死と変容
「……俺も前衛に回ってもいいかもしれないな」
 ぴっ、と杖を振ってポールアニマルの体液を飛ばし、ディックはひとりごちた。マンドレイクの死体から使えそうなツルを引き剥がしていたアルバーが、「え!」と大声を出してこちらを振り向く。
「なになに、ディック前衛になんの!? そんななよっちー体してんのに!?」
「お前みたいな脳筋……いや、前衛職になるために生まれてきたような奴と一緒にするな、俺は健康な肉体といえるだけの筋肉はたくわえてる」
「ディック、貧弱じゃない」
 こっくりうなずくセディシュに一瞬言葉に詰まったが、素早く話を元に戻す。
「というかな、俺もHPブーストには振ってるし、お前らとそれほどHPや防御力が違うわけでもないし」
「でも攻撃力全然違うじゃん」
「当たり前だ、俺はATKブーストには一点も振ってないんだから。だが、俺が前衛に回るとな、無駄がなくなるんだよ」
「無駄って?」
「まず、前衛が三人になるからダメージが散らせる。それに俺が前に回ると俺にも少しはダメージが出せるようになる。他の二人は後衛からでもダメージ落とさず攻撃ができるし。それにマンドレイクもポールアニマルも、あと一歩というところで倒せない時が多いだろう。そういう時の物の数ぐらいにはなる、と俺は判断した」
「んー……」
「それに俺が前衛に回れば少しはダメージの出る貴重な壊攻撃が手に入る。今のところ壊攻撃に極端に弱い敵は出てきていないが、そういう時の備えにもなるだろう?」
「あー、そーいや普通の攻撃にも斬とか突とかいろいろ属性あるんだったよな。むー」
「確かに、物の数ぐらいにはなるかもね」
「だが回復役の死亡率が高まるということは戦略上まずいのではないのか?」
「俺たちは現在充分に安全側に針を振って探索している。前衛に出た程度でそうそうやられはしないさ。それにもともと誰か一人でも死んだらその時点で迷宮を脱出するんだ。リザレクションの使えない今の時点じゃ同じだろ?」
「む……確かに」
「よし、じゃあ決を採ろう。俺が前衛に回ってもいいと思う奴、挙手」
 即座にセディシュとセスが上げ、少し遅れてからヴォルク。それからしばし眉間に皺を寄せて悩んでいたが、結局アルバーも上げた。
「なんだ、アルバー。俺が前に出るのは嫌なのか?」
「いや、嫌っつーわけじゃねーけど……うーん。そーだな、ちょっと嫌かも。だって俺が守ってやれなくなるじゃん」
「はぁ? なに言ってんのあんた。その俺が俺がって典型的な男的思考やめてくんない、ウザいから」
「んっだよー、女みてーな言い方すんのな、セス」
「っ」
「まぁ、お前が俺たちを守ろうとしてくれてるその心意気はありがたいが。俺たちはそれぞれにできるやり方でお互いを守ってるんだから、いまさら守るもへったくれもない、という気はするな」
「んー、まー、そーなんだけど……まいっか。ディックもやっぱ男だしな!」
「お前妙に男って性別にこだわるな。マチズモは今時流行らないぞ」
「まちずもってなに?」
「男権誇示主義。男の優位性、魅力、特徴を誇示するということだ。アンチ・フェニミズム的な思想を指してそういうこともある。その程度のことは知っておけ」
「だんけ……ごめ、ヴォルク、俺お前なにいってんのかぜんぜんわっかんね……」
「あー、つまり、お前はなんだかやたら男らしさにこだわってるような気がする、ってことを言いたいんだ、俺は」
「え、別にこだわってるわけじゃねーけど。男だったらやっぱ仲間や大切な奴のこと守んねーとなんねーのはとーぜんだろ! なーセディシュ?」
「うん。俺、みんな、守る」
「うちのギルドが全員男でよかったな。女がいたら怒鳴られていたかもしれんぞ」
「へ、なんでだよ? あーでもメンバーが全員男って知った時は華ねーなーってちょっとがっくりきたけど、これはこれで楽しいよな。気ぃ使わなくていいしさ! ……ん? おい、セス、なに睨んでんだよ?」
「知るわけないでしょバッカじゃないの!」
 そんな会話をしつつも、的確に手は動いて魔物の死体から素材を剥げるようになったディックたちは現在四階を探索中だ。スノードリフト討伐ミッションを受け(正直このミッションいくつのギルドが受けてるんだろうと思いつつ)、しょっちゅうツスクルに回復の水をもらいに戻りながらも、ちまちま地図の範囲を広げつつフォレストウルフやら他の魔物やらと戦って、経験値稼ぎ&素材集めを実行中。
 初めて四階に降りてきた時はFOEのアイコンの数に血の気が引いたものだが、今ではもうこいつらはカモとしか思えない。二階の鹿も牛もしっかり倒して経験値と素材を集めた。まだ全てを刈る影に挑む勇気はないが。
 初めて三階に降りてきた時は全てを刈る影の存在を知っていながら少しびくついてしまった。あの逃げろといわんばかりのナレーションにあからさまにそれまでのFOEとは違う雰囲気、というか色。なんとかうまくすり抜けようと試行錯誤したのもいい思い出といえなくもない。今では普通にすたすた歩いてかわしているし。
「あと二戦ほどしたらツスクル回復所に戻るぞ」
