ボヘミアの深い森
横尾茂明:作
■ 国境2
男にとって検査員のルドルフは大の苦手であった。
以前、荷の数量が証券記載量より少し多かった事があり、係官のルドルフが「来い!」と大声を発した際、いつものように用意していた袖の下を渡したが…これがいけなかった。
「貴様! 何をするか!」
即座に胸ぐらを掴まれ検査小屋に引きずり込まれた。
社会主義チェコスロバキアの検問で日常化してた賄賂がこのルドルフという潔癖男には通用せず却って怒りを買ってしまったのだ。
小屋に引きずり込まれ警棒で数カ所殴られもう少しでプラハに連行されるところを所長の口利きで何とか免れることが出来たのを昨日のように記憶している。
それ以来ルドルフは男のトラックを見付けると車体の床下まで異常と思えるほど検査を徹底するようになったのだ。
男は書類審査を済ませ胸を撫で下ろして小屋を出る、後は型どおりの荷の検査だけである。
トラックの後ろに回り扉を開いた、顔に笑みがこぼれる。
先程までの緊張は完全に消えていた。
その時、小屋横から男二人がこちらに向かって歩いてくる。
薄暗がりで男達の顔はよく見えないが…腰に下げたホルスターで検査員であることは分かった。
(おっ、来た来た…ガキが目を覚ます前に早くかたづけてくれよ)
男はトラック内がよく見えるよう荷台灯を点けて待った。
後ろから足音が聞こえる…男は振り返った。
(………………)
(ル…ルドルフ…)
男は硬直した…まるで亡霊を見るように顔色はみるみる青ざめていく。
「よーおっさん、こんな時間に国境越えかい、俺がいちゃー悪かったみてーだなー、そのツラは」
「……………………」
「この野郎、俺を亡霊でも見るような目をすんじゃねー!」
ルドルフは底意地悪く男の目をのぞき込む。
「今日は変な物を持ち込んでねーよなー」
「オッサンが今日最後の通関だから丁寧に見てやんぜ!」
言うとルドルフは男から荷証明を引ったくり、肩を突き飛ばすように押しのけるとトラックの荷台に飛び乗った。
男の震えは頂点に達する、目の前は白く濁り小便が洩れそうに無様なまでに震えた。
(逃げなければ…)
辺りにせわしなく目を配る…しかし周りは鉄条網で仕切られ後方のゲートもいつしか閉じられていた。
そのときもう一人の係員が後ろから男の肩を叩いた。
「ヒェー…」
思わず悲鳴が口をついて出てしまう。
「おっさん…何をそんなに怯えてんだね」
「ルドルフがそんなに怖いのか、クククッ無理もねーわなー」
「……………」
「おっさんも今日は運が悪いねー、交代員が遅刻しててルドルフの奴…相当頭に血が上ってるからねー」
トラックの荷の検査が終われば運転室内から車輪周りまでも徹底的に検査されることはみえていた…。
男は観念するしかなかった。
ルドルフでなければ通り一遍の検査で運転室まで検査することは無いのだ。
恐怖に小便が少し洩れ、忘我の中で股間が冷えるのを感じた。
その時、小屋から二人の男が走り出てくるのが目端に映った。
「悪い!、遅刻しちまったぜー」
「ルドルフ…交代だ!」
言うと男の一人が荷台に軽々と飛び乗った。
「ルドルフ、出かけに車が故障しちまってなー」
「ユークに家まで迎えに来て貰ったんだ、なっユーク」
「さー代わるから、もう帰れよ」
男はルドルフから荷証明を受け取り肩を押しやった。
「何だその態度は! 貴様の言い訳なんぞもう聞き飽きたぜ」
「ちょっとばかり所長の受けが良いからって大きなツラしやがって! この野郎」
ルドルフは交代員の胸ぐらを掴んで今にも殴らんとばかりに拳を振りかざしたが、すぐに二人の男がルドルフに飛びかかり押さえ込んだ。
ルドルフは二人に抱きかかえられてトラックから降ろされた。
「離せ! バカヤロウ、貴様らどっちの味方だ…」
ルドルフは二人の腕を振り払い、荷台の交代員の顔を睨み付けた。
「今度遅刻したら只じゃおかねーからな! 覚えておけよ」
そして震えながら佇んでいた男の顔をのぞき込み。
「おっさん…今日の所は助かったナー」
肩を強く押し、睨み付けながら小屋に去って行った。
男は放心状態でルドルフを見送る…。
危惧が去った緩みで小便がまたチョロッと洩れた。
「あの野郎…みんなに嫌われてる事がまだわかんねーようだな、しょうがねー野郎だぜ、ったく」
交代員は独り言のように言い、トラックから飛び降りた。
そして荷証明を男に戻し、「通ってよし! 気をつけていけよ」と笑顔で言葉を投げた。
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