僕は今小さな声で叫ぶ――君が好きだよ
 ――桜。
 別に見るのが初めてってわけじゃない。中国にもヨーロッパにも、北米にだって桜はある。
 だけど、こんな風に視界一面の桜っていうのは初めて見る。世界がすべて淡い桜色に染め上げられているかのような光景。
 幻想的、っていうのはこういうのを言うんだろうなって、なんとなく思った。
「九チャン、さっきからずっと桜眺めてるけど、そんなに気に入ったの?」
 一緒に卒業式を行う礼拝堂に向かう道の途中で、やっちーが聞いてきた。
「うん。なんていうか、人を惑わせる光景だよな」
「……そう?」
「ここんとこ、風景を眺める余裕なんてなかったから気づかなかったな……」
 半ば独り言を言うように言うと、やっちーもその隣の甲も困ったような顔をする。俺が昨日取り乱したこと、そしてその理由を一番最初に話したい人がいるからと話さなかったこと。その二つのせいで俺を心配してくれてるんだろう。
 胸のところがじんわり暖かくなるような気持ちに少し瞳を潤ませながら、俺は二人の肩を引き寄せた。
「わ!」
「なにを……ッ!」
「いやー、俺ってホント幸せ者だなーって。こんなに俺のことを愛してくれる人がいるんだもんなっ!」
「なッ、馬鹿かお前はッ……!」
「んもう、九チャンってば、調子がいいんだから」
 顔を赤くして怒る皆守と苦笑する八千穂。この二人は、初めての学校に戸惑う俺に、最初に近づいてきて友達になってくれた特別な存在だ。こいつらを見ると、本当に心から、好きだなぁって思う。
 ――大丈夫。俺は生きていける。
 好きな人が、俺のことを好きだといってくれる人が、ここにこんなにいるんだから。
 二度と会えなくなるかもしれない、という恐れはあるけれど――でも、俺はそんな恐怖と戦うのには慣れている。俺はきっとやっていけるだろう。今この時、これまでの半年の間、俺を好きだといってくれた人たちの思い出さえあれば。
 たまらない想いで、もう一度桜並木を見つめた。
 桜は、本当にたまらなく綺麗だった。

 卒業式ってどんなものかと思ってたけど、思ったより簡素な感じだった。来賓やら校長やら帝等やら、卒業生やら在校生やらの挨拶をのぞけば代表で一人が卒業証書を受け取れば終わり。思ったよりも早く済んでしまった。
 だけど、俺はなんだか不思議に感動していた。俺はこんな風に、ちゃんと送り出されてひとつところと別れるのって、初めてだったからだ。
 俺はずっと、子供の頃からずっと、人知れずやってきて人知れず去っていく生活を続けてきた。それが当たり前だった。
 宝探し屋の鉄則その3、痕跡を残すべからず。印象に残ってはいけない、行き先を知らせてはいけない、ひとつところに長い間留まってはいけない――
 俺今回鉄則破りまくりだな、と苦笑する。ロゼッタ協会の方からも親父を通じての一回以来仕事が来てないから別にどこからも文句は来てないけど、感心できないことに違いはないだろう。
 でも、俺はそんなの無視したかった。このたまらなく幸福な一瞬が、少しでも長く続けばと願ってしまったんだ。
 ――こんなことは、きっともう二度とないと思ったから。
 卒業式を終えて外に出る。周囲には泣きながら抱き合う女子や、一緒の写真を撮り合う生徒たちが溢れている。
「九チャンッ、九チャンッ! あたしたちも写真取ろうよ! あたしデジカメ持ってるんだ!」
「お、いいねー。じゃあ、みんなで撮ろうか?」
「面倒だな……」
「もーッ、皆守クンってば最後までー!」
「甲〜、てめーのそのダルダル根性……なんだか愛すら湧いてきたぜっ、んーむっ」
「やめろ! 気色悪い!」
 本気で鳥肌を立てて抵抗する甲に、俺は笑う。どこからともなく集まってくるみんなにも、全開の笑顔を振りまいた。
 できるなら、俺の笑顔を覚えておいてほしいから。
 校舎をバックに、俺のバディ――境のジジイをのぞく全員が集まって写真を撮る。学校の生徒も、教師も、バイトも、学外の存在も――
 そして、最後にやってきた、アムさんとナギも。
「はいッ、チーズッ!」
 全員揃って笑顔で――仏頂面してるのもいたけど、写真を撮る。中央にいるのは俺。『やっぱ真ん中は九チャンだよッ!』と引っ張り込まれてしまったのだ。恥ずかしかったけど、嬉しかった。
 俺のバディたちが、順々に集まってきて声をかけてくれる。