「おう! つかさー、どーでもいいけどあの子いつ休んでんのかな? いつ行ってもあそこに立ちんぼじゃん。眠くなったり休みたくなったりしねーのかな?」
「僕たちだってほとんど休んでないじゃん。最近は徹夜とか明け方に戻ってきて一時間だけ休んですぐ出発、なんてのもしょっちゅうだし」
「あー、それもそっかー」
「というか、不気味な気がするな。普通ここまで短い睡眠時間で活動ができるか? ここ一週間というもの俺たちの睡眠時間は合計しても十時間を切っているぞ。それでまるで疲労も眠気もなしに普通に活動できるなんぞ、常識で考えてありえん」
「……それは」
「どうだディックその辺り、医者として」
「そうだな、俺の考えを言わせてもらえば」
 と話しながら歩いていたので右下の水晶の色が赤くなっていたのに気がつかなかった。ざっと音を立てて目の前に唐突に魔物の群れが現れる。敵はポールアニマルが一体、マンドレイクが二体。
「ヴォルク! 左端のポールアニマルに術式! 俺とセディが左、アルバーとセスが右のマンドレイクだ!」
『了解!』
 もはや迷宮に入ってから数え切れないほどの戦闘をこなしてきた、全員ディックが声を飛ばす前から敵に反応して行動し、ディックの声で当然のように目標を修正することもできるようになっている。自分たちは経験値を稼いだ結果のみならず、歴戦のつわものとは言わないまでも一人前の戦士と呼べる能力は身に着けている、とディックは判断していた。
 気合の声と同時に放たれた矢がずこっ、と強烈な勢いでマンドレイクに突き刺さり、セディシュが無言で振るった鞭がその隣の敵を思いきり引っ叩く。「でぃっ!」と思わず漏れる気合の声とともにディックはボーンステッキを振り下ろし、マンドレイクの外殻を中身ごと砕くのとほぼ同時に、アルバーはショートソードでマンドレイクを脳天から割り裂いていた。
 ポールアニマルがこちらに向かい突進してくるのを、アルバーがだっと地面を蹴って正面からレザーシールドで受け止める。セディシュは素早くそのフォローに回る。ディックとセスは攻撃できる位置に回りこむ。だが、攻撃する必要はないだろうと確信していた。
 ピシャァン! と音を立てて中空から雷が落ちてくる。それをポールアニマルはまともに受け、あっさりと倒れた。
「よし、こいつからは伸縮する皮が取れそうだな。そっちはどうだ?」
「うん、こっちからは木片取れる」
「こっち、ツル、取れる」
「よし、上出来だ。アルバー、キュアいるか?」
「へーき。肋骨一、二本折れたくれーだし」
「そうか」
 こういう会話が日常会話になるというのも考えてみたらアレだなぁ、とディックは一瞬遠い目になった。ひとつ間違えば死ぬ戦いのすぐあとでさくさく敵の皮を剥いで、肋骨が折れたというのに治療もしないでそのあともバリバリ戦うというのは人間らしい日常とはいいがたい。
 けどそれがすでに日常なんだもんな、とディックはこっそり嘆息する。実際肋骨の一本や二本程度の怪我ならあと数発喰らうまで死なないからキュアはもったいないと当然のように考えてしまうし、戦闘でちょっと死にかけたくらいでいちいち落ち込んでいては身がもたない。
 なんだか自分の神経がザイルロープのように雑駁になって言ってる気がするなぁ、と視線を動かし、セディシュと目が合ってきょとんと首を傾げられ、小さく苦笑してから目を逸らした。その理由の中にはあいつと寝たことも含まれてるんだろうな、と思うと、なんとなく妙に面白くない気分になったのだ。

「つまりな、世界樹の迷宮に潜っている間は、代謝が止まるんじゃないかと思うんだ」
 長鳴鶏の宿の食堂、ギルドメンバー全員で昼食を取りながら、ディックは話題を提供した。
 宿に泊まったわけではない。ツスクル回復所で回復してから糸で戻ってきて記録しただけだ。
 だが長鳴鶏の宿は冒険者たちから要望があれば厨房を開放してくれる。そして最初の頃の自分たちに対する配給では量も味も物足りないということで、自分たちはもっぱら材料だけをもらって自炊することにしていた。そしてそれがあとを引き、食事時に探索していたメンバーもしていないメンバーも顔を合わせるというのが習慣になっているわけだ。
 計算外だったのは、ディック以外にまともに料理ができる人間がいないということだが。おかげですっかり料理当番になってしまっている。
「たいしゃ? ってむぐ、なんだよんむ」
 がつがつと牛ごぼう飯をかっこみながら首を傾げるアルバー。こいつのリクエストなのだから当然といえば当然だが、こうも勢いよく食べてくれると作りがいがあるのは確かだ。
「ご飯食べてそれがエネルギーになっていらない分を排泄して、っていう体の働きのこと。そのくらい知っときなよ、ほんっともの知らずだねあんた」
 もぐもぐとキャベツとベーコンの重ね煮を食べながら冷たく言うセス。こいつもこれで食う方だ。育ち盛りの人間としてはいい心がけだ、狩人という体が資本の仕事をしていたから食える時に食うという考え方が身についているのかもしれないが。
「正確には代謝とは生体内の物質とエネルギーとの変化の総称だがな。お前のいうような物質交代にともなうエネルギー交代も代謝の定義には含まれる」
