皆守甲太郎のよくあるかもしれない試練
「こ・う・ちゃぁんv お・き・てv」
 妙に高い作り声が皆守の耳をつつく。女の声を作っているつもりかもしれないが、その声はあまりにはっきり裏返っていて男が裏声を使っているのだというのは自明だった。
「んもう、甲ちゃんったら、今日は早く起きなきゃでしょv 起きないと、ちゅっちゅしちゃうぞv ほらぁv」
 というかこれは九龍の声だ。またあいつが俺を起こしに来やがったのか。
 となれば、こんな寝言に耳を貸す必要はない。皆守は目を閉じたまま毛布を引き被ろうと手を伸ばした。
「………?」
 皆守は寝ぼけつつも眉を寄せた。毛布にしてはやけに分厚いし固いしごつごつしている。そのくせ表面は妙に滑らかで、電気毛布のように暖かい。これは――
「しょうがないなぁ、甲ちゃんはv お・寝・坊・さんっv」
 なにかが近づいてくる気配があって、柔らかいものが鼻に触れ、それから徐々に下に降り――
「―――うぎゃああぁぁぁっ!!!」
 絶叫して飛び退る皆守に、九龍はベッドに上半身を起こしてぶりっ子ポーズを取ってみせた。
「お・は・よv」
 その姿は(予想はしていたが当たってほしくないと思っていたものの残念ながら見事に的中していることに)全裸だった。毛布の下からのぞく肌が見ようによってはなまめかしいと言えなくもないが、どちらかというとしっかりついた筋肉や肩幅などが男としての逞しさを感じさせる。
 ――つまりその格好でぶりっ子ポーズなどされるとひたすら不気味なわけだ。
 朝っぱらからヘビーな情景を見せられ、うっかりはーはーと息を荒げつつ、皆守は九龍を睨みつけた。
「なんの真似だ。九ちゃん」
「嫌がらせ」
 九龍はなぜか肩をそびやかせてきっぱり答えた。あんまり見たくないものが毛布の隙間からちらちらのぞいていることに地味にダメージを受けつつ、皆守は冷たく言う。
「悪いが俺にはお前の暇つぶしにつきあう義理はないんだ。とっとと服着て俺の部屋から出て行け。今なら勝手に俺の部屋に入ったことは咎めないでおいてやる」
 というかこいつが鍵をかけていても鍵開けしてどこにでも入ってくるのは今更だし、と思いつつの言葉に、九龍は妙に平板な、いかにも怒りを押さえこんでいますよと言わんばかりの笑顔を浮かべた。
「アンハ? つまりあれですか、甲太郎くん。君が昨日言った『俺が悪かった。殴るなりなんなり好きにしてくれ』っていう言葉は駄法螺だったと、そういうわけですね?」
「……って、お前な! 確かにあれは嘘じゃないけどな、昨日あれだけやっといて、まだあれを盾に取るとか言うか!?」
「あれだけって、ただ亀甲縛りにして逆さ吊りにしたり蝋燭垂らしたり体に乗せて火をつけたり電動マッサージ器でくすぐり責めしたりしただけじゃん。別に体にひどい跡がつくようなことやってないだろ?」
「それだけやっといてだけとか言うか……しかもそれに加えて人を素っ裸にして妙な格好させて写真撮ったり顔に落書きして写真撮ったりしてくれたよな……人が筋肉弛緩剤盛られてろくに動けないのをいいことに……!」
「あー、あれは嬉しかったな。使い道なかった筋肉弛緩剤大量に消費できて。細掃から手に入れたのでも効くもんだな案外」
「言いたいことはそれだけか……なんならお前にも同程度の痛みを刻んでやってもいいんだぞ……?」
 話しているうちに怒りが蘇ってきて、ずぬぬぬぬと顔を九龍に近づけていると、九龍は急に静かな目で皆守を睨んだ。泣きそうにも見えるその目にたじろいで、皆守は少し体を退く。
「……なんだよ」
「俺はそんな痛みどうってことないくらい悲しくてショックだった」
「――――」
「お前が死なんて安易な方法で自分のしてきたこと清算しようとしてるの見て、俺たちはこいつの生きたいって思える理由にはなれないのかってすっげー悲しかったし、俺とお前が一緒にやってきたことってお前にはなんの意味もなかったのかって思うと死ぬほどショックだった。俺らに向ける気持ちよりもお前の先生たちへの罪悪感の方がずっと大きいのかって思うと、悔しくて憤ろしくてしょうがなかった。あの時お前を生きたいって思わせるためだったら、それこそ俺の体ひゃっぺん焼いてもかまわなかったんだ」
