「先生って、泳ぎうまい?」 「うーん、まあ川でよく遊んでたから、下手ではないと思うよ?」 「じゃあさ、オレに泳ぎ教えてくれよ!」 「………え?」 そんな会話があったのが、昨日のこと。 「せんせーっ! 早く来いよーっ!」 「………あぁ、うん、行くよ今行くすぐ行くよ………」 さんさんと降り注ぐ陽光の下、海水に浸かって手を振るナップに、レックスは虚ろな笑みを返した。ナップはレックスが行く前から、海草やら貝殻やらを拾って遊んでいる。 話は単純だった。街育ちでほとんどまともに泳いだことのないナップが、泳ぎを教えてくれとレックスに頼んできたのだ。この島の子供たちはみんな自由自在に泳げるのに、自分だけまともに泳げないのは悔しいと思ったようなのだが。 「……でも、それだったらカイルたちに教わった方がいいんじゃないかな? なんたって海賊なんだから」 「オレの家庭教師はアンタだろ? アンタが教えられること他のやつに聞くことないじゃないか」 「けど、俺は正式に泳ぎを習ったわけじゃないし……」 その言葉に、ナップはきっとレックスを睨む。 「オレは、アンタに教えてもらいたいんだよ! 他のやつじゃ、ヤなんだよ……っ」 途中で言葉の勢いを失い、そっぽを向きながら呟く。 「……嫌なら、別にいいけどさ」 思いもかけないナップの言葉に硬直していたレックスは、ぶんぶか必死に首を振った。 「そんなわけないよっ! ナップがそう言ってくれるなら、俺、いくらでも教えるから……!」 「……ホント?」 おずおずとこちらを見上げてくるナップに、レックスはこくこくうなずいたのだが―― ヤバい。最初からわかっていたことではあるが、この状況はヤバい。 レックスは鼻と口を押さえながらナップを見た。ナップは水泳の授業ということで当然のことながらかなりの軽装――というか半裸だ。ぶっちゃけ下着一枚着けただけで、上半身も太腿もむき出しだ。 ナップは普段から半ズボンだから下半身の露出度はさして変わらないかもしれないが、やはり普段よりかなりギリギリだし、上半身裸というのは肌の露出面積が通常の十倍以上に達する。 それだけでもドキドキものだというのに、上半身が丸見えだということはアレも見えてしまうのである。アレ。そうアレだアレ………乳首である。 琥珀色の手足とうって変わって牛乳のように白い肌に浮かび上がるピンク色の幼い突起を見たときには、レックスは死を覚悟した。 さらにさらに。下着一枚ということは一枚剥げば見えてしまう、ふとした拍子で見えてしまう可能性のある、とってもおいしいいやまずい状況なわけである。―――もしナップの×××が見えてしまった時、自分を抑えきれるだろうか? レックスには一欠片も自信がなかった。 腰周りを重装備にして×××がどうなろうと目立たないようにしてはあるが、ふとした拍子に脱げでもしたら―――考えるだに恐ろしい。 頭の中で妄想を暴走させながら、レックスはナップに近づいた。いかに理性が危うかろうと、気を抜くと不埒な振る舞いをしでかしてしまいそうで恐ろしかろうと、授業は授業だ。きっちり真剣に行わなくてはならない。慣れない海での泳ぎ方も、すでにカイルたちから予習してある。 自分の職務には誠実でありたかったし、なにより――レックスはナップをそんなけしからぬ振る舞いで汚したくはなかったのだ。 この前、初めて心を通じ合わせて、レックスはナップの寂しさを知った。誰かに側にいてほしいと思っていたこと、自分自身を認めてほしかったこと、居場所がほしいと思っていたこと。 そしてそれを与えてくれた自分を(自惚れを極力さっぴいたとしても)慕う気持ち。 それがたまらなく嬉しくて、自分も心からこの生徒のことをいとおしいと思い―― だから手が出せない。 