夷澤は武道場の隅にあるボクシング部のサンドバッグに近寄り、軽く表面を撫でた。使い古したサンドバッグの妙にすべすべした感触が伝わってくる。 部活が休みなのになぜここに来たかは自分でもよくわからない。生徒会、というか阿門の仕事が山積みになっているせいでそこらへんにいると使いっ走りにされるという状況から逃げてきたせいもあるのだが、ボクシング部の部室という場所は身を隠すには中途半端だ。 だが、来たからには軽く体を動かしていくつもりだった。ここはただ寝に帰る場所と化している自分の部屋よりも、むしろ体に馴染んでいる場所だ。 「――ふっ」 まずは軽いコンビネーションから。サンドバッグに常人なら視認が不可能な速さで拳を打ちこむ。 左ジャブ、左ジャブ、右オーバーハンド。左ジャブ、左ジャブ、右フック。打ちこむたびにバッグが大きく揺れる。 一通り終えると、今度はバッグにくっついてバッグのボディを連打する。くり出す距離は十五cm以下。 本気でやるとバッグに穴を開けかねないやり方だったが、激しく揺れるバッグにミスしないよう次々拳を叩きこむのは気分がよかった。 すり足で動き回りながら体をひねり、バッグを打つ。インパクトの瞬間に手をひねり、伸ばして打撃力を増す。もはや歩くのと同様に体に染みついた動きをくりかえした。 軽く息が切れてきたところで動きを止めると、背後からぱちぱちと拍手する音が聞こえてきた。 別に妙なことをしていたわけではないが、なんとはなしに気恥ずかしさを感じつつ振り向く。 「――九龍さん」 「よ」 軽く手を上げてにやりと笑うのは、間違いなく自分の先輩、葉佩九龍だった。昨日会った時と変わらない、妙に警戒心を削ぐ飄々とした顔。 「なんでここに?」 「バッグ打つとこってけっこう見栄えがするもんだな。強いスポーツプレイヤーが力を発揮してるとこって、有無を言わせず人を惹きつける。――ボクシングのことはよくわかんないけど、夷澤、カッコよかった」 「なッ――」 心の底から嬉しそうな笑顔でそう言われ、思わず顔がカッと熱くなる。馬鹿にされるのが嫌で、必死に冷静な声を作って冷たく言った。 「褒めてもなにも出ないすよ。――なんか用すか」 「い、夷澤くん……先輩に向かってそんな口の聞き方しちゃダメだよ」 「ああ?」 おどおどした声に反射的に声のした方をねめつける。九龍の背後から現れた声の主は、同じクラスの響五葉だった。 「……なんでお前がここにいるんだよ」 「ああ、俺が一緒に来るかっつったんだ。こいつに会いに行ったあとお前の居場所聞いたら、たぶん武道場だろうって言ったから」 「理由になってないっす」 「別にいーじゃん、特に理由なくたって。仲良し同士が一緒に仲間に会いにきたってなんの問題もないだろ? なー五葉v」 「は、はいっ、お兄ちゃん」 「お……お兄ちゃん!?」 夷澤は思わず目をむいた。 「――九龍さん」 「ほいほい」 「なんでこいつにこんな呼び方許してんすか! ただの先輩後輩の間柄でお兄ちゃんはないでしょお兄ちゃんは! それに――」 言いかけて、夷澤は口を閉じた。 『――なんで俺が夷澤なのに、こいつは五葉なんすか?』 冗談じゃない、そんな言葉、九龍の前で口に出せるわけがない。 「それに?」 「――なんでもないっす! さっさと答えてくださいよ、なんでお兄ちゃんなんて呼ばせとくんすか、気色悪いと思わないんですか!?」 「別に思わないけど? 普通の愛称じゃん。仲いい印って感じで俺は嫌いじゃないぞ?」 「アンタの神経はおかしいです! 普通同性の後輩にそんな呼び方させてたら変態じゃないかと思われますよ! 