「……はっちゃん。僕は君に会えて、本当によかった……。君は僕を救ってくれた。君が世界のどこにいても届くように、僕は一生懸命曲を作るよ」
「ああ、かまちー。俺もお前に会えてよかったって思うよ。いつかお前がピアニストになってリサイタル開く時は、どこにいようと絶対聞きに行くからな」
 本当だぜ、かまちー。俺はかまちーが、俺が注いだ気持ちに素直に応えて俺を慕ってくれたかまちーがいてくれたから、この学園での仕事をいい仕事だって思うことができたんだ。
「九サマ……リカ、大学に行って服飾の勉強をしますの。九サマにふさわしい服を作れたなら、いつか、いつか着てくださいますわね?」
「うん、リカ。リカならきっとすげぇ服作ってくれると思うよ。楽しみにしてる」
 リカ、頑張れよ。一度自分の無知に心底恥じ入ったお前なら、きっとどんどん前に進めるはずさ。
「九龍博士、旅先で素敵な石を見つけたら僕にも見せておくれよ。僕が地質学者になった暁には、君にどんどん古代の石を見つけてもらうからね」
「任せとけって至人部長。遺跡研究会の仲間だろ?」
 至人部長、俺お前と話してる時はすごく楽しかったよ。お前突き抜けてるから、そのエネルギーがすごく気持ちよかった。立派な地質学者になれよ、お前なら絶対なれる。
「ダーリィィィンッ! アタシ、アタシ……あァッ、もう言葉なんていらないわッ! その力強い腕で今すぐアタシを攫って連れて行ってェェッ!」
「あはは、悪いすどりん。俺その前にしなくちゃいけないことがあるからさ。今まで、ホント、ありがとな」
 本当にありがとうだよすどりん。お前には何度も世話になった。お前ってホント一途だから、俺には眩しいくらいだったよ。俺は違ったけど、いつかきっとお前のことを世界で一番大好きって言ってくれる奴が出てくるって俺は思うよ。
「鉄人……鉄人の料理は本当においしかったのでしゅ。それはきっと鉄人がいつも生きることに真剣だったからだと思うのでしゅ。僕も……僕も、負けないように強くなるでしゅ」
「……それは買いかぶりだと思うけど。でもありがとな、タイゾー。お前なら絶対一流の《美食探し屋》になれるよ」
 お前はもうちゃんと強くなってるよ、タイゾー。お前が送ってくれた包丁セット、肌身離さず持っていくからな。
「師匠――また、いつか。そなたと手合わせができたらよいな」
「うん、マリやん。いつか、また手合わせしような」
 お前には本当に世話になったな、マリやん。月魅ちゃんへの想いが報われるかどうかはわかんないけど、お前の前向きさがあれば絶対お前は幸せになれる。
「隊長ッ……隊長、隊長ッ。自分はッ……自分はッ、どんなに遠く離れていても隊長の御武運をお祈りしているでありマスッ!」
「ありがと、砲介……お前ってホント、可愛い奴だな」
 マスクの向こうで顔真っ赤にしてるとこも可愛いぜ、砲介。軍でその格好は貫くの大変だろうけど、今度会った時には素顔こっそり見せてくれるといいな。
「我ガ王――アナタトマタ会エルヨウ、ボクイツモ神ニ祈テマス。エジプト帰ル時、キット一緒デス」
「うん、ジェフティ。お前がエジプト帰る時には、絶対サラーさんに顔見せに行くよ」
 お前が日本で生きていくためにはいろいろ大変なこともあるだろうけど、でもお前ならきっと大丈夫だって思うよ、ジェフティ。だってお前はあんなにひたむきに俺を想ってくれたもの。
「龍さん。僕はいつか必ずあなたとまたここで話せる日が来ると信じていますよ」
「……ありがと、ミッチー。今度会う時には、きっともう少しマシな俺になってるよ」
 けっこう何度も痛いとこついてきてくれたよな、ミッチー。でもだからこそっていう面も、きっとあると思う。
「九龍くん。私の知識が必要なことがあったら、いつでも連絡くださいね。私、ずっと待ってますから……」
「うん、月魅ちゃん。当てにさせてもらう。今までホントにありがとな」
 月魅ちゃんの知識欲には、俺も見習わなきゃなって思う時がよくあった。君はきっと知識をこれからもどんどん高めていくんだろうな。
「九龍くん――私、別れるのは寂しいけれど……でも、いつか必ず、また会えるわよね? 約束よ?」
「……そうだな、咲ちゃん。いつか――そう、いつか……」
 咲ちゃん――いつのことになるかわからないけれど。俺が死んだあとになるかもしれないけれど。咲ちゃんとは、みんなとはいつかまた会えたらって思うよ。今よりもうちょっと、マシになれたら。
