「sleeping two」 2



あれはいつのことだったか。
何年前か、はっきりとは覚えていない。頭がまどろみ始めたからか尚更よく思い出せない。だけど退院が決まった後のことだから、そんなに昔でもないように思う。
あの頃の順は可愛かった。
今は、ちょっといかがわしい。



  *



「ねえ、順」
「なに?」
「ちゃんと戸締りした?」

閉められたふすまの隙間からは、廊下からの明かりが細く差し込んでいる。
夕歩と順は、布団を並べて横になっていた。今日は久しぶりに順の家に泊まりに来たのだ。

「大丈夫、窓の鍵は締まってるし。玄関とかは父さんがきっちり戸締りしてるよ」

そう聞いても、心配な気持ちは易々とは鎮まらない。不安そうに廊下の方に目をやる夕歩に、順の声が被さった。

「まー泥棒とか変な気配がしたら、あたしがすぐに飛び起きるから」
「本当?」
「ホントホント、だから姫は安心してお眠りください」
「もう、姫って言うのやめてってば……」

順は「ごめんごめん」と笑いながら謝り、布団を被る。夕歩も布団の中に潜り込んだけれど、唇は不満げに尖らせたままだった。

順は何も分かっていない。泥棒みたいに実体のあるものを心配しているわけじゃないのに。
だけど何を怖がっているのかを順に打ち明けるには、今の状況はそれほど緊迫してもいなかった。一人っきりで眠るわけじゃないし、同じ屋根の下には順の父さんもいる。
胸のざわざわは消えなかったが、結局夕歩は心配の種を抱えたままで目を閉じた。




眠りについて数時間後、夕歩の目は急に覚めた。
ここは……そうだ、順の部屋だ。今日は泊まりに来てるんだった。

ぼんやりとした頭の中が徐々にまどろみから覚醒していく。
眠い。眠いはずなのに、意識はどんどんはっきりしていく。それとともに、不安な気持ちもどこからともなくこみ上げてくる。
どうして起きてしまったのかは分かるはずもない。だけど、何故自分が不安になり始めているのかは理解している。
このままもう一度眠りについてしまった方がいい。そう分かってはいる夕歩だったが、こういう時に限って頭は冴えてくる。
夕歩は布団の中で一度身じろぎし、それからゆっくりと瞼を開けた。

部屋の中は暗い。寝る前にふすまの向こうから漏れていた細い光も、今はなくなっていた。
順の父さんももう寝てしまったのか。隣では順が眠っている気配が感じられる。

今はいったい何時頃なんだろう。トイレは……まだ大丈夫だ。寝る前にしっかり行っておいてよかった。
暗闇の中で目だけをさまよわせ、窓の方に視線を移す。暗くてよく見えないけれど、窓の鍵は締まっていると順は言った。

何も心配することはないと思う反面、鍵が締まっていても安心はできないのではないかという疑念がよぎる。泥棒なら鍵が締まっていれば中に入ってはこられない。だけど、泥棒ではない、何か別のものだったら……。

(そんなの、いるわけない)

思考が危険な方向に走り始めているのに気がついて、夕歩は慌てて考えを中断した。暗闇に目が慣れてきて、次第に部屋の中がぼんやりと見えてくる。
もう一度身じろぎをして仰向けになると、部屋の天井が目に入った。

(…………)

何度も泊まりにきて慣れているはずなのに。見慣れた天井の木目が、何か別のものに見えてくる気がする。ゆっくりと、じわじわと、木目の模様が動いているような気がしてくる。そんなワケない、そんなワケない。

慌てて目をそらすと、部屋の隅の暗闇に視線が吸い込まれる。何もいないことは分かっている。だけど暗闇から目が離せない。
息が詰まるような思いで目を閉じると、今度は聞こえるはずのないものが聞こえてくるような気がして身体がすくむ。

(気のせい、気のせい)

