「カローラ」 第四章「病」 3



家に帰り着くと、父は外出していた。父の顔を見たかったのに、どこにもいない。
落ち着かない気持ちを抱えたまま、順はひとりで裏山へと向かった。

黙々と小走りに獣道を抜けていくと、しばらくして開けた草地に出た。山の中ほどにある、順が気に入っているあの木がある場所だ。今年もまた多くの小さな花が、白いつぼみをつけ始めている。

草地の真ん中まで、ゆっくりと歩いていった。
今日は木に登る気がしない。登る力もないような気がする。
中ほどまで来た時、草を踏みしめて歩く視界に水滴が落ちはじめた。

「雨だ……」

振り仰ぐと、ぽつぽつと雨粒が落ちてくる。いつの間にか空には雲がかかっていた。今の今まで全然気がつかなかったが、そういえば少しだけ肌寒い。

一粒、二粒、三粒。
曇天から降り落ちる雨の粒は、見上げた順の頬を少しずつ濡らしていく。草木も順と同じように雨に打たれ、ぱらぱらと小さく音を立てていた。

『帰ろ、風邪引いちゃう』

夕歩の声が、耳の奥に響いた気がした。瞬間、雨の音が遠くなる。
急に脚の力が抜けた。地面にがっくりと膝をつく。順はそのまま、雨に濡れはじめた草地に両手をついた。

「どうして……」

過ちで生まれた自分は雨に濡れても平気なのに。
正当な両親の間に生まれた夕歩は、この先病室の中でじっと安静にしていなければいけないのだ。

地面についた手の甲に涙が一粒落ちた。そのまま両手を握り締めると、雨に濡れて柔らかくなり始めた下土が、指の間にまとわりつく。

「どうして、どうして……」

歯を食いしばった口元から、嗚咽のような声が漏れた。
また一粒涙が落ちる。また一粒、また一粒。
今地面に落ちているのは雨なのか、それとも自分の涙なのか。順にはもう分からなくなっていた。



  *


暖かい……。

気がつくと順は草地に倒れこんでいた。喘ぐように泣いて、泣いて、泣くのにも疲れ果てて、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
地面につけたのと反対側の横顔に柔らかな日差しを感じて、順はぼんやりと目を開いた。

眩しい明かりが鼻先の草を照らしている。草についた雨の滴は、日差しを受けてきらきらと輝いている。そのままの姿勢で視線だけを動かすと、白い花の小さなつぼみが目の隅で風に揺れた。

頬を照らす暖かさに誘われるように寝返りをうつ。そのままごろりと仰向けになると、順は目の前に広がる光景に息を飲んだ。

いつの間にか雨は上がり、空には夕焼けの赤い光が差している。空を覆う大きな雲は赤く照らされ、その隙間から漏れ出た光が、眩しいほどに順の視界を照らしていた。

綺麗だ。

どこか遠くで、虫が鳴いている。
木の枝が風にそよぐ音も聞こえてくる。
泣き疲れた喉は熱く、鼻の奥はつんとしているが、雨に濡れた草木の甘い匂いが心地いい。

世界は不公平で理不尽で、こんなにも順のことを悩ませている。きっと夕歩のことを苦しめている。
それでも、こんなに綺麗だなんて。

仰向けになったままで、静かに頭上でゆっくりと流れゆく雲の動きを眺めやった。
この綺麗な空を、夕歩にも見せてあげたい。こうして雨上がりの草の上に、一緒に寝転がってみたい。

(だけど、夕歩は……)

目を閉じると、まぶたの裏に明るく赤い夕暮れの光が広がった。雨上がりの匂いが全身を包み込む。
最後にまた一粒、順の頬に涙が静かに流れ落ちた。



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