「お兄ちゃん。僕……僕ッ、いつか自分に自信が持てるようになったら、自分からお兄ちゃんに会いに行きます!」
「――ああ、五葉。俺もいつかその時が――自分から会いに行ける時がくればいいなって思うよ。その時はどっちが早く探し当てるか、競争だな?」
 頑張れよ、五葉。お前はきっとこれからどんどん強くなる。お前はもう自分の弱さを受け容れる強さを持ってるんだから。――俺も追い抜かれないように、頑張らないとな。
「龍。旅立ちに無粋な言葉はいらない。ただ、これだけは言わせてほしい。――私は君に会えて、本当によかったと思っている。いろいろなことを言ったが――君はとても、魅力的な人物だ。苦しい時があったら連絡を取ってくれ、何時間でも話を聞こう」
「うん、ルイ先生――ありがとう。俺もルイ先生がいてくれて、本当によかったって思ってるよ」
 ありがとう瑞麗先生、話を聞いてくれて。道を示してくれて。途方に暮れた俺を助けてくれて。昨日もルイ先生がいなかったらちゃんと考えをまとめられたかわからない。あなたは本当に、名カウンセラーだよ。
「お前とは――いつかまた話をしたいものだ。葉佩九龍。生涯でただ一人俺を斃した《宝探し屋》よ」
「帝等、俺もお前とまた話がしたいよ。敵だった俺のこといろいろ気遣ってくれて、ホントにありがとな」
 俺はお前のこと好きだよ、帝等。お前の頑固で馬鹿みたいに融通が利かないとこ、可愛いなって思ってた。これから大変だろうけど、頑張れよ帝等。お前ならきっと乗り越えていける。
「九ちゃんッ、あたしこれからも、いつかどこかのマミーズで九ちゃんと再会する日を夢見て店員を続けていきますッ! だから、だから、どこかでマミーズを見かけたら、入ってみてくださいねッ」
「うん――奈々子ちゃん、俺これからマミーズ見かけたら絶対入ってみるよ」
 奈々子ちゃんとちゃんと会える時は、まだまだ先になりそうだけど。でも、いつかきっと。
「九龍さん……身体に気をつけてね。無理はしないで。あなたがいつかまた会いに来てくれる日を、私はこの学園で待ってるわ」
「ヒナちゃん先生……ありがとう。大丈夫、俺無理はしないから」
 ヒナちゃん先生の信頼を裏切るようなことは、したくないから。できることからひとつずつ、前に進んでいきたいなって思うよ。
「九龍様。この学園や、私共のことを覚えていてくださったら、いつでも構いません。是非、《九龍》へお顔を見せにいらしてください。とっておきの品を用意してお待ちしておりますよ。《牛乳》ではなく……ね」
「厳十郎さん……嬉しいです。あなたのその言葉に応えられるような人間になれるように、俺頑張ってみます」
 厳十郎さん、俺あなたのこと好きだなって思うよ。あなたの話を《九龍》で聞くのは本当に贅沢な時間だった。いつか本当に《九龍》に行きたいよ。俺がもっともっと大人になったら――。
「―――九龍さん」
「………夷澤」
 俺は、目の前に立つ夷澤を見つめた。
 夷澤は卒業式になっても、やっぱりそれほど大きくはない。俺にとってはやっぱり、可愛くてかいぐりしたくて噛みついてくるのを優しくなだめてやりたい可愛い夷澤だ。
 でも、ちょっとずつだけど。確かに背は伸びている。
 変わっていってるんだ、こいつは。きっとこれからもっともっと大きくなる。俺より大きくなるかもしれない。そうじゃなかったとしても、きっと俺よりずっと、いい男になる。
 そうなったら俺なんか相手にしてくれないだろうけど。ちょっとヤっときゃよかったな、なんて思っちまうな。あー俺って最低。
 俺は一度だけキスをしたことがある夷澤の硬い唇をちょっと見て、そっと笑った。
「夷澤、今までありがとな。それとごめん。さんざん振り回して。お前の思うような先輩になってやれなくて」
「…………」
「俺さ、夷澤のこと好きだよ。お前はきっと将来すっげーいい男になる。俺なんか相手にできないくらいいい男になって、世界中のいい女や男を惚れさせてくれよ。――お前を押し倒さなかった俺は正しかったって、自信持って言えるくらいにさ」
「――――…………」
 夷澤は、一瞬、たまらなく切なそうな瞳で俺を見て、それから眼鏡をくいっと押し上げて、ふっと笑った。
「当たり前じゃないっすか。俺はあんたなんか及びもつかないような、強い男になってみせますよ」
「うん、なれ」
「―――九龍さん」
「ん?」