目をぎゅっと閉じて、頭の中で必死に念じる。
すると順の柔らかな寝息が聞こえてきた。
聞き慣れたそのリズムに、少しだけ不安感が遠ざかる。どうして今まで気がつかなかったんだろう。

順の存在を感じたくて目を開けた。すぐ隣の布団の中で順はぐっすり眠っている。

思わず「順」と呼びかけそうになってしまったけれど、実際に口には出さなかった。
眠っている順を起こすのは悪いと思ったのも確かだけれど、それだけではないことを夕歩は薄々悟っていた。意固地になっている時と同じような気持ちを今の自分の中に感じる。何に対して意地になっているのかは分からない。

(…………)

順の規則正しい寝息のリズムを聞いていたら、何か腹が立ってきた。
なんで順は平気な顔をして眠っていられるんだろう。
変な気配がしたら飛び起きてくれるって言ったのに。

――変な気配。
変な気配なんてしない。しない、しない。

(順のうそつき)

頭がほとんど隠れてしまうくらいまで布団の中に潜り込む。
それからほんの少しだけ順の方に身体を寄せて、夕歩は無理やり瞼を閉じた。




何かの気配を感じて、夕歩は再び眠りから引き戻された。無意識のうちに瞼を少し開くと、薄い光の線が布団の上に落ちている。
眠りで薄もやのかかっていた意識が徐々に覚醒してくる。そこで、布団の中に順がいないことに気がついた。

(…………?)

目をこすりながら首を少し浮かせると、廊下に続くふすまのところに順の姿を見つけた。順はふすまを少しだけ開けて、廊下の方を覗いているようだ。
一瞬もう朝なのかと思ったけれど、窓から明かりは漏れていない。細く開けられたふすまの隙間から漏れる光だけが、部屋の中に長々と伸びている。

「……順?」
「あ、夕歩。起こしちゃった?」

夕歩の声に、パジャマ姿の順が振り向いた。

「どうしたの?」
「ん、なんかね」

上半身を布団の上に起こしながら問うと、順はまたふすまの隙間に目を当てた。

「なんかあったみたい」
「え?」
「父さんが玄関のところで誰かと話してる」

言われて耳を澄ましてみると、確かに人の話し声が聞こえる。
片方は順の父さんの声、もう片方は知らない声だ。二人の話し声は小さくて内容までは聞き取れない。その低めの声のトーンは、どこか緊迫しているようにも思う。

夕歩はその声を耳にしながら、順の勉強机の上の置時計に目をやった。
ふすまの隙間から漏れた光でかろうじて文字盤が読める。長く眠っていた気がしたけれど、時刻はまだ真夜中を少し過ぎたくらいだった。

と、話が終わったのか玄関のドアが閉まる音が聞こえてきた。続いて足音が部屋の前まで来て止まる。

「二人とも、起きてたのか」
「うん」

ふすまがすっと開けられ、廊下の明かりが部屋の中に入り込む。その光は起き抜けの目には少し眩しくて、夕歩は思わず目を細めた。順の父さんの顔は、逆光になっていることもあってよく見えない。

「父さん、どうしたの?」
「すぐそこでボヤがあったそうだ」
「えっ? 火事っ?」

部屋の中で驚きの目を向ける二人に、順の父さんは簡単に説明を始めた。
なんでも近所で火が出たらしくて、隣の人が知らせに来てくれたのだという。火事といっても幸いなことに火は小さく、既に家の人が自力で消し止めたという話だ。
それでもやはり火事は火事。心配なのか、順の父さんは一応様子を見てくると二人に告げた。

「玄関には鍵を締めて行くから、お前たちはここにいなさい」
「はい」

少しだけ緊張した面持ちで順が答える。その声に合わせるようにして、夕歩も布団の上で頷いた。

「あ、消防車」

そうこうしているうちに、遠くから消防車のサイレンが聞こえてきた。きっと誰かが呼んだのだろう。徐々に近づいてくるその音に急かされるようにして、順の父さんは出かけていった。




