僕が一番楽しく呼吸できるそれは君の隣
 目が覚めた時、もう夷澤はいなかった。机の上に「すいませんでした」とだけ殴り書きで書いたメモを残して、俺の部屋から消えていた。
「……口で言えよな、バカヤロー……」
 振ったのはどちらかといえばたぶん俺になるだろうに、相手に捨てられた時みたいに寂しくて、ベッドの上で膝を抱えこむ。
 俺がいろんな人に好かれてるのは確かだと思う。アムさんも、ナギも、夷澤もたぶん俺のことを好きでいてくれたんだろう。
 普段の俺なら、それに倍する愛情を返して、それですんでいたはずだ。好きだと言われて、俺も好きだよと返して、場合によってはセックスして。それで終わりのはずだったのに。
 俺が初めて、誰かと恋人になりたいって思って――そこからいろんなことがずれ始めたのかもしれない。
 俺、恋人を作るのに向いてないんだろうか。誰か特定の人間を作るとまずいことになるようなタチの人間なんだろうか。
 ああ俺馬鹿なこと考えてるな。問題は俺がどんな性質の人間かじゃなくて、実際に二股かけてるってとこなのに。
 夷澤には悪いことしたと思う。最後まで憧れの先輩でいてやれなくて。俺が節操なしなせいで傷つけて。
 ナギにもひどいことしてるよな。ナギはなんにも言わないけど、アムさんと切れるなら切れる、切れないなら切れないではっきりするべきなのに。アムさんと別れもせず、ナギを拒絶もせず、って生殺しだと思う。
 一番ひどいことしてるのはアムさんだ。アムさんは俺の恋人なのに。恋人だって俺の方から言ったのに――
 でも、俺はもうアムさんに見捨てられてるかもしれないんだ。浮気したから。
 俺は自業自得なのに泣きたくなって、ぐりぐりと膝に顔を擦りつける。アムさんはもう俺のこと好きじゃないかもしれない。アムさんは一度も俺のことちゃんと(ベッドでのリップサービスみたいのじゃなく)、好きだと言ってくれたことなかったし。それでも絶対アムさんは俺のこと好きだと思ってたからよかったけど、今はもう顔も見たくないと思ってるかもしれない。
 俺は小さくしゃくりあげた。どうしよう、すごく泣きたい。
「……年上の恋人に捨てられて悲しむ青少年の図、ってところだな」
 ばっと顔を上げて声のした方を見る。そこには予想通りナギが立っていた。
「ナギ……」
「君がなにを悲しんでいるのかは想像がつくが。悲しむ資格など君にはないと思うがね。君は浮気した、俺の誘いに乗った、恋人を傷つけた。――悲しんでいいのは加害者である君じゃない」
「…………」
 返す言葉もない。
 うつむいた俺の隣に、ナギがひょいと腰かけた。ぎしり、と大きくベッドが鳴る。
「どうすればいいかも決められずうじうじ悩んでいたのか? 君らしくもないな」
「………うん」
「忘れさせてやろうか」
 はっ? と俺が顔を上げた瞬間、間近にあるナギの目と視線が合う。
「わ……忘れさせる、って?」
 反射的に後ろにずり退がりかけた俺を、ナギの太い指が追いかける。
「なにもかも」
 くい、とあごをつかまれて引き上げられた。ナギのわずかに笑みをたたえた唇が近づいてきて、俺はごくりと息を呑みこむ。
 あごに触れている指先が熱い。一昨日の夜与えられた熱を連想して、体が震えた。
 駄目だ、流されちゃ駄目だ、と唇を噛んで、ナギを押しやろうとする。けれどナギはその手をぎゅっとつかんで、ぐいっと俺の体を自分の方に引き寄せた。
(―――熱い)
 ナギの体が俺のと重なる。その逞しい厚みのある体。体温の高さに俺の体も燃える。
 ぞくり、と体を震わせると、ナギはいつものうさんくさいくらい爽やかな笑みに似た、だけどずっとセクシーな――一昨日のセックスの時見せた笑みを浮かべると俺にキスをしてきた。
「………んッ………ふ」
 ナギの分厚い舌が俺の唇を割って侵入してくる。ナギの舌は肉感的で、見ようによってはすごく卑猥だ。その舌が、俺の中を縦横に動き回り俺の感じるところを舐める。―――気持ちいい。
 涎が溢れて繋がった口から漏れ、俺の喉を伝う。それに触発されたのか、ナギが唇を移動させて喉に噛みつくようなキスを落としてきた。思わず体がびくんと震える。