「…………」
「結果的に助かったからよかったけど。あそこでお前らが本当に死んでたら、俺生まれて初めて後悔することになってたと思う。まぁそんなことにならないように俺はお前ら殴り倒してでも生かすつもりだったけどな」
「…………」
「言っとくけど俺、まだ怒ってるぞ。執念深い方じゃないつもりだけど、お前らが死のうとしたことって、簡単に許せることじゃないと思う」
「………悪かった」
 ぼそりと言って、皆守はうつむいた。九龍や八千穂にどんなに責められるかは、最初からわかっていたことではあった。
「……だがな……それならそれでもう少しまともな方法で報復したらどうなんだ」
 こういうやり方でやられると、九龍に弄ばれているような気がして、怒っちゃいかんと思っていても考えるより先に頭に血が昇る。
 だが九龍はすっぱり答えた。
「だって俺くだらない嫌がらせがしたいんだもん。そうでないと憂さ晴らしになんないだろ?」
 深刻な仕返しはやる方もしんどいからなー、などと言い放ちつつ毛布を振り捨て、皆守の視線も気にせず服を着始める九龍。
 皆守はしばし絶句して九龍を見やり、蹴っておくべきかどうか迷ったものの、やはり立場の弱さから思いきれず、とりあえずアロマパイプを取ってやたらにふかした。

「……それで俺をこんな朝っぱらから叩き起こしたわけか。確かに、効果的な嫌がらせだな」
 あくびを噛み殺しつつ、だるそうな表情でそうこぼす。そんな皆守に九龍はにっと笑った。
「半分は嫌がらせだけどもう半分はおせっかいだぞ。今日は終業式だかんな、成績表もらわなきゃならんだろ?」
「成績表? 今日は二十五日だろうが、テストはどうしたんだよ」
「情報おそーい。目立ちまくってた遺跡崩壊の件を人知れず片づけるために昨日は学校休みだっただろ? 協議の結果あの派手な光やらなんやらは不発弾の爆発ってことで対外的には押し通すことになったんだけどさ、墓にいた奴らにはある程度説明しないわけにはいかないよな? とりあえずそいつらは当分阿門家が面倒見ることになって、今は阿門邸にいるんだけど。やっぱ学園内に教師生徒がごろごろいる状態じゃ情報操作もままならない。ってわけで不発弾の後処理を理由に生徒や教師をとっとと追い出すことになったわけ。だからテストは中止、今日は終業式なんだよ。ま、怪しいっつったら死ぬほど怪しいけど、そんなん今に始まったことじゃないし。あもちんはそれで通せると思ってるみたいだな」
「…………あもちん?」
「あー、坊ちゃまのこと。あいつ後始末で超忙しいことになってたから、あいつへの嫌がらせはメンタル方向でちくちくやることにしました。他にもていたんとかお団子ちゃんとかいろいろ呼んだぞ」
「……殺されても知らんぞ」
「大丈夫。あいつには今は反論する権利はない。厳十郎さんも俺の味方だかんな」
「…………」
 皆守は無言でアロマパイプをふかし、けっこう長いつきあいになる自分の上司に同情の祈りを捧げた。
 時刻は八時十五分、寮から校舎に向かう人の数はけっこうな数になっている。そんな中でこんな話をして聞き耳を立てられでもしたら一騒ぎ起こりそうなものだが、別に声をひそめもせず話しているのに誰も聞きとがめるものはいなかった。
 それは一つには道行く奴らはみんな自分たちの話に夢中になっているということもあるだろう。昨日墓地に立った光の柱はほぼ全校生徒に目撃されたらしい。漏れ聞こえてくる話し声の話題は、ほぼ全てその関係だった。
「ニュース見たかよ!? 出てたよな、昨日の光の柱のこと!」
「不発弾の爆発とか言ってたよな、キャスター」
「そんなの絶対嘘だよ、あれは爆発とかそんなんじゃなかったもん」
「なんで光が出たのかとかそういうこと誰も言ってなかったよな」
「なんかすごい怪しくない? 先生たちも言葉濁しちゃってさー」
「テストまで中止になるなんてよほどのことだぜ。俺今日帰り墓地に寄ってみようかな」
「やめとけって! 生徒会の奴らが見回りしてるって話だぞ!」
 そんな話し声が方々から聞こえてくる。