 大根のぬか漬けをぽりぽり食べながら言うヴォルク。こいつはなにを作ってもまず漬物やら塩昆布やらちりめん山椒やら、そういうものをまず最初に食べるので作る方としてはものすごく張り合いがない。その分味に文句をつけたこともないが(もっとも今までにディックがギルドメンバーたちに文句をいわれるような料理を作ったことはないのだが)。
「なんだよー、セスだってよく知らないんじゃねーか」
「あんたよりはマシ!」
「まぁ、厳密にいえば、の話だからな。セスの言い方でも間違いではない」
「で、話を元に戻して。代謝がどうかしたんですか?」
 しっかり口の中のものを飲み下して、お茶を啜ってからエアハルトが言う。いいところの家と言ったのは嘘ではないらしく、エアハルトは非常に綺麗な箸の使い方をする。作法も見ていて美しさを感じるほどに端正だ。もちろん口の中にものが入っているのに喋ったりするようなことはしない。
「ああ、つまりな。世界樹の迷宮の中では、肉体の化学反応が止まってる……とまでは言わないが、抑制されてるんじゃないかと思うんだ。その代わりに内外部の恒常性が極端に高められてる」
「ほう。なぜそう思う」
「ひとつには疲労。俺たちは連日連夜ほとんど睡眠時間を取らずに探索三昧してるのに、まるで疲れや眠気を感じないだろう。それどころか空腹すら感じてない。もうひとつには怪我だな。一応血が大量に出る怪我とかには応急手当をしてはいるが、普通なら手術が必要な怪我とかだって今までには何度かあった。なのに大量出血で倒れるどころかふらつくことさえなく、全員元気に行動して戦えている。尋常じゃない力が働いていると考える方が自然だろう?」
「ふむ……それも世界樹の迷宮の特殊な力、謎のひとつというわけか」
「ああ。研究に値する謎ではあるが……こんなことを可能にする力がいったいどんなものなのかは正直見当もつかないからな。世界中の研究機関がこぞって研究したところで、解明されるかどうかすら怪しい」
「うううう……お前らなに言ってんのか全然わかんねー……」
「同感」
 スヴェンが苦笑して副菜の蒸しカボチャごま風味を口の中に放り込む。こいつはすごく周囲に溶け込みやすいというか、いつの間にかやってきていつの間にか食べ終えているということが多い。だが食後にしっかり味の感想を言ってくれるので、台所の担い手としては嬉しい相手と言えた。
「まぁ、別にわかる必要もないさ。目下の懸案にはなんら関与しない問題だし。単に飯時の話の種にと思っただけだからな」
「だったらもっとご飯がおいしくなるような話題選んでよ」
「? 飯時の話題としては普通だろ? 現在の問題とは関係ない研究課題ってのは」
 思わず目をぱちくりさせて言うと、ヴォルクとセディシュ以外の全員がげっそりした顔をした。
「マジかよー……どーいう生活してたんだ」
「その年でお医者になるって大変なんだなぁ……」
「一緒にいてすごく疲れる相手だね、ディックって」
「……そうか?」
「まぁ、研究者の思考というのは素人には理解されにくいものだ」
「そーいう問題……」
 と、かたん、と箸を置く音がした。見ると、セディシュが真剣そのものな、厳かとすらいえそうな顔で食事を終えて手を合わせている。
「ごちそうさまでした」
「はい、おそまつさま。味はどうだった?」
 セディシュはじっとディックを見て重々しくうなずく。
「すごく、おいしかった。今日も」
「そりゃどうも」
 こういう奴も珍しいよな、と内心ディックは苦笑した。セディシュはいつも食事中は一心不乱に、わき目も振らず食事に集中する。早食いというわけではなく、むしろ非常によく噛んで味わって食べているのだが、それが食事を楽しむというよりは真剣勝負でもするような厳しい顔つきなのだ。
 そのくせ食後に味を訊ねると真剣にすごくおいしかった、と言うしどれが特にうまかったか、となどのようなことについては饒舌だし、味わって食べてはいるらしい。いうなれば一流の料理人が丹精こめて作った料理を味わう料理記者のような雰囲気なのだ。こんなごく普通の家庭料理に。
 なにもそんなに珍しい料理じゃあるまいに、と苦笑してから、こいつには――五年間肉奴隷をやっていたっていうこいつにとっては本当に真剣に味わわなければもったいないくらい珍しいものなのかも、という思考がふいによぎり、ディックは内心舌打ちして小さく首を振った。そんなことを考える必要はない。考えたくはない。
「……さて。食事中の軽い話題も終わったところで、お話したいことがあるんですが」
 すっ、とエアハルトが真剣な顔で手を上げる。きたな、そろそろだと思っていた、などと考えつつディックはお茶を啜ってそちらに向き直った。
「なんだ?」
「そろそろ僕たちも、またちゃんとした探索に参加させてもらいたいんですが」
『…………』
 スヴェンは苦笑し、セディシュはきょとんと首を傾げ、それ以外の面々は気まずげな顔を見合わせた。
 ここのところエアハルトとスヴェンはほとんど日課の伐採にしか行っていない。採集系ということで割り切れるだけの大人であるスヴェンはともかく、まだ若く、そしてそれなりに自分の能力に恃むところのあるエアハルトとしては面白くないのも当然だろう。
