夢魔
MIN:作

■ 第25章 胎動1

 春菜は浴槽の中で目覚めた。
 浴室内を満たす、鼻を突く異臭、身体の体温を奪って行く、糞尿混じりの水。
 そして、バリバリに乾いた、ショートカットの黒髪。
 虚ろな目で目覚めた春菜は、身体を襲う痛みで意識を目覚めさせる。
 上体を湯船の縁に預けていたため、右腕が痺れて、右肩が強く痛んだ。
「くうっ…痛ぅ〜…」
 左手で、右手を持ち上げながら、ソッと身体を正面に向け、しかめた目を開いて、その状態を目にする。
「い、いや〜〜〜〜っ!」
 春菜は自分が浸かっている湯船の状態を見て、悲鳴を上げた。

 湯船の中には、薄茶色の液体が満たされ、プカプカと緩みかけた大量の便が浮かんでいる。
 自分の身体に目を向けると、湯船に付けていた左腕は、茶色に染まり嗅覚の麻痺した春菜に、それが何なのか教えた。
「いや、いや、いや〜〜〜! うそ、うそよ…うそ〜…」
 春菜は狼狽え、慌てふためき、いきなり立ち上がる。
 だが、その拍子にヌルリとする物を踏みつけ、足を滑らせ浴槽に頭まで沈んだ。
 湯船に頭の天辺まで、浸った春菜はパニックで手足をばたつかせ、一向に起きあがれない。
 やっとの思いで、立ち上がった春菜は、大量の糞尿混じりの水を飲み、身体を折り曲げ激しく咳き込む。

 その時初めて、異様な臭気を、春菜の鼻が感知した。
「ぐぅ〜…く、臭い…」
 その言葉を呟いた瞬間、それがどこから匂ったのかを、春菜は理解する。
 グフゥと口を抑え、その手の色に驚いた春菜は、手を離すと湯船に嘔吐した。
 春菜の嘔吐には、明らかな便が混ざっている。
 それを見た春菜は、気が狂いそうに成った。
(な、なに…これ…、夢…悪夢なの…。こんなの、有り得ない…こんなの、いや…いやよ…いや〜…)
 ブルブルと首を振り、身体を湯船から上げると、シャワーを手に取る。
 顔を向けた目の前に、浴室の鏡が有った。
 鏡に映った自分の姿を見つめ、春菜はシャワーヘッドを取りこぼす。
 そこには、頭の天辺から足の爪先まで、汚物に塗れた自分が居た。

 春菜は洗い場にペタリと座り込み、呆然と俯いた。
 ペタリと座った春菜の太股に、ボタボタと水滴が落ちる。
 それは、大きく見開いた春菜の瞳から、流れ落ちる涙だった。
 春菜の頭の中に、フラッシュバックのように、昨夜の狂態が映し出される。
 春菜はそれら全てを思い出し、止め処なく流れる涙の中、記憶の中の自分を見つめる。
(きもちいいんだ…あんなこと…きもちいいんだ…こんなこと…。わたし…やっぱり…へんなんだ…へん…なんだ…)
 春菜は呆然と項垂れ、記憶の中で追体験した。
 被虐の快感を。

 シャワーを使い自分の身体を3度洗った、春菜は3度洗った髪の毛に、2度目のトリートメントをしていた。
 浴槽は身体と髪の毛を1度洗った後、水を全て抜きトイレットペーパーで綺麗に便を拭って、2度洗いヤカンに沸かしたお湯で丁寧に流した。
 窓を全開にして、換気扇を回し消臭剤を振って、臭いも全て消した。
 大量の水を飲み、指を喉奥に入れ、何度も嘔吐を繰り返し、水しか出なく成る迄吐いた。
 それでも、春菜の鼻孔深くに残った、あの臭いが消えない。
 春菜の瞳は何処も見て居らず、呆然としながら、淡々と髪の毛に着いたトリートメントをすすいでいた。

 春菜はビショビショの身体のまま、浴室から出ると手をバスタオルに伸ばす。
 無意識の行動なのだろうか、春菜の顔は項垂れ、瞳は未だ何処も見ていなかった。
 その時、部屋の中に携帯電話のアラームが鳴り響いた。
 時間は5時半。
 春菜がいつも、目覚める時間だった。
 春菜の首が巡り、無意識の中で音の場所を探す。
 それは、玄関の直ぐ脇、春菜の立っている位置から、約5歩の所に落ちている、鞄から鳴っていた。
 春菜はその鞄を見つめる。

 鞄を見つめた春菜の瞳に、見る見る感情が宿って行く。
 それは、色濃い怒りの感情だった。
 春菜は全裸のまま、その鞄に近付くと、鞄から薬袋を取り出し、床に叩き付けた。
「これのせいよ! 私が、あんな風に成ったのは、絶対これのせい!」
 春菜は薬袋を踏みつけ、踏みにじる。
 一心に踏みつける春菜の部屋の扉が、激しく叩かれ
「煩いぞ! 昨日から何回言わせるんだ! てめぇ、いい加減にしろ!」
 玄関の向こうから、男の声で怒鳴り散らされた。

 春菜はその声を聞いた瞬間、ビクリと身体が震え、自分の身体の奥が熱く蕩けて行くのを感じる。
 そして、春菜の口から、思わぬ程弱々しく、艶のある声で
「申し訳御座いません…どうか、お許し下さい…」
 玄関の扉に向かって、謝罪していた。
 玄関の向こうの男は、余りにも予想外の謝罪に、しどろもどろに成って立ち去った。
 春菜は自分の取った行動と、身体の反応に驚愕して、へたり込む。
(な、なにこれ…どう成ってるの…、私の身体…本当におかしくなちゃったの…)
 春菜はシクシクと泣き崩れる。
 その姿は、かつて庵を追い出そうとした、勝ち気なテニス部顧問では無かった。
 弱々しく震えるその姿は、自分の本質に戸惑う、産まれたばかりの、マゾヒストだった。

 春菜は項垂れながら、身体を持ち上げ
(学校に行こう…私の日常…私の平穏…。部活で、汗を流して…英語を…生徒に教えましょ…それが、私の普通なのよ)
 日常に縋りながら、トボトボと寝室に向かう。
 そして、鏡の前に座って、初めて気が付いた。
 自分の身体がびしょ濡れで有る事に。
 春菜は虚ろな笑いを鏡に見せて、ノソノソと立ち上がり、身体を拭いて部屋を片付ける。
 まるで、それが日常に縋る唯一の手段であるかのように、春菜は黙々と片付けを行った。

■つづき

■目次3

■メニュー

■作者別


おすすめの100冊