夜、桃香は寮のある一室の窓の下に立っていた。 空には雲も微かにかかっているが、それでも柔らかな月明かりは桃香の影を薄く地面の上に落としている。梅雨の終わりと夏の始まりの境い目、不思議と穏やかな気温の夜だった。 (あそこじゃな) もう明かりの消えている窓もいくつかあったが、目的の部屋の主はまだ起きているようだ。 部屋の位置をもう一度確かめた後、桃香は足元に転がっていた手ごろな大きさの小石を拾い上げた。 振りかぶって、投げる。 夜の闇の中を飛んだ小石は緩やかな弧を描いて、狙った窓に軽く当たった。 …… ………… ……………… しばらく待ったが、静かだ。 (気がつかんかったかな) もう一回投げようと小石を探して屈んだその時、頭上で窓が開く音がした。顔を上げて目を向ける。 (りお姉!) 桃香は窓から覗いた顔に向かって大きく手を上げ、声には出さず口の動きだけで相手の名前を呼んだ。 暗闇の中に桃香の姿を認めたりおなの口が、「あっ」という形を作る。かなり驚いてはいたようだが、りおなの顔はすぐに中へ引っ込んだ。 空にかかっていた雲が流れたのか、寮の外壁を月明かりが青白く照らし出している。 桃香は少し離れた木の陰まで歩き、りおなが下りてくるのを静かに待った。 ほどなくすると、りおなが寮の入り口に現れた。暗闇の中で、キョロキョロと辺りを見回している。 「りお姉、こっちこっち」 「桃ちゃん」 桃香は木の陰から顔を覗かせ、小さく呼びかけながら手招きした。 「桃ちゃん、こんな遅くにどうしたの?」 「ちょっと言いたいことがあってな」 「言いたいこと?」 桃香はりおなに笑顔を向けた。こんなに落ち着いた気分でりおなと話せるのは、入学以来初めてな気がする。 「りお姉、ウチ、今はまだりお姉に何もしてあげられんけど、もう少しだけ待っとって」 「え?」 「りお姉のこと、ウチが必ず自由にしてみせるけん」 「桃ちゃん……何を考えてるの?」 不安げな表情を浮かべたりおなの問いに被さって、人の近付く足音が聞こえてきた。音の方へ目を向けると、一人の生徒が暗闇の中を歩いてくる。 「りおなが外に出るのを見かけたから来てみたら、幼なじみ様のご登場ってわけ」 「鬼吏谷桜花……あんたは別に呼んどらん」 「こんな夜にまで、人の刃友にちょっかいかけに来たの?」 桃香はぶすっとした顔を桜花に向けたが、桜花は桜花でそんな桃香の言葉をあっさり無視して喧嘩を売るようなことを言う。やっぱりこいつとは、仲良うなんてできん。 桃香は改めて、桜花の方へ向き直った。 「まあええわ、ちょうどいい。りお姉に手を上げるのはいいかげんやめとき」 「あら、今日はずいぶん強気じゃない。やっとりおなのことを諦めて、他に刃友を作る気にでもなったのかしら」 明らかに挑発している口ぶりだったが、桃香はその手には乗らなかった。 「ふん、ウチが誰を刃友に選ぼうがウチの勝手じゃ。それよりあんたもいい気になっとらんで、りお姉に愛想つかされないように気いつけるんじゃな」 「…………」 いつもよりも余裕のある桃香の口ぶりに、桜花は不審げな視線をよこしている。 そんな桜花をまっすぐ捉え、桃香はにやりと笑って一気に言った。 「大体、いつもいつもそんなにツンケンしとると、そのうち頭にツノが生えよるで〜」 「な、なんですってっ!」 「じゃあ、そういうことじゃけん。またな、りお姉!」 「あっ、桃ちゃん……」 「ちょっとっ、待ちなさいよ!」 桃香はりおなにだけ手を振ると、くるりと背を向けて駆け出した。 二人の言葉が背中に被さる。しかし桃香は、振り返らずにそのまま走った。 そういえば、いつもは去って行く二人の後ろ姿をただ眺めているだけだった気がする。 (たまには、逆になったってええじゃろ) 口元に笑みが浮かぶ。 りおなと桜花は刃友で、自分は相変わらず単刃だ。 それでも今日は、気分も足取りも今までになく軽い気がした。 |
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