 ナギはいったん唇を離してにやりと笑い、俺の耳元に唇をつけて囁いた。
「いやらしいな、君は」
 そしてぴちゃり、とその肉厚な舌で俺の耳たぶ、そして耳の中を音を立てて舐めてくる。
「あ……」
 俺がまた体を震わせると、ナギはふっと笑んで、俺のジャージの下に手を突っ込んで、乳首をきゅっと捻りながら耳たぶを噛んだ。
「や、あ!」
 気持ちいい。すごく。
 俺が自分でも泣きそうだろうってわかってる目でナギを見ると、ナギは一見余裕たっぷりに、でもどこか熱をもった視線で俺を見て、俺をベッドに押し倒した。
 俺はどうしようどうしようと迷ったんだけど、ナギの手が、指が、舌があんまり気持ちよくて、流されてしまった。
 ――そんなことしたってあとでよけい悩むだけだって、わかってたのに。

「――なにか飲むか?」
 さんざん俺を喘がせて(といっても一回しかやってないけど)、ナギは俺から離れた。ベッドから降りて冷蔵庫をあさる。
「ん……水飲みたい……」
「ほら」
 ナギはすっぽんぽんのまま、冷蔵庫から取り出したミネラル水のボトルを俺に放ってくれる。そして自分も新しいボトルを取り出して、口で封を切って飲み始めた。
 そのしぐさがセクシーで、素っ裸っていうこともあってまた体に火がつきそうになり、俺は慌てて水を飲んだ。
 しばしの沈黙。ナギは飄々とした顔してるけど、顔ほどに落ち着いてはいないのは仕草でわかった。俺の思いこみかもしれないけど、俺の友達としてのキャリアがナギは今けっこう気持ちが動いてると告げている。
 だから、俺は聞いた。
「ナギ。なんでお前は俺を抱くわけ?」
「……ご想像に任せると言わなかったか?」
 いつものうさんくさい爽やかな笑み。見事なくらいよくできた笑顔。でも俺には、なんだかごまかしというか、逃げられているような匂いを感じた。
「教えろよ。お前は俺に、なにを求めてるんだ?」
「急に元気になったな。さっきまで俺の下で喘いでいたくせに」
 くくっ、と笑うナギ。その言葉に、俺はいささかムッとした。そしてその分余裕ができた。
「ナギだってけっこう余裕なかったじゃん。最後の方。けっこう乱暴にしてくれちゃってさ」
「……それは悪かったな」
「いや、それはそれで俺はよかったから、いいんだけどさ、それは」
「……言うな、君も」
 ナギはくっと笑うと、ボトルを冷蔵庫の上に置いて俺の上にのしかかるように顔を突き出してきた。
「なんならもう一回喘がせてやろうか? 今度は最後まで、たっぷり優しく可愛がってやるぞ」
「………」
 軽く唇を舐めるその仕草は、やっぱりセクシーだ。思わず体が熱くなる。けど――俺もそれなりに経験積んでるんだ、そんなことで誤魔化されるほどウブではない。すっきりして、時間を置いて、それを思い出してきた。
「ちゃんと答えてくれよ。お前が俺を抱くのはなんでなんだ? 俺が好きなのか、欲情してるのか、どんな気持ちで俺を抱いたのか。――お前がまだ俺を友達だと思っていてくれるなら、教えてほしい」
「…………」
 ナギはちょっと困ったように苦笑して、肩をすくめた。
「君はそういうところ妙にうまいな。さんざん人を振り回して、最後にはストレートに真っ向勝負。――俺が友達扱いされるのが嫌だったらどうしようとは思わなかったのか?」
「全然思わなかった。だってわかるもん。俺たちの関係って、そんなにもろいもんじゃない」
 たとえ恋愛関係になったとしても、最初の友達≠チていう関係はなくならないって俺は確信してる。それはもう俺の中ではごく当たり前な事実なんだ。
「……まったく、君は」
 さわ、と俺の頬を撫でてナギは笑う。その感覚に思わず背筋が震えたりはしたけど、俺は暴れもせずただナギの顔を見つめた。
 ナギはまた苦笑して、俺の頬に触れたまま言った。
「わからないんだ」
「――え?」
「自分でもなんで君を抱いたのか、わからないんだ」
「…………」
 予想外の答えに、俺は正直唖然とした。
「君のことは大事な友人だと思っていたし、今も思っている。大切にしたい、そう思う。――だが、君が鴉室氏との痴話喧嘩の話を俺にした時、俺の中に盛り上がったものはそういうものじゃなかった」
