第00番
『大陸の辺境に位置するエトリアという名の小さな街で大地の下に広がる樹海が見つかった。』
『エトリアの統治機関執政院は大陸中に樹海探索の触れを出し数多くの冒険者を集めることにした。』
『しかし、幾人の冒険者が集まろうと樹海の奥深くに潜り、富と名誉を手にする者は現れずにいた…。』
『…誰にも踏破されない樹海はいつしか世界樹の迷宮と呼ばれ冒険者の畏敬の対象と化していった。』
『………。君もまたその布令に応じエトリアに向かう若き冒険者である。』
『その目的は一つ、樹海を探索し富と名誉をその手につかむことだ。さあ街の門をくぐり進みたまえ!』

「街の門をくぐり進みたまえ! ね……言われなくとも進まさせていただきますよ」
 ディックはふ、と笑って肩をすくめ、街の正門をくぐった。
 エトリア。大陸中から冒険者の集まる、夢と富が集まる街。
 そこにやっと自分はやってきた。ようやく、自分のやってくるべき場所にやってくることができたのだ。
 そう思うと常に冷静沈着をモットーとする(医者なのだから当然だ)ディックもさすがに心に勇み立つものがあるのを感じ、軽く首を振った。少し気分が昂ぶりすぎている。こんな気分で冒険者ギルドに向かってギルド長に舐められるわけにはいかない。軽くどこかで昼食でも取っていくか。
 やるからには、自分は一番を目指すつもりなのだから。なんとしても世界樹の迷宮の謎を解き、この街一の、すなわち大陸一の冒険者になってやる。
 自分ならばやってできないことはないはずだ。自分はこれまで、すべての障害を理性と知性とたゆまぬ努力で乗り越えてきたのだから。
 軽く口笛を吹きたいような気分で道を歩く。この街の主要施設はすべてベルダ広場と呼ばれる広場に集中しているはずだ。とりあえずはそこを目指し――
 などと考えていると、道端の路地裏に座っている、ひどく汚れた子供の姿が目に入った。
 うわ、汚ね。
 それが違わぬ第一印象。急速な経済活動の発展に伴う貧困層の拡大ってやつか、可哀想にな……と理性では常識的かつ良識的な同情の言葉を吐きつつも、感情は正直に汚ね、そばに寄りたくねぇ、こっちくんな、と忌避の感情をめいっぱい訴える。
 そのくらいその子供が垢じみてぼろぼろで埃だらけで臭そうだったのも確かだが、それでもそんなことを感じてしまう自分に若干の嫌悪感を覚えたのもまた確かではあった。それでも結局しょうがないよなこれが現実だ、と大人的にそんな汚れた自分を腹の底に飲み込みつつその子供のそばを通り過ぎようとして。
 その子供と、目が合った。
 やせ細った目ばかりがぎろぎろと大きい体中ひどく汚れた子供。それがじーっとこちらを見つめている。それこそ赤子のように澄んだ瞳で。
 やべ、目ぇ合っちまった。
 正直な感想を内心吐きつつディックは固まる。その子供は(褐色の肌に白い髪、という珍しい色合いだった)じーっとこちらを見つめてきていた。汚れた大人であるディックが恥ずかしくなるほど純真な目つきで、じーっと。
 おいおい待てよちょっと待て、俺に頼られても困るぞ俺だって余裕ないぞあくまで一介の冒険者志望なんだし、もっと金持ち狙ってくれよ。そう祈りをこめて視線逸らしたいなーと思いつつ見返しても、子供はじーっとディックを見つめてくる。純真な、親を見る子供のような、相手がこちらを傷つけることなど絶対にないと確信している者の視線で、じーっと。
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
「……………………」
「……………………」
 数十秒その視線と戦って、ディックはは、と息を吐きしょーがねーな、と苦笑した。放っておくわけにもいかないだろう。そりゃ自分がこの子供を助けられるだけの経済的余裕があるかと言われればノーだしこの子を救ったところで貧困や飢餓がなくなるわけでもないが、それでもこうして目が合ってあんな目で見つめられたんだ、捨て置くのも後味が悪い。
 ま、世界樹の迷宮に挑む時だっただけラッキーだ。こいつにも自分を救える力ってものを与えてやれるかもしれない。そう極力前向きに考えて、できるだけ優しく笑って聞いた。
「一緒に、来るか?」
 子供をさらう怪しいおっさんみたいな台詞だなー、と少々めげつつも優しく訊ねる。最優先されるべきはこの子の意思だ。この子自身に差し出された手を取る意思がなければ、自分の力では何もできない。
 その子供はまた数秒じーっとディックを見つめると、ひどく頑是ない仕草でこくん、とうなずいた。
 やれやれ、と苦笑しつつ、ディックはその子供に手を差し出す。こうなったらやるしかない、自分のできるだけでこいつの面倒を見てやらないと。
「とりあえず、一緒に飯食いに行くか?」
 笑顔でそう訊ねると、その子供はまたじーっとまじまじディックを見つめ、こくんとうなずいてそっと手を握る。