 にこっと笑顔で首を傾げると、夷澤はわずかに顔を歪め、それから勢いよく頭を下げた。
「――これまで、ご指導ありがとうございましたッ!!」
「―――夷澤」
 俺はかなり驚いていた。こいつが、俺に対してはいつも喧嘩腰だったこいつが、俺に頭を下げてる――
 なんだかひどく切なくなって、俺はふっと笑ってそっと夷澤の頭を撫でた。
「なッ、なにすんすかッ!」
「夷澤」
「なんすかッ! アンタはホンットにこんな時まで――」
 俺は泣きそうな顔で顔を上げた夷澤に、微笑みながら手を差し出した。
「――――」
「握手。――これから俺とお前は対等だ」
「…………」
 夷澤はふぇっ、と一瞬泣きそうになって、それから無理やり笑顔を浮かべて手を握り返す。
「いまさらっすよ、九龍さん」
 ありがとな、夷澤。俺のこと好きになってくれて。大切に思ってくれて。
 俺はそれに応えられなかったけど――お前がいたから俺ももっとマシにならなきゃなって思えたところ、あるから。
「九龍―――」
「幽花」
 俺はいつもと同じ、ひどく低い声で囁いた幽花に向き直った。
「……あなたがいるから……私は明日が来ることを信じられた。あなたの言葉で私は強くなれた――それは間違いのない事実。いつか、また会える日を待っているわ。あなたの帰る、この場所で――」
「幽花……。……ありがと」
 俺は少し苦く笑って幽花と握手をした。幽花が優しく笑ってくれたので、俺は嬉しくなる。
 初めて会った時から、ずっと――お前はそうやって笑ってた方が可愛いって思ってたんだぜ、俺。
「………九チャン」
「……やっちー」
 ありがとう、やっちー。どんな時でも明るいやっちー。前向きなやっちー。俺は何度も君に元気をもらったよ。
 そして君にだけは、純粋でひたむきな君にだけは軽蔑されるような男になりたくないって、思うようになった。
 顔を泣きそうに、くしゃくしゃに歪めたやっちーは、でもふいに心底から笑ってるみたいなにっこー! という笑顔になって、言う。
「九チャンッ、あたし九チャンと会えてすっごい楽しかった! 嬉しかった! 幸せだった!」
「………やっちー」
「九チャンと会わなきゃあんなすごい体験、絶対できなかったよ。九チャンにはすっごく感謝してるし――すごいなって思う」
「…………」
「だから……だから、さ? また、会おうよね? これで終わりじゃないよね? あたしたち、ずーっと友達だよね……?」
 笑顔からふぇっ、と泣きそうな顔に変わって、必死に言うやっちー――
 俺はたまらなくなって、やっちーをハグした。優しく抱きしめて、ぽんぽんと肩を叩いた。それから離れて、笑った。
「大丈夫。いつか――またいつか。ずっと先になるかもしれないけど、絶対俺は、会いに行くよ。君に――ここで出会ったみんなに」
「……うんッ……!」
 やっちーは最後には、瞳に涙を浮かべていたけど、嬉しそうに笑ってくれた。
「………。九ちゃん」
「ん? 甲。なーんか切なげフィーリングですな? お前もやっぱ俺と二度と会えないかもって思ったら寂しくなっちゃった?」
「誰がだッ」
 そう不機嫌な面で言ったのは、もちろん俺の親友――甲太郎だ。
「……甲。ありがとな。俺お前のこと好きだよ。大切だよ。お前は自分のことだけでいっつもいっぱいいっぱいのカレー中毒ダメアロマだけど」
「……おいッ」
「でも、いい奴だ。友達になれて、嬉しかったよ」
「…………」
 甲は、どこか狂おしいほど切ない瞳で俺を見つめて、それからふっと笑った。今まで見た中で一番自然に、優しく、柔らかく。
「九ちゃん――また、な」
「ああ、またな」
 俺はちょっと笑った。こんなんでもこいつには精一杯の誠意と優しさの詰まった言葉だと思ったからだ。
 そして―――俺は、最後に残った二人に向き直った。
 ナギと、アムさん。
 夕薙大和と、鴉室洋介さん。
 二人はじっと、俺の方を見ている。
 もの問いたげに――どこか切々とした瞳で。
 ナギの視線には熱情が感じられる。俺を焼き尽くそうとするかのような熱情。そのくせ底には、確かに俺に対する優しさがある。
 俺は初めて見た時から、その瞳に惹かれていた。好きだなって思った。今もナギのその視線は、俺をたまらなく熱くさせる。
 ――俺の親父と、そっくりなその視線は。
