この作品には男同士の性行為を描写した部分が存在します。
なので十八歳未満の方は(十八歳以上でも高校生の方も)閲覧を禁じさせていただきます(うっかり迷い込んでしまった男と男の性行為を描写した小説が好きではないという方も非閲覧を推奨します)。




ナスタチウムの見上げる空
「……ぁっ!」
 俺が全力で、気合を込めて蹴った球は、ゴールポストの隅に当たって跳ね返った。
「なぁにやってやがんだ芹沢ぁっ!」
 奈良原監督の怒号が響き、俺は思いきり唇を噛む。まさか、一人マークがついたくらいで、あんな位置からのシュートが入らないなんて。
「まともにシュートも入れられねぇFWなんざFWじゃねぇぞっ、んな奴ぁチームにいらねぇ、サッカーやめろてめぇっ!」
「はいっ!」
 大声で叫んで答えて唇を噛みつつ、相手チームの攻撃に備え場所を移動する。奈良原監督がこうして怒鳴るのはいつものことだ、いちいち落ち込んでいたらあっという間にレギュラーを落とされてしまう。
 ボールを睨んで、グラウンドを走る。このチームで誰より長い間ボールに触っているのは俺だ、ボールコントロールには自信がある。相手チームが速攻をかけようとしているところに向かい合ってボールを奪う――が、そこに素早くスライディングをかけられてボールを奪い返された。
「なにやってんだ芹沢ぁっ! あっさり奪われてんじゃねぇ、やる気あんのか、あぁっ!? それでも輔(たすく)の弟か、こらぁっ!」
「はいっ!」
 必死に叫んでボールを追う。そうだ、本当になにやってるんだ、俺。以前は相手のスライディングを読んで、かわすことぐらいできたのに。
 みっともない、情けない、悔しい。もっとしっかり、頑張らなけりゃ――俺には、サッカーしかないんだから。

 俺の名前は芹沢翔。私立雨上学園に通う一年生だ。
 学校の方では特に部活には入ってない――けど、課外活動をしてないわけじゃない。俺は法篭(ほうかご)レイニーズっていうサッカークラブに入ってるんだ。
 ジュニアユースなんで練習は休日メインで週三。でも俺はそれ以外にも自主トレを毎日やってた。それこそ暇な時間はいつもボール蹴ってるって言ってもいいぐらいに。
 おかげで俺はまだ中一だけど、レギュラーの一人に数えられてる。FWの一人としてウイングを任され、得点に絡むことも多い。こう言っちゃなんだけど、他人から見たら順風満帆なサッカー生活だって言われてもおかしくない生活送ってるって思う。
 でも、そんなんじゃ駄目なんだ。足りないんだ。もっともっと頑張って、もっともっとすごい選手にならなきゃならないんだ。
 俺はもっと、もっと強くなりたいんだ。
 いつものように、そんなことを考えながら俺は家の門を開けた。正門じゃなくて、勝手口の方の。正門はいちいち開け閉めするの面倒くさいから。
 うちは私立の病院を経営してて、結構な金持ちらしくて、家に友達なんかが来ると『すっげー広ぇー!』とかって騒ぐけど、俺の生まれた時から家はこうだったんであんまりそういう実感はない。勝手口から入って、いつも通りに台所から家の中に入ると、いつも通りにタカさん(俺が生まれる前から来てるお手伝いさん)と顔を合わせて困ったような顔をされた。
「まぁ、翔坊ちゃま。お玄関から出入りしてくださいと、いつも申し上げていますのに」
「だって、腹減ってるんだもん。なんか食うもんない?」
「はいはい、いつも通りにおにぎり作っておきましたよ。もうすぐお夕食ですから、まずは手を洗って、お風呂に入って汚れを落としてきてくださいな」
「うん」
 うなずいて背を向けかけた時に、タカさんは「ああ、そうです、翔坊ちゃま!」と声をかけてくる。
「……なに?」
「今日は旦那さまと奥さま、輔坊ちゃまもご一緒ですから、きちんとした身なりでいらしてくださいね」
 げ、父さんたちいるのか。普段だったらまだ病院に詰めてて帰ってこない時間なのに。兄さんも普段は塾なのに……示し合わせたわけじゃないだろうな。
 俺は顔をしかめ、タカさんには「わかったよ」とだけ言って風呂場へ向かった。うちの風呂場はそれなりに広くて、お湯の温度もすぐ上がるんで、洗濯物を俺用の洗濯籠に放り込み(俺の洗濯物は汚れがひどいっていうんで専用の篭を使わされてるんだ)さっとシャワーを浴びて自分の部屋に戻る。
 普段ならTシャツに短パンってくらいの格好で飯食っちゃうんだけど、父さんや母さん、兄さんがいる以上それなりの服を着なくちゃならなかった。シャツに白いスラックスを穿いて、おかしなところがないか一通り確認してから食堂へ下りる。
 そこには聞いていた通り、父さんと母さん、それに兄さんがご歓談というやつをしていた。病院の経営についてやら、政治情勢についてやら、少なくとも俺には全然興味の持てない話を楽しげにしている。
 と、兄さんが俺の方を向いて笑いかけてきた。
「お、翔。帰ってきたのか」
「……うん」
 小さくうなずいて、自分の席に着く。それなりに広いテーブルの端っこ。父さんとも母さんとも目を合わさずにすむ辺りだ。
 ……その代わり、兄さんとは真正面から目を合わせなきゃならないんだけど。
「今日もサッカークラブか? 頑張るな、翔は」
「……このくらい、当たり前だよ」
「ふむ、その心がけはけっこうなことだが、勉強の方も疎かにしてはいかんぞ。お前もいずれは輔の補佐をして、うちの病院を支えてもらわなくてはならないんだからな」
 父さんに言われて俺が一瞬顔をしかめたのに気づいたのか、母さんがなだめるように言う。
「まぁまぁ、そんなに高飛車に言わないで。翔だって別にやりたい仕事ができるかもしれないでしょう? 心配しなくても、うちの病院は輔がきちんと継いでちゃんと運営してくれるでしょうに」
「まぁ、それはそうだが……どうだ、輔。身内の手助けがあった方がなにかとよくはないか?」
「大丈夫だよ、父さん。それに今時経営陣を親族で固めるっていうのもどうかと思うし」
「少なくとも一番信頼できる相手ではあるだろう」
「要職を全部親族で固めるわけにもいかないだろう? 信頼できる相手を見つける能力も経営者には必要だと思うよ」
「ふむ、確かにな……さすが我が家の惣領息子だ、なかなか言うじゃないか」
 にやり、と笑う父さんに、兄さんが笑顔を返す。
「そんなに大したことじゃないよ、新聞を読んでいればこのくらい誰でも思いつく」
「ふふ、それだけでそこまで言い切れる高校生はそういないわよ。本当に、あなたがうちの長男でよかったわ」
 父さんと、母さんと、兄さんがそれぞれに笑顔を交わす――その横で、俺は一人、仏頂面でばくばく夕食を食べていた。
 うちの『家族の会話』っていうのは、いつもこんな感じだった。俺の話が出てきても、いつも最後には必ず兄さんを褒める話になる。
 そりゃそうだろう、だって兄さんは全国でも有数ってくらいの名門私立で学年トップを取るくらい頭がよくて、それだけじゃなくスポーツも万能で顔もよくて友達も多くて、生徒会とかにも入っててそこでも次期会長間違いなしで、お稽古事もなんでもよくできて、どんな話を振られても堂々と大人と渡り合えるすごい人なんだから。
 父さんも母さんも、当然頼みにもするしこんなよくできた息子で嬉しいとも思うだろう。成績もスポーツも、せいぜいが上の下ってところの次男坊よりもそっちを相手にしたいと思うだろう。贔屓とかいう以前の、ごく当たり前の気持ちとして。
「ごちそうさま」
「あら、もういいの?」
「うん。部屋で宿題するから」
「そうか、しっかりな。それでな、輔……」
 父さんと母さんとこうして話すのはほとんど一ヶ月ぶりくらいなんだけど、当然さして引き止められもしない。それより二人とも兄さんと話すのに夢中。そういうのは、物心ついた時からごく当たり前のことだった。
 だからって、別に腹が立つわけじゃないし、兄さんを恨んだりしてるわけでもない。条件が同じ人間が二人いたら、優秀な人間の方を選ぶのは人間としてごく当たり前の心理だろう。選ばれたいんだったら、選ばれるように頑張ればいいだけだ。勉強も、お稽古事も、なにもかも。
 そう思って、昔は俺もなんでもかんでも頑張ってたけど、今はそういうわけじゃない。そもそも俺は、別に父さんや母さんとか、親戚とかタカさんとかにちやほやされたいわけじゃないってわかったからだ。
 俺が頑張りたいのは――頑張って、手に入れたいと思うのは。
 俺の部屋に戻って、息をつく。俺の部屋はサッカー関係のポスターとかユニフォームとかでいっぱいだった。一応、きっちり整頓してるんでタカさんとかが間違って捨てるようなことはない。
 サッカークラブに入ってるんだから当然だけど、俺は根っからのサッカー小僧だった。寝ても覚めても考えるのはサッカーのことばかり。毎日サッカーボールを蹴らないと落ち着かない、そんなレベルの。
 だから当たり前だけど、俺はもっとサッカーがうまくなりたいと思う。強くなりたいと思う。そのためならどんなきつい練習だって耐える覚悟はあった。奈良原監督に怒鳴られようが、父さんに注意されようが、そんなことはどうってことないんだ。
 その気持ちに、変わりはないつもりなのに。
 俺はテーブルの上の写真立てを見た。気合を入れるために、いつも見える場所に置いてある一枚の写真。
 それはシュートするところを撮った写真だった。撮った父さんはまぐれだって言ってたけど、実際この写真よく撮れてると思う。
 きれいに伸びた蹴り足、がっしりと大地を踏みしめる軸足。上体の姿勢もびっくりするくらい整ってる。どこに出しても恥ずかしくない、見事なシュート写真だ。
 兄さんはこの写真のシュートで、全国大会出場を決めた。
 法篭レイニーズ伝説の最高のFW、芹沢輔。だからクラブではいつも兄さんと比べられてきたけど、俺はそれを跳ね返せるように、兄さんに負けないようにって頑張ってきたつもりだった。
 ずっと、頑張ってきたつもりだったのに。
 ふ、と息をついてベッドに寝転がる。天井をぼんやり見つめながら、ぼんやりしょうもないことを口にした。
「なんか……最近、やる気出ないなぁ……」

「そんなん当たり前じゃん。フツーフツー」
 そうあっさり言ったのは、半田智輝だった。同じクラスで隣の席で、っていうんで親しくなった雨上学園の友達。
「いっつもにーちゃんと比べられてああだこうだ言われて、いっつも相手にもされなかったんだろ? そんなんやる気出ねー方がフツーだって」
「……別に、比べられたからやる気出ねぇわけじゃねーよ」
 俺は仏頂面で答える。本当に、兄さんと比べられたからやる気が出ないなんていうつもりはなかった。だってそんなのいまさらだし。物心ついた時からそんなのいつものことだったんだから。
 ただ、以前はそれに負けずに、できる限り頑張ろうって思えたのに。最近はなんだか、いまひとつ集中できないというか、気合が乗らないだけで。
 そんな俺の言葉を半田はふんふんと聞いて、ズビシと親指を立てて言う。
「なるほどな……わかるぜ、その気持ち!」
「は? わかるって、なにが」
 俺自身自分の気持ちがさっぱりわからないってのに、なにがわかるんだ一体。
 そんな俺の疑念に気づいているのかいないのか、半田は自信たっぷりの笑みで言ってのける。
「芹沢。それは……恋だぜ!」
 ……………
「は?」
 言っている意味がさっぱりわからず問い返すと、半田はなぜか満面の笑みでまくしたてる。
「だってなんかやる気が起きなくて気合が入らないんだろ? それは恋だぜ! お前は今、恋しちゃってるんだきっと! だからそっちに気ぃ取られて集中できねーんだよ!」
「……恋って、誰に。そーいうのって相手いねーとできないだろ」
「え? えーと、それはほら、サッカークラブの監督とかっ!」
「うちの監督普通に男なんだけど。しかももう還暦越えてる爺ちゃん監督」
 それでも昔サッカーリーグの選手だったって経歴があるし、かつて法籠レイニーズを全国大会にまで導いた名監督なんで文句を言う気はないけど。
「えーと、じゃあ兄貴とか! コンプレックスの裏でお前はいつしか兄貴への愛を育ててたんだよ!」
「テキトーなこと言うな! っつかそれって男同士なうえに近親相姦じゃねーかっ、人としてまずいだろそれ!」
「なに言ってんだよ、愛があればんなこと大した障害じゃねーって! 真剣な気持ちで思い合ってさえいれば、愛し合っちゃいけない相手なんてこの世にはねーんだ!」
「だから愛し合ってなんてないんだっての! そもそもやる気が出ない=恋ってどういう思考回路だよ!」
「え? だって……真面目な奴が急にやる気をなくすのは十中八九恋をしたからだって、隣のにーちゃんが」
「またそれか! お前いい加減からかわれてることに気づけよマジで!」
「だ、だってにーちゃんすっげーマジな顔して言ってたんだもんっ、マジな話だろこれ!」
「真面目な顔して言ってることが全部ホントのことならこの世に嘘つきなんていなくなるだろ!」
 ったくもう、と脱力しながら俺はぐりぐりと半田の頭をいじめた。こいつは騙されやすいというか、聞きかじった知識をうのみにしてその場のノリで突っ走る傾向があるので(特に隣のにーちゃん≠ニやらの言葉にはまず100%騙される)、つきあってるこっちとしては時々かなり疲れるのだ。
 まぁけどそういうところが面白いっちゃ面白いんだけど。毎度毎度懲りずに騙されるこいつのボケっぷりは実際笑えるし、それに突っ込みを入れているだけで漫才になってしまうなんて奴はそうそういないから一緒にいてかなり楽しい。
 こういうのは前と変わらず楽しいんだよな、と半田とじゃれ合いながらこっそり考える。こういう風に、学校とかでサッカーと関係ないことをして楽しいって思う気持ちは、前と少しも変わらない。むしろ強くなったくらいだ。半田とか友達と馬鹿やったり、一緒に勉強したりとか、そういう時は楽しいっていうか、なんかちゃんと生きてるって気持ちがある。
 なのに。サッカーは。俺が大好きで、ずっとずっと頑張り続けてて、今も大好きなはずのサッカーを頑張ろうとする時だけが、妙にやる気が起きなくて、集中できなくて、頭の中に『兄さんならもっとうまくプレイできるんだろうな』『兄さんなら誰にも文句を言わせないようなシュートが打てるんだろうな』なんて言葉ばっかりちらついて、なぜか時々体から力が抜けてしまう。
 嫌だな、と心の中だけで、胸を冷やすような気持ちで思った。俺の大好きで、ずっと頑張ってきたもので、これからもやり続けたい(はずの)ただひとつのものに、そんな気持ちを抱いてしまうのは、心がぐずぐずに崩れてしまいそうなくらい怖いことだ。
「おーい、芹沢ー、なーに急に顔シリアスにさせてんだよーっ!」
「わ! わはっ、はははっ、くすぐるなっての、こらっ!」
 ……こういう風に、学校の友達とじゃれ合っている時は、そんなこと少しも考えないですむのに。

「奈良原監督が監督辞める!?」
「や、辞めるっていうかさ、ぎっくり腰になっちゃったせいでドクターストップがかかったんだって。監督はそれでも続けるって言い張ったんだけど、家族の人たちが止めてさ」
「まー、そりゃしょーがねーよなー。もう六十過ぎだもん」
「そんで知り合い当たりまくって、コーチ兼監督になってくれる人を探してきたんだって。今度は若い奴らしいけど……」
「……ふぅん」
 俺は準備体操をしながら低い声で答えた。正直、奈良原監督の指導力とかはすごいもんだと尊敬してたんで、次の監督が若い奴だと聞いても嬉しいとは思わなかった。それよりも、経験が不足してるせいで戦術とかで失策をするんじゃないかとそちらの方が不安だった。
 指導についても不安があった。俺はもっと強く、サッカーがうまくなりたいのに、的確な指導をしてくれないんじゃそれは望めない。ただでさえやる気に翳りが見えてるのに、嫌な展開だな、と顔をしかめた。
 そろそろ練習時間が始まる頃、グラウンドの俺たちが集まっている前に、一台のライトバンが止まった。そして中から二十代半ばぐらいの男の人が出てくる。
 黒髪を短く刈った、いかにもスポーツマンって感じの見目。数年前のモデルのジャージを着たその人は、予想通りすたすたとこっちにやってきて、声をかけてくる。
「君たち、法篭レイニーズのメンバーかな?」
「え……」
「はい、そうですけど」
「俺は土方東(ひじかたあずま)。今日から法篭レイニーズの監督になったんだけど、メンバーはこれで全部かな?」
 やっぱり、と思いつつ俺はその人――土方監督をこっそり睨んだ。この人が、奈良原監督と比べてどれだけ有能なのか確かめてやる。
 そうでないと、奈良原監督が浮かばれない。

「じゃ、改めて。今日から法篭レイニーズの監督をやらせてもらうことになりました、土方東です」
 にこっ、と笑ったその笑顔を俺は睨む。周囲の奴らも、いきなり若くなった監督に不安を隠せないみたいで、こそこそぼそぼそ囁き声を交わしていた。
 見かけは、まぁそれなりにアスリートっぽかった。ガタイもそれなりにでかいし、服の上から見た限りじゃどこも引き締まってて俊敏そうだ。陽に焼けた肌は外で過ごす時間が長いことを示してたし、短く刈った髪もスポーツをする人間っぽく洒落っ気がない。
 でも、だからって腕がいいとは限らない。俺は何度も何度もじろじろと土方監督を上から下まで眺める、や。
「で、これから練習に入るわけだけど。その前に、なにか俺に聞いておきたいことはあるかな?」
 向こうから振られてきた話題に俺は拳を握り締めた。考えていなかったのかごそごそ相談しあうチームの奴らの中で、俺は真っ先に手を上げる。
「ええと、君は、芹沢、だよな。なんだい」
「監督はどれくらい経験があるんですか」
 まず、これを聞いとかないと始まらない。
「経験か……そうだな、中高大とサッカー部に入ってて、あとは草サッカーだな」
「草サッカー……?」
「草野球のサッカー版。趣味で集まった奴らでサッカーをする」
「……リーグへは?」
「いや、俺は一度も全国大会に行けたことなかったからな。リーグに行けるような成績じゃないだろ?」
 ざわざわざわっ、とチームの連中がざわめく。今度はさっきよりかなりあからさまに。
 法篭レイニーズはそりゃ、名門ってほどじゃないけど、曲がりなりにも一度全国大会にまで出場してるチームだ。それを率いる監督が全国大会に行ったことがないなんて、そんなんじゃ指導役として力不足なのは明白だ。
「……なんで、それでうちの監督やることになったんですか」
 怒りを抑えて、できるだけ冷静な口調で言うと、土方監督はちょっと面白そうに俺を見て、くすっと少し悪戯っぽく笑った。
「つまり、お前らは俺が、ろくな成績を残してないから監督として信頼できない、って言いたいわけだな?」
 俺は答えず土方監督を睨みつける。土方監督は苦笑し、ひょいと自分の持ってきたサッカーボールを手に取った。
「じゃ、手っ取り早くやってみせた方が早いよな」
「…………」
「芹沢と、叶野。それから川島。三人で俺からボールを奪ってみろ」
 ざわっ、とチームの空気が揺らめく。今声をかけられたのは、俺も含めてチームでもボールコントロールのうまい奴ばかりだった。
 奈良原監督からそれを聞いてたんだろうけど、いくら大人だからって、全国大会に行ったこともないのに、その三人一度に相手してボールを奪い取られずにすむ、って思ってるのか、この人は。
(……舐めやがって)
 俺はぎっ、と土方監督を睨んで立ち上がる。他の二人も戸惑いつつも立ち上がり、三人で監督を取り囲んだ。監督は、ボールを足元に置いて、とん、とつま先で軽くキックする。
「さ、いつでも来い」
「…………」
 俺は無言でうなずいて、真っ先に監督の足元に突っ込んだ。伊達にFWやってるわけじゃない、奈良原監督が連れてきたコーチ相手に1vs1練習したことだってあるんだ、大人だからって草サッカーしかやってない人に負けてたまるもんか!
 ――と勇んで振った足は、一瞬で後ろに退いたボールにすいとかわされた。
「っ!?」
 速い――というか、なんだ今の。ボールをどう蹴ったのか、見えなかった、ような……?
 なんの! と勇んでさらに俺は足を動かす。体全体で半ば突っ込むようにボールを奪いにいく。大人相手みたいに体格差がある場合、こうして懐に飛び込む方がボールを奪える率が高い。
 だけど土方監督は、俺をまともに懐に入れてくれなかった。すいすいとボールを退かせ、時にはターンし時にはリフトし、俺の攻撃をほとんどあしらうようにかわしていく。
 叶野と川島も攻撃に加わった。三方向から監督を囲い込み、プレッシャーを与えつつ次々攻撃を与える。普通なら、それこそリーグの選手とかでもない限り、三人に囲まれての攻撃をかわすことはできないはずだ。
 けど土方監督は、あっさりそれをやってのけた。前後を挟まれればサイドへ、左右を塞がれれば前後へ、三方向から囲まれればリフトしてかわすかわずかな隙間を抜いてみせる。
 ――この人、うまい。それも半端じゃなく。少なくとも奈良原監督が連れてきたどのコーチ相手よりうまい。
 この野郎、と思わず頭に血が昇る。指導者が充分な腕を持ってるんだからここは喜ぶところだったのかもしれないけど、なぜか――最初に舐めてかかっていたせいか、それともまだ若いせいか、悔しい、という思いが先に立った。
 必死にボールを奪おうと何度も突っ込むが、何度もあっさりかわされる。それでも負けじとフェイントやらトゥーキックやら俺の持てるテクニックを全部使って何度もチャレンジするけど、それもすいすい避けられる。
 それでもひたすら食らいついていると、わずかに監督が苦笑するような気配があった――と思うや、監督の両足がボールを縦に挟み込んだ。そのまま軸足のかかとを浮かせて、上から押さえ込んでいた足を素早く軸足にし、それと同時にさっきまで軸足だったほうの足を蹴り上げてボールを浮かせる。
 ――ヒールリフト!?
 のみならず、その浮いたボールを膝でトラップして、一瞬固まった俺の頭越しに浮かせ俺を抜き、ぽんとボールが着地した上に足を載せる。
 シャペウっていうテクニックだけど――こんなの、それこそJリーグとか、日本代表とかそういうレベルの話だ。チームの連中が、わっと歓声を上げる。
 土方監督は、苦笑の表情を浮かべたまま、少し先から俺を見下ろして肩をすくめて言う。
「とりあえず、こんなところだけど――これでも、俺は指導役として不足か?」