 少しべとっとした感触があってうわ、と冷や汗をかきつつも、ここで慌てるわけにはいかない。どうせ拾うならいい関係を築きたい。とりあえず笑顔はキープしつつ、訊ねてみる。
「お前、名前なんていうんだ? 俺はディック」
「…………」
 ぱちぱちと目を瞬かせるその子供に、「名前だよ、名前」と教え込むように言ってやると、その子供は少し首を傾げて言った。
「セディシュ」
「セディシュか。セディって呼んでいいか?」
 軽い気持ちで訊ねた言葉だったが、なぜか効果は覿面だった。子供――セディシュはまじまじとディックを見つめ、こくこくこくとうなずいたのだ。すごい勢いで。顔は無表情なのに、ディックがなにかすごいことを言ったとでもいうように瞳を輝かせて。
 うわ、なんだなんだ? と驚きつつも、無反応よりはいい。ディックは軽く笑って、「じゃ、近くの店入るか」とセディシュの手を引いた。

 セディシュは最初戸惑うようにディックの頼んだミルクリゾットを見つめていたが、「ほら、こうして食ってみな」と匙を口の中に押し込んでやると目をかっと見開きすさまじい勢いでかっ込み始めた。やはり相当に腹が減っていたらしい。
 ディックも苦笑しつつ自分のチキンドリアを口に運ぶ。内科医としてはよく噛んで食べろと言いたいところだが、飢えた人間には無理な注文だろう。一番胃に優しいメニューを選んだから、あとで胃薬を処方してやれば胃痛は起こさないと思うが。
 セディシュが皿を空にするのを待って、訊ねた。
「もう一杯食うか?」
 セディシュはじーっとディックを見つめ、ふるふると首を振る。本当に赤ん坊みたいだなこいつ、と内心苦笑しつつも笑いかけてやった。
「そうか。じゃあ、話、していいか?」
 こっくりとうなずくのに、うなずきかえして話を始めた。
「セディ。俺はこの街に冒険者になるために来たんだ。世界樹の迷宮の謎を解いて、富と名誉と力を手に入れるためにな。けど当然最初は駆け出しだから、金はない。人一人養うような余裕はない」
 じーっとこちらを純真な瞳で見つめてくる。言ってることわかってんのかなこいつ、と思いつつも続けた。
「で、だ。提案なんだが。お前も冒険者にならないか?」
 目をぱちくりさせた。きょとん、とした顔で首をわずかに傾げる。
「ぼうけん、しゃ?」
 初めて出した声はほとんどアルトに近いほど高く、柔らかかった。
「そう、冒険者だ。冒険者ギルドで登録すれば、誰でも冒険者になって世界樹の迷宮に潜れる。慎重にやれば金も手に入るし、迷宮で経験を積めば技術を身につけられる。自分の食い扶持が稼げるようになるぞ。どうだ?」
「…………」
「ちょっと待ったぁっ!」
 突然勢いよく隣の席にいた男が立ち上がり、憤然とこちらを睨み下ろす。不思議な形の剣を背負い鎧を身につけた赤毛の男、いや体は大きいがまだ少年と言った方がよさそうなほど幼い顔貌の男子だ。
「なんだ、あんたいきなり」
「さっきから聞いてれば無茶言うなよ、あんた! こんなちっちゃい女の子にこんな格好させとくだけでもよくないのに、冒険者になれっていうのはいくらなんでもむちゃくちゃだろ! まだ十二やそこらだろこの子、こんなちっちゃな女の子を危険に晒すくらいなら俺がこの子を養ってやる!」
「…………」
 セディシュは目をぱちぱちとさせている。ディックはそういえばこいつさっきからちらちらこっちを気にしてたなー、とか突然養ってやるってまぁ男気があるということなんだろうがちょっと怪しくないかその発言? まぁ俺もはたから見ればご同類なんだろうが、とか思いつつもとりあえず基本的な点に突っ込みを入れた。
「こいつ、女じゃないぞ」
「へ?」
 ぱかっと口を開けた。
「お前、男だよな、セディ?」
 セディシュはこっくりとうなずいた。
「うん。俺、男」
「………………」
 あんぐり口を開けたまま固まっている。思ってもみなかった展開らしい。
 ディックはふむ、と少し手を口に当て考えた。こいつはこの身なりからして冒険者だろう。しかもおそらくは駆け出し。というかベルダ広場の外で飯を食っているということは、たぶんまだギルドに所属していない。体つきの逞しさからいってこいつはまず間違いなく前衛職になる。ギルドを立ち上げるには絶対必要なメンバーだ。
 結論。カモだ。
「お前、名前なんていうんだ」
「え、俺……アルバーだけど」
「アルバー。お前、冒険者だよな?」
「え、うん。俺は世界一の剣士になるためにエトリアに来たんだ! 世界樹の迷宮で腕を上げて、世界一強くなるんだ!」
 にっと笑って拳を振り上げるアルバーに、ディックはにっこり笑って肩に手を置いた。
「アルバー。お前どこかギルドに入ってるか?」
「へ? ギルド……って、なに?」
 一瞬コケそうになったが、このくらいでカモを逃がしてたまるか。笑顔でスルーして説明してやる。
