深い水底
晶:作

■ 第四章2

「え、ええ。私は大丈夫だけど。」

彼女の真意が読めなかった。

泳ぎに行くことを、少しも嬉しそうじゃない彼女の顔を見ていると、
どうにも落ち付かない気分になってくる。

だけど、晶が自分を何かに誘ってくれることは嬉しかった。
今は、これだけでも、前進と考えなくてはいけないのかもしれない。

「分かったわ。だけど、具合が悪いんだったら、本当に無理をしないでね。」

「うん・・・」

十五時に市営プールで待ち合わせすることにして、支度をするために、
一度、お互いの家に戻ることにした。

駅前の交差点で、私の帰り道と、反対側へ歩き出した彼女を見送る。

足早に歩いていく彼女の背中には、何か、覚悟を決めたような雰囲気が感じられた。
それが良い方向の覚悟であるようにと、私は祈った。

市営プールの水面に、小さな水しぶきが上がる。
周囲の人間の意識が、彼女の泳ぎに向けられるのを感じて、私は嬉しかった。

この泳ぎを見ていると、彼女が水の妖精と言われている理由が良く分かる。

晶は、今までの不調が嘘であるかのように、彼女本来の美しいフォームを取り戻していた。
何かが吹っ切れたのかもしれない。

彼女の専門は、私と同じ、自由形だ。

しなやかな天性のフォームは、水の抵抗を限りなく低く抑えることができるのだと、
先生や大学OBのコーチが言っていた。

私も触発されて、彼女の隣のレーンで、練習を開始する。
時間はあっという間に過ぎて行った。

休憩をはさむことに決めた私は、コースの端まで泳ぎ、プールサイドへと這い上がる。

「奈央・・・」

急に呼び止められ、私は驚いて振り向いた。晶が顔をうつむき加減に立っていた。
泳ぎの華麗さとは裏腹に、彼女の表情は暗い。

「晶・・・どうしたの?」

彼女の泳ぎを称賛するつもりだった気持ちが急速にしぼんでしまい、
自分でもどういう反応をすれば良いのか、分からなくなってしまった。

「あのね、話があるの。ちょっといいかな・・・」

そう言うと、晶は歩き出す。
私は、もつれそうになる足を必死で動かして、彼女のあとについていった。

プールサイドの端まで来ると、こちらに背を向けたたまま、彼女は立ち止った。

「話って何、晶?」

その背中に向かって、声をかけた。
近くでは、カップルらしき二人が、ベンチに腰かけて楽しそうに話していた。

「あのね・・・」

晶は、こちらに振り替えると、ゆっくり近づいてきた。

お互いの身体が触れ合うほどの距離まで来ると、まるで、内緒話をするかのように、
私の耳に顔を近づけてきた。

「え?」

「・・・ずっとこうしたかったの。」
 
彼女は耳元で囁くと、私の首に手を回してきた。

「・・・どういうこと?」

発言の真意が分からず、呆然と立ちすくんでしまった私のうしろに彼女は回り込んだ。
背後から私を優しく抱きしめ、お腹のあたりで、手を組んだ。

我々にまったく無関心だったカップルが、こちらの異常に気が付いたらしく、ひそひそ話を始める。

水着で隔てられているとはいえ、お互いの体温が感じられるほど接近していることに、動揺した。
晶の鼓動を感じる。これではまるで・・・。

「奈央のことが、ずっと好きだったの。」

頭が真っ白になった。頭の芯が、びりびりと麻痺してしまったかのようだ。
頬が、かっと熱くなるのを感じた。

晶が、私のことを好き?
もちろん、私だって晶のことが好きだ。だけど、それは彼女が言うような感情ではない。

離れようとする私の意図を敏感に感じ取ったのか、今度は少し強い力で抱きしめてくる。

「うっ・・・痛いわ。」

思わず声を漏らしてしまった。カップルが好奇の眼差しで見つめてくる。

「離したくない。ずっとこのままでいたいの。」

「そ・・・そんな。冗談でしょ?そういう冗談、晶らしくないよ。」

ようやく言葉を発することができた。冷静さを取り戻したことで、
カップルだけでなく、周囲の人間が、私たちに注目していることに気が付いた。

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