おまけ〜素晴らしき哉、人生〜
 ―――三年後。

 俺こと《M+M機関》の《異端審問官》鴉室洋介は仕事を終えて、家路を急いでいた。家路っつっても今のねぐらに帰るだけの味気ない道のりだが。当然ながら帰ったところで、出迎えてくれる人も温かい飯もありゃしない。
 まだまだ寒い三月の風に身をすくませながら俺は歩く。まったく、なんというか、みじめな気分だった。今回のヤマも労多くして功少なし、の見本みたいな仕事で、一応金は入ったものの労働に見合ってるとはとても思えない。おまけに金は仕事の報告書を提出するまで支払われないから、現在の俺の所持金は財布の中の百二十五円のみ。
 おまけに体には寒風が吹きすさんでくる、となれば少々わびしい気持ちになってもしょうがないところだろう。こういう時は可愛い恋人に癒されたい――んだが。
 俺は星なんて少しも見えない夜空を見上げて、ふっと笑った。俺の恋人は、今頃どこの遺跡に潜っているやら。
 会える時間は少ないし、俺の恋人は貞操観念はともかくとして股の閉まりは(締まりはいいんだが……いや失礼)はなはだしく悪い。現在も二股がけ進行中、と言えなくもない状況だし。
 でも、浮気する気にはなれないんだ。
 俺は苦笑した。そりゃイイ女に誘惑された時なんかにぐらっと来ないとは間違っても言えない。けど、俺をああも求めてくれるのは。俺なんかをああも全身全霊で『俺のこと見捨てないで』『そばにいて』『嫌わないで』って言ってくるのは。
 今の恋人だけなんだろうなーって思うと、すーっと浮気する気が失せちまうんだよな、不思議なことに。
 まぁ、俺の恋人は俺が浮気したら『アムさん、好きな人できたの? おめでとう。その人と付き合ったら?』ぐらいのことは喜んだ顔して言える奴ではあるんだが。
 でもそれでも、瞳の中では、視線では。捨てないで嫌わないでって思いっきり訴えてくるんだろうなってわかってるから。
 ……タチ悪い奴ではあるんだが、俺はあいつと別れる気なんて全然ないんだよな。
 あいつが人の気持ちを信じられるようになるまで愛想を尽かすことはないって言葉、まるっきり嘘になる気配ないし。
 恋人のことを思い出して俺は少し気持ちが温まった。口の端に笑みを乗せて、1Kの狭苦しい賃貸マンションの階段を登る――
 と、俺のねぐらの扉の前に、一人ぽつんと座っている俺の恋人を見つけて、俺は思わず声を上げた。
「九龍!」
 俺の声に恋人――九龍はぱっと太陽が光ったような(そう見えちまうんだからしょうがない)輝かしい笑顔を浮かべ、それから泣きそうな顔になってうつむき、さらにそれから泣くのを必死に堪えていますという感じの俺が無条件降伏したくなってしまう健気な感じの笑顔を浮かべて言った。
「おかえり、洋介さん」
 俺はにっこり微笑んで腕を広げてやる。
「ただいま、九龍」
 九龍は一瞬ためらうものの、すぐ泣きそうな顔でおれの腕の中に飛び込んでくる。まるで母親に抱きつく子供のように、必死に俺にすりつき温もりを求める仕草に、心地よく胸が疼いた。
「洋介さん、洋介さん、洋介さん、洋介さん」
「んーよしよし、いい子だ九龍。可愛いな、そんなに俺に飢えてたのか?」
「うん、うん……会いたかった、洋介さん……大好き……」
「よしよしいい子だ。俺も大好きだよ」
 九龍のこめかみに、頬に、泣きそうな瞳に、震える唇に何度もキスを落とす。そのたびに九龍の体は(たぶん心も)おそらくは幸せと罪悪感でたまらなく苦しげに震える。……この子の(もう子≠ニ言えない年齢になってることはわかってんだがついこう言っちまう)こういう、全力で俺の態度に一喜一憂してますって態度が、俺は可愛くてたまらない。
 一度ちょっと冷たくした時なんかすごかったもんな。泣きそうな、っつかどうか殺してくださいみたいな悲痛な顔して、でもそうされて当然だって思ってるから全然逆らわないで堪えてんの。健気に笑顔作って、俺の世話してさぁ。仕事のメールが入ったってのに俺から離れられないんだぜ、怖くて。
 もー可愛すぎておじさんはめちゃくちゃ燃え上がってしまいましたよ。九龍もめちゃくちゃ燃えてさぁ。すんげー可愛かった、マジ。
 しばらく俺にすり寄って、九龍は俺からちょっと身を離して泣きそうな顔で俺を見つめる。毎度の恒例行事の時間かな、と肩をすくめて俺は訊ねた。
「今度は、何度浮気した?」
「………四度………」
「お、前回より一回少なくなってるじゃないか!」
 俺が笑顔でそう言ってやると、九龍は泣きそうな顔で俺を見上げ言ってくる。
「でも……その前の前より、二回増えてる……」
