融かされるみたいになって、体中が、なんか、わけわかんなくなるくらい、気持ちいい。なんでなんでって思うけど、そんなことどうでもよくなっちゃうくらい陽二さんの舌は何度も俺の舌を包んで、しかもそれだけじゃなくて、陽二さんは普段よりちょっと角度を変えて、口と口をこー、食べ合うみたいな感じでくっつけてきて、そんたびに俺の口の中れろれろれろって舌で撫でくりまわして――
 しかもそれが、すんごい、気持ちいい。もうなんかほわーんってして、とろーんってして、もうどうにでもしてーって感じでいたら、そっと口を離された。あ、となんか寂しくなってたら、今度は乳首。ちゅ、ちゅって吸われて、舐められて、おんなじようにいじられて――
 そのあとはもうどこがどこだかわかんなかった。首とか、脇腹とか、あと足とか変なとこも舐められたかも。途中から畳に横になってたけど、いつからか覚えてなくて、でもそんなのどうだっていいくらい気持ちよくて、ふわふわして。
 ――それから、電撃みたいな感じと浣腸されるみたいな感じが、同時にやってきた。
「ひ……ぇ……!?」
 なになになになに、この感じ!? なんか……ビビッて……そんで、ぬぷって……
 あ、陽二さんが俺のちんちんのとこに顔うずめてる……って、え!? もしかして、お、俺のちんちん、舐めてんの!?
 いや、ちんちんにつけた刺身食うくらいなんだから、ちんちん舐めてもおかしくないとは思うけど……なんか……なんか、今のって……
「ひっ……ぅ、ぁ……ぃっ……」
 また、体中が痺れる感じと浣腸される時の感じ。なんで一緒にって思うけど、それが何度も何度もおんなじように訪れる。それになんか、ぬるぬるしたのが乳首とか、尻とか、いろんなとこを這いまわる感じまでプラスされて、もう気持ちいいんだか悪いんだかわかんなくて、なんかもう泣きそうになっておそるおそる陽二さんの方をうかがってみた。
 陽二さんは、すげー真剣な顔で、俺の股間に顔をうずめていた。
 俺の体中を、なんかぬるぬるした手で触りながら、ちんちん舐めたり尻舐めたり太腿吸ったりしながら、俺の肛門あるあたりに指突っ込んでた。すっげー一生懸命に。マジメな顔で。すごく大変なことしてるって顔で。
 その顔見たら、俺は、なんか、体中からすぅって力が抜けて、こてんとさっきまでと同じように畳の上に倒れてしまった。
 だって、陽二さんに、あんな、すげー大切なことしてるって顔されたら。そんな顔で俺の体触られたら。
 もうどうにでもしてって思うし、どうにでもしてほしい。陽二さんのしたいように俺の体を扱ってほしい。
 陽二さんは絶対俺にひどいことしないから、俺のことを好きにしていい。だって俺は陽二さんのもので、陽二さんは俺のものなんだから。
 そう思ったら、なんかもう、胸がぎゅーって、きゅーってして、浣腸されてる感じだって巻き込んじゃうくらいきゅーってして。
 だから、俺の体をひっくり返して、肛門に刺身入れた時みたいな体勢になって。たぶんこれからチンコ肛門に入れるんだって思って。
 その体勢のまま、陽二さんが固まってたから(たぶん本当にやっていいのかー、みたいなこと考えてたんじゃないかな、陽二さんマジメだから)、俺は陽二さんに声をかけた。
「陽二、さん」
「っ、新」
「だいすき」
 そう言ってえへ、って笑ったら、なんか陽二さん吠えるみたいな声出して俺に飛びついてきて、俺の肛門に、たぶんチンコ入れてきて。それからはっと我に返って、さって顔これまでで一番ってくらい青くして、体離そうとして。
 ぶっちゃけ確かにケツになんかすげーでかいものが入ってるって感じで、痛いっていうか俺のケツに柱が生えた! みたいな感じだったんだけど、それより離れてほしくなかったから。
 思いっきり手伸ばして抱きついて、口にちゅってして、それから「離れないで」って言ったら。
 陽二さん、なんかすげー、顔ぎゅうってさせて、俺に抱きついてきて――あとはもう、ほとんど覚えていない。

「それでは。お世話になりました」