「世界樹の迷宮に潜るためには正式な冒険者ギルドのメンバーにならないと駄目なんだ。そしてギルドは最低でも五人が望ましいといわれてる。つまり、四人以上仲間を集めないとお前は世界樹の迷宮に潜れないわけだな」
「えぇ!? そーなのっ!?」
 本気で仰天した声を上げるアルバー。こいつホンッキで下調べとか全然してこなかったな、と一瞬頭を押さえつつも、まぁ前衛職に頭脳労働を期待するのも筋違いだろうと気合を入れて言葉を紡ぐ。ここからが本番だ。
「で、ものは相談なんだが、アルバー。お前、俺の作るギルドに入らないか?」
 アルバーは目をぱちくりとさせた。
「お前のギルドに?」
「あぁ。メンバーは今のところ俺だけでしかも俺はまだ迷宮に入ったこともない初心者だが、最初から自分の手で冒険の足跡を刻む気持ちよさが味わえるぞ。それに、セディ――こいつは俺についてくるだろうから、こいつを養うことだってできるだろうし。まぁ女じゃなければ用はないというなら別だが、お前はそんな冷たい人間じゃないよな?」
 にっこり笑顔で訊ねてやると、少し顔を赤くしながらも「おうっ!」と吠えてくれた。たいへんけっこう。
「俺たちと組んでくれるか?」
「……うん、そーだな。わかった、お前らと組むよ。こんなちっちゃな子を放っておけないし、お前も悪い奴じゃなさそうだし。一緒に頑張ろう! おー!」
 拳を振り上げるアルバーに、一応「おー」と小さく唱和してやってからすっと手を差し出した。
「アルバー、俺はディックだ。そっちはセディシュ。よろしくな」
「おう、よろしくっ!」
 力いっぱいディックの手を握ってから(本気で痛かった)セディシュの方に向き直り、笑顔で手を差し出す。
「よろしくな、セディシュ!」
 セディシュはじっとアルバーを見上げ、少し首を傾げた。それからディックの方を見つめてきたので、やれやれと思いながらもぎゅっとアルバーの手を握らせてやった。
「ほら、相手がこういう風に手を出してきた時はこうして握り返してやるんだ。握手、知らないのか?」
「…………」
 知らない、ということなのかわからない、という意味なのか、少し首を傾げてからこくんとうなずいてセディシュはアルバーの手をきゅっと握る。その子供のような小さい手を、アルバーはにこにこしながらぶんぶん上下に振った。
 きょとんとしながら振り回されているセディシュと笑顔のアルバーを十秒見守って、いい加減長いだろうと止めてからとりあえず全員同じテーブルの椅子に座った。
「で、セディ。話の途中だったが、お前、冒険者になるか?」
「えぇー、そりゃ無茶だろ、こんなちっちゃな子が」
「……セディ、お前いくつだ?」
 セディはわずかに首を傾げ、答えた。
「十五」
「え゛!? ウソッ、マジかよ!? 俺と二つっきゃ変わんねぇじゃん!」
「へー、お前十七だったのか」
「うん、俺十七。ディックは? いくつ?」
「俺は十九。先月の三十日になったばっかりだけどな」
「へー、先週じゃんか、おめでとう! ……しっかしセディシュ、お前年のわりにはちっちゃいなー……」
 まじまじと見つめるアルバーに、セディシュは表情は変わらないが心なしか困ったように首を傾げた。
「この年頃の成長度合いには個人差があるさ。で、だ。セディ。どうするんだ? 俺はお前に冒険者になってほしいと思ってるが、お前がそれを選ばないならそれでもいい。その時はお前が自分で食い扶持を稼ぐ方法を考えないとならないけどな。どうする?」
 セディシュはじーっとディックを見つめて、こくん、とうなずきながら言った。
「なる」
「冒険者にか?」
 またこっくりとうなずく。
「よし、決定だな」
 ほ、と小さく息をつく。とりあえず懸案事項が片付いた。
 アルバーはしばし難しい顔をしてぶつぶつ言っていたが、やがてにかっと笑ってうなずいた。
「そーだよな、お前も男なんだから強くなりたいよな! 一緒に頑張ろーな、セディシュ!」
「うん。頑張る。一緒に」
 こくこくうなずくセディシュに「わかんないことあったらなんでも聞けよー」とヘッドロックをかけたりしているアルバーをよそに、ディックは天井を見つめ考えた。
「あと二人か……とりあえず、必要なのはアルケミストと……」
 がったーん、と隣の隣の席で椅子が蹴倒された。
 反射的にそちらを向くと、そこでは酒場でよくある喧嘩の光景が繰り広げられていた。怒りに顔を歪めつつ相手の胸倉をつかむごつい男と、冷たく相手の顔を睨む黒髪を長く伸ばした男。その周囲を同様に数人のごつい男たちが取り囲み黒髪の男を睨みつけている。全員酒が入っているようで顔が赤黒く染まっていた。
 それだけなら酔っ払いの喧嘩か、と黙殺したところだろうが、ディックは胸倉をつかまれている男の右腕に注目していた。背は高いがどちらかといえば細身のその男に似合わないごついガントレット。何度か見たことがある、あの鈍い輝きは錬金術師の持つ手甲だ。
 素早く周囲の状況を確認し、いける、と踏んでディックは立ち上がった。
