皮膚の壁
一月二十日:作

■ 11

「…望月さんのことはどうするんだ?」
唇を離す際に野暮な言葉が出てしまった。
「小娘」の前に自分のすっかり浮き足立っている様を認めた。なんの芸もない上滑りした質問…
「…どうしたらいいっかな…?」
真美はまた目を瞑って唇を寄せて来た。
思わず吸い付いてまた舌を入れた時、真美の歯が舌を挟んだ。
驚いて目を開けると、真美の目が悪戯っぽく笑っていた。真美はすぐに目を開けていたのだ。
そのまま真美は身体を離した。

「ねえねえ、チキン食べないの?」
「え?」
「食べなよ、湿ったチキン。」
「あ…あぁ…うん…」
「おつまみしか分かんなかったんだぁ…湿ったチキン美味しい?」
真美はコンビニの袋を一瞥して言った。
「何も『湿った』なんて言うなよ…なんか当てつけかい?」
「…ねぇ…今キスしたのってさぁ…私が好きだから?」
「?…う〜ん…」
「身体だろ? 言えよ!」

この短い会話の間に、真美の声色はころころと変わる。
あのほとんど無表情だった真美とおんなじ顔の女が、全く別の女に見える。真美の心の中もこうなのだろうか? だとしたら真美こそ私の身体が欲しいだけなのじゃないのか?

「…違う…よく分からないけど、身体だけじゃない。」

思わず弱音を吐いてしまう。


「じゃぁ身体とどこ?」
「なんだろう…その声かなぁ…」
「声? 私の?」
「うん…なんでさぁ…そう変わるんだい? 話し方が。」
「…なんでかなぁ…」
「惚れたってさぁ…じゃぁ、僕のどこがいいんだ? こんな年寄り。」
「そうは思わないよ。」

…そう、あの時の真美の髪は黒かった。それが気付かないうちに徐々に赤くなって行った…

「じゃぁ、どこなんだよ。」
「優しいとこ…かな?」

と言うなり真美は身体を預けて来た。
「もういいじゃん。好きなんだもん。」
「…まぁ…そうか…」
「ねぇ…ぎゅーって抱いてよ。」
「ん? …あぁ…」
私は歳を取ったのかな…真美になかなか付いて行けない。しかし嬉しさだけはどんどん走って行く。
「あぁ、ぎゅーってね…」
真美を思い切り抱きしめた。この感触が結局、私を倍以上の力で縛る羽目になって行くのだ。
この次に真美を抱いた時、お互い一糸も纏わない姿になっていた。


真美が再び私の部下として事務所に戻って来たのは、あの夜から二週間ほどした頃だった。
あれ以来、真美はニ日に一度の割合で電話をして来た。
内容はほとんどが望月のことだった。
どうも望月はしつこく真美を誘っているらしい。
私は、嫌ならばはっきりと断れという、素直な言葉をその度に繰り返した。しかし真美は…

「でもね、なんかさ…断れないのね…好きとかって全然ないんだけど、面と向かってどっか行こうなんて言われると、やっぱり駄目なのね…昔からこうなの…」

結局真美はまた望月の誘いに乗って、食事に行ったらしい。

「帰りに迫られたけど、ちゃんと断ったからぁ…」

私は真美の優柔不断さに腹を立てる以上に、嫉妬と疑心暗鬼に囚われ始めていた。
だから真美が一日の大半を私の目の前で過ごすことになって、少なからず安堵した。
あとは如何にして真美を望月から引き離すかだ。
しかし優柔不断なのはむしろこの私の方で、プライドと言うのだろうか? このまま真美を自分の所へ引き寄せるのは、何かしら真美の思い通りにされている様で癪だった。
真美が本当に私に惚れているなら、暫くは望月に嫌がる真美の身体を半分くっつけておくことで、ある種の陵辱を与えて、そこから得られる優越感に浸るのも悪くないと思い始めていた。


その願望の芽は、ある日望月が私の上司に呼ばれてやって来たことで一気に吹き出した。
上司はかねてから真美が社会に適応出来るのかどうかを気にかけていた。
望月を呼んだのは、彼が私と違い真美の詳細を上司から聞いていなかったので、最も客観的に世間での真美の姿を見ていると判断したからだ。
それほど真美は上司の目にも異様に映っていたのかも知れない。もっともそれを痛いほど知っているのはこの私なのだが。

上司の所へ行く前に望月が私の席に寄った。
真美は少し離れた所で上司から頼まれた書類のチェックをしている。顔はこちらを向いているが、目は書類に落としたままだ。
真美は社内では男性の誰にも興味の無い様な冷ややかな顔をし、言葉もほとんど発することが無い。
社内で聞く真美の声は、電話の応対に出た時の事務的な響きの言葉くらいだ。
しかしこの冷たく機械的な女の本性がどんなものであるかを私は知っているし、それに振り回されてもいる。
望月と私が言葉を交わし始めても真美は表情ひとつ変えずにチェックを続けていた。
そんな胸元に思わず目が行った。
こうして見ると真美の胸は意外と大きいと思った。
冷たく硬い表情の真下にあるその膨らみは、この前私の中で脈打ったあの柔らかさを思い起こさせた。
(望月、お前は知らないだろ? あの部分の硬度と温度を…)

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