深い水底
晶:作

■ 第三章1

「奈央、なにボーっとしてるのよ。叱られるわよ。」

ハッと振り向いた視線の先に、いつの間にか隣の席に座っていた友人の顔があった。
切れ長の目で、私の顔を探るように、ジッと見つめている。

あどけなさは残るが、こうして近くで見てみると、大人っぽい顔立ちになったなと思う。
彼女は着実に、大人の女性へと変貌しつつある。

「どうしたの、私の顔をじっと見たりして。」

「何を考えていたかは、秘密。」

「そんなこと言って。後でノート貸してあげないんだから。」

白い歯を見せてけらけらと笑う。ショートカットの髪が揺れる。

金曜日の3限は、どの学部の人間も受講できる、自由選択科目だった。
学部が違っても、なるべく同じ講義を選択できるように、友人同士で話し合ったのだ。

ただし、その科目が必ずしも面白いとは限らない。
つまらない講義で、90分という時間はきつい。

教室の右上にある時計の短針が、少しでも早く回ってくれやしないかと、心の中で念じ続けてていた。
ようやく終了のベルがなった時、くたくたになっていた。

「今日の講義も、退屈だったね。奈央は寝てるし。」

「もう、変なこと言わないでよ。寝てないったら。」

悪戯っぽく笑う友人。この笑顔は、小学校の時から、ずっと変わっていない。

私の名前は原田奈央。N大学の文学部二年生。

所属しているのは、体育会系の水泳部。生活の大半を、泳ぐことに費やしている。
週5日、大学の講義終了後の部活での練習。休日には、近所の市営プールに通っている。

とにかく泳ぐことが好きな私は、物ごころが付いた頃には、水さえあれば飛び込んでいた。
毎年、夏になると、家族で海に行くことが、楽しみで仕方がなかった。

現在、泳ぐことが好きだという理由以外にも、私を突き動かしているものがある。
それは、ある一つの約束だった。今、隣にいる友達と、ずっと昔に交わした約束。

小学生の時には、泳ぐことで、ある程度有名になっていた私だったが、
中学に進学して、上には上がいることを痛感させられた。

中学一年生で同じクラスになった女の子。それが晶だった。
教室の席が離れていたので、始めて会話したのは体育の授業だったと思う。

小柄な彼女は、陸上では目立つことがなかったのだが、夏になると水泳の授業で本領を発揮した。
クロールのタイムを競う機会があったのだが、私は全く歯が立たなかった。

すごいね。悔しい気持ちすら吹き飛んでしまい、本心から出た言葉だった。
彼女と親しくなれたきっかけは、この一言だったと思う。

いろいろ話をして、家が近いことも分かり、それからは一緒に行動する機会が多くなった。
体格では私の方が恵まれていたが、彼女の綺麗なフォームは天性のものだった。

高校にエスカレーター式に進学した後も、その関係が変わることはなかった。
常に私の先を行く彼女だったが、私も努力で、なんとか食らいついていった。

同じN大学を受験したのも、強豪校で、二人で水泳を続けたいという気持ちが強かったからだ。
学部こそ、文学部、法学部と別れたが、同じ体育会系の水泳部に所属することになった。

恥ずかしくて聞く事は出来ないが、彼女もきっと覚えてくれていると思う。
中学校の卒業式の帰り道で、なんとなく話が盛り上がった際に交わした、約束。

同じ大学に進学して、県大会に二人で出場する。そして、共に決勝へ進出する。
最後まで全力で競い、ワンツーフィニッシュを決められたら最高。

事実、私たちは、県内でもそこそこ名前が通る存在にはなっていた。
その約束が果たされる日は、そう遠くはない。その想いは強くなっていた。

ところが、一年生の夏、大会出場者を決める選考レース後、部内でちょっとしたドタバタがあった。

その出来事は、彼女がダントツの成績で、一年生で代表に選ばれたという、
本来は喜ばれるべきニュースを、くすんだ色合いに変えてしまった。

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