 皆守はちろりと九龍を見た。九龍はいつものごとく、軽く笑みを浮かべて皆守を見返す。
「……やっぱり信じてる奴なんてほとんどいないみたいだな」
「それでも騒ぎにはなんないよ、証拠がないもん。写真撮ってる奴がいたとしてもなにがあったのかわかるわけじゃない。口を割るような奴もいないし、遺跡の残骸さえ見つけられなきゃ忘れられちまうさ。常識ってのはよくも悪くも頑固なもんだかんな」
「本当のことが知られたら一躍有名人だな、九ちゃん」
「いまさらいまさら。宝探し屋ってのはいつの時代も人知れず戦って人知れず去っていくものなのさっ」
「…………そうか」
 皆守はだるそうな表情のまま、アロマを深々と吸いこんだ。
 ――知ってか知らずか、九龍の返答は皆守の本当に聞きたかった質問に正確に答えていた。
『宝探し屋ってのは人知れず戦って人知れず去っていくものなのさっ』
 遺跡が崩壊して、騒ぎになって。探すべき宝も遺跡もなくなって。
 もはや九龍にとって、この学園にいる意味はなにもない。むしろ彼の素性が明かされる可能性のあるこの学園は、彼にしてみれば危険だ。
 そんな状況で、九龍はいつまでここにいるのか。
『――いつかは去っていく奴だと思ってはいたさ』
 心の中でそう一人ごちる。
 最初から予定されていた別れだ。別に驚くようなことでもない。
 こいつは自分ではっきりこう言った。『人知れず戦って人知れず去っていく』のが宝探し屋だ、と。
 だがこいつの振る舞いはあんまりにもいつも通りだ。あんなことがあったあとだというのに、自分に裏切られたあとだというのに、いつものように自分をおちょくりおせっかいを焼く。
 それなら自分も、見ないふりをするしかない。こいつが俺たちの目の前から、人知れず≠「なくなるまで。
『わかっていたことだ』
 そう、わかりきっていたことだ。こいつと初めて会った時から、自分は別れを予感していた。
 別に、だから自分から――と思ったわけじゃない。ただ、その方が楽だとは思った。
 もし解放される時が来るのなら、自分はそこで終わりでいい――自分はずっと、そう思ってきたのだから。
 解放されて、それからもなお生きていかねばならないと知った時は恐怖すら感じた。自分は生きて償いができるほど、強くはない。
 そんな時に九龍に死ぬほど叱られていじめられ、悔しいがほっとした。ああ、まだ自分は生きていいのだ。こいつの隣で、ごく当たり前のような顔をして生きることができるのだ、と。
 だが、その九龍はもうすぐこの学園を去っていく。自分の生きられる場所も、じきに消える。
『――だから、どうってわけじゃないさ』
 ただ、胸がひどく冷たいだけ。
 胸に穴が開いたような、そこに冬の風が吹き込んでいるような気分になっているだけ。
 自分が九龍と会うまでのように停滞していくのを感じながら、皆守は無言でラベンダーの香りを吸いこんだ。

「……あ! 九チャン、皆守クン、おはよ!」
 教室に入るなり、八千穂がすごい勢いで駆け寄ってきて叫んだ。
「おはよっ、やっちーv」
「……朝っぱらからやかましい奴だな、と何度言わせたら気が済むんだ、お前は?」
 だが八千穂はそれに返事をせず、皆守と九龍をじっと、真剣な顔で見つめてくる。皆守は居心地が悪くなって首をすくめた。
「……なんだよ」
「……皆守クン、九チャンに怒られた?」
「――――」
 もしかして、こいつはそれを気にしてたんだろうか。最後の戦いのあと、九龍に自室に連れこまれる前、一緒にいて心配そうな視線でこっちを見ていたのはこいつだったから。
「………ああ」
「反省した?」
「……まァな」
「そっか。えへへッ、だったらいいやッ」
 八千穂はにこっといつもの笑顔を浮かべると、話題を変えてにぎやかに喋り出した。
「テストがなくなったのはいいけどいきなり成績表ってのは辛いよね〜。あたし中間いまいちだったから期末で挽回しようと思ってたのにな〜」
「でもヒナちゃん先生が言うには、この学校は定期テストより小テストとか普段の授業の中での成績の方が重視されるそーだぞ」
「ええッ、それホント!? じゃあ皆守クン大変じゃない!」
「……大きなお世話だ」