 言い返すことなんかできるわけもなく、土方監督は当然ながらチームの面々に歓呼の声をもって迎えられた。
 でもそうして始まった土方監督のトレーニングは、俺にはどうにも物足らないものだった。奈良原監督のものと比べて、厳しさってものがまるで欠けてるんだ。
 ランニングやなんかの基礎トレはもちろんするけど、体力が余る程度にしかしないっていうか。それよりも1vs1とか紅白戦とか、そういうゲーム形式の練習の方が多かった。
 だからチームメイトは喜んでたけど、俺は渋い顔にならざるをえなかった。奈良原監督から、アスリートにとって基礎的なトレーニングがどれほど重要かってことは脳の芯まで叩き込まれている。基礎的なトレーニングをどれほど積んだかで、試合でどれだけ動けるかが決まるんだって。
 なのに土方監督の組むトレーニングメニューは、今楽しければそれでいい、みたいなちょろいメニューばっかりで、この人試合に勝つ気ないのか、それともトレーニングの知識がないのか、と俺は危ぶまずにはいられなかった。
 そのくせ、サッカーの腕はとびきりなんだ、この人。個人トレーニングをしてる時に、いろいろ細かい指導とかしてくれるんだけど、それがまたいちいち正しいとこ突いてるっていうか、言われた方法を試しただけでぐっと自分のプレイが変わるのがわかるくらいなんだもん。
 だから監督として認めないとは言えないんだけど、手放しで褒めることもできないっていうか、むしろ、どうにも気に入らない。そんな気持ちで俺はイライラムカムカしながら、練習日は集合三十分前からグラウンドに入って練習する、という今まで通りのペースでクラブに通っていた。んだけど。
「なぁ、芹沢。お前いっつも眉間に皺寄せながら練習してるよな」
 そんなことを土方監督が言ってきたのは、監督就任から二週間くらい経ったある日だった。
「もしかして、練習メニューに不満があるのか? それとも、俺に指導されるのが気に入らない、とか」
 真正面から、笑みさえ浮かべながらきっぱりはっきり言われて、俺は正直かなりうろたえたんだけど、必死に無表情装ってしゃんと胸張って言い返す。
「……別に、そういうつもりじゃ、ありませんけど」
「じゃ、つまんないのはサッカーか?」
「っ………」
 予想外のところから心の内に切り込まれ、俺は小さく息を呑んだ。
「つまんないならつまんないって言っていいんだぞ。むしろ言ってほしい、っていうのが正直なとこだな。そうでないと、練習メニューをどう改善していくかっていう指針も立てられないから」
「は……?」
 これまた、予想外の言葉だった。なんでつまるだのつまらないだのが練習メニューと関係してくるんだ?
 俺のそんな表情を読み取ったのか、土方監督はちょっと笑った。
「なに言ってるのかわからない、って顔だな」
「…………」
「なぁ芹沢。お前、サッカー好きか?」
 そんなまるで漫画かドラマみたいな台詞に、俺は妙なプレッシャーを感じ口ごもったが、この場合応えはYES≠オかありえないのでのろのろとうなずく。土方監督もそれにうなずきを返した。
「そりゃなによりだ。……で、芹沢は、サッカーを中学でやめようとか、考えてるか?」
「は?」
 思わず声を上げてしまう。なに言ってんだこの人?
「はは、そんなの考えてみたこともない、って顔だな。……これから先も、続けたいか」
「…………」
 問われ、監督の意図が見えないながらもうなずく。俺は高校に上がっても、できればずっとサッカー続けたい。夢かもしれないけど、プロになりたいとか、こっそり本気で思ったりしてるんだ。
「そうだよな。本気でサッカー好きな奴が中学であっさりやめられるわけない。……俺は、ジュニアユースのサッカーっていうのは、『そこで終わる』ことを前提にしたものじゃなくて、これから先もずっと、それこそ一生続くサッカー人生の、始めかその少しあとくらいのものとして考えてる」
 とりあえず無言で監督の話を聞く。まだまるで話が見えなかった。
「で、だ。中学時代のトレーニングとして必要なのは、まず成長段階に応じた体力をつけること。その選手にとって必要な技術を身につけさせること。そしてそれ以上に、アスリートとしての意識と、プレイヤーとしての意識を持たせることだと俺は思ってる」
「は?」
 また声を上げてしまった。アスリートとプレイヤー……って、どういう意味だ?
「つまりな、サッカー選手として、今自分にどんな練習が必要かとか、今やっている練習はなんのためにあるのかとか、実際に試合でどういう風に動くのがベストかとか、必要な栄養やら休息時間やらを取ろうとする自己管理を覚えることとか、そういう考えて<Tッカーをするっていう意識。それと同時に、『サッカーって楽しい』って思う意識……というか、力かな。を、持たせること。それがなによりも必要だと思うんだ」
「……はぁ……?」
 まだ意味がよくわからない。考えて<Tッカーをするっていうのはよくわかる。どんな専門書にだって、『今なにが必要か』っていうことを意識して、『そのためにどうすればいいか』ってことを考えてサッカーすることの大切さは書かれてる。
 でも、『サッカーって楽しい』って思う意識って、なんだよ。力って? そんなの、気持ちの話じゃないか。そんなのがうまく、強くなることとどう関係するんだ?
 俺の疑問の表情に、土方監督はまた小さく笑ってみせた。
「ぴんとこないって顔だな。……考えてサッカーをすることの大切さは、お前ならわかるよな? 練習はなによりも各選手の意識が大切だし、試合でただ監督の言われた通り動けばいいなんて奴はまともな選手にはなれない」
「はい」
「だけど、だ。人間って、こうするのが正しいからってあっさりその通りに動けるものでもないだろ?」
「え?」
「練習がつまらなくてサボりたくなったり。そこまでいかないまでも、やる気が出なくてとろくさく動いたり。集中できなかったり。そういう経験って、お前はないか?」
 うぐっ、と俺は言葉につまった。『ないか』どころじゃない、それを今現在進行形で体験してるところだ。
「そういう時にな。心身をしゃんとさせる力になってくれるのが、『自分がサッカーを好きだ』っていう意識だと思うんだ」
「え……?」
「『サッカーは楽しい』っていう意識があれば辛い状態でもサッカーを頑張ろうと思える。頑張っていればそのうちまた本当に楽しくなってくる。『サッカーは楽しい』ものなんだって思う力がないと、サッカーを続けることができなくなっちまうんだよ。義務感とか、惰性……これまでやってたからってだけじゃ、サッカーを一生続けることはできない」
「………、っ…………」
「それに楽しければ練習時間も自然と伸びる。楽しければもっとやっていたいと思うし、たくさん時間を費やしていれば自然ともっと強くなりたいと思う。そういう風に思えれば自然と自分から努力するようになる、だろ?」
「…………、………」
「俺は、このサッカークラブに入った子たちに、一生サッカーを続けられる選手になってほしいんだ」
 俺をまっすぐ見つめながら、土方監督は言った。
「こういう風に指導役としてサッカーに関わるのは初めてだから、いろいろ手探り状態で申し訳ないんだけどな。それでも、今の俺のやり方は間違ってないと思うし、実際それなりの手応えも得てる」
「え……」
「クラブの中にサボりがちな子、何人かいただろ? その子たちも欠かさず参加するようになってきてるし、練習時間も自然と少しずつ伸びてってる」
「…………」
「それに運動量自体はさほど変わってないんだぜ。奈良原さんは基礎トレ重視だったから『辛い』ってイメージが強くて、『楽しい』練習だとお前みたいな奴には物足りなくないって気持ちになるかもしれないけど」
「…………!」
 この人、わかってたのか。俺の考えてること。
「もちろん、厳密に調べれば運動量減ってるは減ってるんだろうから、体力をつけるって意味じゃ練習のレベルが低くなってるのは確かだろうし。まぁ、そっちの方もおいおい強化してくつもりだけどな。その他もろもろ、俺の気づいてない点もあるだろうし、だから俺のやり方が100%正しいかっていうとそういうわけじゃないけど……」
 土方監督はじっ、と俺と、真剣な瞳で、はっきり視線を合わせながら向き合い、深く頭を下げる。
「俺は、お前たちとサッカーをして、勝つために全力を尽くす。だから、お前も俺を信じて、ついてきちゃくれないか」
「………っ………」
 俺は一瞬言葉を失ったが、すぐにぎゅっと奥歯を噛みしめ、拳をぎゅっと握って、足の筋肉に力を入れてぎっと睨みつけるように土方監督を見上げ言った。
「わかりました」
 それだけ言って、俺は練習に戻った。練習の間の休憩時間に話してたんだから当たり前っちゃ当たり前なんだけど、俺はそのことにこっそり感謝していた。
 そうでなきゃ、すごくガキっぽいとこを見せちゃいそうだったからだ。土方監督の言っていることは正しいって理性では判断できるのに、心が思いきり叫んでたから。
『冗談じゃないふざけんなあんたなんかにいちいち偉そうに指図されてたまるか!』
 ――土方監督は、サッカーの技術も高いし、指導方法についてもちゃんと考えがあるみたいだし、選手一人一人をちゃんと気遣ってくれるし、いい監督だとそう思うのに。
『理性では』そう思うのに。なぜか腹が立って、監督が俺になにか言うたびに苛ついて、なぜかはさっぱりわからないけど、泣きそうな気分になっちゃってたからだ。

 シーズン初の試合はアウェーだった。まぁ日本のジュニアユースだし、そうそうヤジやらなにやらが飛んできたりはしないけど、それでもやっぱりちょっと緊張する。
 俺は先発のウイングをもらっていた。いつもと同じ定位置のポジション。それを与えられたことに、内心深く安心する。
 敵のチームはやたらケズってくる――ラフプレーをする傾向が強いのがなんだけど、それ以外はうちのチームにとっては警戒するような敵じゃない。そういう思いがあるので、ミーティング中も雰囲気は緩かった。
 そんな中で土方監督は一人、厳しい表情で檄を飛ばしていた。
「気を抜くなよ。向こうにとっちゃホームだ、なんとしても勝ちたいはず。たぶんガチガチに削ってくるぞ、ボール持ってる奴周囲に気を配れ!」
 それでいくぶん空気が引き締まりはしたものの、それでもやっぱりたいていの奴は『まぁ、それでもたぶん勝てるよな』というように思っていたと思う。俺も俺なりに気を引き締め、気合を入れていたつもりだけど、それでもやっぱりどこかで侮るような気持ちはあった。
 だけど実際に試合が始まると、その考えがどれだけ甘かったか思い知らされた。向こうの勢いが、これまでとはまるで違う。ケズってくるっていうよりほとんどこっちを殺そうとしてるんじゃってくらいの気迫で迫ってくる。足の速さやフィジカルの強さなんかも、これまでと比べると明らかに一段上だ。
 俺も必死に攻めたけど、向こうの勢いを抑えきれず、前半で先取点を許し、1-0のままハーフタイムに突入してしまった。
 それぞれ落ち込んだ顔で戻ってくる選手たちを、監督は厳しい顔で出迎えた。きっと思いきり怒鳴られるに違いない、と選手たちは全員覚悟してたと思う。前の奈良原監督は、こういう時俺たちをめためたに怒鳴り罵るのが常だったからだ。
 けど、土方監督は俺たちを座らせて、静かな口調でこう言った。
「みんな。前半押されっぱなしで、先取点取られて――負けて、悔しいか?」
 それぞれ言っている意味がよくわからない、という顔をしながらもうなずく。そんなのは当たり前だ、負けて嬉しい奴はいない。誰だって勝ちたくて――一生懸命練習して、相手に勝った時の気持ちよさを味わいたくてサッカーやってるんだ。
「なら、目を閉じてみろ」
 みんな一瞬ぽかんとしたけど、監督の顔が真剣だったんで気圧されて揃って目を閉じる。暗くなる視界の中で、監督の低い声が響いた。
「思い出してみろ。俺が来てから、この一ヶ月の練習を。……お前らは、何度1vs1をやった? 何度ダッシュで、ランニングで一位を競った?」
 言われてはっと俺は思い出す。監督がこれまで一ヶ月やらせてきた練習は、いつも勝負を意識させるものだった。1vs1や紅白戦はもちろん、ランニングやダッシュだって監督は勝負を意識させてきたんだ。いくつかのグループに分けて一位競わせたり、一番タイム上げた奴にご褒美ってジュースおごったりとかで。
「その時負けた時の悔しさを思い出せ。悔しいって、次は絶対勝ってやるって思っただろ。勝った時の嬉しさを思い出せ。やったぜ次も勝ってやるって思っただろ」
 ……思った。当たり前だ、どんな時だって負けるのは悔しいし勝つのは嬉しい。
「向こうは、前半のお前らを気迫で負かすくらい『勝ちたい』って思ってるんだ。このままじゃ負ける。チームそのものがな。お前ら全員がはっきりと、向こうに負けたって事実が刻まれるんだ」
 ………………。
「勝って、また気持ちよさを味わいたいなら食らいつけ! 死に物狂いになれ! 気合入れてぶつかってこい! その上で頭の中はクールに、俺が教えたように周りよく見て一瞬でその状況で一番いい方法考えてやってみろ! そこでようやくお前らは、向こうのチームと同じ土俵に立てるんだ」
『…………』
 みんな一言も喋らず土方監督の言葉を聞いていた。チームの全員の頭の中に、監督の言葉が染み通っていくのがなんとなくわかる。
 俺も、監督の言葉になんだかぐっときたっていうか、気合が入ったっていうか、そういう気持ちになった。なったんだけど――
 それでも心のどっかが、『あんたなんかにそんなこと偉そうに言われたくねぇよ!』って癇癪起こしたガキみたいに叫んでた。
「よし! 全員いい顔になったな。後半、気合入れて行ってこい!」
『はいっ!』
 声を揃えて叫び、後半が始まるや真っ先にグラウンドに飛び出しながらも、俺の神経はやたら苛々してしょうがなかった。なんだよ、なんでそんなこと言うんだよ。あんたなんかにそんなこと偉そうに言われたくねぇよ。あんたなんか――そりゃ、サッカーうまいし、チームのみんな懐いてるし、指導力もあるっていうか、深いこと考えてるなっていうのはわかるけどでも、だけど。
 ――俺のことなんか、なにもわかんないくせに!
 そんなわけのわからない苛立ちとともにキックしたシュートは、バーに当たってラインを割った。くそっ、と思わず舌打ちすると、笛が鳴る。
「選手交代! 芹沢に代わって、梅原!」
 ――え!?
 選手交代。俺が? 梅原と? そりゃ、梅原は練習も熱心にするし、最近上手くなってきてるとは思ったけど、だけどそんな、フォワードを任せられるほどじゃ――
 愕然と土方監督を見つめる。監督は厳しい表情で、俺に向かい顎をしゃくった。――とっとと戻ってこい、って言ってるんだ。
 俺はまだ呆然としたまま走ってベンチに戻る。梅原が(もうアップを済ませてたんだろう)俺と入れ替わりに、きらきらって擬音が聞こえそうなくらい顔を輝かせてビブスを受け取りグラウンドへ出ていく。
 俺はふらふらとベンチに座り込み、グラウンドを走るチームメイトたちを見つめた。みんな懸命に、それこそ死に物狂いって顔でボールを追っている。全員すごく気合が入ってるのは、よくわかった。
 だけど、俺も。俺だって気合入れてたつもりだったのに。俺だって死に物狂いのつもりだったのに。
 なのに、引っ込められた。俺の力が、能力が、試合に使うのに足りないって、俺じゃ駄目だって言われたんだ。
 なんだか、ものすごく、頭がぐわんぐわんするくらいショックで、まともに試合を観戦することもできなかった。

 試合結果は3-2でうちの勝ち。だけど、俺は喜ぶような余裕はまるでなかった。
 土方監督は満面の笑顔で「よくやった!」とチームメイトたちを褒めた。
「けど気を抜くな! まだ判断に戸惑いや遅れがあったり、フィジカルが足りなかったり、テクニックが甘かったり、直さなきゃならないところはいっぱいあるぞ! でも、それはそれだけこれから強くなれるところがいっぱいあるってことでもある! 今回の試合の録画、希望した奴には渡すから、それを見て自分に足りないところや、ここはこうすべきだったってところを見つけていろいろ考えてみろ! そうしたら、お前たちはもっと強くなれるぞ!」
『はいっ!』
 チームメイトたちも満面の笑顔だった。監督に向けられた信頼の気持ちがばりばり伝わってくるくらいの。そりゃそうだ、監督の言われた通りに気合入れまくって戦って勝てたんだから、この監督についていきたいっていう気持ちになるには充分すぎるシチュエーションだろう。
 だけど、俺はそんな顔をする気には全然なれなかった。ていうか、表情を取り繕う元気もなくて、うつむき加減にみんなに合わせて声を出すしかできなかった。
 こんなんじゃ駄目だ、ちゃんと監督の方を向かなくちゃ、って思うのに、監督を見るのが怖かった。監督が俺を『見限った』っていうことを、改めて目の当たりにさせられるのが怖かったんだ。情けないとは思う、けど、正直とても監督と向き合う元気なんてなかった。
 それから念入りにダウンしてから解散になったんだけど、帰り際に、俺は監督に声をかけられた。
「芹沢。時間があったらちょっとつきあってくれるか」
「……はい」
 来るべき時が来た。俺は、そう思ってうなずいた。

 てっきりその場で話をするんだと思ったんだけど、監督はチームの荷物を自分のライトバンに載せながら俺に笑って言った。
「保護者の方に連絡取ってくれるか? 俺の家に連れて行きたいんだけど、一応行っていいか許可もらっておかないと駄目だろうしな」
「は……? あの、なんで、監督の家に……」
 俺の眉を寄せながらの問いに、監督は笑顔のまま言った。
「お前に見せたいものがあるんだよ」
「……はぁ」
 言われるままに携帯で家に連絡を取る。当然ながら父さんも母さんも家にはいなかったんだけど、タカさんに『サッカークラブの監督の家に行ってくる』と言うとあっさりOKが出た。
 ライトバンの助手席に乗り込みしばらく走る。土方監督の運転は上手だった。ほとんど揺れを感じないままに道を進み、街中の一軒家にたどり着く。
「俺以外に誰もいないから、気兼ねしなくていいぞ」
「え……あの、ご両親は……?」
 普通監督くらいの年で一軒家を買うっていうのは相当難しいことのはずだ。
 そんな俺の疑念に、土方監督はあっさり答えた。
「いや、俺の両親俺が大学生の頃に死んでるから。いわゆる親の遺産ってやつ」
「! あ、の……すいま、せん」
「謝ることないって。まぁアパートとかよりは広いから掃除は大変だけど、その分荷物やなんかを置く場所は多いからな。ほら、上がった上がった」
 言われる前に上がり、居間に通される。大人が一人暮らししている家になんて当然行ったことはないからつい周りを見回してしまったけれど、見える限りでは友達の家とさほど変わらないような気がした。あえて言うなら、家の面積に比してものが少ないくらいか。
 監督は温かいお茶と、お茶菓子にどら焼きを出してくれた。ちゃんと淹れたお茶のいい匂いが部屋に広がる。
「自分用の流用で悪いんだけどな。まぁ、そのどら焼きうまいから、勘弁してくれ」
 笑って俺の隣に座る監督に、俺は固い表情で首を振り、訊ねた。
「見せたいものって、なんですか」
「ああ……」
 言われて監督は、なぜかにやりと笑った。
 そしてちゃぶ台の上のリモコンを取り、ピッピッと操作してテレビをつける。テレビを見るのかと思いきや、どうやら素人の撮ったビデオらしくて、わりと大きめなハイビジョンTVには中学生ぐらいの年齢の奴らがサッカーの試合をしているシーンが映った。
「あ……」
 これ、もしかして。いや、間違いない、だってこの試合は俺も見てたんだ。
 監督の方をばっと振り向くと、監督も真面目な顔でうなずく。
「ああ、これは去年の、法篭レイニーズが全国大会出場を決めた時のビデオだ。奈良原さんからもらってたのを思い出してな、お前と見ようと思ってたんだよ」
「…………」
 俺は口をつぐんで、テレビに映し出される映像を見つめた。去年の法篭レイニーズ。それはどの選手もレベルが高くて、これなら全国大会に行ってもおかしくないだろうってレベルで、なにより――
 スターがいた。センターフォワードで、明らかに他の奴らとレベルが違う選手が一人いたんだ。
 見事なボールコントロール。きれいだとすら感じさせるほどのドリブルやシュートのテクニック。ピンチになっても冷静で、驚くくらいクレバーな判断でチーム全体を動かしている。
 それは、もちろん、兄さんだった。芹沢輔。俺の三つ年上の兄で、勉強もサッカーもこれ以上ないってくらいに優秀で、なにをやらせても完璧にこなしてみせる人。
 絶対に、届かない人だ。
 兄さんだったら今日の試合だってシュートをバーに当てるなんてこと絶対なかっただろうに。試合中に交代させられるなんてことなかっただろうに。兄さんだったら――
「兄貴が眩しくて眩しくて仕方ないって顔だな」
「っ」
 ほとんど意識してなかった監督に横から声をかけられ、俺はびくっと震えた。別に絶対に隠したいってわけじゃないけど、こんな、兄さんは兄さんで俺は俺だってわかってるのに兄さんを羨ましがるような顔、人に見せたいわけがない。
 だけど土方監督は俺の隣でビデオを見ながら、容赦なく続ける。
「まぁ、それもわからなくはないな。芹沢……輔、だったよな? お前の兄さん。実際いいフォワードだよ。ボールコントロールもドリブルやシュートのテクニックも、この年頃にしちゃ確かに全国レベルだ。敵の隙を見抜く目もいいし、足も速い。とっさの判断も見事なもんだ。これを見たらまずどんな監督でも『欲しい』っていうレベルの選手だよ」
「…………」
「だけど、それだけだ」
「え」
 俺は思わず声を上げてしまっていた。それだけって――それだけって、なんだ?
 監督は俺の方を向いて、淡々と言葉を紡ぐ。
「お前の兄貴、高校でもサッカー続けてるか?」
「え? い、え。家の病院継ぐのに勉強しなきゃいけないから、サッカーは中学でおしまいにするって……」
 聞いた時俺をたまらなく悔しい気持ちにさせたその言葉に、土方監督はさもありなんと言いたげな顔でうなずく。
「だろうな。こいつは、そういう奴だ」
「そういう、奴って……」
「なにをやらせてもうまくこなす。真面目にやれば見事な結果を出してみせる。だけど、本気で死ぬ気で頑張ってきた、それに人生懸けてきた一流の選手には、天地がひっくり返ったって太刀打ちできない」
「え……」
「全国大会に出てそれがわかったから、それ以上恥をかかないためにサッカーをやめたんだろ。自分の負けるところを人に見せるのが嫌だから」
「…………」
 俺はもうぽかんとしてしまっていた。なに言ってんだこの人、とさえ思っていた。
 だって今まで兄さんを悪く言った人なんていない。なにをやらせても上手で、優秀で、それだけじゃなく人に対する気配りもちゃんとできて、そんな少女漫画のヒーローみたいな人にケチを、それもひがみっぽい愚痴じゃなくあくまで冷静に、客観的に見てる顔でつけるなんて人。
「わりといるんだ、こういう奴。うまいんだけど、強くない。自分の失敗を人に見せられないし、自分でも認めたがらない。だから狭い世界で王様ごっこしてるって奴。要はただの気取り屋だ。――そんな奴を、俺は自分のチームに入れたいとは思わない」
 まだぽかんとしている俺を、土方監督は真正面から見つめて言う。
「お前は、そんな奴になりたいのか」
「え……」
「死ぬ気で、死に物狂いで頑張って、みんなと一緒に努力して、そして勝つ。そういうプレイヤーじゃ、嫌なのか」
「そんなこと……ないです、けど」
「なら、いつまで兄貴にこだわってるつもりだ」
「え」
「兄貴のプレイ目指して頑張って。そんな低い目標で、この先ずっとサッカー続けていくのか」
「――――」
 俺は、大きく目を見開いた。そうか――そういうことだったのか。
 俺は、サッカーする時、いつの間にか、兄さんのサッカーを目標にしてプレイしちゃってたんだ。兄さんのサッカーを、あの胸のすくぐらい見事なシュートを目指して。
 だから、サッカーがつまらなくなってたんだ。家でも小学校でも、いつも兄さんと比べられて、ずっと俺は兄さんの下で、大好きなこれだけはって打ち込んだサッカーでも奈良原監督に比べられて。
 それで、いつの間にか自分でも兄さんと自分を比べちゃってたなんて。兄さんのサッカーと比べて、ここが足りないあそこが駄目って駄目出ししてたなんて。
 そりゃ気合が入らなくなるのも当たり前だ。俺は、俺は、なんて―――
「あ……は、あははははっ」
 俺は思わず笑い出した。唐突に。噴き出すようなおかしさに耐えきれなくて。
 監督は、妙な目で見られるんじゃないかっていう俺の予想を裏切って、優しく俺を見て笑うと、ぐいと俺の体をひっぱった。俺の体が、監督の腕の中に収まる。
 つまり監督に抱きしめられた格好になるわけで、普段ならそんなの恥ずかしくて嫌がってただろうに。
「あはははっ、あはっ、はぁっ、あは、あははっ」
 俺は笑いを止めることができなかった。それどころか、むしろすがりつくように監督に抱きつく。
 監督はぎゅっと抱き返してくれた。力強い腕で。なんでなのかはさっぱりわからないけど、俺には、その腕が泣きたくなるほどありがたかった。
「あは、あはは、はは、は―――」
 泣きたくなるどころじゃない、本当に俺はいつの間にか涙をこぼしてしまっていた。ぽろぽろぼろぼろと。監督から離れなきゃ、濡らしちゃう、と体を動かしかけたけど、監督はぎゅっと俺の頭を支えて胸の中に抱き込んでくれて、俺はもうたまらなくなってぐりぐりと頭を監督の胸に押しつける。
「あはは、あは、は、はぁっ、はっう……ふ、う、うぅ、ぅえ、え、うえぇぇえ………」
 俺の笑い声はいつの間にか情けない涙声に変わっていた。泣きじゃくりながら必死に監督にすがりつき、監督はそれに応えてそっと俺を抱きしめてくれた。
 情けなくて、恥ずかしくて、みっともないけど――監督の胸の中は、『泣いてもいいんだ』って思えちゃうくらい、広くて温かかったんだ。