 それは、俺もわかっている。あの時のナギは、そういう言葉がまるでそぐわない、熱と冷たさを持っていた。
「君をめちゃくちゃにしてやりたい、俺の手で壊してやりたい。そう思った。君を骨の一片も残さず食い荒らしたいような――といったら、君は驚くかな」
「……それほど驚きは、しないけど」
「そんな気持ちがどこからくるのかわからない。それに君に対するそんな気持ちとは逆に、君を守ってやりたい大切にしたい可愛がってやりたいっていう気持ちも変わらず俺の中にあるんだ。だから、なんで君を抱いたのか俺にもよくわからない」
「…………」
 それって。
「ナギ。今まで男抱いたことある?」
「いや」
「俺の顔と体どう思う? 男抱くの戸惑いなかった?」
「君の顔は好ましいと思ってた。体は――それまで考えたことはなかったが、妙に色っぽくてそそるものがあると思ったな。女相手の経験はあったし、男だからって戸惑うほどモラリストでもないし」
「最後の質問。――俺を、欲しいって、思った?」
「…………」
 ナギは返す言葉に詰まったようで、少し俺から離れてベッドの上にあぐらをかいた。そしてやや困惑げに頭をかく(そのしぐさは妙に可愛かった)。
「俺は、今のところ君を恋愛感情で好きだと思ったことは一回もないんだがね」
「俺もないよ。なんだろうな、この気持ち。ときめくっていうんでもない、単純に好きで気持ちいいっていうんでもない。ただ――」
 熱い。
 あの瞬間の熱は、俺も今まで感じたことのないものだった。
「もしかしたら単なる欲情っつーのかもな。俺ナギの顔と体にはすごいセックスアピール感じるし」
「……ここは喜んでおくところなのか?」
 苦笑するナギに、俺も苦笑を返す。
「どうだろね。俺は欲情のままのセックスって嫌いじゃないけど。……ただ、あの時の熱さは、ただの欲情っていうのじゃ収まらない気がするけどな」
「そうだな……」
 ナギは一瞬遠い目をして、それからに、と笑ってまた俺の方に身を乗り出してきた。
「質問に答えてなかったな」
「……え?」
「俺は、君が欲しい」
「………………」
 ぞくり、と体が震えた。
 そんな目で。そんな燃えるみたいな目で俺を見ながら言うなよ。
 また、たまらなく体が、熱くなってきちゃうじゃないか。
「………あ」
 もしかしたら、俺がナギに、ナギが俺に求めてるのはこういうものかもしれない。欲しいという欲望と欲情と熱。燃えるような熱情。どこか恋愛感情に似た、たまらない昂ぶり――
 平穏とか安穏とかには縁がない、どこまでも高騰する圧倒的なテンション。それは確かに恋愛と呼べるものじゃないかもしれないけれど――お互いに相手を求めていることは、確かだと思った。
「………ん」
 ナギの指が俺のあごをくすぐる。体が気持ちよさにまたぞくりと震える。ナギの舌が俺の頬をつうっとなぞり、耳をいじろうと動いていく。
 ナギがそんな風に俺に触れるたび、俺の体はたまらなく熱くなる。ナギもきっと熱くなってると思う。この暴走する熱は、正直こたえられない――アムさんのとは、全然違う。
「!」
 俺は震えた。快感じゃなく。
 俺、アムさんを、放りっぱなしにしてる。
「……ふ、ぁ」
 ナギの指が逆の耳たぶをこちゃこちゃといじる。気持ちよさに思わず息が漏れる。
 これまでに何度も流されてきたじゃないか、いまさらだろ。それはそうだけど。アムさんに対する愛情より快楽に流されることを選んだんだろ。そう言っても間違いじゃないかもしれないけど。
 でも、アムさん、今なにしてるんだろ。たった一人で、年の瀬の寂しさに耐えてるんだろうか。
「ん、くぅ……」
 ナギの分厚い唇が俺の肌を挟む。きつく吸われてうっ血のあとを残す。
 俺が浮気したせいで落ちこんでるだろうか。誰かのところへしけこんで慰めてもらってるんだろうか。――俺以外の人間を抱いてるんだろうか。
 なに考えてるんだ、俺にはそんなこと責める資格ないじゃないか。先に浮気したのは俺なんだから。
 わかってる、そんなことわかってる。
 でも、でも!