 翌日、陽二さんはうちの民宿を出た。予定通り、東京に帰るって。そんで、俺とかーちゃんは、一緒に駅まで見送りに行った(今、他に客いないし)。
 駅員さんに頼んでタダで駅ん中入らせてもらって。電車が来るまで(時間調べてあったから)ちょっとだけ待って。
 電車がやってきて扉を開けるや、陽二さんは深々と頭下げてそんなこと言ってる。
「どういたしまして。……このままうちの子を放っておくようなことがあったらあたしは東京まであんた刺し殺しに行くからね」
「刺し殺されずとも、放っておくような真似はしません」
「他の子に手を出しようもんなら本気で切り落とすよ」
「もちろん。切り落とされなくても、俺が新以外の相手に心をかけるようなことはないでしょうが」
 そんなことをかーちゃんと陽二さんは話してる。俺はその横で、黙ってうつむいてる。っていうか、民宿出てからぜんぜん喋ってないし、顔も上げてない。
 かーちゃんが、そんな俺に気づいて、ぶっきらぼうに背中を小突いた。
「ほら。あんたは、なんか言わないのかい」
「…………」
「新っ」
「いえ、女将さん。お気になさらず」
「あたしは別にあんたを気にしてるわけじゃなくてねぇ」
「そうですね、すいません。――新」
 ぽん、と頭に置かれた大きな手。柔らかく俺を呼ぶ優しい声。
「またな」
 それだけ。でも、俺が好きなんだって、ここに来た時はなんにもしたいことないって言ってた陽二さんが、俺のことは、俺のことだけは好きで、俺だけにはわがまま言って、ずるしてくれるんだってわかるくらい、体中がびりびり痺れるくらい、ふわってした声で――
 俺は耐えきれなくて、一瞬だけ陽二さんを見上げたけど、すぐにまた顔を下ろした。危ねぇ、けど、一瞬だから、かーちゃんには見えなかったはず。陽二さんもちょっと驚いたような顔してたけど(俺以外の奴には仏頂面にしか見えないだろうけど、俺には分かるんだよね、俺にはね!)、それからすぐ発車のベルが鳴り始めたので「それでは」とかーちゃんに頭を下げて電車に乗り込んでくれた。
 発車まであと十、九、八。ベルが途切れて、扉が動く――今だっ!
「っ!」
「な! あ――」
 たぶん『新ぁっ!』って怒鳴ってるんだろうけど、うまい具合に扉が閉まってくれたんでちゃんとは聞こえなかった。俺はやったぜひっひー、とか思いながらかーちゃんにべろべろばーってしてや――ったんだけど、背後の陽二さんがしずかーに「新」と言った時はびくってしちゃった。だって、その、好きな人だし。
「あの顔を見て、なにを企んでいるのかと思ったが。こういうことか」
「〜〜〜っだってさっ! 昨日、俺途中からわけわかんなくなっちゃうしさっ! 朝早くて、ろくに陽二さんと話せたかったしさっ」
 ばって俺は振り向いてまくしたてる。俺にだって、一応、俺なりに理由があってやったことなんだ。
「っていうかちゃんと両想いだってわかってからほとんど話せてないしさっ。いちおー、新婚、じゃなくて婚約だけど、そーいう関係になったのに、その次の朝もうさよならなんてさっ」
「………新。それは」
「そりゃ、陽二さんにとっては次また来る時までとか、あっという間なのかもしんないけどさっ。俺は、ずっと、ここで一人でさっ。陽二さんが来る前みたいに、一人で、つまんないつまんないって思いながら、陽二さんのこと考えながら陽二さんのいないとこで陽二さん待ってなきゃならないのかって、思ったらさっ」
 俺はずずーって鼻をすする。みっともないけど、なんか泣きべそかいてるっぽくなっちゃったけど、でもほんとのほんとに伝えたいことだ。
「そんなんだったら、俺、ずるするよ。ちょっとくらい汚い手とか使うよ。俺だって、陽二さんのことだったらずるとか平気だしわがままだって言うんだからなっ!」
「……俺は、今でもお前のことだからといって平気でわがままを言えるわけではないんだが」
「え! そうなのっ」
「ただ、まぁ。……お前のことならば、わがままを言いたい、とは思うな」
「! 陽二さっ……」
 飛びつきかけた俺に、びっと陽二さんは指先をつきつける。
「ただし、だからといって他の人間に迷惑をかけていい理由にはならない」