異性でもかなりヤバいですけどね!」 「夷澤ー、変態はひどくね? 俺別に法に反するよーな趣味持ってないぜ?」 「――あ、あのっ!」 言い合う夷澤と九龍の間に、響が一歩進み出て震える声を張り上げた。 「――なんだよ、響」 苛立ちをこめてきつく睨むと一瞬ひくっと固まったものの、響は懸命な顔をして夷澤を見返し、詰まりながら言う。 「ぼっ、僕がお兄ちゃんをなんて呼ぶかは、僕とお兄ちゃんの間の問題で、夷澤くんが口出しすることじゃ、ない、と思う」 「――なんだと?」 瞳をぎらつかせて一歩近寄ると響は表情をこわばらせて一歩退がる――そして二歩目をつめる前に九龍が間に割りこんできた。 「よーしよし、偉いぞ五葉、ちゃんと言えたなー。よく頑張った、ご褒美に頭なでなでしてあげよう」 そう言って実際に頭を撫でる九龍。響も「お兄ちゃん……」と瞳を潤ませている。夷澤は寒気がした。 「なんでこんなことで褒めなきゃならないんすか。馬鹿馬鹿しい。はっきり言って異常っすよ」 「いいじゃん、褒めたくなったんだから。後輩がちょっとずつ進歩していこうと頑張ってるのを褒めてやりたいって思うのは人情だろ。それがはたから異常に見られようが俺にはどーでもいい」 「…………」 きっぱりと言い切られて夷澤は黙りこむ。確かに、夷澤にとってもそんなことはどうでもいいことではあった。響が九龍をどう呼ぼうが、自分には関係のないことだ。 ――ただ、響のお兄ちゃんと呼ぶ呼び方が。 なんだかあんまり親密そうに感じられて、まるで響が自分と九龍はただの先輩後輩ではないと宣言しているように思えて、ひどく、面白くないだけだったのだ。 響はしばし感動したような目つきで九龍を見つめていたが、やがて嬉しげににこっと笑ってみせた。 「ありがとう、お兄ちゃん。でも、僕もうそろそろ行きます。夷澤くんにも会えたし……僕がいたら邪魔でしょうから」 「見てたけりゃ別に見ててもいいぞ」 そのわけのわからない返答に、響は苦笑した。 「いえ……いいです。それじゃ、夷澤くん、さようなら。お兄ちゃん、頑張ってくださいね」 「おう、頑張るよ」 響は微笑んだまま小さく頭を下げて、武道場を出ていく。それに九龍は手を振った。 姿が見えなくなってから、夷澤はぼそりと言う。 「……ずいぶんあいつと、仲、いいんすね」 「まぁね」 さらりと答えられて頭に血が昇る。 「アンタああいううじうじしたのが好みだったんすか。クズどもにさえいじめられてたような情けない根性なしが」 「根性なしはないだろー。あいつちょっとずつだけど頑張って変わろうとしてるぞ」 ちょっと眉を上げながら咎めるように言われて、苛立ちが膨れ上がった。 「俺にはとてもそうは思えませんね。あいつはちょっとガンつけただけで尻尾巻くような意気地なしだ。あんな奴のどこがいいんですか」 「んー……」 九龍は少し首を傾げて、少し表情を真剣にして、それでも軽い口調で言った。 「あの子さ、これまでずーっといじめられてきたんだよなー」 「………」 「理不尽な理由で嫌がらせされたり殴られたりさ。それがいつ終わるともしれずえんえんと続くの。それってかなりきつかっただろーなと思う」 「そんなもん、あいつが弱いせいでしょうが」 「まあな。けど、生まれた時から強い奴なんてそんなにいないよ」 軽い口調だったが、その底にはひどく硬いものが潜んでいる。それに気圧されて夷澤は口ごもった。 九龍はそんな夷澤にふっと笑って、半ばひとりごちるようにぽつぽつと言う。 