 泣いて泣いてそれこそ涙が涸れる勢いで泣いてから、まだ鼻をぐすぐす言わせながらも俺はのろのろと監督の胸から顔を起こした。もうみっともなくて恥ずかしくてまともに監督の顔が見れなかったけど、監督は笑ってぽんぽんと俺の頭を叩いてくれる。
「すっきりしたか?」
「……はい。あの、もしかして、俺にこのビデオ見せたのって……」
「ああ、まぁ……吹っ切れるきっかけになるかもしれないと思ってな。もちろんそんな簡単にいくことじゃないだろうとは思ったけど、やらないよりはって」
「俺が……兄さんのこと、どういう風に思ってるか……わかって、たんですか」
「お前のサッカーを見てれば、自分のサッカーができなくて苦しんでるってくらいわかるさ。あとは……奈良原さんから嫌ってくらい聞いてたからな、芹沢輔がどれだけすごいフォワードだったかって」
「…………」
「で、ビデオなんかもいろいろ見せてもらってたんだけど、俺は正直好きになれないタイプの選手だと思った。で、そこに弟の翔が今チームにいるんだがそいつは輔にはまだまだ及ばないだの輔と比べてあそこが足りないだのといろいろ抜かしてくださるから、その子はさぞ嫌な思いをしてるんだろうなってチームに来る前から思ってたんだよ」
「……土方監督って……奈良原監督と、仲、悪いんですか?」
「いや? 単に俺が奈良原さんを好きになれないだけ」
「え……」
「あの人の指導方法って『苦境を乗り越えさせることで力をつけさせる』ってやり方だから、辛い基礎トレ無駄に大量に課すし気合入れって人傷つけるような台詞山ほど吐くだろ。俺はそういうやり方は好きじゃない。兄弟だからって選手を比較するような考え方もな。ま、俺もまだまだ未熟者だからな、ついこっそり心の中で腹立てたりとかしちまうんだよ」
「監督は……未熟者とかじゃ、ないです」
 俺がうつむきながらぽそぽそと言うと、土方監督はちょっと驚いたように目を見開いてからちょっと笑って、わしわしと頭を撫でてくれた。
「そっか、うん。芹沢はいい子だな」
「子供扱い……しないで、ください」
「悪い悪い。さって……とりあえず、お前は顔洗う……か、いっそ風呂入るかしてきた方がいいな」
「へ?」
「鏡見てみろ、顔どろどろだぞ。涙と鼻水で。そんでそれが胸にもその上の服にもべったりついてるし」
「うぇっ!?」
 俺は慌てて確認し、うわぁと眉を寄せた。本気で涙も鼻水もだらだら垂れ流してたらしく、鼻の下から胸にかけてがもうこべこべになっている。
 はっ、と気づいて監督の方を見て、うわぁ、と泣きそうになってしまった。監督の胸から腹にかけてがべとべとのこべこべになっている。俺の涙も鼻水も、しっかり吸ってしまったんだろう。申し訳なさにもう土下座したくなってしまった。
「あ、あの、監督、お先にどうぞ。俺、家に帰ってからでもいいですし」
「は? なに遠慮してるんだ、いいよ先に使って。試合のあとなんだから汗も流したいだろ?」
「いえっ! 監督の胸汚しちゃったの俺ですし、そんな無礼なことできませんっ」
「無礼って……ったく、中一のくせにナマ言いやがって。なら一緒に入るか?」
「えっ!?」
 俺は反射的に大声を上げ、上げたことに驚いて固まってしまった。なにここまで驚いてんだ、俺?
 そりゃ監督くらいの男の人と一緒に風呂入った経験なんてないけど、監督も俺も男なんだし別にいいじゃんか。問題ないじゃんか。なのになにここまで恥ずかしがってんだ、ガキか俺はみっともない。
「あ、悪い、お前も年頃だもんな、俺が悪かった。じゃあ……」
「いえっ! いいです、全然いいですっ! 一緒に入りましょうっ」
 ぎっ、と顔を上げてそう言うと、土方監督は目をぱちぱちさせてから苦笑して、立ち上がった。
「じゃあ、一緒に入るか。うちの風呂お湯たまるの早いから、その間に服を洗濯しとこう」

 家のよりかなり狭い脱衣所は、それでも二人一緒に入っても問題ないくらいの広さはあった。土方監督は先に立って入るや、さっさと服を脱ぎ始める。
 俺はそれを見てカッと顔を熱くして、そっぽを向く。それからなにやってんだ俺! と自分を罵った。
 なに恥ずかしがってんだガキみたいに、男同士だろ!? 自分から言い出しといてなにをいまさら!
 そう思うのに、心の底から思うのに、顔の熱は少しも引いてくれない。心臓もやたらばくばく言うし、恥ずかしくて恥ずかしくて監督の方まともに見れないし、なんでこんなみっともないとこ土方監督に見せてるんだ俺は、と泣きたくなってしまう。
「ほら芹沢、早く服脱いじまえ。俺の服と一緒に洗濯するから」
「はいっ!」
 声をかけられて頭がかぁっとのぼせたように熱くなる。監督に迷惑かけちゃだめだ、と必死の思いで服を脱ぎ、素っ裸になった。脱ぎながら手は震えたし、監督の前で裸になっちゃってるんだ、と思うともう恥ずかしさで死にそうになったけど、それでもうつむきながら監督に脱いだ服を突き出す。
「お願いしますっ」
「おう。洗濯しとくから、先に風呂場入っていいぞ。シャワーは出るから、先に体流しとけ」
「はいっ」
 俺はまともに監督の方を見ることもできないまま、扉を開けて風呂場に入った。中は俺んちのよりはやっぱりかなり狭かったけど、俺と監督二人でならちょうどいいぐらいの広さで――
「ああっ、もうっ! なに考えてんだ俺はっ」
 ばっ、とシャワーの栓をひねり、勢いよく流れ出してきた流水で頭を冷やす。でも流水はすぐにお湯になってしまい、俺の頭も体もどんどん温めてくれてしまった。
「おいおい、体流せって言ったからって、そのまんまお湯だけで流さなくても。ボディソープくらい使っていいんだぞ?」
 はっ、と反射的に声のした方を見て、俺の脳味噌はボンっ、と一気に沸騰した。そこには――当たり前なんだけど、風呂場に入ってきたんだから当たり前なんだけど、素っ裸の土方監督が立っていたからだ。
 しかも男らしく前を隠そうともせずに。俺の顔はたぶん真っ赤っ赤になってると思う、なんかもう恥ずかしくて恥ずかしくてわけわかんない。
 監督はやっぱり筋肉のしっかりついたいい体してて、でも無駄な肉は全然ついてないしなやかな感じで、でも高校生とか大学生とかじゃなくちゃんと大人ながっしりしたというか成熟したって雰囲気もあって、服着てる時と同じでカッコよくて――ってああもうホントになに考えてるんだ俺。
「どうした、芹沢。お湯流したまま固まってるぞ?」
 監督が一歩こちらに近寄る――とたん、俺はさらにかぁっと頭の芯を熱くしてばっと後ずさってしまった。
 俺は恥ずかしくて監督がまともに見れなくてうつむいてたんだけど、ちょうどその視線が監督の下半身にぶつかったっていうか、偶然目に入ったっていうか……その、つまり、もろに目に入ってしまったんだ。監督の、その……ちんちん、が。
 それはちんちんなんて言葉が似つかわしくないくらい立派な代物だった。大人なんだから当たり前なのかもしれないけど、俺のとは比べ物にならないくらいでっかくて、重量感すら感じさせる。それが俺のすぐ目の前にあって、いやいいんだけど男同士なんだから別にいいんだけど、なんか、なんか――
「っ!」
「っと!」
 濡れた風呂場で大きく飛び退り、当然の結果としてすっ転びかけた俺は、危ういところを土方監督に助けられた。土方監督の太い腕が、ごくやすやすと俺の体を支え、腕の中に閉じ込め支える。
「あっぶな……おい芹沢、どうしたんだお前。さっきから……様子おかしいぞ? なにかあったのか」
 すう、と土方監督が顔を近づけてくる。芹沢監督の腕の中で固まってる俺に。素っ裸で、監督も素っ裸で、そんな状態で逞しい監督に抱きしめられてる俺に、監督が心配そうな顔を近づけてくる。目の前に、監督の、よく陽に焼けたアスリートっぽい、実は初めて見たときから凛々しいと思ってた顔が近づいて――
「好き、です」
 俺の惑乱するほど熱い脳味噌は、気づいたらそんな台詞を口から吐いてしまっていた。
「俺、監督のこと、好き………です」
 監督が小さく息を呑む。その音で、俺ははっと我に返った。
 な、な、な、な、なに言ってんだ俺!? なに考えてんだなんでいきなりそんなこと、ついさっきまで監督のことむしろ憎らしいみたいに思ってたくせに!
 そりゃ初めて見たときからカッコいい人だとは思ってたさ、サッカーすごいうまいし。すごいサッカーテクニックを見せつけられるたびにすげぇって実はこっそり見惚れてたりもしたさ!
 けど俺は監督のことずっとムカついてて、だって俺のことわかりもしないくせにって、どうせ奈良原監督みたいに俺のことわかろうともしてくれないに決まってるって、こんなカッコいい人が俺のことわかってくれたらどんなに嬉しいだろうって思ったから、優しいのにいい監督なのにわかってくれないのが悔しくて、でも今さっき俺のこと本気で案じて気持ちわかってくれたんだってわかったから、だから――
 俺は心の中でこっそり愕然とした。それってつまり、最初から、俺は、土方監督のことを、つまりは、そういうことな、わけ、なのか?
『芹沢。それは……恋だぜ!』
 こんな状況下にまったく似つかわしくない半田の脳天気な声を脳裏によみがえらせつつ、ジャージャーと音を立てて流れ落ちるシャワーのお湯の中で、お互い素っ裸で土方監督に抱きしめられている恰好のまま、俺は真っ赤な顔で固まった。

 監督はしばらくの間黙っていた。俺も黙って監督の腕の中で固まっていた。
 頭の中はぐるぐるで、答え待つとかそういうことすら考えつかなくて、ひたすら真っ赤になって目の前の監督の顔を見つめ続けるしかできない。じっとこっちを見つめる監督の顔に、頭も体も完全にフリーズしてしまって。
 ばくばくいう心臓が痛くて痛くて、もう胸んとこが壊れる、ってくらい苦しくなった時に、ようやく監督は口を開いた。
「ありがとな、芹沢。俺のことを好きになってくれて、すごく嬉しいよ」
 ぼんっ、と脳味噌がまた沸騰する。う、う、嬉しいって、好きになってくれて嬉しいって、そんな、そんな――
「でも、悪いけど、お前の気持ちには応えられない」
 たまらなく熱くなっていた頭と体が一気に冷える。そうだ、当たり前だ、監督は大人で、男の人で、俺みたいな男のガキなんて相手にしてくれるわけなくて――
「高校卒業して、まだ俺のことが好きだったら言いに来い。その時改めて、きちんと考えるから」
「へっ?」
 俺は思わず妙な声を出してしまった。高校卒業してから言いに来いって……なんで? 考えるって……どーして? 意味がよく……
 ぽかんとした俺の顔を見て、監督は小さく苦笑した。最初会った時俺が勝負を挑んだ時と同じような、しょうがないなって感じの、俺の無知を許容してくれる笑い。
「お前くらいの年頃だとまだぴんときてないのかもしれないが……まずな、曲がりなりにも、俺はお前に対して指導者的な立場にあるわけだ。そんな人間が教え子に対して劣情を抱く……というか、色恋沙汰を持ち込むというのははなはだよろしくない。ひいき目が入ったり感情の行き違いを立場を利用して意趣返ししたり、公平に接することができなくなって、指導の妨げになるって考え方が根強いんだな」
「え……」
 俺はあぜんとした。なんだそれ。そりゃ、そういうことする奴もいるだろうけど、っていうか多いだろうけど、監督はそんなことするような人じゃ絶対ないって、うちのチームの奴だったら全員わかってるだろうに。
「次に、年齢の違いがある。年齢差だけなら……今お前13だったよな? 俺が26だから、十三歳差で、そのくらいのカップルもいなくはないってくらいだが、少なくとも現在の法律だと、事実上成人が未成年と恋愛することは禁じられてるんだ」
「え……!?」
「特に、わいせつ行為……わかるよな? まぁ、エロいことを大人が幼年者、この場合は十四歳未満の人間にした場合、問答無用で強制わいせつ罪になって、六ヶ月以上七年以下の懲役をくらうんだ。相手の子がしたかったかどうかは関係なくな」
「そ……そんな!」
 理不尽だ! なんだよそれ、子供が大人のこと好きになっちゃいけないのかよ! そりゃ、俺はガキかもしれないけど、人のことを好きになることくらい、優しい人を好きになることくらい、ほんとに――
 いきりたちかけた俺を、監督はぽんぽんと背中を叩いてなだめる。
「お前には納得がいかないかもしれないけどな、こういう風な法律になってるのはしょうがないところがある。世の中には子供に欲情する奴らはけっこういるし、子供を食い物にしてそういう奴らから金をせしめようって最低な奴らはもっといっぱいいる。こういう法律ができる前は、そいつらに子供がさんざん虐待されてきたんだ」
「でも……」
「ああ、ちゃんと好き合ってる奴らもいると思う。でも、好きって気持ちを外から測るのは難しいからな。弱気な子だったら、罰を与えるっておどすだけで言いなりにさせることもできる。虐待なのか好きあってるのかっていうのを、外側の人間が客観的に証明するのはまず不可能なんだよ。だから『子供はダメ』って強引に線を引くことで、救われた子供も決して少なくないと思う」
「…………」
 それは、そうなのかも、しれないけど……でも。
「だから、少なくとも俺は、お前の気持ちを受け止めることは高校卒業まで絶対にできない。もし高校卒業して、まだ俺のことが好きだったら、改めて言ってくれ。そうしたらちゃんと考えるから」
「…………はい」
 納得したくなんて本当はなかったけど、俺はこくん、とうなずいた。俺のせいで監督を犯罪者にしちゃうのとかやだったし……なにより、わがままを言って監督に、みっともないとか、ガキだとか思われちゃうのが――見限られちゃうのが嫌だったんだ。ものすごく。
「よし」
 監督は微笑んでうなずいて、俺の頭をぽんぽんと叩いてから俺の体を放す。
「じゃ、俺は上がるからな。お前はゆっくり入ってろ。お前の服は脱衣場に置いておくからな」
 そう言って俺に背を向け、監督は風呂場を出て行った。

 俺は湯船に張られたお湯に浸かりながら、ぼんやりとさっき起きたことを考えた。監督と一緒にお風呂入って、告白して……断られた。
 ……断られた、んだよな、あれ。でも、高校卒業したら考えてくれるってことは……少なくとも嫌だった、ってわけじゃないのかな。
 普通だったら、あんな真面目に対応なんてしないもん。中学生に、それも同性に、いきなり告白なんてされて。あんなに真面目に、誠実に、優しく……
 かーっと顔が熱くなってきて、俺はずぶずぶと体を沈めた。思い出したらものすごく恥ずかしくなってきた。あんないきなり、素っ裸で、あんな状態で告白とかなに考えてんだよ俺。変態みたいじゃんまるで本気でなに考えてんだ。
 ……っていうか、男の人好きになるって……普通に考えて変態、だよ、な。うわ……自分がそういうこと言われるのなんてこれまで考えたことなかったから、けっこうショックだ……俺、ホントに変態なの、か? 男の監督のこと、ほんとに、好きなのか、な……。
 そんな思考がちらっとよぎるや、脳裏に笑顔の監督がちらついて、カッと顔を赤くして俺はざぶんとお湯の中に頭を沈めてしまった。もちろん息が続かないからすぐ上がるんだけど、なんていうか、こんな、俺、めちゃくちゃ恥ずかしい……!
 ……うん、俺、やっぱり監督のこと、好きだ。最初からカッコいいって思ったのはホントだし……どうせこの人も俺のこと兄さんと比べるんだろうなって思ったら悔しくて負けたくなくてやな態度取っちゃったけど。監督は、そんな俺にも優しくして、そんで、俺の気持ち、わかって、そんでぎゅって、してくれて……
 かぁぁぁぁ、とさらに顔を熱くして風呂のお湯の中でぶくぶくと泡を立てた。うわぁもう、もう、思い出したらすごくドキドキしてきた。恥ずかしい、のに嬉しい。監督が俺のこと、ちゃんと見てくれて、優しくしてくれて……
 ……でも、俺の気持ち受け止めることは、絶対できない、って言ってたよな。
 ずーんと一気に気分が落ち込んできて、湯船のふちにあごを載せて頭をもたれかからせる。それってやっぱり、俺のこと、そんなに好きじゃない、ってことだよな……そりゃそうだよな、俺ガキだし、これまでずっと監督に突っかかってたし……
 ……でも、好きでもなんでもない奴に高校卒業しても好きだったら改めて言え、とか言うかな。単純に、俺の年齢だけが問題なのかな、ほんとに。も、もしかしたら、ちょっとくらいは俺のこと、好き、だったり……
 でも、やっぱり、普通に考えてそれってただ俺のこと傷つけたくないだけじゃないかな。だって普通教え子から告白されて成人男性が喜ぶわけないよ。俺のことなんか、監督が好きになってくれるわけ……
 でも、ちょっとは、ちょっとくらい好きじゃなかったら、あんなに優しく……
 でも……
 ………
 …………
『……おい、芹沢、ずいぶん長く入ってるけど、大丈夫か? ……芹沢? おい、芹沢っ!』
 ……そんなことをえんえん考え続けていた俺は、のぼせてぶっ倒れた。

「……すいません、監督。わざわざ送ってもらっちゃって……ほんとに」
「気にするな。大した手間じゃないって」
 風呂でのぼせた俺を心配して、監督は俺の家まで送ると言ってくれた。俺の家にも連絡してくれて、少し休ませてもらってから車に乗せてくれて。なんか、考えてみたら今日、俺監督に世話かけっぱなしだ……。
「……でも、迷惑ばっかおかけしちゃってるし……」
「馬鹿。そんなこと気にする余裕があるなら自分の体ちゃんと労わってやること考えろ。風呂上りにマッサージ、それとストレッチ忘れんなよ?」
「は、はいっ」
「よし」
 運転席からそう言って笑う監督に、俺の心臓はきゅーっとした。うわぁ、うわぁ、どうしようもう、恥ずかしくて、ドキドキして、嬉しいけど怖くて、なんかもう、わけわかんない。
 運転中も監督はいろいろ俺に話しかけてきてくれたけど、なんて答えたか覚えてない。心の底から舞い上がったりドキドキしたりなにやってんだ俺って落ち込んだりで会話の内容まで覚えとく余裕なんてなかったんだ。
 監督の運転は俺の家の辺りまで来ても正確で、あっという間に家の正門前に下ろしてくれてから、笑顔で言ってくれた。
「家の人にも改めてご挨拶しておきたいんだけど、いいか? お前湯当たりさせちゃったお詫びしなくちゃな」
「え! そ、そんな、わざわざそんなの申し訳ないです!」
「いや、自宅に招いたのは俺だからな。ここはきちんと筋を通しておかないと。今ご自宅にいらっしゃるのはお母さんでいいのか?」
「え、いや、たぶんまだ帰ってないと思います。今自宅にいるのは……」
 そこまで言うや、家の中からタカさんが飛び出してきた。ぱたぱたとこちらに走ってきて、門を開け、俺に半ばしがみつくようにして叫ぶ。
「翔坊ちゃま! ご無事ですか! ああもう本当に、連絡をいただいた時はどうなることかと思いましたよ。湯当たりだなんてそんな、芹沢の次男でらっしゃる坊ちゃまがそんな、はしたないですよ、まったくもう! もし万一のことがあったらどうなさるおつもりですか、ちゃんと気をつけてくださらないと!」
「ちょ、タカさん! 離れてよ、恥ずかしいなっ、もうっ」
 俺は慌ててタカさんを押し戻し、小さく囁く。
「母さんも父さんも、まだ戻ってきてないよね?」
「ええ……お二人には黙っておきますけれど、本当にこういうことはこれっきりにしてくださいな、翔坊ちゃま」
「わかってるってば! ……すいません監督、父さんも母さんもまだ戻ってきてないみたいなんで、挨拶とかそういうのはまた今度ってことで……」
 監督にぺこぺこ頭を下げると、監督は少し怪訝そうな顔で、タカさんの方を示し聞いてくる。
「そちらは?」
「えっと、うちのお手伝いさんの、タカさんって人で……」
「間島孝子でございます。……ご連絡は受けています、あなたがクラブの監督さんでいらっしゃるんですね? 坊ちゃまを湯当たりさせた、とうかがっていますが」
「ええ、はい。このたびは本当に申し訳ありません、こちらの不注意で……」
「まったくですよ! 翔坊ちゃまに万一のことがあったらあなた、どう責任を取られるおつもりですか! 曲がりなりにも自宅に招いたということはそちらでの監督責任もあなたにあるということでしょう? だというのに坊ちゃまを湯当たりさせるなんて、まぁあなた、本来なら旦那さまにご報告してきつくお叱りをいただくところですよ!」
「ちょ……タカさん! なに言ってるんだよっ、勝手にのぼせたのは俺なんだから、悪いのは俺だろ!? なんで監督を責めるんだよっ」
「いや、いいよ、芹沢。……本当に申し訳ありませんでした、お詫びのしようもありませんが、翔くんにはなんの責もないことですから、彼に罰を与えるようなことはどうかご容赦いただけないでしょうか」
 深々と頭を下げる監督に、俺はかぁっと頭に血が上るのを感じた。監督は悪くないのに、全然少しも悪くないのに、俺のせいで頭を下げさせちゃうなんて、なにやってるんだ俺は!
「……まぁ、わかってらっしゃるなら今回はよしといたしましょう。ただし、今度このようなことがありましたら、出るところに出てお話をさせていただきますから、その点きちんとご承知おきの上……」
「タカさん! いいから、もう戻ってよ! 仕事あるんだろっ!?」
「ま、翔坊ちゃま、そんな押さずとも……はいはい、承知いたしました。どうかお早くお部屋に戻ってお休みくださいね」
 タカさんを必死に押し戻して、俺は門の脇に立っていた監督のところに駆け戻った。少し戸惑ったような顔をしている監督に、勢いよく深く頭を下げる。
「すいません、監督! わざわざ送っていただいたのに、こんな……嫌な思いさせちゃって。本当にすいません!」
「いや……いいよ。まぁびっくりはしたけどな……お前がここまででかい家のお坊ちゃまだとは思わなかったし」
「! ………」
「あ、悪い悪いそんな落ち込んだ顔するな! 別に責めてるわけじゃないんだから。家がでかかろうが小さかろうが、お前はお前、法篭レイニーズの優秀な右ウイングなんだからな」
「あ……はいっ!」
「よーし、いい返事だ! ……じゃあな、芹沢」
「……はい」
 監督は門の前につけた車に乗りかけて、少し小さな声で呟くように言った。
「芹沢」
「はい?」
「練習、来いよな。待ってるぞ」
「え、はい。そりゃ、行きますけど……」
 なんでそんなことを言われるのかよくわからずきょとんとした顔になると、監督はこちらを振り向いて、なぜか嬉しげににこっと笑った。
「そっか、うん。うん。うん……待ってるからな」
「は、はいっ!」
 今度こそちゃんと車に乗り込んで去っていく監督を、俺は車が見えなくなるまで深々と頭を下げて見送っていた。顔を真っ赤にして、心臓がばっくんばっくん言うくらいドキドキしながら。
 ――その夜は、監督の言った言葉と笑顔が頭の中でぐるぐる回って、気持ちが舞い上がったり落ち込んだりを繰り返して、まともに眠ることもできなかった。