「ちょっとちょっと、こんなところで喧嘩なんてするもんじゃない。他の人の迷惑になるだろう?」
 できるだけ警戒心を削ぐような善人っぽい笑顔を浮かべてそいつらに近づく。耳にピアス、首に金のネックレスとアクセをちゃらちゃらつけていては善人っぽいというには少々無理がある気もしたが。
「はぁ? 人の話に口突っ込んでくんじゃねぇよ!」
「引っ込んでろ、クソガキ!」
 当然のように罵声を投げつけてこられたが、この程度でビビるほどディックは落ちぶれてはいない。笑顔を崩さず錬金術師の男にちらりと視線を向けた。
「見たところ、そちらの人がなにか生意気なことでも言ったみたいだけど。そんな細っこい人相手に兄さんたちみたいな強そうな人たちが喧嘩売るなんて男が下がるぜ。いったいどんなひどいことを言われたってんだ」
 男たちは『強そうな』を強調したのがよかったのかわずかに勢いを減じた。怒りに顔をしかめながらも少し声を落として言ってくる。
「こいつ、俺らのギルドに入る、って言ったくせに俺らのジョブが全員ソードマンだって知ったら『馬鹿か』とか抜かしやがったんだよっ! 『俺は自殺願望者に付き合う気はない、脳味噌が少ないのは見ればわかるが生き延びる気があるならもう少し頭を使ったらどうだ』だのなんだのと!」
 揃ってぎっと黒髪の男を睨む。男は涼しい顔をして服を直している。そりゃこんな調子で脳筋人間に毒舌を吐けば喧嘩にもなるだろう。ディックは一瞬わずかに呆れたが、あくまで表面上は涼しい顔でうんうんとうなずいた。
「そうだなー、そりゃひどい。ギルドにはそれぞれのやり方ってものがあるのにな」
「そうだろぉ!? わかってるじゃねぇか、こんなひょろっこい奴に俺らのやり方に口出しされてたまるか!」
「そうだなぁ。でもしょうがないさ、いつの世も英雄になる人間は最初は理解されないもんだ。他人の雑音なんて気にせず、兄さんたちは自身の道を慎重に進めばいいんじゃないか?」
「そ、そーだよなぁっ!? 周囲の雑音なんて気にしたってしょうがないぜ!」
「こんな奴相手にするだけ無駄だってもんだよな!」
「そうそう、その通り」
 にっこり笑ってうなずいてから、一応鵜呑みにされて突撃されては寝覚めが悪いので告げておく。
「けどな、いくら未来の英雄だからって、世界樹の迷宮では最初は初心者だってことを頭に入れておいた方がいいとは思うぜ。最初は少なくとも回復役のメディックと属性攻撃ができるアルケミストは入れておいた方がいい。迷宮に慣れてきたらどのジョブを外せばいいかわかるだろうから、慎重に考えて決めればいいし。な?」
 まぁどこまで行っても最低でもメディックは必須だろうけどな、という言葉は呑み込んでそう笑顔で言うと、男たちはふむふむ、とうなずいた。
「そういうもんか、なるほどなー」
「感謝するぜ兄ちゃん、メディックとアルケミストだな?」
「ようしそれじゃあ冒険者ギルドに掲示出しに行ってみっか!」
 黒髪の男のことなどすっかり忘れてどやどやと食堂を出て行く男たちを見送ってから、ディックはにっこり笑顔で黒髪の男の方を振り向いた。
「災難だったな?」
「……別に貴様には関係のないことだ」
 冷たく言ってふいと背を向けようとする黒髪の男の肩を笑顔をキープしながらがっちりつかむ。
「まぁ、待てよ。そう邪険にするなって」
「邪険だと? 頼みもしないのに勝手に喧嘩を仲裁しただけで礼を掠め取るつもりか。親切の押し売りにもほどがある、ほとんど居直り強盗だな」
 さすがにこの台詞にはカチン、ときたがディックも医大や医局でこの手の人間には慣れている。すっと目を細めて言ってやった。
「少なくともあんたを円満に袋叩きから救ってくれた分の話を聞くくらいはしてもいいだろう。悪い話じゃない。よしんばあんたにとって価値がない話だったところであんたが損をするのはわずかな時間だけだ」
 黒髪の男はむ、と顔をしかめつつも、その指摘の正しさを認めたらしい。ディックに言われるままにむっつりとした顔で椅子を持ってきてディックたちのテーブルに着いた。
「で。話というのはなんだ」
 むすっと言う黒髪の男に、ディックはにや、と意味深な笑みを浮かべてやる。
「あんた、錬金術師だろう?」
「……それがどうした」
「で、世界樹の迷宮に潜りたいと思ってる」
「結論を言え、だからなんだ」
「この話の流れなら妥当な提案さ。俺たちとギルドを作らないか?」
「…………」
 じろ、とこちらを睨みつけてくるが、ディックは笑みを崩さない。
「俺はこれでも医師免許を持ってる。少なくとも回復役は確保できるだろ。まだ定員数も揃っちゃいないが、その分あんたの意志で胡乱な奴が入るのを防ぐこともできるぜ。すべてはあんたのやる気次第ってわけだ。さぁ、どうする?」
 余裕の笑顔で言ってやる。六割から七割ぐらいの率でいける、とディックは考えていた。この手の自意識と自尊心が強い奴は挑戦するような台詞に弱い。