「……周りに味方が一人もいない感覚って、けっこう辛いんだよなー……話しかけても誰にも相手にされない、行動を起こしても悪意を持った反応しか返ってこない、自分に普通に接してくれる人が誰もいないってのはさ」 「まるで経験者みたいに言うんすね」 「だって経験者だかんな」 「………は?」 夷澤は大きく目を見開いた。 「アンタ、いじめられっ子だったんすか」 似合わない。というか、そぐわない。このやたらと明るくて元気で人懐っこい九龍が、過去にいじめられっ子だったなんてどうにも思えない。 だが、九龍は笑ってうなずいた。 「まーな。俺の親父も宝探し屋で、ガキん頃から親父にくっついて世界中飛び回ってたんだけどさ。どーしても危険な遺跡とかを攻略するために俺は遺跡の近くの村で留守番しなきゃいかんことがあったわけ、ガキん頃に何度か。そんで暇だから村の子たちと一緒に遊ぼうとするわな? すんなり溶けこめる場合もあんだけど、言葉も風俗も育ってきた環境も違う子供に対して、たいていの奴らは攻撃的だった」 「…………」 「直接インネンつけてくるならまだ対処はしやすかったんだけどさ。それよりも多かったのが嫌がらせ。一緒に遊ぼうとする俺ににやにや笑いながらいかにも馬鹿にしてますよって顔で仲間同士だけで話しててさ、でも言葉わかんないから殴りつけるわけにもいかなくて一人で遊んでると、後ろから気づかれないよーに泥玉投げてきたりゴミ投げつけてきたりすんのな。でもって自分たちは関係ないよみたいな顔してにやにや笑うわけ。俺も見つけ次第ぶん殴ってやったけど、周りの奴ら全員敵っていう状況では俺の方が圧倒的に不利だった」 「陰険っすね」 吐き捨てるように言った夷澤に、九龍は肩をすくめて笑う。 「そーだな。クズのやるようなくだらないことだ。けど、それが毎日朝から晩まで続くと、この先ずっとこの状況が続くように思えて、相当きついんだよなー」 「…………」 「でもさ。そんな時でもさ。親父は俺の味方だったんだよ。遺跡から命からがら逃げ帰ってきて不機嫌な時も、メシ食いに戻ってきてとっととメシ作れって喚いてた時も、メシや風呂が終わって寝る前に、俺の頭をがしがしって撫でて笑ってくれたんだ。俺と一緒にいろんなこと話してくれたんだ。――そういう時間があるから俺はそいつらとの戦いに耐えていけたんだよ」 「………そんなもんすかね」 「ああ。けど響には生まれた時から味方が誰もいなかった。周りの子供も、大人も、クラスメイトも教師も、みんなあいつにとっては敵だった。親でさえ完全な味方じゃなかったってあいつ言ってた。だから、あいつの苦しさってのは――想像を絶するもんだったと思うよ」 「…………」 「でもあいつは駄目にならなかった。死ななかったし、気弱で情けなくてもとりあえず真っ当に生きてきた。どっかの幻影さんにそそのかされて暴走もしたけど、基本的には人を傷つけないようにして生きてきたんだ。――それってけっこうすごいことだと思うけどな」 「………俺には、関係ありませんよ」 胸のかすかな痛みを無視して苛立ちに任せてそう言うと、九龍はくすくすと笑った。 「……なんすか」 「いや、お前らしいなーって。自分のやられたことは忘れないけど自分のしたことはすぐ忘れんのな。あいつをそそのかした幻影さんの正体はどこの誰でしたっけ?」 「…………!」 忘れていた。 「……昔のこといちいち言い立てないでくださいよ! 俺は過去は振り返らないことにしてるんです!」 「過去ってほど昔の話じゃないだろー? ま、いいけどさ」 九龍は笑い声を止めた。だが、その顔には相変わらず笑みが浮かんでいる。 「……なに笑ってんすか。