「なんだぁ〜? 芹沢、お前すっごい変な顔してるぞ? ほら、こ〜んな顔〜」
 眉根を寄せた変な顔を作って隣の席からにやにやと言ってくる半田に、俺は小さくため息をついて席に着いた。
 ……別に半田が悪いってわけじゃないけど、昨日あれだけのことがあったあとにこうしてまるっきりいつも通りな半田を見ると、日常の強固さというか無情さというか、そういうものを感じてしまう。俺がどんだけ大変な思いをしても、世界は変わらず回ってるんだなーというか。当たり前だけど。
「なーんだよー、なんか悪いもんでも食ったのか? ハライタ? 食いすぎ? セーリツー? 顔思いっきりしかめちゃってさ」
「……生理はあからさまに違うだろ」
 あんまり相手したくなかったけど一応適当に突っ込んでおく。するとそのやる気のなさが気に入らなかったのかなんなのか、立ち上がって俺の背中からしがみつくように絡んできた。
「もー、だったらなんなんだよー、言ってみろよー。盲腸? 胃潰瘍? 腸捻転? 脳梗塞? 心不全? 心筋梗塞?」
「そんな病気だったら学校に来れるわけないだろ……」
「だっからなんなのか言ってみろって。あ、もしかしてぇ、こいわずらい≠ゥぁ?」
「……そうかも」
「え゛!? マジでっ!?」
 あ、やばっ、と俺は思わず口を押さえる。相手するのが面倒で適当に相槌打ってるだけのつもりだったのに、つい反射的に口から肯定の言葉が飛び出てしまった。
 予想通り半田はきらきら目を輝かせてこちらに迫ってくる。面白いネタ見つけた! というオーラが目に見える気がするくらいだ。
「なぁなぁなぁなぁ、それって誰に!? 学校の奴!? それとも学外!? 意外に先生とか!? あ、むしろここは大穴で家族とかっ!?」
「ん、んなわけねーだろ! なにも、別に、そういう……」
 後ろめたい人じゃない、と言いかけて俺は口ごもった。監督の言葉からすると、十三歳年上のサッカークラブの監督(もちろん男)というのは、常識的に考えればものすごく後ろめたい相手なのかもしれないと思ったからだ。
 口ごもってうつむく俺を半田は怪訝に思ったらしく、下から顔をのぞきこみながら首を傾げてみせた。
「なぁなぁ、もしかして、なんかわけあり?」
「わけあり、っていうか……」
「なんか悩んでるなら相談乗るぜ? 一人で悩んでるより誰かに話した方が絶対いいって。別に俺お前がマジで家族に惚れたって言っても全然気にしないし!」
「いやそこは気にしろよ……」
 と言いつつも、俺は正直けっこう心を動かされていた。半田の言葉じゃないけど、昨日からずっと一人で悩んでて、もういい加減誰かに話を聞いてもらいたくなってたからだ。
 話したところで、解決するもんじゃないんだろうけど……と思いながらも、俺は考え考え口を開く。
「なぁ、半田……お前、本気で、俺が誰のこと好きになったって言っても驚かないか?」
 半田はちょっと目を瞬かせて、真剣な顔になって小さく訊ねてくる。
「そんなにヤバい奴なのか?」
「ヤバい、っていうか……社会的には、相当、らしい」
「……とりあえず、話してみろよ。驚くかもしんねーけど、ちゃんと話は聞くしさ」
「うん……」
 珍しく真剣な顔の半田にほだされて、俺は昨日のことを説明した。それまでの三週間、監督とどういう風に接してたかとか、どういう風に好きになってったのかってことも含めて。
 正直、半田のことはそれなりに信用してるけど、もしかしたら変な目で見られるんじゃないかって怖がる気持ちはちょっとあったんだけど、半田は真剣な顔で最後まで話を聞いてから、やっぱり真剣な顔で訊ねてきた。
「そんだけ?」
「は? そんだけって……」
「それで終わり?」
「お、終わりだよ。なんか文句あるのかよ」
 俺と机をくっつけて向かい合わせで(小声で)話をしていた半田は、ぐっでーと力を抜いて机の上に突っ伏した。なんていうか、なんかがっかりしたみたいな顔でぶちぶち文句? みたいなことを言ってくる。
「なーんだよー、お前すっげー深刻な顔してるからもっと超ヤバい相手かと思っちゃったじゃん! 幼児とか、動物とか、いっそヤーさんとかさー。サッカークラブの監督なんてもーチョー安パイじゃんかよ! もー、お前もーちょい空気読めよなー」
「な……なに抜かしてんだお前はっ! なんで俺が幼児とか動物とかヤーさんとか好きにならなきゃなんないんだよっ!」
「たたっ、てっ、いてーって! ギブギブギブギブー!」
 しばらく体育会系の腕力で痛めつけてやってから、ようやく解放してやると、半田はけほけほ喉を鳴らしながらも、不思議そうに聞いてくる。
「なら、なんでそんなに悩んでんの? 全然悩む必要ないじゃん、ガンガンアタックしちゃえばいーじゃんか」
「だから……アタックもなにも、俺はもう振られてんだよ」
「え! マジでっ」
「や、振られてるっていうか、なんていうか……高校卒業してからでないと、そういうのは考えられない、って……」
「へ、なんで?」
「……指導者的立場の人間が教える相手に色恋沙汰持ち込むのはよくないし、未成年相手の、そういうのはほとんど法律で禁じられちゃってるから、って……」
「……はぁ? なんだよ、それ」
 詳しく話してやると、半田はうさんくさそうな表情ですぱっと言った。
「それってさぁ、なんか言い訳くさくねぇ? 本音をごまかしてる感じするっつーかー」
「なんだよ、本音って」
「そりゃもちろん、ラブだよラブ! ホントはお前のこと好きでラブで押し倒してぇーっ! って思ってんのに、それがバレたら軽蔑されるとか社会的にマズイとか考えて本音ごまかしてんだよゼッタイ!」
「……えぇー……?」
 俺はさっき半田がしたのより数倍うさんくさそうな表情で半田を見た。だって、監督がそんなに簡単に俺のこと好きになったりとか、するわけない。そりゃ、すごく優しくしてくれるし、気にかけてくれるし、嫌われてるわけじゃないのかも、とか期待も込みで思っちゃったりしてるけど、俺監督にろくな態度取ってないし、だってのにそんな簡単に好きになったりするわけない。
 それに、監督みたいな立派な人が、そんなに簡単にお、押し倒すとか、そういうこと考えるとは思えないし。
 そういうようなことを言うと、半田はちっちっちっ、と舌を鳴らしつつ人差し指を振った。
「ったく、わかってねぇなぁ芹沢は。いいか? 男ってのはみんな狼なんだよ。ケダモノなの!」
「ケダモノって……それ男が言う台詞じゃねぇだろ」
「え、だって隣のにーちゃんが言ってたもん。『男ってのはどんなに口では立派なことを言ってても、頭の中はエロいことしか考えてねーもんだ』って!」
「またそれか……」
「だからその監督だってホントはぜってーお前のこと食っちゃいたいんだけど、せけんてーとかそーいうの考えて我慢してんだって! マジそれっきゃねーよ、決定決定!」
「なにが決定だよっ! ……ていうかな、監督は男なんだぞ? 普通に考えたらさ……俺に告白されたって、困るっきゃねぇじゃん。その、え、エロいことしたいとかもさ、普通思わねーと思うしさ……」
「へ?」
 半田は一瞬きょとん、としてからおずおずとした表情で聞いてくる。
「な、なー芹沢、あのさ……フツーの大人の男って、俺らぐらいの男と、やりてーとか思わないもんなの……?」
「え……だ、だって、普通に考えてそうだろ? 男が男を好きになるって……ホモ、になっちゃうしさ。普通だったらそんなの、嫌だと思うだろうしさ……」
「え……えぇー? だってにーちゃんは……あれー? おっかしーな、聞いた時は絶対間違ってねーと思ったのに……」
 考え込んでしまった半田に、なんだ急に、と思いつつも、一応相談してるの俺だしと俺は考えていた言葉をぶつけた。
「それに、監督はすっごい真面目な、いい人なんだよ。そういう人が俺のこと相手にしてくれるって、思えないっていうか……きっとモテるだろうし。優しいしカッコいいし、誠実だしさ。人のことをちゃんと見て、わかってくれる懐の広さっていうのがあって……」
「…………」
「サッカーもすごくうまいしさ。もうプロでも通用するんじゃってくらい。車の運転もうまいし。タカさん、あ、俺の家のお手伝いさんだけど、に理不尽な理由で怒られても受け流せるくらい器でかいしさ……」
「……のろけ?」
「ちげーよっ! だからそんなすごい人が俺のことなんて相手にしてくれるとは思えねーっつってんだよ!」
「そ、そーかなぁ?」
「そーだよ……俺、サッカーぐらいしか取り得ないしさ。そのサッカーも、まだまだへたくそだしさ。監督の求めてるレベルに達してるとはとても思えないし……だから……」
「うううう……うううう……」
 言ってるうちにどんどん落ち込んできた俺に、半田はうんうん唸り始めた。俺はだから相談してるの俺なんだけどな、と思いつつもため息をつく。
「……だから、俺みたいなガキ、監督にしてみれば適当にあしらうしかないって感じじゃないかと思うんだよ。俺のこと、そりゃ教え子としてそれなり大切には思ってくれてるのかもだけど、本当はただ、相手にしたくないから先延ばしにしたんじゃ、って。それだったら……高校卒業まで待ったって、結局さぁ……」
「むむむむぅ……」
 うんうん唸っていた半田は、唐突にだんっ、と立ち上がり、半ば喚くように叫んだ。
「あーもーわっかんねぇっ、俺にーちゃんに聞いてくる!」
「は!?」
「にーちゃんだったらぜってーちゃんと説明してくれるって! 待ってろよー、芹沢!」
「いやちょっと待てよ今から授業――」
 と言い終わる前に、半田は教室から走り去ってしまった。俺は呆然とそれを見つめてから、ずぶずぶと机の上に沈む。
「……説明されたって、どうにもなんないよ……」
 俺が先生に、少なくとも六年後まで全然相手にされないっていうのは、絶対に決まってることなんだから。
(ちなみに半田は廊下を走っているところを先生につかまって教室に強制送還されてきた。気持ちは嬉しい、というのは一応伝えておいた)

「おう、みんな、集まってるな!」
『はいっ!』
 サッカークラブの練習日。俺は早く行った方がいいのかな、遅く行った方がいいのかななどとぐるぐる考えて(そもそも行っていいのか、監督が本当は嫌な思いしてるんじゃないかとかまでちらっと考えちゃって)、結局いつも通りに三十分早くグラウンドに入って練習した。
 そして監督はいつも通りに集合時間ぴったりにやってきて、声をかけてくれた。んだけど。
(………っ……)
 いつも通りに元気よく返事をしたつもりだけど、心臓が一気にどっきーん、と跳ね上がる。どきどきどきどき、鼓動がうるさい。少しも落ち着かずに、体中に血液を送りまくっている。
 恥ずかしい。どうしよう、恥ずかしい。今俺、なんかすごく自意識過剰になってる。
 監督は俺たちみんなに向けて話してるのに、俺の方を見てるんじゃないかとか、俺の方見て俺に告白されたこと考えてるんじゃないかとか思っちゃって、恥ずかしさに死にそうになっちゃってる。
 それだけじゃない――俺、怖い。怖くて怖くてしょうがない。監督が俺の方見て、ちょっとでも困った顔したらとか、顔は普段通りでも心の中で嫌だなぁとか困った奴だなぁとか思ってたらって思うと、もう逃げ出したくて、死にたいなんて思っちゃいそうになる。
 俺がそんなこと考えてるなんてたぶん全然知らないだろう顔で監督は、いつものように明るく笑いながら俺たちをびしばし指導した。試合後の初めての練習ってことで、みんなが気合入ってるせいもあるんだろう、それに応えるようにこれまでよりもキツい練習量で、メニューも厳しかった。
 だけど、罵声を飛ばしたりとかやたら叱ったりとかそういうことはやっぱりなくて。新しいメニューを課す時は、これがどういう意味を持つ、なにに役に立つメニューなのかちゃんと説明してくれて。だからみんなもそれぞれに気合入れて練習して。その間も一人一人に声かけて、こうしたらもっとよくなるとかこういう風に心がけたら実戦でもっと役に立つとか教えてくれて。
 やっぱり監督は、すごく尊敬できる、すごく立派な監督で。
 ――俺なんか、どう転んだって、相手にしてくれるわけ、なくて。
 ぶんぶんと俺は首を振った。なに考えてるんだ俺、練習中によそ事考えるなんて最低だ。気合入れて、集中しなきゃ。仲間にも、監督にだって失礼だ。
 そう自分に言い聞かせて、懸命にボールを追って走る。――なのに。
 いつも目が勝手に追ってしまう。グラウンドの傍らで笛を吹く監督を、鋭く指示を出す監督を。選手の一人に声をかけ、手取り足取り技術を教えてやっている監督を。
 なにやってるんだ、集中しろ、そう何度自分に言い聞かせても。勝手に目が追って、声に耳を澄ませ、視線が通り過ぎるたびに身が震える。
 情けなさに泣きたくなった。監督はこんなにいつも通りに接してくれてるのに。俺に特に注目することも、目をそらすこともせずに。
 ――なのに、どうして俺は、考えてしまうんだろう。『監督にとって俺の告白ってそんなにどうでもいいことだったのか』って。『俺に告白なんて、大して動揺する価値もないことだったのか』なんて。
 情けない、みっともないけど、心は勝手にそう喚き立てる。嫌なのに。そんな、監督に自分の気持ちを押しつけるようなこと、嫌なのに。
 嫌で嫌で、みっともなくて、苦しくて――泣きそうになるのを必死に堪えて、俺は目の前のボールを蹴った。

「ただいま……」
 あからさまに沈んだ声で、勝手口の扉を開ける。そこではちょうど、タカさんが夕食を作っていた。
「まぁ翔坊ちゃま、お玄関から出入りしてくださいと、いつも申し上げておりますのに」
「……うん。……ごめん」
 それだけ言ってタカさんの横を通り過ぎ、風呂場へと向かう。その背中にまた声がかかった。
「あ、翔坊ちゃま! 今日は旦那さまと奥さま、輔坊ちゃまがおいでですから、きちんとした身なりでいらしてくださいね!」
「……はーい……」
 こんな気持ちの時にか、と心底面倒くさかったけど、少しでも隙見せたら父さんも母さんも寄ってたかって説教してくるからよけい面倒くさい。俺はしぶしぶシャワーを浴びてからちゃんとした服に着替えて、食堂へ降りる。
 やいなや叱る声が飛んできた。
「どうした、遅かったじゃないか翔。なにをしていたんだ」
 父さんと母さんが兄さんを挟んで嬉しげににこにこ笑ってる。俺は答えるのも面倒だったので、話を逸らした。
「……今日、なんかあったの。やけにご馳走並んでるけど」
 兄さんの前には山ほどのご馳走が並んでる。タカさんの作ったのじゃなくて、たぶん出張シェフを雇って作ってもらったもんだろう、それこそ一流レストランみたいな、フレンチやらなにやらの献立がずらりと。
 聞かれて父さんと母さんは、よくぞ聞いてくれたとばかりの満面の笑顔になって言った。
「実はな、翔。輔がな……」
「この前の全国模試で三位になったのよ! 三位よ、三位! 全国で! すごいでしょう!?」
「………すごいね」
 俺としては正直『……だから?』と言いたい気分ではあったんだけど、少なくとも父さんと母さんにはすごい重大事なんだろうと思ったから適当にうなずいておく。案の定二人は、心底嬉しげな顔で兄さんを褒め称えはじめた。
「まったく、輔がうちの長男でこれほど誇らしいと思ったことはない! 全国で三位だぞ、これは三年後には東大理3合格間違いなしだ!」
「本当ねぇ、あなた! これでうちの病院も安泰だわ! ああ、本当に輔、あなたがうちの子でよかった! どうせ輔より上位の子なんて勉強しかできないタイプなんだろうから、総合的に見たら絶対輔が日本一よ!」
「まったくだ! うちの病院を頼むぞ輔。これからも東大理3目指して頑張ってくれ。いや、いっそ海外留学してハーバードなんて手もあるぞ!」
「まぁあなたったら、そんな気の早い。それに輔が家を離れるなんて、そんなの私耐えられないわ」
 両側からそんな風に嬉しげに喚かれながらも兄さんはいつも通りの落ち着いた笑顔を浮かべてたけど、ふいに言った。
「父さんも母さんも、褒めすぎだよ。三位なんて運がよければ誰でも取れるさ。翔だって頑張れば取れるよ、きっと」
「いや、そんなことないって。兄さんが本当に頑張った成果だって」
 取れる取れないっていうより、そこまで勉強頑張る気全然なかった俺としてはぶんぶん首を振って兄さんを持ち上げておく。予想通り父さんと母さんは嬉しそうな顔になって、「そうだぞ輔」「あなただからできたのよ」と兄さんを両側から褒める。
「……俺の分、食べてもいい?」
「いや、待て! 輔がお前が仲間外れになるのは可哀想だろうと言うから、私たちはお前を待ってたんだぞ? ちゃんと乾杯まで待ちなさい」
「はーい」
 ていうか先に食っててくれて全然よかったんだけどなー、と思いつつも、俺は父さんたちがワインを開けて乾杯するまで待った。
 それから飯になったんだけど、その間もずっと父さんと母さんは嬉しげに兄さんを褒めまくる。こーいうの褒め殺しっていうんじゃないかな、と思いつつ俺はフレンチをばくばく食った。
 ……監督だったら、褒める時だってこんな風なこと絶対やらないだろうな。監督はいっつも、なにするにしても相手の気持ちを優先する人だから。
 褒めるにしたって相手が褒めてほしいって思ったところを、頑張った程度に応じて褒めてくれる。だから褒められた方だって、よっしゃあって気持ちになるしもっと褒められるように頑張ろうって気分にもなれるんだ。
 そういうことを、クラブのメンバー一人一人に対してやってくれて。気がつくなんてレベルじゃないよな、優しくて、面倒見よくて――誰に対しても。
 ずーん、と気持ちが落ち込んできちゃったんで、ばくばく飯を食って「ごちそうさま」と席を立った。父さんたちが珍しく「もう食べたのか」「もう少しゆっくりしてもいいのに」とか言ってきたけど(たぶん兄さんを褒めてるところを見せる対象がほしかったんだろう)、「宿題があるから」ととっとと退散する。
 部屋に戻って、ばふっとベッドに倒れ込む。は、と思わず息をついた。頭の中をぐるぐるするのは、やっぱりどうしたって監督のことだ。
 監督、今なにしてんのかな。明日の仕事の準備、とかかな。理学療法士、って言ってたよな、仕事。怪我とか病気とかした人とか、お年寄りにリハビリさせてちゃんと動けるようにする……。
 どんな風に仕事するんだろう、監督って。やっぱり真面目に、すごくちゃんとやるんだろうな。仕事仲間とかで……好きな人とか、いるの、かな。病院でするお仕事なんだから、ナースとかで、女の人も多いよな、きっと。モテるんだろうなぁ、絶対……。
 もしかして、恋人とか……いる、の、かな。俺に告白された時は、そんなこと全然言ってなかったけど……俺のこと、傷つけないようにって、思ったのかも。大人だから、やっぱり、その恋人と、エロいこととか、してるのかな……。
 じわん、と目が勝手に潤んできて、俺は慌ててごしごしと目を擦った。なに考えてんだ俺、勝手に一人で妄想して、落ち込んで。どうせ妄想するなら、少しは楽しいこと考えればいいのに。
 たとえばどんな? そう、たとえば……監督が俺のこと、好きになってくれたらどうしよう、とか。
 ぼっ、と顔が真っ赤になるのを感じ、俺は恥ずかしさにうああああとベッドの上でのたうち回った。なに考えてんだなに考えてんだ、そんなこと絶対ありっこないのに。
 ……でも、好きになってくれたら、絶対監督、すっごい優しくしてくれるんだろうな。で、デートとか、しちゃったり、して。あと……き、キス、とか。
 うああああとまたしばらくのたうち回ってから、少し息を荒げつつその先を考える。監督は大人だから、やっぱ、キスだけじゃなくて……その先も、したいとか、思うよな。うああああどうしよう監督が俺の、その、そういうことしたいって思ってくれたら!? ヤバいヤバいどうしよう俺恥ずか死ぬかも。
 監督が、あの笑顔で、やさしく笑って……『好きだよ』って、言って。キス、して……俺の服、脱がして、って……。
 ごくり、と喉が勝手に鳴った。俺のズボンの前が、はっきり盛り上がるのがわかる。は、は、と息が自然と荒くなってしまう。
『芹沢』
 はっきり脳裏に思い描ける、監督の優しい笑顔、柔らかい声。それを浮かべた監督が、俺をぎゅってして……服を、脱がせて、いく。
『芹沢……好きだよ』
 またごくり、と唾を飲み込んでから、ベルトを解き、ホックを外して、ズボンをパンツごとずり下ろす。もう俺のちんちんはびんびんに勃起して、先っぽが濡れ始めていた。息を荒げながら、震える手で俺はそれをぎゅっと握り、ゆっくり上下に動かす。
『芹沢……いい子だ。可愛いぞ……』
「は……あ。かん、とくぅ」
 ものすごく甘ったれた声が、自然と口から出てきてしまう。監督が俺の服を脱がせて、俺の、ここを、触って。握って。動かして。他のとこも、いろいろ、触って……。
『芹沢、いい子だな……ここ、気持ちいいか?』
「監督ぅ……きもち、い……気持ちいい、よぉ……」
 ちんちんをしゅっしゅって上下に動かす。左手は尻を揉んでみたり、胸とか、ち、乳首とかを触ってみたり、俺の知ってるのは男が女にやるようなのだからそれを真似しただけだけど、監督の名前を呼びながらやったらぞくぞくぅって背筋が気持ちよさに震えた。
『芹沢……可愛いぞ。俺に任せてれば、すごく気持ちよくしてやるからな……』
「監督……監督、監督ぅっ、ぁ、あ、ぁっ」
 頭の中で一度だけちらっと見た監督の裸の姿が明滅する。逞しい腕。広い胸板。俺を抱きしめてくれた、優しい感触。それから、監督の、股間の、すごくでかい、あの――
 ちゃっちゃっちゃっ、と俺のちんちんがやらしい水音を立てる。頭の中で監督の姿が、声が、感触がぐるぐるする。胸を、尻を、揉んで、乳首をいじって、体中がたまんなくむずむずしてどうしようもなくて、「あ、あ」って声を上げながら体がびくびく震えて、監督が――
『好きだよ……芹沢』
「あ、あ、監督、あっあ、ぅっ!」
 びくっびくっ、と俺のちんちんが震えて、俺の体の上に、服の上に、ベッドの上の精液をまき散らす。しばらく快感の余韻に浸ってから、「はあぁ……」と深い息をついて、それからベッドの脇のティッシュを取って精液の痕跡を拭いた。死ぬほど空しい、申し訳ない気分で。
「ごめんなさい……監督。ホントに……ごめん……」
 自分でやっておいて泣きたくなる。なにやってんだろ、俺。監督はあんなにちゃんと、純粋に俺に優しくしてくれてるのに。
 そう考えてからさらにずーんと気持ちが沈んだ。俺は少なくとも現段階では、どうしたって監督にとって、いっぱいいるクラブメンバーの一人にすぎなくて、さっき頭の中でやってたみたいなこと、監督がやってくれるわけがないっていうことを、再認識してしまったからだ。

「芹沢ー! 心配すんな、もー大丈夫だぜ!」
「……なにが」
 隣の席から半田にずびしっと親指を立てられて、俺は力なく返した。なんていうか、今の状態でこいつのこのテンションにつきあうの、疲れる。
「にーちゃんにばっちし聞いてきてやったから! もーお前のその……監督だっけ? そいつの気持ちもなんもかもばっちし解決するって!」
「……お前のにーちゃん≠ノかよ……」
 俺は小さくため息をつく。半田のにーちゃん≠チていうのは隣に住んでる幼馴染の兄ちゃんらしいんだけど(今は大学生らしい)、そんで半田はすっごくその兄ちゃんを頼りにしてるらしいんだけど、話を聞いてたら単純で騙されやすい半田に面白がって嘘を吹き込んでいるようにしか思えない人で、少なくとも今みたいな真面目な状況で役に立つ助言をしてくれるとは思えない。
 でもせっかく半田が聞いてきたわけだし、それに万一役に立つアドバイスとか聞けたらそれはそれで嬉しいし、っていうんで俺は半田に向き直った。
「で? どういう話聞いてきてくれたんだ?」
「へっへっへ、それはなー……」
 もったいぶって声を潜めてから、ずびしっと立てた親指突き出して満面の笑顔で。
「犯罪は、バレなけりゃ犯罪じゃないんだってことだよ!」
「………あっそ」
 やっぱり聞くんじゃなかった、と死ぬほどしょーもない気分になる俺をよそに、半田は一人盛り上がる。
「ヤられんのはこっちなんだからさ、こっちに好きな気持ちがあんなら全然問題ないんだって、バレなきゃ! 要は騒ぎにならなきゃいーんだよ! お前の監督って一人暮らしなんだろ? だったらそこん家に押しかけてって、裸エプロンとか胸で背中流すとかエロい下着で一緒に寝るとかすりゃ、向こうの方から手ぇ出してくるって絶対! な、完璧!」
「どこがどー完璧なのか言ってみろ、お前もーちょい真面目に人生送れマジでっ!」
 思わずヘッドロックをかまして頭をぐりぐりすると、半田は「いて、いてーって!」と騒ぎながらも反論してきた。
「どこが完璧じゃないんだよー。お前監督が好きなんだろ? だったらきせいじじつ″ってから責任取ってもらうのって基本じゃんか!」
「きっ……! だ、だっからなぁ、そーいう方法自体が間違ってるって言ってんだよっ! そりゃ監督は誠実だから、もし、その……そーいう、ことになったら、責任は取ってくれると、思うけど、さ。そんなやり方したら、監督だって、俺のこと嫌いになるだろっ!?」
「……へ? そーなの?」
「当たり前だろっ! その場の勢いでそーいうことした責任一生取り続けるなんて、俺だったら絶対ヤな気持ちになるし……それに、そもそも、さ。そんな、エロいカッコとか、したって。監督、興奮してくれないだろうしさ……」
「え……マジでっ!? お前の好きな、その監督って……もしかして、インポ?」
「ちっげぇよバカ! ……っていうか、その、そーいうことは知らない、けど。だから、前にも言ったみてーに、フツーの男の人は俺らみたいな男のガキに欲情とか、しねーだろーし」
「んなことねぇよ! にーちゃんは『成人男性のほとんどは潜在的に可愛い男の子を可愛がりたい趣味があるっ!』って言ってたもん!」
「だからお前のにーちゃんの話は当てにならないんだよっ! ……それに、第一、さ。んな……はだか、エプロンとか。やらしい、下着とか……んなカッコ、ぜったい……恥ずかしくて、できねー、し……」
 俺がぼそぼそと言うと、半田は一瞬沈黙し、またずびしっと親指を立てた。
「芹沢。だいじょーぶだ」
「は? なにがだよ」
「今一瞬俺お前のこと可愛いって思ったもん! 同い年の俺でも思うんだから、監督なんて男の人だったらお前のそーいうとこ見せりゃ惚れられるって! 間違いなし!」
「……お前いい加減なことばっか言ってるとマジ締めるぞ一回っ!」
 俺は再びヘッドロックをかけて、半田をいじめてやった。……ホントに、やめろよ、そういう期待持たせるようなこと言うの。今の俺、そんなんでも期待持っちゃうくらい、監督への好きな気持ち、うずうずしてんだからさ。