「んっ!」
 乳首を軽く噛まれて全身が震える。噛んだあとを厚くて熱い舌で舐められて背筋に快感が走る。
 アムさんの笑顔を思い出す。あのからかうような、大人の余裕かましてるように見えるけどちょっとヘタレな、俺の好きな笑顔。
 俺にはそれを向けられる資格なんてとうにない。そうかもしれない。アムさんを思うなら俺なんかさっさと忘れて幸せになってもらった方がいい。その通りかもしれない。
 けど、俺は。
 ナギの舌がへそをくすぐる。気持ちいい。アムさん。太い指が下肢を滑り、ペニスに触れる。アムさんの笑顔の一番は。体が震える。ナギが体から唇を離して、俺の唇を奪おうとする。体が熱をもって暴れまわる、ナギ、指が耳に触れる、アムさん、気持ちいい、好き、大好き、近づいてくる、どっちかを選ばなくちゃ、大好きなんだよ、唇が近づいて俺の唇に―――
 アムさん……ッ!
「!」
 俺は素早くナギの下から体を抜け出させ、その勢いそのままでベッドから飛び出してトンボをきって着地した。そしてしゅばばばっと着替えを始める。
 着替え終わってからじーっとこっちを見ている(呆然というにはちょっと冷静すぎる)ナギに振り返り、頭を下げた。
「ごめん、ナギ。俺、今はナギとエッチできない」
「……なんでだ?」
「アムさんと、仲直りしたいから」
「……唐突だな」
 ナギは表情のない顔で俺を見た。俺はものすごくものすごく申し訳ないと思うんだけど、でもやっぱり今、ナギに抱かれることはできなかった。
「唐突だけど、そう思うんだよ。俺、やっぱりまだアムさん好きだから。アムさんのこと思い出しちゃったから。アムさんと仲直りしないままなんて嫌だって、早く仲直りしたいって思っちゃったんだ」
「いまさらじゃないか。鴉室氏を裏切って二度も俺に抱かれておきながら。しかも二度目はついさっきだぞ」
「うん、そうだな。いまさらだ。ナギとしたことは今でも後悔してないし、さっきやったのも気持ちよかった。そんな奴がいまさらアムさんに会いに行ってもどうなるもんでもないかもしれない」
 でも、それでもな。
「だけど俺はアムさんに会いに行きたいんだ。アムさんと会っていっぱいごめんなさいって言いたい。なじられてもいいし殴られてもいい、それでもアムさんに好きだって言いたいって思ったんだよ。――恋人はアムさんなのにナギとエッチしたいって思ったのと同じように」
「…………」
「俺人でなしなこと言ってると思う、たぶん間違ってるんだと思う。その時したいことをやってりゃいいってもんでもないと思うし、そんなことばっかやってる奴は最終的には見捨てられて当然だと思う。でも、それでも、俺は――」
 こういう俺だったから、アムさんともナギとも繋がりを持てたのだと信じるから。
「したくないことをするのも、したいことをしないのも絶対嫌なんだ」
「………………」
 ナギはふっ、と苦笑した。
「それはつまり、俺と鴉室氏のどちらを取るか、まだ少しも決められていないということじゃないか?」
「うん」
「正直だな。だが正直が必ずしも常に最上の策とは限らない」
 すっと立ち上がって歩み寄り、俺を十四cm上から見下ろして言う。
「もし俺がここで君を行かせないと言ったらどうする。泣いても叫んでも喚いても、君を押し倒して犯して離さないと言ったら」
 さわ、と俺のうなじをその大きな手で撫でるナギを見上げて、俺はきっぱり言った。
「その時はナギを殴り倒してアムさんのところに走ってく」
「………………」
 俺の言葉にナギは一瞬だけ驚いたように目を丸くして、それからふっと笑った。その笑みはすごく優しくて、俺は思わずどきりとしたんだけど、ナギは気づいてるんだか気づいてないんだか笑って俺の頭を撫でてきた。
「それならしょうがないな。俺も君に殴り倒されるのは一度で充分だ」
「………うん」
「今回は退くとするさ。俺にもチャンスはまだ充分以上にあるようだし――ただし」
