深い水底
晶:作

■ 第二章1

月曜日。週の初めだというのに、朝から小雨が降ったり止んだりしている。
湿気を含んだ空気。汗でブラウスが肌にまとわりつき、不快指数が高い。

もうすっかり梅雨の季節か。

窓の外の薄曇りの空を、意味もなく見つめながら、心の中でつぶやいた。
前日に受けた民法の小テストの感触が思わしくなかった上、このような天気。

夏の大会が近いというのに、いつもは上向きになるコンディションも、今年は上がってこない。
水泳を始めて以来、はじめてのスランプと言える状況が、私の気持ちを曇らせた。

主将という立場にプレッシャーを感じていないと言えば、嘘になる。
二年生での大抜擢であり、当然、部の中には異論を唱えた者もいるらしい。

そして、昨年の大会選抜を決めるレース後に起こった、あの出来事。
正直なところ、私は主将に乗り気ではなかった。もっと相応しい人間がいると思っていた。

今は、力で証明するしかないと思っている。周囲の雑音を消すには、結果を出すしかない。
何よりも、私自身が一番ショックを受けた、あの出来事を振り払う為には、そうするより他に道がない。

そのことが、明らかに力みにつながっていた。
小さな変調は、次第に大きな狂いとなっていった。いつの間にか、フォームが崩れていた。

また、直接的な原因ではないと理性では分かっていても、男子部員達のことを考えると、
自分の不調は、彼らのせいではないのかという気持ちになってくる。

練習をさぼるのは個人の自由だ。しかし、周囲の人間の邪魔をする権利は無いはずだ。

私が目を光らせていても、女子部員にちょっかいを出す人がいる。
真面目に練習している人間の傍らで、大騒ぎをして、怪我につながるような悪ふざけをする人もいる。

これまでは、水泳のことだけを考えていればよかったのに、それができないもどかしさ。
二年生になってから、水泳のことを考えると、気分が憂鬱になるようになっていた。

ぼんやりと、そんなことを考えているうちに、講義終了のベルが鳴った。
いけない。今日の講義も全く頭に入らなかった。いくら自由選択科目だと言っても、これはまずい。

いつもなら、この講義終了後に友人たちと合流することになっているのだが、
今日はそんな気分にはならなかった。簡単なメールを打ち、辞退することにした。

携帯を閉じると、大学の西棟を足早に抜け出す。これからどうするのか、心は決まっていた。
知り合いに見られていないか注意しながら、校舎の裏側の長い階段を下へと降りていく。

校舎よりも低い場所にある屋外プールが、階段を両脇から取り囲んでいる林の中から、
視界へと飛び込んでくる。

その水面が、今日はいつになく、くすんでいるように感じられた。
まるで今日の私の気持ちみたい。そう思った。

プール沿いにひっそりと建てられた、古いコンクリートの建築物。

男子部主将、戸澤君の姿はない。理工学部生で、男子のエース。
人間としても、アスリートとしても、彼のことは尊敬していた。

その彼が、四限後に鍵を開けない限り、本来、誰も部室に立ち入ることはできない。
当然、この時間帯に、この近辺に誰かがいるはずもなかった。

ポケットから鍵を取り出すと、もう一度周囲を確認してから、慎重に解錠する。
湿気が立ち込め、あたりには土の匂いが漂う中、重い音を立てて、鉄の扉が開かれた。

ぞくぞくするような感情を抱きながら、室内へ身体を滑り込ませた。
蒸し暑さ、室内の空気の悪さに顔をしかめながら、奥へ奥へと足を進めていく。

驚いたことに、目の前の椅子の上には、誰かの財布が置かれたままになっていた。
昨日の練習後、忘れていったのだろうか。ずいぶん間抜けな人間もいるものだと思った。

中から免許証を取り出して、納得する。山本一臣。私が毛嫌いする男子の一人。
彼なら、バカ騒ぎをした揚句、財布を忘れて帰ることも、有り得るだろう。

今日はついているのかもしれない。
私は笑い出しそうになるのをこらえながら、財布をポケットへ滑り込ませた。

目的を果たせたのだから、このような不快な空間に長居は無用である。
入ってきた時と同じように、慎重な足どりで、明るい外の世界へと踏み出した。

「?」

ふと、足元に落ちている白い物体が気になって、私は歩みを止めた。
拾い上げると、それは、タバコの吸い殻だった。捨てられてから、時間がたってないようだ。

嫌な予感がした。
ふと、背後に人の気配を感じた。私が振り返るのと、右の手首をつかまれるのが同時だった。

「・・・痛い!」

振り向いた先に、太い腕の主がいた。山本一臣。財布の持ち主。

「・・・!!!」

何が起こったのを理解して、恐怖で頭が真っ白になりそうだった。
必死に口から言葉を吐き出す。

「は、離しなさいよ!」

それには答えず、私をつかまえている山本は、強引に扉の方へと振り向かせた。
そこには、大きな影がもう一つ。

たたずむその人間の表情はよく見えなかったが、それが誰なのか、私にはすぐ分かった。

「加藤・・・」

事態がとんでもない方向へと傾き始めたことだけは、パニック状態の頭でも理解ができた。
加藤。よりによって、こんなところで、こいつに出くわすことになってしまうとは。

男子部員の番長的な存在。ことあるごとに、私とは衝突している。
問題があると感じている男子の中でも、特にタチが悪いのが、この加藤である。

彼が陰険な、そして冷淡な笑みを浮かべていることに、私は気がついた。
加藤は、私をつかまえている山本に言い放った。

「おい、しっかり捕まえておけよ!」

加藤に山本。わたしが毛嫌いし、敵視してきた二人。

「いい根性じゃないか、女子部主将さん」

ぞっとするような笑いを顔一面に浮かべて、加藤がつぶやいた。

「真面目でうるさいお前が、盗難の犯人だったとは、笑わせてくれるじゃないか」

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