玄関が閉まる音を確認すると、順はふすまを少しの隙間を残して閉めた。
順と二人だけで取り残されると、家の中がやけに静かに感じられる。廊下の明かりは点けられたままで、その柔らかな光がふすまの隙間から部屋を僅かに照らしていた。

「火事だって。ビックリしたね」
「うん」

普段は滅多に起こり得ないこと、しかも夜中ということもあってか、少し興奮しているのが自分でも分かる。

「でもこれで分かったでしょ?」

順がふすまのところに立ったままで得意げに笑った。だけど夕歩には何のことだか分からない。

「え? 何が?」
「もー、夕歩ったら覚えてないんだ。ひどい」

ひどいなんて言われても。心当たりが何もなく思案していると、順はまた得意げな顔をして話し始めた。

「何か変な気配がしたら、あたしが飛び起きて夕歩のことを守ってあげるって言ったじゃん」
「え……?」

そのことなら覚えている。寝る前に順は確かにそう言った。そして今、順は確かに夕歩よりも先に起きていた。

「順、気配を感じて目が覚めたの?」
「んー……、まあ、そこまで言うのは大げさかもしれないけど」

真剣な目で問うと順は自信がなくなってきたのか、曖昧な笑みを浮かべて頭をかいた。

「でも、やっぱりちょっとは変な気配を感じたと思うよ」
「ほんとに、気配が分かるの?」
「ちょっとだけどね」

順は忍者だから、もしかするとそういう修行もしているのかもしれない。でも……

「じゃあ……眠ってる時に私がこっそり順の首を絞めようとしたら、それも分かる?」
「ええっ?」

さっき夕歩が一人で目を覚ました時、あんなにドキドキしていたのに順は起きてはくれなかった。
だけど今のはたとえが少し物騒だったか。夕歩の言葉に順はものすごく焦り始めてしまっている。

「なんで夕歩があたしの首を絞めるのっ?」
「もう、たとえばだってば……」
「ほんと? ほんとにたとえ?」
「ほんとだってば」

順は夕歩の言うことを真に受けすぎるきらいがある。別に本当に首を絞めたいわけじゃない。何度も言うと、順はほっと胸を撫で下ろした。
だけどさっきの答えは。夕歩がもう一度聞こうとしたところに、順の口が先に開いた。

「あーでも、夕歩の気配だったら気がつかないかも」
「え? なんで?」
「身近な人の気配には、まだそんなに敏感に反応できないっていうか。もっと訓練すれば、父さんや夕歩の気配も手に取るように分かるようになるのかなー」

身近な人。
さりげなく言われたその言葉は、何か大切な響きを持っているような気がした。何と返事をしていいものか咄嗟には分からない。言った当人は何でもない風に、夕歩に笑顔を向けている。

「それより夕歩、どうしてあたしの布団の中にいるの?」
「え……?」

順の言葉に我に返り、次に一瞬きょとんとして、それからすぐに気がついた。
ほんとだ。自分は確かに順の布団の上にいる。
おかしい。眠る前はきちんと自分の布団の中にいたはずなのに。

「一緒に寝たいんなら、そう言えばいいのにー」

順がにこにこしながら布団の方に戻ってくる。

「別に。そんなんじゃないもん」
「えー」

あからさまに残念がる順を置いて、夕歩はそそくさと自分の布団の上に戻った。

そういえば、前はお泊まりの度に一緒の布団で眠っていた。布団は二組敷かれていても、必ずどちらかがもう片方の布団に潜り込んで眠っていた。
きちんと別々に寝るようになったのはいつの頃からだっただろう。

「じゃああたしがそっちに入っていい?」
「ヤダ」
「えー」

順は自分の布団の上にぺったりと座って、唇を尖らせている。
夕歩は構わず横になって布団を被った。目を閉じると順が何やらブツブツ言っているのが聞こえてきたけれど、それもすぐに静かになった。

順が布団を被る音、続いて二人の呼吸の音だけが部屋に満ちる。今度は朝まで眠れそうだ。



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