 予想に違わず、数秒考えるように目を閉じたのち、カッとまぶたを開いて言った言葉は好感触だった。
「待遇は」
「他のギルドメンバーと同様の公平な待遇を」
「小銭稼ぎでなく、迷宮の最奥にまで潜る覚悟はあるのか?」
「当然。そのくらいの根性もなくてあんたみたいな人間を誘うわけないだろう?」
あんたみたいな≠フ言葉の意味は『あんたみたいな扱いにくい人間を』とも取れるが、同時に『あんたみたいな優秀な人間を』とも取れる。しっかり両方の意味に気がついてくれたのだろう、一瞬ムッとしてからわずかに目を見開き、咳払いをしてからむすっと告げた。
「俺の研究の邪魔をしないのが絶対条件だ。迷宮内でも俺が研究のために必要だと判断したら何時間でも足を止めるくらいの心構えでいてくれなければ困る」
「それはケースバイケースだな。すぐ後ろに戦えば敗北確定という魔物が迫っている時に悠長に研究されていても困る。そのくらいのことはわかるだろう?」
「とっ、当然だ! 俺は常識的な範囲で言っているんだ!」
 顔を赤くして怒鳴る黒髪の男に、ディックは涼しい顔で言ってやる。
「それならけっこう。お互い常識の範囲内でそれぞれの目的に協力し合う、ということで」
「む……わかった」
 よし、とディックは内心人の悪い笑みを浮かべた。常識の範囲内というのはひどくあいまいな言葉だ。お互いの意識により常識というのは違うのだから、数時間研究のために足を止めるのを非難する人間の『常識的にそれはないだろう』という文句が成立しうる。そこらへんはどうとでもあしらいようがある、とりあえずギルドに入れてしまえばこちらの勝ちだ。
「よし、それじゃああんたはこれから俺たちの仲間だ、よろしくな。俺はディック」
 手を差し出すと、むすっとした顔ながらも握り返してきた。
「ヴォルクだ」
「ヴォルクか! 俺、アルバー! よろしくなっ」
 さっきからずっと黙って自分たちの会話を見守っていたアルバーも元気に手を差し出す。ヴォルクはむすっとした顔のままその握手を受けた。アルバーはにかにか笑顔でぽんぽんとヴォルクの背を叩きつつ言う。
「ヴォルクさー、そんなに緊張しないでもいーんだぜ? 俺ら悪い奴じゃねーしさ、別になにもしねーって」
「え?」
「っ、別に緊張などしていないっ!」
「えー、でも体震えてんじゃん」
 言われて観察してみれば、確かにヴォルクの体はわずかに震えていた。不覚、気付かなかったと頭を押さえる。
 ヴォルクはカッと顔を赤くして、「していないっ!」と叫んだが、ディックは内心にやりと笑んでいた。案外気弱な人間らしい。単に人見知りなだけかもしれないが。どちらにしろ、弱点がある方が扱いやすいのでディックとしてはありがたい。
 セディシュとも握手をしているヴォルクの横で、天井を見上げ一人考える。序盤は必須のアルケミストが入った。ではあと必要な職業は……と言いたいところだが今はそもそも選択できるほど人材に当てがない。
「とりあえず、あと一人……」
「その一人、僕じゃ駄目ですか?」
「!」
 腕を組んで考えていたディックは素早く声の方を向く。そこに立っていたのはいかにも騎士、という感じの剣と鎧と盾を身に着けた一人の金髪の少年だった。
「……君は?」
 素早くその体格やら筋肉やらを値踏みしつつ訊ねると、その少年はにこりと笑って答えた。
「僕はエアハルトと申します。先ほどからお話を漏れ聞かせていただいていたんですが、あなた方は新しくギルドを立ち上げられるんですよね? そして今のところその構成メンバーが足りない。その一人に、僕を加えてはくれませんか?」
「君は、騎士か?」
 セディシュとの握手を終えたヴォルクが(他の二人と並んで)じっとエアハルトを見つめて言う。エアハルトは笑ってうなずいた。
「ええ。一応騎士見習い、でした」
「でした?」
 アルバーがきょとんとした声を上げると、エアハルトはにっこり笑顔で首を振る。
「ここから先は、仲間と認めてくださった方だけに、ということで」
「……ふむ」
 ある程度は駆け引きを学んだ少年のようだ。ディックは少し顎に手を当て考える。
 おそらくこの少年のジョブはパラディンになるだろう。パラディンは最終的には絶対必要になるはずだし、今からいても別に困りはしない。ただし逆に言えば今すぐ絶対必要! というわけでもない。
「どうする? みんな。彼を仲間に加えたいと思うか?」
 とりあえず訊ねてみた。こうしなければならない、という要素がないのだから他のメンバーの意見を聞いた方がいいだろう。
「んー、いんじゃね? 騎士見習いっつーんなら腕に覚えはありそーだしさっ」
「……そうだな。いても困りはしないだろう。構成メンバーが足りないのだからやる気のある人間を加えてかまわないと思うが」
「…………」
 きょとん、とした顔で首を傾げるセディシュにこいつまたわかってないのかとディックは眉をひそめたが、エアハルトをじっと見つめ始めたので一応考えてはいるんだな、としばし見守る。
