2013.08.06.

深い水底
002



■ 第二章

月曜日。週の初めだというのに、朝から小雨が降ったり止んだりしている。
湿気を含んだ空気。汗でブラウスが肌にまとわりつき、不快指数が高い。

もうすっかり梅雨の季節か。

窓の外の薄曇りの空を、意味もなく見つめながら、心の中でつぶやいた。
前日に受けた民法の小テストの感触が思わしくなかった上、このような天気。

夏の大会が近いというのに、いつもは上向きになるコンディションも、今年は上がってこない。
水泳を始めて以来、はじめてのスランプと言える状況が、私の気持ちを曇らせた。

主将という立場にプレッシャーを感じていないと言えば、嘘になる。
二年生での大抜擢であり、当然、部の中には異論を唱えた者もいるらしい。

そして、昨年の大会選抜を決めるレース後に起こった、あの出来事。
正直なところ、私は主将に乗り気ではなかった。もっと相応しい人間がいると思っていた。

今は、力で証明するしかないと思っている。周囲の雑音を消すには、結果を出すしかない。
何よりも、私自身が一番ショックを受けた、あの出来事を振り払う為には、そうするより他に道がない。

そのことが、明らかに力みにつながっていた。
小さな変調は、次第に大きな狂いとなっていった。いつの間にか、フォームが崩れていた。

また、直接的な原因ではないと理性では分かっていても、男子部員達のことを考えると、
自分の不調は、彼らのせいではないのかという気持ちになってくる。

練習をさぼるのは個人の自由だ。しかし、周囲の人間の邪魔をする権利は無いはずだ。

私が目を光らせていても、女子部員にちょっかいを出す人がいる。
真面目に練習している人間の傍らで、大騒ぎをして、怪我につながるような悪ふざけをする人もいる。

これまでは、水泳のことだけを考えていればよかったのに、それができないもどかしさ。
二年生になってから、水泳のことを考えると、気分が憂鬱になるようになっていた。

ぼんやりと、そんなことを考えているうちに、講義終了のベルが鳴った。
いけない。今日の講義も全く頭に入らなかった。いくら自由選択科目だと言っても、これはまずい。

いつもなら、この講義終了後に友人たちと合流することになっているのだが、
今日はそんな気分にはならなかった。簡単なメールを打ち、辞退することにした。

携帯を閉じると、大学の西棟を足早に抜け出す。これからどうするのか、心は決まっていた。
知り合いに見られていないか注意しながら、校舎の裏側の長い階段を下へと降りていく。

