2013.08.10.

深い水底
003



■ 第三章1

「奈央、なにボーっとしてるのよ。叱られるわよ。」

ハッと振り向いた視線の先に、いつの間にか隣の席に座っていた友人の顔があった。
切れ長の目で、私の顔を探るように、ジッと見つめている。

あどけなさは残るが、こうして近くで見てみると、大人っぽい顔立ちになったなと思う。
彼女は着実に、大人の女性へと変貌しつつある。

「どうしたの、私の顔をじっと見たりして。」

「何を考えていたかは、秘密。」

「そんなこと言って。後でノート貸してあげないんだから。」

白い歯を見せてけらけらと笑う。ショートカットの髪が揺れる。

金曜日の3限は、どの学部の人間も受講できる、自由選択科目だった。
学部が違っても、なるべく同じ講義を選択できるように、友人同士で話し合ったのだ。

ただし、その科目が必ずしも面白いとは限らない。
つまらない講義で、90分という時間はきつい。

教室の右上にある時計の短針が、少しでも早く回ってくれやしないかと、心の中で念じ続けてていた。
ようやく終了のベルがなった時、くたくたになっていた。

「今日の講義も、退屈だったね。奈央は寝てるし。」

「もう、変なこと言わないでよ。寝てないったら。」

悪戯っぽく笑う友人。この笑顔は、小学校の時から、ずっと変わっていない。

私の名前は原田奈央。N大学の文学部二年生。

所属しているのは、体育会系の水泳部。生活の大半を、泳ぐことに費やしている。
週5日、大学の講義終了後の部活での練習。休日には、近所の市営プールに通っている。

とにかく泳ぐことが好きな私は、物ごころが付いた頃には、水さえあれば飛び込んでいた。
毎年、夏になると、家族で海に行くことが、楽しみで仕方がなかった。

現在、泳ぐことが好きだという理由以外にも、私を突き動かしているものがある。
それは、ある一つの約束だった。今、隣にいる友達と、ずっと昔に交わした約束。

小学生の時には、泳ぐことで、ある程度有名になっていた私だったが、
中学に進学して、上には上がいることを痛感させられた。

中学一年生で同じクラスになった女の子。それが晶だった。
教室の席が離れていたので、始めて会話したのは体育の授業だったと思う。

小柄な彼女は、陸上では目立つことがなかったのだが、夏になると水泳の授業で本領を発揮した。
クロールのタイムを競う機会があったのだが、私は全く歯が立たなかった。

すごいね。悔しい気持ちすら吹き飛んでしまい、本心から出た言葉だった。
彼女と親しくなれたきっかけは、この一言だったと思う。

いろいろ話をして、家が近いことも分かり、それからは一緒に行動する機会が多くなった。
体格では私の方が恵まれていたが、彼女の綺麗なフォームは天性のものだった。

高校にエスカレーター式に進学した後も、その関係が変わることはなかった。
常に私の先を行く彼女だったが、私も努力で、なんとか食らいついていった。

同じN大学を受験したのも、強豪校で、二人で水泳を続けたいという気持ちが強かったからだ。
学部こそ、文学部、法学部と別れたが、同じ体育会系の水泳部に所属することになった。

恥ずかしくて聞く事は出来ないが、彼女もきっと覚えてくれていると思う。
中学校の卒業式の帰り道で、なんとなく話が盛り上がった際に交わした、約束。

同じ大学に進学して、県大会に二人で出場する。そして、共に決勝へ進出する。
最後まで全力で競い、ワンツーフィニッシュを決められたら最高。

事実、私たちは、県内でもそこそこ名前が通る存在にはなっていた。
その約束が果たされる日は、そう遠くはない。その想いは強くなっていた。

ところが、一年生の夏、大会出場者を決める選考レース後、部内でちょっとしたドタバタがあった。

その出来事は、彼女がダントツの成績で、一年生で代表に選ばれたという、
本来は喜ばれるべきニュースを、くすんだ色合いに変えてしまった。

私は今でも悔しい。
その出来事で、一番傷ついたのは、晶本人であることは、誰の目にも明らかだった。

しかも、顧問の先生が行った抜擢人事が、裏目に出てしまった。

彼女は、更なる成長を期待されて、二年生で主将に指名された。
通常、主将は三年生が務めるものなので、これは異例である。

ところが、これが悪い方へ作用した。彼女は、プレッシャーからか、調子を落としている。
彼女は面倒見の良い人間ではあったが、高校までに、主将という立場を経験してはいなかった。