もとから手を出していいなどと思っていたわけではないが、今はそれより先に、自分が絶対にしたくないのだ。 いやしたいかしたくないかと聞かれたら今でもしたかったりはするのだが、それよりももっと強い気持ちで自分はナップを大切にしたいと思っている。 ナップの寂しさを取り除いてあげたい。側にいたい。なにがあっても君の先生だ、と誓ったように自分の力の及ぶ限り導いてあげたい。 決して自分の欲望などのために、穢すことがあってはならないのだ。 ――しかしそれはそれとしてナップを見ると(不純な意味でも)可愛いと思う。どきどきする。しどけない姿でも見せられようものなら本能が爆発しそうになる…… そういうアレな気持ちを抱え込んでいるレックスには、この状況はまさに試練だった。 「……ナップは水が怖かったりしない? 水の中で息を止められる?」 なにはともあれ授業は始まる。レックスもナップの肩ほどまである海水に体を浸して、ナップと向き合い微笑んだ。 こうして体を水で見えなくすれば、興奮もかなり抑えられる。 ナップは不満そうに頬を膨らませた。 「んなのできるに決まってんじゃん。風呂の中でどれくらい息止められるかとかやったことあるもん」 「うーん、それとは少し違う気もするけど……まあ、ナップがそう言うなら実技に移ろうか。まずはバタ足からだね」 「バタ足?」 「そう。こうやって……」 と実際にやってみせる。 「足を上下に動かして前に進むんだ。使わない泳ぎ方もあるけど、速度が出るから普通に泳ぐならこれが基本かな。じゃ、まず俺に掴まってやってみて」 「うん」 ナップと手をしっかり握りあってのバタ足練習。伝わる温もりにちょっぴりほんわーとだらしない顔になりながら勢いよく水を跳ねかすナップに指導する。 「爪先で蹴るんじゃないんだ、腿から動かして。固くならないよう、全身の力を抜いて太腿にだけ力を入れて。剣を使うのと同じ要領だよ。そう、その調子――」 ナップはみるみるうちに要領を飲み込み、快音を響かせ始めた。やっぱり体を動かす基本ができてる子は違うな、と半分手前味噌の賛辞を頭に思い浮かべた時―― レックスはこけた。 「わぷ!?」 ナップが一瞬溺れかけたが、もともとナップでも背の立つところで練習していたのだ。ナップはすぐにすっくと立ってこちらを睨んでくる。 「なんだよ、先生。石にでもつまづいたのか? 気をつけろよな、ったく」 「あはははは……ごめんごめん……」 海水の中から立ち上がり、虚ろな笑いを響かせるレックス。 別につまづいたわけではない。こけた理由は単純。 ナップの尻が見えたからである。 勢いよくバタ足をすることによって、もともとギリギリだった下着の丈がさらに短くなった。下着の裾はまくれ上がり、くい込み――結果、ナップの子供らしいぷりんとした尻が半ばまで露出することになったのである。 『な、な、なんて可愛いお尻なんだっ……ぷりぷりしててつやつやで、まるで桃のよう。食べちゃいたくなるお尻だ、ああかぶりつきたい……はっ! 俺は今なにを考えて!?』 などと一人で悶えながらレックスは鼻を押さえた。思いっきり鼻血が出そうだ。 「どうしたの、先生、鼻打ったの?」 「い……いや、なんでもない、大丈夫……」 怪訝そうなナップには、そう答えるしかできなかった。 「ナ……ナップ、それじゃあ今度は上半身いってみようか……」 「……先生、本当に大丈夫?」 そんなアクシデントもあったものの、一時間も練習すればナップはかなり自由に泳げるようになった。 「な、先生、オレ好きに泳いでもいいだろ!?」 『わくわく』と書いてある目を輝かせながら、レックスにねだるナップ。レックスは苦笑しつつ(ナップの輝いた目にときめきつつ)うなずいた。 「まあ、せっかくだからね。でもあんまり遠くまで行かないようにね」 「わかってるって!」 