アイノカタチ
白楽天:作

■ 2章「調教開始」3

「ふぅ……」
(今日はいろいろなことがあったなぁ)
佳奈は家に帰るとリビングのソファにそのまま倒れこむようにして腰を落とした。

都内のマンション、といってもそこまで立派なものではない。
だが今の生活からすれば2LDKといえど、佳奈1人で生活するには大きすぎるものではある。
今は亡き父が購入した部屋は、佳奈も1日の大半を学校かルノワールで過ごすため以前のような生活感や人の存在をほとんど残さず、深く影を落としているかのようだった。
ただいまと言っても返事が返ってこず、自分がおかえりと言う機会もない。
自分しかいないことは分かっていながらそれでも佳奈は帰宅時には玄関先でただいまと口にするのをやめなかったし、やめることもできなかった。
毎日父の仏壇の前で手を合わせ、そして冷蔵庫の中の食材と相談して1人前の夕食を適当に用意する。
それが佳奈の日常だった。

やがてノロノロと腰を上げ父の遺影に手を合わせ、夕食を作る気力が湧かなかったため帰宅途中に買ったコンビニの弁当を手にとる。
いただきますと1人で小さく呟き、ゆっくりと箸をつけながら、再び数時間前の出来事を思い返す。


「それで……佳奈、明日一緒に出かけないか?」
章介の申し出はあまりにも突然で、まだ覚醒しきっておらず、“心の奥底で期待していたこと”が中断され揺らいでいた思考では、すぐに返事をすることができなかった。
「佳奈?」
あまりにもぼんやりとしている佳奈を章介は不審に感じたのか、声をかけて返事を促す。
「あ、はい。」
「明日、大丈夫?」
「大丈夫です……行きます。」
佳奈は上半身だけを起こし左手でシーツを手繰り寄せ身体を隠しながら応えた。
何故か断ってはいけない様な、変な義務のようなものを感じてしまう。
確かに明日は日曜日で学校もないし、ルノワールの仕事も休みを貰っているから問題はない。
「そうか。よかった。」
章介はその言葉に素直に喜び、そして何かを思い出したかのようにリツコにメモとペンを借りるとサラサラと何かを書き終えると、それを佳奈の右手に握らせた。
「俺の連絡先だ。」
「明日の12時にルノワールの前に。いいかい?」
テキパキとやる事を終えて話をまとめていくと、じゃあ明日と佳奈にそっと口付けて部屋を出て行く。
佳奈は渡されたメモと章介の顔を交互に見ながら頷くことしかできなかった。


「明日かぁ……」
箸を置き、ぼんやりと天井のほうに目線を向け、ゴソゴソとジーンズのポケットからメモを取り出した。
丸山章介
090−○○○−○○○○
○○○○○@××.ne.jp
途端に今日の一連の出来事が再びフラッシュバックし、自分で恋人になることを承諾はしたものの、初対面だった章介とリツコにあれほどの痴態を見せてしまったことが恥ずかしくてたまらなくなって膝を抱えて顔を伏せた。
(あぁ……私…なんていやらしい……)

章介が帰った後、火照る身体を宥めるようにリツコがいろいろなことを話した。
リツコの知る章介のことや他愛もないこと、佳奈が休みの日に来た変な客のこと、そして今日のこと。
女の身体は元々男性を受け入れるようになっているのだから、不感症じゃない限り仕方のないことだ、恥ずかしがらなくていいとリツコは佳奈を優しく抱きしめ慰めた。
佳奈にはそれがどうしようもない事だとわかってはいたし、リツコの温かさが嬉しくてますます切ない気持ちになってしまい、しばらくの間涙を止めることができなかった。
そして気の済むまで泣き、火照りが収まった後、リツコにお礼と謝罪をしてから帰ってきた。

「佳奈ちゃんが想像してただろうこととか恋愛ドラマのようなものと大分違うけど……」
「章ちゃんが気になるなら、佳奈ちゃんもそれに応えてあげないと。」
「いやらしいとか自分を責めちゃダメよ。皆そうなんだから。」
リツコの温かい言葉が、今日の自分を少しだけでも正当化してくれるような気がする。
(いやらしいって責めるなって言われたって……あんなに恥ずかしいこと……)
その羞恥心の一方で、リツコの言うとおり章介の存在は気になるものではあった。
恥ずかしい、怖いと思うと同時に、章介にならと心のどこかで委ねていたのも事実だと今ならはっきりわかる。
「………………好きなのかな……章介さんのこと……」
自分の本当の気持ちですら定かでない。それを朧げにしてしまうような強烈な体験をしたから。
「章介さんに応えなきゃ……かぁ……」
佳奈は帰宅時から隣に放ったままのバッグからケータイを取り出すとメモに書かれている番号を打った。

■つづき

■目次

■メニュー

■作者別


おすすめの100冊