「まぁいいじゃないか、始めた頃よりはずいぶん少なくなってるんだから。人生何事も当社比で考えないと。な?」
 俺がちょっとおどけた調子で言うと、九龍は泣きそうな、けど感動したような、言ってみりゃ俺を神様みたいに優しい人だと思ってるみたいな顔して微笑んだ。
「ごめん……ありがとう、アムさん……」
「よしよし」
 優しく頭を撫でてやる。九龍はたまらなく幸せそうな顔をしてそれを受け容れる。
 ……見方によっては三年前より駄目になってるって言われるかもしれないが、俺は別に構わない。駄目な子ほど可愛いって言葉にめちゃくちゃ共感できる、俺的には今の九龍の方が可愛い。俺しか見えてないって顔で、必死に健気に俺に尽くし、いじめても意地悪しても俺を好きでいる九龍の方が。
 ……同じことを夕薙くんも言っているのかと思ったらやはり腹が煮えるが、まぁそれはいい。九龍は今までのところ必ず俺のところに戻ってきている。まだまだ先は長いんだ。ちょっとずつ九龍を俺だけのものにしていくとするさ。
 ちなみに、この九龍のあなたしか見えないモード≠ヘ俺と夕薙くんにだけらしい。他の対人関係ではむしろ余裕が出てきて前向きになっていると八千穂くんが俺に教えてくれた。
 俺に(夕薙くんのことは無視だ)どんどん依存してきているらしい。大変喜ばしいことだ。
 いずれは俺しか見えないようになってもらいたいからな。まァ、仲間同士の付き合いも大事だからそこらへんは譲っておくとして。
 九龍が来てるんだったら当然そうなってるだろうという予測通り、鼻をひくつかせるとたまらなく食欲をそそる匂いが漂ってきた。俺は口笛を吹きたいような気分になって、笑顔で九龍に訊ねる。
「今日はなにを作ってくれたんだ?」
 九龍は少し笑顔になって答える。
「ポトフと、山芋コロッケと、きんぴらごぼう。どれもまだあったかいよ、すぐ温められるし」
「中に入ってりゃよかったのに」
 そう言ってやると、九龍は泣きそうな顔で、どうか嫌わないでと全身全霊で言っている顔で、俺を見つめ答える。
「だって……洋介さんが俺に愛想尽かしてたら、俺が家の中に入ってるの、やだろうなって……」
 うん、まだまだ俺を信じ切れてはいない様子だ。罰としてちょっといじめてやる。
「それなら俺が君の作ったものを食べたくないって言う可能性は考えなかったのか?」
 そう言うと九龍はあともう一押しで泣きます! って感じの顔で、必死に俺を見つめて言う。
「考えたけど……ご飯に罪はないし、一食でも食費浮かせられるんだったらいいって洋介さんが思うんじゃないかなって……思ってくれないかなって、それで、少しでも俺にほだされてくれないかなって……そんな、情けないこと、考えて……っ……」
 必死に涙を堪える九龍。泣いて俺に嫌な思いをさせちゃいけないって必死に耐えてるんだ。俺に抱きついて捨てないでって大声で訴えたいのに、俺が好きすぎて嫌われるのが怖くてそんなこともできないで、料理だけ作って一人部屋の外で待ってたんだ。
 俺はたまらなく幸せな気分と、この子が可哀想な気分と、可愛い気分とが入り混じったたまらなく気持ちいい気分にしばし浸り、それから優しく笑って九龍の頭を撫で、目元にキスを落とした。
「中に入ろうか? せっかく九龍が作ってくれた料理、温かいうちに食べなきゃもったいないからな」
「………! うん!」
 たまんなく幸せ! って感じの満面の笑顔。あーたまんねぇなこの可愛い子を手の中で転がしてる感覚。
 俺は九龍の方を抱いて中に連れ込みながら、耳元で囁いた。
「もちろん、君のこともたっぷり食わせてくれるんだろう?」
 九龍はちょっと顔を赤らめて、それからちょっと涙ぐんだ、でも嬉しそうな顔でうなずいた。
「俺のこと、思いきり好きなようにもてあそんで、カッコいいお兄さん」
「いい子だ」
 俺はにやける顔を押さえながら、ちゅ、ちゅ、と九龍にキスを繰り返しつつ一緒に部屋の中に入った。もう下の足は勃ち上がりかけている、こりゃ飯の前に九龍を食わせてもらわないとな。たっぷりいじめたあとで、いつも通りとろとろに甘やかして蕩かせてやろう。それから素っ裸で食事をあーんしてもらおう、暖房つけて。そのあとは風呂だ、風呂エッチは久しぶりだから九龍燃えるぞ。俺も燃えそうだ。そのあとはもちろん朝まで同じベッドの中でいちゃいちゃと――
 たまらなく幸福な気分で計画を立てながら、俺はにやりと口元を笑ませて思った。
 人生っつーのは、やっぱりそう捨てたもんじゃない。

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