嬉しげに叫ぶと、ナップはばしゃばしゃ水音をさせながら泳ぎ始める。休憩を挟み挟みやったとはいえ、けっこう疲れてるんじゃないかと思ったのだが。 レックスはいつでも助けに入れるようナップを見守った。万が一足がつりでもしたら大変だ。 だがナップは調子よさそうにどんどん辺りを泳ぎ回る。そしてそのままどんどんと沖のほうへ向かっていってしまう。 そろそろ止めなければ、とレックスが体勢を変えかけた時―― ナップがばしゃりと、まるで落っこちているように水を跳ねかし始めた。 ―――溺れている、と悟った瞬間、心臓が痙攣を起こした。 慌てている、という言葉では言い表せないほどの恐慌と、それを必死に押さえつけるなんとしても急いでナップを助けなくては、という意思の力に動かされ、レックスは懸命に泳いだ。 雑念も、煩悩も、妄想も全て忘れて、とにかくナップの側へと。 ナップの側に寄ると、暴れに暴れているナップに危うく海の中に引きずり込まれかけたが、とにかく必死でナップの体を抱え込んで、浜辺へと引きずるようにして泳ぐ。 浜辺に引きずり上げて、ぐったりとしているナップに、とにかく目を覚まさせなければ、人工呼吸だ、と考えて―― 一瞬こんな形でナップの唇を奪ってしまっていいのか、などという想いがちら、と頭を掠めたが、本当に一瞬で消えた。 ナップを横たわらせると、頭を横にして、鼻を塞ぎ、唇を近づける――こんな時だというのに、本当にこんな時だというのに一瞬胸がときめく――そしてそんな自分が心底情けなかった。 あと少しで唇が触れる。わずかに開いた少し色が薄くなったピンク色のぷっくりとした唇。恐怖かときめきかわからないままとにかく心臓がどうしようもなく早鐘を打ち、手が震え、体中が熱くなり―― そしてナップがぽかりと目を開けた。 「………せんせえ………?」 「…………ナップ…………気がついたのかい。どこか具合の悪いところないかい」 「……どうしてしゃがんでるの……?」 「なんでもないんだ気にしないでくれ」 こんな時だというのに、本当にこんな時だというのにナップの無事を心から喜ぶと同時にちょっぴりキスできなかったな、とか思っている自分がいたりしてそんな自分に心底自己嫌悪なレックスであった。 「頭は痛くないかい。水を飲んだりとかは? 気持ちが悪かったら下を向いて水を吐けるだけ吐いてしまうといい」 「……オレ、溺れちゃったの……?」 「うん、まあね」 「……ちくしょう……うまく泳げるようになったと思ったのに」 「上手に泳いでいたよ。びっくりするぐらい。君が悪いんじゃない、きちんと準備体操をさせておかなかった俺の責任だ。足がつったんだろう?」 「……うん」 「ごめんね。俺がちゃんと教えなかったばっかりに……怖くなかったかい?」 「……平気だよ。先生が、助けてくれたもん」 ナップが弱々しく微笑む。レックスはその微笑みをまともに見ることができず、目を逸らす――とたん、鼻血を吹いた。 「………先生!? どうしたの!?」 「いやっ! ごめん、なんでもないんだ! なんでもゴフッ」 「うわ、口まで血が昇ってきてるって! 本気で大丈夫か!?」 溺れかけて下着が脱げかけ、生クリームのように白いナップの腹の下からわずかにのぞこうとしているナップの×××。がもう少しで見える、でも見えない、見えそうで見えない! ああっこのもどかしいチラリズム! ……というシチュエーションに鼻の粘膜が耐え切れず、ついに臨界点を突破してしまったのだが、そんなことは言えるわけがない。 『俺ってやつは! 俺ってやつはー!』 その後しばらくレックスはナップと顔を合わせられず、ナップにキレられて一方的なケンカの後和解――という段階を踏むことになるのだが、それはまた別の話である。 |