 そこで笑みを肉食獣のような、猛々しく獰猛なものに変えて。
「今度俺が抱こうとしている時に他の男のことを考えるようなことがあった時は、言っておくが容赦しないぞ。君が俺を殴り倒そうとしようが銃を持ち出そうが、押し倒してもう勘弁してくれと泣いて懇願するまで鳴かせてやる」
「…………」
 俺はその言葉と表情に一瞬ぽうっとなってしまった。――やっぱり、ナギって、いい男だよな……。
 だけどそんな俺にナギは苦笑すると、俺を抱き寄せて軽くこめかみにキスを落としたんだ。
「これから他の男のところへ行くってのに、そんな顔をして人を見るもんじゃない」
「そんな顔って……?」
「押し倒していろんな意味で泣かせたくなるような顔さ」
「やらしい顔ってこと?」
 俺の言葉にナギは苦笑を深くして。
「君は俺にどうしても君のことが可愛いって言わせたいのか?」
 と微妙な台詞を言って俺の耳をいじりながらキスしようとしてくる。
 俺はちょっとぼうっとしたけど、すぐ我に返ってその唇をぎりぎりで手で塞ぎ、悪戯っぽく笑って言ってやった。
「ナギが俺を口説くのは本気でエッチしたい時だけにしてくれよ。でないと、俺勝手に盛ってお前の喉笛噛み切っちゃうかもしれないよ?」
「……肝に銘じておこう」

「……ルイ先生知らない? 心当たりは? そっか、わかった。ありがと、よいお年を!」
 走りながら携帯で検索と通話を繰り返す俺。別にまだアムさんの場所がわからないんだから走らなくてもいいんだけど、とてもじっとしてなんかいられなかった。
 心当たり全部に電話してもアムさんの居場所を知ってる人なんていない。俺は新宿の街を走りながら、対応策を考えた。
「……しゃあない、最後の手段いくか」
 俺はH.A.N.Tを取り出すと、Solomon――新宿の魔女に向けてメールを送った。件名は『緊急仕事依頼(今日今すぐ)』。本文は『人探しをお願いします。Kaoloon』。
 一分で返信が返ってきた。『探したい相手の名前と〜、貴方との関係は〜?』
 迷わず書いた。『名前は鴉室洋介、俺との関係は恋人です』。
 今度の返事は十分後だった。アムさんのだいたいの居場所が書いてある。『いつもお世話になってるから〜、報酬はお友達価格で十万円でいいわ〜。後払い可〜』という文に『多謝』とだけ返して俺は走る。
 俺の足をもってすれば三十分もかからない場所。そこにアムさんがいる。
 俺は全力で走り、十五分でその場所――今にも崩れそうな居酒屋にたどりついた。息を整えもせず中に入る。
 そこは今日は営業してないみたいだった。大晦日なんだから当たり前なのかもしれないけど。ただ誰もいないカウンターで一人、アムさんが飲んだくれていた。
「アムさんっ!」
 俺は叫ぶ。アムさんはのろのろとこっちを見て、一瞬目を見開いた。
 だがすぐに表情を消すと、のろのろと立ち上がる。俺から逃げる気だ、とすぐにわかった。
「アムさん! 逃げないでよ!」
「……別に逃げるわけじゃないさ。ただ、君も気まずいだろう? ほんの二日前に愛想を尽かした男の顔を見るのはさ」
 気弱げな、自嘲的な、困ったような声。俺がこんな声出させてるんだ、と思うと胸がぎゅうっとしたけど、俺に傷つく権利なんてない。俺はアムさんの革ジャンをつかんで言った。
「アムさん、俺のこと嫌いになった?」
「――なにを急に―――」
「俺のこともう愛想尽かした? 俺ともうキスしたくない? エッチしたくない? いちゃいちゃしたくない?」
「だからさ、君が言うことじゃないだろ、それは。浮気されたのは俺なんだからさ」
 苦笑に似た、自分を自分で馬鹿にするような口調。俺はアムさんにそんなこと言わせたくない。
 でも、それをさせてるのは俺だ。ぎゅっと拳を握り締めて、逃げようとするアムさんに回りこんで顔を合わせ、言った。
「やだ」
「………は?」