 セディシュは一分近くエアハルトの顔を見つめ、エアハルトが気まずげに体をよじり始めてから今度はディックの顔を見つめ、それからこっくりうなずいた。
「仲間に入れてもいいってことか?」
「うん」
「口で言えんのか、お前は」
 やや苛立たしげな口調で言ったヴォルクに、セディシュはきょとんと首を傾げ言った。
「なんて?」
「だから、その……自分がどう思っているか、をだ。そのくらい自分でできんようでは人間としてその、よくないだろう」
 セディシュは目をぱちぱちさせてヴォルクを見た。それからディックを見た。それからわずかに首を傾げたので、たぶん俺にそうなのかと聞いてるんだろうな、と見当をつけ言った。
「まぁ、自分の感情を始終ぶちまけられても困るが、必要な時に必要なことをきちんと口に出せるようにはなっておいた方がいいな。そうでないといざという時のコンビネーションにも支障が出るだろう?」
「…………」
 セディシュはやっぱりきょとんとした表情でしばし首を傾げ、それからこくん、とうなずき言った。
「わかった」
「……この程度の会話になんでここまで時間をかけねばならんのだ」
「まーまー、いいじゃん。こいつまだ若いんだしさっ、若い時にはいろいろあるって!」
「どこからどう見ても若い奴が言うな」
 じゃれあうアルバーとヴォルクを横目で見ながら、ディックはエアハルトに向き直り手を差し出す。
「そういうわけだから、俺たちとしては異存はない。よろしく頼む、エアハルト」
「……はい! こちらこそよろしく!」
 ぱっと顔が明るくなり、エアハルトは勢い込んで握手に応じた。そういう顔をすると一気に印象が幼くなる。というかこいつよく見たらまだ小学生じゃないかと思うほどに幼顔だ。背もセディシュ並みに低いし。別にいいけど。
 今まで同様握手をしつつ新メンバーを迎え入れつつ、アルバーが嬉しげな笑顔で言った。
「よっし、これで五人揃った! もー世界樹の迷宮に入れるよなっ」
「んー、まぁ、そうなんだがな」
「なにか問題でもあるのか」
「問題っていうかな」
 現在のメンバーではディックの立てた迷宮踏破計画に支障が出る。職業面において。具体的に言うと、レンジャーが二人欲しいのだ。
 現在の面子の職業を判断すると、まずディックがメディック。セディシュは……すばしっこそうだが肌があまり焼けてない(地肌が褐色なだけ)ことから街に住む人間だということがわかるから、たぶんダークハンターあたりになりそうな気がする。アルバーは剣士と自分で言っていたからソードマンだろう。ヴォルクはアルケミスト。エアハルトはパラディンになると考えてまず間違いはない。
 となると、ディックの計画には必要不可欠なレンジャーがいないことになる。このままではまず当初の財政が破綻する。それを別にお前たちが必要じゃないわけじゃないんだよ、と思わせつつどう説明するかディックは少し考えた。ああ、集まった仲間にレンジャーが(できれば二人)いればこんなこと考えなくてもよかったんだけどな、いないかなレンジャー。
「……あた、僕たちだけだってなんとか入り込めないことはないでしょ」
「無茶言うなよ。そりゃお前の弓の腕は大したもんだけどさ、今はまともに射れる弓さえ持ってないんだぞ?」
 弓? とディックは聞こえてきたその言葉に素早く声の方を振り向いた。ディックたちの席からひとつテーブルを挟んで隣のそこにはいかにも狩人風の人間が二人。
「いたー!」
 思わず立ち上がり指差してしまったディックに、二人組は驚いて立ち上がり、年上の方が顔を険しくして一歩前に出た。
「なんですかあなたは、突然」
「ああいや失敬、申し訳ない。あなたたちがあんまり俺の探していた人材にぴったり適合するものだから声を上げてしまったんだ」
 仲間たちからも驚いたような視線がぶつけられてくるのはわかっていたが、ここは重要なところだ。にっこり押しの強い笑顔を作り、すっと相手のテーブルに近寄る。
「……あんた、詐欺師? こんないかにも金持ってなさそうな相手引っ掛けようなんてよっぽど見る目がないんだね」
 警戒心に満ちた口調で刺々しく言ってくる小柄な方に、ディックは軽く笑みを投げかけておいて、年上の方と両方の顔を等分に見つめ言った。笑顔は崩さず流れるような口調で。
「悪いが俺は……俺たちは冒険者さ。世界樹の迷宮に潜ろうというな。まだギルドを立ち上げてもいない駆け出しだが?」
「……それが、僕たちになんの用?」
「単純だ。君たちも冒険者志望だろう? 俺たちのギルドに来てくれないか」
『…………』
 二人は素早く視線を交し合う。小柄な方がこちらを睨みつつ口を開いた。
「なんで、僕たちに? 他にも似たような奴らはぞろぞろいるでしょう」
「そうか? 少なくとも俺が出会った二人一組の狩人の冒険者志望は君たちだけだ」