「う……」
「俺との婚約を許したということで、すでにお母上には多大な精神的ストレスを与えているだろうに、お前がさらによけいな心配をかけてどうする。俺と一緒に来たいのならば、その旨お母上に話してきちんと許可を得るべきだろう」
「う……だ、だってさ。絶対許してもらえないと、思って」
「許してもらえるかどうか難しいことは強硬手段に訴える理由にはならない。試す前から無理を通そうとするのは相手に喧嘩を売っているのと同じだぞ」
「だ、だって。だってさ……」
「次の駅で一緒に降りて、会豊田町に戻るぞ」
「えええぇーっ!」
「そうして改めて、もう二日だけお前と一緒にいることを許していただけないかお願いする。東京見物も兼ねての小旅行だ。お前にもそれならいろいろと準備が必要だろう」
「え……」
 俺はぽかん、としたんだけど、陽二さんは厳しい顔のまま(他の人が見たらやっぱり淡々とした顔に見えんだろうけど……)言う。
「これがぎりぎりの譲歩だ。日数の延長も場所の変更も不許可だ。それでいいなら会社に願い出て、あと二日有給を延長してもらい、その二日はずっとお前と一緒にいる」
「え、や、そうじゃなくて……日数とか、場所とか、それでいい……っていうか、すげー嬉しいんだけど、い、いいの? 陽二さん、俺……陽二さんと一緒に、東京に行っても」
 おずおずと訊ねる。だって、俺だってこれが陽二さんにとって迷惑だってのはわかってたから、ちゃんと真正面から許しもらえるとか思ってなかったからだ(それでもねだり倒せば押し流せると思ったからやったんだけど)。
 でも、陽二さんは、俺の方を真正面から見つめて。誠実で、筋の通った、俺が好きになったカッコいい大人の顔で。
「お前はもうこの先俺以外にはわがままを言えないわけだからな。聞ける時には聞いてやる」
「え……」
「お前は、俺に、お前にだけはわがままを言ってほしいと言っただろう。それは、俺も同じだ」
「っ」
「俺も、お前にはわがままを言ってほしい。俺にだけわがままを言ってほしい。これから先、お前がわがままを言いたくなったり、うっぷんをぶつけたくなったりしたら、そういうものはすべて俺に向けろ。お前のわがままは、一生、俺の専用にしてほしい」
「………―――」
 それは、もしかしたら。陽二さんが俺にあんまりわがまま言わせないようにって思って言ったことなのかもしんないけど。
 なんか、俺には、すっげー嬉しく聞こえて。俺の、全部、陽二さんのだって言ってくれてるみたいに聞こえて。
 だからにこって、すっげー嬉しい気持ちで笑って、言った。
「うん。これから一生、陽二さんにだけ」
「……ああ」
「……ねー、陽二さん。チュー、して」
 俺はなんかすっげー、いやらしい? みたいな気持ちになってうって唇突き出した――んだけど、陽二さんはふっと優しく笑って(他の人が見たらきっと唇がちょっと動いてるくれーにしか見えねーんだろーな、へへーざまーみろ!)、俺のおでこにちゅって唇を触れさせた。
「……おでこー?」
「今はな」
「……じゃ、東京に着いたら?」
「俺の部屋でなら」
 しても、いいんだ。
 俺はすっげーすっげー嬉しくなって、きゅって陽二さんの手握って、満面の笑顔で言った。
「な、な、陽二さん。東京行ったら、また少年盛りしよーなっ」
 そう言ったら、なぜか陽二さんはしばらく黙ってたあと、「そのあたりの行為についてはまた改めて話し合おう」とかむずかしー顔して言って、なんか口の中で「俺が悪かったのだろうか」とか「そもそも俺はちょっとやってみたいと思っただけなのだが」とかぐじゃぐじゃ呟いてたけど、俺は気にしないですっげー幸せな気分で、陽二さんに寄りかかって目を閉じた。
 陽二さんと東京。陽二さんと東京。すっげーすっげー楽しみ。東京だからってのももちろんあるけど、なにより、俺の一緒にいて一番楽しいって気持ちは、もうとっくに、陽二さん専用になっちゃってるんだから。

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