そんなにおかしいんですか」 「いや別にぃ? ただ夷澤と一緒にいるんだな、二人っきりなんだなー、って思って」 「…………」 どういう意味か量りかねて眉を寄せる夷澤に、九龍はすすすっと近寄り、腕を伸ばしてきた。 「……どういうつもりすか」 「へっへっへ、声を出しても誰にも聞こえやしねえぞ」 「言っとくけど、襲うつもりなら無駄ですよ。素手なら俺の方が強いですから。……たぶん」 九龍は苦笑する風を見せた。 「んー、やってみなけりゃわからん、と言いたいところではあるけど、そーだろうな」 「でしょ」 「実は制服の下に銃を一丁忍ばせてたりもするんだが」 「な――」 「これ一丁じゃ本気出したお前に勝つのは難しいだろーな」 「……なにが言いたいんすか」 九龍はにこっと、優しく、暖かい、いつも夷澤の調子を狂わせる、だが普段のそれよりいくぶん寂しげな笑みを浮かべた。 「だからお願い。抵抗しないで」 そう言って、すっと夷澤に抱きついてくる。 「なッ―――」 夷澤は一瞬硬直したが、すぐに体の力を抜いた。この人がやたらとスキンシップ好きなのはこの数日間でよっく学んだ。遺跡の中で抱きつかれたりセクハラまがいのことをされたりして、反応するのも馬鹿らしいくらい馴らされている。 だからあえて抵抗はしなかったのだが(抵抗するとよけい厄介なことになるのは身に染みているし)、九龍がただ軽く自分の頭と体に抱きついたままいつまでも離れないので、ぼそっと言った。 「――いつまでやってんすか」 「夷澤ー」 「なんすか。気色悪い声出さないでください」 「俺のこと、慰めてくんない?」 「は?」 反射的に顔を見ようとしたが、九龍はしっかり自分の右肩に顔を寄せていて果たせない。 「なに言ってんすか、あんた」 「俺のこと慰めてよ。俺今ちょっとへこんでるっつーかテンション低いっつーか、そんな状態なんだよな。俺にお前のエナジーを分けてくれなさい、大上段にお願いしてあげるから。ほれ慰めれ」 「態度でかいんだか小さいんだかわかんねぇし」 「じゃーおねだりする。夷澤、お願い」 「――――」 耳元で、珍しくも少し掠れた声で、けれど気持ちよさは失われていない声で、囁くようにお願い≠ウれる―― その快感に一瞬ぞくりと体を震わせたが、すぐに気を引き締めてできるだけ狡猾に聞こえるように言う。 「見返りはなんかあるんすか?」 「見返り?」 「俺はなんの得にもならない親切をする気はないですから。なんかお返しがあるのが当然でしょ」 「そーだなー」 九龍はその態度のでかい申し出に怒る様子もなく、抱きついたまま首を傾げ。 「それじゃー俺をうまく慰めてくれたらなんでもひとつ夷澤くんの質問に答えてあげましょう」 「―――」 夷澤はあくまで上の立場に立つつもりで、しばし偉そうにその条件を吟味する。 「なんでも? 正直に?」 「もちろん」 「本当でしょうね? 誓えますか?」 「あたりきよ。でもうまく慰められたらだけどな」 「―――………」 そう言われると、かなり困る。今まで自分は誰かを慰めた経験なんてない。 どうするか。どうしたら九龍は元気になるのか。 夷澤は考えた。懸命に考えて考えて考えて――だんだん頭がごちゃごちゃしてきた。もともと夷澤は文系の思考は苦手なのだ。 『――ああもう、面倒くさい!』 夷澤はやけになって、すっと腕を上げて九龍を抱き返した。九龍の体が一瞬ぴくりと震える。 そしてすりすりと顔を目の前の九龍の肩にすりつける。やってるうちになんだか顔から火が出そうに恥ずかしくなってきたが、一度やり始めたのだ、そう簡単に引っこめるのもまずい気がする。 なんで俺がこんなことを、と思いつつも続けていると、九龍はぎゅっと強く夷澤の背中に腕を回して抱きしめ、顔を頭の横にすりつけてきた。