「……なんで、狩人だって」
「話し声が聞こえたのと、風貌でそのくらいはわかるさ。そして君たちには本気で迷宮に潜る覚悟があると思ったんだが、違うか? 理由はどうあれな」
「……別に。ただ、僕たちは金を稼ぎたいだけ。そのために一番手っ取り早い方法を選ぼうとしてるだけ、だよ」
 ディックは笑顔を深くしてうなずいた。たいへんけっこう。
「だけど冒険者となったからには日銭を稼ぐだけで終わらせる気はないんだろ?」
「っ、当然でしょ。最低でも、十万エンは稼げるようにならなきゃやめる気はないから」
「じゅ、十万エン!? うっわー、そんな大金見たことも聞いたこともねーや」
「いや、聞いたことはあるでしょ、普通」
「……バカ?」
「むっ、なんだよお前、年いくつだよ」
「十五だけど。それが? もしかして年上には敬意を払えとか古臭い説教する気?」
「だ、だって年上には礼儀正しく接するのが普通だろ」
「そういうこと言う奴に限って年以外に誇れるものがなにもないんだよね。あーやだやだ。別にあんたが虚しく年を重ねるのはあんたの勝手だけどこっちにまでそれ押し付けないでくれる、鬱陶しい。そーいうこと言うんなら態度と行動で欠片でも尊敬できるとこ見せてからにしてよ」
「む、むぐぐ……」
「こ、こら、セス! お前そういう態度はやめろって言っただろう! だからどこのギルドにも」
「ギルド? あんなギルドに入るなら一人で潜ったほうがマシ。どいつもこいつも日銭稼ぐしか頭にない能無しばっかじゃない」
「確かにな」
「だが、今こうして君たちの前に新しくギルドを立ち上げようとしている人間たちが現れたわけだ」
 ディックはタイミングを見計らって口を挟んだ。相手にプレッシャーを与えるような笑顔つきで。セスと呼ばれた相手はむ、と口をへの字にしてこちらを睨む。
「少なくとも俺たちは迷宮の深層まで潜ろうという意欲がある。目的はそれぞれだがな。そして深層に潜れば潜るほど得られる素材は高くなっていくと報告があるわけだから、俺たちの目的は君たちの目的にも合致すると思うが?」
「…………」
「得られた金は公平に分ける。もし迷宮の中で死んだとしても、責任を持って蘇生させる。そして誰も蘇生ができなくならないよう全滅だけは全力で回避するよう尽力する。実行できるかどうかは実際に迷宮に潜って確かめてもらうしかないがな。少なくとも俺は君たちを欲しいと思っている。お前らも反対じゃあないよな?」
 問われて仲間たちは目をぱちぱちさせたり首を傾げたりしたが、それぞれうなずいた。
「えっと、やる気があるっていうんならいいと思うぜ。生意気だけど、負けん気強いのって悪いことじゃねーし」
「まぁ一応悪口にも筋は通ってましたし。ギルドマスターの言葉に従いますよ」
「レンジャー職業者は、確かに必要だからな」
「……反対、じゃない」
 思い通りの反応を示してくれて内心ガッツポーズを取りつつにっこりと笑いかけてやる。
「というわけだ。あとは君たち次第なんだが?」
「…………」
 ぐ、と奥歯を噛み締めて、セスはこちらを睨む。
「誓える?」
「誓う」
「なにに誓う?」
「そうだな……」
 少し考えて、少し瞳に強い光を乗せてセスを見て言った。
「俺の今まで培ってきた誇りに」
「…………」
 セスはぎゅっと拳を握り締め、仏頂面で、けれど全身を緊張させながらうなずいた。
「ギルドに入ってくれるのか?」
「……入る」
「よし。そちらは?」
「も、もちろん入りますよ! あ、俺はスヴェンで、こっちは弟のセス。みなさん、よろしくお願いします!」
「おう、よろしくっ」
 に、と笑顔で手を差し出すアルバーに、スヴェンは照れ笑いしながらも握手を返す。意外とアルバーって掘り出し物かもな、とディックはこれまで同様全員と握手をする二人を見つめる笑顔の裏で考えた。ああも開けっぴろげに明るい奴がいたらパーティ内の空気はそうそう悪くはならないだろう。
「さて。とりあえずはこれでギルド登録をするわけなんだが」
「が?」
「……ギルド名、どうする?」
 セディシュをのぞく全員ががくっとコケた。
「決めてなかったのかよ!」
「別に決めてなかったわけじゃない。全員で決めた方がいいと思っただけだ」
 まぁ、ディックがあんまり自分のネーミングセンスに自信を持てなかったというのも確かなのだが(ディックにしては珍しいことだったりするのだが)。
「あー、まーそれは確かになー。ギルド名……ギルド名……なんかカッコいいのがいいよな!」
「長すぎるのは駄目だぞ。六文字までという既定がある」
「微妙に短いですね。うーん……フェニックス≠ニいうのはどうでしょう? 何度死んでも蘇り目的を達成する、ということで」
「それもう使われてた。僕たちがいくつか雇ってくれないか頼んだギルドの中にあった」
「えー、ホントですか! 困ったなーうーん」
「別に狩り屋≠ナも掃除屋≠ネんでもいいでしょ」
