深い水底
晶:作

■ 第四章4

私自身、あの一件以来、眠れない夜が続いていた。

過去に戻ることができるとしたら、いつがいいだろう。
暗闇の中で、天井をぼんやりと見つめながら、そんなことを考えていた。

一年前の夏だろうと思う。あの頃は、晶も私も、全力で水泳に取り組めていた。

当時、一年生だった晶は、既に部の中で注目を集めるだけの存在になっていた。
夏の県大会に出場する人間を選ぶにあたり、部内の競争は激しさを増していた。

平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ、個人メドレーに関しては、既に出場者の名前が固まりつつあった。

最後まで決まらなかったのが、晶が得意とする自由形の代表者だった。
二枠のうち、一枠は、当時の主将であった、三年生の相良先輩で、ほぼ決まり。

残り一枠をかけて、一年生の晶と、陰のエースと言われていた、二年生の岩井先輩が火花を散らしていた。

強豪校と言われるN大学にあって、その年に入ったばかりの一年生が代表の候補になること自体、
異例のことだった。

当時、私もそれなりの評価は受けていたが、晶は別格だった。

一年間を、私は自分に最適なフォームの習得と、下積みに使うつもりだった。
二年生になったら、晶と勝負ができるレベルにステップアップできるようにと。

岩井先輩と言えば、高校時代から名前を聞くほどの有名人であり、スポーツ推薦でN大学にやってきた、
水泳界のサラブレッド的存在だった。

容姿端麗で、部外のファンも多いと聞いていた。ファンクラブのようなものもあったらしい。

相良主将がいたから、陰のエースと言われていたが、一年後には彼女が真のエースになることは、
ほぼ間違いがなかった。

相良先輩も速いけど、ポテンシャルでは岩井先輩の方が上。
晶は、入部直後に熱く語っていた。岩井先輩は、晶にとって、憧れの存在だったようだ。

皮肉にも、その二人が、残りの一枠をかけて、争うことになっていた。
選考は、顧問の吉田先生と、大学OBのコーチ数名が、協議して決めることになっていた。

岩井先輩は、ほとんど感情を表に出すことがなく、陰ではアイスドールと呼ばれていた。
ところが、その先輩にも、流石に焦りが出ていた。

彼女の頭の中には、二年生の大会で自分の足場を固め、三年生になって確実な地位を築くという、
キャリアプランがあったはずだ。

それが、思わぬ新星の出現によって、自分の得意分野である、自由形での出場が危ぶまれている。
結果が思うように出ず、コーチや先生と、真剣に話し合う彼女をよく見かけるようになった。

それに対して晶は、その美しいフォームで、どこまで数字を伸ばすのかという勢いだった。

今考えると、岩井先輩と、晶の差は、気持の持ち方だけだったのかもしれない。
後輩の躍進に追い詰められた岩井先輩。伸び伸びと、自分の泳ぎだけに集中した晶。

選考結果が発表された時、誰も異論を唱える者はいなかった。

当事者の岩井先輩ですら、聞く前からその結果が既に分かっていたとでもいうように、
潔くその決定を受け入れた様子だった。

問題は、その後だった。
吉田先生、コーチたちは、岩井先輩に、個人メドレーでの大会出場を打診した。

クロールが突出しているとは言え、岩井先輩の泳ぎは、どれもバランスが良かった。
要するに、自由形から個人メドレーへ鞍替えしろとの打診であった。

このことが、大きく岩井先輩のプライドを傷つけたのだと思う。
この打診の数日後、彼女は水泳部を退部した。部員たちにとって、寝耳に水の大事件だった。

水泳も辞めるという話だった。

アイスドールと呼ばれていた彼女だったが、実際のところは、かなり繊細な神経の持ち主だったらしい。
人生で初めての挫折は、彼女をあっけなく潰してしまったのだろう。

晶は、その話を聞くと、泣きそうな顔で、取り乱した。

結局、このゴタゴタは、岩井先輩、そして彼女を慕っていた人間数名の退部によって幕を閉じた。
誰よりも、岩井先輩を尊敬していたのが晶だったことを、私は知っていた。

このN大学への進学を選んだのも、彼女への憧れが、少なからずあったのではないかと思っている。

皮肉なものだ。
あと一年、遅く生まれていたら、彼女と代表枠を争うこともなかったかもしれない。

自分の泳ぎが、憧れの先輩を退部へと追いやった。一度だけ、晶がそう言ったのを覚えている。
そんなことはないと、私が慰めても、晶の想いは変わらなかった。

半年後、四年生になった相良先輩が引退した。
彼女からの推薦もあり、吉田先生は、晶を主将に抜擢することを決めた。

吉田先生としては、責任を持たせることで、晶の更なる飛躍を願ったのだと思う。
だけど、これは明らかに失敗だった。晶には主将の経験が無かった。

そして、岩井先輩が手にいれるはずだったものを、またしても晶は手にすることになってしまったのだ。

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