どう反応するか迷ったが、慰めるのが先決と判断し自分も九龍の背中に腕を回してすりつく。 九龍はぎゅっと夷澤の体を抱きしめすりつきを続ける。いつまでやってりゃいいんだ、と思った瞬間、耳たぶにぴちゃ、と濡れたものが触れた。 「……っぎゃぁぁぁ―――ッ!」 夷澤は思いきり九龍を突き飛ばし、耳を押さえてはぁはぁと息をついた。 「なっなっなっ、なにするんすかーっ!」 「えー、なにってただ耳たぶ舐めただけじゃん。噛んでもしゃぶってもいないのに、そんなに反応することないだろ?」 「そッ―――そういう問題じゃないでしょーっ!」 「あ、そう? いや実はさ、お前の反応見ていい反応だなーっとちょっとときめいちゃったv やっぱお前って可愛いよなー。うん、マジ可愛い」 「な―――ッ、馬鹿なこと言わないでくださいよッ! ちっとも嬉しくありませんッ!」 「そうかー? けどしょーがないじゃん、お前可愛いんだもん」 「だから嬉しくないって――」 すい、と喚く夷澤にもう一度九龍の体が近づく。 「わ! なんですか! ちょっと……!」 「黙って」 ぴた、と再び九龍と夷澤の体は密着した。今度は軽く首に腕を回ししがみつくように顔を寄せたまま、動こうとしない。 暴れるべきかどうか一瞬迷い、一応慰め終わったかどうかまだわからないわけだし、などと一人誰に向かってかわからない言い訳をして、そっと九龍の首に手を回した。 「……ありがとな」 しばしの沈黙のあと、九龍がぼそりと言った。 「……どーいたしまして」 「夷澤、大好き」 「なッ、なに恥ずかしいこと言ってんですか。浮上したんならいい加減離してください」 「えー? もーちょっとこの感触を堪能したい。はー、夷澤のオールバックの髪の感触って癒されるー」 「気色悪いこと言わないでくださいッ!」 「俺って愛されてるなー。うん、愛されてる。なんか浮上してきた」 「そりゃ……よかったですね。早く離してください」 「はいはい」 九龍の体がすっと離れる。その少し寂しげな顔を見ていると、胸がなんだかむずむずとして、小さく漏らしてしまった。 「……どうせ俺は夷澤≠フくせに、よくそんなに嬉しそうにできますね」 「は?」 きょとん、とする九龍に、夷澤はしまった! と口を押さえた。九龍の顔が嬉しそうに笑み崩れ、夷澤の頭に手が伸ばされて髪をくしゃくしゃにした。 「いざわー、もしかしてお前それずっと気にしてたの? なんで俺を名前で呼んでくんないんですかって聞きたかったんだ? うわー、夷澤、かっわいー」 「センパイ、喧嘩売ってんすか!? 買いますよ言い値で!」 「売ってない売ってない。ちょっと可愛すぎていじめたくなっちゃっただ・けv」 くすくす笑いながら髪をかき回す九龍。夷澤はこんちくしょうと思いながらも、この状況では怒るとかえって肯定しているように思われそうで、黙ったまま耐えているしかない。 九龍はやがて笑いやめると、普段通りに口の端に小さく笑みを浮かべた、だがどこか真剣な表情で夷澤の目をのぞきこんだ。 「別に、大した理由があったわけじゃないよ。ただ、俺は凍也よりも夷澤って響きの方が好きなんだ。そんだけ」 「………そんだけ、すか」 「そんだけだよ。ああ、ついでに大サービスでいいこと教えてやろっか」 耳元に口を寄せて、囁き声で。 「苗字をそのまま、省略も付け足しもなしで呼ぶのは、親しくなった中ではお前だけだぜ」 「――――」 「お前のことも、ちゃんと好きだよ。本当にな」 そう言ってまた髪をくしゃくしゃにされ、夷澤は真っ赤になって叫んだ。 「あんたには恥じらいってもんがないんですかッ!」 |