 それを理解しつつも、迷宮の先に進むのが面白くなってきたためについついその気持ちを無視してここまで来てしまった面々としては、気まずげな顔になるのも当然というもので。
「そりゃ、僕だって自分のわがままで迷宮踏破を遅らせようなんて考えてるわけじゃありませんけど、ディックさんは最初に言ってましたよね? 僕たちにはそれぞれに役割があって、必要になる時が必ず来るって。だから、僕だってその来るべき日のために自分を鍛えていなくちゃならない。そのためには実戦の勘を鈍らせるのは絶対にいい結果に繋がらないと思うわけですよ」
 真剣そのものという顔で何度も周囲を見回しながら言うエアハルト。おそらくこいつなりにしっかりと考えた上で不退転の覚悟で挑んできているのだろう。理論武装もしているようだし。
 なので、あっさりとディックはうなずいた。
「そうだな。そろそろまた潜ってもいい頃だろう」
「……えっ」
「決を採るか。エアハルトたちを探索に連れて行くべきだと思う奴、挙手」
「え、たちって、俺も!?」
「嫌なら別に置いていってもいいが、次の一回はつきあってもらうぞ。三階に採取と採掘ができるポイントがあるって言っただろう。そこで採集をするつもりだから」
「え、う、それはかまわないけど……」
「なに? 兄貴、まさか一生一階で伐採だけしてりゃいいとか思ってたわけ?」
「そ、そうじゃないけどさ! 急だったから驚いたっていうか……」
『それに、なんか嫌な予感がするんだよな……』と小声で呟きはしたが、スヴェンはすぐに笑顔になってこちらを向いた。
「わかった、俺の方はいつでもいいよ。まだ採取と採掘はろくにレベルが上がってないから大して取れないとは思うけど」
「まぁ、そこらへんのレベル上げも兼ねて、だな。で、もう一度聞くぞ。エアハルトたちを探索に連れて行くべきだと思う奴、挙手」
 全員揃って手を上げる。エアハルトは目をぱちぱちとさせていたが、アルバーに「頑張れよー」と背中を小突かれるとはっとして、勢い込んでうなずいた。
「はい! 頑張ります!」
「っつってもそのレベルじゃしばらく戦力にはならないだろうけど」
「うぐ」
「セスっ!」
「なに、兄貴。別に僕間違ったこと言ってないと思うけど?」
 またにぎやかに盛り上がる席の雰囲気を尻目に、ディックはふぅ、と息をついた。とりあえず、予想の範囲内に収まった。
 エアハルトが言い出さずともディックとしてはエアハルトたちをそろそろ探索に連れて行くつもりだった。そろそろ不満が高まっている頃だろうと思ったのだ。他のメンバーたちにもあらかじめ根回しをしてある。
 ただ問題は、それでもやっぱり基本はメダソアレの五人を変えるつもりはないということなのだ。今の五人は実際バランスがいいし、『パラディンは劣化メディック』という言葉がディックの中には深く刻まれている。
 かといってエアハルトを手放すわけにもいかない。パラディンは最終的には絶対必要になるはずだし、こんな初期にメンバーから脱退者が出たら士気も下がる。なので騙し騙しエアハルトたちと共にやっていくしかない。
 今に始まったことじゃないが、ギルドを率いるというのはやはりそれなりに苦労もあるものだ。そんなことを考え、その思考がひどく傲慢な気がして自己嫌悪を感じ、感じた自分に少し驚いて、微妙にテーブルから視線を逸らすとセディシュと目が合った。セディシュは食事を終え、いつも通りのきょとんとした赤ん坊のような顔つきでこちらを見て、わずかに首を傾げる。
 その顔がなにくだらないこと気にしてるの? と言っているような気がして、ディックは苦笑した。そう、今はそんなことを気にするよりも、やることがある。

「ふぅ……久々の実戦って、やっぱり稽古とは違いますね」
 エアハルトがショートソードを振り切った体勢のまま息をついて言う。アルバーがははっと笑ってばんばんと肩を叩いた。
「そりゃそーだろー。実戦っつーのはやっぱ勢いが大事だからな。そこらへんの流れとかを読む勘はやっぱ実戦経験積まねーと身につかねーよ」
「そうですよね……これからもきちんとそういう経験を積めればいいんですけど」
 しっかりちくりと棘を刺すあたり、こいつはやっぱりただのよい子ではない。だがそこらへんを責められてもディックとしては答えようがないので、素材剥ぎに集中している振りをしてごまかした。
「僕、二階に下りるのも初めてなんですよね。一階とすごく違う、という感じはしないですけど」
「三階に下りると一気に変わるぜー。一、二階にいた奴全然出てこなくなるし」
「ぐっと、強くなる」
「へぇ……具体的に言うとどのくらいですか?」
「フィンドホーンぐらいのが、普通になる」
「四階には術式じゃねぇと倒すのにすんげー苦労する羽ばたきカブトとか出てくるしなー。見た目ははさみカブトの赤バージョンなんだけど」
 などと話しつつ全員揃って三階に下りる。毎度お馴染みのあからさまに強そうな色のFOEの球体が微妙な距離にたたずんでいるのを見て、エアハルトはきゅっと唇を噛んだ。
「確かに強そうな雰囲気ですね……」