 あははッ、と笑う八千穂。その顔は、皆守には完全にいつも通りに見えた。
 ――彼女は彼女なりに考えて、さっきの一言で皆守を許したと示したのだろう。そして皆守のしたことがなかったかのように、ごく自然に普段通りに振舞ってみせている。いかにも彼女らしい、自然な気遣いの示し方だといえた。
 だが、皆守は強烈な苛立ちを感じた。八千穂、お前はそんな顔で笑ってるが、お前の隣で笑ってるこいつはもうすぐいなくなるんだぞ。この学園から人知れず消え去って、二度と帰ってこないんだぞ―――
「よう、九龍。八千穂と甲太郎も元気そうだな」
「……誰がだ」
「俺は激怒した九龍に部屋に連れて行かれるのを見て、てっきり数日は足腰立たなくなるものと思ってたからな」
 はははッ、と笑うのは教室に入ってくるなりこっちに近寄ってきた夕薙だ。また面倒な奴が、と皆守は舌打ちする。
「白岐はどうした? 昨日一日姿が見えなかったから心配していたんだが」
「ああ、幽花なら瑞麗先生んとこ。やっぱりあのあと体調崩しちゃってさ、ルイ先生の見立てではただの疲労らしいけど。誰かそばにいた方がいいだろうっつーことで看てくれてる」
「そうか……」
「でもさ、夕薙クンが朝から学校に出てくるなんて珍しいよねッ! やっぱり夕薙クンも成績は気になるとか?」
「いや……まあ、そういうのもなくはないが」
 夕薙は穏やかに、どこか楽しそうに微笑した。
「卒業まであとわずかなんだ。その間はできるだけ学校に出てこようと思ってな。――九龍や八千穂や、ついでに甲太郎と一緒の時間を多く持ちたいし」
「俺はついでか……というか、寝言を抜かすな」
「皆守クンッ! もう、失礼なこと言わないのッ! ――えへへッ、夕薙クン、それホント? だったらすっごい嬉しい」
「嘘をついたってしょうがないだろう?」
「うわー、ナギってばかっわいいこと言ってくれるなー! 思わず頭なでなでしたくなっちゃう。ほら、なでなでv」
「――九龍、俺が言うのもなんだがこの光景は絵面的に寒くないか? 高三男子が背伸びして十四cm高い男の頭を撫でるっていうのは……」
「え、俺はいい感じだと思うけど? だってナギ可愛いじゃん」
「………は?」
「だってでかいとことか無精ヒゲとか傷とか目とかさー。でかいクマのぬいぐるみっぽい雰囲気と渋い男っぽい雰囲気のミックスがもーめっちゃ可愛いv なーやっちー?」
「え、えーっと……ノーコメント」
 騒ぐ九龍たちを横目に見ながら、皆守はアロマを吸った。ラベンダーの強烈な香りが肺を満たし、心と体がどんどんと冷やしていく。
(――こいつは考えないんだろうか)
 夕薙を見て、そう思う。
 自分と同じく一度は九龍を裏切った彼は、置いていかれることをどう感じているのだろうか。

「――そんなことを考えていたのか」
 終業式をフケて偶然一緒になった屋上で、ふと漏らした皆守の問いに夕薙はそう呆れたような声を出した。
「――どういう意味だ」
「別に、そのままの意味だが。――九龍が怒るわけだな」
 眉を吊り上げて夕薙を睨む皆守に、夕薙は肩をすくめて言う。
「要するに、お前は九龍をまったく信用していないってことだからな」
「――――」
 皆守は、思わずアロマパイプを落としかかった。
「なんだそれは」
「お前は九龍が離れていくと予感した。それはそれでいいさ。だが、俺が気に入らんのはお前が九龍のことを俺たちを放り捨てていくような奴だと思ってることだ」
「…………」
「いつか九龍とは離れ離れになる。それは確かだ。その別れは一ヵ月後かもしれないし明日かもしれない。だが、九龍は俺たちになにも言わず、俺たちの気持ちをぶった切るようにして別れる奴じゃ絶対にない。俺はそう信じてる」
「……他人が頭の中でなにを考えてるかなんて、わかるもんかよ」
「ああわからんさ。だがだからこそ人が他人を信じるという行為に意味が生まれる。本当のところはなにを考えてるかわからん他人の、言葉と行動を、自分の心で判断して、心を預け預けられる。それが人と人との繋がりだろう。お前はこの三ヶ月で九龍とそういう関係を築いてきたんじゃないのか、甲太郎」
「――お前はどうなんだ」
