清めの時間
ドロップアウター:作

■ 47

「北本さん、どうかしたの?」
「えっ」
 頭を上げてみると、先生がわたしを怪訝そうに見つめていました。
「急に黙り込んじゃって。どこか体の具合でも悪いの?」
「いえ、平気です」
 目を伏せて、わたしは靴下をはいていない両足を、片方ずつ体重計にのせました。金属板がすごく冷たくて、膝がカタカタ震えました。そのせいで、目盛りの針が揺れてなかなか止まりませんでした。
 ふと、白いパンツがシャツの裾からのぞいているのが見えました。さっきは何とも思わなかったのに、今ごろ恥ずかしくなって、もう一度シャツを下に伸ばしました。もうちょっとかわいいのにしとけばよかったって、変なことを考えてしまいました。
「北本さん、我慢してじっとしてて」
 目盛りの針がなかなか止まらないから、先生がわたしを諭すように言いました。
「かえって時間かかって、風邪引いちゃうよ」
「はい、すみません」
 こんな時にも生徒の体のことを心配するなんて、さすが養護の先生だ。そんな当たり前のことに感心してしまって、ちょっと笑いがこみ上げてきました。
「体重は…はい、36.7キロ。よかった、だいぶ九月の頃に戻ってきてる」
 わたしの体重を読み上げて、先生はほうっとため息をつきました。
「ごくろうさま。もう服を着ていいわよ」
「はぁい」
 先生に言われて、わたしは体重計を降りました。忘れてしまうといけないから、服を着る前に体重を記録表に記入しました。その後、椅子の背もたれにかけてあった靴下とブルマを取って、一枚ずつ身につけていきました。
 わたしが着替える間に、先生はわたしの記録表を他の生徒のものと一緒にファイルに綴じて、書棚に他の書類と一緒にきちんと並べました。
「十月の初め頃だったかな。一度、北本さんのお母さんに電話したの」
 白衣の先生は、こちらに向き直って言いました。
「五キロ近く痩せたって聞いて、心配だったの。食欲がなかなか戻らないっておっしゃってたから」
「お母さん、そんなことまで話したんだ」
 ちょっと気恥ずかしくて、少しうつむきました。その姿勢で、わたしはブルマの上からトレパンをはいて、ジャージに袖を通しました。体操服姿の時よりはずっと暖かくて、何だかほっとしました。
「その時まだ入院してたんです。ご飯ちゃんと食べられなくて、そのせいで、大した病気でもなかったのに入院が長引いちゃって」
 今は、こうして他人事みたいに話すことができるけれど、あの時は本当に苦しくて、このまま消えてしまえたらどんなに楽だろうって思ったりしていました。
「そうらしいわね。苦しかったでしょう?」
 椅子に腰かけて、先生の質問に答えました。
「はい。とっても」
 先生が、おざなりの同情で聞いてるんじゃないって分かるから、わたしも正直に自分の気持ちを話すことができます。
 わたしは、おとなしくて弱いくせに、変に無理しちゃうところがあって、なかなか人に弱音を漏らすことができません。だから、あんなことになるまで追いつめられちゃったのかなって、時々考えたりします。
「でも、今は大丈夫です」
 そろそろ課題を始めなきゃと思って、バッグからノートと筆箱を取り出しながら、わたしは先生に言いました。
「一日三食、ちゃんと食べてます」
 本当は、一週間に二日くらい、気分が優れなくて食べられないこともあるけれど、あまり先生に心配をかけたくなかったから、黙っていました。
「むしろ、この頃少し太っちゃって、ダイエットしなきゃって思ったりしてます」
 そう言って、わたしはいたずらっぽく(自信はないけれど)笑ってみせました。
「何言ってるの。北本さんは、もっと食べなきゃ」
 先生が、笑ってはいるけれど真剣な眼差しで言いました。
「身長154センチに体重37キロって、まだ痩せすぎなくらいなのよ。ダイエットなんて、十年早いわ。これから成長期なんだし、しっかり栄養つけなきゃ」
「はい」
 わたしは、こくんと深くうなずきました。
 もしかして、わたしがまだちゃんとご飯を食べられてないってことも、養護の先生にはとっくにお見通しだったかもしれません。そう思うと、見え透いた嘘をついてしまった自分が、少し恥ずかしかったです。

「わたし、四月から○○町の学校に通うことになったんです」
 帰り際、わたしは養護の先生に言いました。
 保健室の入り口のドアの前で、先生は、小さくため息をつきました。
「そうなんだ。ずいぶん遠いところに行ってしまうのね」
「はい」
 母の提案でした。このまま都会で進学するのは大変だろうから、しばらく小さな町の学校でのびのび過ごした方がいいんじゃないかって。
「他の人には内緒です。まだ、ちゃんと決まったわけじゃないから」
 そう言うと、先生は黙ってうなずきました。
 本当は、誰にも話すつもりはありませんでした。でも、やっぱり先生にだけは、ちゃんと伝えなきゃいけないって思ったんです。
 白衣の先生は、わたしの右肩にぽんと手をのせて、わたしの顔を見上げるようにして聞きました。
「やっぱり、今のクラスのみんなと同じ学校に進むのは、嫌?」
 先生の少しさびしそうな目を見て、少しためらったけれど、わたしは正直に答えました。
「嫌です」
 ぬーげ、ぬーげ、ぬーげ、ぬーげ!
 あの時、シャワーの下ではやし立てられた光景を思い出しました。
「担任の先生に、電話で言われました。友達に会えなくて、さびしくないのかって」
 ふいに目頭が熱くなって、涙が頬を伝いました。
「わたしには、この学校に友達なんていないんです。あんなことされて、もう誰も信じられなくて…今さら仲良くするなんて、そんなの無理です」
 涙が止まらなくなってきました。泣いている顔を見られるのが恥ずかしくて、わたしは両手で顔を覆いました。
「本当は、もうこの学校に来たくなかったんです。もしクラスの誰かに会ったらって思うと、すごく怖くて…」
 涙を拭いて、わたしは顔を上げました。
「さびしくなんかありません。わたしなんか、この学校からさっさと消えてしまった方がいいんです」
「北本さん…」
 先生が何か言いかけるのも見ないで、わたしは保健室のドアを開けて、外に出ました。
 靴下が汚れてないか気になって、ふと足下を見ました。
 この日、わたしは登校してきてから上履きのシューズをはかないで、靴下のままで(身体測定の時は裸足になったけれど)過ごしました。わたしのシューズは、学校に通っていた時クラスの子に切られてしまって、もう使えないんです。
 母に新しいシューズを買ってもらうのも気が引けるし、かといって、職員室でスリッパを貸して欲しいとも言いづらいから、仕方なくそのままでいました。こんな時、自分がいじめられてたんだって実感して、嫌な気分になります。
 靴下のまま、わたしは玄関に向かって歩き出しました。
 壁掛けの時計を見ると、昼の二時を過ぎていました。まだ午後の授業が始まったばかりで、この時間に帰ることが少しうしろめたかったです。
 廊下を通って、玄関に着くと、ほとんど人気がありませんでした。この時間は、運動場で体育をするクラスもないから、余計に静かです。わたしは、靴箱の中に手を入れて、自分の靴を取り出そうとしました。
 あっ…
 靴の中に指を入れて、ぎくっとしました。わたしの靴が、雨の中を歩いたわけでもないのに、ぐっしょり濡れていたんです。

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