「うん、最初に来た時は俺もしょーじきビビった。なんかあからさまに殺気すげぇんだもん。迫力だけで戦う気くじかれちまった。でもさ、俺らももうかなり強くなったしさ、今ならもーいけんじゃね? って言ってんだけどさー」
「まぁ、確かに大丈夫かもな、とは思うんだが……」
 もうひとつのところで思いきれないのだ。あれだけあからさまに強かったカマキリと、まともにぶつかって果たして勝てるのか。
 ぶつかって勝てないと悟ってからでは遅いのだ。命はひとつきり、パーティメンバーが生き残っていれば蘇生はできるにしろ、全滅したらやり直しはもう二度とできないのだから。
 緊張した様子のエアハルトをアルバーがセディシュとお喋りしたりしながらぐいぐい引っ張っていく。もうすでに片手に余るほど繰り返した道筋だ、戸惑いはない。
 ふと、ディックはスヴェンがひどく険しい顔をしているのに気がついた。わずかに歩みを遅くし、そばに寄って訊ねる。
「どうした。なにか心配事でもあるのか?」
「……いや。心配事、っていうか」
「なんだ」
「いや……いいんだ、なんでもない。ただ単に悪い予感がするだけなんだ。俺のこの手の予感は大抵外れるし」
「ふぅん……ならいいが」
 ディックは軽く肩をすくめて歩みの速さを元に戻した。予感というのは意識化できない情報が意識下から警鐘を鳴らしている場合もあるから軽視はできないが、今の状況でなにか警戒すべきことがあるわけでもない。
 階段を下りてから、三マス。カマキリがぴたりと足を止める。ここから四マス目ごとに同様に足を止めるのを繰り返すのだ。なのでまっすぐ扉の方に近づいていけばあっさり抜けられる。
 どうでもいいけどFOEってなんでこっちの動きに対応して動くんだろうな、こっちが動かないと絶対に動かないってのはどういうわけなんだか、そのくせ足を止めて戦ってる時にはものすごい速さで動くし、などと考えながら歩を進めていると、ざっと音がして魔物たちが現れた。
「出やがったなっ!」
 アルバーが嬉しげに叫んで剣を振りかぶる。セディシュが即座に突撃して鞭を振るう。ディックもそれに続こうとして、脳内の下方に展開された地図の状態に気付いてさっと血の気を引かせた。
 まずい。これじゃ。
 そんなことを考えている間にもスヴェンが弓を撃つ。そうだ考えてる場合じゃない、1ターンで全員倒せれば、そう必死に自分を叱咤してボーンステッキを振るう、だが物理攻撃に対して耐性を持つポールアニマルは倒れてはくれなかった。エアハルトが後ろから剣を振るうが、そんな程度の攻撃で三階の魔物が倒れるはずがない。
 ターンが過ぎて、数字が変わる。2ターン目。今回もセディシュが真っ先に鞭を振るい、アルバーも雄叫びを上げながら剣を振り回し、魔物は全員倒れた。
 だが。
「よーっし、じゃー素材集めっか! お、こっち伸縮する皮取れそう!」
「こっちは、柔らかい皮しか、駄目っぽい」
「はー、本当に一気にタフになりますねー」
 年少組がのんきに話をしながら素材集めをしている。その横でディックはばっと地図を取り出し必死に状況を確認していた。脳内に展開されているものと同じだとはわかっていたけれど。なんとか逃れる方法はないか、脱出はできないか、脳細胞を必死に動かして考える。
 答え。不可能。
 その結論に行き着いた時、ディックは思わず顔面蒼白になった。
「……なぁ」
 スヴェンがおずおずと、だが緊張感に満ちた声を上げる。
「あの……FOE、だっけ? 距離、近くないか?」
「え?」
 アルバーがきょとんとした声を上げる。セディシュが同様にきょとんと首を傾げる。エアハルトが眉を寄せよくわからない、という顔をする。
 その顔を見ていたら、もうたまらなくなった。
「行くぞ!」
「え、ちょ」
 もう小走りになって歩を進める。もしかしたらなんとかなるんじゃないか。なにか助けが用意されてはいないか。自分が計算違いをしていて本当はうまく抜け出せるんじゃないか。そう必死に自分に言い聞かせ。
 当然、そんなことはなく。
「………! FOE、こっち来た!」
「……ぶつか……」
 ざっ、と音が立った、と同時にFOE戦に入った。
 赤い球体が変化して、人間の倍以上の大きさの巨大なカマキリに変わる。無脊椎動物がこんなに大きくなることはありえないのに。こちらを見つめる感情など微塵も感じられない複眼。背中の巨大な四枚羽根。鉄色に鈍く光る両前足の巨大な鎌。
 初心者殺しのFOE、全てを刈る影。
「うわ……なんかあからさまに強そー」
「すごい。ちょっと」
「今まで避けるだけのことはある、って感じですね……」
「くそ……どうする!? ディック!」
「どうするもこうするもっ……」
 ぎりっ、と奥歯を噛み締め、ばっと薬の入った試験管を取り出し怒鳴る。
「全力で戦うしかないだろう!」
「上等っ!」
 アルバーが嬉しげに叫んで突撃する。セディシュも鞭を素早く相手の腕に振り下ろした。スヴェンは弓を撃ち、エアハルトが警戒しつつも剣を振りかざす。
 医術防御用の薬品を準備しながらディックはほぞを噛んでいた。くそ、くそ、くそ! どうしてよりによってこんな時に! せめてヴォルクとセスが一緒だったなら! 水晶球をもっとちゃんと見ていれば!