「俺は九龍を信じている」
 夕薙はきっぱり言い放った。誇らしげでも自信なさげでもなく、ごく当たり前のことを言っているという顔で。
「最後の戦いの前に、九龍と約束をしたんだ。この体が治ったら、一緒の道を歩こうってな」
「約束? 約束がなんの役に立つ。先のことなんて誰にもわからない、あいつが約束を破らないなんて保証はどこにもないだろ?」
「それでも繋がりのひとつにはなるさ。事実、昨日も九龍は俺の病気について今協会に問い合わせている、早く治そうなと言ってくれた。――お前も九龍と繋がっていたいと思うなら、格好をつけるな。なりふりかまわず約束でもなんでもして、繋がっていたいと示せばいいだろう。別れ別れになっても連絡先を確保するなりあとを追うなり、繋がりを保つ方法はいくらだってあるじゃないか」
「―――………」
「拗ねている暇があったら、行動してみろ。甲太郎」
 はっきりと告げられた言葉に、皆守は思わずよろめいた。
 確かにそうなのだろう。自分は拗ねているだけなのだろう。――だが、それではいけないのか? これ以上傷つくのを避けてはいけないのか? 九龍を求めて、自分ほど九龍が自分のことを求めていないと知るのを恐れてはいけないのか――?
 そうだ、自分には自信がないのだ。九龍が自分と繋がっていたいと思ってくれていると自惚れられるほど、自分に自信が持てないのだ――一欠片も。

「あーっ、皆守クンと夕薙クン、こんなとこにいたーっ!」
 ふいに八千穂の元気な声が屋上に響いた。
「んもうッ、あんなこと言っといてちょっと目を離すと二人ともこれなんだから〜。もう成績表返されちゃったよッ?」
「ま、書類上は出席したってことになってるけどな、朝の出欠調査の時はいたから。ほい、成績表持ってきてやったぜー。中は見てないから心配すんな!」
 屋上に入ってきた八千穂のあとから九龍も顔を出す。二人ともいつも通りの、元気を絵に描いたような顔だ。
 数瞬硬直した皆守は、のろのろとアロマパイプを咥えてそっぽを向いた。表情を選択する機能がフリーズしたように凍りついている顔面を、むりやり動かしていつもの気だるげなな表情を作る。
「別に頼んじゃいない。成績表なんぞいまさら見る気もしないしな」
「んもー、またそういうこと言うし!」
「見たくないなら見たくないでいいけど、受け取るのは受け取ってやれよ。ヒナちゃん先生かわいそーだろ」
「俺には関係ないことだ」
「関係あるだろ。俺らの担任で、お前を卒業させようと頑張ってくれてる」
「卒業、ね……俺には縁のない言葉だな」
「だー、もうこのバカレーレンジャーは。お前がいやだっつっても俺は何度でもおせっかい焼くぞ。俺お前と一緒に卒業したいもん」
「――――」
 皆守は、頭が真っ白になって、思わずアロマパイプを取り落とした。
「――九龍、君はこの学校を卒業する気でいるのか?」
「あー、なんだよナギ! 俺見てないけど絶対お前より成績いいぞ! 真面目に授業も出てるし!」
「いや、そういうことじゃなく……卒業するまで別のところに行ったりはしないのか、ということだ。君の所属してる協会の方から、新しく指令が来たりするんじゃないのか?」
「んー……今んとこは来てないし。来てもバッくれる。かまちーと夷澤に、卒業までこの学園にいるって約束したしな」
「――――…………」
「それは……君の立場が悪くなったりはしないのか?」
「んー、なるかもな。でもまあ協会にいなけりゃ宝探しできないってわけでもないし。それより今はこっちの方が大事。俺の好きな奴らと一緒に、卒業まで楽しく過ごすって方がな」
 にこりん、と嬉しげで、楽しげな、見てるこっちも引きこまれそうなタチの悪い笑みを浮かべる九龍――
「九ちゃん」
「ん?」
 九龍が笑みを浮かべながらこちらを向いた。
「お前は、その約束を守れると保証できるってのか?」
「んー……」
 ちょっと首を傾げる九龍に、さらに言葉を重ねる。
「先のことなんて誰にもわからない。お前がいつまでここにいれるかなんて、本当はわからないだろ? 引きずってでも連れて行かれるかもしれない。お前がなにもかも放り捨てて行っちまわない保証なんてどこにもない――」