「アムさんが俺に愛想尽かしても、俺のこともう嫌いになっちゃってても、それでも俺アムさんと別れるのやだ」
「……九龍、あのな―――」
「アムさん、俺アムさんのこと好きだよ。めちゃくちゃ好きだよ。だからアムさんが別れたいって言っても別れるの絶対やだ」
「……それはわがままってもんじゃないか、九龍。こういうのは片方が思ってるだけじゃうまくいかな――」
「だってやなんだもんっ!」
 俺はきっとアムさんを睨んだ。アムさんが息を呑む。俺の目が潤んでるからだろう。泣くのは卑怯だって言われるかなとも思ったけど、それでも俺は気持ちを丸ごとぶつけたかった。
「わがままでもなんでも俺アムさんと別れたくない! そう思うのになんで変な遠慮とかしなきゃいけないんだよ!? ただでさえ俺アムさん傷つけてるのがいやでいやで、泣いて謝りたいの必死に堪えてるのにっ」
「く……九龍、君言ってることがめちゃくちゃ……」
「ちゃんと言ってよ! 気持ちぶつけてよ! そうじゃなきゃなにも始まらないだろ!? 変な遠慮とか我慢とか俺知らない! 欲しいものは欲しいし好きなものは好き! わがままでも間違っててもちゃんと言わないと俺生きてけないもん! アムさんだってそのはずだよ、なのになんで誤魔化すわけ!?」
「………っ」
「俺ってアムさんにとってその程度!? ムキになったり必死になったりする価値ない!? なりふりかまわず欲しいって、そう思えるほど、俺アムさんに幸せあげられなかった……?」
「俺にどうしろって言うんだ君は!?」
 アムさんが、初めて俺の前で声を荒げた。勢いよく頭を掻きながらぎっと俺を睨む。
「先に俺のこと放って女といちゃいちゃしたのも浮気したのも君だろう!? 言っとくが俺はめちゃくちゃ腹を立ててるんだからな! 君に浮気されたって聞いた時俺がどんな気持ちがしたと思う! 相手の男をぶっ殺したくなったし、俺は君にとってその程度だったのかって死ぬほど落ちこんだんだからな! 結局俺じゃ君の恋人にはなれなかったのかって、不安で、怖くて、苦しくて………!」
「だったらどうしてそれ俺にぶつけてくれなかったんだよ! 腹立てたなら怒ればいい、落ちこんだなら慰めろって言えばいい! 気持ちのぶつけどころになるのは酒じゃなくて俺だろ!? 俺に腹を立てたんなら、一番最初に俺のとこに来て怒鳴ればいいじゃんか! 思いっきり殴って、この馬鹿野郎、お前は俺のもんなんだから浮気すんなって怒鳴れば………!」
「大人を見くびるんじゃない! 大人ってのはな、なりふりかまわず突っこんでって駄目だったらって、その時のダメージがどれだけでかいかもすぐわかっちまうんだよ! 君の気持ちが俺から離れたんだったら、しつこくしがみついて嫌われるよりきれいな思い出になった方がマシだろうが!」
「大好きだった人と別れるのがきれいな思い出になるわけないじゃん! 第一アムさんは思い出だけで満足できるわけ!? 俺はやだ、俺たちまだ始まったばっかなんだよ、これからもっといっぱい好きだって言い合いたいしいちゃいちゃしたいしエッチだっていっぱいしたい!」
「アホか! そんなの俺だって同じだっ、もっともっと君と一緒にいたいに決まってるだろうが!」
「だったら別れるなんて言わないでよ! お互いまだいっぱい好きあってるんだからっ!」
 俺の言葉に、アムさんは泣きそうな顔になって、俺をぎゅっと抱きしめた。俺も泣きそうになりながら抱き返す。たまらなくなって涙が一筋目からこぼれた。
 しばらく痛いくらい抱き合ったあと、アムさんが妙にしみじみとした声で言う。
「あんまり無理言うなよ、九龍。お兄さんは君が思ってるほど強くないんだ」
「…………」
「正直、自信がないんだ。君の恋人でいる自信がない。浮気された時はそりゃショックだったけど、反面ああやっぱりとも思った。君は誰でも当たり前に特別扱いができる人間だから、もし今回の相手と切れてもきっとこれからもこういうことが何度も起きるんだろうなってな」
