狂牙
MIN:作
■ 第3章 転換の兆し11
◆◆◆◆◆
昌聖は武術の稽古を終え、憂鬱な気持ちで帰路に着いていた。
武術の師匠に教わるのも、殆ど死にものぐるいで挑まなくてはいけないのに、今日はそれどころではなかった。
心ここに在らずの昌聖に、盲目の師匠が仔細を問いかけ、事情を話すと
【はははっ。優駿から−80点を食らったか? それは災難だ。宗介も食らってたが、あいつは[100回死んだ方がまし]って言ってたぞ。まぁ、死にそうな目には遭うが、死にはせん…、と思う。色々気をつけて、何とか生き延びろよ。お前がおらなんだら、この義肢はメンテもできんからな】
豪快に笑われて、訳の分からない励ましを受ける。
この時点で、昌聖は誰も助けてくれない事を知り、更に気持ちが落ち込んでいった。
(優駿さんが唯一言う事を聞く、師匠がアレだもんな…。誰も止めてくれないなぁ〜…)
昌聖は、ガックリと肩を落としながら、大きな溜息を吐いた。
昌聖の武術の師匠は、元々宗介の前の[ナイトマスター]で、優駿を始め[被害者の会]で、戦闘に携わる者達の師匠でもある。
そのため、組織内でも唯一、優駿が意見を曲げて言う事を聞く人物だった。
その人物が、大笑いして[生き延びろ]と言い放ったからには、誰も優駿を止められず、昌聖に取っては死刑宣告も同然だ。
5年前に瀕死の重傷を負い、両視力と右足と左手を失った師匠に義肢を作り始めて、師事する事に成ったが、殊の外目を掛けてくれる師匠に、最後の望みを掛けたが、絶望をプレゼントされた気分だった。
がっくりと項垂れた昌聖は、[屋敷]の監視範囲の手前で立ち止まる。
[屋敷]とは、元は宗介が日本で動く時に拠点に使っていた隠れ家で、今現在の昌聖の居住場所だ。
屋敷には、美咲と歩美が居る筈で、今の昌聖を見れば、間違い無く異変が有った事に気付く。
特に美咲に気付かれると、昌聖に取っては、かなり厄介な事に成るのだ。
以前、優駿の罠で怪我をしてしまった昌聖は、泣きながら手当てをする美咲に、ボソリと呟いてしまった。
それは、直接的な言葉で無く、ニュアンスに毛が生えた程度の言葉だったが、美咲の第6感が敏感に優駿の匂いを嗅ぎ分ける。
後は、あっという間だった。
美咲は、優駿に猛烈な抗議の電話を入れる。
その時優駿は、昌聖に一言だけ告げた。
「バラしたな…」
低く響く声は、1年以上経った今も、耳から放れず、昌聖を安眠から引きずり起こす事が有る。
その後の優駿の仕返しは、悪夢の連続だったためだ。
この件以来、昌聖は優駿の罠で怪我をすると、完治するまで美咲達の前に出られ無く成った。
すると、今度は美咲達の反応に恐怖する。
美由紀の無邪気な[どうしたんですか?]攻撃や、佐知子の泣きそうな[大丈夫ですか?]攻撃は、まだマシだが歩美がジッと見詰める[分析]攻撃はかなり厄介で、それ以上に怖いのが、美咲の攻撃だった。
美咲は昌聖が隠し事や嘘を付いている時、ほぼそれを見抜いてしまうのだ。
そして、悲しげな微笑で[嘘を吐いてられますね]と、昌聖に問いかける。
この攻撃は、昌聖の最も苦手な攻撃だった。
心底愛している、美咲の悲しい微笑みは、昌聖の心を直に握り締める。
昌聖は、正に中間管理職の悲哀を体験していた。
この状態で、昌聖が唯一選べる選択肢は[どんな罠も無傷で帰還する]だった。
こうして、昌聖は罠の攻略難度を上げ、急速にその能力を磨いていた。
しかし、昌聖自体は自分の能力が、そこ迄磨かれて居る事に気付いて居ない。
葛西家に近付いた時の昌聖の反応も、啓一を見た分析も、一流の工作員の反応だった。
ただ、昌聖の失敗は、相手が[マテリアル]だと知らなかった事と、[マテリアル]の本質を知識以外で持って居なかった事だ。
昌聖は、息を整え、気持ちを落ち着けて、笑顔を作り
(美咲と歩美か…、今日は、どんなご奉仕かな?)
鼻の下を伸ばして、気分を切り替える。
少しでも、罠に対する不安が残って居れば、美咲はそれを敏感に察知する。
騙して居るようで、気が引けるが、昌聖は兄のように慕う宗介を鍛え上げた優駿を尊敬しているし、何より美咲達を愛して居た。
自分自身を磨く為には、罠は最良の体験で有り、美咲達を心配させたく無かった。
必然嘘は、必要に成ってしまうのだった。
◆◆◆◆◆
昌聖が屋敷の玄関を開けると
「お帰りなさいませ、ご主人様」
全裸の美咲が土間で平伏し、額をタイルに押し当て、リードを両手で捧げ持って、差し出している。
すると、その後ろに同じ姿勢で、平伏して居る美由紀が、同じように
「お帰りなさいませ、ご主人様。ご同席の許可をお与え下さいませ」
挨拶し、今日の奉仕に加わる許可を申し出る。
「あ、あれ? 美由紀? 美咲…、歩美は?」
美咲のリードを持ち、鞄を預けながら、美由紀のリードに手を伸ばして問い掛けた。
美咲たちは、以前昌聖の事を[昌聖様]と呼んでいたが、今は[飴]を与えられる時以外は、[ご主人様]と呼ぶように成っている。
これは、自分達の甘さを払拭するために、切り替える方法として取り入れた。
実際、呼び方を変えるだけで、自分達の気持ちに芯が通り、毅然と仕えられるようになった。
その上、[昌聖様]と呼べる時の快感が、段違いに跳ね上がったのも原因である。
美咲は、膝立ちに成りながら、鞄を受け取り
「はい。まだ、地下のコントロールルームです。ご主人様のご帰宅にも気付かない何て…。キツイお仕置きが必要ですわね…」
美咲は静かに告げながら、昌聖の背後に立ち上がり、美由紀は昌聖にお尻を向け、高足の四つん這いで
「ニャー」
美咲に同意する声で鳴いた。
「いや、良いんだ。今日は、僕の指示で調べ物をしてるから」
昌聖が、とっさに庇うと、美咲の穏やかな微笑みが、ピクリと跳ね
「調べ物…。コントロールルームで、ですか…」
呟くように、問い掛けて来た。
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