「皆守クンッ! それって、ひどいよ! 九チャンは――」
「いーよ、やっちー」
「九チャン……」
 くるりとこちらを向いて、九龍は言う。いつもよりいくぶん低い、落ち着いた柔らかな声で、語りかけるように。
「甲太郎。俺、約束するの嫌いじゃないよ。そりゃ、約束って本当に守れるかどうかなんてわかんない代物だけどさ。どんなに頑張っても叶えられないことってあるもんな。でもさ、約束って支えになるじゃん。お互いの。どんなにその願いを叶えてほしいと思ってるか、相手のことを思ってるかってことのひとつの証だもん。その証があるから、約束を守らなきゃって思いがあるから踏ん張れることってけっこう多いぜ。そーいう約束をしたおかげで生きられることってあるんだよ、ホントに。……だから、俺約束って嫌いじゃない」
 そしてすたすたとこちらに近づき、目を逸らそうとする皆守の顔をつかんで自分の方を向かせる。ほとんど同じ目線が近づいてきたと思ったら、こつんと額がくっつけられた。
「お前、またしょーもないこと考えてただろ。もー俺と別れ別れになっちゃうとか、もー自分は生きていない方が楽なんじゃないかとか」
「………………」
「俺はお前がそーいう考え捨てるまでお前につきまとうからな。お前が前を向いて生きられるよーになるまで何度だってやってきてお前が音を上げるまで騒いでやる。お前が前に進めなくなるような考え、全部吹っ飛ばすまで」
「………頼んじゃ、いないぞ」
 その言葉に、九龍は目の前の瞳をにっと笑ませた。楽しげに、というか面白そうに。
「頼まれなくても俺やるぞ? 俺が好きで、勝手にやることだかんな。なんなら約束してもいいぜ?」
「………………」
 皆守は、思わず吹き出すように笑い声を漏らした。自分がさっきまで考えていたことが、ひどく馬鹿馬鹿しく思えてきた。
 こいつは本当に、自分が立ち止まるたびに自分の肩をどやしつけてくれるに違いない。
 確かに、こいつがいつまで自分の隣にいるかはわからない。別れ別れになる日がいつ訪れるか知れたものじゃない。
 けれど、今は。今この瞬間はこいつは自分の隣にいる。
 そして、いつものようにやかましく自分にちょっかいをかけてくるのだ。
 別れた時、自分がどうなるかはわからない。だがこいつが隣にいる間は、こいつの言葉を信じられる。約束を支えのひとつにできる。
 こいつはそばにいる限り、自分の価値を疑う暇もないほどこちらにアプローチしてくるのだから。
『――こいつと離れ離れになるかどうかは別れようとしてる時に決めればいいさ』
 少なくとも、別れの挨拶もなしで消えてしまうようなことは、九龍はしないだろうから。
 本心のわからない他人相手でも、こいつならそのくらい信じてやってもいい。
 くつくつと笑う皆守に、八千穂と夕薙、そして九龍も笑い声を漏らす。
「えへへッ、やっぱり二人は仲良しだね」
「いちいち遠回りをする奴だ」
「まったくまったく――んじゃそーいうわけでそろそろお仕置きタイムといきますか」
「―――は?」
 一瞬呆けた表情になった皆守の肩をがっしとつかんで、九龍は笑顔を浮かべた。
「人にあれだけ愛されておきながらその愛情を疑うっつーのはどういうことよ、あぁん? あれだけやられてもお前って基本的にはなんっも変わってねーのな?」
 その笑顔に皆守は恐怖を覚えた。その笑顔の中には殺気がこもっている。マジヤバい雰囲気ぷんぷんのやつが。
「お前って本当に懲りないのな? まーお前がそーいう奴だってのはわかってたからいーとして、とりあえず俺の胸の内にわだかまるやるせない思いをお前にぶつけさせてもらおっかなっと」
 皆守は反射的に助けを求めて周囲を見回した。だが見えたのは八千穂が夕薙に押されて屋上を出て行く後ろ姿だけだ。逃げたなあいつ、と憤る暇もなく、九龍がぽんと肩を叩いて笑う。
「とりあえずプラズマ発生器で電流流しの刑な。心配すんな、殺しゃしないからv」
 ――数秒後、屋上中に皆守の絶叫が響き渡った。

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