「…………」
 それは、そうかもしれないけど。
「だから、もうこれ以上傷つく前に――君から手を引こうって思ったんだよ」
「……それで、楽になった?」
「え?」
 きょとんとするアムさんを、俺は潤んだ目で見上げる。
「俺と別れるって決めて、アムさん本当に楽になれた?」
 アムさんは、苦笑した。
「そんなわけないだろ? 昨日、つーか一昨日からもう死にそうになるほど落ちこんでたよ」
「じゃあ、変わんないじゃん。将来傷つくのも今傷つくのも一緒だよ。ううん、どうせ同じなら少しでも長いこと、幸せ味わった方がいいと思う」
「…………」
「アムさん、俺嫌いになった?」
 アムさんはさらに苦笑する。
「そんなわけないだろ。好きだよ」
 俺の心の中がじゅんっと濡れる。アムさんがこんな普通に好きだって言ってくれたの初めてだ。
「俺もアムさんのこと好きだ。俺と別れたい?」
「………いや」
「俺も別れたくない。じゃあさ、一緒にいよ?」
「………そうだな」
 アムさんはやれやれといったように苦笑して、ばふっと俺を抱きしめながら頭をすりつけた。
「ったく。人がさんざん考えて言ったことに、やだ! だもんなぁ。考えるのが馬鹿らしくなってくるわ」
「考えるんじゃない、感じるんだよ。そっちの方がたぶん正解に近い。たいてい」
「たいていかよ。君はブルース・リーか? ……流されて結果的に最悪の事態になっちまったような気もしないでもないけどな……」
「少なくとも、俺と一緒にいる時は思いっきり幸せにするよ?」
「……そうかい」
 アムさんはまた苦笑して、俺の耳元に囁いた。
「九龍」
「なに?」
 俺も囁き返す。
「好きだ」
 どきんと、心臓が跳ねた。
「………うん」
「俺のことが好きだろ?」
「うん」
「ずっと一緒にいような」
「うん」
「これからずっと仲良くしような」
「うん」
「もう浮気するなよ」
「………うん」
「待て。なんだ今の間は」
 ぎろりと睨まれて、俺は首をすくめた。
「えーと、少なくとも今は浮気する気なんか全然ないけど、先のことは誰にもわからないし……」
「……あのな」
「あ、でもさでもさ、簡単に浮気を防ぐ方法あるよ?」
「言ってみな」
「俺の中、アムさんでいっぱいにしてくれればいいんだよ」
 そうすれば誰も入る隙間ないよ、と言うとアムさんはがっくりとうなだれた。
「それが簡単にできりゃ苦労しないって……」
「……ごめん」
「よし、じゃあ一つだけ聞いとこう。九龍、君の世界で一番好きな人は誰だ?」
「……アムさん」
 俺がじっとアムさんを見上げながら答えると、アムさんはにっと、普段の飄々としたいい加減な、でもすごく可愛い笑みを浮かべて言った。
「よし。とりあえず、それで満足しておくとするさ」
 俺はなんだかすごくきゅーっと胸が痛くなって、アムさんに抱きついてしまった。
「ごめんね、ごめんねアムさん、浮気してごめんね、傷つけてごめんね」
「わかったわかった、泣くな泣くな」
「大好きだよ、アムさん、大好き」
「はいはい、俺も好きだよ」
 抱きついて頭をすりつける俺を、アムさんは優しく抱きしめてくれた。
 ああやっぱり俺アムさん世界一大好きだ、と俺は心から思った。

「言っときますけど、俺諦めたわけじゃないっすからね」
 俺の作った年越しそば(きつね)をすすりながら夷澤が言う。
「二人のどっちにしろまだ数日のキャリアじゃないっすか。俺が九龍さんを手に入れる可能性だってまだまだ充分あるっすよ」
「泣きついても抱かせてもらえない人間が言う台詞じゃないと思うがな」
 ナギがそばに乗せた天ぷらを食べながら突っこむ。
「……アンタだって抱く寸前に九龍さんに逃げられたんでしょ。そんな奴に偉そうなこと言われたくないっすよ」
「少なくとも俺は二度は抱いてる。これからも機会は何度もあるだろうと俺は確信してるしな」