 アムさんの視線には……なんていうんだろう、苦悩? 苦痛? まるで辛いことに耐えているかのような、それを上手に隠しているような。苦しみを全力で、痛みにのた打ち回りながら、けれど淡々と飲み下そうとしている人間の少し後ろ向きな光があるように思えた。
 俺はきっと、アムさんのそういうところに惹かれたんだ。弱さに必死に耐えているところ。傷つかないように絶えず予防線を張って、最初から諦めているところ。苦しそうで、切なそうで、俺のできるめいっぱいで幸せにしてあげたいって思ったんだ、本当に。
 ――俺に、似てたから。
 俺は二人に向けて一歩を踏み出す。二人も俺に向けて一歩を踏み出し、言った。
「九龍――答えは、出たか?」
「……九龍。君の出した答えを、聞かせてくれるか」
 俺はこくんとうなずいて、二人に向かい――言った。
「俺は―――どちらも選ばない」

 しばし、二人は絶句したように見えた。
 それから、気を取り直したように聞いてくる。
「他に本命がいるってことか?」
「俺たちのどちらも本命じゃない、って?」
 俺は小さく首を振った。
「違うよ。俺の本命っていうべき存在は二人だけだ。他にそういう存在はいない」
「……どういうことだ」
「ちゃんと聞かせてくれ」
 俺は、ちょっと笑って――それから、話し始めた。
「俺の一番古い記憶がなにか。話したこと、なかったよね?」
「……ああ」
「俺の一番古い記憶はね。宝探しに出かける親父を追いかけようとして、追いかけかけて、途中で諦めて――そこに座って親父を待つって記憶なんだ」
『…………?』
「九龍、君はなにが言いたいんだ?」
 困惑した様子のアムさんに、俺はまた小さく笑う。
「俺は、ガキの頃、一番最初の頃ずっとそういう暮らしをしてた。親父は俺にまともにかまってくれなかった。ただ、俺を放って宝探しに行って、そして帰ってくるだけ。俺に飯を作ってくれるわけでも面倒を見てくれるわけでもない、ただ、一緒に暮らすだけだった」
『…………』
「俺は寂しかったよ、もちろん。だからなんとかして親父の関心を自分に引きつけようとした。子供の本能だな。必死に親父につきまとって、戦い方や宝探し屋としての技術を教えてもらった。そういう時、一瞬だけ俺を見てくれる親父の目はたまらなく真剣で、熱くて、でも底にはほんのひとかけらだけど優しさがあって――俺はその一瞬がたまらなく待ち遠しかった。俺が生きてるって思えるのは、体が熱くなったのはその時だけだったから」
『…………』
「でも、それでもやっぱり親父は俺を置いて宝探しに行くんだ。それはわかってたことだった、最初から。だから――諦めてた。親父は、俺を大切に思ってくれたりはしてないんだって。少なくとも、俺をかまったり、優しくしたりしてくれるくらいには好きじゃないんだって」
「九龍、それは」
 言いかけたアムさんの言葉を手で制する。
「わかってるよ、親父は親父なりに俺のことを大切に思ってくれたんだっていうのは。でも、俺のことを忘れてるんじゃないかってくらい長い間置き去りにされることが何度かあって――それで思ったんだ。『いつか、本当に置き去りにされる時が来るだろう』って」
『――――』
「俺は置き去りにされるたびに、ちょっとずつ心の中に諦めを積み重ねてた。『いつかは別れる』って。『どんなに大切に思ってても、好きでも、いつかは絶対に別れる。傷つかないように、少しでも苦しみが楽になるように、最初から諦めておこう』――ってね。後ろ向きだと思うけど、ガキだった俺にはそれしか選べる道がなかったんだ」
『…………』
「それが、君のトラウマか?」
 ナギの言葉に、俺は苦笑してうなずいた。
「そうみたい。俺、すっげーファザコンだったみたいなんだ、意識してなかったけど。俺には親父しか世界がなかった。他に誰もいなかったんだ。親父と一緒にいる時しか生きている感じがしなかった――」
『…………』
「――宝探しをするのも、源流はそこにあるって気がする」
「え……」
 一瞬、周囲がどよめいた。
「九龍……もしかして、君が《宝探し屋》に執着するのは……」
「うん、たぶんそれが親父に対するたったひとつへのよすがだからみたいなんだ。宝探しをしている時は、親父のあの視線で見つめられている時と同じ気分になれる。親父を思い出せる。生きてるって気持ちになれる――だから、俺はずっと《宝探し屋》を続けようと思ってた気がする」
『…………』
「ナギの視線で見つめられてる時も、同じ気持ちになれたよ」
「!」
「……それは喜ぶべきところなのかな?」
