内側の世界
天乃大智:作

■ 第9章 天狼3

 週末のオフィス、慶子は、時計を見た。
「もう、こんな時間―」
慶子は、一人残って残業をしていた。明日の朝、行われる得意先でのプレゼンテーションに、この半年間の努力、全てが掛かっているのである。ここで成績を上げれば、昇進は間違いないのである。大口の受注が取れるのであった。思えばこの半年間、女だからと相手にされず、随分悔し涙を流したものである。でも、それも、明日で全てが決する。
慶子の追憶の瞳に明かりが映る。この都心オフィス街の隣のビルにも、まだ明かりの点いているフロアーがある。慶子は、それよりは早く帰ろうと心に決めた。
「ほんと、キャリアウーマンも大変なのよ・・」
慶子は、女だからと言う理由で馬鹿にされるのが嫌であった。女だからと言う理由で甘えるのは、もっと嫌であった。
二七歳、独身OL、趣味ゴルフ、カラオケ、彼氏二人、肉付きの良い、官能的な女であった。
大きな瞳、厚い唇、頬骨が出っ張っているところが、妖艶であった。茶髪を肩まで伸ばし、シャギーにしている。
ふっくらとして柔らかそうな、丸い大きな尻―89である―を、ダーク・ブラウンのスリットの入ったミニスカートで包み、椅子に腰掛けている。
綺麗な膝を組む。必ず男の視線が集まる―そんな脚である。慶子は、女の武器を最大限に利用した。私は、女に生まれたのよ。だったら、それを使うしかないわ。それが、慶子の持論であった。
柔らかな生地の、白いブラウスを跳ね上げた、胸の膨らみは、93である。括(くび)れた腰は、58。
ゴソ。
慶子は、振り向いた。茶髪が、跳ねる。給湯室から聞えたみたいだけど・・・
「誰・・・? 警備員さん・・・? 」
返事がない・・・
ガサ、ゴソ。再び、音がした。
「だーれ? 」
返事がない。
「悪戯なら止めてよね」
気の強い慶子は、確かめる事にした。さっき帰った課長の席に、いつも置いてあるゴルフバックから、ドライバーを引き抜いた。キティちゃんのカバーを外す。
「娘さんからのプレゼントだって、言ってたわね・・・」
「女の幸せは、家庭に入って、子供を生む事だよ」
馬鹿な課長の口癖よ。マイホーム・パパ。課長、貴方は、それでいいのかも知れないけど、私は嫌なの―
「誰か居るのなら、早く出て来た方が身の為よ」
慶子は、不安を打ち消そうとした。
「はっ」
慶子は、息を呑んだ。ガラスに、何かが映ったのである。何か得体の知れない、巨大なもの・・・
今のは、何?
えっ、何? この臭い。
獣の饐(す)えた様な臭いであった。腐臭かも知れない。慶子は、この臭いを、どこかで嗅いだことがあった。
それが、思い出せない―
慶子の女の直観が、危険を知らせている。
早く逃げろ。
鼓動が、激しくなった。慶子はドライバーをそっと床に置くと、ヒールの高い靴を脱いだ。音をさせない様に、そっと歩き、自分の席まで戻ると、ハンドバックを掴んで、オフィスのドアに向かった。
ハーッ、ハーゥ。
何かの音が、聞こえる。
慶子は、走り出したい衝動を懸命に堪えた。背中を冷や汗が、流れる。凍り付く様な恐怖が、脊髄を震撼させた。脇の下が、汗で濡れる。そして、やっとの思いで、ドアに辿(たど)り着いた。
ドアをそっと開けて、閉める。ドアに鍵を掛けた。
カチィ。
大きな音がした―
慶子は、エレベーターまで全速力で走った。ミニスカートが、太腿にまとわり付いて、迫り上がる。きっとパンティが見えているに違いない。緊急事態なのよ。そんなこと気にしちゃいられないわ。ミニスカートは、走り難いのよ。H89の丸い尻が走った。
ドン、ドカ、グシャ。大きな音が、鳴り響いた。
慶子は、エレベーターに辿(たど)り着くと、ボタンを連打した。そうしながらも、慶子は、振り向いた。そして、再び、エレベーターの表示階を見る。
「早く・・・お願い・・う、う、う・・・」
慶子は、泣き出した。恐怖が、ズシリ、とのし掛かって来た。
「早く、早く・・・」
チン。エレベーターの扉が、開いた。慶子は、急いでエレベーターに乗り込んで振り返ると、廊下の突き当たりに、大男の姿を見た。
「人間じゃないわ―」
慶子は一階のボタンを押して、閉のボタンを連打した。その間も大男は、人間では考えられないスピードで走って来る。今にもエレベーターに追い付きそうであった。扉が閉まるまでの時間が、永遠にも永く感じられた。
「早く、早く―」
 慶子は、トイレを我慢しているかのように、足踏みをする。エレベーターが動き出して、慶子は床にへたり込んだ。ミニスカートが完全に捲(め)くり上がっていた。そこに、男の視線を集める、白い美脚が、横たわっていた。
「今のは、何だったの―」
扉の隙間から見えた、あの顔が、慶子の脳裏に焼き付いた。
ゴリラのような顔。額が突き出て、下顎(したあご)が大きい。鼻は低いが、横に大きく広がっていた。大きな目の瞳は、赤色であった。しかも、角がある。金色の角。そして、硫黄の臭い。
そうよ、北海道の、あれ、地獄谷の臭いだわ―オフィスには違和感のある臭いである。
ガタン。
「キャッ」
突然、エレベーターが大きく傾(かし)いで、止まった。
ドスン。
「キャーッ」
エレベーターの天井が、軋(きし)んだ。慶子は、非常電話を取ろうとして、思い留まった。
開のボタンを押した。
扉が開いた―
「やったー」
慶子は、天井から伸びて来た、太い腕を掻い潜ってエレベーターを脱出すると、非常階段を探した。非常階段を見付けると、転げる様に飛び込んだ。
ガツン。
何かに、ぶつかった。慶子は、目の前が真っ暗になった。
意識が遠のく―
実際は、何かにぶつかったのではなく、大男に捕まってしまったのであった。

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