ひとたび部活を離れれば、いつもの明るい晶に戻るのだが、私の気がかりは続いている。
誰よりも美しく、早かった晶の泳ぎは、いつになったら蘇るのだろうか。

それを誰よりも一番心待ちにしているは、ライバルである私だった。

週が明けて月曜日。じめじめして、蒸し暑い。
小雨が降ったり止んだりで、窓の外の空はどんよりと曇っていた。

一週間が始まったばかりなのに、こんな天気なんて残念。
講義の終了を告げるチャイムが鳴ると、階段教室の中間あたりの席で、私はため息をついた。

三限終了後は、晶、そして高校時代からの友達である、麻衣や由美子と合流し、
練習が始まるまでの一時間半、カフェテリアで四人でおしゃべりをして時間をつぶす。

ところが、この日は、晶から来れないというメールが届いた。

最近、無理して元気に振る舞っているようなところがあり、私は心配だったのだが、
立ち入り過ぎるのも気が引けたので、仕方なく、三人で時間をつぶすことにした。

麻衣たちはアイスコーヒー、そして、私はいつも通り、アイスティーを注文する。

「晶、最近元気ないみたいだけど大丈夫?」

由美子はさすがに鋭い。高校の時から、四人のリーダー的存在だった。
理工学部に所属し、将来は研究者を目指しているという変わり者だ。

「大会が近いから。それに主将っていろいろ大変なのよ。」

麻衣が笑顔でうなずく。

一度、四人で近くのプールに泳ぎに行ったことがあるのだが、
そこでの晶の泳ぎに、麻衣は心酔した様子だった。

「二年生で抜擢ってすごいよね。普通は三年生になってからだよね。」

麻衣とは対照的に、由美子は心配そうな顔をしている。

「でも、二年生になったから、あまり調子良くないんでしょ?」

四人の中で一番背が高い由美子はバトミントン部に所属している。体育会系ではなく、サークルだが。

「それよりも、駅前に新しくできたケーキ屋さん、今度行ってみない?」

私は意識的に話題をずらした。
由美子が一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに引っ込めた。

彼女は多分、気が付いている。晶が元気がない原因が、水泳部にあることを。
昨年夏に起こったあの出来事を、私は彼女たちに、あえて伝えていなかった。

晶が言わないでくれと、私に口止めしたからだ。
友達想いの由美子が聞いたら、憤慨してやっかいなことになりそうだというのが理由だった。

その日、流行りのファッションやら、いろいろな話題が出たのだが、私は晶のことが気になって、
半分も耳に入らなかった。由美子は、時折、じっと私の目を見つめてきた。

いつかちゃんと話さないといけない。
由美子は怒るだろうが、私なんか思いもよらぬ方法で、晶の元気を取り戻してくれるかもしれない。

彼女たちと別れると、私は西棟校舎の裏側の階段を降りて、体育館へと向かった。
着替えを済ませると、屋内プールへ急ぐ。おしゃべりに夢中で、練習開始ぎりぎりの時間になってしまった。

ところが、先に行っていると言っていた晶の姿がどこにも見当たらない。
顧問の吉田先生に尋ねると、具合が悪くなったので、急遽欠席するという連絡が入ったとのこと。

「原田は何も聞いてないのか?」

「ええ・・・今日はまだキャンパスで会ってないんです。」

私は急速に不安が膨らんでいくのを感じた。
心の変調が、体調にも影響を及ぼし始めたというのだろうか。



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