 苦笑するナギに、俺も苦笑を返す。
「どうだろ。あんまり喜べることじゃないかも。ただ、ナギの視線が、俺を責めて俺の弱いところを引きずり出そうとするナギの視線が、俺の親父と似てたってだけのことだし。……俺は、生きてるって思える時が増えて、すっげー嬉しかったけど」
「…………」
「……俺は?」
 アムさんが呻くように口にする。
「俺は、君にとって、いったいなんだったんだ?」
 俺は少し泣きたくなりながらも――だってやっぱりこんなこと言いたくない。言って軽蔑されたくない――口にした。
「俺にとってアムさんは、親父に構ってもらえなかった俺だったんだ」
「………どういう……ことだ?」
「俺はアムさんのこと、自分に似てるって思ったんだよ。アムさんも最初から諦めてたから。手を伸ばしても捕まえられないって思い込んでるように見えたから。いくつも予防線張って傷つかないようにしてたから――自分見てるみたいで、優しくしてあげたいって思ったんだ。意識してなかったけど」
「…………」
「最初はそれだけだったのに――アムさん、一度手、伸ばしてくれたからさぁ……」
「……え?」
 驚いたような顔をするアムさんに、俺は笑いかける。目にじゅわぁっと涙が溜まるが、必死にこぼすのだけは堪えた。俺なんかにここで泣ける資格はないだろう。
「アムさん、諦めてたのに。手に入らないだろうって思ってるみたいに見えたのに。なのに、諦めきれないって感じに俺に手を伸ばしてくれたからさぁ……俺にできないことやってくれたって、そう思って……嬉しくって、たまんなくってさぁ……好きだって、思ったんだ。可愛くって、愛しくって、カッコよくってたまんなく見えちゃったんだよ」
「…………」
 困惑げな表情をするアムさん。俺は笑顔を必死に作って続ける。
「つまり――ナギを好きになったのは、親父に似てたから。アムさんを好きになったのは、俺に似てたからだったんだ。ひでぇだろ。俺、結局、トラウマから抜け出せてなかったんだよ」
「………じゃあ、君は最初から、俺たち二人が好きだったのか?」
 アムさんの戸惑うような問いに、俺は首を振った。
「違うよ。俺が浮気したのは、あの瞬間のナギが親父に似てたからだったけど、それ以上に、その状況を導き出したのは――」
 言え。ちゃんと言うんだ。俺の罪を告白しろ。
 俺は断罪されなきゃならないんだから。
「俺が、信じられなかったからだよ」
「……は?」
「なにを……だい」
「永遠を」
『………え?』
 目を見開く二人に、俺は全身全霊を振り絞って笑顔を作りながら言う。
「言っただろ、さっき。俺は最初から諦めてたって。……俺は、幸せなら幸せなほど、こんな幸せは長く続かないだろうって思っちゃうんだ。俺には目の前しか見えないんだ。今しか見えないんだよ。好きな人がいたって、どんなに幸せだったって。この幸せはすぐに終わるだろうって、この人もいつか必ず俺を置いていくだろうって思っちゃうんだ」
『――――』
「ひどいだろ。めちゃくちゃだろ。俺、そういう奴なんだ。相手がどんなに誠実でも、優しくても信じられないんだ。目の前にある好きしか。いつか≠ネんて俺には考えられなかった。今しかなかった。今目の前に好きがあるなら全身全霊でそれに打ち込むことしか考えられないんだよ。――好きはいつか必ず終わるって、幸せは必ず終わるって思っちゃうから」
「………九龍」
「………なら、どうして………」
 アムさんとナギは、声を揃えて言った。
『俺たち両方と別れようとするんだ』
 今にも泣き喚きそうに震える口の両端を、必死に吊り上げる。ここが意地の張りどころだろ、俺。気合入れろ。最後まで笑ってやり遂げるんだ。
「このままじゃいけないって、思ったからだよ」
『え――――』
「みんな。みんなは俺のおかげで救われたみたいなこと言ってたよな。それは違う。俺だってみんなに救われたんだ。みんなの前向きな、繋がりを保っていこうって想いが、俺を好きだって思いが――俺にこのままじゃいけないって思わせてくれたんだよ」
『……………』
 息詰まるような沈黙で、みんなは俺を見つめる。俺は震える唇と舌を必死に動かした。
「俺はおかしいんだ。このままじゃおかしいままで、関わる人を傷つけ放題に傷つけるままで終わっちゃう。それは嫌だって――みんなが思わせてくれたから。だから――ちゃんと初めから、やり直そうって思ったんだ」