「よし! じゃあフォワード連中は三十mダッシュ三十本!」
『はいっ!』
 サッカークラブの練習量は、少しずつ増えていた。だけど、練習した分の手ごたえをみんな感じてるんだろう、誰からも文句は出なかった。
 当然俺だって文句を言う気はさらさらない。もっとサッカーがうまくなりたい、強くなりたいって気持ちはいつだって俺の中にあるんだから。
 ――ただ、それでも俺は、いつもちらちら監督の方を見ずにはいられなかった。
 監督が俺たちにびしっと指示を出す姿、テクニックを教える姿、事細かに動き方を説明する姿。そんなものをちらちらと見て、そのたびに胸をきゅうっとさせて。意味がないってわかってるのに、そんなことを繰り返してしまう。
 だって胸の中がざわざわして、監督監督って叫んでて、監督がこっち向いてくれないかとか話しかけてくれないかとかそんなしょうもない期待ばっか膨らんじゃって。監督の方は俺のこと、あくまでサッカークラブの一員としか見てないって、そういう風に見てくれてるって、わかってるのに。
 ぱん、と俺は自分の両頬を叩いた。なにやってんだ俺は、練習中にぐだぐだこんなこと考えるなんて監督にも他のみんなにも失礼だろ。
 集中! と気合いを入れて、必死に何度も走る。全力で。絶対力を抜かないように。監督に、変なとこ見せないように。監督に駄目な奴だと思われないように。全力で――
「芹沢!」
 唐突に監督に声を上げられて、俺はびっくぅっ、と震えた。もしかして……監督に、駄目なとこ、見られた!?
「ちょっと来い」
「……はい……」
 怖い。怖い。怖いけど、それでも監督に呼ばれたら行かないわけにはいかない。俺は少しうつむいて、体中をびくびくさせながら監督のところへと走った。
 監督は、そんな俺にきっぱり言う。
「そこ、座れ」
「……はい」
「足。伸ばせ」
「は……へ!?」
 思ってもいなかったことを言われて俺は一瞬固まったけど、監督にしてみれば当然の発言みたいだった。厳しい顔をして俺を見下ろし、落ち着いてはいるけど強い口調で言ってくる。
「お前、右足に負担かけすぎだぞ」
「え……」
「また自主トレしてたんだろ。自主トレするのはいいけどな、今はやたら体力つけるよりも技術の練習を重点的にやれって言っただろ。それだけでも十分体力つけられるんだから。過度の筋力トレーニングは、お前ぐらいの年頃だとかえって体壊すって教えただろ?」
「う……」
 それは、確かに、自主トレの時でも体力とか筋力のトレーニングを重点的にやってたけど……なんにも考えられなくなるように、少しでも体いじめたくて。
「だから、ほら、足伸ばせ。一応マッサージしとくから」
「は……え、えっ!? ま、マッサージ、ですかっ!?」
「ああ」
 俺は固まった。だってマッサージって、それはつまり、俺の足とかに監督の手が触れて、触って、揉んだりするってことで。いやそりゃマッサージってのは普通そういうもんなんだけど、でも、その、だって俺――
「ほら、とっとと足伸ばす! できないってんなら俺が無理やり伸ばすぞ!」
「は、はいぃっ」
 慌てて両足をぴんと伸ばす。「よし」と小さく息を吐いて、監督は俺の足に触れた。
「…………っ」
「…………」
 監督の手が、俺の足を揉みほぐす。足首、ふくらはぎ、それから太腿を何度も往復する。監督の、大きくて、がさがさしてるけどすごく力強い掌が。
 かぁっと体が熱くなるのを感じた。なにやってんだ監督はただマッサージしてるだけなのに、って思うけど、心臓が勝手にどんどんドキドキしてきてしまう。どうしよう、どうしよう、めちゃくちゃドキドキして、恥ずかしい……!
 監督は念入りに俺の足の表側をマッサージすると、「じゃ、うつぶせになって」と言った。俺は急いで言われたとおりにする。おれのちんちんが、目立たないとは思うけど、情けないことに恥ずかしいことに、勝手にどんどん勃起してきちゃってたからだ。
 バレてないよな、もしかしてわかっちゃったかな!? なんだよ俺ホントにまんま変態じゃん。どうしよう、もし監督がこのことわかっちゃってたら。俺がこんな、監督に触られただけでドキドキして、気持ちよくなって、勃起するような変態だってわかっちゃったら。それで、もし、気持ち悪いって、そばにいられたくないって思ったら。そうしたら――俺、もう。
「俺、中学高校って、学校のサッカー部にいたんだ」
「えっ」
 監督が俺の足の裏側を念入りにマッサージしながら、半ば呟くように言う。俺は突然の言葉にびっくりしてまともに反応返せなかったけど、監督は特に気にした様子もなく話を続けた。
「俺、その中じゃトップっていうか、スター選手でな。周りから褒められていい気になってた。まぁ、確かにテクニックなんかはそこそこのレベルに達してたと思うけど……自意識も自信も過剰になって、チームプレイなんて考えもせずに突っ走って……そのせいで、中・高と全国までは行けなかった。なのにチーム全体の力を引き上げようとも考えないで、自分の練習ばっかりして……自分が強ければ勝てる、なんて馬鹿なことを考えてたんだよな。サッカーは、一チーム十一人でやるスポーツなのに」
「…………」
 俺はごくり、と小さく唾を飲み込む。監督がそんな選手だったなんて信じられないし、こんな話聞いてドキドキしてたけど、きっとこれは監督にとって大事な話だって思うと、とても口挟めなかったんだ。
「勝てなくて、それでも必死に練習して、練習して。そうすれば勝てると思ってて。そんな姿がたまたまあるそこそこのチームのある大学の監督の目に留まって、その大学に来ないかって話になって……一般受験だったけど、それでもすごく嬉しかった。だから大学に入ってからも、早くレギュラーになって全国優勝目指したいって、練習して、練習して――故障した、わけ」
 俺は大きく目を見開いて固まった。そんな、故障って、そんなあっさり。
 だってそれって、サッカーやめなきゃなんないってことだろ。そんなのこの人が、サッカー大好きなこの人が、そんな簡単にできるわけ、受け容れられるわけ。
「足と腰をやってな。サッカーやめなかったら歩けなくなるかも、とまで言われちゃって。その頃は親もいたから、親やら監督やらからよってたかって止められて、サッカー部を退部することになった」
「…………」
「だから当たり前だけど、もうめちゃくちゃ荒れてなあ。大学はサボる、街で不良とつるむ、喧嘩はするでもうそれこそ一歩間違えればチンピラ街道まっしぐらって感じだったよ。親とも毎日喧嘩し通しで……なんだけど、ある日突然そんなこと言ってられない状況になったんだ」
「え………」
「親がさ。交通事故で逝っちゃって。俺はあの家で一人残されることになったんだよ、突然」
「―――!」
「これまた当たり前だけど、ショックなんてもんじゃなかったな。自分が親にどれだけ迷惑かけてたかとか、どれだけ心配かけてたかとか、どれだけなにもしてやれなかったとかが怒涛のように押し寄せてくるわけだよ、日常生活の中からふと見つかるものとかでさ。だからもう毎日が苦しくて苦しくてしょうがなかったんだけど、せめて自分の食い扶持は自分で稼げるようにならないと、一人前の社会人にならないとって気持ちだけはものすごく強くあって……親に何度も言われてたことだったし、そうでもしないと俺の親が俺を産んでくれた意味がなくなっちまうような気がしてな。死にもの狂いになって、なにか自分にできる仕事を探して……それで俺が選んだのが理学療法士だったんだ」
「…………」
「本当はな、スポーツとちょっとでも関連するものからは遠ざかりたかったんだけどな」
「え……?」
「まぁ人にもよるんだろうけど、俺はサッカーに人生を懸けてたつもりだった。その人生懸けてたものを、もう二度とプレイできない、目指していた頂点にはどうしたって届かないって毎日思い知らされることになるだろ、スポーツと、サッカーと関わる仕事してたらさ。だから本当は全然関係ない仕事したかったんだけど……俺の成績とコネじゃ、ちゃんと社会人になれそうな職業が見つからなくて。それで、サッカー部のコーチとか監督とかにもアドバイスもらって、理学療法士を目指すことになったわけ。まぁ、理学療法士に必要な知識はそれなりに頭に入ってたから」
「…………」
 さらっとした口調だったけど、わかる。監督が本当に、どれだけ苦しみながらその道を選択したか。
 俺だって、サッカーができなくなったらもう本当に死にたくなるほど落ち込むだろうし、サッカープレイしてるとこなんて二度と見たくなくなるだろう。俺がかつてできていたサッカーってスポーツを思う存分できる奴ら、全員ぶっ殺したくなるだろう。
 なのに、監督は、どれだけ苦しかったかしれないのに、ちゃんと理学療法士になって、今こうしてサッカークラブの監督をやっているのか。まったく手抜きせず、全力で。
 俺が視線を向けているのに気づいたのだろう、監督は俺に向け笑ってみせた。
「そんな顔するなって。確かに、苦しかったけどな……生活の中でサッカーの影を感じるたび、死にそうな気分になってたけど。それでも、今は、俺は今の生活に満足してるんだ」
「…………」
「自分みたいに事故やなんかでスポーツができなくなった人をもう一度できるように頑張らせるのとか、すごく気合入るし。リハビリ続けて、草サッカーもできるようになったし……こうして、指導役としてサッカーに関わることができてるのも、俺としては嬉しいんだよ。自分みたいにならないように……故障したりしないように、サッカーを楽しいと思いながらプレイできるように、万一故障してサッカーができなくなったとしても、サッカーやってた時間を無駄じゃないって、楽しかったって思えるよう指導していくって、すごくやりがいがあることだろ?」
「……辛く……ないん、ですか」
 俺はおそるおそる、だけどはっきり聞いた。俺だったらそんな、数年やそこらで立ち直れることじゃないって思ったからだ。監督が辛いって思いながら俺たちのこと指導してたら、俺は、なんか、ものすごく、苦しい……。
 だけど監督は笑って首を振った。
「大丈夫だって。時間の流れって案外強固なもんなんだぜ? まぁ正直、始める前は怖くはあったけどな、嫌な思い出が蘇るんじゃないかって。けど……こうして、お前らと触れ合うようになってさ、俺は大丈夫だって……お前らが強くなってくのが、成長してくのが嬉しいって心の底から思えるのがさ、わかったから」
「そう……なんですか」
「おう。お前らのおかげでな」
 そう言って監督はにこりと笑い、ぱぁん、と俺の尻を叩いた。
「よし、マッサージ終わり! とっとと起きてアップし直して練習に戻れ!」
「っ……はいっ!」
 俺は叫んで飛び上がるように立ち、仲間たちが練習しているところへと駆け戻る。
 そして、走りながらぎゅうっと拳を握りしめる。涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。
 監督、あんな気持ちで俺たちのこと指導してくれてたんだ。あんな苦しい思いしたのに。死ぬほど辛い思いしたのに。それでも俺たちが強くなってくのが嬉しいって、あんな笑顔で言ってくれるんだ。
 ……頑張ろう。もう一度ぎゅっと拳を握りしめて誓う。頑張ろう、死ぬ気で頑張ろう。だってそうじゃなきゃ、それこそ死ぬ思いしながら俺たちを指導してくれてる監督に申し訳なさすぎる。
 もっと強くなろう。心も体も。気合入れて、頑張って、すごいサッカー選手になって、他のいろんなこともちゃんとやってるって思ってもらえるくらいにはなって。
 高校卒業したら、監督に、やっぱり大好きだって心の底から思えるあの人に、好きになってもらえるくらいすごい奴になれるようにしよう。
 恥ずかしい話だとは思うけど、その時俺は素直にそんな風に思って、ぎゅっと拳を握りしめてサッカーの神様に誓ったんだ。

 こんこん、と部屋の扉をノックされ、俺は「どうぞー」と適当な言葉を返した。どうせタカさんだろうと思ってたからだ。
 俺の部屋を父さんや母さんがわざわざ訪ねるわけないし(まともに話されることすらほとんどないくらい興味持たれてないんだから)、兄さんが俺を相手にする理由なんてどこにもない。だから適当に構えてたんだけど、「じゃ、入るぞ」と返ってきた声に思わず仰天した。
「……兄さん?」
「ああ。なんだ、変な顔して」
 凛と背筋を伸ばして俺の部屋に入ってきたのは、間違いなく俺の兄の芹沢輔だった。んだけど、俺は正直目を疑わずにはいられなかった。
 だって、生まれてこの方兄さんが俺の部屋に入ってきたことなんて(少なくとも物心ついてからは)一度もない。兄さんと俺は同じ家で暮らしてたけど、会話がある日なんて数えるほどだ。そんな生活を、ほとんど物心ついた時からずっと続けてきた。
 それは父さんや母さんが兄さんの周りを囲んで俺が入る隙間を作らなかったせいでもあるし、家庭教師やらなにやらで単純に話す時間がなかったせいでもある。ただそれよりもなによりも、一番の理由は俺が兄さんを遠ざけてたからで、兄さんはそれを察して近づいてこなかったんだろう。頭のいい人だから。
 両親の関心を一身に集め、なにをやっても俺より上で、周りにしじゅう比べられる相手。そんな奴と心穏やかに話ができるほど俺は人格者じゃなかったし、かといってあからさまに突っかかるほど馬鹿にもなれなかったので、さりげなく、けれどはっきりした意志を持って、できるだけ関わらないように生きてきた。兄さんもそれは同じだと思っていたのに。
 なんなんだ急に? と思いつつ、俺はくるりと机の前から兄さんの方に向き直った。兄さんは俺の部屋の中にすたすた入ってくると、ぐるりと部屋の中を見回す。
「相変わらず、サッカー少年! って感じの部屋だな」
「そりゃ……まぁ」
 俺は実際サッカー少年なわけだし。
 兄さんは物珍しげに俺の部屋の中を見回してから、ふいと俺の方に視線を向ける。
「勉強してたのか?」
「うん、まぁ……」
 少なくとも学生として落ちこぼれない程度にはやっとかないと、恥ずかしいし。少なくとも赤点取っときながら監督に――あのすごい人に「好きです」なんて堂々と言えるほど、俺は恥知らずじゃない。
「ふぅん……感心だな。お前の頭の中にはサッカーしかないのかと思ってた」
「……そりゃ、サッカーが一番比重重いのは確かだけど……恥ずかしくない程度にはやっとかないと、って」
「それは確かにな。……なぁ、勉強、俺が教えてやろうか?」
「え!?」
 俺は思わず仰天した。そんなこと、まるで考えたことない。
「いい、いい、いいって! そんなことしたら兄さんの勉強の時間削っちゃうだろ!?」
「中一の勉強見るくらいなら大して時間取らないさ。なにより、お前は俺のただ一人の弟なんだし」
「いや、いいって! このくらいなら自分でなんとかできるし!」
 俺はぶんぶん首を振りながらも、心底怪訝に思っていた。なんだ、どうしちゃったんだ兄さんは? 俺と兄さんはそりゃ仲が悪いとは言わないけど、お互いろくに関わろうとしてこなかった兄弟だったはずだ。それがいきなり勉強を教えてやる、だなんて……さっぱり意図がわからない。
「基礎こそきちんと覚えておかないと上にいった時に困るぞ。確かめてみたら案外身についてないってことがあったりするし。マンツーマンで教えてくれる教師くらい、いた方がいいぞ?」
「いやいいって本当、俺は俺なりのやり方で頑張るから。いろいろ教えてくれる人もいるし」
 少なくとも我が雨上学園の先生たちは、わからないところを教えてくれと生徒に頼まれて、無碍にするようなことは絶対にしない。
 そうきっぱり首を振ると、兄さんはなぜか、一瞬眉をひそめた。ひどく深く。しかめていると言ってもいいくらいに。
 でもその一瞬あとには、いつも通りの穏やかな笑顔に戻り、小さくうなずいた。
「そうか。なら、余計なお世話だったかな。それじゃ、な」
「あ、うん……」
 あっさり背を向け部屋を出ていく兄さんを見つめつつ、俺は首を傾げた。なんだったんだろう? 兄さんは、いったいなにが言いたかったんだろうか?
 だけど、俺はまたすぐに首を振り、机に向かって勉強を始めた。早く今日の分のノルマ終えちゃおう。そうしたらとっととお風呂に入ってベッドで眠って、起きたらサッカーの練習だ。

 ピッ、ピッ、ピィ―――ッ。
 空に高らかに響くホイッスルに、俺たちの上げた歓声が混じる。勝った。法篭レイニーズが、また勝ったんだ。
 仲間たちが歓喜の声を上げながらじゃれ合うのに、俺も強制的に引き込まれかける――が、俺はそれを素早くかわして走った。今回の試合で、俺はフォワードとしてずっと得点に絡んでいた。アシストはもちろん、自分自身でもシュートを一本決めた。仲間たちが背中を叩いてくる気持ちもわかるし、それに応えたい気持ちもあった。でも。
 俺が、最初にこの喜びを伝えたいのは。頑張って、練習して、必死にプレッシャーに耐えて、緊張で腹の辺りをぎりぎり痛ませながらも全力で走って、活躍したことを誇りたいのは。やった、やったと体中から溢れ出しそうになる嬉しさをぶつけたい相手は。
「監督―――っ!!」
 叫びながら飛びつこうと足に力を込める――
 ――だけど、俺はそこで足を止めた。
 駄目だ。調子に乗っちゃ駄目だ。監督への気持ちをこんな風に垂れ流しにしちゃ駄目だ。そんなことしたら誰かが俺の気持ちに気づくかもしれないし、そうしたら監督も困るだろうし、なにより、俺のこの気持ちをぶつけられたら、監督は絶対、すごく困るんだから。
 監督は、俺の気持ちに、高校卒業までは絶対に応えられない。少なくとも、それまでは、俺の気持ちは、監督には、迷惑なだけなんだ。邪魔で、あっちゃいけなくて、素振りだって見せられたら、困った気持ちにならざるをえないものなんだ。
 俺はぎゅうっと拳を握りしめ、奥歯を噛み締めて、握った手をのろのろと下ろして胃の辺りに当て、笑った。ぎこちなくて、おずおずとした笑みになっちゃってたと思うけど。
「あの……勝ち、ました」
 それだけ言うと、監督は、にこ、と優しく笑って言った。
「……うん。よく、頑張ったな」
 じわ、とまぶたが熱くなった。うわヤバい泣く、と慌てて監督に背を向け、なにやってるんだ監督に失礼だろと自分に苛立ちつつも、監督の顔を見たら絶対泣いちゃいそうだったから、背を向けたまま「はいっ」と叫んで小さく会釈した。深々と頭を下げることができないのがすごくもやもやっとしたけど、せめて全身全霊の敬意を込めて、できるだけ丁寧に。
 それから監督と離れて仲間たちのところに駆け戻る。何度も背中を叩かれて、こちらも叩き返しながら整列し、礼をする。そのあとも仲間たちと一緒に歓声を上げて勝利を祝い合った。やっぱり、どんなジャンルのスポーツでもそうだと思うけど、勝つって本当に気持ちいい。
 そんな風にごく当たり前のサッカー少年みたいな行動を取りながらも、俺は頭の中で、監督のことばっかり考えてしまったんだけど。

「ただいまぁ……」
 俺は疲労感に耐えながら勝手口をくぐって家に入った。いつも通りにタカさんに「玄関からお入りくださいな!」って言われるのを適当にかわしてさっとシャワーを浴びる。
 それから食堂に行って(今日は幸い父さん母さんはいなかった)、タカさんが並べてくれた料理をぱくりとやる。慣れ親しんだタカさんの料理は、噛むごとにじんわり俺の体に力を与えてくれた。
 そうしてようやく、息がつけた。
 ……うん、よかった。ちゃんと、勝てた。監督の指導に従って頑張って、自分の力出し切って、勝てた。監督のしてくれたこと、無駄にせずに、すんだ。
 うん、そうだ。これからもこうやって、続けていこう。監督の教え通りに、サッカーも、他のことも頑張って。……監督への気持ちとか、考えないようにして。
 うん、それがいいんだ。それじゃなきゃ駄目なんだ。だって、少なくとも今は、俺の気持ちは監督にとって迷惑にしかならないんだから。
 だから、これからも、こうやって、毎日頑張っていこう。そうしたら監督はきっと、喜んでくれる。俺が、監督にできることなんて、他にないんだから――
 ――と、ふいに、頭がくらりとした。
 なんだ、と思うよりも早く頭が揺れる。体がうまく支えられない、目がうまく開けていられない。ぐらんぐらん、と体が揺れ、勝手にずるりと椅子から床へ崩れ落ちる。
 なんだ、急に、俺こんなに疲れてたのか、とわずかに残った理性は判断するけど、頭の大部分は押し寄せる眠気を防ぎきれていなかった。がっくん、がっくん、と何度も顎が落ち、起きようと思うこともうまくできなくなって――俺は、意識を失ったんだ。

 パシーン!
「………う」
 俺は、頭の大部分を重い眠気に支配されながらゆっくりと目を開けた。頭が、重い。ぐらぐらする。眠くて眠くてまともに目を開けていられない。
 パシーン!
 でも、両頬に何度も走る痛みは、俺の神経に棘を刺して眠気を少しずつ削いでいく。眠い、痛い、眠い、痛い――誰だ、こんなに何度も俺を叩く奴は――と必死に目を開けて、俺は驚愕した。
「兄さん……?」
「やっと目が覚めたか」
 なんだ、この状況。兄さんが俺に馬乗りになって何度も頬を張っている。しかも、今まで見たことのないような冷徹な表情で。
 わけがわからず周囲を見回して、さらに愕然とする。そこは、俺の知っている場所じゃなかった。
 いや違う、ちょっとくらいは見たことがある。確か、ここは地下室だ。ワインセラーにする予定で作ったけど、医薬品関係で問題があって父さんがめったにヨーロッパに行かなくなったから使われなくなったって場所。確か、今は物置としてしか使われてないところ――の、一番奥。
 温度管理のためとかで、いくつか扉を挟んだ奥のがらんとした部屋。そこに俺は転がされている。
 反射的に跳ね起きようとして、しゃらりと音を鳴らした足元に目をみはる。これは、鎖?
 俺の脚首には、いつの間にか足輪がはまっていた。そこからはある程度の長さのある鎖が伸び、大きな木箱に繋がっている。その木箱は本当に大きくて、重そうで、少なくとも俺がどんなに暴れようと動かすのは無理そうだというのは一目でわかった。
「…………」
「ずいぶん手をかけさせてくれたな。お前風情がこの僕に、ここまで時間と労力を使わせるなんて。許されざる罪悪だ、深く反省して、詫びろ」
「兄さん、なに言ってるんだよ! 早くこれ外してよ……っ!」
 パーン!
 また頬を張られた。兄さんの、全力を込めた力で。
 俺は半ば吹っ飛ぶようにして倒れ込む。そこを、踏まれた。兄さんの靴を履いた足で。頭を上から、ぐりぐりと。
「そんな口を利いていいと思っているのか。お前なんぞが、この僕に」
「に、いさ……」
「お前は罰を受けなくちゃならない。お前のような頭の悪い奴でも、もう二度と間違いを起こさないような、重い罰を」
 重々しい口調で兄さんが言う。頭がぐわんぐわんした。体が震えた。さっきまでみたいに眠いからじゃない。なにかが、今まで当たり前のようにそこにあったなにかが失われたような、大げさに言うなら世界が崩壊したような気分でまともに考えることができなかったんだ。
 ――そして実際、その時俺が抱いた感想は大げさでもなんでもなかった。それまで俺が持っていた、住んでいた世界は、その時にがらがらと音を立てて崩れ落ちてしまったんだから。

