入寮――ナップウィルと出会うのこと

「……ナップ・マルティーニ。君だね? 今年の新入生総代は」
 ドアを開けるなり待ち構えていた少年にそう言われ、ナップは怪訝そうな顔になった。
「そうだけど。お前誰?」
 艶やかな黒髪を少し長めに伸ばした、冷静というか冷たい表情をした少年は肩をすくめて言った。
「ウィル・アルダート。君の同室で、去年の新入生総代だ」

 帝国でも名実共に随一と言われるパスティス軍学校――ナップはそこに、予定通りアドニアス港を出てから半年後に入学した。
 あの島での日々が時間的にはたったの半年にも満たなかったなんて、今考えると夢のようだ。目を閉じる必要もなく、あそこで出会った人たちも島の景色もくっきり思い出せるのに。
 ……それに、レックスとも出会ってからまだ半年しか経っていないなんて、ひどく奇妙なことのようにナップには思えた。
 レックス。父親から初めて話を聞いたときから憧れていた赤毛の軍人さん。
 出会いは自分の先生として。それから島の先生になって。嫉妬して、反発して、それでも優しく抱きしめられて、それがすごく嬉しく思えて。
 気がついたらこの世で一番好きな人になっていた。父親よりも、メイドたちよりも。
 初めて自分のことをちゃんと見つめて、いいことをしたら褒めてくれて悪いことをしたら叱ってくれて、ずっとそばにいて自分の心も体も大切にし続けてくれた人。
 今も会いたい。毎日顔が見たい。
 でも、今レックスはここにはいない。入学式を父兄として参観して、それを最後に別れてしまった。
 それを考えると心の奥がしくりと痛む。先生がいないと考えるとなんだかこの世の全部が冷たいっていうか、よそよそしいものになってしまったように思える。
 ――でも、自分は今はここで頑張らなくちゃいけない。あの時、先生とした約束――それを守りたいから。
 だから、ナップはウィルに話しかけた。
「オレと同室?」
「ああ。去年は一人部屋だったんだけどね。今年は部屋が余っていないから、成績優秀者の特別扱いはなくなったそうだよ」
「へえ。俺を出迎えようとわざわざ待っててくれたわけ?」
「そういうわけじゃない。今年の新入生総代がどのくらいのレベルなのか、早めに見ておこうと思ってね」
 ナップはその値踏みするような言い方にカチンときたが、長いつきあいになる相手だ、こんなことで怒っても仕方がない。気にしないことにして話題を変えた。
「去年の新入生ってことは、一個上?」
「君は今十二歳だろう? じゃあ同い年だよ。ぼくは初等学校から一級上だったから」
「初等学校?」
 ナップがきょとんとした顔をすると、ウィルはふぅ、と呆れたような溜め息をついてみせる。
「そんなことも知らないの。初等学校で優秀な成績を取り飛び級した人間は、十一歳から軍学校の試験を受けられるんだよ」
「あ……思い出した」
 帝国には良家の子女が通う国立の初等学校がいくつか存在する(別に資格審査があるわけではないが、初等教育にまで高い授業料を払おうという人間は富裕階級しかありえない)。そこでは軍学校などと同様飛び級が認められており、何歳であれ卒業した人間は上の専門教育を行う学校にも本来の受験年齢の一歳下から受験が可能なのだ。
 ウィルは冷たい目でナップを見つめ、また肩をすくめた。
「今年の新入生は、よっぽどレベルが低かったんだね」
「なんだとっ!?」
 いきり立つナップに、ウィルは容赦なく続ける。
「自国の教育機関の仕組みなんて軍人としての教育以前の基礎教養だろう。そんなこともそらんじられないでよく入学できたね。どういう教育を受けてきたんだか」
 一瞬言葉を失った後、猛烈に腹が立ってきた。自分の努力が馬鹿にされるのは別にいい、しょうがないから。でも先生が馬鹿にされるというのは許せない。そんなの黙って聞いていられるか!
「じゃあ試してみるか?」
「……試す?」
「オレに問題出してみろよ。軍関係の問題だったらなんでもいいから。もしそれに全部答えられたら、今の言葉取り消して謝れよっ!」
 きっと苛烈な瞳で自分を睨みつけて叫ぶナップに、ウィルはぴくりと眉をうごめかして、冷たい表情を崩さずうなずいた。
「いいだろう。ただし、条件がある」
「条件?」
「僕にも一回交代で質問すること。質問はお互い十回ずつ。僕にはどんな分野の問題でもかまわないよ」
「は?」
 思わずきょとんとするナップ。
「なんで?」
「僕を口ばかりの人間だと思われるのも癪だからね。自分でもわからない質問をしたって誤解されるのも面白くないし」
 冷たい口調で言うウィルに、ナップはむっとして拳を握り締めた。
「それならオレもどんな分野でもいい」
「無理しない方がいいんじゃないのかい?」
「馬鹿にすんな! まぐれで新入生総代になったんじゃないってとこ見せてやる!」
「……へえ。言っておくけど、容赦はしないからね」
 そう言ってウィルはナップを睨みつけた。

