日本映画「魍魎の匣」を見た。言わずと知れた京極夏彦の最高傑作の映画化である。監督は原田眞人。
とにかく京極夏彦の小説は分厚い。あれだけの超絶的な伏線の多い長い物語をどうやって二時間そこそこの映画にまとめるかが京極夏彦の映画化の焦点となるわけだが、いやはや、これはよくまとめたな! 原田眞人さんがどこかの文章で、伏線のいくつかはバッサリ切り捨て、残った伏線を「パルプ・フィクション」のように束ねて順番に並べたらこの長い物語もまとめることは可能だ、みたいなことを言っていたが、なるほど、それは見事に成功している。しかし、残念ながらまだまとめ方が足りない。この方法ならもうちょっとスッキリまとめられる。方法論は合ってるのだから、もう少し伏線を削ってくれたら、前半の慌ただしい駆け足の部分もすっきりしてもっと解りやすくなったんじゃなかろうか。
問題は人間の演出である。いや、もう完璧なまでにとてもうまいのだが、説明臭い過程を嫌うあまりか、ことごとく「人間」を演出することにこだわりすぎていて、ちゃんと説明しなければならないところがわかりにくくなってしまっているのだ。
もちろん映画は映像で表現するもので、説明臭い描写は基本的にはやってはいけない。しかし、例えば推理ものの謎解きの部分などでちゃんと説明するべきところは、しっかり登場人物の口を借りて説明するべきだというのが俺の持論である。これは説明するためにリアリティを捨てろということではない。誰だって何か問題を解決に向けて話し合うために事情を伝えるときは、しっかり理解させる意志をもって話すであろう。
例えば榎木津と関口と敦子と木場が初めて京極堂の座敷に集まって事件のあらましを話し合うシーンなど、人間の演出が不必要に介入するため、恐らく原作を未読の人にはストーリーを追うのが困難になるほどわけのわからないセリフのやり取りになってしまっている。説明が必要なシーン以外でも、余計な人間の演出はそこかしこ目障りに挿入され、特に京極堂が御箱様の教団に乗り込むシーンの「チャップリンもフラメンコも、起源は陰陽道」などというまったく意味のないバカバカしいセリフは聞いてて恥ずかしくなった。
とにかくこの映画、せっかく京極夏彦の大長編をよくまとめてあるし、映像も完成度高いし、人間も大方おもしろく描けてるのに、ところどころにある余計な人間の演出がくだらないのだ。最後の京極堂が宙ぶらりんになって「やっぱりダメかぁ〜〜〜」と叫ぶシーンなど、やりたいことはわかるし、うまいと思うが、やっぱり余計なのだ。
原田眞人さんの映画は高校のときにいくつか見たが、「ウインディー」にしても「おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!」にしても、うまいのにおもしろくない映画を撮る人、という印象があった。「うまいけどおもしろくない」というのは「うまいだけでおもしろくない」ということで、つまりはテクニックに頼りすぎているということだと思う。人間の演出もテクニックから自動的に挿入された映像のオカズのようなもので、そこだけ見るとおもしろいのだが、映画の中心にしっかり根をおろしておらず、白けるだけなのだ。
まるでキレイに着飾ったドレスに、カレーうどんを食べた後のカレーのシミが点々とついてしまっているような映画であった。キレイなドレスなのに、なんでカレーうどんなんて食べるんだよ……カレーうどん自体はうまいんだけど……そんな映画なのだ。
俺はこの映画はとても好きだ。だから余計、残念なのである。