 そこは、暗かった。地下室の一番奥で、窓の類も当然まるでなく、電気による明かりもない以上、俺のいるところはいつも、それこそ目の前に伸ばした自分の体すら見えない状態だ。
 俺はその、暗い暗い、外の音も、光も、まるで感じられない世界の中で、ひたすらに待っていた。待つより他に仕方がなかったし、今の俺には、それがただひとつできることでもあった。
 俺がここに捕えられてから何日経ったのか、外はどうなってるのか、まるでわからない中、ひたすらに。
 ――と、かしゃり、と音が聞こえた。
 俺ははっとして身構える。これは扉を開ける音だ。この部屋にたどり着くまでに何枚もそびえている扉を、一枚一枚はがしていく音。
 そしてたぶん、俺がここから脱出するには、それだけの障害を乗り越えなきゃならないんだって、教え込む音でもあるんだろう。
 鍵を開けられた扉は、またすぐに一枚一枚鍵をかけられ、再び障害としてその場に残る。つまり、鍵を奪わなければここからは脱出できないんだってこっちに伝えてくるんだ。
 しゅ、しゅ、というかすかな足音と衣擦れの音。それがこっちに聞こえるということは、もうすぐここにあの人がやってくるってことだ。ぐ、と奥歯を噛みしめて自分を奮い立たせる。あの人――俺の兄、芹沢輔が。
 そして、がちゃり、と音を立てて、俺の目の前の扉は開いた。目の前にあるのに、これまで一度も触れることができていない扉が。
 ばっとこちらの目を焼く眩しい光が広がるのに、すかさず目を閉じる。目を閉じた上から光を浴びて慣らさないと、この光は眩しすぎて俺の目をくらませてしまう。
 そんな俺を面白がるように喉の奥で笑ってから、かつて兄さんと呼んでいた人――芹沢輔は手に持った持ち運び用電燈を入り口近くの箱の上に置いた。そして左手に持っていた皿を、俺の目の前の床に置く。
「ほら、食え。餌だ」
 俺の心臓はぎゅうっとした。痛い、というよりは苦しい。相手の行為が悔しくて、こんな目にあわされてることが腹立たしくて、なのに逆らえない自分がものすごく苦しい。屈辱とか、恥辱とか、そういうのが腹の底でぐるぐるして心臓を締めつける。
 だけど、それでも俺は、首輪につけられた鎖をぎりぎりまで伸ばして、床の上に頭を擦りつけるようにして、犬みたいに皿に顔を突っ込んで食べた。芹沢輔は、俺が腹が空ききるタイミングまで食事を(いや、確かにこれは餌と言う方が当たってるだろう)持ってこない。少しでも飢えを満たすためには、食べなきゃならなかった。
 たとえその餌の中身が、本物のドッグフードだったとしても。
「ふん……うまそうに餌をむさぼって。本物の犬だな、お前は」
 体の震えを抑えながら、必死にかつかつと食う俺を、芹沢輔はせせら笑う。
「人間だったらどんなに飢えようと、そんな風に地面に顔押しつけて食事なんてことできやしない。しかも与えられたものはドッグフードだってのに。よくもまぁそんなにがつがつ食えたもんだ」
 ぐぅ、と喉の奥からせりあがってくる吐き気を、俺は必死に抑えて食べ続ける。吐いたら駄目だ、よけいな体力を消耗する。
 ――ここから逃げ出すためには、少しでも、体力をつけておかなければ。
「おい」
 唐突にぐいっ、と芹沢輔が俺の頭を上から踏みつける。顔を餌の中に突っ込んでいた俺は、息ができなくなって喘いだ。
「聞いてるのか、この駄犬。お前に俺の言葉を無視するようなことが許されると思ってるのか。この、低能の、便所虫にも劣る微生物人間が」
「ぶ……ぐ」
「しつけのなってない駄犬には、罰を与えなくっちゃな」
 ずる、と長いものを引き出す音がする。悔しいけれど、そんな素振りなんて見せたくなかったけど、体が小さく震えるのを抑えることができなかった。
それ≠ェどれだけ痛いことか、俺はもう知っていたから。
「ほらっ!」
 ビシィッ! と俺の背中に焼けつくような痛みが走る。知っている、これは鞭だ。それもただの鞭じゃなく、乗馬の時に使う頑丈で、よくしなる。
 それを、芹沢輔は、俺の背中に何度も振り下ろす。俺は服を脱がされて素っ裸になっていたから、当然素肌に直接だ。息を荒げながら。俺の頭を踏みつけにしながら。
「ほらっ! ほらっ! どうした、鳴け! 鳴いてみろ! この僕が罰を与えてやってるんだぞ、お前のような薄汚い駄犬に! 鳴いて、嬉しいと叫んでみろ!」
 俺は必死に奥歯を噛みしめて、ほとばしりそうになる叫び声を抑える。こんな奴を喜ばせるようなことなんて、絶対したくなかった。
 もし機嫌を損ねて、こいつがもうここを訪れなくなったとしても。……俺が、飢えて、死ぬことになったとしても。
「……っ、ぅ」
「っふ、なにを泣いている、みっともない。犬の分際で涙をこぼすな! ほら、わんわんと鳴いてみろと言っている!」
 びしっ、ばしっ、と何度も背中に鞭が振り下ろされて、痛くて痛くて泣き叫びたくなるのを、俺は必死に堪えて奥歯を噛み締めた。

「なに考えてるんだよ、兄さん! これ、早く外してよ!」
 この状況に落とし込まれて間もない頃、何度も俺はそう叫んだ。
 だけど、返ってきたのは、張り手と、足蹴りと、鞭、それに高飛車で冷たい言葉だった。
「馬鹿だな、お前は。お前なんぞにそんな権利、あるわけがないだろう。お前は罰を受けなきゃならないんだよ。それを忙しい俺が手ずから与えてやろうっていうんだ。伏し拝んで、感謝しろ」
「罰ってなんだよ! 俺がいったい、なにしたっていうんだよ……!」
 叫ぶ俺に、ビシィッ! と鞭を振り下ろして、冷酷な表情で芹沢輔は告げた。
「お前は、芹沢家の人間であるにも関わらず、男に対して劣情を催した」
「っ、え……」
「汚らわしい。そんな奴が芹沢家の人間としてのうのうと外を歩いているなぞ、絶対に許されないことだ。だから俺が、お前のような主の言うことを聞くこともできない愚かな駄犬に、特別にしつけをしてやろうと言っているんだよ。感謝しろ、頭を地面に擦りつけてな!」
 そしてまたビシィッ! と鞭を振り下ろす。まだ着ていた俺のシャツが裂け、俺の背中に、ずっきぃん、と引き裂かれるような痛みが走った。
 俺は激痛と混乱の中、必死に頭をぐるぐるさせていた。男に対して、劣情を催す、って。俺が、監督のこと、好きだって、知られてるって、ことか?
 なんで、なんでそんな。俺、半田にしか言ってないのに。半田だってそんなこと、ほいほい他人に――それが俺の家族でも(家族だからこそ)話したりはしないだろう(たぶん……)。じゃあなんで、一体、どこから。
 ぱぁん、と今度は顔を平手で打たれる。ばっしぃん、という派手な音とともに、頬に痛みが走る。
「聞いているのか、この駄犬が。お前は、許されざる罪を犯したんだ。決してしてはならないことをしたんだ。それを詫びようという気持ちすらお前にはないのか?」
「っ……」
 俺は、震える体に必死に活を入れて、ぎっと俺よりはるか上にある芹沢輔の顔を睨みつけ、叫んだ。
「そんなのっ……兄さんに、罰される筋合いなんてない!」
「……なんだと……?」
「俺は確かに男の人を好きになったけど……それが悪いことだなんて思ったこと、一度もない! あの人は……監督は、俺がガキだからって理由で応えられないとは言ったけど、男同士だからそんなの許されないなんて、一回も言わなかったもん!」
 そうだ、監督はそうだった。監督は最初から、男同士だから駄目だなんて一回も言ってなかった。ただ、俺がガキだから、法律上それは駄目だって言っただけで、高校卒業してからまた来いって言っただけで、俺の気持ちを受け取れないなんてことは一回も言わなかったんだから。
 記憶の中の監督の顔に力を得て、俺はそう叫ぶ――と、芹沢輔の顔はざっと青ざめた。
 それからだっと一歩を踏み出して、鞭を大きく振り上げ、振り下ろした。
「……つぅっ! っ、ぅっ、ぁっ……だ、ぐ、つぅっ……! ぁ、ぎ、ひ、が……っ!」
 叫び声なんて漏らすもんか、と思いながらも、悔しいが自然に口から呻くように声が漏れてしまった。皮膚を焼き、時には引き裂き、大きく腫れ上がらせられたところにまた与えられる激痛。それを受け流せるほど、俺は痛みに慣れてなかったのだ。
 それが終わった時、俺はもう精も根も尽き果てたみたいな気分で、ぐったりと倒れてしまっていた。目からは涙をだらだら流し、口もだらしなく大きく開いて。強制的に与えられる痛みにただ耐え続けることが、どれだけ気力と体力を削ぎ取ることか、俺はこの時初めて知ったのだ。
 芹沢輔の方も、鞭を全力で振り回しただけで疲れたのか、はぁはぁと荒い息をついていた。それでもふん、と偉そうに鼻を鳴らして、「思い知ったか、この駄犬が」と俺を蹴っていったけれども。
 俺には、それに反抗する気力も、もうなくなっていた。
 ――そしてそれから、俺はずっとこの暗い部屋に捕えられている。俺が寝ている間に、鎖は首と右腕にも増やされて、ますますまともに動けなくなった。服は引っ剥がされて、俺はいつも素っ裸でこの寒々しい部屋の中に残されることになった。
 そうして、もう時間がどれだけ経ったかもわからなくなっている俺のところに、何度も芹沢輔がやってくる。餌と、鞭と、嘲りの言葉を俺に与えるために。

「……父さんと、母さんは、なんて言ってるんだ」
 震える声でそう問いかけたことがある。地面に置かれた、明らかにドッグフードとしか思えない食べ物を、とても口に入れる気にならなくて言った言葉。
 それに、芹沢輔は一瞬眉を寄せてから、は、と嘲るように笑った。
「なにを言ってるんだ、お前は」
「……ここ、うちの地下室、だろ。そんなとこに俺閉じ込めて……父さんと母さんに、バレないはずない。タカさんだって、俺が食事時に現れなかったら、父さんたちに言うだろうし……」
「馬鹿だな、お前は。本当に馬鹿だ、この駄犬が」
 くっくっく、とさもおかしげに喉を鳴らして、芹沢輔は笑ってみせた。
「父さんと母さんが――あの人たちが、お前を心配すると、本当に思っているのか? 気にするのは体面と、病院をどれだけ大きくするかっていうだけしかない、あの人たちが?」
「……じゃあ……」
「ああ、あの人たちは知ってるんだよ。知ってて知らないふりをしてるんだ。俺が『地下室を使いたいんだ』『俺、最近ストレスが溜まってるから、解消するためにペットを飼いたいんだよ』『それとは全然関係ないけど√トのことだけど、家出したいなんてことを言い出したから、俺の判断で知り合いに預けることにしたよ』……こう言っただけで『そうか。お前がそう判断したんだったら、間違いないだろうな』……と、こうだ」
「…………」
「見捨てられたんだよ、お前は。あの人たちに。病院の跡継ぎのための生贄として、認められたんだ。お前が、病院経営の役に立たないから。自分たちが見栄を張るための役に立たないから」
「っ…………」
 俺はぐ、と喉の奥から湧き出しそうになる呻き声を必死に押し殺した。別にあの人たちが好きだったわけじゃない、むしろこっちだってあの人たちはそういうものだと、自分たちが見栄を張るために、金のために役立つ出来のいい長男以外はいらないって考える奴らだと、だからこっちだってあんな奴らどうでもいいと、そう思ってた。そのはずだ。
 なのに、なぜか、目がじんわりと熱くなる。勝手に潤んで、震えだす。あの人たちなんてどうでもいいのに。あの人たちなんか、こっちだっていらなかったはずなのに。
「……なにを泣いている」
 その時、なぜかひどく苛立った声を芹沢輔が上げた。ずかずかとこっちに歩み寄り、床に置かれた犬用の皿を持ち上げて、ぐしゃっ、と中身ごと俺の顔に押しつける。
「む! ぐ、む、うぇ、ぇ……!」
「お前ごときがあんな人たちに泣かされるなんて、許されると思ってるのか。お前は俺の与えた罰でひんひん泣いていればいいんだよ! この駄犬が!」
 言いながらぐりぐりと皿を顔に押しつけてくる。当然中身のドッグフードは俺の顔にへばりつき、鼻から、口から俺の体の中に入った。ドッグフードの、やたら脂っこい、人間の食べるものでないものの味が否が応でも感じられる。
 俺の喉の奥がひっく、と鳴り、呻くように泣き声が漏れる。嫌だ、こんなのは、嫌だ。なんで、こんな、ことに。俺が、そんなに、悪いことを、したっていうのか。
 自分がみじめで、可哀想でしょうがなくて、自然に勝手に泣き声が出てきてしまった。
 芹沢輔はそんな俺を見て、は、はっ、と笑うような声を出した。
「なにを泣いている、この駄犬が! 誰がお前に泣くことを許した! お前は、俺の罰を受けた時以外に、泣くことなんて許されてないんだよ!」
 そう怒鳴ってビシィッ! バシィッ! ビヂィンッ! と鞭を振るう。激痛と、激情で、俺はその夜、ひんひんと大声を上げて泣いた。

 なんにもない。そうとしか言いようのない時間が、えんえんと続いた。
 周囲は真っ暗で、太陽の光なんて欠片も入りはしない。時間がどれだけ経ったか、そんなことすら知りようがない。腹具合で時間がわかるって前読んだ話に書いてあったけど、もうずっとまともな食事を与えられてない、与えられる食事は……いいや、餌はドッグフードっていう状況じゃ、腹が空きすぎて時間の経過なんてまるでわからなかった。いいや、もう、自分が腹が減ってるかどうかすら、よくわからなかった。
 当たり前だけど、ものを食べたなら出さなきゃならない。だけど出す場所なんてどこにもなくて、それ以前にろくに動くこともできなくて、俺は繋がれたままの恰好で小便をして、糞をした。死ぬほど情けなくて、恥ずかしくて、臭いにおいをずっと嗅がなきゃいけなくて、みじめでみじめで泣きそうだったけど、何度も何度も繰り返すうちに、嗅覚が麻痺して、『匂いを嗅ぐ』っていうことすらできなくなってきたんだろう、なにも感じなくなっていった。
 最初の頃は、せめて少しでも鎖が緩まないかと思って何度も必死に暴れたけど、この鎖がどれだけしっかり固定されているかを思い知らされるだけの結果に終わっていた。そしてそのうち、俺はそういう風に暴れるのが怖くなっていった。自分がどれだけ逃れようのない状況に囚われているかってことを、目の前に突きつけられるのが、怖くなってったんだ。
 足にも、腕にも、首にも鎖がつけられて、まともに体を動かすこともできない。周囲は真っ暗で、やることどころか見るものもない。なぁんにも、ない。そんな時間が、長々と。
 時々、その時間は破られた。芹沢輔がやってきて、餌を与えて、「罰を与える」とかなんとか言って、俺を鞭打って、時には足蹴にして帰っていく。それだけが、変化。
 俺は少しずつ、自分はずっとここにいたんじゃないか、っていう気になっていた。俺が今まで体験したと思ってたことは、みんな夢で。俺はずっとこの暗闇の中で、芹沢輔にいたぶられていたんじゃないかって、そんな、風に。
 なにを考えてるんだ、しっかりしろ。そんな風に自分に言い聞かせたりもした。だけど、そんな俺に、違う俺がこう反論する。
『しっかりしたって、どうしようもないじゃないか』
 なに言ってるんだ、しっかりしなきゃ、ここから脱出することだってできないじゃないか。
『脱出なんてできっこない。俺は鎖に縛られてるし、ここと外の間には何枚も扉があるんだから』
 そう、だけど、でも方法があるはずだ。うまくこの暗闇を脱出して、逃げ出して、自由になる方法が。
『自由になって、それからどうするんだ?』
 どう、って。今みたいに、鞭で打たれずにすむし、それに、それに、他にも、いろいろ。
『親が、俺がここにいることを望んでるのに?』
 そう、だけど、でも、だけど。そんなの、関係ない。俺は、外に出て。
『外に出たところで、親はもう俺を守ってはくれない。ほんのガキでしかない俺が、一人で、どうやって生きていくんだ?』
 だけど、でも。俺は、外に。
『ここにいればいいじゃないか。ここにいるしかないじゃないか。ここにいれば、少なくとも、いじめられる対象としてでも、必要としてもらえる。生きていくことができる。外に出たら、それすら、できない』
 違う、違う。違う………
 そんな思考をぐるぐると繰り返す。でも納得のいく結論なんて出ないし、まともに考えることもだんだんできなくなってくる。真っ暗で、見えるものがなにもなくて、なにも聞こえなくて、なんにも、なくて。
 怖くなって叫び声を上げる。助けて! 誰か助けて! 誰か! 誰か! 俺はいる、俺はここにいるんだ!
 当然、返事はない。叫んだ音の反響も、あっという間に消えていく。たまらなくなって、泣き叫ぶ。でもその音も端から暗闇の中に消えていく。残るのは、喉と、目の痛みだけ。
 頭がぐるぐるする。ぐらぐらする。でも周りは、なにも見えない、聞こえない、暗闇。立ち上がることも、動くことも、できない、暗闇。
 もう、なにを考えることもできなくなって、ただぼんやりと、暗闇の中で一人、待つ。
 ――そして、扉が開いて、光が漏れて、芹沢輔がやってくる。
「餌の時間だぞ、駄犬」
 俺はきっと救われたような顔をしたんだろう、芹沢輔は一瞬顔を歪めて、それからくっくく、とひどく嬉しげに笑った。
「鞭がもらえるのがそんなに嬉しいか? なら、せいぜい鳴いて俺を喜ばせてみろ」
 そうして俺は、床に置かれた皿に顔を突っ込んで餌を貪り食い、何度も鞭打たれてひんひんと泣いた。

 そういうことが、何度も繰り返された。数えきれないほど、何度も。何度も。
 俺はじんわりと熱い体をぐったりと地面に投げ出しながら、ひたすらに芹沢輔を待っていた。俺には他にすることがなかったからだ。
 俺が顔をつけているのは俺が何度も小便を漏らした場所で、糞が転がっていたことだってあったのに、俺は身じろぎもしなかった。そんなことはどうでもよかった。もう『匂いを嗅ぐ』なんてことまともにできなくなっていたし、臭かろうが汚かろうが、俺はもうそんなこと、まるで関係のないイキモノになっていたんだから。
 俺はただ、暗闇の中で芹沢輔を待っているだけのモノ。
 芹沢輔が来たら、餌を与えられ、鞭打たれて、泣き叫ぶだけのモノ。
 そんなモノが、汚いだの臭いだの、そんなこと気にするなんて意味がない。
 投げ出された手足が、寒さのせいか、がくがくと小さく震えていた。でも、それもどうでもよかった。だって俺はただ鞭打たれるためのモノなんだから。
 ――と。足が震えて、足の裏が、しゅっと床を擦った。
 その時、あれ? と、思った。一瞬のことで、あとから考えたらなんであんな状態の俺がそんなことに気づくことができたのかよくわからないんだけど、でもその時俺は思ったんだ。
 なんだか、足の裏の一部に、違和感がある、って。
 俺はそろそろと足を曲げて、鎖で繋がれていない方の手を伸ばして、足の裏をまさぐった。俺の足の裏は固かった。もうずっとずっと、まともに歩いてすらいないのに。
 それだけじゃなかった。固いところがあるのに、柔らかいところもあった。指先はどこもだいたい固くて、土踏まずは柔らかくて、いやそれは歩く時に使わないから当たり前なんだけど、足の先端の方のあちこちに、やけに固いところがあった。
 なんだろう、なんだろうこれは。なんでこんなに固くなったんだろう。
 ぼんやり考えて――ふっ、と突然、言葉が浮かんできた。
『お前、足にマメできても、潰せば足が固くなって強くなるからいい、なんて思ってないか?』
「!?」
 俺は驚いて周囲を見回してしまった。なんていうか、本当に誰かが俺のそばに来て話しかけたみたいに感じられたから。
 当然そんなわけはない。誰もいない、誰の気配もしない――じゃあこの声、誰の、声だ………?
『マメっていうのはな、外傷性水疱……つまり、怪我の一種なんだよ。確かに何回もやれば固くはなってくけどな、それよりもまず作らないようにすることが第一だ。足に合ったシューズを履くのはもちろんだし、何度も起きるようだったら妙な動き方してないか見直してみるのも大事だぞ。体にとって自然な、無理のない動き方をすればマメはできにくいんだから』
 聞こえるみたいに感じられる声――知ってる。この声……覚えてる。何度も話しかけられて、何度も話して、恥ずかしかったり、逃げ出したかったり――心の底の底ではいつも、嬉しかったりした人の声……
『サッカーを一生やってくんだったらな、自分の体を労わるってこと、覚えないと駄目だぞ』
「――――!!!」
 サッカー……そうだ、サッカーだ。俺はサッカーが好きで、大好きで、一生やりたいと思ってて、それをあの人が……大好きなあの人が、支えてくれて、できるぞって励ましてくれて……
 ぼろっ、と俺の目から涙がこぼれ落ちた。ぼろぼろぼろぼろとどんどん涙がこぼれていく感触がはっきりわかった。
「……かん、とく」
 すごく久しぶりに出した俺の声は、ひどくしわがれていたけれど、それでもはっきり耳に届いた。
「監督……監督、監督、監督っ」
 しわがれた声で、俺は何度も叫んだ。監督。土方東監督。俺たちの、法篭レイニーズの、名監督………サッカーの、監督……!!
 なにやってるんだ俺。なにやってたんだ俺。
 なにちょっとひどいことされたくらいでへこたれてるんだ俺。そんなことくらいで忘れられるのか、サッカーを……あの人を。いいや、忘れられるわけないし、なくしたくもない。俺の体には骨の髄までサッカーが染み込んでるし、俺の心には監督が刻まれてる。だって、俺のサッカーを支えてくれて、俺の気持ちを柔らかく、でも真剣に受け止めてくれた人なんだから。
 ……ここから、出なきゃ。
 ぼろぼろ泣いてふやけそうな目元をぐいと自由な方の手でぬぐう。ここから出なきゃ。逃げなきゃ、兄さんから……この家から。あとのことはあとで考えればいい。
 あの人たちをもう家族って思っちゃだめだ。いいや、もう思いたくない。兄さんとか、父さんとか母さんとか、そんな名前で呼びたくない。
 あいつらと……戦わなきゃ。
 ふつふつと、心の底から熱いものがたぎってきた。そうだ、俺はずっと戦いたかったんだ。あの人たちと。俺に勝手なものを押しつけてくるあの人たちと。
 兄さんよりできが悪いのは俺が悪いんだから、父さん母さんを責めちゃいけないって思おうとしてた。でも違う。本当は、なんで俺をそのまんまの俺でいさせてくれないんだってずっと思ってた。兄さんと、誰かと比べるんじゃなく、そのまんまの俺をそれでいいって認めてくれないんだって思ってた。
 ……それをしてくれたのは、監督だ。
 ぎゅうっと胸が痺れた。監督に会いたい。監督の顔が見たい。監督の声が聞きたいし監督に優しくされたいし、監督によくやったなって頭撫でてもらいたい。
 俺は、監督が、すごく好きだ。
 ……だから、戦える。
 ぎゅっ、と奥歯を噛み締めて、気合を入れた。そうだ、外に出れば監督がいるんだ。なんにもなかったりはしない。少なくとも監督は、俺が頑張ったら、頑張ったなって認めてくれるはずだ。
 俺は、戦う。
 ぎっ、と気合いを入れて暗闇を睨みつける――と、音が聞こえた。
 かしゃり、という音。なんの音だろう、と一瞬考えて気づいた。これは、兄さんが――いいや、芹沢輔がここに来る時に聞こえる音だ。
 それからしゅ、しゅという音。そしてまた、かしゃり。これは、きっと、足音と、扉を開ける音だ。そうだ、ここは地下室の一番奥なんだから、そこに行くまでには何枚も扉を開けなきゃならなかったはずだ。
 しゅ、しゅ、かしゃり。しゅ、しゅ、かしゃり。――がちゃっ。
 眩しい光が目を刺す。俺は数瞬目を閉じて目を慣らしてから、ぎっ、とそちらの方を睨みつけた。
「……なんだ、その目は」
 低く言った芹沢輔の声に潜む怒りも苛立ちも、俺の底から湧いてくる力を消すことはできなかった。

