深い水底
晶:作

■ 第一章

講義の終了を告げるチャイムが鳴る。静まり返っていた教室がざわめき始める。
さすがに90分間、集中力を持続させるのはつらい。途中、うとうとしてしまった。

ノートをぱたんと閉じると、人が引くのを待ってから席を立った。
にぎやかな廊下をゆっくりと歩きながら、私は目的の場所へと向かう。

大学の西棟校舎から外へ出ると、夏の陽射しと、湿気を帯びた風が顔をなでる。
にぎわう群衆から遠ざかり、草木の匂いを感じながら校舎の裏側へと歩いて行く。

校舎が丘の上にある為、陸上競技用のグラウンド、屋外プール、体育館へは、
階段を降りていかなくてはならない。

目的の建物は、長く続く階段の下、左手にひっそりと顔をのぞかせていた。
体育会系水泳部の部室と、ほとんど使われなくなった更衣室、シャワー室がある建物。
古い二階建てのアパートのようだと、最初に見た時に感じた。

右手には真新しい大きな建物があり、これが屋内プールのある体育館である。
数年前完成したこの建物に、多くのクラブ、サークルの部室が引っ越した。

水泳部も、更衣室と、シャワー室は、こちらの建物の設備を利用して良いことになっている。
ただし、古い方の建物の奥に屋外プールがあるという理由で、部室はそのままだった。

それとなく周囲を伺い、誰もいないことを確認してから、鍵をかばんから取り出す。
暑さからなのか、緊張からなのか、手が汗ばんでいる。
慎重に解錠し、建物のドアをゆっくりと開ける。

私が入ろうとしているのは、男子の方の部室だった。
本来、私が立ち入るはずのない空間である。そこへ、そっと足を踏み入れた。

水泳部の全体練習開始は、四限の講義終了後、15時からとなっている。
時計を見ると、13時半だった。この時間に、まず部員がやってくることはない。
そもそも、四限終了後に、男子部の主将が解錠しなければ、誰も部室には入れない決まりとなっている。

室内の空気は澱み、饐えたような不快なにおいがする。歩くたびに埃が舞い上がる。
床には雑誌類が乱雑に積み重ねられ、その中に埋もれるように、パイプ椅子が何脚か置かれている。

私がこの狭い空間で、これから行おうとしていること。
それは、世間一般の言葉で表現するなら「窃盗」となる。不思議と罪悪感はなかった。

男子部員の持ち物を盗んでいる。整髪料、CD、雑誌類。時には置き忘れられた講義用ノート。
物が欲しいから、お金に困っているから、このような行為に及んでいるというわけではない。
その衝動の根底にあるものは、もっと違うものだ。

ストレス解消。
そう、最も近いのは、ストレス解消かもしれない。確かに、それに似ている感覚だ。

男子部員へのストレス。なにかにつけて、部の和を乱す男子部員。
女子をまとめる立場にある私にとって、彼らの多くは、百害あって一利なしという存在だった。

もちろん、真面目な部員だっている。尊敬している人間だっていないわけではない。
しかし、男子部員の中に多く見られる、真面目に練習しない人間。
怠慢だけなら目をつぶることもできるのだが、一生懸命努力している人の邪魔をする者もいる。

女子部員にちょっかいを出す人間もいる。
我々の全体練習が妨げられている現状がある。練習に来なくなってしまった子も何人かいる。

最初は、困らせてやろうという気持ちだった。
彼らを困らせて、人に迷惑をかけることがどんなことなのか、教えてやりたい。
そういう小さな気持ちから始まったことだった。

他の部でも盗難が多発していたので、水泳部の内部に疑いの目が向けられることはなかった。
真面目一筋で通っている私が、その疑惑の対象になることなど、まず有り得なかった。

そのことが、私を調子に乗らせた。
主将としての「表」の私。そして、誰も知らない、「裏」の私。
後ろめたさとは裏腹に、この背徳的な感情を楽しんでいる自分が確かに存在している。

いつの間にか、それは、ただスリルを求める衝動へと形を変えてしまっているような気がする。
この瞬間のことを考えると、講義に集中できない。いてもたってもいられなくなる。

私も、彼らと五十歩百歩なのかもしれない。
「表」と「裏」を使い分けているだけ、私の醜さは彼ら以上なのかもしれない。

だが、分かっていても、やめることができない。万引きの常習犯も、こんな感じなのかもしれない。

今日は、お洒落な形をした瓶に入った香水を拝借した。
薄い緑色の液体が、私に盗んでほしいと、主張しているように思えたのだ。

カチャリと鍵をかけ直すと、そそくさとその場所を立ち去る。
蒸し熱い午後。心臓の鼓動が身体中に伝わってくる。
うまくことを成し遂げたという気持ちが、私の顔に歪んだ笑みをもたらした。

階段の近くまできた時だった。かさりという音が背後から聞こえたような気がした。
はっと振り向いたのだが、生い茂る草木以外には、何も視界に入るものはない。

気のせいか。

ここ数日、誰かに見られているのではないかという感覚があった。

夏の大会が近い。少し神経が参っているのかもしれない。
そう自分に言い聞かせた。

しかし、私は思い知ることになるのである。その直感が間違っていなかったことを。

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