「……どういうことだ」
「俺は結局、一人が怖くて怖くて仕方がないんだ。人の繋がりを信じられないくせに一人が怖くて震えてる馬鹿なガキなんだよ。だから簡単に浮気する。目の前の好きに溺れるほどに全力投球しちゃう。おかしいだろ、人間はみんな一人で生まれて一人で死んでいくのに」
「だから―――一人になろうと思ったのか?」
 俺はぎゅっと唇を噛み締めてうなずいた。
「最初からやり直してくる。一人で生きてみようって思うんだ。一人で立てるようになりたい。一人で生きて、死んでいく覚悟ができれば、俺はちゃんと人の心を大切にできる。一人になる怖さに負けないで、自分と関わった人の気持ちを労わることができるって思うんだ」
『…………』
「だから――俺。どっちとも行けない。ごめんなさい」
 俺は、震える拳を全力で握り締めながら、頭を下げた。

 ――アムさんが、ため息をついた。
「それが、君の結論か?」
「――うん」
「変える気は、ないんだな?」
「うん」
 ナギが静かに問う。
「その結論が、俺たちにどういう感情をもたらすかわかっているか?」
「……わかってる。すっげー、ムカつくし、自分勝手だって思うよな」
「それでも?」
「うん、それでも――変える気ない。……アムさん、ナギ。俺、こんななんだよ、本当は。ほしい≠ネんて思う価値、全然ない奴なんだよ、本当は。だから、ね、だから――」
 俺は笑って、死ぬ気で笑って、二人に小さく頭を下げる。
「どうか、俺を捨ててください」
『………………』
 俺は、二人の後ろにいつの間にか立っている親父に顔を向けた。
「そういうことなんだ、親父。だから俺、親父とも行けない」
「…………」
 親父は無表情で、俺を見つめている。
「俺、親父が俺を誘いに来てくれた時、怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。だって、俺にとって本当に親父はすべてだったから。世界の全部だったから。親父が俺を見てくれるあの一瞬、あの時しか本当に生きている時間がなかったから」
「…………」
「だから俺は親父に声をかけられた時、それに従うことしか考えられなかった。今抱えてるもの全部放り捨てて。――そんな人として最低な自分の醜さを見せ付けられるのが、怖くて怖くてしょうがなかったんだ」
「…………」
「でも、俺、決めたから。みんなみたいに、俺の仲間みたいに、逃げないで向き合ってみようって。そうしなけりゃ――親父とちゃんと向き合うことも、親父をちゃんと大切にすることも、できないって思うから」
「…………」
「みんな――ごめんな。こんな奴で。俺がこんな最低の奴で。だから――できれば、できればさ。こんな奴のこと忘れて、自分の目の前のこと見つめて、幸せになってくれたら、嬉しいな」
 俺は最後の気力を振り絞って笑顔を浮かべ、歩き始めた。――校門へ、学校の外へ。
「じゃあな―――みんな」
「――九龍」
 アムさんの声が、聞こえた。
「ひとつ、聞かせてくれ」
「―――なに」
 俺は必死に声の震えを抑えて答えた。
「君は、まだ俺のことが好きか?」
 ――一瞬、俺の呼吸が音を立てて止まった。
 それを落ち着け落ち着けと懸命に言い聞かせて動かして、俺の心に残ってる力全部使って振り向き、笑う。
「うぬぼれるなよ、バーカ」
 それから前を向いて、歩き出す―――

 ―――その腕を、両側からがしっとつかまれた。
「―――え?」
 俺は固まった。なに、この手。
 質の違う毛の生えたごつい手。でもどっちも優しい手。
 それが俺の腕をつかんで、前へ前へと引っ張る。
「え――え、え?」
「ふざけるなよ……ったく」
 アムさんの低い低い、怒りに満ちた声。
「あんな顔して、あんな今にも消えそうな顔して、バーカ≠セァ? ふざけるんじゃないぞ。俺がなんのために今まで君を攫うのを我慢してたと思ってるんだ。君のためだろ。君が幸せに笑うためだろ? それがなんであんな泣きそうな顔して自分から一人になろうとするのを見送らなきゃならないんだ。俺はな、自分で決めたことだからって、惚れた相手が自分から誰も救われない道行こうとするの放っとくほど枯れてないぞッ!」
「え、あの――アムさん、え?」
「俺も同じだ、九龍」
 ナギの低い、そして荒々しい声が聞こえる。ナギ、怒ってるんだ。……もしかして、初めて俺に対して怒ってる……?