 そうして、脱出の決意を固めて――それでも、俺はまだここから出ることができないでいる。
 脱出しようとして下手を打って、もう芹沢輔がここに来なくなったら元も子もない。だから脱出の可能性があるのは一度きりだと思わなくちゃならない。だから懸命に状況を観察して計画を練った。
 何度も観察して、芹沢輔が扉を開けるのに使っただろう鍵束を腰のベルトにつけていること、こちらがなにかするんじゃないかというような警戒はまるでしていないこと、俺を鞭打つ時にはけっこう無頓着にこちらに近づいてくること等々をしっかり確認した。
 だけど、そういった事実をうまく使ってなにができるのか、となると――俺にはどうしても、体力勝負の計画しか思いつかないのだ。相手が近づいてきたところで殴り倒して鍵を奪うとか、そういうの。
 だけどそのためには俺が芹沢輔より力が強くなくちゃならない。俺は中一で芹沢輔は高一、体力的にどうしたってかなりの差がある。いくら相手が高校入ってからろくに運動してないっていったって、中三までは法篭レイニーズでセンターフォワード張って全国まで行くくらいの選手だったんだ。取っ組み合いで勝てるかというと、かなり厳しいと言わざるをえない。
 ならどうする。どうすればいい? チャンスは一度。その一度でここから逃げ出せるような計画を考えなくちゃ。
 そう考えたはいいけれど、そんなのそうそう思いつきはしない。計画を練る時間はくさるほどあったけど、正気が戻ってくるや背中やら四肢やらの傷の痛みや、空腹が考える力を奪う。
 なんとかしなきゃ。なんとかしなきゃ。そう考えながらも、俺は必死に餌を食って少しでも空腹を癒し、芹沢輔を決死の気合いで睨みつけることしかできていなかった。……そのせいで、芹沢輔の鞭がより激しくなるとしても。
「……なにを考えている」
 そして今も芹沢輔の低い声に、俺は睨み返すことしかできていない。芹沢輔の眉間に皺が寄り、手の中の鞭をぱしん、ぱしんと叩く仕草に鞭打たれた時の痛みが蘇っても、必死に相手を睨み据えることしか。
 鞭打たれるのが怖くないわけじゃない。今でも体のあちこちがひりひり、ずきずきするし、打たれた時の裂けるような痛みを思い出すだけで体がざっと冷えて冷や汗が出る。
 でも、それでも、負けるのは嫌だった。こんな奴に、俺のことなんてどう扱ってもいいと考えてるような奴らになんて、絶対に負けたくない。
「返事をしろ、駄犬。また罰を与えてほしいのか」
「……あんた、正気でもの言ってるのかよ」
 思わず口から言葉がこぼれた。芹沢輔の顔がしかめられ、すぐにまずい、と思ったけど一度感情を吐き出し始めた口はもう止まらなかった。
「あんた、本気で俺が罰を与えられるような悪いことしたって思ってるのかよ」
「なにを……当たり前だろう。男のくせに男に欲情するような変態、存在するだけで俺たちの迷惑というものだ」
「そうかよ。けどな、少なくとも俺が男の人を好きになるのは別に法律違反じゃないだろ。なにかしたわけじゃなくて、ただ好きなだけなんだから。でも、俺をこうして監禁して、虐待するのは明らかに法律違反じゃないか」
「っ……」
 一瞬芹沢輔が怯んだ。それに力を得て、いっそこの余勢を駆ってこいつを揺らがせてやると俺は言葉を次々投げつける。
「そもそも、あんたに罰される筋合いなんて全然ないだろ。家の恥だなんだって言ったって、俺が監督のこと好きなこと知ってる奴なんてほとんどいないんだから。だってのになんで罰されなきゃならないんだよ。そもそも家がどうたらこうたらって理由でこんなことされる――」
 そこまで言って、はっとした。
 本当に、なんでこいつ、俺が監督のことを好きだって知ってるんだ? 俺は本当に半田と、あとは監督自身にしか言ってないのに。どうやって知ることができたんだ?
 まさか――まさか、とは思う、けど。
「盗聴……?」
 俺が呟くように言った言葉に、芹沢輔はびくんと震え、こちらから一瞬目を逸らす。その仕草で確信した。
「あんた……俺の部屋を、盗聴、してたのか? だから、俺が……一人で、やってるとこ、聞いて……」
「…………」
「そうだ……そうだよ。思い出した。あんた、俺の部屋に入った時、『相変わらず、サッカー少年! って感じの部屋だな』って言ったんだ。俺が物心ついてから、あんたが俺の部屋に来ることなんてなかったはずなのに。以前から何度も来てるみたいに、当たり前みたいに『相変わらず』って……」
「…………」
 芹沢輔が額から脂汗を流す。それに力を得るというよりは、むしろ俺はぞっ、とした。俺のことを、本当に、かつて当然のように兄だと、家族だと思っていた人が盗聴していた。その事実が、なんともいえず怖いというか、変というか、正直に言ってしまえばぞっとすることのように感じてしまったんだ。
「……なんで、そんなこと。俺、別に盗聴されるようなこと、してなかっただろ。普通に、サッカーして、勉強してって、してただけで……」
「サッカークラブの監督のことを考えながら自慰なんて真似をしていただろうが」
 開き直ったのか、芹沢輔はぎっとこちらを睨みつけ言葉を投げつけ返してくる。
「まったく、汚らわしい。俺はお前がそういうことをすることのないように、監視してやっていたんだ! 兄として当然のことだろう!」
「どこが当然なんだよ!? おかしいだろ、明らかに! 俺が、その、そういうことするとこわざわざ聞いてるなんて、それこそ変態みたいな真似……」
「お前は俺が監視しなきゃいけないんだ!」
 絶叫、と言っていいほどの大声で芹沢輔は叫んだ。
「お前は馬鹿だから、駄目な弟だから、俺が監視して正しい方向に導かなきゃならないんだ! お前がずっと、俺を追って、俺のあとをついてくる俺より劣った弟でい続けるように見張ってなきゃならないんだ!」
「な……に、を」
「いつも、いつも、お前は俺と引き比べられる劣った弟だったじゃないか! いつも、いつも、父さんも母さんも、俺の方ばっかり褒めて、お前にはろくに見向きもしないで。だから俺はずっと、お前よりずっと優れた存在でいるように、頑張り続けなきゃならなかった! ろくに遊びもしない、できない、勤勉で真面目でなにをやってもトップクラスの成績を出せる自慢の惣領息子でなきゃ駄目だったんだ!」
「――――」
「なのに、俺がいつもいつも頑張ってるのに、毎日六時間も勉強して、スポーツも上手にできるようトレーニングもして、睡眠時間もろくに取れない中で必死に、必死に頑張ってるのに――なんでお前が別の方向を向くんだ! 俺の背中じゃなくて、別の人間のいる方を向くんだ! おかしいだろ!? そんなの、おかしい! ずるいじゃないか! 俺は、ずっと、それだけを支えにして頑張ってきたのに……!」
 芹沢輔は、ほとんど泣き叫ぶような声でそう叫ぶと、ずかずかと俺に近づいてきて鞭を振り下ろした。何度も、何度も、勢いよく。俺の皮膚が痛み、時には傷がつくように。
 俺は小さく丸まるようにしてそれに耐えながら、なんだかひどく泣きたくなるのを堪えていた。芹沢輔への怒りが失せたわけじゃない、けど、なんだかひどく、この馬鹿な兄さん≠ェ可哀想だった。
 俺はずっとこの人と比べられて、それがムカついてしょうがなかったけど、この人は俺と比べられて褒められる、ただそれだけのために頑張ってきたっていうのか。父さんや母さんに気に入られるような、褒められるような息子でいようと、全力で。
 だからってこいつのやったことが許されるわけじゃない、全然ない、けど……だけど……。
 なんでこんなことになってるんだ、と俺は泣きたくなった。俺はただ、俺として、俺らしく俺の好きなように生きたいと思った、ただそれだけなのに。閉じ込められて、鞭打たれて、傷つけられて、なのに相手を憎むのもやりたくなくなっちゃうなんて。
 誰か、助けて。
 泣きそうな気持ちでそう思った。誰か助けてくれ。このままじゃ立ち上がれなくなっちゃいそうなんだ。誰か、誰でもいいから。俺をここから連れ出して、大丈夫だと、俺は俺の好きなように生きていいんだって言ってくれ。
 誰か、誰か。誰か――監督………!
 ――と。
 ビーッ、ビーッ、ビーッ、ビーッ!!
 けたたましいブザー音がすさまじく大きな音で鳴った。え、と思わず顔を上げる。芹沢輔も同じように顔を上げていた。
 これはたぶん、うちについてる警備システムの警報だ。誰かが侵入したら大音量で鳴って、侵入者を驚かせて逃げ出させるためのもの。これが鳴れば即警備会社に通報がいって、すぐにガードマンたちが駆けつけてくるはず。
 そして、それのみならず。
 だがっしゃぁん!
 ほとんどすぐそばから聞こえたように錯覚するほどでかい、なにかを壊し倒す音。金属音のように聞こえた。金属製の硬い扉を、鍵で開けるんじゃなく無理やりぶち破った時みたいな……
 まさか。
 俺はほとんど愕然とした気分になって、扉のある方向を見つめる。どがっしゃぁん、ぐがっしゃぁん。破壊音はどんどんと近づいてくる。
 慌てうろたえる芹沢輔を尻目に、俺は扉のある方向を見つめながら、期待しながらそれが裏切られる可能性を怖がりながら、待った。
 待った時間はそれこそ一分にも満たなかっただろう。俺の監禁されている部屋の扉がぐばぁん! と蹴倒されて、中に人が、背の高い人が入ってきて、叫んだ。
「芹沢っ!! 無事かっ!!」
 俺は目を見開き、期待しながら怖がりながら待っていたその人にその声に、自分にできる限りの声で叫び応えた。
「監督っ………!!!」
 監督は――俺がずっと待っていた土方東監督は、俺の方を見て、一瞬目を見開くと、こちらに素早く駆け寄ってきて、俺を抱きしめた。ぎゅっと、力強く、逞しい腕で、熱い胸の中に。
「大丈夫だ、芹沢……もう、大丈夫だからな!」
「監督っ……」
 俺はもうたまらなくなってしまって、ぼろぼろ涙を流しながら監督の胸に顔を擦りつける。きっと俺は今すごく汚い恰好なんだろうとは思うけど、腹の底から湧き上がってくる気持ちを抑えきれなくて、監督にぴったりくっついてしまった。
「っ……お前、どこから入ってきた!」
 芹沢輔が必死の声で叫ぶ。それに、監督はゆっくりと俺を放して立ち上がり、ぎっ、と激しい瞳で睨みつけることで応えた。
「君は、芹沢輔くんだな。この芹沢翔の、兄の」
「それがっ……どうしたっ」
「両親のプレッシャーの中で必死に結果を残そうとしてきた君の努力は尊敬に値するし、境遇に同情もする。だが、君のしたことは許されることじゃない。君が君の両親のために生きているわけじゃないように、翔だって君のために生きてるわけじゃないんだ」
「っ……うるさいっ、黙れっ!!」
 芹沢輔が鞭を振り上げる――が、監督はそれが振り下ろされる前にあっさりそれを受け止めもぎ取り、言った。
「歯を食いしばれ」
「え」
 ばっしぃん! とものすごく痛そうな音とともに監督の平手が頬に炸裂し、芹沢輔は文字通り吹っ飛んだ。ばたっ、とその場に倒れ荒い息をつく芹沢輔に、監督は低い声で言う。
「この鎖の鍵はどこだ」
「っ……俺の、部屋の、引き出しの、中……」
「持ってこい。今すぐに」
「っ……」
 芹沢輔は目を赤くし、体をふらふら揺らしながら立ち上がり、部屋を出ていく。俺は慌てて監督に耳打ちした。
「あの、監督、大丈夫なんですか……? あいつ逃がしちゃったら、監督も捕まっちゃうんじゃ……警報鳴ってるし」
「ああ、その心配はいらない。俺も一応、準備なしに乗り込んできたわけじゃないんでね」
 言って監督は携帯を取り出し、ピッピと短縮ダイヤルで電話をかけた。
「……はい。俺です、土方です。見つけましたよ、証拠。芹沢翔は、本当に家の地下に閉じ込められてました。実際に今俺の隣にいます。まだ鎖で繋がれて……え? 証拠写真? ……はい、わかりました。ですが、翔はかなりのショックを受けてます。体中傷だらけで、衰弱もしてるし……俺は彼の心身を保護することを第一に行動しますけど、かまいませんね。……ええ。ええ。はい、お願いします、それじゃ」
 言って電話を切ってから俺の方を向き、監督はすまなそうな顔をして訊ねた。
「芹沢、悪いんだが……証拠をきちんと残しておくために、今のお前の状態を写真に撮ってもいいか。もちろん悪用されることはないと保証する……しようもんなら犯罪だ、警察に渡すんだからな」
「え……警察、って」
 監督はひどく真面目な顔になって、正面から俺を見る。その表情の中には、悲嘆というか、苦しみに耐えるような感情が確かに見受けられた。
「芹沢。……俺は、お前の兄さんと、両親を告発したいと考えている。監禁、傷害、虐待……そういった、もろもろの罪で」
「えっ……」
「お前にとってはたぶん嫌なことだろうと思う。だけど、俺はどうしてもしなけりゃならないと思うんだ。お前の両親を罰したいとか……そういう気持ちがないわけじゃないけど、そういう理由じゃなくて……俺は、お前の両親に、お前をこのまま育てさせるわけにはいかないと思うんだ。少なくとも、しばらくは距離をおいた方がいい」
「…………」
「そのためには、お前の両親に、親の資格がないことを公的に証明しなけりゃならない。だから俺は、法廷でお前の両親と争わなきゃならないと思う。それに俺が今ここにこうしているのだって、住居不法侵入って立派な犯罪だしな」
 そこで一度言葉を切って、改めて俺の顔を見つめ直し問いかける。
「……お前は、それを受け容れられるか? お前の両親を、罪人にするため俺が全力を尽くすことを」
 いっそ鋭さすら感じられるほど真剣なまなざし。俺はそれを数瞬正面から見返してから、逆に問いかけた。
「監督。聞いても、いいですか」
「なんだ?」
「なんで……そこまで、してくれるんですか」
「え?」
 思ってもみなかった質問だったようで、監督は一瞬きょとんとする。そこに続けて問いかけた。
「だって、俺、監督とはサッカークラブの監督と教え子って関係しかないじゃないですか。そんな相手に……犯罪まで犯して、なんでここまで、やってくれるんですか」
「あー……っと。そう、だな」
 監督は一瞬目を泳がせてから、また俺に向き直り、告げる。その瞳は、さっきと同じようにひどく真剣だった。
「まずな。俺は、たとえ相手がただの教え子だったとしても、機会があればそのくらいの力にはなってやりたいと思う。それくらいの男気は持ってると、うぬぼれかもしれないが考えてる」
「……はい」
「だけど、ここまで積極的に動いて、全力尽くして、できる限りのことをしまくってやろうと思うのは、な」
 一度深く深呼吸して、それからまた俺を見つめ、告げた。真剣で、そして、心の底から俺を気遣う、真摯なまなざしで。
「お前のことが、好きだからだよ」
「っ……」
 その言葉に――まさかありえないだろうと思いつつも心のどこかでこっそり期待していた言葉に、俺の胸の辺りがじゅわぁっと熱くなり、潤みかかり、それは一気に俺の瞳の辺りまで持ち上がっていって、涙の形になって外へとこぼれた。
「……芹沢」
 少し目を見開いた監督に、俺は震える声を必死に張り上げて告げた。
「監督」
「……ああ」
「俺も、監督のこと、大好き、です」
「ああ。俺もだ」
 たまらなくなって監督に抱きつき、ぐりぐり頭を押しつける。ぼろぼろ涙がこぼれるのを、監督が優しく拭いてくれる。
 体ぼろぼろで、いろいろひどいことされて、何度も死にそうな気持ちになったけど――それでも俺は、こんなに幸せなことってないって――今まで生きてきて本当によかったって、心の底から思えてしまったんだ。

 警備員と、そしてほぼ同時に警官隊が押し寄せてきて。俺は警官隊に保護され、監督に体洗ってもらったりすごく久々にまともなご飯を食べさせてもらったりして(そこで俺が監禁されていた時間はほんの一週間程度なんだって知った。真っ暗闇の中で放置されるって、そのくらい時間感覚を狂わせられるものなんだな)。
 それから裁判までの間、俺は警察の保護施設に預けられることになった。
 預けられるっていっても、監督がわざわざ休みを取ってしばらく一緒にいてくれたし、不安な気持ちになったりはしなかったけど。何度も写真撮られたり、にこにこ笑ってる中年のおばさんにいろいろ聞かれるのは、しょうがないとわかってはいてもあんまりいい気持ちはしなかった。
 そして、裁判の日。監督も含めてみんな、『俺が裁判に出る必要はない』って言ったけど、俺は全力で言い張って出させてもらった。だって、俺の行く先を決める裁判なんだから、俺が出ないなんておかしいもん。
 裁判の席で、俺は久しぶりに芹沢輔……いや、兄と、両親を見た。かつて家族だった人たちを。
 それぞれスーツやらなにやらを着てめかしこんだ振りをしているけれども、顔の憔悴加減は隠しようがなかった。なんでも、俺が監禁事件のことをかぎつけた人たちがいたらしくって、俺の事件はけっこうでかい話になってたみたいなんだ。もちろん、未成年の俺と兄は名前は出なかったけど、両親と病院の名前は出たからほとんどバレバレだったろう。
 裁判は、ずいぶん長くかかった。両親の雇った弁護士は(うちの病院の顧問弁護士って人だったと思う。あんまりよく覚えてないけど)、口が達者で、俺が監禁されてたことなんて両親は知りようがなかったとか、とにかく『両親に罪はない』ってことをうまく周りに印象付けようとしてた。俺は正直なに言ってんだとぶん殴ってやりたかったけど、一緒に証人席に座ってくれた監督が、ぎゅっと手を握ってくれたのでかろうじて耐えられた。
 それに、担当検事の人も負けていなかった。っていうか、その鋭いくらいの口調は、弁護士のごまかしを次々論破して寄せつけなかった。
 監督は証言台に何度も立たされ、いろんな質問を受けたけど、そのすべてに堂々と、そしてしっかりと真実を答えて(監禁されてた俺がどれだけひどい状態だったかとか、助け出した時一緒にいた兄の様子とか)、相手を追い込んでいった。
 そして最後に、俺も証言台に立たされた。どんなことをされたか、兄にどんな扱いを受けたか、兄が両親について言ったこと、そして両親がどんな親だったかについて言及すると、かつて俺の父親だった人は我慢できなくなったようで立ち上がり、喚いた。
「この恩知らずが! 私たちがお前を育てるのに、どれだけの金をかけてやったと思ってるんだ!」
 一気に周囲がざわめく中、俺はぎっと相手を睨みつけ、きっぱり言った。
「金だけしかかけなかったよな、あんたたちは。こっちの気持ちをおもんばかるとか、大切にするとか、頑張ったことを認めるとか、そういうこと全然しなかったよな。ただ、自分たちにとってプラスになることを、自慢できるようなことをした時に、犬の餌を大盛りにするみたいにやたらめったら褒めちぎるだけで」
「なっ……」
「俺はずっと兄さんと――芹沢輔と比べられて、おとしめられて、劣等感を感じさせられてきたけど。芹沢輔だって可哀想だ。あんたたちみたいな、子供を自分のための道具としてしか扱わない奴らに、他と比べられて、いつも褒めちぎられて。どうしたって優越感とか、罪悪感とかそういうの抱かずにはいられなくさせられて。……芹沢輔が暴走したのだって、あんたたちの育て方のせいが、絶対大きいって思う」
「き、貴様……!」
 ほとんどどよめき始めた周囲を静めて、また裁判は始まったけど、もう弁護士もまともな反論はできなかった。裁判官は両親、兄ともに有罪の判決を下し――裁判は終わった。