「駄目だ! 俺らの顔になる名前なんだぜ、なんかぐっとくるのじゃねーと! うーんうーん……勇者冒険隊≠ニか……」
「六文字に収まってないぞ」
「あそっか、うーんうーん……頑張り隊≠チてのは!? これなら六文字だよな!」
「さっきも思ったけど、それのどこにぐっとくる要素があるわけ? ……兄貴は、なんかないの」
「えー! 俺名前つけるの苦手なんだよなぁ……えーとみんな駆け出しなわけだからひよっこーず≠ニか……」
「却下」
「それ経験積んだら使えないじゃん」
「……ユグドラシル≠ニいうのはどうだ。世界樹を現す古代語だが」
「えーなんか直球すぎね?」
「ぐ」
「ていうかそれもギルド名にあったし」
「うーんうーん……あ、セディシュはなんかあるか?」
 問われてうつむいていたセディシュは顔を上げて、なんだか妙にきっぱりした口調で言った。
「フェイタス=v
『………………』
 そのきっぱりとした口調にか、内容にか、とにかく全員一瞬気圧されて沈黙する。
「……どういう意味だ?」
「人それぞれの、巡り会わせ」
「ふーん……」
 しばしそれぞれその言葉を噛み締めているようだった。フェイタス、フェイタス、と何度か言って、アルバーはにっと笑う。
「いいじゃん! フェイタス。これにしよーぜ、カッコいいよ!」
「まぁ、今まで出た中では一番マシかな」
「響きもいいし、言いやすいし、いいんじゃないですか」
「……特に、異論はない」
「じゃあこれで決まりだね。フェイタス、か……」
 全員納得したようだったので口にはしなかったが、ディックは内心眉を寄せていた。人それぞれの巡り会わせって……フェイトの複数形か? それならフェイツになるんじゃないか?
「よっし、じゃーさっそくギルド登録っつーのしに行くか!」
「ちょっと、ギルドの本部はこっち」
「ふむ、とりあえず頭数は揃ったか」
「登録したらさっそく迷宮に潜るんですよね」
「ははは、まぁとりあえず今日の宿を確保してからにしようよ」
 全員立ち上がって出口に向かう中、ディックは立ち上がるセディシュに近寄りこっそりと囁いた。
「なぁ、セディ。フェイタスってもしかしてフェイトの複数形か? ならフェイツになるんじゃないか?」
 セディシュはこっくりとうなずいてから、ふるふると首を振って言った。
「それは、某エロゲーで、有名すぎるから」
「…………」
 ディックは思わず眉間を揉み解した。エロゲーってなんだ。
 だが、わからないと素直に認めるのがちょっと業腹だったので、にこっと笑って言ってやった。
「そうか。じゃあ、俺たちも行くか」
 きょとんとした顔で見上げてくるので、こいつもしかしてさっきまでのこと全然理解してないとか言わないよな、とおののきつつも笑顔をキープしつつ言う。
「冒険者ギルドに。それから街の中を回ってから、世界樹の迷宮に。一緒にな。一緒に頑張るって、言っただろ?」
「………………」
 セディシュはなぜか、ひどく驚いたような顔で、まじまじとディックの顔を見つめた。
 それから、笑った。
 うわ、とディックは思わずどきりとする。なんだこの笑顔。体全体で顔全体で、嬉しくて嬉しくてたまらないって言っているみたいな。蕩けそうなとかいう表現が生温く思えるような、なんていうかもう今すぐ死んでもいい、っていうほど幸せそうな笑顔。
 セディシュはそのたまらなく嬉しそうな、幸せそうな子供のような、認めてしまえばやせっぽちの汚い子供なのに可愛いなと思えてしまうような笑顔で小さくうなずき、言った。
「うん。頑張る、一緒に」
「………そうか」
 とりあえず無意味に咳払いとかして、頭とかちょっと撫でてみた。やっぱり風呂に入っていなさそうな汗と垢に塗れているであろう感触だったが、まぁ、悪くはない、かもと思った。
「おーい、なにやってんだよー。さっさと行こうぜ?」
「あ、ああ!」
 店の出口から声をかけてきたアルバーにマッハで振り向いて無意味に大声で答えてから顔を戻すと、ディックの表情は出会った時のような無表情に戻っていた。なんだ、とちょっとがっかりして、なんだってなんだ、と思わず頭を掻く。
 とりあえず。別に、あの笑顔を見たからというわけではないけれど。
「……ギルド行ったら、一緒に風呂行くか」
 そんな不必要かもと思えるような提案をして、無表情でこっくりうなずかれてみた。

 ―――初めてだったから。
 のちにディックに最初の笑顔の理由を聞かれ、セディシュはそう答えた。
 初めてって、なにが?
 ―――俺になにかを与えてくれた人が、俺の言った言葉に、意味がある、価値がある、って思ってくれたのが、生まれて初めてだったから。
 そう言って、セディシュはまたぷわー、と今死んでもいい、と言っているようなたまらなく幸せそうな笑顔を浮かべた。

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