 たらればを言うな! 悔やんでいる暇があったら行動だ! そう自分を心の中で怒鳴りつけ、ディックは精神を集中した。医術防御用の薬品は効果を発動させるのに時間がかかる。エリアキュア同様仲間たちに噴霧する吸入薬なのだが、発動には他のスキル同様精神を集中させスキルを立ち上げることが必要で、スキルの中でも特にその過程が重たいのだ。
 カマキリが無造作に鎌を振り上げ、振り下ろす。ざごっ、と音がして、果物かなにかのようにセディシュの頭蓋が割り裂かれた。脳漿交じりの血がぶしゅっ、と流れだし、セディシュの体が棒のようにばったりと倒れる。
「……っ!」
「セディシュっ!」
 アルバーが剣を振り回しつつも驚愕の声を上げる。これまでの敵とは比べ物にならない圧倒的なパワー。医術防御なしならば、一発で沈むのだと全員が認識した。
 ぐ、と拳を握り締め、スキルを発動させる。全員の防御力が上がった。セディシュをのぞいて。セディシュは脳漿を撒き散らしながら目の前に倒れたままだ。
「エアハルト! セディにネクタル!」
「は、はいっ!」
 慌てて道具袋からネクタルを取り出し、セディシュに駆け寄るエアハルト。冒険者ギルドのメンバーに配布される道具袋はすべて空間を共有しており探す必要もなく自由に物を取り出せる、つまり誰でも保管してある道具を自在に使えることをこれだけありがたいと思ったことはない。
 ディックはエリアキュアの準備に入った。エリアキュアはそれなりに発動が重い方なので、七三でセディシュの復活後になる。それまでにはたぶん敵は攻撃をしてくるはず。
 その目論見は当たって、全てを刈る影はざざざ、と草むらを移動し、自分に鎌を振り下ろしてきた。ずばっ! と音がしたかと思うほど、ディックの肩から腹にかけてがずっぱり斬り裂かれ、血が噴き出す。たぶん、いや間違いなく肩の骨が折れた。
「くぅ……っ!」
 痛みを堪えてエリアキュア。その直前にセディシュの頭が時間を巻き戻したように元に戻り、体もぴょんと飛び起き立ち上がった。よし、ナイスタイミング! とほっとして、素早く次の医術防御の準備に入る。今のままではセディシュに攻撃が来たらまた同じことの繰り返しだ。
 医術防御をかけて、またエリアキュアの準備に入る。医術防御があればとりあえず一撃で死ぬことはない、とわかった。ならば医術防御を切らさないようにしてこまめに回復すれば、なんとかなる。なんとかしてみせる!
 全員全力で攻撃を仕掛けている全てを刈る影をぎっと睨んで、気付いた。HPゲージが、ろくに減っていない。
 ざっ、と思わず血の気が引く。これまでも何度も引かせてきたが。
 気がついてみれば、ダメージがまともに入る攻撃がセディシュのアームボンテージぐらいしかない。アルバーの攻撃はぐっと通りにくくなっているし、後列の攻撃なんて雀の涙だ。
 アルバーはまだチェイスファイアを覚えたばかり、自力で出せる攻撃スキルは持っていない。後列の二人は言わずもがなだ。そしてディックのTPは、まだまだ決して豊富とはいえない。このままでは。このままでは。
 全滅、する?
「冗談じゃ、ないっ……!」
 ぎりっ、とまた思いきり奥歯を噛み締め、ディックはカマキリに殴りかかった。なんとかする。してみせる! なんとかならないことはないはずだ、だって、自分も、仲間たちも、今まで全力で戦ってきたんだから!