 裁判が終わったあと、俺が監督の車に乗せられてたどりついたのは、監督の家だった。
「え……え? あの、え、俺、監督の家にいて、いいんですか……?」
「ああ……まぁ、こういう状況だからな。保護監督責任を負うことを申し出て、受理された……つまり、少なくともしばらくは俺がお前の保護者になったわけだ」
「監督が、俺の、保護者……」
 口の中で呟いてみて、なんだかかーっと顔が熱くなってきた。嬉しいような恥ずかしいような、もったいないような、なんだかいてもたってもいられない気分だ。
「なんだ? 嫌か? 俺としては、できるだけ早くお前と養子縁組をしたいと思ってるんだがな」
「え? ようし……えぇっ!?」
「まぁ、お前の両親ともきちんと話し合わなきゃならないし、そう簡単にはいかないだろうけどな。けど、俺は俺にできる全力で、お前を護りたいと思ってるわけさ」
 そう笑って言いながら、監督は俺の背中を押す。俺は押されるままに家の中へ入り、以前監督の家へお邪魔した時と同じように居間までやってきてしまった。ちょっと呆然とするような気持ちで座っている前に、すっとお茶が出される。
「いただきます……」
 半ば無意識に呟いて、熱いお茶を何度も吹きながらすする。お茶の熱がじんわり腹の底から体中に広がり、指の先まで温めてくれた。
 そんな俺を、監督がじっと、優しい顔で見ている。
「あ……の、なん、ですか? なんか、俺の顔に、ついてます?」
「いや。ただ、よかったな、ってな」
「え……」
「お前をここに連れてくることができて……あんなひどい目に遭ったのに、少なくとも元気な顔のままで、俺にとって安心できる場所に連れてくることができて……よかったな、っていうのと、嬉しいな、ってな」
「……う」
 そ、それって、やっぱり、俺のことが好きで、心配だった、からだよな……? なんていうか監督の俺に対するそういう気持ちについては、警察に保護されてからずっと全然話題に上らなかったんだけど(いや、周りに人がいる中でそんな話できないってわかってはいるんだけど)、だから時々『あれって俺の妄想とか勘違いとかなんじゃないかな……』って思っちゃってたんだけど、やっぱり、監督は俺のこと好きってことで、いいんだよ、な。
 いやいや待て待てちょっと待て。その監督の好きって、恋愛感情か? なんていうか友情……っていうか、保護欲に近いものだったりしないか? だって唐突じゃん、監督高校卒業するまで気持ちには応えられないっつってたのに。
 内心うんうん唸って、俺はそっと監督を見上げ、ちょっと遠まわしに訊ねてみることにした。
「あの……監督。気になってたんですけど」
「ん?」
「あの……どうやって、俺があの家に閉じ込められてるってこと、わかったんですか?」
 すると、監督は少し首を傾げて苦笑する。
「わかったっていうか……確信はなかったんだけどな」
「え……そうなん、ですか?」
「ああ。……練習日にお前が来なくて、おかしいなと思ったからお前と同じ学校の奴に聞いてみたんだ。芹沢、どっか体の具合でも悪いのか、って。そしたら学校にもこの数日来てないって聞いてな、これはもしかしたらなにか怪我か病気でもしたんじゃないかって心配になって、メールしてみたんだよ。お前の携帯に」
「……はい」
「だけどいつまで経っても返事が返ってこない。何通か送ったんだけど、まるでまったくだ。妙だなと思って電話してみても『この電話は電源が入っていないか〜』ってお決まりのメッセージが返ってくるだけ。病気にしてもおかしいな、と思ってお前の家に直接電話してみたんだけど、けんもほろろの扱いでな。お手伝いさんらしき人が出たんだけど、『翔坊ちゃまは体のお調子がお悪いのでサッカークラブはやめさせます』ってのの一点張りでな」
「そんな!」
「うん、俺もおかしな話だと思った。少なくともお前の口から直接話を聞かないと納得できないと思った。で、何度も電話をかけて必死にくらいついたんだけど、『あんまりしつこいと警察に訴えますよ!』とこうきたもんだ、これはおかしい、と思うだろ、普通?」
「はい」
「でもだからって即監禁なんて方向にまで考えは向かなかった。まさかそんなことあるわけないだろっていうか、そういうことがあるなんてこと自体想定外だった。けど……悩んでる俺の前に、半田って子と、その兄ちゃんだって男が現れてな」
「……へ?」
 半、田? と、その兄ちゃん? って……
「半田って子はお前のクラスメイトだって言ってたけど」
「え……えええぇえぇぇ!?」
 半田って、その兄ちゃんって、あの半田とにーちゃんか!? 隣のにーちゃんに騙されまくってた半田と、騙しまくってたにーちゃん!? そいつらがなんでそんなとこに!?
 愕然とする俺の前で、監督は落ち着いた口調で説明する。
「なんか、お前の家の内情をやたら詳しく説明してくれてな。お前の兄さんが親の常にお前と比較する歪んだ教育のせいでお前に間違った執着心を抱いてるとか。自分たちのことしか頭にない親たちは、兄がお前を監禁しても放置するだろうとか。兄は毎日学校に行ってるから、お前もまだ家の中にいるはずだとか、いろいろ理路整然と」
「…………」
「それでもし監禁されてた場合は現場に踏み込むしかないとか、そのために力になってくれる刑事さんとか機関とか紹介してくれて。あと裁判の検事さんもあの人が紹介というか、コネをうまく使って担当になるようにしてくれた人で。そういう風にいろいろお膳立てした上で、『でも100%の確信はないし、推測が当たってたとしてもその子の面倒をこれからずっと見れるのはあんただけだ』って言ってくるんだぜ。そこまでされたら、こっちも乗るしかないだろ?」
「そ……、うです、ね」
 っていうか半田のにーちゃんって何者……。半田をいつもテキトーなこと言って騙してる印象しかなかったのに……。
 ……でも、ってことは、監督が俺を助けてくれたのは、成り行きとか、そういう次元の話だったり……?
「……俺は、お前を見つけた時、神様に感謝すると同時に、自分を呪ったよ」
「え……え?」
「なんでもっと早く見つけてやれなかったんだって。お前がこんなひどい目に遭ってるのに、どうしてもっと早く助けてやれなかったんだって」
「え……」
 いつもと同じ、真摯なまなざしで見つめられそう言われ、俺は思わずかーっと顔を熱くした。なんか、それって、ほんとに。
「お前は、俺のことを好きだと言った。だったら、俺が、他の誰でもない俺が助けてやらなきゃならなかったのにと思ったし……それが遅れたのが悔しかったし。颯爽と敵地に乗り込んで、囚われの少年を救出する白馬の王子様……ってわけじゃないが、その役をやれるのは、お前がやってほしいと思うのは俺のはずだって、うぬぼれも込みで思ったりしちまったしな」
「は……」
 はくばのおうじさま、って。か、監督って、けっこう恥ずかしいこと言うな……っていうか、そうじゃない、そうじゃなくて。俺が知りたいのは……
「あの……監、督」
「なんだ?」
「監督が俺を助けにきて、くれたのは……義務感、とかの、せい、ですか……?」
 俺としてはけっこう決死の想いで告げた質問に、監督はちょっと苦笑すると、「ちょっと待ってろ」と言うと居間を出ていった。なんなんだろ、と思いつつ俺が待っていると、すぐに戻ってきて「見てみ」とスクラップブックをぽいと机の上に投げ出した。
 言われるままにページをめくってみる。とたん、俺はぽかんと口を開けてしまった。
 だって、これって、なんていうか。……男の、それも子供ってくらい若かったり幼かったりする芸能人の、写真を切り抜いて、集めてるように思えるんだけど………。
「これ見て、わかるだろ?」
「え、あの、えと、わかるって、なにが……」
「俺はな、ショタコンなんだよ。男の子が……それも小学校高学年〜中学校ぐらいの男子がもー好きで好きでたまんなくて見るだけでニヤニヤするよーな変態さんなの」
 俺の顎は、たぶん、かっくーんと落ちたと思う。監督はにやにやと(監督がこんな顔するなんて考えたこともなかったけど)やらしい、おっさんくさい笑みを浮かべながら言った。
「なんつぅかさぁ、俺自分もまだガキって頃から男の子が好きでさぁ。もうすっきで好きで、道で行き会っただけでも瞬時にその子の全身を観察して、可愛い子だったら頭の中で裸にしてみたりしちまうくらいなんだよなぁ。特に好きなのはサッカー少年でさぁ、サッカーが好きだから好きになったのかサッカー少年が好きだからサッカー好きになったのかわからんくらい好きでさ、あのサッカーユニフォームとか見るだけでたまらんっつーか。ぶっちゃけお前らがサッカーの練習してるとこ指導しながら太腿とかこっそり視姦しちまったりしてたし。心の中でシャッター切りまくって、夜のオカズに使わせてもらったりもしたなぁ」
 し……視姦、って。夜の、オカズって。この人、本当に監督か、と一瞬疑ってしまうほどの変貌ぶりに呆然としながらも、俺は訊ねていた。
「じゃあ……なんで、最初に、俺が好きだって言った時……」
 その告白をはねつけたのか。その問いに、監督はにこっと――いつもの監督と同じ笑顔で笑んで、あっさり答えた。
「そりゃ、良識を気合フルスロットルで死ぬ気で全開にしたんだよ。ぶっちゃけお前みたいな可愛い男の子が裸で俺に抱きついて好きですとか言うんだぜ、そりゃもう頭の中爆発しそうに欲情してたけど――それでもやっぱり、心と体の未熟な子供を、大人がそこにつけこんでどうこうするってのは許されるこっちゃないと思うから、さ」
「………――――」
 俺は一瞬ぽかん、として……それからふふっ、とちょっと笑った。そっか……うん。そうだ。やっぱり監督は、ショタコンでも、俺たちの尊敬に値する立派な監督だ。
「ま、そういうわけだから、お前みたいな可愛い男の子の保護者になって育てていくなんざ、俺的には垂涎もののシチュだから遠慮とか気遣いとかは一切無用だからな。どうせ変態なんだから好きに使っちまえーくらいの気持ちでいい」
「あ、あのっ!」
「ん?」
 立ち上がりかけた監督は、俺の声に振り向いて、優しい笑顔を向けてくれた。いつもと変わらない、俺たちを包み込んでくれる暖かい笑顔。それに力を得て、俺はおずおずと、でも力を込めて訊ねる。
「あの……監督の、気持ちは。監督自身の気持ちは、どう、なんですか」
「………俺の、気持ち、か」
「はい。……ちょっとは、俺自身のことも、好き、ですか」
 じっ、と見上げる。すると、監督はまた微笑んで、俺の頭をわしゃわしゃとかき回すように撫でてくれた。
「サッカーが大好きで、こっちが心配になっちまうくらい練習熱心で、いつでも一生懸命なうえに、俺のことを心と体いっぱいで好きだ、って伝えてくるようなひたむきで可愛い子、好きにならないわけないだろ」
 ――その言葉を言い終わるかどうかって間に、俺は監督に突進した。「っ、おい!」と監督は驚きの声を上げるが、かまわずにぎゅっと抱きついて、決死の想いを込めて言う。
「……監督。俺と、エッチなこと、してくれませんか」
 監督は数瞬固まった、と思う。それから困ったように笑って、俺の頭を撫でて言った。
「芹沢。言っただろ? 大人が十四歳未満の子供とそういうことをすると――」
「犯罪になるんですよね。……でも、俺が告発しなかったら――バレなければ、犯罪じゃ、ない……でしょ?」
 こんなところで半田のにーちゃんの台詞を使うことになろうとは、と内心ちょっとため息をつきたい気持ちもなくはなかったが、それでも俺は必死に言う。恥ずかしくて恥ずかしくて、とても監督の顔を見られなかったが、それでも。
「監督が、その、ショタコンだって聞いて。びっくりしたし、その、ちょっと幻滅っていうか、がくってきた気持ちもなくはない、ですけど。でも、嬉しい気持ちも、けっこうっていうか、すごく……あるんです。だって、それだったら、今の、できることがろくにない俺でも、監督に与えられるものがあるわけだから」
「……芹沢。子供はそんなことを気にする必要――」
「必要じゃないんです、俺が、監督にあげたいって思うんです。俺のできること、持ってるもののありったけ監督にあげたいって思うんです。俺は、監督が、ほんとに、ほんとに――大好きだから」
「芹沢……あの、な」
「監督、今の俺くらいの男が好きなんですよね。高校卒業したら、監督の好きな体とは違っちゃうわけですよね。だったら、今の俺にしかあげられないものがあるんだったら、あげたいんです。法律違反でも――この気持ちは間違いじゃないって、思う、から……」
「芹沢………っ、くそっ」
 最後の方は恥ずかしすぎて消え入るような声になってしまった俺を、監督はなんだか呻くような声とともにひょいと抱き上げた。そしてそのまますたすた歩き出す。
「っ、かん、とくっ? あの、どこ、へ」
「便所」
「……へ?」
「男同士のセックスにはな、いろいろ下準備が必要なんだよ。浣腸して、中のもんを全部出して、洗わないと性病の温床になるの」
「え……せ、セッ――」
「ったく……人様には言えない性癖でも、法律は犯してないってのが自慢だったってのに、見事に理性打ち砕いてくれやがって」
 野獣を思わせる唸り声に、俺はちょっと不安になって、こわごわと監督の様子をうかがう――と、監督はちらりと俺と目を合わせて、ひどく真剣な顔で、小さく囁いた。
「責任取って、一生幸せにする」
「っっっっ…………」
 俺はボンッ! って音がするくらい脳味噌を一気に熱くして、くたぁと監督に身を預けた。体に力が入らなくなっちゃったし、なによりこの人に任せておけば大丈夫だっていう圧倒的な安心感に包まれてしまったからだ。

 監督のいうもろもろの下準備≠フあと、俺は監督の家の二階の寝室の、ベッドの上に横たえさせられた。
下準備≠フ間にどんどん服を脱がされてっちゃったもんで、もう俺は一糸まとわぬ素っ裸。……そして、その間にどんどん服を脱いでった(脱いだ服はその辺に脱ぎ散らかしたまんまだ)監督も、素っ裸だった。
 前にも見た、監督の男らしくて逞しい、がっしりしてるけどしなやかな体――だけど以前に見たのと違うのは、監督の股間の、その……チンコが、勃ってるってことだった。もうすごいビンビン。血管びしびし浮いちゃって、腹にほとんどぴったりくっついちゃってるくらい。
 あれじゃ絶対チンコ痛いくらいになってるだろうに、監督はあくまでそっと俺をベッドの上に下ろすと、微笑んでくれた。
「そう固くなるな。……ちゃんと、優しく、するから」
「は……い」
 自分でも固くなってるなとは思うんだけど、固くなるなとか正直無理な相談だった。だって、監督も俺も素っ裸で、これから、その、セックス、するんだから。
 やっぱ痛いのかなとか具体的にどういうことするんだろうとか、頭の中が無駄にぐるぐるしてもう緊張しまくり。そんな俺を、監督はじっと見て、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「っ――」
「大丈夫だ。俺が、ついてるからな」
「……は………い」
「……キスしていいか?」
「っ……は、いっ!」
 キス。キス。そうだよな、セックスするんだからキスだってするよな。うわ、やばいどーしよ、考えてなかった、めっちゃくちゃドキドキする!
 そんな風に顔を白黒させる俺に、監督は優しく笑いかけ、ゆっくりと顔を近づけてきて、俺の後頭部をそっと支え……チュッと唇に唇を触れさせた。
 ドッキーン! と心臓が跳ねる。しかもキスは一回じゃ終わらなかった。チュ、ちゅ、チュ。何度も何度も、時にはそっと触れ、時には軽く唇を吸い、唇と唇を繋げてくる。
「芹沢。口、ちょっと開けて」
「ふぇ……?」
「うん、そう。そんで、ちょっと舌出して、な。そう……ん……」
 ちゅぶ、ちゅ。くちゅ、びちゅ。監督の唇は、さらに深く俺のと繋がる。何度も角度を変えながら、舌で俺の口内を思いきりまさぐり、時には舌と舌とを絡め合わせて、お互いの涎を交換し合う。
 ――それだけで、俺はまともにものが考えられなくなるくらい感じていた。
 ぼんやりした頭で、監督の唇が俺の体のいろんなところを這うのを感じる。まぶたの上。耳たぶ。耳の中。喉。鎖骨。胸。乳首。腹。おへそ。太腿(ここは特に念入りだった気がする)。ふくらはぎ。お尻。背中。
 そのどこに触れても、俺はあまりの気持ちよさにひんひんと泣き喘いだ。監督の手の中で、監督の思うさま弄ばれる、その快感に。
 なにか濡れたものが俺の尻の穴に触れても、その感覚は変わらなかった。その間も監督の指は、唇は俺の体のあちらこちらに触れていて、その気持ちよさで俺は喘ぎっぱなしだったからだ。
 そうして俺の尻の穴がしっとりするくらい濡らされた頃――ずぬっ、とその穴の中に太いものが入ってきた。監督の指だ、と数瞬遅れて気づく。
「ひっう……!?」
「大丈夫だ、芹沢。力抜け。俺の手を、素直ーに感じて。ゆっくり深呼吸して」
「ひ、は、ぁ……すぅぅ、はぁぁ、すぅぅ、はぁぁ……」
「そうだ、いいぞ……俺の指が、中に入ってるんだぞ、お前の中に……」
 なんだか監督の声に感動するような響きがあったのには気づいてたけど、ぶっちゃけ俺はそんなことを気にする余裕なんてなかった。監督の指は優しかったけど的確に動いて、俺の尻の穴の中をどんどんと濡らし、俺の呼吸に合わせて少しずつ、少しずつ広げていっていたからだ。
 尻の穴が開かれていく感じっていうのは、控えめに言っても気持ちいいもんじゃなかった。吐き気のような便意のような、上からも下からもなにか出そうな感覚が続く。
 でもどちらからもなにも出ない。そんな気色悪い感じのところに、監督の指が、唇が快感を与えてきて、俺はもう本当にわけがわからなくなっちゃいそうだった。
 そんな時間がどれだけ続いただろうか。俺の目の前の監督の真剣な顔が、囁いた。
「芹沢。……挿れて、いいか」
 なにを、どこに? と聞きたいような気持ちもあったけど、俺としてはもうそんなのどうでもいいやという気持ちが強かった。俺は監督に俺を全部あげたいんだから、監督のしたいようにしてくれればいい。監督だったら絶対、ひどいことはしないと思うから。
 でも、ただひとつ、ずっと気になってはいたんだけど言いそびれていたことがあったので、俺はそれを、かすれた声で告げた。
「な、まえ……」
「え?」
「俺の、名前……呼んで、ください。……それから、俺のこと、好きにして、ください………」
 監督の目が見開かれた。それからごくり、と喉が鳴った。
 でも、監督は、その激情を表す前に、荒くなっていく息を必死に抑えていますという声で、こんなことを言った。
「じゃあ、お前も、俺の名前を呼んでくれ。……東監督、って」
 俺はまだ半ば以上ぼんやりした頭でその言葉を聞き、ああ、それはいいな、そうしたいな、って思った――ので、ふにゃっと笑って言われた通りに言った。
「東、監督……」
「……っ、翔っ!」
 吠えた、と思うや監督は、飢えた肉食獣のような勢いで俺に襲いかかってきた。腰をがっしりとつかみ、そこらじゅうに甘噛みを繰り返し、それから尻の穴に――
「……ひっ、ぐ、うぅっ……!」
 なんだ。なんだこれ。なんだこの半端じゃない圧迫感! 苦しい、苦しい、なんかすごいぶっといのが尻の穴の中に入ってくる! ぐいぐい、ぐいぐいって、痛いっていうのとはちょっと違うけど、こんな、こんな――
 と悲鳴を上げかけて、俺はそれを止めた。目の前の監督の顔が、それこそ飢えた獣のような一途さで、俺の名前を呼んでいるのに気づいたからだ。
「翔……翔、好きだっ、愛してる、翔っ、ああ、愛してるっ」
 切ないくらい一生懸命にそう叫び、俺の体を甘噛みし、舐めてキスして撫で触る。監督が。あのいつも大人で、ショタコンだっていうのを明かした時もすごく余裕で大人っぽかった監督が。こんなに、俺で、我を忘れて――
 そう思ったら、なんだか胸のところがきゅうんって疼いて、苦しいのとか変な感じなのとかが全部嬉しい≠ノ変換されてしまった。
「あ、ずま監督、東監督っ、ひっ、あっ、あぁっ、ずまかんとくっ!」
「翔っ……翔っ、翔っ、翔ぅっ、くそっ、駄目だっ、イくっ!」
「あ、ずまかんと、く、あ、あ、あぁー………」
 すごい勢いのピストン運動がしばらく続いたかと思ったら尻の穴の中に放たれた熱いものに、俺は呆けたような顔になりながら、ちんちんの先端から白い液をだらだらこぼした。

「……すまん」
 東監督は、ベッドの上で、重ねられたクッションにもたれかかった俺の前で土下座した。
「いえ……あの。やってほしいって言ったの、俺ですし」
「いや……いくらお前から誘ってもらったからって、セックスの途中で我を忘れるなんぞ、大人として許されることじゃない。すまなかった……本当に」
 お互いの荒かった呼吸が落ち着いて、俺の中からぶっといものが(監督のチンコなんだと改めて確認し、俺は恥ずかしさに燃え上りそうになった)抜かれ、ウェットティッシュで体を拭かれるや土下座していっこうに頭を上げようとしない。東監督にはそれだけショックなことだったんだと思うけど(顔が青ざめてるのがはっきりわかるくらいだもん)、俺としては。
 ――ちゅっ。
「えっ」
「言ったでしょ、監督の好きにしてほしい、って。だってのにちょっとくらい手荒に扱われただけで、怒ったりしませんよ」
 監督の頭にキスを落とした俺は、恥ずかしさのあまりそっぽを向きながらぽそぽそと言う。
「それに、俺としては、なんていうか……東監督が、俺のこと、我を忘れるくらい好きなんだなって思うと、その……嬉しいっていうか、俺でも監督をそんな気持ちにさせられたんだなってちょっと感動っていうか、なんていうか……」
「……翔」
 監督がぐいっ、と俺を引き寄せた。それからちゅっ、と唇に触れるだけの、でも長いキスを落としたあと、真剣な顔で言ってのける。
「一生かけて、責任取るからな。俺を選んだことを後悔させないように、死ぬ気で幸せにする」
 その言葉に、俺はかなり照れたんだけど、それを素直に表すのは恥ずかしくってちゅっとキスを返すと、それがさらに情熱的になって返ってきたんで、そんなことをしているうちにお互いの気持ちが盛り上がってきて、もう一回東監督にされてしまった。……今度は前よりゆっくり、優しく俺を気持ちよくしてくれたけど。

 そうして俺は数週間ぶりに、学校とサッカークラブに復帰した。体の傷はもうとっくに治ってたし、いろんな大人たちが心配した心の傷も、そんなに深いものにはならなかったみたいだ。……たぶん、東監督が心の支えになってくれたおかげだ、と思う。
 サッカーについては、リハビリも必要だったけど、優秀な理学療法士(東監督のことだ)がほとんどつきっきりで面倒見てくれたんでこれもなんとかなりそうだった。今年の参加できる試合については大きく後れを取っちゃったし、俺のポジションは他の奴に奪われてたけど、あんまり焦ってはいない。俺にとってサッカーは一生のことなんだから、焦ったって仕方がない。……俺を認めてくれる人は、すぐそばにいるんだし。
 学校に戻ると、俺はまず真っ先に半田のところへ行って礼を言おう……としたんだけど、その前に半田に抱きつかれて半泣きで叫ばれてしまった。
「芹沢ぁーっ! よかった、無事だったんだなっ!? 俺にーちゃんが面会謝絶とかいうからもーとんでもないこととかされてたのかと……!」
 思わず首を絞めて目立たない場所まで連れ出してしまった俺を責められるほどの人格者はあんまりいないと思う。とにかくそうして改めて話を聞いてみると、半田はまさに俺を助ける鍵になる働きをしてくれていたのだ。
「お前いきなり休むからさー、メールとか電話とかしてみたんだけど全然出ねーし。変だなーと思って家に行ってみたんだけど療養中とか言って入れてくんねーし。変だなーって思ってにーちゃんに相談したらさ、なんかマジな顔になって、『それは監禁事件の疑いがある』って言い出してさー」
 それでにーちゃん≠ノ言われるままに、あちらこちらに話を聞きこんで調べてみたのだという。
「お前が家の外に出たって話も聞かなかったし、お前の兄ちゃんは毎日普通に家に戻ってきて学校行ってるって言ったらさ、『その兄貴がその子を監禁してる疑いが強い』とか言い出して。『それを救えるのは、その子の好きな男だけだ』っつって、サッカークラブまで一緒に行ったんだ」
「……ありがとな。ほんとに、助かった。お前のにーちゃん≠ノも改めてお礼に行くから」
「なに言ってんだよ、気にすんなって! 友達だろー?」
 にかっと笑った半田のちょっと間抜けな笑顔が、その時はひどく嬉しく感じられた。
 裁判は(やっぱり一度で済むようなものじゃなかったらしくて)まだ続く可能性が高いみたいだったけど、それでも俺の身柄は東監督の保護下にある、ってことでいいみたいだった。養育費やなんかは両親が払うってことで落ち着いているらしい。
 そういうわけで、俺は今、東監督の家で暮らしている。ひとつ部屋をもらって、家にあった必要なものなんかを運び込んで、それでも必要になるこまごまとしたものを一緒に買いに行ったりとかして……なんていうか、幸せな毎日、っていうか。
 サッカークラブの練習は(公私混同はしない、ってことで)別々に行って、別々に戻ってきてる。けど、家では、その……。
「あっ……やっ、東監督、そこ、ダメっ、イイよぉっ」
「ん? ここ、イイか? 翔もすっかりケツのよさを覚えちゃったなぁ」
 ……こんな感じに、しょっちゅういちゃついてたり、する。
「ほらほら、口が遊んでるぞ。ちゃんと俺のしゃぶって、な? そしたら俺も翔の可愛いちんちん、ぺろぺろしゃぶってケツ穴ぐちゅぐちゅしながら気持ちよーくイかせてやるからな?」
「あっ……や、ぁっ、もっ、東監督、そういう、エロいこと、言わないでよっ……はっ、むっ、むぅっ」
「うおっ……うっわ、たまらんなぁ、愛する可愛い男の子が、サッカーユニフォーム着て俺のチンポをしゃぶってる! こんなことが実際にあろうとはなぁ……」
「っ……あずま、監督ぅっ……」
 そうなんだ、東監督ってやたら俺にサッカーユニフォーム着せてエッチするの好きなんだよ。もちろん法篭レイニーズのじゃなくて、エッチ専用のサッカーユニフォームなんての使っちゃうんだけど(集めてたんだって、万一の時に備えて、とか言って)。
「東監督って、もー、ほんっとに、本性出したらどんどんおっさんくさくなってくよな……最初はあんなに爽やか好青年だったのに……」
「俺には爽やかな部分も確かにある! だがお前と、愛する可愛い翔と思う存分いちゃいちゃ真っ最中ってこのシチュで、おっさん的エロパワーを爆発させない理由なんぞどこにもないっ!」
「……んもー……」
 半田のにーちゃん≠フ『男はみんなケダモノ』という言葉を思い出したりしてしまいながら、俺は目の前の監督のチンコをぺろりと舐め、口に含んだ。なんのかんの言ってるけど、俺も監督の裸とか、チンコとか見たら、一気に臨戦態勢に入っちゃうし……東監督のエロトークとか聞くと、けっこう興奮しちゃったりするし。
「……ん、そろそろいいか? どうだ翔、そろそろ挿れるか?」
 そんなことを言いながらつつーっと俺のアヌスの周りを撫でる東監督に、俺ははぁ、と小さく息を吐いてから監督の上から降り、監督に向けた尻をくいっ、と割り開いて、言った(恥ずかしくて顔は赤くなってたけど)。
「……挿れて。東、監督……」
「……翔っ」
 獣みたいな雄叫びを上げて東監督は俺に覆いかぶさってくる。それは今でもやっぱりちょっと怖いけど……それだけ監督が俺のことほしいって思ってくれてるってことだと思うと、嬉しかったりもするし。それに。
「一生かけて責任取る、って、一生一緒にいてくれる、って、こと、だもんね……」
 ゆっくり俺の中に東監督のものが入ってくるのを感じながら、息を吐きつつそう囁くと、東監督は最初の時と変わらない真摯な瞳で俺を見て答える。
「当たり前だ。一生かけて、幸せにする」
「それは、俺、だってっ……あ、あ、あ……っ!」
「く、ぅ、翔……っ!」
 俺の心が誰よりも東監督をほしがってるんだから、そして東監督がめいっぱいそれに応えてくれてるってわかるから、なにが起きても大丈夫って、俺は確信しちゃってるんだ。
 俺の中に入ってくる東監督のものの感触に、背筋をぞくぞくっと震わせながら、俺はそんなことを(惚気交じりに)考えたりしたのだった。

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