校舎よりも低い場所にある屋外プールが、階段を両脇から取り囲んでいる林の中から、
視界へと飛び込んでくる。

その水面が、今日はいつになく、くすんでいるように感じられた。
まるで今日の私の気持ちみたい。そう思った。

プール沿いにひっそりと建てられた、古いコンクリートの建築物。

男子部主将、戸澤君の姿はない。理工学部生で、男子のエース。
人間としても、アスリートとしても、彼のことは尊敬していた。

その彼が、四限後に鍵を開けない限り、本来、誰も部室に立ち入ることはできない。
当然、この時間帯に、この近辺に誰かがいるはずもなかった。

ポケットから鍵を取り出すと、もう一度周囲を確認してから、慎重に解錠する。
湿気が立ち込め、あたりには土の匂いが漂う中、重い音を立てて、鉄の扉が開かれた。

ぞくぞくするような感情を抱きながら、室内へ身体を滑り込ませた。
蒸し暑さ、室内の空気の悪さに顔をしかめながら、奥へ奥へと足を進めていく。

驚いたことに、目の前の椅子の上には、誰かの財布が置かれたままになっていた。
昨日の練習後、忘れていったのだろうか。ずいぶん間抜けな人間もいるものだと思った。

中から免許証を取り出して、納得する。山本一臣。私が毛嫌いする男子の一人。
彼なら、バカ騒ぎをした揚句、財布を忘れて帰ることも、有り得るだろう。

今日はついているのかもしれない。
私は笑い出しそうになるのをこらえながら、財布をポケットへ滑り込ませた。

目的を果たせたのだから、このような不快な空間に長居は無用である。
入ってきた時と同じように、慎重な足どりで、明るい外の世界へと踏み出した。

「?」

ふと、足元に落ちている白い物体が気になって、私は歩みを止めた。
拾い上げると、それは、タバコの吸い殻だった。捨てられてから、時間がたってないようだ。

嫌な予感がした。
ふと、背後に人の気配を感じた。私が振り返るのと、右の手首をつかまれるのが同時だった。

「・・・痛い!」

振り向いた先に、太い腕の主がいた。山本一臣。財布の持ち主。

「・・・!!!」

何が起こったのを理解して、恐怖で頭が真っ白になりそうだった。
必死に口から言葉を吐き出す。

「は、離しなさいよ!」

それには答えず、私をつかまえている山本は、強引に扉の方へと振り向かせた。
そこには、大きな影がもう一つ。

たたずむその人間の表情はよく見えなかったが、それが誰なのか、私にはすぐ分かった。

「加藤・・・」

事態がとんでもない方向へと傾き始めたことだけは、パニック状態の頭でも理解ができた。
加藤。よりによって、こんなところで、こいつに出くわすことになってしまうとは。

男子部員の番長的な存在。ことあるごとに、私とは衝突している。
問題があると感じている男子の中でも、特にタチが悪いのが、この加藤である。

彼が陰険な、そして冷淡な笑みを浮かべていることに、私は気がついた。
加藤は、私をつかまえている山本に言い放った。

「おい、しっかり捕まえておけよ!」

加藤に山本。わたしが毛嫌いし、敵視してきた二人。

「いい根性じゃないか、女子部主将さん」

ぞっとするような笑いを顔一面に浮かべて、加藤がつぶやいた。

「真面目でうるさいお前が、盗難の犯人だったとは、笑わせてくれるじゃないか」

そう言うと、にやにや笑いながら、数枚の写真を取り出し、私の足元へと放り投げた。

「くっ・・・」

己の悪事を見とがめられた羞恥心、しかも、それを一番見られたくない二人に発見された悔しさで、
何も言えず顔を伏せた。頬が熱くなる。

写真に写されているもの。それは室内を物色する私の姿だった。
映っている服装から、今日撮られたものだけではないということは理解できた。

彼らは林のどこかから、ずっと見張っていたのだ。そして、あえて私を泳がせていた。
このところ感じていた、誰かが見ているのではないかという感覚は正しかったのだ。

「その写真を顧問の吉田先生に渡したらどうなるかな」

肩をすくめるような仕草で語りかけてくる加藤。

「お前を慕っている部員達に見せたら、みんなはお前をどう思うかな」

「・・・・・・」

「もちろん警察に渡しても構わない。これは立派な犯罪行為だからな」

山本が耳元で語りかけるように囁いてくる。
かすれたようなこいつの声は、生理的に受け付けない。肌が粟立つ。

「なんとか言えよ」

何も反論できるはずがない。

学校を退学になるかもしれない。警察沙汰にもなるかもしれない。
考えるだけで気が遠くなる思いだ。めまいと吐き気を覚えた。

ぐるぐると視界が回り始めるのとは裏腹に、冷静にこの状況をどう打開するか、
計算を働かせている自分もいる。ただし、置かれた状況は、かなりきつい。

「写真をばら撒かれたくなかったら、俺達の言う事を聞いてもらおうか」

「とりあえず、別の場所へ移動だ。ここはもうじき、他のやつらがやってくるからな」

男達の声は、既に私を制圧したとでもいうような満足感に充ち溢れていた。

「言い訳はしないわ。とにかく離してよ。痛いじゃない!」

山本の手を振りほどこうと、私は暴れた。

「黙れ。お前のその偉そうな態度がいつも目障りなんだよ。」

山本が、手首をつかんでいるのとは反対の手で後ろから口を抑えてきた。
節くれだった指が、私の顔半分を覆ってしまった。

「むぐ・・・」

「女子部の主将さんは体調不良でお休みだと吉田先生には伝えてある」

加藤が意地の悪い笑みを浮かべた。

必死に抵抗したが、びくともしない。
山本は浅黒い肌をした、かなり上背のある男だ。私に太刀打ちできるはずがない。

「おい、ここのシャワー室に連れて行け。あそこなら誰も来ないはずだ」

加藤がにやつきながら言った。山本が、私の身体を扉の方向へ引きずろうとした。

山本が引っ張ろうとしても、私はすり抜けようと身を捩る。さすがに山本も手こずった。
ついに彼は、私の口を塞いでいた手を離した。脇の下に手を入れると、力ずくで引きずろうとする。

「私に何かしたら、あなた達だって、ただでは済まないわよ」

「お前の方から何とでも言い訳を考えることになるさ」

山本は私を持ち上げるようにしながら、強引に引きずり始める。
浮いた足をばたつかせながら、私は己の非力さを呪った。

「さあ、こっちに来るんだ」

そのまま裏手のシャワー室へと連れて行かれる。
叫び声を上げたかったが、再び山本に口を塞がれてしまった。

腕が付け根から裂けてしまうのではないかと思うぐらい、強い力で引っ張られる。
誰かに出くわさないかと願ったが、皮肉なことに、誰も近くにいる気配がない。

裏手に回ると、加藤は躊躇なくシャワー室の扉を引き開ける。私を引きずる山本が、その後に続く。

床のタイルは埃で覆われていて、この空間は部室よりも、さらに黴臭かった。
天井の裸電球は消されていて、今は磨りガラスの窓から頼りない光が入ってくるのみだった。

中に入ると、山本は私の口から手を離し、加藤の方へと振り向かせた。

「覚悟しなさいよ。こんなことして、もう後戻りできないわよ」

「見上げた根性だな。自分の置かれた立場がまだ分かっていない」

加藤の目をまっすぐに見つめ、私は悪態をついた。

「大声出すわよ」

「無駄さ。この近くには誰もいない」

その通りだった。

さらに悪い事に、建物の裏手にあるシャワー室は、校舎とは反対側の向きに位置しており、
裏に回り込みでもしない限り、誰の目にもつかない。

「お前がいつまで強気でいられるのか、今から楽しみだよ」

背後から、山本がかすれた笑い声をあげる。加藤も、くっくっくと嫌な笑いを洩らす。

「自分がこれからどうなるのか考えて、苦しむんだな」

加藤が後手に扉を閉める。シャワー室の鉄製の扉が、金属のきしむ音と共に閉じられた。
とても長く、耳障りな音だった。

それは、まるで、これから起こることへ絶望した、私の悲鳴のようだった。



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