 ディックの攻撃は少しは通ったが、それでも決定的なダメージ源にはならなかった。少しずつ、少しずつ全員の顔に焦りの色が浮かぶ。セディシュはなにを考えているのか、いつも通りに淡々と鞭を振るうだけだったが。
「こんの、やろぉっ!」
 アルバーが雄叫びを上げて斬りつける。全てを刈る影は気にした様子もなく、ずばっと鎌を振るいアルバーの腕を斬り裂いた。
「っ!」
 セディシュが鞭を振るう。敵の腕の機能を麻痺させることはできたようだが、まだまだHPは残っている。
 医術防御と回復と攻撃を繰り返す。必死だった。これまでで一番必死だったかもしれないほど。だってここで敵を倒さなければ、自分たちは、確実に全滅するのだから。
 じり、じり、と敵のHPゲージが減っていく。見た目にもそれなりに傷が増えている。だが、セディシュのTPも、ディックのTPも、どんどん残りが少なくなっている。
「んっ……!」
 後方から投げられたアムリタを飲み干す。もう二本目だ。そして最後だ。それでも医術防御を一回かければおしまい。ディックのTPはもうそれで尽きる。
 全員必死で戦っている。絶望に飲み込まれそうになりながらも、それに抗い奮闘している。
 敵のHPゲージを見る。もう赤い。あと少し。あと少し。そう懸命に唱えながら最後の医術防御をかけた。
 ざしゅっ。上がった防御の上から、全てを刈る影はディックの腹を斬り裂いた。
「エアハルト! メディカ!」
「はいっ!」
 エアハルトがメディカを投げる。メディカも、もうこれで最後。
 だけど、本当にあと少しなんだ。なんとかできる。できなくちゃおかしい。だって自分たちは努力を惜しんでない、それに諦めたことなんか一回もない!
「でぇぃっ!」
 全力でボーンステッキを叩きつける――
 と同時に、全てを刈る影はごく無造作に、セディシュの首を斬り飛ばした。
「………え」
 ぽうん、と体から切り離され宙を飛び、セディシュの頭はころころと転がった。そして偶然ディックの視線と、もうなにも見ていないセディシュの瞳が向き合う。
 セディシュの死に顔はだらしなかった。殺された死体というのはそういうものだ。ぽかんと口を開け、舌を投げ出し、目は白目を向いてだらだら体液を垂れ流している。
 そのあまりに強烈な虚ろに、ディックは一瞬棒立ちになった。
 ざごっ。
「あ」
 アルバーが頭を断ち割られて、倒れた。声も上げずに。脳漿と血を撒き散らしながら。
 全てを刈る影はすいとディックの方を向く。体が動いたのは完全に反射だ。曲がりなりにも二週間冒険者としての生活を続けてきた成果なのだろうか。
 だが、ディックの全力の攻撃を受けても全てを刈る影は倒れず、ひょいと、今まで同様にごく無造作に鎌を振るって、ディックの体を脳天から真っ二つに断ち割った。
 二つに断ち割られた自分の体がゆっくりと別方向に倒れるのを、ディックは遮光カーテンを通したようなぼんやりとした意識で感じた。自分は死んだ。スヴェンとエアハルトで勝てるとは思えない。もう蘇生されることもないだろう。
 自分たちは全滅する。全滅だけは避けると自信たっぷりに言ったのに。容赦なく、意味もなく。油断から。まだ何事も成さないまま、これまで山のようにあっただろう冒険者たち同様のありふれた死に方で。
(嫌だ)
 なぜそんなことを考えたのか。体が真っ二つに断ち割られては、脳の活動もへったくれもないだろうに。魂が考えた? 馬鹿な。
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
 そんなことを考えても意味はないというのに、無駄だというのに、自分が何事も成せなかったのはもはや決まったことなのに、その思考は必死に。
(嫌だ嫌だ嫌だまだなにもやってない始まったばかりなのになにも終わらせてないのにやらなくちゃならないことはいっぱいあるのにこんなところで嫌だ終わりたくない嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
 全身全霊で、すべての終わりを否定した。
(嫌だあああああああああ、ああ、あ、あ………)
 けれど当然、その思考は声にはならず、神経を震わせもせず、何事も成さずただ宙に溶けて消え―――
 ぶちゅんっ。

『ATLUS』
『世界樹の迷宮』
『深き樹海に総ては沈んだ…。』
『罪なき者は、偽りの大地に残され 罪持つ者は、樹海の底に溺れ 罪深き者は、緑の闇に姿を消した。』
『人の子が失ったのは大いなる力 新世界が失ったのは母なる大地』
『真実は失われた大地と共に 深淵の玉座でただ一人 呪われた王だけが知っている。』
『Load Game』

 目の前にいたのは宿屋の糸目だった。
「………え」
 思わずぽかん、と口を開ける。糸目はいつもの笑顔でにこにここちらを見つめている。最近はろくに泊まってもいないというのに愛想のいい人間ではある。
「っそんなことはどうでもいいっ……!」
 ばっ、と周囲を見回す。そこは長鳴鶏の宿だった。いつも通りの宿のフロント。宿帳に糸目。周囲には冒険者たちがいつも通りに声を上げながらうろついている。
