子供は世界を失うか
「早く大人になりたいなぁ……」
 ベッドに寝っ転がっていたナップに、レックスはくすりと笑った。ナップの独り言を聞きとがめたらしい。
「そんなに早く大人になる必要はないと思うよ。子供でいられる時間だって大人の時間同様大切なんだから」
「そんなの、大人の言い草だよ」
 ナップは頬を膨らませる。
「オレは早く大人になりたいの。もっと強くなって、逞しくなって、先生やみんなを守るんだ」
 レックスは苦笑する。
「それはとても大切なことだけど。それだけだったら無理に大人になろうとする必要はないんじゃないかな?」
「……え?」
「大人でも子供でも誰かを守ることはできるよ。事実君は今だってみんなを守ってるじゃないか」
「そ……そりゃ、そりゃそうだけど、でも……大人になったら今よりもっと強くなれるって……」
 レックスは困ったように微笑んだ。
「ナップ……大人は別に強い存在をさすんじゃない。自分が大人だと、一人前だと自信を持てている時、その人は大人だって言えるんだ。自信が持てている方が強いのは確かだけど……大人になったから強いってわけじゃないよ」
「……そうかなぁ……」
「たとえば、俺は自分のことあんまり成熟した大人だとは思えない。まだまだ年に見合わずガキだって思ってる」
 ナップは思わず体を起こして叫ぶ。
「そんなことないよ! 先生はオレのこと、何度も助けてくれたじゃないか……!」
「うん、でもね。俺は子供みたいなわがままばっかり言ってるんだよ。自分の思いを押し通そうとして、周りに迷惑かけて」
 レックスは困ったような笑いを崩さない。
「だからもっと大人にならなくちゃ、割り切らなくちゃって思うんだけど――でも俺は馬鹿なんだな。迷って悩んで、結局割り切れない。俺は君を――」
「……オレを?」
 レックスははっとしたように目を見開いて、ぷるぷると首を振った。
「と、とにかく。俺はもっと大人にならなきゃって思ってはいるんだけどできないから――今は少し開き直ってるんだ」
「え?」
「ガキならガキでいいじゃないかって。ガキだって大人と同じようにいろんな気持ちを感じるんだから。子供の感じた気持ちが大人より軽いってことはない――だから、子供の気持ちは子供の気持ちで大切にしよう、って」
「ふうん……」
「単なる屁理屈って気もするけどね」
 そう言ってレックスは照れくさそうに笑った。

 ナップはじっとレックスを見つめた。レックスはベッドの上で、ただひたすらに前を見ていた。
 動こうともしない、話しかけても反応しない。食事も水分も取ろうとしない――それどころか目は開いているが見てもいないし聞いてもいないように思えた。
「先生……」
 かすれた声で、小さくそう言ったが、その言葉は自分の耳にすら届かなかった。レックスは反応せずに、無表情で微動だにしない。
 だが、ナップにはレックスはひどく悲しそうに見えた。辛くて辛くてたまらない、そう体全体で叫んでいるように見えたのだ。
 ナップは一瞬涙が出そうになったが、唇を噛んでこらえた。そっと部屋を出ると――ナップは走り出す。
(先生。オレ、先生が迷ってるのわかってた)
 ナップは涙をこらえながら走る。
(先生が力で立ち向かうって決めた時、本当はまだ迷ってるのわかってた。でも、先生がオレを、オレたちを守るためにそういう決断したんだってわかってたから、なんにも言えなかった)
 まだ早朝の、誰も起きていない船を飛び出して森の中へ飛び込む。
(だけど先生。先生にそんな覚悟してほしいなんて誰が言った? オレ、先生の剣が砕ける直前になってようやくわかった。オレは、先生に諦めてなんてほしくなかったんだ)
 森の中の道を一心に走る。
(だって諦めたら先生傷つくじゃないか。自分を責めて、これ以上ないってくらい苦しむじゃないか。オレは、そんなの嫌だったんだ! だってオレは――先生を守りたいって、心の底から思うようになったから)
 堪えきれず、涙が一筋こぼれおちた。
(先生知らないだろ。オレ先生のこと好きなんだぜ。大好きなんだぜ。大好きな人が自分のために、自分たちのために傷つくの、喜んで見てられる奴がいるわけないだろ!)
 走りながらごしごしと手の甲で涙を拭う。
(先生言ってたよな? 子供の気持ちも大切だって。オレはガキだし、子供だけど、先生が大切なんだよ! 先生が笑ってられるためなら、オレなんだってする。先生の子供の気持ち、通させてあげたいんだよ! ガキのわがままかもしれないけど、それがオレの今の気持ちの全部――)
 きっと前を見て、全力で走る。
(先生、大好きだ……だから、だから……)
 ぽろりと、また一粒涙が落ちた。
「帰ってきて……」
 呟いたその声は、ナップの耳にも届かないまま森の中にかき消えた。

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