「言っとくが、君らの言ってる相手は俺の@人なんだがな?」
 アムさんが五目そばを食べていた箸を振り上げて言う。
「恋人〜? もう二度も浮気されてんでしょうが。それでよくんなこと偉そうに言えますね」
「俺としてはむしろあなたよりもいい位置にいると思ってますが?」
「……言うねぇ、君たち。大人を怒らせると怖いぞ?」
「大人ァ? 年食ってりゃ大人だと思ってんじゃないでしょうね?」
「ぜひともその怖さとやらを味わってみたいですね。俺も生半な覚悟でいるわけじゃないので」
「あのさー……仲良くしろとは言わないけどさ、もーちょっと和やかにできないかなー?」
 俺がかけそばをすすりながらそう言うと、甲がカレーそばの汁を飲みつつぎろりと俺を睨む。
「お前のせいだろうが」
 ……ごもっとも。
 俺とアムさんとナギと夷澤と甲の五人は俺の部屋で年越しをしていた。別に俺が音頭を取ったわけじゃなくて誰からともなく集まってきたんだけど(アムさんは別)。しかしまぁ三人とも見事に火花散らしてるなー……すまん、三人とも。
「行く年来る年始まりましたね」
 夷澤が食後の茶をすすりつつ言う。
「あ、俺これ初めて見るんだ」
「お前は日本で年を越すのが初めてなんだから紅白も年越しそばも初めてなんだろうが」
「ま、そうなんだけどね。いいじゃんちょっとくらい感慨に浸ったって」
「さて、そろそろお邪魔虫諸君は部屋に帰ったらどうだ?」
 アムさんが立ち上がって言うと、ナギと夷澤はぎっと(ナギはちろりと)アムさんを睨んだ。
「あなたにお邪魔虫と言われる筋合いはないと思いますが?」
「ここは九龍さんの部屋でしょうが」
「……すまん。みんな、今日は帰ってほしいかも」
「…………」
「なんでっすか!?」
 夷澤に睨まれて問い詰められたので、俺はつい。
「今日はアムさんと濃いい仲直り&姫初めエッチをするって決めたからです」
 とさらっと言ってしまった。
「…………」
「…………」
「…………この馬鹿が…………」
「……ごめん。でも他に言いようが……」
「しょうがない、君がそう言うなら今日は帰るさ」
 ナギが立ち上がって苦笑する。
「あ……ごめんな、ナギ」
「その代わり。この埋め合わせはしてもらうぞ。近いうちに朝までたっぷりフルコース、君につきあってもらう」
「え……」
 野性的な笑顔を見せられ、思わずときめいている俺に、アムさんがぎろりと睨みを利かす。
「九龍」
「ご、ごめんアムさん」
「俺にも埋め合わせしてくださいよ、九龍さん。とりあえずなんでも一つ言うこと聞いてもらいますからね」
「あ、うん、わかった」
「九龍!」
「え? なんかまずい?」
「じゃあな、鈍感馬鹿。せいぜいたっぷりお仕置きされろ」
「お前にだけは言われたくないわい阿呆アロマが」
 とか言いつつ三人は部屋を出て行き、俺とアムさん二人だけになった。
「……アムさん、怒ってる?」
「怒ってないと思うか?」
 即答に、俺は眉を下げた。
「ごめんな、アムさん。でも俺、正直まだ思いきれてない。世界一好きなのはアムさんだけど、また浮気しない保証とかあるかって言われたらないって答えちゃう」
「…………」
「だから」
 しゅるり、と俺はアムさんに抱きついて下から見上げる。
「俺にアムさん、いっぱいお仕置きして。俺が他の相手とするなんて、二度と考えられないぐらい」
「……壊されても知らないぞ」
「俺、アムさんになら壊されてもいい」
 そう真剣に言うとアムさんはにやりと笑って、俺にキスをしてきた。いつものこれでもかってくらいしつこいやつ。
 それから怒涛のように濃いいセックスになだれ込みながら、俺はこっそり、ナギの方が気持ちいいけど、やっぱりアムさんとのセックスの方が好きかな、なんて知られたらどっちにも怒られるようなことを考えていた。

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