「君が自分で考えてそう決めたのは理解できる。その決断は尊重すべきだと思う。だがな。君は自分がなにを言ったかわかってるのか? これから先、君が自分を制御できるようになるまでの長い長いリハビリを、誰の力も借りず、たった一人でやっていくって宣言したんだぞ?」
「う、うん。そのつもりだったけど……?」
 そう言うと、ナギとアムさんは同時に怒鳴った。
『馬鹿野郎ッ!』
「どうして君は俺たちに頼ろうって考えないんだ! 言っとくけどな、俺は君に惚れてるんだぞ。君が俺のことまだ好きってわかってめちゃくちゃ嬉しいんだぞ? 君が俺のことどんなに好きかってのろけてくれて生きててよかったって思っちまうくらいなんだぞ!? そんなに惚れてる相手が一人で泣くのを、放っておける奴がいるかッ!」
「九龍。俺はな。君の父親に似てるって言われた時は複雑だったが。俺に見られている時生きてるって思えたと言われて、やっぱり嬉しかった。自分が君の人生に影響を及ぼしているんだと思えて嬉しかった。だからな。君が俺を切り捨て――いや、違うな。俺から切り捨てられようとしてるのが、思いっきり気に入らん!」
「え、で、でも、俺自分で一人でやっていこうって決めて――」
 俺の言葉に、二人ははーっとため息をつき、順々に言った。
「九龍。君の決意はそりゃ、大したもんだと思う。前向きだよ。頑張ってると思う。けどな。君が寂しいって思ったのは、君が悪いんじゃないだろう? 当たり前のことだろう、普通の子供なら?」
「当たり前に与えられるものを与えられなかった子供、それはもちろん君だけじゃないさ。だがそれは君が悪いってことでもない。君は与えられるはずだったものを与えられないまま、自分だけの力で立ち上がろうとしている。そりゃ立派ではあるさ。けどな」
「君は、もう一人じゃないだろう」
 アムさんの言葉に、俺は目をぱちくりさせた。
「え―――」
「え、じゃなくて。どうして俺たちに君の心に空いた空洞を埋めてもらおうって考えないんだ?」
「だ、だって。ナギもアムさんも、俺の親父じゃ――」
「ああそうさ、恋人の親代わりをしてやろうなんて奴はいない。俺たちも君の親父さんになるつもりはない」
「だが、愛情を注ぐことはできる。君が自分たち次第で愛情を継続させることはできると、信じるくらいまで一緒にいることはできる」
「――――」
「九龍」
 アムさんはひょい、と俺の顔をのぞきこんできて、笑ってみせた。
「お兄さんたちに頼っちまえよ。俺たちを利用してくれ。君が俺たちを信じられるようになるまで、俺らは君に付き合うからさ」
「――――!」
 俺はカッと顔が焼けるように熱くなるのを感じた。ぶわっと瞳からこぼれた涙を拭いもせずぽかぽかとアムさんとナギを叩く。
「ばか! なに言ってるんだよ、俺はどちらも選べなかったんだぞ! それどころかちゃんと二人のこと愛してるかどうかも怪しいんだぞ!? そんな奴になに付き合おうとしてんだよ、捨てちゃってくれよ!」
「悪いが全然そんな気にはなれんなぁ」
「ばか! もしかしたら俺がどっちかに転んでどっちかとはバイバイってなる可能性だってあるんだぞ!? それだけじゃない、二人とは全然別の奴と浮気する可能性すらあるんだぞ!? そんな奴付き合う価値ないだろ、愛想尽かすだろ普通っ!」
「いーや――なんか、俺君の新たな魅力に目覚めちまったみたいでさァ」
「は―――」
「泣きそうな顔して必死に俺たちのこと思って別れを告げた、健気な男の子を放っておきたくないと俺の男心が言うんだわ。だから――まァ、君が俺たちのこと信じられるようになってから死ぬぐらいまでは愛想尽かさないんじゃないか?」
「な―――なに言って―――」
 一瞬呆然としてから、暴れようとする――だが双方人ならざる力を持っているだけあってびくともしない。俺をぐいぐい引っ張って、どこかへ連れて行こうとする――
「あはははッ、九チャン! お幸せにーッ!」
 後ろから声が聞こえてくる。その中には親父の大笑する声もあった。
「ぎゃーっはっはっは、よかったなぁクソガキ! そいつらお前のこと逃がさねぇってよ?」
「なに言って……!」
「よかったじゃねぇか! そのままくっついちまえ! そんで俺の人生踏み越えて、幸せになりやがれ!」
「な――――」
 俺は呆然として後ろを振り向こうとするのだけど、アムさんとナギにぐいぐい引っ張られてそれは果たせない。
 俺はもう嬉しいのか辛いのかもわからないまま、泣きそうな顔で叫んだ。
「もう、二人とも俺なんか捨てろよ!」
 二人はにやっと笑って、笑顔のまま首を振る。
『嫌だね!』

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