 そしていつも通りに自分の後ろで自分を待っているギルドメンバーたち。
「…………」
 ぽかん、と口を開けてメンバーたちを見つめる。メンバーたちは、自分と同様にぽかんと口を開けて見つめ返してきた。
「な……なぁ、俺、夢見てたの、かな? 俺、さっき三階でカマキリと戦って、殺された、と思うん、だけど」
「あ、あんたたち、迷宮に、行ってたはず、だよね?」
 アルバーとセスがまじまじとお互いを見つめる。ヴォルクも明らかに愕然と目を見開き、スヴェンもエアハルトも呆然とし、セディシュも目をぱちぱちさせて首を傾げている。
「これは……いったい」
「おいあんたら、邪魔だよ。用が済んだんならどいてくれ」
「あ……失礼」
 まだ呆然とした顔のままディックは場所を空け、ギルドメンバーたちを見回す。それぞれ呆然とした顔でこちらを見返してくる。ディックは自分の脳味噌に冷静に思考しろ、と指令を出し、三十秒ほどかけて結論にたどり着いた。
「これは……時間が戻った、ってこと、なのかな」
 考え考え言うと、セディシュ以外の全員がぽかんと口を開けた。
「時間が……? なんだそれは、そんなことが起こり得るのか?」
「本当にそういう現象なのかはわからない。俺たちは単に死後夢を見てるのかもしれないし、再生されてこういう状況に放り込まれたのかもしれない、それとも別次元に転送されたのかも。だが……状況からして時間……というか、状況が俺たちが今日迷宮に潜る前に巻き戻ったと考えるのが一番無理がないんだ」
『…………』
「どうして……と聞いても無駄だろうな」
「ああ……たぶん世界樹の迷宮の力だろう、ぐらいしか俺にだって言えることはない。こんな現象が起きるなんて俺はこれまで噂にすら聞いたことがないがな。ただでさえここまで常識を外れた迷宮ならば、もしや、と思えるぐらいだ」
『…………』
 考え込むディックとヴォルクに、アルバーがもう立ち直ったのか明るい笑顔で言った。
「まーいーじゃん、細かいことは! どっちにしろ俺ら助かったんだからさ! これでまた迷宮探索ができるんだぜ、ラッキーじゃん!」
「それも……そうですね、理由をいちいち考えていても始まりませんし。僕たちは研究者じゃないんですから」
「まぁ……九死に一生を得たことは確かだし。とりあえず助かったことを喜んでもいいかもな」
「そういう問題か?」
「だって、考えたってわかることでもねーだろ?」
「む……」
 確かに、それはそうではあるのだが。
 眉をひそめるディックに、セディシュがとことこと近寄ってきた。顔を向けると、くいくいと裾を引っ張ってぽつんと言う。
「迷宮、潜ろう」
「……は?」
「戻っちゃったから、潜りなおそう」
「………」
 ディックは数瞬呼吸を止めて、それから苦笑してセディシュの頭を撫でた。
「そうだな。そうするか」
「よっしゃー! 今度こそカマキリにリベンジするぜ!」
「カマキリ?」
「あの、三階のFOE……でしたっけ、のことです。すごく強くてさっき全滅しかかって、っていうか本当にしたかもぐらいだったんですけど」
「あ、なぁなぁ、今度はヴォルク来いよ! チェイスファイア試してみてー!」
「む……確かに強敵に俺の術式がどこまで通用するか試してみたくはあるが」
「……じゃ、僕も行った方がいいんじゃないの。全力戦闘だったら僕のアザステ必須でしょ」
「よっしゃ! じゃーいつものメンバーでカマキリ退治といこーぜ! いつものメンバーならぜってー勝てたと思うんだよ!」
「うん。頑張る」
「すいませんね、役に立たなくてね」
「えー気にすんなって、次頑張れよ!」
「すいませんこれ皮肉なんで少しは気にしてもらえます?」
 騒ぐギルドメンバーたちを苦笑しながら眺めて、ディックはこっそりぎゅ、と拳を握り締めた。
 そうだ、自分には迷宮に潜る以外の道はないのだ。あのメッセージが、映像が、自分に届く限り。なんとしても。
 またセディシュの、あの虚ろな顔を見ることになろうとも。
 ぎゅ、と今度は唇を噛み、ディックは一人誓った。
 だけど、死んでも、もうメンバーの誰にも、あんな顔はさせない。

 スノードリフト戦は正直楽勝だった。医術防御10LVは強力だ。アルバーとヴォルクの大爆炎&チェイスファイアもあって、はっきり言ってほとんどHPが減らなかった。
 全てを刈る影にも当然リベンジをした。きっちり全部片付けて素材を得て、財政は一気に豊かになった。
 そして、自分たちは、今第二層に踏み出す。
「いいか、行くぞ?」
 振り向いて声をかけると、アルバーは「おう!」と声を上げ、セスはふんと鼻を鳴らして肩をすくめ、ヴォルクは小さくうなずく。
 そしてセディシュはいつも通りのきょとんとした赤ん坊のような顔で、こっくりとじっとこちらを見つめながらうなずいた。
 その瞳に映る信頼なんだか違うんだかよくわからないものに内心小さく苦笑して、ディックたちは隊列を組み、ゆっくり階段を下りていった。

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