「初等召喚術の教本に載っている幻獣界の召喚獣を全部答えて」
「テテ、プニム、タマヒポ、セイレーヌ、ジュラフィム」
 即答したナップに、ウィルは一瞬小さく目を見開いた。だがナップはそれに気づかず、自分からの質問を返す。
「機界の召喚獣ドリトルの召喚術はなにとなにとなんだ?」
「……ドリルブロー、ドリルラッシュ、ドリルブレイカー」
 さらりと答えるウィルに、ナップは奥歯を噛み締めた。確かに、こいつも伊達に飛び級した上新入生総代をやってはいないらしい。
 それからもお互い懸命になって自分の知っている難しい問題をぶつけ合う。
「陸戦隊第六部隊はある特殊な任務を帯びている。その任務とは?」
「十年前の旧王国との大戦の帝国の総指揮官は誰だ?」
「海戦隊が重要な人物を護衛する時の基本配置で隊長はどこに位置する?」
「場所は平原、相手は鶴翼の陣を敷いている。兵数が同じ時帝国の基本陣営でこの陣を打ち破るには?」
 お互い明らかに新入生レベルではない質問をぶつけ合い、相手を打ち負かそうと必死だ。だがどちらもどんな質問にも淀みなく答え、一歩も退こうとしない。
 十問目、最後の質問。ウィルは眉根をぎゅっと寄せてしばらく考えていたが、意を決したように顔をもたげると、口を開く。
「先月末に発布された新しい刑法はどういう内容で、何章の何条?」
「う……!」
 ナップは言葉につまった。先月末――その頃自分はまだあの島にいた。おまけにそんな軍学校に関係ない、細かい法律のことまで勉強しているはずがない。
 だが、どんな分野の問題でもいいと言ったのは他ならぬ自分だ。ナップは力なくうなだれて、答えた。
「……わからない」
 ふぅ、とウィルが息をつく。それには相手を反則技に近い方法で打ち負かしたことによる後ろめたい安堵と自己嫌悪が含まれていたのだが、ナップはそこまでは気がつかない。
 ナップはただ、心底から悔しかった。自分が馬鹿にされるなんてことはどうでもいい。だけど先生が、自分に教えてくれた先生が、自分の未熟のせいで最高の先生だって証明できない、それはものすごく――
 悔しかった。
「………ちくしょぉっ………!」
 涙がこぼれそうになったが、必死に唇を噛んでこらえた。先生とまた会うまでは、絶対に泣かないって決めたんだから。
 絶対。絶対、泣かないって。
 ウィルは涙を堪えるナップをしばしなんと言えばいいのかわからない、という顔で見ていたが、やがてぶっきらぼうに言った。
「君が質問する番だよ」
「……いいよ。もう、オレは一個間違えちゃったんだから」
「そういうわけにはいかない。勝負は勝負だ。この問題で僕が間違えるかもしれないじゃないか」
「別に勝負してたわけじゃ――」
「僕はきちんと決着がついてないのは嫌いなんだ! ちゃんと最後までやってくれ!」
「…………」
 ナップはふぅ、と溜め息をついた。ウィルは一歩も退かない、という顔でこちらを睨みつけている。これはなにか質問しないわけにはいかないだろう。
「……それじゃ、グラヴィスがつけると喜んで威力を増す名前の文字は?」
「え?」
 思いっきり意表を衝かれた、という顔のウィルに、ナップははっと気づいた。こういう知識は一般的には知られていないんだった。
「あ、悪かった、今のなし。えっと、そうだな……」
「ちょっと待ってくれ。僕はそんな話聞いたこともない。君は本当にそんなものがあるってことを知っているのか?」
「う、うん、まあ……」
「…………」
 ウィルは顔を真っ赤にして、ぎゅっと唇を噛むとうつむいた。ナップが怪訝に思って、声をかけようとすると真っ赤な顔のままきっとナップを睨んで叩きつけるように言う。
「一週間だ」
「は?」
「一週間後にはその答えを見つけてみせる。今回は引き分けに終わったけど、次は必ず勝つ!」
「次って……」
 ナップは一瞬唖然として、次の瞬間大声で笑い出した。
 ウィルは顔を真っ赤にしたまま怒鳴る。
「なにがそんなにおかしいんだ!?」
「は、ははっ、だってよ、こんな、別にどーでもいいようなことにそんなにムキになって……」
「君だってさっきはすごく落ち込んでたじゃないか!」
「だって、あれは……」
 先生を馬鹿にされたと思ったから――と言いかけて、気がついた。
 自分にとってそれがすごく重要なことだったように、ウィルにとっては勝負に勝つのが重要なのかもしれない。
 人によって大切なもの、理想とするものは違う――それを自分は知っている。あの島で教わったじゃないか。
 ナップは笑いを収めて、真剣な顔になって言った。
「悪かったよ、笑って。でもな、オレだってお前に馬鹿にされた時、腹立ったんだからな。オレを馬鹿にするのは別にいいけど、先生を馬鹿にするのは許さない」
「先生?」
「オレの先生。オレの一番大切な人」
 そう言ってナップはレックスのことを思い出し、にこっと嬉しげに笑う。
 ウィルは落ち着いてきた顔をまた少し赤らめて、うつむいた。
「僕は別に君の先生を馬鹿にしたつもりはなかったけど……悪かった。さっきの言葉は取り消すよ」
「うん」
「新入生総代がまぐれじゃないってことも、よくわかったしね」
「だろ?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべるナップに、ウィルは一瞬笑いかけて、はっと気づいたようにすぐ冷たい表情に戻って言う。
「でも、言っておくけど僕は今年三年だからね。この学校に入ってからも一年飛び級してるんだ。君が飛び級してもすぐには追いつけないよ」
「上等じゃん。言っとくけどオレ、めちゃめちゃ勉強頑張るつもりだからな。油断してたら、抜くぜっ」
 そう言ってぐっと拳を突き出す。ウィルは「できるものなら、どうぞ」と言って肩をすくめた。
 ナップはにやりと笑って、すっと手を突き出した。
「……? なに?」
「握手だよ、握手。これから一年間同室なんだろ? これからよろしくの握手!」
「…………」
 ウィルは一瞬微笑めいたものを唇の端に浮かべかけると、ナップの手を取った。
「一年間よろしく、ナップ」
「よろしくな、ウィル!」

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